Ground over 第三章 -水神の巫女様- その9 打開




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 ―もし私が帰りたくない、と言えばどうなりますか?―


帰りたくない、か・・・

俺は一瞬冗談か何かを言っているのかと思ったが、対面する氷室さんの顔を見て考えを改める。

彼女は真っ直ぐな眼差しで、それでいて表情に何の感情も映し出さないまま俺を見つめていた。

とてもはぐらかせる雰囲気ではない。

きっと心から真剣に、俺に聞いているのだ。

帰りたくないとはどういう事だろうか?

彼女の立場からすれば、送っていた平和な日常を突然理不尽に覆された事になる。

しかも本人の意向もなく強制的に、だ。

言ってみれば、俺達が彼女を誘拐したも当然なのだ。

しかも妥協の余地もなく、住み慣れた自分の家に易々と帰る事もできない異境の地。

勿論俺達だって今でも帰りたいという気持ちはあり、絶対に帰るのだという決意も胸にある。

だが葵はああいう奴だし、俺は日常から葵に付き合わせて散々トラブルに合っていたので半ば慣れで済んではいる。

でも、俺達と氷室さんは違う。

他に手はないのでどうしようもないが、それでも女性の身である氷室さんに旅は過酷だろう。

それに氷室さんには両親や仲の良い友人もいるだろうし、他にも心配する人間は多い筈だ。

思い遣り、思い遣ってくれる人がいる限り、氷室さんがこの世界にいるべきではない。

気軽に向こうの世界から消えていい人ではない。

っと俺は思っているのだが、氷室さん本人は帰りたくないと言っている。

俺は頭が混乱したまま何とか答えようとするが、自分でも思ってもみなかった程上擦った声が口から出た。


「え、え、え、え、え、え〜と、と、ととと、とにかく落ち着こう!ね?」


「?・・・はい・・・」


 自分こそ落ち着けよと内心でつっこみたかったが、幸いにも氷室さんは平静に対応してくれた。

俺は頭を振って乱れた思考を沈め、氷室さんと正面から向き直る。


う〜ん、どう聞いてみるべきか・・・・
「俺の聞き間違えじゃなければ、帰りたくないって言ったように聞こえたんだけど・・・」

「・・・間違いではありません・・・」


 そうあって欲しいという俺の願いは無残にも破られ、氷室さんは俺の言葉を肯定する。

やっぱり帰りたくないのか・・・・

でも、どうしてだ?

まさか葵と同じように異世界へ辿り着いたのが嬉しいからとか、冒険出来るのが楽しそうだとかいうサバイバル思考でもないだろう。

もしそうなら、もっと違った物言いをする筈だ。

向こうの世界に何か嫌な事でもあるのだろうか?

色々と考えたが思いつかず、俺は彼女の問いに答える事にした。


「もし氷室さんが本当に帰りたくないんなら、この世界に残るしかないとしか答えられない。
ただ――」


 俺は一呼吸して、言葉を続ける。


「さっきも説明した通り、この世界には氷室さんの常識が全く通じない。
『』なんて理論的な説明の出来ない力もあるのに反して、科学技術の一切がないんだ。
テレビとかも無いし、通っていた大学だってないんだよ?
今まで氷室さんが当たり前のように使っていた物が使えないんだ」

「・・・・・・・・・・・・」


 寒いから暖房をつける事は出来ない。

喉が渇いたから、自動販売機で飲み物を買う事も出来ない。

歩くのに疲れたから、自動車に乗る事だって出来ない。

帰りたいと思っても、帰られる故郷もない。

向こうの世界で何の疑問も持たずに使っていた物の一切が使えない。

それは氷室さんが考えているよりもずっと不便なんだ。

俺は氷室さんをじっと見据え、話を続ける。


「それに、この世界で氷室さんの味方をしてくれる人だっていない。
今まで守ってくれた両親もいないし、支えてくれた友人だっていないんだ。
氷室さんは一人で、何も分からずに生きていかなければいけないんだ」

「・・・・・・・・・・・・」


 酷な事を言っているとは思う。

氷室さんにすれば純粋な個人の希望なのかもしれないのに、俺はマイナス面しか言ってない。

この世界にだって自分と同じ人間が生きている。

なら、この世界にいても辛いだけだと思わせる言い方は明らかにおかしい。

だけど、それでも俺は氷室さんにきっちりと言わなければいけない。

俺の今話している事も、一つのれっきとした事実なのだから――


「君を助けてくれる物は何もなく、君を助けてくれる人もいない。
この世界の常識や知識だって何一つ知らないんだ」


 氷室さんには言わなかったが、この世界では治安もいいとは言えない。

ルーチャア村がいい例だ。

あの村では盗賊達が日夜襲い掛かって来ていたのに、どこからも手助けはなかった。

結果沢山の犠牲者が出て村人達は怯え、苦しみに苦しみ抜いた。

俺は今でもあの惨劇は忘れられない。

原形すら保っていなかった焼け焦げた無数の死体が転がる光景を・・・・・

氷室さんには見せたくはないと心から俺は思う。

たとえ、彼女が俺達と同じ道程を歩むしか道はないとしても――


「・・・氷室さんはそれでも帰りたくないと言える?」


 言いたい事は全て言って、俺は氷室さんと視線を合わせる。

重苦しい空気が二人の間を漂っているように感じられるのは俺の気のせいではないだろう。

多少なりともこの世界で生活してきた俺の言葉が彼女の心に届けばいいのだが――

もしそれでも帰りたくないと言うなら、いっそ他の皆を呼んで・・・・



「・・・・言えませんね・・・」


 一緒に彼女を説得――って、え?

「今・・・・・」

「・・・・帰ります、日本に・・・・」

「そ・・・そうか!そうだな!!
うん、それが一番だって!!」


 俺は努めてにこやかに笑って、しきりに何度も頷きかけた。

氷室さんが心変わりしてくれたのは、素直に嬉しかった。

とはいえ、脳裏では疑問符が十個以上は浮かんでいる。

さっきの今でどうしてこう簡単に心変わりしたのだろう。

俺の説得(というか脅迫に近いけど)にそんなにびびってしまったのだろうか?


「・・・どうかされましたか・・・?」


 俺の態度に不信なものを感じてか、氷室さんは淡々と聞いてくる。

慌てて俺は手を振って、ぎこちない言い訳を述べる。


「い、いや、随分あっさり納得してくれたんだなって思ってさ・・・・」

「・・・・・・・・・・」


「あっ!?いや、別に悪いって言っている訳じゃないんだ!」


 お願いだから何か反応してくれ!

無表情のまま無言でいられると、俺は物凄く対処に困ってしまう。

俺の周りがリアクション多い奴等ばかりだったせいか、氷室さんのようなタイプはどう接すればいいのか悩む。

対応に焦る俺に、氷室さんは何も変わらずのままポツリと呟いた。


「・・・聞いてみたかっただけですから・・・・」

「な、何を?」

「・・・万が一の事を・・・」

「万が一?それはどういう・・・・あ。そっか」


 俺は大きな思い違いをしていた。

氷室さんは俺にこう聞いたんだ――



―『もし』私が帰りたくない、と言えばどうなりますか?―



 あり得るやもしれない可能性。

帰りたくないという事は、当然この世界に残る事を意味する。

その場合、自分はこの世界に生きて行くことは出来るのだろうか?

俺は氷室さんには俺達がこの世界に来た発端から元の世界に帰る事まで説明はしたが、あくまで希望的観測のみ。

最悪の可能性――この世界に留まるしかない場合は説明していない。

氷室さんはそれを聞きたかったのだ。

全ての疑問が晴れるのと同時に、俺は脱力感を覚える。

どうせなら遠回しにではなく、もっとストレートに聞いてほしかった。

お陰で色々と邪推してしまった――


「ひ、氷室さんも結構意地悪だな」

「・・・そうでしょうか?・・・・・」


 何となくだが、氷室さんの声には少し面白がっているように聞こえた。

見た目は真顔のままだが。

俺は一つ溜め息を吐くと同時に、横から声が割り込んでくる。

「話の途中で失礼。氷室女史」

「・・・はい・・・・・?」


 あ、そういえばこいつもいたっけ?

氷室さんの突拍子もない質問に頭がいっぱいで、すっかり葵の事を忘れてた。


「友の述べた事は概ね真実ですが、一つだけ誤りがあります」

「何だよ、それ」


 氷室さんが尋ねるより早く、俺が聞き返す。

確かに偏った言い方はしたが、話した事は全て本当のつもりだ。

俺の疑問に、葵は爽やかに笑って答えた。


「この世界に貴方の御友人や御両親は確かにいないかも知れませんが――
我々には私がいます」


 ・・・・・・・・・。


「この京介も貴方に少々酷な意見を言いましたが、全て貴方を心配し思い遣っての事。
友はこう見えて頭が切れ、人格面共に頼りになる男です。
今後必ずや貴方の力となってくれるでしょう」

「お、おい、葵・・・」

「何だ、友よ。まさか彼女を一人このまま野放しにするつもりではあるまい」


 そんなつもりは毛頭ない。

氷室さんがこの世界に来てしまったのは俺の監督不届きのせいでもある。

同じ境遇に陥った氷室さんを見捨てるつもりはないし、何が何でも元の世界へ返してあげたい。

・・・・けど、もう少し言い方があるだろう。

氷室さんが遠まわしなら、こいつはストレート過ぎる。

返事が出来ず顔が熱くなってしまう俺だが、手に冷たい感触を覚えてはっと顔を上げる。

俺の手を、氷室さんが両手で握っている――


「・・・よろしくお願いします・・・・・」


 それはとても小さな、温もりのない声。

だけど言葉に出来ない何かが、氷室さんの声を通して俺の心に突き刺さった。

俺はぎこちなく握り返して、はっきり答えた。


「は、はい、こちらこそよろしく」


 誠心誠意、俺は氷室さんに答える。

必ず一緒に帰る、その気持ちをありったけこめて――

重い雰囲気が消えて和やかな空気がよぎった時、絶妙なタイミングでドアが開いた。


「食事が出来たそうだ。早く来い」


 雨で濡れたのが堪えたのか、カスミはラフな服装で俺達にそう呼びかける。


「うむ・・・では友に氷室女史、行こう。
食事ついでに、今後についても話し合っておかねば」


 うわ、そうだった。

葵の言葉でまだ解決しなければ問題があるのを思い出す。

俺はげんなりしながら部屋の外へ行き、廊下の窓から外を見る。

俺達は、これを止めなければいけない――

黒く染まった空からは、止まる事のない雨が振り続けていた・・・・・





















<第四章 水神の巫女様 その10に続く>

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