空が遠い。
はるか彼方までを覆う鉛色に膨れ上がったそれ。
その中に置いて、確固たる存在を持ち輝くは銀の真円。
何も語ることはない。
だが、誰よりも真実を知っている。
比類なき永劫に囚われた姫君よ今ここに。
―――さあ、殺しあおう。
不変たりうる『死』、万物の『理想』
死は未来。未来は死実。
固定される事のない事柄は、幾重にも変動する。
―――さあ、殺しあおう。
直死の眼を抱き、断絶するは死のカタストロフ。
万物の理想を抱いた真祖の姫君は、深更の中で終幕へ還らん。
【月姫―『殺人概念T』―Murder License―】
月。
赤の月。
血色に似た深遠の緋色。
あぁ、何故こんなにも赤い――のか。
時刻は夕暮れ。宵闇が迫る。
背筋を這いずり廻る愚者の群れが理性を奪う。
殺せ。殺せ。殺セ。ころセ。コロセ。コロセ。
眼の前の女を欲望のままに――――殺せ。
「ぐっ……う――! はっ―ハッ――!」
金色の髪。根源たる白の肌。
空のあれに比べ、より純度の高い紅眼。
なだらかな曲線。女性だけが持つ――その身体。
全てが誘惑。全てが媚薬。
女の存在が、俺の理性を根元から剥がしていく――。
殺せ。殺、せ。ころ、せ。こ、ろ、せ。
「があっ――!」
心臓は破裂せんばかりに脈動を続ける。
身体が燃え尽きるが如く熱い。
微汗は滴となりて頬を伝い。
滴は一点の彩色となりてアスファルトへ沈む。
視界に映る景色は流転し、虚無へと到る――。
「くすくす……。どうしたの志貴。あたしが――怖いの?」
微かに眼を開ければ、女、獲物、女、はさっきから俺を見て笑っている。
くそっ……何が、おかしいんだ。こいつ――。
あぁ、この女を見てるとイライラする。イライラ、する。
女? 何を言っている。あれは、獲物。殺すべき、獲物。
―――いや、違う……。あれは、アルクェイ――獲物――ド、じゃないか。
「ぐうっ――! だ―まれ――!」
俺は――何を。
何を――しよう、と。
「冗談はここまでね。志貴、衝動が出てるわ。このままだと貴方の脳が耐えられなくなるわよ」
―――脳?
脳なんて――もう、あって、ないような、もん、だ。
あぁ――それより、今すぐお前を殺す。
身体が欲している。殺人欲求を満たせと、際限なく訴え続けてくる。
「このままだと貴方を失ってしまう。そんなのは私がお断りなの」
―――何、を言って、いる。
その唇は、今、なんて、言った。
封じなければ。封じなければ。
あの、小うるさい口、を黙らせなければ。そう。
「だから今日は帰るわ。あたしは明日もここにいるから、来れたらきてちょうだい」
―――永遠に。
「――志貴!?」
瞬間。
自分のモノとは思えない速度で、女に斬りかかる。
右手にあるナイフを、右斜め上から振りおろす。
「ちょっと! 志貴!」
だが女は流れる様な動きでそれを避ける。
――逃がさない。
即座にナイフを逆手に持ち替え、逆に振り上げる形で斬る。
そう、寸断する為に。微塵も生かしておくつもりはない。
「――駄目か。何言っても、無駄って訳ね」
それすらも寸前で避けた女は、数歩下がり間合いを取った。
先ほどまでと打ってかわって、紅眼が確かな意思を秘める。
「せっかく回復しかけたけど仕方ないわね。もう! 何だってこんな時に!」
言って、女――――女?
―――――――――いない。
いない。まばたきすらしてないのに、いない。
消失。その表現のままに、女の姿が消えた。
――――と。
「ちょっとだけ、眠ってもらうわよ。志貴」
「ぐっ」
背後から首筋を何かで小突かれる感触。
一瞬にして視界は闇に閉ざされ、地面に吸い込まれていく。
右手に握るナイフが落ちた音を聴いて、意識は底へ沈んでいった。
「……どう? 琥珀」
「そうですね、身体の方は何ともありませんから多分貧血ではないでしょうか」
「そう……。それならいいのだけれど」
……秋葉と琥珀さんの声が聞こえる。
貧血って……俺の事か?
何だ……俺また倒れたのか。
―――え? 倒れた?
―――――どこで?
「う―――」
「兄さん? 気づきましたか?」
「……秋…葉」
「そうです。身体の方はどうですか兄さん」
言われて身体を動かしてみる。
首から順に、一つ一つを確認する様に。
しかし。どうやら満足に動いてくれるところは見当たらなかった。
「ちょっ……と、まだ無理、みたいだ」
「無理はしないで。今日はこのままお休みになってください。翡翠を残しておきますから」
「……いや、それはいい。一人で、大丈夫だ」
「何を言ってるんですか兄さん! そんな身体で強がらないでください。
兄さん覚えてますか? 公園で倒れてたんですよ。それで、一人にしておける訳ないじゃないですか……!」
見ると、秋葉の目にはうっすらと涙が溜まっている。
……そう、か。俺は、公園で倒れていたのか。
公園という単語を手がかりに記憶の糸を手繰り寄せてみる。
……しかし、その部分だけはどうしても思い出すことが出来なかった。
まるで黒のカーテンで仕切られているかの様に。
記憶の螺旋から、ぽっかりと穴が空いてしまっていた。
「わかった……。じゃあ、何かあったら翡翠に頼むとするよ」
「ええ。是非そうしてください。……じゃあ翡翠、兄さんを頼むわね」
「かしこまりました」
言って、秋葉がいなくなる。
翡翠はというと、俺が気にならない程度の場所で静かに佇んでいた。
――まぁ、何を言っても仕方ない。
今日はこのまま。秋葉の言うとおりに休むとしよう――。
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