第二十話「真夏前線異常あり」
一枚の絵画。
儚い少女の肖像。
俺は、その少女を救いたい。
たとえそれが、自己満足だとしても――――
退院してからしばらく経ち、秋人の身体は完全に癒えた。
いささか身体が軽い感覚に陥るが、不快感はない。
むしろ、これが本調子なのではないかと疑いたくなる気分だ。
だが、秋人を見つめるシグナムの目は少しおかしい。
何かを探るように、冷静に見つめている。
声をかけたが、曖昧にはぐらかされてしまうのみ。
秋人は首を傾げ、はやてに聞いてみたが、はやてにも分からないとのこと。
ならばと思いシャマルに聞いてみると、慌てて会話を変えられてしまった。
何かを隠している？
だが、一体何を？
……アレか。
当たり前だ。
自分が訳の分からない事象を引き起こしたのだ。
それもそうだろう。
苦笑し、秋人は空を見上げた。
空は満天の星空。
吸い込まれそうになる暗闇の中に光る、星たちの輝き。
そして、孤独な王様。
見上げた夜空には、赤く輝く満月が浮いていた。
どこか禍々しい光を称えた紅月。
しかしその光が強ければ強いほど、周囲から孤立してしまう。
目立とうとすればするほど、他者から疎まれる。
または、他者の光を塗りつぶさなければその存在を誇示することができない。
孤独な王様。
そんなフレーズがよく合う満月だ。
その月はまるで――――
「……ついに、この日が来てしまった……か」
燦々と降り注ぐ灼熱の陽光の中、秋人は独り佇んでいる。
見つめる先に居るのは、楽しそうな男女たちの姿。
八神家と高町家、バニングス家や月村家、そしてヴィンセントの面々。
この日は永遠に来なければよかったと願ったが、それは夢想に終わってしまった。
約束の海。
海水浴。
だが、海水浴より日光浴の方がいいなぁ、と考える秋人。
しかしその肩に下がっているのは、海水浴の準備が整っているバッグ。
自分で準備したのではない、はやてやヴィンセントが――余計なことに――用意したのだ。
はやての場合は純粋に楽しみからだろうが、ヴィンセントの場合は違うだろう。
純悪に楽しんでいる。
機会があったら、海に沈めてやろう。
そんなことを考えていると、みんな準備が整ったのか、アリサの家の車へと乗っていく。
もしかしたら忘れてくれているかも、と思い黙ってその場に立っていたが、若干怒り気味のアリサに呼ばれてしまった。
……余計なことを。
心の中で悪態をつき、重い足取りで車の中へと入る。
秋人が乗ったことを確認すると、バニングス家の執事兼運転手の鮫島がドアを閉める。
そして運転席へ回り、車を発進させた。
秋人の隣にははやてが居り、楽しそうに話しかけてくる。
「海楽しみやなー。そうは思わん？」
「ああ、そうだな」
機械的に返事を返し、窓の外を眺める。
街並みが後ろへと下がっていく光景。
そして、町民の好奇と驚嘆の表情。
それもそうだろう、なにせ走っている車が――――とにかく長いのだから。
リムジンと呼ばれる、一流階級の者しか乗ることを許されない高級車。
その高級車に、秋人たち庶民――アリサとすずかは除く――は乗っている。
どうせだったらみんなで行こうと意見したアリサ。
その意見に海に行く者たちは賛同したが、まさかリムジンだとは思わなかったに違いない。
……そもそも、海鳴は海が近いのだから車で行く意味があるのだろうか？
断言しよう。
ない。
これはアリサの狡猾な罠だ、と勝手に自己解釈をする。
もし、車ではなく徒歩であったなら、みんなの後ろを独りで歩き、暗殺者として培われた技術を使い消え去ることができただろう。
そんなくだらないことに暗殺術を使うなと怒られそうだが、それほど海に行きたくないのだ。
それは仕方あるまい。
だが、しかし。
ここは車の中。
走る鉄の牢獄。
逃げ場は――――ない。
太陽が滲んで見えるのは気のせいだろうか？
……気のせいにしよう。
自然とため息が漏れてしまう。
「……ごめんな」
「うん？」
「海、ホントは行きたないんやろ？ それなのに、無理言ってもうて……」
はやては申し訳なさそうに俯いていた。
またため息を吐き、はやての頭に手を置くと――――ぐしゃぐしゃと撫ぜた。
いきなりのことではやては驚いているが、秋人はやめようとしない。
むしろ力を入れている。
「子供がそんな顔するな。子供はな、馬鹿みたいに笑ってりゃいいんだよ」
フンッと鼻で笑いながらそう言った。
そしてぐしゃぐしゃと撫ぜていた手を、今度はポンポンと叩く仕草に変える。
ふわふわの髪の毛が気持ちいい。
はやてはくすぐったいのか、苦笑気味に笑っていた。
その笑顔を見て、秋人は満足げに頷くとはやてに対し笑顔を見せた。
いたずらっ子のような笑顔だったが、本当に嬉しそうな笑顔だった。
「あっ、見えてきたわよ」
アリサの声がしたのでフロントガラスを見ると、目の前には真っ青な海が広がっていた。
太陽の光を反射しキラキラと輝く海は何とも美しい。
みんながその美しさにうっとりとしている中、秋人ただ一人だけが顔を強張らせていた。
それは恐怖の表情。
絶対的強者に対立した時のような絶望感さえ漂っている。
冷や汗が一筋、頬を伝う。
「え……？」
震える秋人の手を掴む手があった。
その手の主は――――はやて。
秋人の顔を見て、ニコッと微笑む。
はやてのぬくもりは、恐怖を和らげるには充分すぎた。
自然と身体から力が抜け、落ち着きを取り戻す。
大丈夫と分かっても、はやては手を放さない。
まるで、怖い時はいつでも頼ってほしいと言うように――――
車から降り、水着に着替える為に更衣室へと向かう一行。
女性連中とは別れ、男子更衣室へ。
そこは……魔窟だった。
どこを見渡しても男の尻、尻、尻。
この場に長く居ては身の破滅だと感じた秋人は、速攻で着替えを終え、外に出る。
太陽の強烈な熱線を感じる。
砂は焼けており、足裏が燃えるようだ。
「……暑いな」
太陽がジリジリと肌を焼く感触を感じる。
そう感じていると、男連中が着替えを終えやって来た。
士郎の手には、パラソルがある。
借りてきたのだろう。
砂浜に家から持ってきたゴザを敷き、その横にパラソルを差す。
敷かれたゴザの上に、鮫島が荷物を置いた。
鮫島は執事服のままだ。
着替えないのだろうか？
聞いてみると、
「執事ですから」
即答だった。
しかしその姿には、信念のある者しか表すことのできないオーラのようなものが輝いている。
なるほど、執事という仕事に全力を持って取り組んでいることがよく分かる。
思わず拍手してしまうほどだ。
場所の確保が済んだ男たちは、次に準備運動を開始する。
一応秋人もするが、少し離れてすることにした。
……怪しすぎるからだ。
この一行が。
無駄に筋肉をその身に宿らせている男だち。
正直に言おう。
怪しすぎる。
さらに秋人は離れる。
だが、ヴィンセントの目が光り、秋人もその場に加わされてしまった。
筋肉たちの中でただ一人、痩せ形の秋人。
……恥ずかしい。
辱めの為にやっているのかと疑いたくなる準備運動が終わると、背後から聞き慣れた声が聞こえた。
秋人は振り返り、
「――――っ！！」
絶句した。
「相沢？ どうした？」
シグナムが声をかけるが、秋人は答えずに、目の前に広がる素晴らしい光景を眺めていた。
美女、美少女たちの水着姿を。
シグナムは、胸元に大胆なカットが入ったスポーティーな水着。
一見おとなしめだが、スタイルの良さを案に主張するタイプのデザインである。
一方、同じようなスポーティー系でも、シャマルはわりと面白みのないデザインだ。
……だがやはり、胸のボリュームと腰から臀部のむっちり感は隠せないので、とても目を惹く存在だ。
はやてとヴィータも、若い肌をしっかりとお日さまにさらしているせいか、そのすらっとした手足や体つきが逆に新鮮だ。
「楽園、か……」
『秋人、何か言ったか？』
『何でもない。独り言だ』
念話で質問してきたザフィーラは狼形態なので水着は着ていなかった。
「ちょっと。似合うとかくらい言いなさいよ」
アリサは少し不満げに秋人に言う。
そのアリサを見つめ、
「……ハッ」
鼻で笑ってやった。
「な、なによその笑いは！」
アリサが着ているのは、チューブトップのセパレート水着だ。
とてもよく似合っている。
似合ってはいるのだが……。
「胸がそれじゃあな……クックック」
その言葉を聞いたアリサは顔を真っ赤にして秋人を殴りにかかる。
だが、秋人はスウェーバックでそれを避けた。
それにまた怒りを募らせるアリサは「むきー！」と訳の分からない奇声を上げる。
そして、すずかに指を差し、
「じゃあ、すずかはどうなのよっ」
「すずか？」
指の先に居るすずかに視線を合わせる。
すずかはスクール水着だった。
……狙っているのだろうか？ この娘は。
いや、もしかしたら……子供の特権を分かっていて使っているのかもしれない。
そう考えると、なんとも末恐ろしい娘なのだろう……。
秋人は身震いをする。
「……ちょっと。私の時とずいぶん態度が違くない？」
「……恐ろしい娘だ」
「一生言ってろ！」
ボディーブロー。
だが、身長が足りない為、それは必然的に――――
「はうっ！！」
男のシンボルに当たってしまうわけであった。
意識を取り戻すと、自分がゴザの上で眠っていたことに気が付く。
そして、頭の下にあるこの柔らかい感触は……。
「あら。目が覚めた？」
「も、桃子さん！？」
自分が何を枕にしていたのか気付き、慌てて起きようとするが、桃子の制止の声がし、できなかった。
桃子はそっと秋人の頬に手を当て、撫ぜてくる。
その手は心地よく、心に優しい。
つい、穏やかな心になってしまう。
「お、秋人起きたみたいやな」
横から声がし、そちらに目を向けると、はやてがジュース片手に座っていた。
ザフィーラも隣に居り、こちらの様子をうかがっている。
秋人の顔をのぞき込み、安心した表情をしていることから、ずっと傍に居たことがうかがえる。
それが嬉しくむず痒くなるが、一応礼は言おうと思い、そのままの体勢で礼を言う。
「ありがとうな」
「ううん。気にせんといて。はい、これでも飲んで」
手渡されたのは、缶に入ったジュース。
まさか……とは思ったが、はやてが飲んでいた物とは別の物だ。
少しガッカリする。
（……何でガッカリしてんだよ）
湧いて出た感情を飲み干すように、ジュースのプルタブを開け、喉に流し込む。
ひんやりとした水分は喉に涼しく、気持ちいい。
ずっとこのまま膝枕してもらうのは拙いと思い、身体を起こす。
桃子が何か言っているが、聞こえないことにした。
頭が少しぼーっとするが、特別身体に異常はないようである。
あるとしたらあるのだが……考えないようにしたい。
ふぅ……とため息を吐き、はやてに訊ねる。
「みんなは？」
秋人の問いに、はやては海の方に指を差して答える。
「ほら。あそこや」
はやての指の先を眺めると、はやてとザフィーラ、桃子と鮫島を除いた全員が楽しそうに遊んでいた。
つい、ポロリと本音が出てしまう。
「いいなぁ……」
「大丈夫なら、遊んできたらどないや？」
「……嫌だ。絶対に嫌だ」
「そんなに頑なにせんでも……」
はやては苦笑していた。
そして、ふぅ……と一息吐くと、空を仰ぎ見る。
その姿は、一枚の絵画のような印象を秋人に与えた。
薄倖の少女。
窓枠の世界しか知らない少女。
傷つき、飛べない翼を持つ少女。
そんなタイトルが頭に浮かぶ。
「なぁ……はやて」
気が付いた時には、口から言葉が漏れていた。
はやては空から視線を外し、秋人を見つめる。
じっ、と秋人の瞳を。
「俺たちは違うけど、お前は海に来ても何もできない。本当に、よかったのか？」
「よかったって？」
「……眺めることしかできないだろ……みんなが遊んでいる中、お前は見ているしかできない。だから……」
「わたしはええんよ」
「え……？」
視線を秋人から海ではしゃぐ者たちに向け、呟く。
「わたしはな、みんなが楽しそうに遊んで、笑顔なのを見ているだけで満足や。それ以上のもんは、わたしはいらない」
「そんなの……」
悲しすぎるじゃないか。
言葉にできなかった。
だって、そう呟くはやての表情は、本当に満足そうで――――消えてしまいそうだったから。
「――――だったら」
そう。
「俺たちも遊ぶぞ！」
俺が笑顔にしてやればいい。
この、翼を失くした少女を。
満面の笑みに。
幸せを与えてやればきっと、再び大空に――――舞戻れるはず。
「でも……わたしの足こんなやし、何もできへんよ……」
「なに。海に入って遊ぶだけが海じゃないさ」
そう言うと秋人ははやてを抱き抱え、波打ち際まで移動する。
そして下ろすと、ちょうど波が打ち寄せてきた。
しかし、驚きはしない。
むしろ興味津々な表情で海水に濡れた身体を眺めている。
濡れた指を口に持っていき、ペロリと一舐めする。
「しょっぱい……秋人、しょっぱいで！」
初めて触れた海水。
本当に楽しそうに、嬉しそうに、海水に触れている。
そんなはやてをもっと喜ばせてやろうと、海に足を踏み入れる。
足首までしか海に浸かっていないが、これが限界だ。
正直言って怖い。
だが、それがどうした。
はやてを喜ばすのだろう？
そう己を鼓舞させ、海水に手を浸し――――はやてにかけた。
「冷たっ！ やったな〜」
手に海水をすくい取り、お返しとばかりに秋人にかける。
それを受け、秋人もまた海水をかける。
たったそれだけのこと。
しかし、それが楽しかった。
見ているだけでは体験できなかった海の感触。
海水の冷たさと心地よさ。
少し浸かっているだけだが、ここが母なる海だということを実感できた。
しばらくそうして遊んでいたが、さすがに限界になったのか秋人は海から上がってきた。
ぺたんとはやての隣に腰を下ろし、空を見ながら話しかける。
「な？ 見ているだけじゃ分からないこともあるだろ？」
本当にその通りだった。
見るのと体験するのとでは、全く違う。
今までの自分はどうだった？
楽しそうな者たちをいつも遠くから見ているだけ。
それがどんなに愚かな行為だったのかを思い知った。
「うん！ 凄く楽しいわ！」
「そうか。それはよ……」
「はやてちゃ〜ん！ 秋人さ〜ん！」
よかったと言おうとしたところで、誰かの声により遮られてしまった。
この間延びした声は、知っている限りでは一人しかいない。
「シャマルー！」
はやてはこちらに向かってきているシャマルに手を振っていた。
何となく不機嫌な顔つきになってしまうのは何故だろう？
走ってくるシャマルのその豊満な胸がたゆたゆと揺れる為、ビーチに居る男たちの視線が自然とその胸に集まる。
そんな視線などお構いなしに走ってくるシャマル。
二人の元へ辿り着いた時には、肩で息をしていた。
よほど遊んでいたのだろう。
息を整えると、優しくと話しかけてきた。
「二人で遊んでいたんですか？」
「うん。海って思ってたより冷たいんやな。初めて知ったわ」
「そうですか。よかったですね」
我がことのように喜ぶシャマル。
やはり、はやてがただ眺めているだけのことを心配していたようだ。
だったら、お前が教えてやればよかったじゃないか、と言いたかったが、シャマルたちがしなかったお陰で秋人が教えることができたのだ。
そのことを聞いてみると、どうやらはやてが遊んで来いと言ったようだった。
三人は渋っていたが、せっかくの主の行為だと甘えることにしたようだ。
なるほど、確かにはやてなら言いかねない。
納得した秋人に、シャマルはすまなそうに話しかけてきた。
「あの……大変言いにくいんですけど……」
「うん？」
「今お暇ですか？」
「まぁ……暇と言えば暇かな」
「じゃあ……」
そこまで言うと、シャマルは唐突に頭を下げてきた。
そして大声で、
「ヴィータちゃんと遊んできてください！」
「断る」
「だって、ヴィータちゃんったらずっと泳いでるんですもの。疲れちゃいました。だから私の代わりに」
「だが断る！」
「拒否権はありません」
「何でだよ！？」
「だって、もう後ろに居ますもん」
ゾクッ……と後ろに気配を感じる。
こんなに近くまで近寄られるとは……二人に気を向けすぎたらしい。
誰かは分かっているのだが、怖いものは怖い。
ギギギ……と錆びた蝶番が出すような音をさせながら振り向くと、そこには……。
「よぉ」
仁王立ちのヴィータが居た。
逃げよう。
だが腰を上げるよりも早く、手を取られてしまった。
「は、放せ！ 俺はこの世界を守る使命があったりなかったり……いや、あるんだ！ だから遊ぶ暇などないぞ！」
「くだらない嘘吐くな。ほら、行くぞ！」
「放せ！ 放したら何でも言うこと聞くから！！」
その言葉に、少し考えるそぶりを見せるが、先ほどと同じような笑みを見せながら秋人に視線を向ける。
「放しても放さなくても一緒なら、放さない。海に来たんだから泳ぐぞ！」
小さな身体のどこにこんな力があるのか。
足を踏ん張っている秋人などお構いなしに手を引くヴィータ。
秋人の頑張りは徒労に終わり、ずるずると海に引きずり込まれていく。
足首、腿、腰とどんどん海に浸かっていく身体。
それに比例するように、恐怖心もどんどんと込み上げてくる。
胸まで海水に浸かったところで、ようやくヴィータは手を放してくれた。
ホッと息を……吐けるはずがない。
周囲にあるのは、青いが黒い海ばかり。
怖い。
怖い怖い。
怖い怖い怖い。
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。
膝がガタガタと震え、息が荒くなり、そこから一歩も動けなくなる。
耳に届く音は海鳴の音のみとなり、視界もおぼろげだ。
様子がおかしいと気が付いたのか、ヴィータが近寄ってくる。
「おい、どうした？ 顔色が変だぞ」
しかし、その声でさえも今の秋人には届かない。
目の前に居るヴィータの顔でさえ脳に届かず、秋人は――――
「……フッ」
笑ったかと思ったら、海に倒れて行ってしまった。
秋人が倒れた場所からは、ぶくぶくと気泡が立ち上るのみ。
慌てて持ち上げようとするが、ヴィータ一人の力では大人の身体となった少年は抱き抱えられず、ただ時間だけが過ぎ去っていく。
岸辺にてこちらを眺めていたはやてとシャマルが何か叫んでいるが、パニック状態となったヴィータには何をするべきなのか判断できず、立ち尽くすことしかできない。
いくら鉄槌の騎士と称される彼女も、目の前で溺れ、そして助けることのできない状態ではなす術もない。
「ど……」
どうしたらいい？
周りに居る海水浴客たちは、二人の状態にまるで気が付いていない。
と。
気泡が止まった。
恐れていたことが、現実となる。
「あ……あぁ……――――ッ！！」
天まで届くかと思われる絶叫。
周りの海水浴客たちはようやく気づき、ヴィータの元へ近寄る。
が、それよりも早く近寄る者が居た。
それは獣。
蒼き狼。
ザフィーラは秋人の海水パンツを噛み、岸へと引きずる。
声を聞きつけた恭也たちもやってきて、ようやく秋人は救出された。
「げはっ！」
溺れてから五分。
救出されてから五分後に、秋人は息を吹き返した。
秋人を囲む形となり、八神家、高町家、バニングズ家、月村家が揃っている。
一通りみんなの顔を眺めると、生きているということを実感できた。
いち早く話しかけてきたのは、高町美由希。
「大丈夫……？」
「生きているから大丈夫なんだろ。……だから、そんな顔するなって」
「でも……」
美由希の瞳には涙があふれていた。
よほど心配をかけてしまったらしく、秋人は心が苦しくなった。
後悔の念からか美由希から目を逸らし横を見てみると、はやてと目が合った。
「無事でホンマに、よかったなぁ……」
そこまで言うと、はやては涙を流した。
愛おしい者が無事だった時にだけ流せる真珠。
なんと美しいことか。
秋人は指を伸ばし、その涙をすくってやった。
そして頭に手を置き、ぐしゃぐしゃと撫ぜる。
「泣くなって」
そう言われるが、はやての涙は止まらない。
次々と溢れ出てきてしまい、頬に軌跡を刻んでゆく。
そっと差し出されたハンカチで、やっとせき止められる涙。
よほど心配をかけてしまったようだ。
はやての涙を見ていたヴィータは、居たたまれない表情をしていた。
「どうした？」と声をかけると、バツの悪そうな表情で答える。
「だって、アタシが無理やり引っ張っていったから……」
「はっ。お前のどこに責任がある？ この場合は、誰にもねーよ。むしろお前は俺を助けようとしてくれたんだろ？
だったらお前には、称されるに値する功績がある。人命救助は、大事な仕事だからな」
苦笑する。
まだ人を殺したことはないが、『暗殺者』が人命を説くだと？
まだ頭がよく回っていないらしい。
そういうことにしておくことにした。
「……ん？」
そこではたと気が付いた。
自分は溺れていたはずである。
無論、海の中で息ができるはずがない、海水もたらふく飲んだだろう。
そしてこの場合のセオリーとしては――――人工呼吸。
まさかとは思うが、この女性陣の誰かが……。
それを確かめようと、それとはなしに聞いてみる。
「ありがとうな。人工呼吸してくれて」
誰だ。
一体誰が。
まさか、美由希が……。
「気にするな。当然のことをしたまでだ」
「恭也……」
少し……いや、かなりショックだった。
よりにもよって――この場合致し方ないが――男とファーストキスを済ませてしまうとは。
だが、恭也ならいいかとも思う。
他の男たちよりはいくらかマシだからである。
年のいった男にキスをされるのは、いくらなんでも悲しすぎるじゃないか。
そう、自分を納得させる秋人だった。
膝を抱えて海を眺めている。
まだ太陽は傾いたばかりだが、気分は黄昏時の太陽のように沈んでいる。
言わずもがな男とキスをしたことが原因だ。
ため息を吐き、頭を抱える。
苦悩。
絶望。
思春期の少年にとって、これは何よりも重要な一大事だ。
ファーストキスは両想いになった女の子としたかった、そう思うのは当然のことだろう。
だが、その想いは儚くも散り、幻想となってしまった。
さして波は高くないのだが、景色がグシャグャになっている。
と、唐突に頬に冷たい感触が伝わる。
キンキンに冷えた缶ジュースが当たっていた。
それを持っている手を追って視線を上へと向けると、シャマルが微笑んでいた。
こんな顔は見せられないと目元を拭うが、目元は腫れたままである。
シャマルは苦笑しながら話しかけてきた。
「気にしない方がいいですよ。それに、あのままじゃ死んじゃっていたんですから」
「でもなぁ……」
「ほら、恭也さんを女の子だと思うとか」
「恭也が女の子……」
想像してみる。
髪を長くし、スカートを穿かせてみる……が、そこに居たのはどう見ても恭也だった。
「無理」
「やっぱり」
「なら言うな」と言いたかったが、気遣ってくれてのことなので何も言わない。
このままでは会話がなくなってしまうと思ったシャマルは、話を振ってきた。
「それにしても、秋人さんが泳げないとは思いませんでした」
「…………」
「あ……すいません」
「……魔力変換資質が風だから水とは相性が悪いんだ」
「そんな、クトゥルーとハスターじゃないんですから」
水の邪神クトゥルー。
風の邪神ハスター。
クトゥルーは水の精を眷属としているのに対し、ハスターは風の精を眷属としている。
彼らは互いに対立し、いがみ合っている仲である。
このことから、水と風は相性が悪いというのがクトゥルー神話の通説である。
そして秋人の魔力変換資質はというと……風。
海とは最悪の相性と言えるのが分かる。
勿論、これは秋人個人の言い訳であるのだが。
ただ単に、秋人は泳げないから海を忌避していただけなのだ。
「海なんて嫌いだ……」
「そんなこと言わないでくださいよ。ほら、見てみてください」
シャマルの言葉により、秋人は顔を上げる。
そこに広がっていたのは、太陽が沈む海の光景。
幻想的であり、儚くもあり、美しい。
太陽のオレンジを反射しキラキラと輝く海は、昼間の海とはまるで違う顔を覗かせていた。
声が出ない。
己が恐怖していたものがこんなにも美しい顔を持っていたなど……思いもしなかった。
言葉にするならば、ただ一言――――
「綺麗だ」
ただ一言。
だが、そこには幾万もの意味が込められている。
無意味に怖がっていた謝罪も含まれているだろう。
感謝も含まれているだろう。
「ね？ 海も捨てたものじゃないでしょう？」
そう語りかけてくるシャマルの笑みに感化されたのか、秋人は微かな笑みを浮かべ答えた。
「ああ。存外、悪くない」
その日は近くの民宿で泊まることにした。
家が近いのだから帰ればいいのだが、海の余韻に浸っていたいと言うみんなの意見を尊重した結果である。
男性陣と女性陣、子供と大人に分かれて部屋を取り、つごう四部屋とった。
夕食はみんなで大広間で取り、就寝時間となるが、秋人はなかなか寝付けないでいた。
昼間の出来事を思い出しているのかというと、違う。
胸騒ぎがするのだ。
布団から起き上がり、窓の外を眺める。
星たちの輝きと共に、一際異彩を放っている紅月。
その色はまるで――――
「散歩でもするか……」
呟くと、同じ部屋の恭也を起こさないように静かに部屋を出ていく。
旅館から少し歩き、海岸沿いに歩を進め再び空を眺める。
変わることのない紅月。
不意に、視線を感じた。
後ろを振り返るが、誰も居ない。
しかし、気配は確かにする。
確かめようとそちらに足を進めると、そこには――――
「こんばんは。いい月夜ですね」
紅い瞳をした月村すずかが居た。
あとがき
秋人は全く泳げません、どうもシエンです。
今回は、夏休みの話です。
そして、ザフィーラ大活躍（？）の回です。
そしてすずか……彼女の身に起きた異変とは？
秋人が知る真実。
知られざる闇の歴史。
ではまた次回お会いしましょう。
拍手返信
※シエンさんへ よかったです。思わず一気に読んでしまいました。
次回の更新を楽しみに待っています。
＞良かったと言ってもらえて大変光栄です。
一気読みしていただいたとは！ これまた恐縮です。
良かった、の一言が励みになります。
ありがとうございます。
追記
拍手はリョウさんの手によって分けれらています。
誰宛てに送ったのか、または作品名を明記して送ってくださると助かります。
宛先や作品名などが明記されていないと、どこに送っていいのかが分からなくなるそうです。
ご協力のほど、お願いいたします。
作者さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板、