とらいあんぐるハート3 To a you side 第六楽章 星たちの血の悦び 第六十九話
「高次脳機能障害」の可能性もあると、脳外科医が深刻な顔で診断する。
「高次脳機能障害」とは病気や怪我等が原因で脳に損傷が生じて、記憶や思考、判断能力などに障害が起きる症状を言うらしい。
今自分が起きている症状を伝えた途端、フィリスが血相を変えて脳外科へ俺を連れ込んだ。
見舞いに来た中島も何故かついて来て、診断内容を聞いた瞬間――涙を浮かべて、その場にへたりこんだ。
精密検査の後はカウセリング、心の専門医であるフィリスに精神分析をしてもらう。その結果、
「――さんに関する事柄の全てを認識出来ない状態のようですね……
良介さんの今の記憶に基づいた分析なので、他にも認識出来ない要素があるのかもしれません。
とにかく両腕の怪我も含めて、良介さんにはしばらく入院して頂きます。剣は私が預かり、外出も一切禁止します」
「でもお前の話だと、俺は何か仕事を引き受けていたんじゃ……?」
「個人を認識出来ない状態で、仕事なんて出来る筈がありません!
後日出される精密検査の結果次第ですけど……脳が認識しないという事は、目にも写らない可能性だってあるんですよ!?」
フィリスは、怒っていた。叱ったり、窘めたりせず、真剣に怒ってくれていた。俺を、心から心配して。
その上で身元を尋ねられた。八神家でも、高町家でもなく、自分が子供の頃育ってきた場所を。
俺はまだ未成年、今まで聞かれなかった事が不思議なくらいだ。フィリスがどれほど、俺に気を使ってくれていたのか分かる。
だが、俺にも言えない事がある。教えるくらいなら退院したいくらいだが――
「入院です! これ以上症状が悪化したら、取り返しのつかない事になりますよ!」
普通の怪我ならともかく、脳の機能障害である。慎重に治療を行う必要があり、身元を保証する人間がいる。
桃子に頼めば代理人になってくれるだろうが、病院側が赤の他人だと分かっている人間だ。
俺が万が一悪化すれば、桃子が面倒を見なければならない。これ以上借りを作りたくないし、かといって孤児院に連絡されるのは――
「――あの、先生。少しよろしいでしょうか?」
診察室の扉が開き、今日見舞いに来てくれた中島が顔を出した。俺もフィリスも、顔を見合わせる。
時間帯は、夕刻。精密検査やカウセリングをしている間に帰ったと思ったのに、ずっと待っていたらしい。
何かを決意した表情。その瞳は鋭く、表情が固く引き締まっている。
怪訝な顔をしながら、フィリスは中島に連れられて一時退室。大切な相談があるとの事らしいが――
間もなくして、二人は診察室へ戻って来る。どういう話をしたのか、二人揃って真剣な顔をしている。
「お話は分かりました。ただそうなりますと、手続きする上で幾つか問題があります。
私も大切な患者さんを御預りする立場ですので、軽はずみな回答は出来ません。本人とも、よく話し合って下さい」
「はい。先生、この子のこと、どうかよろしくお願い致します」
――椅子から転げ落ちた。何だ、その気安い態度は!? 脳がイカレた頭を打ちそうになったわ!
談笑する二人を無理やり引き離して、問い詰めてやる。嫌な予感が止まらない。
「フィリス、何を話したのか正直に言え」
「中島さんが、良介さんの身元保証人になると申し出て下さったんです。将来は養子縁組もお考えだと、お聞きしていますよ」
「――おいこら、赤の他人。意味不明すぎて、傷付いた脳が破裂しそうだぞ」
以前お世話になった家の主である高町桃子も、俺の事を本当の息子のように大切にしてくれた。
でも、それはあくまで接し方の問題であって、実際に息子になれる訳ではない。
八神家に住む事になり、名残惜しまれたが家を出て、疎遠になったと俺は思っている。
だがこいつは血縁関係こそないが、戸籍上でも俺を家族にしたいらしい。何を考えている……?
「近い内に主人を連れて、また参ります。その時にまた、詳しい話を聞かせて下さい」
「私でよければ、いつでも相談に乗らせて下さい。良介さんともよく話し合って下さいね」
たった数カ月程度の付き合いなのに、身内以上に親身になってくれるフィリス先生。年上に見える中島が、何度も頭を下げている。
高町の家にも連絡を入れるとの事、一家揃って見舞いに来る事は間違いないだろう。記憶を取り戻す為と、割り切るしかない。
それよりも――
「おい、養子縁組とはどういう事だ?」
「宮本良介君。君、うちの子にならない?」
「話の順序がおかしいだろう、明らかに!?」
あまりにも軽く言われて、病院でもないのに目眩がする。一体何なんだ、この女は!
なのはの知り合いなのは分かったが、初めて会ったのはつい昨日の事だ。
桃子だって、ここまで突然家族愛には目覚めなかったぞ!
「何だ、さっきの俺の出生を聞いて余計な同情でもしたか」
「それもあるわね」
「それも!? 手の怪我についてなら、あんたが責任を感じる事じゃねえよ」
「君がそう言ってくれるのは嬉しいけど、私にも責任はあるの」
「何で? いや、ともかくあんたの援助なんて必要ない。俺は独りでやっていける」
「ずるい言い方だけど、本音で向き合いたいからハッキリ言わせてもらうわ。
利き腕が利かず、片腕が上がらず、自分の記憶も定かではない。肉体にも、精神にも、深い傷を負っている。
そんな状態でこの先、誰にも頼らずに一人で生きていけるの?」
人間は独りでも生きていける、自分の人生で実践してきた――五体満足であるならば。
頼りにしていた剣は握れない。頼みにしていた自分自身は記憶すらハッキリしない。
何より、今は独りじゃない。アリサも、はやても放っておけない。借りを返したい人間もいる。
「そこまでして、どうして俺の面倒を見ようとするんだ。同情や責任だけで、他人の子供の人生なんて背負えない」
「君こそどうして、そう言い切れるのよ。やってみなければ分からないわ」
「俺の事なんて全然知らないだろうが! 血の繋がりもないのに、家族になんて絶対になれない」
「血が繋がっていても、親も子もお互いに、最初は何も分かっていないわ。貴方の両親もそうでしょう?
貴方の価値を何一つ分からず――こんなに良い子なのに、貴方を捨てた。
世の中には、子供も出来ない夫婦もいるのに」
本当に、率直に自分の意見を言う女である。捨て子である事を、逆に言い返されたのは初めてだ。
大人としての配慮が足りないと怒るべき場面だが、多分こいつは相手が俺だから本音で話している。そういう面は、俺に似ている。
両腕の怪我に、脳の機能障害。永遠に消えないかもしれない、深い傷。同情も責任も混ぜ合わせて考えて、俺を引き取ろうとしている。
真っ当な理由ではあるが……俺個人としては抵抗もある。
「犬や猫を拾うんじゃないんだぞ。分かっているのか?」
「当たり前よ。君より二、三歳は長く生きているんだから」
「そんな年齢差で母親になろうとするな!? 絶対サバを読んでるだろ、あんた――いだだだだっ!?」
「とにかく、お・ね・え・さ・んの子供になる事、考えてくれる? 今すぐじゃなくていいわ、突然のお願いだから。
ただこれだけは今この拳に誓って、君と約束するわ」
「何を……?」
「君を絶対に、幸せにしてみせる」
……何で、こいつは初対面に近い人間にここまで言えるのだろうか……? 責任などの義務感だけで、ここまでは言えない。
赤面してしまうほど、堂々とした宣言。男前な言葉でありながら、その溢れんばかりの笑顔は見惚れるほど綺麗だった。
出逢ったその日にアリサをメイドに選んだように、こいつもきっと理屈ではない何かで、俺を選んだ。親子になれると、確信して。
「――まだ治らないと、決まった訳じゃねえ。こうなったら意地でも、自力で治してやる」
「ふふふ、意地っ張りね。分かったわ、じゃあ書面上だけ親を名乗らせて。身元は私が保証してあげる」
「いいのか、そんなに安請け合いして……? 俺に何かあったら、あんたに責任がかかるんだぞ」
「私は社会人よ。それに、子供の責任を取るのが親の義務よ。勿論悪い事したら叱るわ」
デコピン、一発。額がハジけるかと思うほど痛い。涙を滲ませる俺を見て、中島は笑っていた。くそ、何かやりづらい。
ひとまず入院の手続き、ペンを握れないので中島に書類を書いてもらった。
身元保証人――『クイント・ナカジマ』?
「お前は俺を何人にするつもりだ!? つーかお前、まず国籍を速やかに教えろ!」
「今後の事を話し合う為に、近い内に主人も連れてくるわ。私は明日も来るから安心して」
「旦那までいるし!? 俺の意志以前に問題が山積みだろ、てめえ!」
「大丈夫、ちゃんと説得するわ。私が貴方を全力で守り、事件も解決してみせる。分からず屋の上司にだって、ガツンと言ってやるわ。
だから、貴方も――困難に負けちゃ駄目よ。私の子供なんだから」
「勝手に決めるな!?」
さっさと決めて、嵐のように去っていった。中島――クイント・ナカジマ、俺の母親になろうとしている女。
その背中は広く、無意識に魅せられてしまう。話を聞いていたのか、フィリスが診察室から出てきた。
「……パワフルな方ですね……」
「……あ、あんなのが、俺の母親に……?」
「こういう言い方はなんですけど……本当にそっくりですよ、良介さんとナカジマさん」
「……うるせ」
珍しくからかい気味に言うフィリスに、俺はそっぽを向いた。今の顔は見せたくない。
脳の機能が損傷しているとかいう以前に――頭が痛かった。
診察と検査に追われ、手続きの一切を終えたら、既に一日が終わってしまっていた。
はやて達を筆頭に見舞いの客が何人も来てくれたようだが、検査と診察で一日病室を留守にしていて会えなかった。
面会時間も間もなく終了し、海鳴大学病院にも夜が訪れる。眠るだけの、きわめて退屈な時間帯が。
「……雨か」
病室の窓から見える外の風景は、水滴のカーテンで閉ざされていた。風も強いのか、窓が揺れている。
フィリス先生のカウセリングもやっと終わり、精神的に疲れてベットに横になっている。
初日から、鍛錬の真似事をする気分にもなれなかった。
「う〜ん、やっぱり特定の誰かを忘れているみたいだな……」
フィリスのカウセリングと、俺の顔を自分で丹念に洗い出して、出来る限り頭の中を探ってみた。
これまで起きた事件や出来事の一つ一つを検証して、確定ではないがその結論に至った。
一人の名前、一人の容姿、一人の思い出――どれほど触れても、感覚が残らない。
脳が認識しようとせず、自分の心の中から存在を抹消する。
フィリスは反対したが……思い出せなくてもいいのではないかと、思っている。
検査の結果が出ていないが、仮に怪我が原因であっても、簡単に忘れてしまうような人間だ。それほどの仲でもなかったのだ。
機能障害といえば大袈裟に聞こえるが、今まで出会った人間の一人や二人、誰でも簡単に忘れてしまうだろう。
小学校・中学校で作った友達全員の顔を覚えている大人なんて、見た事がない。
出逢いがあれば、別れもある。そうして皆、自分の人生を生きている。たった一人の価値なんて、無いに等しい。
そう思う、思うのだが……何か、こう……
「宮本良介さんの病室は、此処かしら?」
「? そうだけど……」
ベットの上でゴロゴロしていると、年若いナースが部屋番号を確認して訪ねて来る。見ない顔だった。
ひとまず肯定すると、ナースはホッとした顔をする。何なんだ、一体?
「さっき受付に女の子が来て、これを貴方に渡すように頼まれたの。患者の名前だけ言われて帰られたから、探すのが大変だったわ」
濡れた、一万円札。
握り締めていたのかしわくちゃで、お札の表面も黒く滲んでしまっていた。
使おうと思えば使えるが、人に渡すにはあまりにもお粗末なお札だった。
「このお金、誰が俺に?」
「名前を教えてくれなかっただけど……黒いドレスを着た、綺麗な子だったわよ」
黒いドレスを着た少女、渡されたお金――
心当たりがない、心当たりがないのに……もやもやする。心に引っかからない程度の、微妙な気持ち。
燃え尽きたはずのマッチが、燻っている。
「雨の中傘もささずに来たのか、全身濡れていてよく分からなかったけど――
あの子、泣いていたんじゃないかしら」
――病室から、飛び出していた。ナースが制止するのも聞かず、訳の分からない感情に背を押されて走る。
階段を駆け下りて一階へ、面会時間も終わって閉まりそうな自動扉を開けて、病院の外へと出て行く。
外は大雨。見渡す限り、誰もいない。
「……見えねえ……見えねえんだよ、クソッタレ……!!」
脳が認識しないという事は――名前も分からない、声も聞こえない、姿も見えない。
仮にこの場に居ても、俺には決して分からない。存在そのものが、記憶から消されてしまう。
こんなふざけた事が、あってたまるか……!
「思い出すからな!!」
誰もいない世界に向かって、俺は高らかに叫ぶ。届くかどうかなんて、無視して。
このお金をくれた女の子に――そして、記憶から消えてしまった誰かさんに。
自分の意思を、ただ真っ直ぐに。
「絶対に思い出すから、待っていろよ! 真っ先に、名前を呼んでやるからな!!」
俺の記憶から消えても、現実から抹消された訳ではない。姿は見えなくても、声は届くはずだ。
一万円、大金だ。理由もなく、どんな意味があるのか分からずに、使えない。
思い出さなければならない。決意すると、スッキリした。俺の脳味噌は、失われた記憶を求めていたのかもしれない。
どういう運命の悪戯か、きわめて自然に記憶が消えている。思い出せないようにまでされて。
さっきの俺がそうだ。このまま綺麗に忘れようとしていた。思い出にも残さずに、何も無かったように。
一万円札を見つめる。上等だ、クソ野郎。こうなったら何がなんでも、抵抗してやる。
どんなに奪っても――人の想いまでは消せないのだという事を、俺が教えてやる。
<続く>
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