第二十二話「泳ぐ前には準備運動」
練習ねぇ……。
俺に出来るのかな?
……無理だろ。
明朝四時。
昨日あんなことがあった為か、秋人は目が覚めてしまった。
元から眠りは浅い方だったが、今日は少しも休んだ気がしない。
やはり、すずか……そして忍の秘密を知ったのもあるのだろう。
そして、ザフィーラが明かしてしまった秋人の秘密。
その二つに苛まれ、二度寝できる状態ではなかった。
同じ部屋で寝ている恭也を起こさないように布団から出て着替え、ふすまを開け外に出ようとした時、不意に後ろから声をかけられた。
「もう、起きたのか」
振り向かずに答える。
「ああ。それにどうにも二度寝できる気分じゃない」
「そうか……じゃあ、久々にやるか?」
「うーん……そうだな」
「分かった。じゃあ、少し待っていてくれ」
そう言うと、声をかけてきた恭也は布団から起き上がり、着替えを済ます。
「さぁ、行くぞ」という声に従い、恭也を先頭にし二人は旅館を後にし海岸へとやってきた。
早朝の海岸線は美しく輝いており、昼に見る海とはまた別の顔があるのだと思い知った。
だが、今二人は海など見てはいない。
互いに柔軟をし、身体をほぐしている。
恭也が言った『久々にやる』……それはこういうことなのだ。
二人で行う鍛練という名の模擬戦。
さすがに海にまで木刀やらを持ってきてはない為、徒手格闘がメインとなる。
柔軟を終えると、二人は正対し、構えをとる。
恭也は身体を自然体に持っていき、秋人は右手を横にピンと伸ばし左手はダラリとさせ、足を前後に開く。
潮風が二人に吹きかかるが、二人は微動だにしない。
魚が跳ね、海に沈む。
それが合図となった。
砂を蹴り、二人は相手に向かい駆ける。
巻き上げた砂が砂浜に戻るのと同時に二人はぶつかった。
恭也の拳が顔面に向かい放たれる。
寸前でかわすが、頬に赤い筋が走る。
秋人は避けるのと同時に手刀を放っていた。
それは手刀と言えど真剣と同等のものとなる。
どうにかかわすが、上着の腹部分が切られ腹部が露わとなる。
続けざまに回し蹴り。
しかし、回し蹴りは威力こそ大きいがその分隙が多い。
その隙を見逃す恭也ではない――――が、恭也は動かない。
それが誘っているものだということが分かったからだ。
もし誘いに乗っていれば、回転により威力が増した手刀が待っていたに違いない。
小太刀を持っていたならば、御神流の基本技『掛引き』によって反撃されていただろうが、今は持っていない。
だからこそできたブラフだ。
秋人は少し笑う。
(ワザと過ぎたか……)
しかし、後悔などしていない。
否、していられない。
恭也の拳が迫ってきている。
それをクロスアームブロックで受け止めるが、それは浅はかだと後悔した。
御神流が技『貫』。
その名の通り相手の防御を貫き、そして攻撃を通す。
貫の持ち主と対峙した相手は、まるで防御をすり抜けられたような錯覚に陥るというが、今まさに体感している。
衝撃が内面にダイレクトに入ってくる。
本来ならば内臓などの器官が破壊されてもおかしくないが、そこは手加減しているのだろう。
多少ふらつきながらも秋人は立っていた。
トドメとばかりに恭也が迫る。
しかし、やられっぱなしは性に合わない。
秋人の目付きが変わった。
それはまさに――――暗殺者の目。
変異を感じ取ったのか、恭也の足が止まる。
ニヤリ……と笑ったのが感じられ、恭也は構えを防御に特化させた。
無言で正対する。
相手の一手一脚を見逃さないように目を凝らしながら。
不意に秋人の右手が動く。
(……っ! しまった!!)
鍛えられた者にこそ通ずるフェイント。
相手の攻撃にすぐさま対応できるように、相手の動きに合わせて身体が勝手に動いてしまうのだ。
一瞬だが、出来てしまった隙。
秋人は迫る。
すぐに体勢を立て直し攻撃に移ろうとする、が数秒遅い。
ボディーブロー。
しかし、身体を防御の姿勢に持っていっていたのが幸いし、直撃はしていない。
だが、それで終わる訳はない。
秋人の執拗なまでの追撃が待っている。
左拳を握り、肘に右手を置きそのまま突き上げる。
腕二本分の威力が加わった攻撃に恭也のブロックが崩れる。
大抵の者がそこに攻撃を加えると思うだろう。
しかし、秋人は変則的に攻撃を仕掛けてくる。
どこから来るのかが分からないが、おそらくは……。
「くっ……」
がら空きになった右脇腹への鋭い蹴り。
それを読み取った恭也はそこに左手を置き、ダイレクトに直撃するのを防いだ。
しかし、所詮は手のひらで受けた蹴り。
完全に防げるわけはない。
身体を捩ると肋骨に痛みが走る。
折れてはいないだろうが、多少ヒビが入ったかもしれない。
鍛錬なのだからここまでする必要性はないだろうが、これが二人の鍛錬の仕方なのだ。
互いに本気でする。
死に至らしめる攻撃はしない。
これが二人の間に交わされている約束という名の『誓い』。
(アバラがやられたか……そうなると、こちらの手は限られてくる、か)
冷静に自分の身体の状態を分析する。
すると、一つの手が浮かんだ。
これならば今の恭也でも出来るが、リスクが大きすぎる。
最悪、病院送りになる可能性もある。
しかし、やるしかない。
誓いを違える訳にはいかない。
それが武人としての誓いならなおさらのこと。
「…………」
恭也の様子をうかがいながら、秋人は距離を取りながら恭也との距離を測っている。
あと一歩進めば、恭也の攻撃範囲内に入る為踏み込めないのだ。
武器を持っていない二人の攻撃範囲はほぼ同一。
しかし、多少のリーチ差で恭也の方がわずかに広い。
これは致命的だ。
恭也より自分が上回っているものとはなんだ?
力。
恭也の方が遥かに上だ。
では、防御力。
これも違う。
では、技。
同等と考えていい。
残るは――――スピード。
恭也は御神流が奥義の歩法『神速』を習得しているが、それは瞬間的な速度上昇に過ぎない。
そもそも神速とは自らの移動速度を上げるものではなく、瞬間的に自らの知覚力を爆発的に高めることにより、
あたかも周囲が止まっているかのように振舞うことが出来るようになるというものである。
しかも恭也が一日に発動できる神速の限界は三回まで。
恭也より格段にスピードが高い秋人ならば、何とかなるかもしれない。
神速には及ばないものの、スピードは恭也の倍以上の速度を誇る秋人なら。
しかし、力も防御力も向こうが上。
ならば狙うは――――
(カウンター……)
カウンターとは、相手の力をも利用して攻撃するものである。
しかし、それと同時にリスクがとても高い。
もし失敗すれば、無防備な状態で攻撃を受けてしまうことになりかねない。
だが、今の秋人にはこれしかない。
腹を決めると、後ろに軸足を置き、足に力を溜める。
砂を巻き上げながら軸足を爆発させ、一気に距離を縮める。
恭也がいくら攻撃してこようが、構わず突進する。
恭也は胸を中心に守っていた。
ならば、胸の上……顔か下……腹を狙うしかない。
腹は先ほどのボディブローのせいで警戒心があるのだろう。
無意識にガードが下がり、腹を守っているのが見受けられる。
ならば狙うは――――顔。
微かに息を吸い込み、力を丹田にため込む。
その力を全て左腕に流し、恭也の顔面目掛けて――――
「……っ!」
「がはっ……!」
拳は見事に恭也の顔面をとらえた。
だが、それと同時に秋人の顔面も恭也の拳がとらえていた。
クロスカウンターの格好となったが、互いに顔面にクリーンヒットしている。
避けている暇がなかった。
それもある。
しかしそれよりも、避けようとしたら負けだと思ってしまったのも事実。
そして避けても互いに追撃があっただろう。
だから避けなかった。
互いの拳がゆっくりと相手の顔面から離れていく。
まるでスローモーションのように景色が流れ、二人は同時に砂浜に倒れた。
どれくらいの時が流れたのだろう。
太陽は完全に昇り、夜の色はどこにもない。
秋人はまだチカチカする目を擦りながら上半身を起き上がらせると、口の中にドロッとしたものがあることに気がつく。
ペッと吐きだすと、それは血だった。
殴られた鼻に触れてみると折れていないようだが、鼻血が出たのか少し息苦しい。
「大丈夫か?」
背後から声をかけられる。
振り向かなくても誰か分かった。
先ほどまでやり合っていた相手だ、当り前だろう。
「ああ。多少身体が痛むが大丈夫、問題ない」
恭也は「そうか」と言うと、両手に持っていた缶の片方を秋人に手渡した。
お茶だ。
口の中が切れている状態で炭酸系でないことに感謝しながらプルタブを開け、口に含む。
秋人がお茶を飲んだことを確認すると、恭也は秋人の横に腰を下ろしてきた。
無言でお茶を傾ける二人。
ふとタバコが吸いたくなりポケットに手を伸ばすが、恭也の手前それはできない。
秋人が喫煙していることを知っているのは美由希とヴィンセント、そしてシグナムだけだ。
ただでさえ印象が良くない秋人がタバコを吸っていると周囲に知れれば、さらに良くなくなるだろう。
それくらいで恭也が動じるとは思えないが、一応やめておいた。
もし恭也に知られてしこたま怒られようとも、やめる気は毛頭ない。
ニコチン中毒とは厄介なものなのだ。
無言が続く。
もうしばらく続くと思われたが、恭也からそれを破ってくれた。
「忍たちのこと、知ったんだってな」
「……何だ。もう伝わっていたのか。先輩は伝えるのが早いな」
秋人の言葉を聞き、恭也は苦笑した。
何故笑っているのかが分からず、秋人はキョトンとした表情をした。
「アレだけ派手に騒いでいれば、部屋に居ても分かる。それに、お前が戻ってくる前に忍とはちゃんと話した」
アレだけ派手に騒げば、恭也並みの達人ならば気づかない筈がない。
盲点だった。
ということは、ヴィンセントや士郎にも知られてしまったのだろうか?
少し心配になってきた秋人は、恭也に二人の様子について聞いてみた。
「あの二人なら大丈夫だろう。昨夜は酒をたらふく呑んでいた。あの時間帯はしっかりと寝ていた筈だ」
その言葉を聞き安心した。
士郎ならばともかく、ヴィンセントにまで知られてしまったらすずかたちに申し訳ない。
ホッとした秋人はお茶の缶を両手で掴んでいたことに気がつき、よほど不安だったということに少し恥ずかしくなった。
と。
「ところで、タバコは吸わないのか?」
「……何で知っているんだ?」
「質問に質問で答えるのは感心しないな」
ムッとする秋人。
その顔を見た恭也は、またしても苦笑した。
「お前は気づいていなかっただろうが、いつも髪にわずかだがタバコの臭いがついている。それでだ」
「そう、か……今度から気をつける」
「ああ。そうしろ」
恭也は何も言わなかった。
タバコを吸っていることを知られれば、憤怒すると思っていたのに、何も言わない。
ただ、海を眺めているだけ。
「……怒らないのか?」
視線を変えずに恭也は答える。
「……本当はやめて欲しい。だが、お前がタバコを吸うのには何か理由があるんだろう? だったら、無下にやめろとは言えないさ」
「……そんなの、ないよ。ただ……近づきたいだけなんだ」
「近づきたい?」
「ヴィンセントさんがタバコを吸っているの、知っているだろ?」
恭也は昨日のことを思い出した。
思えば、海で泳いでいる時以外はずっと吸っていた覚えがある。
「ヴィンセントさんに近づきたいという意味か?」
無言で頷く。
その顔は、父親の背中に追いつきたい子供のような顔だった。
「そうか……」
秋人にとって、ヴィンセントという人物がどのような人かは知っている。
そして、秋人の父親がもう居ないことも知っている。
だからだろう。
余計に父親という存在が恋しいのは。
近づきたいという気持ちは、恭也も同じだ。
いつか、士郎を超えるような剣士になりたい。
その為にこれまで苦しい鍛練を続けてきた。
もちろん秋人も鍛錬はしっかりとしている。
だが、それだけでは物足りなかったのだろう。
遠くに居た父親が恋しかったのだろう。
だから、ヴィンセントと同じ匂いを纏っていたいと思ったのだろう。
いつも傍に居ると感じていたくて。
「……恭也?」
無言で何か考え込んでいると思っていたら、次の瞬間には秋人の頭を撫ぜていた。
武骨なその手はお世辞にも気持ちいいとは言えないが、何故か温かかった。
しばらくはこの時間に浸っていよう。
そう思い、秋人は瞼を閉じた。
「秋人? ……何だ、眠ってしまったのか」
昨日の疲れが出たのか、それとも先ほどの疲れからか。
秋人はぐっすりと眠っていた。
その表情は、安心した時にだけに見せる顔だった。
それが嬉しく、恭也は頭を撫ぜ続ける。
朝食の時間になり、二人は旅館に戻った。
すると、開口一番、
「またやったの!?」
と、美由希の怒声。
二人の衣服は砂まみれで、身体中にいくつもの傷がある。
それを見ただけで、またあの鍛練をやったのだと推測できたのだろう。
美由希はため息を吐きながら、二人の身体についた砂を払ってくれた。
それで終わるはずがないと分かっている為、二人は黙ったままだ。
砂を払い終えた美由希は二人の前に仁王立ちとなり、二人を見据える。
心なしか怒りの度合いが大きい気がするのは何故だろう。
「あんな無茶な鍛錬はしちゃダメだって何度言ったら分かってくれるの!?」
無茶なのは承知の上だ。
だが、アレくらいやらなければ二人が目指す高みへは行けない。
だから決行したのだが……。
美由希はそんな二人の気持ちも知っているが、あまりにも無茶なやり方に怒っているのだ。
模擬戦なら模擬戦らしく加減すればいいのだが、二人の場合は互いに全力を出し合い戦っている。
それではいつか壊れてしまうと懸念してのことなのだろう、この怒りは。
二人は言い訳を言わない。
やったのは事実。
そして美由希が言っていることも至極正しい。
反省しているかと言えばしている。
だが、やめる気が毛頭なかった。
こんな近くに自分をより高みへと昇華させてくれる好敵手が居るのだ。
例え命懸けだろうと、それで高みへと行けるのであればやる。
それが二人の信条なのだが……美由希には分からない。
何故こんな危ないことをするのかが。
一歩間違えたら、互いに死んでしまうかもしれない。
自分も真剣で恭也と鍛錬はするが、こんな風になるまではやらない。
いや、やらせてもらえない。
それなのに、二人は鍛練という名を借りた決闘をする。
本当に……分からない。
悲しそうに顔を伏せる美由希。
その顔を見ると何か言わなければと思うが、秋人にも恭也も何も言えない。
その場にいる全員が気まずい雰囲気になるが、ある一人の男の言葉によりそれは終焉を迎えた。
「美由希君。男とはそういうものさ。全てにおいて全力で取り組み、全てにおいて一番になりたい。その為ならば、己の身体がどうなろうと関係ない。
男とはそういうものさ。理解しろとは言わない。だって、君は女なのだから」
「でも! だからってこんなの……死んじゃうかもしれないんですよ!?」
「それが男の本懐と言うものさ。高みへ行く為ならば、どんな障害があろうとブチ壊し前へ進む。
その先に何が待っているかも知らずに、ただ突き進むことしかできないんだ」
「でも……」
「だが、そんな馬鹿な男でも安らぎの時は欲するものさ。そういう時は、女である君が優しく胸の中へ迎え入れればいい」
「私が……迎え入れる?」
「そうさ。君ならできる。いや、君にしか出来ないことさ」
「私にしかできない」と何度も呟きながら、美由希は秋人たちに向かい顔を向けた。
その表情は先ほどまであった悲しみの色はなく、明るい色があった。
「今回は特別に許すけど、もういい加減にしてね。分かったら着替えてきて。朝ごはんを食べよう」
二人して「あ、ああ」と何とも曖昧に呟くが、美由希はそれでも満足したのか満面の笑みだった。
ヴィンセントが言ったことに惑わされたのだろうか?
いやしかし、ヴィンセントが言ったことは全てではないが正しいと言えた。
少なくとも、秋人にはそう思えた。
着替えてから朝食を済ますと、もうみんなは海で泳ぐ気になっていた。
やれやれと肩をすくめ、今日はパラソルの下でゆっくりしていようと思う秋人だったが、不意に腕を掴まれる。
美由希だ。
何だろう? と思うが、美由希は耳元でこっそりと耳打ちをしてきた。
「後で、岩場のところに来て」
岩場……そんな人気のないところで一体何の用なのだろうか?
しかし当の美由希は、微笑みながら水着に着替えるために去っていってしまった。
首を傾げる秋人だが、とりあえず水着に着替えようと更衣室に向かって行き、水着に着替え岩場へ向かう。
しかし、そこには誰も居なかった。
「来いって言ったのに、自分は遅刻か?」
そうボヤいていると、背後に美由希の気配。
振り向くとそこには、マドラスチェックのビキニを着た美由希が居た。
何となく上を向き鼻を押さえる秋人。
「どうしたの?」
「いや……別に。ところで、こんなトコに呼び出して何の用だ?」
そう言う秋人に、美由希は思わせぶりな笑顔で、
「一緒に泳ぎの練習をしよう!」
「……ヤダ」
「でも、ヴィンセントさんに頼まれちゃったし……」
美由希はヴィンセントに言われたことを話した。
――――秋人君は泳ぎが駄目でね。これもいい機会だ。教えてやってくれないかい?
余計なことを……と思ったところで当のヴィンセントは砂浜でタバコでも吹かしているのだろう。
それに、当の本人に何と言っても決行するのだろうから無茶な話だ。
「泳げないのは事実でしょう?」
「それは……そうだけど」
ヴィンセントの言葉を思い出す。
――――魔導師とはいえ、武芸者に代わりはないんだ。運動系での苦手科目は減らしておくに限ると思うんだけれどね。
確かにそうかもしれない。
海上戦などは飛行スキルがない秋人には無理だが、もしもの時には役に立つかもしれない。
ありはしないだろうが。
「分かった。分かったよ。やるから、少し待っていてくれ」
ため息を吐きながらそう言うと、秋人は美由希を残し足早にその場を後にした。
そして戻ってきた時には手にある物があった。
「……どうしてそれを持ってきたの?」
美由希の言葉に、秋人は意外な気持ちを隠せなかった。
「なぜって……海に入るんだろう?」
「いや、そうなんだけど」
海に入って練習に入る。
……のだが、なぜか美由希は苦い顔をしている。
「海に入るんなら、これは必要だ」
「ねぇ、私たちがこれから何をするか分かっている?」
「なにって、泳ぐ練習だろ」
「なら、それはいらない」
美由希の目は、じっと秋人が片手で抱えた浮き輪に向けられていた。
「でも、ないと浮かないじゃないか?」
「心配しなくても、練習すれば浮くようになるよ」
こめかみを押さえた美由希に浮き輪を取り上げられ、秋人はとても不安になった。
昨日、溺れ死にそうになったこともある。
そもそも、人間というのは水に浮くようにはできていない。
水死体だってまずは沈み、ある程度腐敗が進んでから浮くではないか。
水に浮いているように見える人たちは、泳法を心得ているから浮いているように見えるのであって、それをやめてしまえば沈む。
「死ぬぞ」
そう言う考えを一言で端的に言ってみると、
「ここはそれほど深くはないよ」
同じく端的に返された。
確かに、見ればこの辺りは海が澄んでいるので底が見えるが、他の場所よりも浅そうだ。
秋人でも、肩の辺りぐらいかもしれない。
「それに、これがあるよ」
美由希が背中に隠し持っていたビート板を見せた。
「まずは準備運動。それから水に慣れることから始めようか」
こうして、美由希指導のもと準備運動をした秋人は海に入った、
昨日にはもう知ったが、海水は思ったより冷たい。
「じゃあ、とりあえずバタ足の練習だね」
「ああ」
「ビート板を使う前に私が手を引くから。底面を蹴って身体を水面に対してなるべく平行になるようにするの。いくよ」
美由希に手を引かれ、秋人は言う通りに底面を蹴った。
身体全体に水の抵抗がかかる中、蹴った勢いと美由希の引く力で身体が浮く。
「うん、そのまま足を動かして」
水音の狭間から美由希の声が届く。
水に顔が浸かり、目を閉じてしまっている為に、何がどうなっているのかがよく分からない。
秋人はとにかく足を動かした。
「そう。それでいいよ」
美由希の励ましの声がくぐもって聞こえる。
引かれている感触と動かす足にかかる水の抵抗、足の先が水面を抜けた時の軽い感触しか分からない。
「じゃあ、そろそろ顔を上げて息継ぎをしようか」
(息継ぎ……)
肺が空気を求めてどんどんと苦しくなる。
「ねぇ、顔を上げて」
(顔を…………)
もはや水音が邪魔して美由希の声がはっきりとは聞こえない。
目を閉じたままの真っ暗な視界は、そのまま別の黒に染まっていった。
「やはり、浮き輪は必要だと思うのだが」
「まだこだわるんだ」
危ないところで引き上げられて秋人はそう言ってみたが、美由希は苦笑するだけで終わってしまった。
「でも、バタ足は上手だったよ」
「そ、そうか?」
絶対にお世辞だと分かっていても、気が良くなる秋人。
ここがチャンスだとばかりに美由希は攻め立てる。
「だから、もう少しやってみようよ。大丈夫、秋ちゃんならできるって」
わざわざ自分の為に時間を割いてくれている美由希の為になら頑張るのもいいかもしれない。
そう思い、秋人は小さく頷いた。
こうして、再び美由希指導のもとに練習が始まった。
最初はまた手を引かれながら泳ぎ、バタ足の練習。
「はい。顔を上げて」
「ぷはぁ!」
今度は巧くいった。
さすがに二度も同じことを繰り返してはいけないとの意地だったが、巧くいったのだからそれでいい。
それを何度か繰り返し、ビート板での練習に移る。
美由希の手とは違いフラフラと頼りなく浮くビート板に不安を覚える。
案の定、手が離れてしまい沈む。
その度に美由希が助けてくれたが、三度目の時にはもうビート板が嫌いになった。
仕方なく、再び美由希が手を引いてくれる。
「はい。顔を上げて」
「ぷはぁ!」
何度も繰り返されたが、一向に秋人の泳ぎが上達する気配はなかった。
さすがに美由希の顔に不安のようなものが浮かぶ。
一休みと称し、二人は岩場に腰かけている。
海から離れられて安心した秋人だが、今度は美由希のことが心配になってしまう。
ここは声をかけるべきか。
それとも黙っているべきか。
判断できない。
そんなことを考えている秋人に対し、美由希はポツリと、
「ごめんね」
力なさげに呟いた。
「気にするな。お前が悪いわけじゃない。泳げない俺が悪いんだ」
「でも、もしかしたら私の教え方が悪いのかもしれないし……」
「お前の教え方は上手だと思うよ。ただ、生徒が悪いだけだ」
そうは言ってみたが、美由希の顔はどんどん曇っていくばかり。
このままではいけないと思い、秋人は腰を上げ、
「練習を再開するぞ」
「え……? でも」
「お前の教え方が悪いんじゃないって、証明してやる。さあ、やるぞ」
「……うん!」
その後、昼食を食べるのも忘れて練習に没頭したが、秋人が泳げるようにはならなかった。
しかし、二人はそれで満足だった。
秋人は美由希が真剣に教えてくれたことで。
美由希は秋人が苦手な水に自分から挑戦したことで。
さすがにクタクタになり、海から上がり岩場に仰向けで寝転がる二人。
夕日は既に傾いており、輝く水平線が綺麗だった。
「今日はありがとうな」
「ううん。私こそ無理なこと言って……嫌じゃなかった?」
「いや。お前が教えてくれたから、多少は水が怖くなくなった。感謝している」
「そう、よかった」
互いに無言になる。
しかし気まずくはない。
まるでそれが自然なスタイルであるかのような感じがした。
二人で一緒に居るのが自然。
黙っていても、会話がなくても、心がつながっているような、そんな不思議な感覚。
美由希も感じているのだろうか?
感じてくれているのだろうか?
(なに、考えてんだよ)
自分で考えておきながら、自分の考えに赤面してしまう。
だが、こんなテンションだ。
こんなことを言ってしまってもおかしくはないだろう。
「なぁ、美由希」
「なに?」
「今度、二人で一緒に星でも見に行くか」
返事はなかった。
それを肯定ととっていいのか、否定ととっていいかは分からないが、秋人には肯定ととれた。
だって、美由希の頬がこの夕日に染まった色ではない、紅色に染まっているのだから。
これ以上ここに居てはおかしくなってしまうと思った秋人は咳払いをすると「みんなのところに戻ろう」と言い、その場を離れた。
「あっ、待ってよ」
慌てて起き上がり秋人の後を追う美由希。
何となく追いつかれたくなくて、早足になってしまう。
しかし、早足の秋人と走っている美由希、どちらが早いかは明白。
自然と二人並んで早足でみんなの元へと戻った。
夕日が沈み切る前に帰る準備を終え、全員は来た時と同じように車に乗り込んだ。
みんな疲れてしまったのか会話は少なく、年少組はすでに舟を漕いでいた。
それを眺めながら、秋人は昨日今日のことを思い出す。
(……色々あったな。でも……楽しかった)
自然と顔が笑顔になってしまうのを抑えていると、車が静かに停車する。
八神家に着き、はやてたちが降りると車は再び発車する。
はやてが居なくなったことにより、秋人の隣は空席になった……はずだった。
しかし、隣にはいつのまにか美由希が座っていた。
「楽しかったね、海」
「ああ。意外とな」
美由希は指合わせくるくると回しながら上目遣いに話しかけてきた。
「また、一緒に行こうね」
「……ああ」
「……うん! 約束だよ」
ありふれた約束。
しかし、それが叶うことは――――
車は高町家に到着し、秋人たちは車から降りた。
そのまま車は発車すると思われたが車から月村家のメイド、“ノエル・K・エーアリヒカイト”が降りて来て秋人の耳元で囁く。
「忍お嬢様からの伝言です。約束は守ってほしいと」
「分かっているよ」
「それともう一つ」
「うん?」
「婚約の件は保留にしておくとのことです」
「なぁっ!?」
驚く秋人を放っておき、ノエルは一礼すると車内に戻り、今度こそ車は発車していった。
呆然と車を見送る秋人。
そんな秋人に美由希が近づいてくる。
その顔は少し不機嫌な感じがするのは気のせいだろうか?
「何、話していたの?」
「いや、その……」
「私には言えないこと?」
確かに言えない。
しかし、美由希に隠し事もしたくはない。
どうすればいいんだと悩んでいると、美由希はプイッとそっぽを向いてしまい、家の中へと入っていってしまった。
言い訳の一つもできなかったことを悔やんでいると、恭也が一言。
「美由希のことは気にするな。一晩もすれば機嫌も直るだろう」
「そう、だといいけどなぁ」
「フッ。お前がそんなに美由希に気を使うとはな。驚きだ。じゃあ、またな」
最後に意味深な笑みを残し、恭也も家へと入っていった。
訳が分からない秋人も、とりあえず自分の家へと入っていった。
こうして夏は終わり、秋を迎えることになる。
波乱に満ちた季節を……。
あとがき
忍は諦めていません、どうもシエンです。
今回、美由希による水泳レッスンが行われましたが、秋人は最後まで泳げませんでした。
これは遺伝子レベルで刻まれているものと言っても過言ではないでしょう(ぁ
それにしても秋人と美由希……いい雰囲気です。
青春の青臭い匂いがするのは、私だけでしょうか?
そしてホウレイさんから何故か――同類だから――依頼された、
ホウレイさんが連載中の『魔法少女リリカルなのはStrikers After ―M&6― 』のifストーリーを書かせていただきました。
十八禁小説です。
もし読みたいという方が居られましたら、私宛てにメールをいただければ返信の際に送らせていただきます。
それでは、また次回お会いしましょう。
追記
拍手はリョウさんの手によって分けれらています。
誰宛てに送ったのか、または作品名を明記して送ってくださると助かります。
宛先や作品名などが明記されていないと、どこに送っていいのかが分からなくなるそうです。
ご協力のほど、お願いいたします。
作者さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板、