――――あれから2週間が過ぎた。
秋葉は、未だ戻る事はなかった。
髪は赤いまま。感情も欠落している。
どうしようもない程にリアルな――人形。
血を与え続けても。飲む量だけが、日増しに増えていくだけだった。
それが悲しくて。気を抜けば、即座に泣いてしまいそうな程に悲しくて。
いつか、秋葉が元の遠野秋葉に戻ってくれると信じていても。
「兄さんの心配なんてしてませんっ」
そんな、秋葉らしい憎まれ口を叩いてくれると信じていても。
俺は、悲しみを堪える事が出来なかった。
何故なら。
身体が、わかっていた。
他ならぬ遠野志貴自身が、わかっていた。
秋葉に血を上げられる日は、もう多くないんだという事を。
【an epilogue〜秋夜の月〜】
「志貴様。起きていらっしゃいますか」
コンコン、とドアを叩く音がする。翡翠の声だった。
「翡翠か。起きてるよ」
「――失礼します」
入ってきた翡翠は、痛ましそうな顔で身体を起こす俺を見る。
何だろう、俺は今、そんなにも具合が悪そうに見えるのだろうか。
まぁ確かに良いとは言えないけれど。
今でも頭は重いし、身体全体のだるさもひどかった。
それでも、極力平気な振りをしなければならない。
「何か用? あ、それとも秋葉、もう血が欲しくなった?」
「……いえ。秋葉さまは現在お休みになっておられます。ご安心ください」
「そう。じゃあ、俺もまだ休めるか」
「はい……。あの、志貴さま。体調の程はいかがでしょうか」
―――ああ、なるほど。
翡翠は、俺の体調を心配して見に来てくれたらしい。
ありがたい。素直にそう思う。
「大丈夫、もう少し経てばちゃんと起きれると思う」
「そう――ですか」
見ると、翡翠の目は伏見がちになっていた。
何てわかりやすいんだろう。
そんあ翡翠を少しでも安心させようと、無理やり笑顔を作る。
「本当、大丈夫だから。翡翠も、仕事に戻っていい」
「……はい、かしこまりました。では、何かあったらお呼びください」
ふかぶかと頭を下げる。
失礼します、と最後に述べてから部屋を出て行った。
「――ふう」
一度、大きく息をついて、再びベッドに寝転がる。
無機質な天井が、視界一面を覆った。
そのまましばらく眺めていると、自然と睡魔が襲ってくる。
……今は、身体を休めよう。
目蓋を閉じて全身の力を抜けば、後は緩やかに坂道をおちていくだけだった。
……………………
……………………
……………………少しだけ、懐かしい夢を見た。
まだ秋葉が、遠野秋葉として生きていた頃の夢。
それが、額縁に飾られた写真の様に、切り取られていった。
青い記憶。淡い情景が、脳裏に浮かんでいく。
「手紙を送ったはずですけど、返事は一つもきませんでしたね」
「ええ。あのシエルという人は好きになれません」
「私にとっての兄さんは、あなただけなんです――!」
……あぁ……これだ。
俺が愛した秋葉。
8年間も、待っていて。
転校までして、俺の傍にいて。
怒った顔も。笑った顔も。全てが俺に向けられていた。
「――――殺してください」
瞬間。
あの言葉が浮かび上がる。
わたしが人でなくなってしまった時はと、秋葉は言った。
……俺は、それを守らなかった。守れなかった。
どんな姿でも、秋葉に生きていてほしかった。
――それは、自分勝手なのかもしれない。
秋葉。お前は、俺を恨んでいるんだろうか――。
「――貴さん。大丈夫ですか、志貴さん」
「……ん」
何かに揺すられる感覚がして、目を覚ます。
そこには、心配そうな顔をしている琥珀さんの姿があった。
俺が起きた事に気づくと、笑顔に変わる。
「あぁ良かった。様子を見にきたら苦しそうな顔をしてたので、心配したんです」
どうやら、俺はそんな寝顔をしていたらしい。あんな夢を見たからだろうか。
……まぁ何にせよ、余り琥珀さんに心配をかける訳にはいかない。
枕元の時計を見ると、針は深夜零時を指している。外はすっかり、闇に包まれていた。
部屋の明かりは無く。ただ外から差し込む月光だけが、室内をかすかに照らしていた。
「ありがとう琥珀さん。もう大丈夫です」
そう言って、身体を起こす。
――――と。
起こした上半身は、そのまま力なく前に倒れていった。
膝に額がつく形で、両手はお腹の辺りに力なく置かれている。
「あれ――?」
「どうしたんですか? 志貴さん」
何とか顔だけを琥珀さんの方へ向ける。それだけなのに、かなりの力を要した。
「どうやら……まだ身体が万全じゃないみたいです」
琥珀さんはそれを聞いて、ふふっと笑う。
「志貴さん、昨日は秋葉さまにずいぶん血をあげてらっしゃいましたよね。それの反動が来たんです、きっと」
「そう……なんですかね」
「とりあえず、そのままだと苦しいですから元に戻しますね」
言って、琥珀さんが俺の身体を再び元の体勢に寝かせた。
シーツを整えた後、扉まで歩いていく。
「今お薬お持ちしますから。安静にしててくださいね」
そう言って、琥珀さんは笑顔で部屋から出て行った。
―――――まいった。
さっき翡翠が来た時はまだ何とか動けたのに。
俺は、身体を動かせなくなってきている。
……コチ……コチ……コチ。
時計の音だけが、静寂の部屋に色彩を齎す。
闇に慣れた目は、殺風景な部屋をどこともなく見渡していた。
何て空虚で――儚げな景色。
……コチ……コチ……コチ。
――――頭の奥が、ぼうっとしている。
熱病に侵された様に、脳全体にもやがかかっている。
身体がダルイ。動かす事すら面倒に思える。
……コチ……コチ……コチ。
時間が、永遠にも瞬間にも感じる。
空は、無慈悲に重力を降らせて身体を縛り付ける。
……コチ……コチ……コチ。
――あぁ、そろそろ秋葉の食事だ――血を、飲ませなければ――。
……コチ……コチ……コチ………………コチ。
不意に。
痛絶が、頭を襲った。
「ぐっ――う!」
それは。何て。何て、痛み。
ハンマー。鈍器。ナイフ。刃物。
違う……そんな生易しいものじゃ……ない。
削岩機で削り取られる。プレスで押しつぶされる。
何度も。何度も。何度も。何度も。
痛い。
痛い。
痛い。
痛イ。
いたイ。
イタイ――――。
「あ――――――」
だ、駄目、だ……。
このまま、じゃ……壊れ……。
「志貴さま!?」
その時。
部屋に入ってきた翡翠が俺に気づき、慌てて駆け込んできた。
近くに来ると、俺の顔を覗き込む。
――そこで、気がつく。
翡翠の顔は、うっすらと汗をかいていた。
……何だろう、何か、あったのだろうか。
と、そんな翡翠を見ている内に。不思議にも、俺の頭痛は収束を見せた。
「志貴さま、大丈夫ですか?」
「……あぁ、何とか。少しは、良くなったよ。ありがとう翡翠」
「無理はなさらないでください。今お薬を――」
そう言った時。
翡翠の動きが。ぴたりと止まった。
「――翡翠?」
「……そ、そうです志貴さま。姉さんが」
「琥珀さん? 琥珀さんならさっき――」
――――さっき?
――――さっきって――いつだ。
窓。外は闇。
琥珀さんが来た時と、なんら変わりない侵食具合。
―――どくん。
そういえば琥珀さんが、戻って――こない。
薬を取りに行っただけの筈。
じゃあ。
そんなに、時間はかからないじゃないか。
―――どくん。
今。今は何時だ。
時計は。時計は――――1時。
―――どくん――どくん。
そんな……もう1時間も経ったのか。
じゃあ琥珀さんは今、何を―――――――。
「志貴さま!?」
頭が制止するよりも早く。
身体が動き出していた。
激痛の本流と引き換えに、身体を動かす。
翡翠の声を背に、脱兎の如く駆け出した。
「はぁ……はぁ……」
離れの屋敷は暗く静まり返っていた。
だが。
確実な気配だけが、屋敷の中でうごめいている。
足を踏み入れる。
月明かりだけが、部屋の中を照らしている。
そこでは。
「あ――志貴、さん……」
琥珀さんが、秋葉に、血を――吸われていた。
「琥珀さん……なんで」
「ごめんなさい……志貴さん。秋葉お嬢さまに、志貴さん以外の血を飲んで欲しくない
気持ちは知っていました。ですが、今日は……運が、悪かったんです」
「ど、どういう――」
「秋葉お嬢さまが、血を吸う為に動き出してしまったんです。わたしが見つけた時、
もう少しで……家を出てしまわれる寸前でした。急いでそれを制止した時、お嬢さまは
わたしの腕に噛み付いて、血を……吸い始めたんです。」
「―――――――――」
「それを振りほどいたら、お嬢さまは街に出てしまいます……。それを避けるには、この
方法……しかありませんでした。志貴さまはまだ動ける、状態ではありませんでしたから、
わたし、が血を……与える事……にしたん、です」
言葉が、出ない。
俺が、俺が不甲斐ないばかりに。
琥珀さんに――犠牲を強いる羽目になってしまった――。
「――――志貴さん……ごめん、なさい」
――え?
「もう――限界、みたい、です」
そう言って。
琥珀さんは、気を失った。
秋葉に血を吸われながらも。
ぱた、と。
その華奢な身体だけが、畳の上に転がった。
――――。
――――俺の、せい、だ。
涙がこみあげる。
秋葉には、俺以外の血は飲ませたくなかったのに。
飲ませてしまった。
それも、身近な人の血を。
俺は秋葉に近寄ると、その口を琥珀さんの腕から引き離した。
それに反応して、秋葉の目が敵意を含んだものに変わる。
だが、今はそれに構っている暇はなかった。
「琥珀さん……琥珀さん!」
必死に、呼びかけた。肩を掴んで、何度も揺らす。
何度も。何度も。
蒼白の顔。髪の赤と対称的に、何てシロいのか。
どれだけの間、血を吸われていたのかわからない。
だけど。
メガネを外して見ると、死の線がまだ広がっていない事だけが、何よりの救いだった。
生きてる。手当てをすれば、琥珀さんは助かる。
思わず。安堵のため息を吐く。
「ぐっ――――!」
不意に。首を痛みが襲った。
肉が抉られる。純粋な赤の血肉が露になる。
あふれ出す果汁の如き血液を、啜られていく。
背中には重み。肩には細い指先。
赤い髪が、ちらりと見え隠れする。
……あき……は。
まだ、まだ、飲み足りないのか。
琥珀さんが、気を失う程に飲んだっていうのに。
秋葉……やっぱりもう…………戻らないのか……?
ふと、そんな考えがよぎった。
だが、すぐに頭を振ってそれを打ち消す。
「――――飲め、秋葉。俺の血だったら……幾らでもいい」
秋葉は戻る。遠野秋葉へと、戻る、んだ。
俺が信じなくなったら――誰が、信じると言うんだ。
守ると決めた。償うと決めた。
8年間、ほったらかしだった分を、これから埋めていく。
だから、きっと秋葉は治る。
――後ろでしがみ付く秋葉を、無理やり後ろ手で引き寄せる。
秋葉はそれに一瞬驚いた様子を見せたが、すぐにまた血を飲み始めた。
――――体内から血液を吸いだされる感覚。
それは、例えようもない程におぞましい。
血管というチューブの中を蟲が這いでてゆく。
指先が冷える。急激な速度で死へ進行するのがわかる。
尊厳も。権利も。意思も。自由も。
全てを略奪する行為。
――こんなの。
本来は、あってはいけないんだ――。
―――静かに、ゆっくり立ち上がると、おんぶの状態で秋葉を背負った。
「秋葉……外に出よう」
赤い髪をした妹に、静かに告げる。
未だ気絶している琥珀さんに、ごめん、と言って屋敷を後にした。
「志貴さま――!」
外に出ると、ちょうど翡翠と出くわした。
何ていいタイミングだろう。これで、琥珀さんを診ててもらえる。
翡翠は、俺の顔を見た後に、背中にいる秋葉の顔を見た。
「秋葉お嬢さま……」
悲しみ、の表情で。
翡翠は、以前の秋葉を思い出す様に下を向いた。
「……翡翠。中に、琥珀さんがいる。気を失ってるから、診てやってくれ」
「……あ……はい。かしこまりました。でも、志貴さまは……?」
「秋葉が、空を見たいって言うんだ。だから、ちょっと連れてく」
そう言った俺の顔を、翡翠は正面から見据えた。
ほんの少しだけそうした後、翡翠は屋敷の中へと入っていく。
――その時。
翡翠が、最後にぽつりと言った。
「――帰ってきてください」
――――ありがとう。
琥珀さんを、頼む。
――――そこは。
あの日。秋葉が、人でなくなってしまった日と同じだった。
まるで、タイムスリップしたかの様に。
何も――変わっていなかった。
紅葉の木々。落ち葉が地面を埋め尽くして。
赤い色。
一面黒のキャンバスに、赤の装飾が施されている。
周りが木々に囲まれた中、上を見れば。
銀色に輝く月が、俺と秋葉をかすかに照らしてくれていた。
「秋葉。お前は……俺の為に、命を分けてくれたんだよな」
……秋葉からは、何も返ってこない。そんなのは、わかりきっていた。
それでも。
意味がないとしても。
俺は、秋葉に話し続けていたかった。
「俺がここに戻ってきてから、まだほんの少ししか経ってないんだよな。
秋葉は変わってて、昔の面影なんてこれっぽっちも無かった。」
秋葉は、変わらず俺の首から血を吸い続けている。
もう、どれだけ経っただろう。
俺の手足は冷たくて。もう、感覚なんてほとんど残っていなかった。
「まさか転校してくるなんて、思いもしなかった。あん時は、本当に驚いたぞ。
秋葉は平気な顔してるしさ。当たり前の顔で、いつもみたいに文句言って」
――。
「初めてシキが俺の前に現れた日、秋葉は言った。俺と同じ、人間でありたいって」
――あぁ。
「けどそんなのは、関係ないんだ。たとえ秋葉が、遠野寄りの血に、染まっていっても」
――そう―だ。
「秋葉は、俺にとって……。俺に……とって……」
気づけば。俺の顔は、涙でくしゃくしゃになっていた。
月を見上げているのに。月が、まともに映らない。
一筋。二筋。
涙が、止まらない。
けど、違う。違うんだ。
……悲しいんじゃない。哀しいんじゃ、ない。
改めて、わかっただけ。
秋葉は、俺にとって――。
「大切な――人なんだ――」
――――力が抜けていく。
月が遠ざかる。
あぁ、何だ。
俺の足は、とっくに限界だったんだ。
落ち葉に座る形で、足が崩れた。
もう感覚は、途切れかけている。
右手を伸ばす。
ゾッとする程に、冷たい。
「俺は…………死ぬ、んだろう、な」
秋葉――。
やっぱり、俺は間違っていたのか。
あの時。
お前を、殺せばよかったのか。
――――――はは。
……ごめん、秋葉。
それでも、俺、は。
「お前を、殺す事なんて、出来ない」
薄れていく意識。
秋葉を背負ったまま、前のめりに倒れた。
赤い髪が、俺の視界を覆う。
「――――――――…―……―――」
「―――――――ぇ―――――?」
――――それは、直前。
遠野志貴が、意識を亡くす直前。
――気のせいだったのかも、しれない。けれど。
聞きなれた筈の。だけど懐かしい。
そんな、愛しい人の声を。
「―――――に――いさん―――」
微かに、耳元で聞いた気がした――。
幼い頃に出会った少女。
いつも、一緒になって遊んだ。
その女の子を、俺は守ろうと思っていた。
月。
漆黒の海に浮かぶ、秋夜の箱舟。
遠野志貴の人生は、ここで終わる。
たった、十数年の命。
それでも。
愛する人と、最後まで一緒に入れた。
それだけは、幸せな事だったんだと思う。
たとえこれからを共に過ごせないとしても。
秋葉が――生きていてくれるだけで。
俺は、ここに戻ってきた意味があったと思うんだ――――。
【〜Fin〜】