月姫―青の空下T―
「…………ん」
ふと、目が覚めた。
おぼろげな意識のまま眼鏡を取り、カーテンに目をくれる。
薄青色をした布の端からは、朝を告げる太陽の光が細く漏れていた。
どうやら、気づかぬ間に俺は再び眠ってしまっていたらしい。
枕元の時計を見ると、針は共に六の数字を指している。
いつもの起床よりも少し早いが、風呂でも入ってさっぱりするにはちょうど良い時間だと思った。
「学校も……行かなきゃな」
誰に言うでもなくそう呟いて、数度頭を振り意識をクリアにさせていく。
部屋の中を見れば、翡翠の姿はどこにも見当たらない。
多分、俺が眠ったのを確認して部屋に戻ったのだろう。
未だ残る気だるい疲労感を節々に感じながら、無理やりに体を起こした。
【月姫―『青の空下T』―under the blue―】
階段を降りるとロビーには琥珀さんの後姿があった。
どこか調子の外れたメロディーを口ずさみながら、無邪気に箒をかけている。
近づいていくも、俺がいる事にはどうやら気づいていない様だった。
「〜〜〜♪」
……にしても。これ、何の歌だ?
全く持って耳にした覚えが無い。
まぁ、もしかしたら最近ではなく過去に流行ったものなのかもしれないけど。
……琥珀さんがこの若さで懐メロを歌うってのは、正直違和感があるなぁ。
「お早う、琥珀さん」
そう言って声をかけると、琥珀さんの動きが止まりこちらを振り返った。
相も変わらず一輪の向日葵の様な、眩しい笑顔である。
「あら、志貴さんお早うございます。お身体の方はもう平気なんですか?」
「はい、昨日は心配かけました。身体の方はもう大丈夫みたいです」
詭弁である。正直、まだ万全という訳ではない。
しかし、だからと言って動けない訳ではない。
ぬめりがある気だるさが残っている程度だったので、平気な振りをした。
「そうですかー、それは良かった。あまり秋葉様に心配かけちゃいけませんよ」
「あはは。そうですね、気をつけます」
「はい、気をつけてください。秋葉様は凄く志貴さんの事心配してらっしゃったんですから」
「みたい……ですね」
不意に。昨日の夜を思い出す。
秋葉の目に、うっすらと溜まった涙。それが今にも溢れんばかりに揺れて。
荒い語気の中にも、本意に俺の身体を心配する意思が見えた。
再開した当初の美麗たる姿は無く、ただただ歳相応の少女がそこにいた。
「…………それに、ですね」
「――それに?」
と、琥珀さんがずいと身体を近づけてきた。
それと同時に、空気に乗って甘い香りが飛び込んでくる。
目の前には整った顔立ちの少女。意味もなく、鼓動が高鳴るのを感じる。
琥珀さんは、俺がそんな状態とは露知らず。
右手の人差し指を立て、二人の顔の間に滑らせながらこう言った。
「………秋葉様は、怒ると怖いんです」
「…………ぷっ。はは、ははは」
「あ、笑っちゃ駄目ですよ。志貴さん」
「あはは。いや、そうだと思ってさ。確かに秋葉は怒ると怖いし。特に――」
「――特に、の次は何ですか? 兄さん」
「―――――! あああ、秋葉!?」
瞬の速さで声の方を振り返る。その姿は、ついさっき俺が降りてきた階段の二段目に。
まるで不機嫌の文字を体言したかの様な雰囲気を持ちながら、腕を組んで俺を見下ろしていた。
「ええ。わたしです。何を驚く事があるんです? 幽霊でも見た訳じゃあるまいし。
で、兄さん? わたしは特に、の後に続く言葉が是非聞きたいんですけれど?」
「う――――」
何も言い返せない。
「どうなさったんですか? わたしに遠慮なんてしないで、どうぞ続けてください」
言葉の節に、明らかな敵意がある。
いや。言葉なんて耳にしなくても、その雰囲気が既に代弁している。
……やばい。
秋葉の奴、めちゃくちゃ不機嫌じゃないか。
いや、まぁ俺が悪いんだけど。
秋葉を直視出来ずに、横目で琥珀さんを見た。
「?」
琥珀さんは、今の状況をわかっているのかいないのか、先程と変わらず笑顔でそこに立っていた。
視線が合うと、小首を傾げて俺の様子を伺っている。
「琥珀がどうかしたんですか兄さん」
「あ、いや……」
威圧のある声に、再度顔を不機嫌な少女へと向ける。
情けない。これじゃまるで蛇に睨まれた蛙である。
実は秋葉が俺の姉なんじゃないのか、なんて錯覚さえしてくる。
とりあえず、この場から脱却を図ろう。じゃないと、俺の胃がもたない。
「あー……琥珀さん、風呂って入れる?」
「お風呂ですか? はい、大丈夫ですよ」
「そっかそっか。じゃあ、俺は清々しい一日を迎える為に、風呂に入ってくるよ」
大根も真っ青の演技で踵を返し、歩き出す。
背後からは「ちょっと兄さん!」なんて怒鳴る声が聞こえるが、この際それは無視する事にした。
桶に溜めた冷水を、勢いよく頭から被る。
身震いする程の冷たさと引き換えに、まだ残るまどろみから抜け出す事が出来た。
クリアになる思考。心なしか、身体の方も若干楽になった気がする。
湯船に入り、肩まで漬かると意味もなく安堵のため息を漏らした。
「やれやれ……。秋葉には何て言うべきか」
つい先ほどのやりとりを思い出し、思わず気が重くなる。
俺が悪い事には変わりないのだが、いかんせん相手が悪すぎる。
秋葉の事だ、謝った所でそう簡単には許してはくれないだろう。
その後しばらくは俺に対する愚痴に付き合わざるを得まい。
「……ふう」
不安のため息を、緩やかに漏らす。
湯船の縁、ひのきの木目が露になった部分に首を預けた。
―――と。
「いつっ」
不意に。首の背骨が浮き出ている辺りがずきりと痛んだ。
反射的に手を当て、何かあるかと探る。
「……何も、ないな」
上下左右に何度か四指で探りを入れてみるものの、特に異物感は感じない。
腫れている訳でも、切り傷があるという様子でも無かった。
湯船に使われているひのきが棘として刺さったかとも思ったのだが、それも違う様だった。
しかし、首を後ろに曲げると確かに痛みがある。
不可解な刺激に首を捻りつつ、しばしの湯治に身体を休めた。
「――それじゃ行ってくる。見送りありがとう翡翠」
「いってらっしゃいませ志貴様」
いつもと同じ、翡翠はふかぶかと頭を下げて俺が学校へ行くのを見送ってくれる。
未だこそばゆい感覚は拭えないが、少しずつこれに慣れつつあるのも否めない所だ。
そう考えれば、俺は遠野の人間っぽくなってきているのだろうか。
「――いや。よそう、俺は俺。遠野志貴だ」
変わったつもりも、偉くなったつもりもない。
俺は遠野の人間だが、「今まで生きてきた遠野志貴」が本当の俺だと思っている。
「さて。学校も久しぶりだな」
誰に、という訳ではなくただ呟いて通学路を一人歩き出した。
空は晴天。秋の朝特有の、冷えが混じった淀みのない空気が鼻を抜けていく。
秋葉はと言うと、あれだけどうしようか悩んだ末に風呂を出てみると先に学校へと向かっていた。
おかげで俺の心配は杞憂に終わったのだが、何となく心の隅っこが虚しくもあった。
琥珀さんの声で食堂に向かい、これもいつもの様に朝食を胃に収める。
皺のない制服に袖を通し、鞄を持って今にいたるという訳だ。
しばし、何も考えずに学校への道を歩く。
辺りにはちらほらと同じ制服の生徒が見え隠れしている。
それが数人から数十人と膨れ上がった辺りで、視界の中に学校を捉えた。
教室に入ると、たった数日休んでいただけなのにえらく懐かしく感じる。
何だろうか、この薄っぺらな浦島太郎的感覚は。
貧血で倒れて戻ってきた時とは違う、異質な雰囲気がある。
ふうと小さく息をついて席に座り、外を眺め始めた時これまた懐かしい悪友の声が聞こえてきた。
「よう、さぼり魔。元気そうじゃないか。てっきりくたばったのかと思って俺泣いちゃうとこだったぞ」
「……何だ有彦。久しぶりだな」
オレンジの髪にピアス。世間的に言えば不良のポジションを座間した有彦。
目つきも悪いそんな風体の奴に、泣いちゃうと言われれば鳥肌が立つのは自明の理である。
「そりゃそうだろう。お前ここ数日学校来てないんだから」
「まぁ、ちょっと体調悪くてな」
「そうかい。まぁ何かあったら俺がお前を運んでやるから安心しておけ」
いや、それは遠慮する。
「遠野に会えない学校なんて、何の意味もないんだよ。全く、お前も俺に対してもう少し
優しくするとだな、俺もお前に対する愛情の深さがより一層」
「ちょっと待て。頼むからそれ以上は口にするな。俺を凍死させる気か」
「凍死? 大丈夫だ、その前に俺が暖めてやるから」
……こいつは本気で言っているのだろうか。
だとしたら、付き合いを考えなければいけまい。
……うん、大丈夫だ有彦。俺はお前をあっさりと切り捨てるからな。
「遠野、お前今すごく失礼な事思ってないか?」
「いや、別に」
「ふん。まぁいいや。お大事にな」
満足したのか、有彦は自分の席へと戻っていく。
心配してくれたのかしていないのかわからない。
まぁ、あいつが俺を心配なんて考えただけで寒いから止めておこう。
――昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響く。
それと同時に、何人かの生徒は駆ける様にして教室を出て行った。
俺はと言うと、別に急ぐこともなくゆったりとした足取りで教室を出る。
―――と。
「久しぶりですね、遠野君」
廊下に出た瞬間、これまた懐かしいシエル先輩に声をかけられた。
この人も相変わらず、ほんわかとした柔らかい雰囲気を纏っている。
「あぁ、久しぶりだね先輩」
「ここ何日か見なかったので、心配したんですよ。もう、お寝坊さんなんですから」
「……お寝坊って、いや、あの、先輩?」
「乾君から聞きましたよ。何でも、二度寝しちゃうとしばらくは起きないんですってね。
でも遠野君。だからと言って学校を休んだら駄目です。学生は勉強が本分なんですから」
「…………」
後で、有彦のやつを殴っておこう。
「まあそれはさておき。遠野君、お昼は食べましたか?」
「いや、まだ。これから食べるとこだよ。先輩は?」
「わたしもまだなんです。じゃあ、一緒に食べましょうか」
笑顔の先輩にそう言われては、断る理由なんてこれっぽっちもない。
踵を返し歩いていく先輩について、廊下を歩いていく。
先を歩く先輩は、鼻歌なんか歌ったりして機嫌良さげだった。
青い髪が、一歩踏む度に右へ左へと揺れている。
互いの距離も近い為か、時折脳髄を刺激する様な甘い香りが漂ってくる。
普段、先輩を女として意識した事がないだけにこういった突発的な刺激は非常にドギマギする。
目を合わせる訳でもないのに、何故か視線を外へ移した。
「――で、遠野君。ご飯は何にするんですか?」
「え? あ、ああ。またパンでも買ってくるつもりだけど」
「なるほど。パンですか。……じゃあ遠野君、ここで一旦別れませんか? わたしは茶道室でお茶の
準備してますから、遠野君わたしの分もパンを買ってきてくれると嬉しいです。あ、勿論お金は出しますよ」
顔の前で、銀色に光る鍵をぶら下げている。
なるほど、これが茶道室の鍵って事か。
うん、それなら二度手間にならずに済むし尚更効率が良い。
「わかった。じゃあ行ってくるよ。先輩は何が」
「カレーパン」
「へ?」
即答、とは今の先輩の為にある言葉なんじゃないだろうか。
いや、即答すら生ぬるい。何だろう、瞬答?……そんな言葉ないけど。
「あ、すいません。聞こえづらかったですよね。えーっと……カレーが入ったパンで」
要するに。
カレーが入っていないパンは買ってくるなという事か。
知らなかった。先輩ってカレー好きなんだな。
「何か抽象的すぎる気もするけど、とりあえず行ってくる。あ、お金は後で良いから」
「はい。じゃあわたしはお部屋で準備して待ってますね。あ、そうだ遠野君」
最後、俺の名前を口にした時。
先輩の声のトーンが、いつもよりも低く落ちた。
「後で、遠野君に少しお話があります。良いですか?」
「……まぁ、別にかまわないけど」
俺がそう告げると、先輩の声は再び馴染みのある和やかなものに戻った。
「そうですか、良かった。じゃあ、カレーパンよろしくお願いしますね」
そう言って、先輩は笑顔を崩す事なくひらひらと手を振る。
何か意味合いを含んだ先輩の言葉を問いただしてみたくもあったが、
今はとりあえず手を振り返すと茶道室を横目に購買へと向かった。
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