ヴァンドレッド
VANDREAD連載「Eternal Advance」
Chapter 12 -Collapse- <後編>
Action1 −名前−
「記憶喪失」とは、記憶や知識が壊れてしまう症状である。
記憶は基本的に聴覚・視覚・嗅覚・味覚・触覚の五感で体験した経験のことで、短期記憶・中期記憶・長期記憶として蓄積される。
短期記憶は文字通り短い間しか覚えていない記憶で、本来なら数秒間で興味を示した五感の体験感覚記憶を意味する。
この「短期記憶」の中身を理解できると「中期記憶」に変化し、最大1ヶ月の間覚えていることが可能となる。
しかし中期記憶は9時間で記憶が消去されるので、覚えておかなくてもいいような情報は優先して消去されていく。
そしてこの中期記憶を覚えている内に反復すると、脳のシステム内部で優先順位が上がり「長期記憶」として保存されるようになる。
こうした記憶を保存しておく役割を持つのが、脳細胞同士の連結「シナプス」である。
このシナプスや脳細胞に内的または外的要因によって何らかのダメージを負うことで、長期記憶にアクセス出来なくなる。
これこそが、記憶喪失のメカニズムである。
記憶喪失が難病とされているのは、不明確な治療方法だけが原因ではない。
過去を失う――それは過去の苦楽を諦めるだけではなく、自分の未来をも失ってしまうとも言えるのだ。
「覚えている必要のない事」だけではなく――
――「いつまでも覚えていたい事」まで忘れてしまう。
自分を生んでくれた両親、生きて出逢った友人、絆で結ばれた仲間達。
その何もかもを忘れてしまう残酷な病気、それこそが記憶喪失。
昨日の友が今日の敵ではなく、今日初めて会った「他人」となる。
仲間達がどれほど苦しんでいても――記憶を喪った人間には、伝わらない。
少年にとって、世界は埃に埋もれていた。
薄暗い部屋の中で目を覚まし、汚れた環境に顔を顰め、酒の残る空気に気分を悪くする。
全ては他人より与えられたもの、文句の一つを言う資格さえない。
与えられた世界に身を落ち着けて、この命を永らえているのだから。
手入れが行き届いていない洗面所で顔を荒い、身支度を整えて、新しい一日を始める。
昨日と同じ、代わり映えのしない一日を。
「おはよう、クソ親父。今日も生きてたのか、残念」
「おはよう、ダメ息子。無駄飯食らいが無駄口叩かず、働け」
憎まれ口を叩き合うが、二人にとっては日常の挨拶。
貧民街裏通りの隅に位置する狭い酒場で、口の悪さがよく似た親子が切り盛りしていた。
彼らが住を構えるタラークは軍事国家である。
偉大なる指導者グラン・パを含めた「八聖翁」が築き上げた国――絶対的な階級制度で国民を管理している。
一等民・二等民は国家のエリート候補、三等民以下は労働階級として虐げられている。
彼ら三等民は生まれた時から国の歯車として、未来永劫労働を強いられる。
例外は無い。
どれほど優秀な働きを見せようと、階級を超えた特権は与えられない。
血筋のみで成り上がるエリート達、働けど楽にならざる下民達――
荒廃した大地の劣悪な環境を差し引いても、軍事国家タラークは根底から腐敗していた。
「毎日毎日、掃除ばっかりさせやがって。酒の入れ方もいい加減教えてくれよ」
「グラスの磨き方も出来てねえ奴が何言いやがる。まずは一般常識から覚える事だな。
満足に接客も出来やしねえ」
貧民の多くが重労働に借り出される中、少年は酒場で養父と二人働いている。
少年は、酒場の主人マーカスの本当の息子ではない。
裏路地にて――重傷を負って倒れている所を拾われた、身元不明の記憶喪失者。
発見が早く、適切な処置で命だけは何とか助かったが、少年は自分の全てを失った。
名前も、年齢も、身元も、親の顔も・・・・・・怪我の原因すらも、覚えていない。
温かい思い出が消えた少年は生きる目標すら失い、空虚な心を抱えて生きている。
それでも何とか、人間らしい感情を取り戻すことが出来たのは――
「アンタの出来の悪い接客態度だと、見本にもならねえからな」
「馬鹿野郎、客は俺の顔を見に来てるんだよ」
「酒を売りにしろよ、マスター」
――厳つい笑みを浮かべるこの養父の存在が大きい。
口ではあれこれ言いながらも、身寄りの無い子供を今まで面倒を見てくれた大人。
大怪我で寝込んでいた当時は話す事さえ出来なかった少年を、辛抱強く接してくれた。
育てる義理は一切無いのに今までこの店においてくれた男に、少年は内心深く感謝していた。
誰かに感謝出来る心を取り戻せたことも、含めて。
下働きの毎日だが、自分は恵まれていると思う。
けれど――
「客が来る前にテーブルも全部拭いとけ。手抜いたら飯抜きだからな」
「雑なアンタより俺の方が綺麗に出来るよ」
こうした平和なやり取りに――日々、息苦しさを感じている。
何の文句も無い生活の筈なのに、圧迫感が胸を窮屈に締め上げていた。
救われて本当に感謝しているのに――どうして申し訳なく思ってしまうのだろう?
一体誰に、どうして?
見えない焦燥が心を揺らし、原因不明に舌打ちするしかなかった。
「事故が起きた原因は結局不明のままだよ。
あの辺は工業地帯の一角で様々な廃材が無造作に放置されていてね、原因が特定出来ないんだ。
加えてあれほどの爆発だ、調べれば調べるほど怪しい点が出てくる。
公式では怪我人は0、結局適当な理由をつけて片付けられたよ」
「そうっすか・・・・・・やっぱり何も分からないままか・・・・・・」
カウンターに座る軍服の男に、少年は酒の入ったグラスを置いた。
重傷を負った少年を拾った張本人アレイク――この酒場の数少ない常連客である。
年齢は離れているが、老齢の酒場の主と懇意にしている。
実直な軍人だが階級を気にせず、少年を弟のように可愛がってくれていた。
「公式では、か――適当だな、お役所仕事は」
「仕方が無いよ、カイは表沙汰に出来ないからね。
死者の出る重大な被災でもない限り、手間はかけない。そうでなくとも、今の情勢は不穏だからね。
僕も気にしてはいるけど、忙しくて調べられそうに無いんだ。御免ね」
「いや、アンタが拾ってくれなかったら死んでいたんだ。感謝してるよ」
「そして育てた俺の御蔭だな、感謝して敬え」
「ありがとう、早く死んでください」
――飛び交う怒号と食器、傍観を決め込む客人。
この酒場の新しい日常が存外に楽しく、笑顔にさせてくれる。
たとえ身元の怪しい少年でも助けて良かったと、アレイクは心から思えた。
「そうなると、手掛かりは何もなしか・・・・・・何にも持っていなかったんだよな、俺」
「着ていた服もボロボロ、近くに手荷物も無かったよ。
何か持っていたとしても、爆発で吹き飛んでしまっただろうね」
タラークの国民一人一人を識別するIDカードでもあれば話は違っていただろうが、何も無い。
アレイクが目撃した不思議な光は、少年の過去の痕跡を全て消し去ったらしい。
悩み顔の少年に、困った顔でアレイクがグラスを口に運ぶ。
「・・・・・・せめて名前が分かれば調査出来るんだけど、無いものねだりしても仕方ないか」
名前――個人を識別する記号であり、証明。
自分を示す証拠の一つに挙げられるのが、この名前だ。
タラークでは最下級の人間でさえ、一人一人に名前は授けられる。
名前の無い人間は、社会で認識されない。
「てめえには、俺が直々につけてやった上等な名前があるだろ。
覚えてもいねえものに拘るより、堂々と今の名前を名乗ればいい」
「・・・・・・へっ、センスはどうかと思うがな」
空虚な心が満たされていくのを感じる。
落ち込んでいるのを察して、父親なりに励ましてくれたのだろう。
素直に例を言うのも癪なので、憎まれ口だけ叩いておいた。
「『カイ・ピュアウインド』――マーカスにしては良い名前をつけたね。
何か由来でもあるのかい?」
「俺の名前から一字とか、気持ち悪いのは御免だからな。思い付きだ。
この馬鹿が怪我で魘されていた時、呟いてた言葉を参考にはしたがな」
「寝言を言ってたのか、俺・・・・・・?」
初耳である。
大怪我で苦しんでいた当時の寝言なんて知りようが無いので、他人に指摘されると気になってしまう。
少年が問い質すと、父親は首を捻りつつも何とか答えてくれた。
「妙な事ホザいてたぞ、お前。何だったかな・・・・・・
博士――がどうの、響きがどうしたとか、言って――最後の方で『カイ』と妙にハッキリ言ってたんだよ。
それを覚えていて、丁度良いと――お、おい!?」
「! どうした、カイ!?」
「うぐっ・・・・・・うぐぐぐぐ・・・・・・!!」
養父の発せられたキーワードが耳から脳へ流れ込み、強烈な痛みを伴って強く揺さぶる。
記憶の断片が脳を焼き、少年の意識を真っ白に焦がす。
視界に火花が飛び散って、少年は堪らずその場に膝をついた――
・・・・・・。
「博士の遺伝子を用いたクローニングは成功です。後は知識の転写に成功すれば――」
「『時空螺旋転移理論』は必ず実現させる。この子には新しい博士になってもらおう」
「では、名前はそのままで宜しいですか?」
「うむ、博士の名前・・・・・・――・――カイ」
「『ヒビキ・トカイ』の名を与えよう」
<to be continued>
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