とらいあんぐるハート3 To a you side 第九楽章 英雄ポロネーズ 第五話




 現代から異世界へ、日本からミッドチルダへ来て異なる世界を実感出来たのは夜だった。星々が輝いている夜空に、二つの月が浮かんでいる。此処は別の世界であることを、強く印象づけた。

ベルカ自治領を目の当たりにして別世界の印象は嫌というほど刻まれたというのに、今更二つの月を見て驚くなんてどうかしている。でも確実に、違う世界なのだと実感出来たのだ。

海外へ出て一度挫折しかけた事を、よく覚えている。爆破テロ事件で大怪我を負い、イギリスとフランスの同盟に挫け、女帝に追い詰められて、路上で倒れた時の事を。

あの時は師匠を頼り、悩みを打ち明け、弟子入りして、どうにか立ち直れた。けれど今は頼れる師匠はおらず、挫ける事はもう許されない。自分で、どうにかしなければならない。



(このままじゃ、駄目だ)



 聖地へ来て初日の夜、日も暮れたので聖騎士に宿屋へ案内された。聖王教会が宿を手配してくれたらしく、宿屋の主人も了承済みで同行者の部屋も含めて準備してくれていた。

とはいえユーリ達も加わった大所帯なので部屋割りに悩み、時間がかかってしまった。ようやく一日も終わり腰を落ち着けたので聖騎士は司祭への報告と面談調節の為に、教会へ戻る事となった。

司祭への面談は、どうやら明日となりそうだった。俺としては早い方が都合がいいのでありがたかったが、同時に期限は明確になった事に焦りを感じる。

ローゼを救うには管理プランの成功が不可欠、その為には聖王教会にプランの承認を貰わなければならない。お偉いさんへの面談に、まさか無防備で望む訳にはいかない。

となれば今晩中に、方針を決めなければならない。


(俺はこの聖地で何をすればいいのか――何をするべきか、決断しなければならない)


 司祭との調節を終えれば、聖騎士は一旦報告へ戻ってくる。その時に一緒に夕食を取る約束をしたので、忍達は夕食まで部屋で休むように言っておいた。俺は今一人、聖地を歩いている。

長旅どころの話ではない。何しろ今日一日で、異世界までやって来たのだ。海外線を過ぎて、国境を飛び越えて、宇宙を飛び出して、別の世界へ降りた。疲れが出て当然だった。

観光ではなく、しばらくこの地で生活するのだ。まずは腰を落ち着けて、新しい地に慣れなければならない。焦る必要がないのだ、俺以外には。

とはいえ好奇心旺盛な連中なので、釘を差しておいた。原則として単独行動は禁止、宿から外に出る時は必ず護衛を連れて行く事。護衛は、うちに揃った実力者が務める。

俺も今一人とは言っているが隣に妹さん、背中にナハトヴァールを連れている。この二人は基本俺と一緒というだけで満足しているので、一人で存分に悩める。


(やるべき事はハッキリしている。管理プランの承認を得てこの地で成功させて、ローゼの正当性を聖王教会に認めさせる。正式に認可を受ければ、プランの一員であるアギトも晴れて自由だ。
その立場を確立させるべく、聖女の護衛となる。聖王教会が背景となれば時空管理局も口出し出来ない。この聖地を、彼女達の安住の地とする)


 そもそも最終目標があってこそ、俺達はこの聖地へ訪れたのだ。やるべき事そのものはハッキリしている。悩んでいるのはやるべき事ではなく何をするべきか、である。

聖王教会へ管理プランを承認させるには、司祭より明日許可を得ればいい。アリサを同行させれば、プランの意味と価値を理解して貰えるだろう。気になるのは、聖王教会側の思惑だ。

この面談は俺からではなく、聖王教会側からの強い要望があったからだ。聖王教会騎士団随一の実力者であり聖王教会の顔役でもある聖騎士自らのお出迎えだ、俺への期待は非常に大きい。

プランの承認を得る為に恐らく、聖王教会側からの要望も受ける必要がある。聖女の予言と聖王のゆりかごは決して無関係ではないだろう、頭が痛いが対応しなければならない。


異世界ミッドチルダ最大の宗教団体、聖王教会。彼らに対抗するためには、こちら側の確たるスタンスが必要だ。


管理プランの成功には聖王教会に、聖女の護衛を獲得するには異界の強者達を相手に勝たなければならない。宗教団体に騎士団、猟兵団や傭兵達、人外相手に勝利する。

恐竜と蟻の戦いを思い出させる。夜の一族との戦いは、会議という正統なる決闘場があった。弁論勝負であり、ルールがあり、審判である長がいたからこそ、平等に戦えたのだ。

今回は違う。ルール無用の戦場であり、既に勝負は終わりを迎えている。俺達は既に、圧倒的な差を付けられている。全員がゴール前を走っている時に、ようやくスタートラインに立った段階だ。


聖地内を我が物顔で歩く強者達、街中を闊歩する聖王教会騎士団。対立する勢力の往来が成り立っているのは、支配の領域が成り立っている証拠だった。国境線が既に、定められているのだ。


聖女の護衛となる為には、聖王教会に認められる必要がある。聖王教会に認められるには、聖地への足がかりが必要。この地を支配して足固めをして、権力者に取り入るのが効果的。

支配こそ絶対、利権の獲得が勝利条件。入国審査まで急遽設けられたのは、それほど人と物資の往来が激しいという事。聖地は今歴史上類を見ないほど栄え、発展している。

勢力争いと権力闘争を背景とした、戦争。人を殺す戦争が、人を反映させるとは皮肉な話だ。戦争特需によって人は肥え、街は広がり、聖地は膨れ上がる。既に完成形へ近付いている。


支配が確立されつつあるこの状態で、何をすればいいのか――彼ら全員に勝つ為には、俺達が支配すればいい。


勢力争いに加わって奴らを蹂躙し、権力闘争に参戦して権力者達を取り込んで、俺が絶対者となる。そして聖王教会に認められて、ローゼとアギトを救う。

これしかないと最初から分かっているのに何故今更何をするべきか、悩むのか。ユーリ達が居れば強者達が相手でも勝てる、アリサ達が居れば権力者相手でも超えられる。

俺には心強い仲間達が居る。家族が居る。夜の一族との戦いとは違う、今の俺には何だってある。何でもやれる。迷うなんてことはない。俺には皆が、居る。俺には皆が――


(だったら――俺は、何をすればいいんだ?)


 自分が弱いから、なにもかも強いやつに任せるのか。自分が情けないから、なにもかも他人任せにするのか。自分の弱さを理由に、なにもしないつもりなのか。

ローゼやアギトを救うためなら何だってやるのだと、決めた。ただそれは、他人任せにするのとは違う。助ける為なら何だってするのと、全部他人任せにするのとでは意味が違う。

こんなもの、単なる思考の放棄だ。現実逃避だ。勝負するのが怖いから、負けるのが嫌だから、自分で為すのが面倒だから、他人に任せている。他人を拒否していた頃より、性質が悪い。

でも、このままでは助けられないのだ。だったら自分でやるのに拘っても、仕方がない。助けられるのであれば、仲間に任せても仕方ないのではないか?


「あーう」

「おっと、そろそろ夜も更けてきたな。お腹が空いたし宿へ戻るか、ナハト」

「おー!」


 背中ではしゃぐナハトに笑いながらも、心の中は憂鬱だった。ユーリ達自分の娘に頼りきり、自分の逃げる理由にも今娘を使っている。ひどい親がいたものだ。

シュテル、ディアーチェ、レヴィ、ユーリ、ナハトヴァール。可愛い娘達を、戦力として扱っている。彼女達が望んでいるとはいえ、抵抗がある。そのくせ、頼りにもしてしまっている。

結局、結論を出せなかった。明日は司祭の面談、重要な局面の一つだ。もし俺がスタンスを決めなければ、アリサに頼りきりになってしまう。本当にそれでいいのか?

昼間、騎士団に手柄を奪われて反省したはずだ。戦争には、勝つしかない。他人に、譲ってはいけない。分かっているのに、何で迷っている。弱者の分際で、どうして手段を選ぼうとする。


何をするべきか、俺は――


「……妹さん」

「はい」

「今、何か聞こえなかったか?」


 視力も聴力も自信はあるが、あくまで人並み程度に優れているだけだ。この時何故あんな遠い声が聞こえたのか、後で振り返ってみてもよく分からない。

強引に理由をつければ、俺はこの時途方に暮れていた。弱者であるがゆえに強者のように絶対の答えを一人で出せず、キッカケを求めていたのかもしれない。

逆に弱者だからこそ、俺はこの声を聞けた。強者であったのならきっと、聞こえなかっただろう。だって、この声は――


予言ではなく、単なる悲鳴であったのだから。


「二つ角の路地裏で、男女の諍いが行っています」

「真夜中に男と女の言い争いか、関わりたくない部類だな」

「私も、おすすめはしません」

「護衛の立場からすれば当然だな」


 自分の悩みで精一杯なのに、何が悲しくて男女の恋愛問題なんぞに関わらなければならんのだ。当事者だけで好きなだけ言い争っていればいい、と心の底から思う。

俺も妹さんも、別に人情家ではない。関係者ならば話は別だが、異世界の赤の他人二人だ。特別な事情でもない限り、一生関わることはない自信がある。

なのは達とは違い、俺達のような人種には他人を助ける理由が必要なのだ。だからこそ、行動も比較的分かりやすい。


「仕方ない、ちょっと様子だけ見に行ってみるか」

「よろしいのですか?」

「気分転換程度だ。馬鹿な口喧嘩なら、シカトして帰る」


 結論を出せなかった理由に自分の娘まで使ったのだ、結論を出せずに帰りたくない言い訳に他人の口喧嘩くらい平気で使える。結局俺は、どうしようもないほど弱い。

このまま手ぶらで帰りたくないだけの為に、他人の口喧嘩に首を突っ込むのだ。この地に居る強者達ならば絶対関わろうとはしないだろう。自分が情けなかった。

二つ角を曲がると暗がりに入り、陰湿かつ退廃的な店が並んでいるのが見える。薄暗い酒場に麝香が匂う店、下品な男達の笑い声とけたたましい女の艶やかな声が聞こえてくる。

神の住まう地には相応しくない、華やかな遊廓街。人とは物欲のみで生きているのではない。利権争いが行われている街であれば、色欲を売る店も存在する。異世界であろうと、例外はない。


「女の悲鳴は、あの路地裏だな」

「はい」


 子供を連れる場所ではないのだが、同行者が妹さんとナハトヴァールなら気に掛ける必要はない。妹さんが無関心だし、ナハトはそもそも分かっていない。

淫美な空間を通り過ぎて闇の濃い暗がりへ、竹刀袋を手にしておく。風俗店へ堂々と行けるのは日本の治安あってこそ、異世界の暗がりは法の外にある。自衛は、怠らない。

暗がりの奥へ進むと程なくして、男と女の言い争いが嫌というほど耳に飛び込んできた。路地裏の奥はアパートのような二階建ての建物があり、扉の開いた部屋の前で揉めているようだ。


「おら、来いよ」

「ち、違うんです、私はただの"花売り"で……」

「うちらの縄張りで、勝手に商売されちゃ困るんだよ」

「は、離して下さい!」


 野暮ったい服装の男と、ローブで顔を隠した女――なるほど。遊廓街で女を誘い、男が連れ込むのがこの部屋ということだ。異世界のラブホテルは、日本ほど立派ではないらしい。

ガッカリしたなんてものじゃない。甘酸っぱい恋愛模様だとは思っていなかったが、どうやら商売女と酔っ払い男のトラブルだったらしい。死ぬほど、どうでもよかった。

確かに女は嫌がっているようだが、だったら客引きなんぞしなければいいのだ。商売女にだって男を選ぶ権利はあるだろうが、場所と時間を明らかに間違えている。


どうやら今日は、最後までケチの付く日だったらしい。舌打ちして、路地裏を出て行く――


「客引きしたけりゃ、まず俺のところで審査を受けてもらってからだ。気に入ったら、お頭に紹介してやるよ。お前が此処で商売出来るかどうかは、俺次第なんだぞ」

「で、ですから、本当に誤解なんです。方々で聞き回ったところ、花売りを行うなら此処だと紹介を頂いて……」

「そうだよ、だからお前は俺の所へ来たってわけだ。俺らがこの界隈を取り仕切ってるんだ、此処なら安心して商売ができるぜ。
顔を隠してたって、お前がいい女だってのは分かる。お頭好みのいいカラダしてるじゃねえか、へへへ」

「なんという、不埒な! この地で、こんな商売が許されると思っているのですか!?」

「おいおい、お前は誰の紹介を受けて此処へ来たってんだ。昼間、表通りで健やかに働いている連中だろう?」

「あっ……!」

「そうとも。俺達は、御信者様方'ご公認'って奴さ。俺らが紹介する女は絶品揃いなんでな、聖職者のお偉いさんもよくご利用されておられるぜ」

「そ、そんな、まさか……う、嘘です!」

「嘘なもんか。そもそも聖女様の予言あってこそ、俺らはこの地に招かれて此処で堂々と商売してるんだ。だからよ――」


 そして男は、女に向かって言い放った。



「文句があるなら、こんな街にした"聖女様"にでも言えよ!」

「――ぁ、ぅ……」



 ――振り返る。絶句した女を、男が部屋へ連れて行こうとしているのが見えた。女は体を震わせるだけで、抵抗もしていない。なすがままだった。

男の言い様は酷いが、真実だった。多分、嘘は何一つ言っていない。神様を信望する聖職者だって男だ、性別も分からない神様より抱かせてくれる女を選ぶ時だってある。

別に不思議でも、不埒な話でもない。俺の国だって昼間真っ当に働く男達が、風俗店を利用している。大っぴらにはしていないが、商売そのものは成り立っているのだ。

男の言い分は決して、悪ではない。巧みに女を連れ込む本人は悪党かも知れないが、無防備にこんな路地裏に飛び込んだあの世間知らずにも問題はある。


けれど、足を止めた。


「おい、あんた」

「あん……? 誰だ、てめえ」

「何処へ連れて行こうってんだ、その女を」

「てめえに関係ねえだろう」

「あるさ。その女は先に、俺が買ったんだからな」


 酒と煙草に濁った目を、俺に向けてくる男。女はようやく我に返ったのか、男に連れ込まれそうになった手を見て驚愕と羞恥に震えている。

男の言い分は正しい、そう思えるのは俺が男と同じだからだ。商売女を脅して連れ込もうとする、あんな男と俺が同じなのだ。同じように考えていたから、共感している。

女を助けるつもりはない。ただ単純に、男と同列なのが我慢ならなかった。人情家ではないと自分を知りながら、風俗商売をする男と一緒なのが嫌だと思える。


その理由はきっと、背中に背負う愛しい娘の温もりがあったから。


「おいおい、兄ちゃんよ……お客さんなら丁重に扱ってやりてえが、生憎とこの女はまだ客に出せねえんだわ。他のを紹介するから、今日のところは諦めてくれや」

「その女が素人だから、か?」

「っ!?」

「言動と態度を見聞きすれば、すぐに分かる。分かってて連れ込もうなんて性質が悪いぜ」


 ローブで身なりを隠しているが、胸元の開いた大胆な衣装が商売女である事を演出している。実際客引きをする際、女が顔を隠すのは別に珍しくはない。商売女にだって、昼の顔はあるのだ。

派手な格好で男の目を引き、色気を感じさせる胸元を見せつけて男の気を引く。だがそれ以上に男を狂わせているのが、女の放つ気品そのものだった。

商売女の演出が逆に、顔すら隠した女の気品を際立たせている。聖騎士に匹敵する品格が男の背徳感を刺激し、女の無防備な色気が男の獣欲を沸き立たせる。


"花"ではなく、"華"を売る女――男の言う通り、あの女は絶品の"いいオンナ"だった。


「素人だと分かってて買おうってのか、兄ちゃん。そいつは違法ってもんだぜ」

「おいおい、今更法に訴えるってのか」

「この界隈にも、ルールってもんがあるんだよ。この女は俺らの許しなく、客引きをしようとした。誤解だろうとなんだろうと、それが事実だ」

「……」


 馬鹿馬鹿しいにも程があるが、街頭だろうと裏路地だろうとルールはある。法ではなくルールというのが、やましさを引き立ててしまっている。

ルールを制定したのは法の守護者ではなく、強者の支配。聖地で遊廓街を作り上げた強者が、ルールを作って夜の秩序を作り出した。逆らえば死ではない、破滅である。

表よりも、裏の方が噂は流れやすい。この場は男を殴り倒せば済む話だが、ルールを破ればこいつの背景が黙っていない。仮にユーリ達を頼って殲滅させれば、単なる無法者だ。

女が、こちらを伺っているのが見える。助けてほしいという様子ではない。憔悴して、事態に身を任せてしまっている。

何が女を、そこまで絶望させてしまったのか――この聖地の現実は、もはやどうしようもないほどに愚かしくなってしまった。


「どうやら兄ちゃんは、この女にご執心らしいな。なによ、人助けでもしてえのか」

「人、助け……?」


 ……違う。そうだ、違う。そうじゃない、そうじゃなかった。俺はローゼを、助けたいんじゃない。



俺は――恩を、返したかったんだ。



待ち人だの、陛下だの、特別待遇だの、色々誤解されて、どうかしていた。俺は聖王でも、神様でも、絶対者でも、何でもない。何処にでも居る、ただの男じゃないか。

聖地の安定とか、世界平和とか、強者の競い合いとか、権力闘争とか、そんな事はしたくなんてない。俺は単なる剣士なんだぞ、どうしてそんな真似をしなければいけないんだ。

要人テロ襲撃事件で、俺はローゼに助けられた。むかつくが、あいつが味方をしてくれたからあの場は救われたのだ。俺は、その恩返しがしたいだけだ。

アギトの件だって、そうだ。あいつは立派に力を貸してくれたんだ、だったら俺があいつの力になるなんて当たり前じゃないか。単に、それだけだ。


だったら、何をするべきか――分かり切った話じゃないか。


「確かにあんたの言う事はごもっともだ。頭下げて女を譲ってもらおうなんて、虫のいい話だ。筋が通らねえ」

「分かってるんじゃねえか。だったら、引き下がってくれ」

「俺が、その女を"身請け"する。あんたらのお頭に、このお金を渡してくれ」

「はあ……? おいおい、金で済む話じゃ――うおっ!?」


 金の入った袋を丸ごと渡してやると、男は中身を見て飛び上がった。そりゃそうだ、現職の隊長と捜査官が息子の為に用意した大金なのだ。

悪いなクイント、ゲンヤの親父さん。あんた達が用意してくれた生活費用も含めた活動資金の全額を、世間知らずの商売女一人につぎこんじまった。親不孝、ここに極まれりである。

明日からめでたく、無一文である。仲間も大勢連れているのに何やっているんだ、俺は。今晩の宿は聖王教会が取ってくれたが、司祭の面談が終われば客人ではなくなる。

リーダー失格だと、ルーテシアは呆れ返るだろう。俺だけじゃない、仲間全員を明日から路頭に迷わせるのだ。最低の決断だった。


それほどの大金だからこそ、ルール違反にも目をつむってくれる。


「い、いいのかよ……今更返せって言われても、返さないぜ」

「お頭への口利きは頼んだ。その女はこの界隈で馬鹿な真似をさせないように、俺がちゃんと躾けておくからよ」

「よっぽど気に入ったみてえだな――いいぜ、譲ってやる。お頭には俺がちゃーんと言っておいてやるよ。
話が分かる兄ちゃんでよかったが、この場限りだぜ」

「分かってる。あんたらの商売に口出しする気はねえよ、今は」

「はん、言うじゃねえか。結構気に入ったぜ、兄ちゃん。俺はこの界隈じゃ顔はきく、兄ちゃんならいつでも口は利いてやるよ」

「そんだけ金を巻き上げておいて、何を言ってやがる」

「へっへっへ、じゃあな」


 人の有り金全部をホクホク顔で受け取って、男は女を置いて去っていった。これでめでたく明日から無一文、今日の立派な宿も明日には出ていかなければならなくなった。

聖地のほぼ全域を強者に支配されて居場所もなく、頼みの綱だった有り金も失くし、明日には聖王教会の客でさえ無くなる。見事なまでに、浮浪者集団となり果ててしまった。

状況は最悪となったのに、気持ちだけは清々しかった。先程は金も力もあったが、スタンスはなかった。今は逆、ほぼ全て無くしたが志はある。


何をするべきか、ようやく分かったのだから。


「今日から、俺がお前の主人だ。最低でもお前の為に払った金の分は、その体で働いてもらう。ついて来い」

「……はい……」


 女に、救われたという感情なんて全くない。身売りから、見請けに変わっただけ。絶望に沈んでしまった心に、光は当てられなかった。

俺も人助けをしたつもりはないので、優しい言葉はかけない。助けたのだって、打算があったからだ。働いてもらうのだって、本当である。同情も何もしていない。

顔を俯かせ、足を引き摺り、手をぶら下げて、女は幽鬼のように連れられる。遊廓街をボンヤリと見つめては、うわ言を繰り返すのみ。


「……なさい」


"文句があるなら、こんな街にした"聖女様"にでも言えよ"


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」


 壊れたスピーカーのように、垂れ流す。厳しい現実ではない、この女は今日何もかもに裏切られてしまった。

昼間働く優しい信者達は、夜は享楽にふけっていた。偉大なる聖職者達は、女を抱いて楽しんでいた。街を守る聖騎士達は、町の爛れを黙認していた。

そして何より、"聖女"に裏切られた。聖女の存在が、聖地を狂わせた。聖女の宣言が、聖地を汚した。聖女の予言は――叶わなかった。



自分が絶望するその瞬間にも"神"は現れず、愚かしい"人"しか来なかったのだから――



彼女の信仰は、"聖女"に砕かれた。










<続く>








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