とらいあんぐるハート3 To a you side 第七楽章 暁は光と闇とを分かつ 第三十一話
生死の境を彷徨うというのは、患者にとっては意外と気軽だ。何もかも医者任せにして、本人は眠っていればそれでいい。
死ねば永遠の眠りにつくし、起きれば拾えた命に感謝する。幸か不幸かは別にして、何も考えずに気軽に眠っていられる。
やり残した事があれば未練となるが、最高には程遠くとも最善を尽くせたとは思う。後は、天命を待つのみだった。
そうして目覚めた時、俺はようやく――自分の選択は間違えていなかったのだと、安心できた。
「目覚めたか、気分はどうだ?」
「……ダルい」
「昏睡に似た状態に陥っていたんだ、無理もない。医者を呼んでくるから待っていろ」
誰かに似ていると思った。事務的な話し方に、落ち着いた口調。それでいて、静謐な気遣いを秘めた声。
重い瞼をこじ開ける。最初に見えたのは、力なくぶら下がっている点滴。点滴の針が突き刺さっている、細い腕。
壊死している、利き腕。反対の腕も、枯れ木のように細い。剣どころか、箸を握るのも危うい。
全身が起こせない。上半身を支える筋肉が死に絶えていた。両足はもう、体重を支えるのも困難な状態。
黄ばんだシャツを着せられていて、全身に巻かれた白い包帯の方が清潔に見える。対面の壁に吊り下げられた鏡を見る。
――ミイラが、こちらを見ていた。目が窪み、鼻がネジ曲がり、唇が白く、頬が削げている。
若さなんて、何もありはしなかった。皺さえあれば、老人と間違えられていただろう。生命しか、残っていなかった。
生きていればいいことがあるなんて、何処の馬鹿が言ったのか。死んでいなくとも、生きてなんていない。
固いベットに身を投げ出す。金や物なんてレベルの話ではない。俺は本当に、何もかも奪われて、失ったのだ。
俺の命を救うために、忍の血は完全燃焼して――死んだ。
俺の意思を繋ぎ止める為に、那美の魂は癒しを与え続けて――消えた。
他人から与えられた全ては、他人に奪われて失った。最後の最後に残ったのは、自分自身。俺自身の、生命のみ。
優しかった人達は、もういない。助けてくれた人達は、去ってしまった。望んでいた孤独は、たった今手に入った。
残された自分にこれほど価値がないなんて、夢にも思わなかった。
「待たせたな、彼が医者だ。ゆっくりでいいので、質問に答えてくれ。私が通訳する」
御神美沙斗、ロシアン・マフィアのボディーガード。奇妙な縁だが、彼女とはほんの少しの間仕事仲間だった。
切れた縁を生まれて初めて自分から手繰り寄せて、彼女に電話で助けを求めた。なりふり構わずに。
断られたら終わりだったが、予想外にも彼女から積極的に助けに来てくれた。白衣の男と別れ、人知れず待ち合わせて合流。
連れられたのは、首都ベルリンの片隅にある雑居ビル。素性も知れない患者を客とする、看板のない病院。
マフィアの護衛崩れであっても、金さえ払えば見てくれる。ドイツの貴族に狙われている俺には、お似合いだった。
最新ではないが医療設備は一通り揃っており、何より医者の腕は確かだった。俺の事は何も聞かずに、治療をしてくれた。
全ては後に聞いた話だが、高額な治療費は全て彼女が払ってくれたらしい。こんな病院では即金が基本、金無しは捨てられるだけ。
命拾いしたのは、彼女のおかげだった。だからこそ、彼女から診断結果を聞かされるのは――辛かった。
「君の身体はもう、手の施しようがないそうだ」
「……」
腕、ではない。俺の身体そのものが、医者に匙を投げられてしまった。助ける事は出来無いのだと、助ける側に言われてしまう。
腹は立たなかった。全ては自業自得、自分の意志で突き進んで身体を壊してしまった。ならば、後悔なんて何もありはしない。
むしろ馬鹿馬鹿しい事に、フィリスの泣き顔だけが鮮明に浮かんだ。あいつはきっと、俺より俺自身を労ってくれるだろうと。
「命拾いしただけでも、幸運に思う事だ。時間はかかるが、何とか君を日本へ無事に返してみせる。
ドイツで起きた事は何もかも忘れて、自分の生まれた国で大人しく養生してくれ。君を心配する人達の為にも」
海鳴町へ帰る、そう聞いただけで心が優しく満たされる思いだった。嫌気なんて微塵もわかない、目頭が熱くなる。
辛いことが多すぎた。歯を食いしばって耐え続けたが、何も報われずに奪われただけだった。いいところなんて、何もありはしない。
俺を心配してくれる人達――なのは達はきっと、俺が死んだと聞いて悲しんでくれている。彼女達の為にも、帰らなければ。
俺はみっともなく震える手を上げて、彼女の袖を掴んだ。
「お、俺に――剣を……教えてくれ!」
このままでは、帰れない。全てを奪われたまま帰って、一体何をしろというのか。俺はなのは達の為に、生きているのではない。
彼女達を傷つけているのは、分かっている。けれどこんな姿を見せつけて、あいつらが笑顔で迎えてくれる筈がない。
どんなにお綺麗な言葉で飾っても、今の俺は敗残者だ。落ち武者に花を贈るなんて、優しさでも何でもない。
「……現実を受け入れられないのは、分かる。だが、君の身体はもう――」
「俺が日本に逃げたら、クリスチーナは他の人間を殺す」
クリスチーナ・ボルドィレフ。血に狂う、ロシアの少女。可愛い笑顔を浮かべて、残虐非道にテロリスト達を撃ち抜いた。
出会い頭で撃たれて、ロシアン・マフィアの名の下に殺人宣告を受けた。彼女の誕生日を、俺の血で染めるのだと。
俺の死は世界中に流れている。あの子の耳にも入っているはずだ。何より、あの子を庇って撃たれたのだ。知らない筈はない。
握り締める俺の手をそっと解いて、彼女は安普請の椅子に腰掛ける。
「君は世間的に死んだ事になっている。このまま隠れて逃げれば、マフィアから狙われる事は永遠に無くなるだろう。
何故自分からわざわざ、関わろうとする? マフィアの恐ろしさは、映画などとは比にならないのだぞ」
「初対面で撃たれたんだぞ、俺は。あの子がどれほど恐ろしいのか、よく分かっている」
「ならば、何故――」
「俺まで逃げたら、あの子は本当に独りぼっちになるだろう」
「――っ」
俺は今、独りだ。だから、孤独の辛さがよく分かる。一人になると言うのは、生きる気もなくなるということだ。
こんな気持ちを抱えたまま生きていけば、クリスチーナは必ず殺人兵器となる。奪うだけの人形、笑顔すら仮面となる。
あの子はもう、他人じゃない。他人事になんて、出来ない。関わった以上は、俺がちゃんと向き合わなければならない。
これは、優しさじゃない。どう言い繕ったところで、俺達は殺し合うのだから。俺は、あの子を斬るのだから。
人を斬る行為に、優しさなんてありはしない。
「……君が死んだと聞かされた時、あの子はどうなったと思う?」
「泣いた――とは思えないな」
「新しく雇われたボディーガードを再起不能にして、無断で家を出て行った」
俺が死んだと聞かされたその日の内に、新しく護衛を雇ったらしい。マフィアの跡取り娘は、本当に現実主義者だった。
ディアーナが選んだ護衛を破壊して、家出。その行く先には――暴力しかない。
「どの国にも存在する、日陰。幼くともあの子はマフィア、闇の気配には敏感だ。
――手当たり次第に、人間を破壊して回ったようだ。表沙汰にはしていないが、犠牲者を次々と生み出している。
まるで、血で悲しみを洗い流すように」
一般市民を襲っていない分、余計に性質が悪い。暴力に慣れているチンピラ達でも、あの子一人には勝てない。
日本のガキ共とは訳が違う。銃でも何でもありの、本物のストリートギャング。犯罪のレベルが違う。
それゆえに、哀しみも痛いほど伝わってくる――
「ディアーナ様に厳しく注意された時、あの子はこう言ってたよ。
"ウサギがきっと、助けにきてくれる"――だから、どんなに危なくなっても大丈夫と」
「あいつ……!?」
「それを聞いて、私達はようやくこの凶行の意味が分かった。
危険な行為を繰り返しているのは――君が助けに来てくれると、頑なに信じているからだ」
……馬鹿だった。並外れて危険で、幼稚な行為。玩具を欲しがる子供が大声で泣いて、親を困らせているのと変わらない。
あの子は、泣けない。涙すら許されない世界で生まれ育ち、子供らしく生きるのを放置してしまった。
人殺しの才能があっても、子供は子供だ。それを本人が自覚していないのは、一番の悲劇だった。
頭の中では俺は死んだと理解しても、感情が追いついていない。支離滅裂な行動をとってしまう。
「君が生きていることを知れば、あの子は喜ぶだろう。嬉々として、君を殺しにかかる」
「今度こそ、独り占めするために」
「そうだ。人を殺す才能に恵まれて過ぎていて、人の命を奪う意味を知らない。君の死を通じて、初めて理解するだろうな。
言いたいことは分かるだろう。君が姿を見せても、あの子は止まらない」
「――俺の返答も、分かるよな?」
「君はもう、剣は振れない。恐らく握るのも困難だろう。戦うどころか、五体満足に動くのも難しい。
車椅子で戦える相手ではない。帰るんだ」
「俺は――」
「帰るんだ!!」
ベットに、手の平を叩きつける。乗せられたのは、一枚の写真。幸せだった頃の思い出、家族の写真。
そういえば、彼女が持っていったままだった。色々ありすぎて、忘れてしまっていた。
写真を叩きつけたその手は、憤りに震えている。
「この子を……悲しませないでくれ……」
――確信した。何となくは予想できていたが、この瞬間分かった。なるほど、そっくりだ。
写真と見比べてみれば、一目瞭然だった。不謹慎だが、笑いそうになってしまう。
「俺は、この家族の家で少しの間世話になった。この家の連中とは、結構仲良くやれたと思う。
俺は正直お節介焼かれてうんざりもしてたけどさ、優しくされて人間らしくもなれた。
こんな俺と喧嘩もせず、仲良く話してくれて――一番嫌ってたのは、こいつなんだ」
高町美由希。何の関係も持てなかった、剣道少女。
「こいつとは一度も、本音で語っていない。本気でやり合ってもいない。そんな関係が、家族だなんて言えるか?
何となくだけど、分かるんだ。俺はいずれ、こいつと真剣に戦わなければならない。
剣を、教えてくれ。俺達が分かり合うのは、剣しかないんだ」
俺は姿勢を正し――生まれて初めて、人に頭を下げた。
恥は全て今かいてやるさ、明日恰好よくなるために。女帝と呼ばれたあのババアだって、若い頃はそうしたはずなんだ。
あらゆる未来に向けて、今出来る事をすべてやる。俺はこの時、確かに感じていた。
人生の、分岐点――ここでの選択が、未来を決めるのだと。
<続く>
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