カレーパン。
 と、一口に言っても。
 実に、カレーパンには様々な種類があるらしい。
 野菜がごろごろ入ってたり、かと思えば全てがペースト状になっていたり。
 店によっては、一個を千円で売ってる所もあるらしいのだ。
 どんな素材を使えばそんな値段になるのか、非常に興味がある――のだが。
 ――しかし。
 はっきり言って、今はそんな事どうでもいいのである。
 何故なら、ここは高校内にあるただの購買に過ぎない。
 売っているカレーパンと言えば、いかにも大量生産しましたと言う物ばかりである。
 簡易的に包装された袋、半身だけを白の包装紙に包まれた薄茶色のそれ。
 どことなく萎びた衣、カリカリ感は明らかに無い。口内に入れればまず油の香りが広がるだろうと思われる。
 クリーム色のプラスチックケースへと大量に詰め込まれた何十個ものカレーパンは、そんな扱いを受けながらも
腹を空かせた成長期真っ盛りの俺達学生には、胃袋を満たす何よりのご馳走に映るのであった。

「……とと。余計な事考えてないで、さっさと先輩の分を買わないとな」

 運動部に所属しているのか体格の良い学生達の合間を縫う様に身体を滑り込ませる。
 握る右手の中には、先輩から受け取った百円玉が一枚と十円玉が二枚。
弾けながら金属音をかき鳴らすそれは、きらりと光沢を発しながら失われる時を静かに待っていた。

「すいません! そこのカレーパン一つください!」

 声高らかに、購買を仕切るおばちゃんへと告げる。
 すると、ちらりとこっちを覗いたかと思えば次の瞬間には右手にカレーパン、左手には代金を要求する掌があった。
(さすがだな……)
 伊達にここで勤続十年を数えてはいないようだ。
 まだ温もりのあるカレーパンを受け取ると、自分の焼きそばパンを落とさないよう抱えつつ購買を後にした。
 
 
 
 

 

【月姫―『存在概念』―against of fate―】








「――ごめん先輩。購買結構込んでてさ」
「あ、いいですよ気にしないでください。わたしもお茶飲んでくつろいでましたから。それよりも遠野君こそ買って
きてくれてありがとうございます」

 そう言ってシエル先輩はにこりと笑う。
 ……何というか本当、この人は。
 ……素直に、良い人だな。

「ううん、そんなお礼なんていいって。それより、早速食おう。もう腹減って倒れそうだよ」
「ふふ、そう言うだろうと思ってお茶も用意しておきましたよ。さ、どうぞ」
「お、サンキュー先輩。……あ、美味い」
「本当ですか? 嬉しいです」

 ぱん、と掌を合わせて先輩が笑みを浮かべる。
 いや、冗談抜きに先輩が淹れてくれたお茶は美味かった。何というか、こう、渋みの中に甘さがあるというか。
よく言う『ほっとする』感じが如実に出てて、久しぶりに美味いと思えるお茶だったのである。家でも琥珀さ
んや翡翠が淹れてくれることはあるが、あれはいつも紅茶、もしくはハーブティーであるが故に緑茶は中々飲
む機会がない。確かに久方ぶりに飲めば美味いと感じることもあるが、それを差し引いても先輩が淹れてくれ
たお茶は美味かった。
 やきそばパンの袋を空けると、小気味の良い音と共にほのかなソースの香りが鼻腔を突く。瞬間的に口内に
涎が増すのを感じながら、待ちきれないとばかりに端からパンを頬張った。
 先輩はというと、これ又同じように恍惚の表情を浮かべながらカレーパンを頬張っている。空いた手で頬を支
えるようにしながらもぐもぐとカレーとパンのコラボレーションを噛み締めていた。
 そうして俺と先輩の二人はしばし、会話も忘れて胃袋を満たす行為へと没頭していく。
 何というか、こう、平和ってのはこういう時間を言うんじゃないだろうか。
 時間は昼休みを半刻ほど過ぎた所。まだしばらくは余裕がある。
 ――――そして。
 食事も終え、食後のお茶も飲み。
 さあ後は何しようかという余りの時間。
 だが特にすることも思いつかず、俺と先輩は当たり障りのない会話をしていた。
 先輩は先程からずっと正座で疲れないのだろうかとも思ったのだが、どうやら慣れているらしい。正座に慣れ
とは何ともシエル先輩らしい。
 外は昼間と思えない程に静かで、窓から覗く光景は一面の晴れ渡る空と地上に群れる家々だけだ。
 廊下も驚く程に人が通らず、ここ茶道室はともすれば静寂の空間と化しかけている。
 話していた話題が終わる。特にどうとも思わない、場つなぎの話題だった。
 不意に訪れる空白。しんとする室内。畳が擦れる音が響き、こそばゆい感覚が生まれる。
 何ともなく視線は外れる。先輩がこちらを見据えたままなど、これっぽっちも気づかないままに。
 
「……あの、遠野君」
「ん? 何、先輩」


 だから。


「先程も言いましたけど、話があります」


 先輩が俺を見据えていた意味もまた。


「ちゃんと、答えてくださいね」


 これっぽっちも、判らずにいた。
 

「……? うん、ちゃんと答えるよ」

 シエル先輩は、思い詰めたような意思を秘めたような顔でぐっと俺を一直線に見つめていた。だがそれは
ほんの少しのことで、すぐに視線は下、自らの膝元辺りへと向けられる。
 ぽつりと、か細い声で先輩が呟いた。

「遠野君、あなたは……その、……彼女、アルクェイドをどう、思っているのですか?」
「え!? ア、アルクェイドをどうって、せ、先輩?」

 予想だにしない問いかけ。俺の頭は瞬く間にスパークしてしまった。
 真っ白な思考。その中で先輩の問いを必死に反復し解読する。
 どう、思ってる? それは、どういう意味でだ? この場合は、……一人の人間として、ということだろうか。
 ――確かに、俺はあいつを放っておけないと思ってる。何か判らないけど、放っておけない。だって危なっか
しいし、見てて心配になってくるんだ。それは、恋愛の感情とは別にしてそう思ってる。
 
「俺は、アルクェイドのことは放っておけないと思ってる」
「! そ、そうですか」

 見ると、先輩は傾けていた表情を益々項垂れていく。『はぁ』なんてため息をつき、手に持っていた
湯飲みをお盆の上に置いた。揺れるお茶の水面が綺麗だな、なんて思った。

「遠野君」
「は、はい」

 先輩がすっと顔を上げる。
 直後、とんでもないことを口走った。

「わたし、アルクェイドを殺します」
「…………――――――は?」
「だから。あの女を殺すと言ったんです」
「――え、え? ……えええ!? な、何でだよ先輩。確かにあいつは吸血鬼だけど、今までだって一度も血を
吸ったことないし、それに、そう、血を吸いたいとか思ったこともないんだ! だから、その、先輩が思って
る程あいつは悪い奴じゃないんだよ!」

 立ち上がりかける勢いで力説する俺。
 だが。

「…………はぁ」

 再び、先輩がため息を漏らした。
 じっと俺を見据えると、「いいですか遠野君」と言った。

「あなたはそれを真っ向から信じているんですか? 彼女の言うことは全て真実なんだと。もしそうだとしたら
遠野君、申し訳ありませんがあなたは根っからのマヌケだということになりますよ。彼女は血を吸ったことがあ
ります」
「――っ! な、何を根拠に――」
「あなたの存在。それが何よりの証拠でもあるんです」
「――――! ……何、だって? 俺?」
「ええ。遠野君、突然ですが少しばかり真面目な話してもいいでしょうか?」

 不意に、先輩の顔が真剣なものへと変わった。
 がらりと変わった空気。俺も否応なく対応せざるを得ない。
 真面目な話、と先輩は言う。それなら聞かない訳にはいかなかった。
 
「……あぁ、どうぞ」

 すると先輩は、ありがとうございますと言った。
 
「けどその前に、遠野君。わたしはあなたに謝らなければなりません」
「え? 何で?」
「……申し訳ないですが、少しばかりあなたのことを調べさせて頂いたからです。ごめんなさい」
「なっ……」

 俺は即座に文句を言おうとする。だが、その前に先輩がすっと頭を下げてしまった。
 自然とタイミングを逃してしまい、喉元で言葉を飲み込む羽目になる。
 先輩はそのままの体勢でまた、言葉を紡いだ。
 
「怒るのだったら、どうぞわたしに怒りをぶつけてもらってかまいません。けど、出来るならその前に話を聞いて
はもらえませんか?」
「…………」

 俺は、何も言葉を発することは出来なかった。
 正直、ふつふつと湧き上がる怒りの感情はある。でも、俺の存在自体があいつ、アルクェイドが血を吸った
ことのある吸血鬼だという証拠になるのなら、その話は聞かない訳にはいかなかった。
 拳を握り締める。ただ黙って先輩と視線を合わせて次の言葉を待つ。
 シエル先輩は一度小さく頷くと、話を続けていった。

「遠野志貴。または七夜志貴。退魔の家系の一つ、七夜の姓を抱く魔眼の使い手。それも、伝説、果ては与太話と
まで言われた文字通り「必殺」である直死の魔眼。現在は有間の家を離れ、遠野の屋敷で暮らしていて一つ屋根の
下に妹と使用人がいる」
「……驚いたな。どうやって調べたのか教えてほしいよ」
「聖堂協会には、多岐に亘る専門家がいますから。情報は決して安くありませんでしたが、対価に見合う
だけの価値はあったと思いますよ、今回の場合」
「なるほど。俺は高くつくって訳だ」
「ええ、光栄に思ってください。それで、この情報が何故見合う価値があったのか、ですが。……遠野君、あ
なたの存在が、彼女が血を吸ったことのある吸血鬼だという確たる証拠の一つになるからなんですよ。まぁ、
そんなことしなくても既に判りきったことではあるんですが」
「……」

 俺は口を挟まず、ただ次の言葉を待った。
 シエル先輩は、変わらぬ口調で言葉を紡いでいく。

「いいですか? そもそも彼女、アルクェイドは真祖の吸血鬼です。それはすなわち、『穢れていない』ことで
もあるんですよ。だってそうでしょう? 他者の血液を採取したことがない、ということは純粋なる血統種で在
り続けているんですから。不純物のない器、それが彼女だったんです。……でも、彼女は取り入れてしまった。
渇きという圧縮されるような苦しみの前に、異物を取り込んでしまった。……それが、いけなかったんです。綺
麗なままの穢れを識らない真祖は、異端へと堕ちた真祖を狩り続けているだけでよかったんです。幾許とも
知れない時を眠っていればよかったんです。何故なら、そうすれば、こうして知り合えた男に退魔の血を起き
上がらせることもなかったんですからね」
「…………どういう、ことだ」
「まだ判りませんか? つまり、『遠野志貴が七夜志貴を目覚めさせてしまう原因がアルクェイドにある』って
ことですよ。では何故目覚めたのか。それは簡単、七夜は退魔だからです。魔を退けなければならいんです。
と、いうことはつまり」
「――あ。ま、まさか」

 思わず掌で口を覆う。
 至ってみれば如何にシンプルで当たり前な、だけど信じられない事実が目の前にあった。
 声にならない声。脳内では必死に答えを押し留めようとしている。
 だってのに。
 先輩は、いともあっさりと答えを口にした。

「そうです。つまり、アルクェイドは『穢れてしまった』んですよ。純粋な血液ではなくなったからこそ、その存
在は退魔の血に反応する結果となってしまったんです。だからこそ、七夜志貴も彼女に対して反応する。本能がひ
しひしと知らせませんか? 『魔を払え』と」
「あ、あ」
「でもね、遠野君。だからこそ、わたしはアルクェイドを殺すんです」
「――え?」

 先輩が正座を崩し、身を乗り出すようにして距離を縮めた。
 手を伸ばせば届きそうな距離に、先輩の顔がある。
 でもその表情は相変わらず、厳しいままだ。

「いや、正確には殺すんじゃなく止める、ですね。この意味が判りますか?」
「……あいつを、殺したくないからか?」
「違います。もう、ほんっと遠野君て鈍いんですね。そんなんじゃ女の子に嫌われちゃいますよ」

 ほんの少し、先輩が表情を崩した。

「――」
「ふふ、でもそんな所がまた遠野君らしんですけどね。……いいですか? 殺す、じゃなく止めるというのは、ただ
単に文字通りの意味です。わたしじゃ、正直彼女には適いませんから。あっさり殺されて終わるのがオチでしょうね。
それでもね、わたしはあなたを行かせたくないんです。……だって、殺されるのが判っている人を行かせる人なんて
いないでしょう?」
「……あぁ、それは――――ん?」

 ……ちょっと待て。
 何か、俺は何か重大な見落としをしているぞ。
 そもそも、何故こんな話になったんだ? 流れのままで来てしまったけど。
 ていうか先輩の言い方だとまるで俺がアルクェイドを――。

「……なぁ、先輩。一つ聞いていいか?」
「はい。何でしょう」
「そもそもさ。俺はアルクェイドに対して殺意とか抱いたことないんだけど」

 ……まぁ、その、出会ったあの時以外は。

「えっ――!? …………あ、あぁ。そう、だったんですか。遠野君、昨日のこと覚えていないんですね?」
「昨日?」

 不意に飛び出した単語に、記憶を過去へと駆け巡らせる。
 昨日、昨日は。普通に朝起きて、学校行って、それで、それで――?

「あ、れ?」

 学校に、行って? その後は?
 思い出せない。どうしてもそこだけが黒のカーテンで仕切られたかのように思い出せない。
 まるでシーンが飛んだ映画のようだ。学校はこんなにも明確に思い出せるのに。
 首を捻り、視線は空中を彷徨う。上下左右を見渡して、室内を意味もなく見渡す。
行き着いた視線の果ては、透き通るような先輩の瞳だ。

「思い出せ、ないんですね。やっぱり」
「――みたい」

 はは、と薄く笑う。
 どこか自嘲気味でもある自分の声が空気に溶けていく。
 視線を逸らし、壁に架けられた時計を見ると時期授業が始まろうとしていた。どことなく重苦しさを感じた俺は、
何とはなしに立ち上がり校庭を見る。
 ――――その、瞬間。
 
『公園で倒れていたんですよ!』

 不意に。
 昨日の夜、秋葉に投げかけられた言葉が浮かび上がった。
 自分の部屋。殺風景な景色。横たわる身体。ぼんやりとした意識。
 微かに笑みを湛えた琥珀さんと壁際で静かに佇む翡翠、そしてその中で泣きそうな顔の秋葉が、俺に告げた言葉。
 公園で、俺は倒れていた? けどあれは、貧血じゃ?
 ――無くさぬよう、染み込ませるよう、公園という単語を頭の中で反復する。

「こう……えん……? 公園?」
「……――? どうしました、遠野君。公園ってことは、思い出したんですか?」

 思い出した? ――何を?
 先輩の言っていることがよく判らない。思い出すも何も、あれは貧血で倒れてただけじゃないのか。
 だったら別にそれは大したことじゃあないじゃないか。貧血なんて、いつものことなんだから――。
 
「ぐっ――!」

 突然、ずきんと頭が痛んだ。思わず頭を抱えると、よろめきそうになる身体を踏みとどめる。
 デカイ痛みは一瞬だけだったものの、ちくちくとした細かい痛みは未だ残っている状態だ。
 先輩が「遠野君!」と立ち上がり駆け寄ってきたが、俺はその動きを手で制した。
 思い出せないというのなら、……聞かなきゃならない。俺とあいつに、何があったのかを。

「遠野君。大丈夫ですか?」
「いや、大丈夫だよ。……それよりも、知ってるなら教えてくれないか先輩。昨日公園で俺に何があったんだ」
「…………」

 実際には一秒にも満たない、だが圧し掛かるような重い沈黙が確かに在った。その後で。
 俺の目を正面から見据えて、シエル先輩は静かに告げた。
 
 ――だがそれは、ある意味では宣告だったのである。

「もしかしたら、あなたにとっては辛い事実かもしれません。しかし、これは紛れもない事実です。……いいですか遠野君、
あなたは昨日アルクェイドを殺そうとしたんですよ。その手で」
「なっ…………!」
「……これは、昨日の夜、アルクェイド自身から直接聞いたことです。間違いはありません」
「……」
「昨日の夕方のことです。あなたと彼女がネロ・カオスを殺したあの場所を通りかかった時、急に遠野君が歩みを止めま
した。彼女は最初、気にも止めていなかったみたいですけどね。『何かあったのかな』程度に思ってたそうです。しかし、
苦しそうにする遠野君を見て気づいてしまった。彼女の中にある吸血種としての本能が異変を感知してしまった。ネロも
ロアも既にいないというのに、あなたの中にある殺人本能、いや、この場合は退魔本能ですね。それが発動した異変に」
「そ、そんな。だって今までは一度も――」

 そう、一度だって、そんな感覚抱くことはなかったのに。
 なのに、何故今になって。
 倒すべき敵が全て消えて、やっとこれからをあいつと二人で生きていけると思ってたのに。
 ――幸せに暮らせると、そう思ってたのに。

「ええ、そうでしょうね。だって、ついこないだまでは彼女以上に異端を孕んだ連中がいましたから。単純に、遠野君の
中にある七夜の血が排除すべき敵の優先順位を確立していたに過ぎないんです。ネロ・カオスは偶然とも呼べる産物でし
たが、それでも異端の中の異端には他なりません。体内に六百六十六の獣を内包する死徒二十七祖の第十位。本来なら人
の身にそれほどの因子を封じ込めることは不可能なんです。しかし六とは最小の完全数でもあり、だからこそ六に揃える
ことで派生し続ける混沌を自らの肉体の一部とすることを可能とした。原初の海とも例えられるその固有結界は、退魔の
血に反応するには十分すぎたんですよ。
 ロアもそうです。万物に平等に訪れるべきである『死』から外れ、死んでいるのに死なない魂を抱いてましたからね。
そんなの許される筈がありません」
「…………それで、二人がいなくなったから次はアルクェイドってことか」

 ――それじゃ、まるで。
 俺は、殺人鬼みたいじゃないか。
 ぐっと拳を握る。やり切れないもどかしさが耐えがたかった。
 先輩はほんの少し表情に変化を見せる。

「そうです。……先程も言いましたけど、今の彼女は純粋たる血統種ではありません。遠野君、あなたがこれを知っているか
どうかは判りませんけども、血を吸ってしまった真祖は『堕ちた真祖』と称されるんです。本来、真祖とは純血であるが故に
純血であろうとします。力の七割を自らの吸血衝動を抑えこむ為に使用するのはその為です。
 では何故、純血であろうとするのか。…………実は、そこの本当の所はわたし達にもまだ判っていません。しかし、限りなく
近いと思われる予測は出来ます。それは、真祖が『星の意思』であるということです」
「……星の…………意思?」

 先輩が頷く。

「ええ。星の意思とは、読んで字の如く『地球の思惑』です。つまり、余りにも巨大になり過ぎた人間という霊長類種を律
する為に生み出した『予防策』ということなんですよ。真祖とは確かに吸血種の一種ではありますが、その能力は死徒とは
比べ物になりません。比較対象にするのもバカらしいくらいです。アルクェイドがネロ・カオスやロアに切迫されて戦って
いたのは単純に、力を抑えこんでいたからです。まぁ、遠野君に殺されたのも関係ありますけどね」

 何気なく、思い出したくない事実を突きつけられる。
 だがそれは紛れもない事実であり、俺はそれに対して何かを反論することは出来ない。
 出来ることと言えば、痛いくらいに拳を握り締めるだけであった。

「しかし、です。その予防策であるが故に巨大すぎる力を持った真祖が、逆に予防するべき対象へと変わってしまったら?
答えはそこにあるんです。堕ちた真祖は、抑えこんでいた吸血衝動を解放した訳ですから、ということは、必然的に力を抑
えこむ必要性が皆無になるんですよ。そうなってしまった真祖は、もはや予防策では在りえません。
 とどのつまり、今の彼女はそういうことになります。それでも、今現在として吸血衝動は抑えている。それは間違いなく
遠野君がいるからでしょうね」
「……それは、あいつが俺を好きでいてくれてるからか?」
「はい。彼女は遠野君に好意を抱いています。だからこそ、ロアから取り戻した力も大半を使って吸血衝動を抑えこんでいる。
遠野君を失いたくない、その一心でね。
 ――そこで、話は戻ります。さっきわたしが言った言葉、覚えてますか? 殺されると判ってる人を、行かせることは出来ないと」

 こく、と。
 言葉もなく、音もなく、俺はただ一度頷いた。
 授業開始の鈴が鳴る。いやに響く鐘の音だ。
 だってのに、俺は一歩もここを動く気はなかった。

「殺される、か。けど先輩、昨日だって俺は、ほら、無事だったし。それに、今度はきっと退魔の血とやらも抑え――」
「――まだそんなこと言ってるんですか遠野君!」
「――っ!」

 バン、と大きな音を立てて先輩が畳を叩いた。
 突き刺すような視線と圧倒的な威圧感。
 萎縮された俺は、言葉を飲み込まざるを得なかった。
 空気が震えたような気さえする。ぞっとする感覚が、冷えながら背筋を伝った。

「はっきり言います。遠野君、今度こそあなたは殺されますよ。昨日はあなたの中に在る七夜の目覚めが不完全だったから助
かっただけなんです。もしも遠野志貴が完全に七夜志貴に成ってしまったら、――彼女は封印を解きます」
「……そ、そんな」
「わたしは直接見てはいませんから断定は出来ませんけれども。あのネロ・カオスを『殺した』事実、それに加え、――世界で最
も死を間近に視ることが出来る、必殺の『直死の魔眼』。この二つを前にしたら、ロアから力を取り戻したばかりで且つその力す
ら抑えこんだままの彼女では、幾らその身がアルクェイド・ブリュンスタッドとはいえ楽に勝てないことは明確です。それに、彼
女は死ぬ訳にはいかない。幾らロアに大半を滅ぼされたとはいえ、真祖は絶滅した訳ではないんですから。いつ又、堕ちた真祖が
現れるとも限らないんです。彼女、アルクェイドは元々執行者ですからね。
 もし、彼女が封印を解いたら。――――正直、七夜志貴でも適いません。レベルが違いすぎるんです。直死の魔眼を持ってして
 も、死を視ることすら出来なくなります。……判りましたか遠野君、つまり、勝ち目はないってことなんです」
「…………」
「だから。残念ですが、もう、彼女とは―ー」

 ――会うな、ってか?
 俺があいつを殺そうとする、するとあいつは俺を殺すから会うな、って?
 それは、きっと七夜の血を引いている以上ずっとそうなんだろう。そう、俺はあいつとは二度と会えないことになる。
 これまでの日々も忘れ、期待に満ちていた未来も捨て、俺とあいつは別々の道を歩むしか。
 …………会えない? アルクェイドには、もう会うことはない?
 ――じゃあ。
 又、あいつを一人ぼっちにするのか?
 楽しみを分かち合う相手もいずに? 感情を伝える相手もいずに? ただ眠るだけの生き方で?
 
「――は、はは」
「……遠野君?」

 ははははは。
 
 ――そんなのって、ない。
 
 星の意思? そんなもの、知らない。何から作られたとか、何から生まれたとか、そんなの関係ない。
 大切なのは、――そう、アルクェイドが今確実に一つの命として生きていることだけなんだ。
 ああ、思い出した。思い出したよ、アルクェイド。
 言っていた。お前は全てをわかった上で、俺に言ったんだ。そう、

『明日もここにいるから』

 と。
 俺は何を思っていたんだろう。俺は何を悲観に暮れていたんだろう。
 あいつはとっくに、覚悟が出来ていたんだ。
 異変があるのも、好きな男が自分を殺そうとしているのも、全て判った上で。
 それでも。
 それでも、あいつは来てほしいと口にしたんだ。
 だったら、――俺の取るべき行動は一つしかないじゃないか。

「遠野君、だからもう」
「…………――――ごめん、先輩」
「え? と、遠野君?」
 
 驚きに満ちる顔。さっきまでの鋭い視線も嘘のように消えて。
 慌てふためいたように表情を変える先輩は、いつものシエル先輩そのものだった。
 けどそれは、俺も同じ。
 あんなに萎縮していた心の中は、不思議なまでに落ち着きを見せていた。
 
「先輩が言ったように。どんなに足掻いても、結末は悲しみしかないのかもしれない。俺が殺されて終わるのが必然だと思う。
――でもね、先輩。俺思い出したんだ、公園での出来事。頭が熱くなって、愛してる女を殺したくてたまらなくて。自分が自
分じゃないような感覚に支配されて、俺はあいつにナイフを振り下ろした。そんな、……最悪なことしたんだ。でも、あいつ
は俺に言った。『明日もここにいるから』って。だから、俺はそれに答えなくちゃいけない。例え、どんな結末が待っていよ
うとも、さ」
「――っ! だ、駄目です! 行ったら本当に殺されちゃいますよ! 妹さんだって悲しみ、いいえ、遠野君の周り皆が悲し
むんです!」
「……ごめん、先輩」
「――――! …………はぁ。……これだけ言っても、駄目、なんですね」

 がっくりと、項垂れながら頭を垂れる。
 その様子に、俺は思わず声をかけそうになった。
 しかし、予想に反して先輩は即座に顔を上げた。そして。

「判りました。遠野君みたいなバカは、死ねばいいんです」

 と、さっきまでとは正反対のことを告げたのである。
 
「せ、先輩?」

 その変わりっぷりに、思わず呆気に取られる。
 何とか言葉を返そうとするのだが、上手く言葉が出てきてくれない。
 するとその間に先輩はかちゃかちゃと小気味のいい音を立てて湯のみやらお盆やらを片付け始めた。

「これだけ心配して注意してあげたのに、まだ判ってないんですもん。バカは死んでも治らないって言いますけど、本当だっ
たんですね」

 なんて、変わらぬ顔で言ってくれる。
 どうしたらいいのか判らずに、俺はただ「ごめん」と謝った。 
 すると先輩は首を振り、

「謝らないでください。これは遠野君が選んだ道なんですから。でも、わたしはバカだと思います。だから遠野君のことをバ
カだと言うんです」

 と言った。
 俺はそれに、頷くことしか出来ない。
 
「ああ。……俺は、バカ、なんだろうな」
「ええ、そうです。全く、吸血鬼を好きになって命まで賭けるなんてわたし見たことありませんよ」
「――――それでも、俺は」

 そこで、先輩は言葉を遮るように掌を俺に押し出した。
 視界一杯に広がる小さくて綺麗な手。先輩の顔は見えない。
 言葉を飲み込んでしまった俺に、言葉が聞こえてきた。その口調は、不思議と優しかった。

「……本当。遠野君は、とてつもないバカです。救いきれない程のバカなんです。だから、わたしはこんなもんじゃ全然言い
足りません、遠野君」
「――へ?」

 掌が、すっと下がる。
 そこに現れた先輩は。

 いつものように、優しい笑みを浮かべていた。

「帰ってきてください。バカ、って言いたいんですから」
「……――ああ」

 報いるように。答えるように。
 先輩に向けて、俺も精一杯の笑顔で答えた。
 本当に、シエル先輩には何度頭を下げても足りない。
 ここまで忠告してもらって、俺の身を案じてもらって。
 ありがとうの一言だけじゃ足りないくらいに、俺はこの人に感謝しなければならないんだ。
 ――だからこそ。
 俺は、アルクェイドと会わなければならない。
 方法も判らないし、結末も予測出来ないけど。それでも、俺は行かなきゃならない。
 七夜の血を、無事に乗り越えなければならないんだ。

「さて。じゃあわたしは、茶道室を綺麗にしてから行きますから。遠野君は先に教室帰っててください。
もう授業始まってますから、サボりはいけません」

 そう言って、先輩は背中を見せた。
 それが合図なんだと何となく判断し、俺も「先輩、また」と告げて背中を向ける。
 ドアに手をかける。カラカラと音を立てながらスライドするドアを開いて、俺は廊下へと足を踏み入れる。
 冷えた空気が身体を包んだ。廊下には相変わらず人の姿はない。
 後ろ手に、開けたドアをゆっくりと閉めた。――その時。

「ええ、またです」

 包むように柔らかな先輩の声が、微かに聞こえた気がした。
 
 閉められたドア。無機質な、だけど確かに中と外を隔てている一枚の壁が目の前にある。
 一つ、深呼吸をした。茶道室と銘打たれた上部のプレートを見て、ゆっくりと歩き始める。
 またここに戻ってくると、心の中で呟きながら。

 ――――例えその先に、死が待ち受けていようとも。

 俺は、判っていなかった。
 先輩に言われたことの意味を、十分に理解していなかった。
 愛する人と会えなくなるという辛さを、判らずにいたのだから。
  
 でも。だからこそ。

 俺はそこで、アルクェイドには生きててほしいと改めて思えたんだ――。






作者さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル投稿小説感想板
に下さると嬉しいです。