とらいあんぐるハート3 To a you side 第七楽章 暁は光と闇とを分かつ 第三十話
                              
                                
	
  
 
 ドイツ人はあまり傘を持ち歩かないと聞く。薄手で通気性の良いコートを着て、雨の日にはそれを着て歩いているようだ。 
 
若者や子供の場合は一年中その格好で、濡れてもそれほど辛くは感じたりはしないらしい。ドイツは意外と湿っぽい国なのだ。 
 
男性だと帽子を目深に被り、女性の場合は三角形のビニールを被っているとの事。日本とは違い、長雨の日は少ないのだろう。 
 
 
だからこそ――傘を差した白衣の男が、印象的に見えたのかもしれない。 
 
 
「……驚いた……これは偶然なのか、それとも君自身が招いた運命の賜物か」 
 
「ハァ、ハァ――」 
 
 
 ドイツ首都ベルリンは、雨が降っていた。不規則に降り続く雨は、身体を生温かく濡らす血を洗い流してくれる。 
 
俺は、死にかけていた。先日弾丸に撃ち抜かれた胸からは血が流れ、支えを失った身体は弱っていく一方だった。 
 
高級ホテル周辺は人通りが少なく、特権階級の者達が徒歩で行動する事などないようだ。誰にも見つからず、一人で瀕死に陥っている。 
 
 
歩みを止めたりはしなかった。海外へ来ても、意地っ張りな面は治らないらしい。馬鹿な見栄を張って、当てもなく歩いている。 
 
 
何処へ行けばいいのか、正直なところ分からない。分かるのは、俺は全てを奪われたのだという事。 
 
残された命だけが、俺のものだった。手元にあった大事なものは、何も残っていない。剣も、折れている。 
 
 
「どちらにしろ、実に得難きものだ。この私が、驚かされる事になるとは思わなかったよ」 
 
「……」 
 
 
 白衣を着た、長髪の男。言葉通り驚愕に満ちた表情を浮かべながらも、端正な顔を喜悦に染めている。 
 
顔はきちんと見えているのに、記憶に残りそうにはなかった。他人に関心を向けるには、心に余裕がなければならない。 
 
何もかも奪われて、失意のどん底に立たされたこの状態で、見知らぬ男と相手をするのは無理だった。 
 
 
無視しようとしたのだ――膝をついてしまう。馬鹿馬鹿しい事だが、誰かに会えて少し緊張が緩んだらしい。 
 
 
「死んだと聞かされていたが、どうやら死ぬ途中にあるようだ。どうかね、その貴重な時間を私に提供してくれないか?」 
 
「……」 
 
「安心したまえ――というのも可笑しな話だが、私は医者のような仕事をしていてね。生命には、多少は詳しい。 
君はもう、助からない。間もなく死ぬだろう」 
 
 
 雨の音が、耳にこびりつく。男より告げられた死の宣告を、俺は奇妙な実感を持って受け入れた。 
 
感じたのは絶望でも、恐怖でもない。安堵にも似た、敗北感。奈落にまで落ちてしまえば、笑うしかない。 
 
 
この男は死神なのだろうか? 少なくとも、真っ当な人間には見えなかった。 
 
 
「何処へ向かおうと、結果は同じだよ。定められた運命というものは、何も変わらない。 
足掻くのもいいが、君をこのまま死なせるのは忍びない。運命が与えてくれたこの貴重な機会を、無駄にしてしまう。 
 
遺言があれば聞こう。この世に未練を残したまま、消えたくはあるまい」 
 
 
 どうやら、俺を助けようとする気はないらしい。実に、自分の欲望に正直な男だった。 
 
昔の俺に似ている、などとは少しも思わない。この男は恐らく、他人には左右されない。俺とは、まるで違う。 
 
俺は返答せず、そのまま建物の壁に寄りかかって座り込んだ。もう、自分の力では立てそうもない。 
 
 
男は傘を差したまま、俺の隣で立ち尽くす。互いに見つめるのは相手ではなく、曇った空。 
 
 
「君は、自分が生まれた理由について考えた事はあるかね?」 
 
「……ある。近頃は、そればかり考えていた気がする」 
 
 
 自分が何の為に生まれてきたのか、ではない。過去ではなく未来、自分には何が出来るのか知りたかった。 
 
過去になってしまったのは、生命が間もなく終わろうとしている為。死ねば、全てが過去となってしまう。 
 
男は、特に感慨も見せずに静かに頷くのみ。単なる、話題の切り出しだったのだろう。 
 
 
「私には、夢がある。生まれた時から変わらずに、我が胸の内で願いが揺らめいている。 
その願いを叶える事が、私自身が生まれた理由なのだろう」 
 
「あんたの叶えたい、夢とは?」 
 
 
 
「"自由な世界"」 
 
 
 
 何を言っているのか、分からない。何が言いたいのか、よく分かる。死に間際だから、何となくだが感じ取れる。 
 
この世界は、少しも自由ではない。空は曇り、地上は重く濡れていて、人々は窮屈な柵の中で生きている。 
 
 
海外へ来ても、俺は自由にはなれなかった。何かを成そうとして、何もかも失ってしまった。 
 
 
「もうすぐ、君は自由になれる。少しだけ、羨ましく思うよ」 
 
「へっ……解き放たれたところで、何処へ行けばいいのか分からねえよ」 
 
「君にも叶えたい夢があって、ここへ来たのだろう?」 
  
「……何がしたかったのか、分からないままだったよ……結局。 
 
こうなってしまえば正直、他人に流されたままでもよかったかもしれねえのに――馬鹿な意地、はっちまった」 
 
 
 自然に恵まれた町で優しい人達に囲まれて、温かい家族の中で生きていく。可愛いメイドや、妖精と一緒に。 
 
美少女が護衛をしてくれて、恋人気取りの女が傍にいて。魔法だの異世界だのと、退屈しないものばかりを追って。 
 
 
物語の主人公のように、恵まれていた――与えられた幸せに甘えて、生きていればよかったのだ。 
 
 
「君は――自らの運命に、抗おうとしたのか。何故だ。 
 
君に与えられた幸福とは、君の偉大なる遺伝子の賜であるというのに。何が気に入らなかったのだ?」 
 
 
 血反吐が出た、いよいよらしい。カーミラの意思も、完全に消えた。せめて、あの子だけは生きていて欲しい。 
 
そう考えられるようになったのは、俺自身が変わった為だ。 
 
 
「気に、入らないさ……自分で掴まなければ、何にも意味がねえ。 
玩具を与えられて喜んでいる限り、ガキんちょだ。大人ってのは、全部自分で手に入れないといけない」 
 
「……」 
 
「あんたはどうよ? 生まれた時からの願いとか言ってたけど―― 
 
親だか神様だかに刷り込まれた夢なんかで、妥協してもいいのか? 
 
自分から求めれば、もっといいものが手に入るかもしれないんだぞ」 
 
「!? ふふ、ははははは――ハハハハハハハハハ! 
なるほど、なるほど。そういう考えもあるのか、ふむ。他人に指摘されるというのは、実に新鮮なものだね。 
 
空はこんなにも曇っているというのに、まるで初めて青空を見たような気分だよ」 
 
 
 自分の夢に価値がないと言われたのに、何故か男は愉快気に笑っていた。己を罵倒するように、容赦なく笑い転げていた。 
 
どういう気まぐれなのか、傘を放り出して男はその場に座った。白衣が汚れても、気にしないとばかりに。 
 
洗練された仕草を泥に塗れて、男は俺と同じように壁に寄りかかる。 
 
 
「貴重な意見を聞かせてくれて、ありがとう。お礼といっては何だが、今度は私から君にプレゼントしよう。 
恐らく、君が今最も求めているものだ」 
 
「何……?」 
 
 
「君を、強くしてあげよう」 
 
 
 途絶えようとしていた命の鼓動が、一瞬高鳴った。男は初めて俺を真剣に見つめて、手を差し伸べている。 
 
優しさなんて、欠片もない。愛も友情も、何一つ感じられない。男はただ面白がっているだけ。 
 
興味本位で俺を強く出来るのだと、男の叡智が自信を見せる。 
 
 
「君の命を助けるなんて、妥協はしない。君自身を、進化させてあげようではないか。 
君ならば、最強になれる。君ならば、何でも出来る。君ならば、全てを手に入れられる」 
 
 
 望んでいた、焦がれていた、欲していた。金よりも、女よりも、大事なモノよりも――俺は願っていた、強くなりたいと。 
 
弱いから、奪われた。弱いから、傷つけた。弱いから、失った。弱いから、価値がなくなった。 
  
強く、なりたかった―― 
 
 
「君の生命を、私に委ねて欲しい――君と私との出逢いは、運命なのだよ」 
 
 
 根拠も何もなく、ただ確信を抱けた。男の言っていることは、本当なのだと。全ての答えは、ここにあるのだと。 
 
強くなるには、他人が必要だった。誰かに、自分を強くしてもらいたかった。その誰かが、どうしても分からなかった。 
 
この男と共に行けば、きっと強くなれる。やっと、俺は目標を見つけることが出来た。 
 
 
ありがとう、神様。本当に、ありがとう! 
 
 
 
 
 
――そして死にやがれ、バーカ。 
 
 
 
 
 
「……なんだい、その手は?」 
 
「金をくれ」 
 
「か、金……? 君は、何を言ってるんだ」 
 
「プレゼントすると言っただろう? 小銭をくれ、あの公衆電話を使うから」 
 
 
 唖然呆然とする男から金を引っ手繰って、俺は立ち上がる。ふらついて壁に激突しそうになるが、手をついて耐える。 
 
本当に、助かった。この男に出会わなければ、路上で死んでいただろう。男の言う通り、得難き出逢いだった。 
 
どういう奴なのか分からないが、俺は感謝していた。 
 
 
「……アンタと一緒に行けば、俺は多分本当に強くなれたのだろうな」 
 
「私を、拒むのか? 強くなりたくないというのか」 
 
 
「強くはなりたいし、自分独りでは強くなれないのも分かっている。 
 
 
けれど残念ながら、あんたは剣士じゃない」 
 
 
 路上の、公衆電話ボックス。ファックス機能内蔵の新機種ではなく、小銭タイプの旧式。躊躇わずに、入る。 
 
最後の、チャンス。誰にかけるべきかは、分かっている。一度だけだが、電話番号も聞いている。ダイヤルする。 
 
この平和な世界に剣なんて価値はないけれど、俺をずっと守ってくれた。こんな俺を、支えてくれたのだ。 
 
アリサも、すずかも、大事にしていたものは何もかも奪われた――だからこそ、剣まで捨ててたまるか。 
 
 
剣士になれないのなら――死んだほうがマシだ。 
 
 
その代わりプライドは、捨ててやる。意地も見栄も全部、かなぐり捨ててやる。剣さえあれば、まだやり直せる。 
 
赤の他人に頭だって、下げてやるさ。 
 
 
『――誰だ』 
 
「俺の声が分かるか?」 
 
『!? ま、まさか――生きていたのか!』 
 
 
 
「頼む――俺を助けてくれ、御神美沙斗」 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
<続く> 
 
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