あいつは、俺をちゃんと診てくれた。



『海外への出立まで、残り半月もありません。一刻も早く怪我を治して、万全な状態で治療に望まねばなりません。
――私より自分の身体を労わって下さいね。良介さん』



 俺は、あいつをちゃんと見ていなかった。



『優しい嘘なんてつかなくたって、貴方の事は分かっているんですから。
今度は私が、貴方を守ります。怪我が治るまで、わたしが貴方を看ていますから安心して下さいね』



 あいつはいつも、俺を安心させてくれた。



『良介さんの剣は預かっておきます。必ず、取りに来て下さいね』



 俺はいつも、あいつを不安にさせていた。



『良介さんに、笑顔なんて似合いませんよ』



 あいつの笑顔は、とても優しかった。



『早く元気になって、私を困らせるくらいになって下さい』





 もう二度と――その笑顔は、見れない。





とらいあんぐるハート3 To a you side 第八楽章 戦争レクイエム 第二話





 『遷延性意識障害』、いわゆる植物状態。重度の昏睡状態を指す病状であり、意識の兆候がまったく見られなくなる。意思疎通は不可能であり、何も認識することは出来ない。

植物人間になれば一般的に脳の広範囲が活動出来なくなり、脳死に極めて近い状態となる。身体はかろうじて生命活動を行っているが、心は死んでしまっている。

脳死とは違って、回復する可能性は確かにある。ただしごく稀に、だ。症状にもよるがほとんど回復の見込みはゼロに近く、医者より安楽死を進められる場合もある。


遷延性意識障害になる原因はさまざまあるが――脳に激しい衝撃を受けると、遷延性意識障害になる例が多い。



「あいつはもう、助からない」



 ICU、集中治療室。海鳴大学病院、何度も俺もお世話になったこの病院にも存在する。怪我や病気で死に斌した患者が24時間体制で管理され、効果的な治療を施される部屋。

海鳴大学病院では本棟と別棟に集中治療室があり、今俺は別棟の集中治療室前に来ている。入退院を繰り返しているが、別棟へ来たのはこれが初めてだった。


別棟の集中治療室、病室の窓から見えるベットにフィリス・矢沢が寝かされている。


「――あの、髪は……」

「"例のニュース"を聞いて、フィリスは倒れた。訃報を聞いたその場で倒れてくれればいいのに、あの馬鹿は慌てて問い合わせしようとして階段から転げ落ちた。
病院関係者が駆けつけた時には、見ての通り髪は真っ白になっていたらしい」


 女性の命と言われている髪――その手の感覚に鈍い俺でも綺麗に思えたフィリスの銀髪から、命が消え失せていた。色素が抜け落ちており、白髪よりも白く見えてしまう。

艷やかだった肌は遠目から見ても乾いており、皺が悲痛に刻まれている。彼女は元々小柄だったが、ガリガリに痩せた彼女は老婆にしか見えなかった。


フィリスは、死んでいた。


「階段から落ちて頭を強く打った肉体的衝撃と、お前の訃報による心理的衝撃。二つの強い衝撃が、フィリスの脳を破壊してしまった。
自力移動も、自力摂食も不可能。意思の疎通も認識も、無理。外界からの刺激にも全く反応しない。脳死の一歩手前らしいけど、何の気休めにもならん。

本当は改善がみられないまま三ヶ月以上経過した時に言われるそうだが――あいつはもう、絶望的なんだとよ」


 海鳴へ帰って来て、いきなりの通り魔事件の遭遇。通り魔は撃退して被害者のフィアッセは救い出せたが、だからといって単に拍手喝采を浴びるだけではない。

当然警察を呼ばれて事件関係者である俺も事情聴取を受けなければいけない、のだが警察署へ来るなりリスティに連れ出されてこの病院まで連れて来られた。

一ヶ月ぶりの再会なのに挨拶の一つもなく、また喜び合える雰囲気でもない。無言で引っ張りだされたその先に、悲劇が待ち構えていた。


既に終わった事件を話すかのように、リスティ・槇原は淡々と事情を説明してくる。覆しようもない、絶望の顛末を。


「人を救う医者が、同じ医者を見捨てるというのか!?」

「同じ医者で、関係者が警察関連の人間だから、ポンと言えたんだろうよ。殴ってやりたかったが、先に泣かれてしまったらどうしようもない。
あいつは本当に、この病院にいる皆から好かれていたんだな。医者も、看護師も、患者の連中まで、ここに来ては派手に泣いてるんだ。

あんなの、見せられたら……ボクだって、責めたくても責められなくなるだろうが!」


 禁煙であるにも関わらず吸っていた煙草を、乱暴に床に叩きつける。煙草の煙は儚げに漂うばかりで、何処にも流れずに消えていってしまう。

リスティは、泣いていた。涙を見せなくても、泣いている。泣いて、泣いて、哭いて、やがて涙も枯れ果ててしまった。残されたのは、摩耗しきった怒りのみ。

彼女はそこでようやく俺に向き直り、俺の襟首を掴んだ。


「よく無事に帰って来たな――よくそんな平気な顔を、ボクの前に見せられたな!」

「どうしろってんだ、俺が死んでいればよかったのか!?」

「そうは言っていない!!」


 否定しているのに、俺の襟首を掴む手の力は強くなるばかり。やり場のない怒りは、明らかに俺に向けられていた。その怒りを、とても理不尽には思えなかった。

信じられない。何もかも、信じられない。手も治った、心も変わった、駄目だった自分をようやく直せそうだった。これからやっと、始められそうだったんだ。


どうして、こうなってしまっている。何が悪かったんだ、何が起きているんだ!?


「本当に治す方法はなにもないのか!? 見放すのがいくら何でも早すぎるだろう!」

「確かに脳は死んでいないけど、ほぼ脳死状態と同じ状態なんだ。意識の改善は、到底見込めない。今死んでいないのは、あの通り延命処置を受けているからだ。
機械に生かされているだけなんだよ、今のあいつは!」


『あの子は、死んだの』――フィアッセ・クリステラは、絶望を涙で濡らしてそう宣告した。あの顔は諦めたんじゃない。諦めるしか、なかったんだ。

フィリスが昏睡に陥ってからというもの、日々刻一刻と悪くなっているらしい。死神の手に引かれているように、あいつは一歩一歩死に近付いている。

延命処置は文字通り、あいつをこの世に繋ぎ止めているだけだった。本当ならばもう死んでいるのに、何とか生かされているだけ。

人を治す医者でさえも、あいつを見放してしまった。人を救う神様はもう、そっぽを向いている。


「ちくしょう……フィリスが死んだ後で、いいことばっかりしやがって。何なんだ、あいつに対する嫌がらせなのか!?
いつからそんな善行に目覚めた、お前は他人なんてどうでもよかったんだろう!」

「……そ、それは……」


「今のお前を、あいつに見せてやりたかったのに」


 多分、その時だったと思う。その時に、俺は確かに受け入れたんだ。フィリスが本当に死んでしまったのだと、俺は認めてしまったんだ。

俺にしがみついたまま嗚咽を漏らすリスティ、俺はただぼんやりと集中治療室に寝かされたあいつを見つめるのみ。機械で呼吸をさせられている、死んでしまったあいつを。


――ただいまも、言えなかった……


「そうか――俺は、あいつが望んでいた人間になれたのか……」

「もう、どうしようもない。何もかも、遅いんだ」


 他人を知るようになって初めて、あいつのことが少しだけ分かった。悲劇をこうして見せつけられて、あいつの心の優しさを思い知れた。フィリス・矢沢という、女性を。

ニュースで俺がテロリストに殺されたと知った時、きっとあいつは海外へ行かせた自分を責めたのだろう。海外治療許可を出したばかりに、危険地へ行かせてしまったのだと。

同時に俺がドイツ国民を救ったのだと分かって、フィリスは罪悪感に押しつぶされたのだ。他人に優しくするように俺を諭したせいで、テロから逃げる選択肢を無くしてしまった。


強い悲しみと激しい後悔、重い罪悪感に押し潰されて――階段から、落ちた。自殺では、決してない。けれど重傷を理由に、あいつは生を放棄した。


俺は、期待に応えようと思った。那美や守護騎士達は勿論だが、これまで俺を助けてくれた人達の恩に応えようとした。その為に、脇目もふらずに懸命に戦い抜いた。

戦争に勝って華々しく凱旋した結果が、これだ。本当に馬鹿な奴だ、俺は。変わることはいい事ばかりだと、勝手に決めつけていたのだ。


俺が変わることを望まなければ、こんな事にはならなかった。


「……フィアッセの奴も、おかしくなった」

「フィアッセも?」

「お前が"テロリストに殺された"とニュースで知って、声を出せなくなった。理由なんてもう、説明したくもない」


 通り魔に襲われても、悲鳴すら上げなかった彼女。俺と再会して感激していても、あいつは喜びの声一つかけようとはしなかった。

薄々察してはいたが、改めて聞かされると悪い冗談にしか思えなかった。神様はどれほど意地悪なのか、その恐ろしさに震えそうになった。


何で、"声"なんだ――目でも、鼻でも、耳でもない。歌姫が、歌えなくなってしまったのだ……


そうなった理由なんてもう、知りたくもなかった。耳を塞ぎたかった。他人なんてどうでもよかった頃に戻りたかった。そうすれば、察せずに済んだ。

クズのままだったなら、何もかも他人に押し付けて知らん顔をして生きられただろう。他人を知ってしまったから、他人を思って苦しめられている。

誰か、教えてくれ。誰でも、いい。指摘してくれたらちゃんと治すから、教えてくれないか。神様でも、誰でもいいんだ。頼む。


俺の、何が悪かったのか、教えてくれ―――



「――お前の、せいだ」

「なあリスティ、俺は、俺は、ただ――」



「お前が、この町に来なければ、よかったんだ」



 それが海鳴に帰って来た俺に対する、この町の住民の最初の一言だった。
















<続く>








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