第十九話「涙は奇跡に変わり、奇跡は疑惑へ変わる」
秋人……目を覚まして?
……何でや。
何で……何でこんな目に遭わなならんのや……。
何で、秋人が……。
ピッピッピッ……と、一定のリズムで心電図が音を刻む。
繋がれているのは、相沢秋人。
あの事故から一週間が過ぎたが、一向に目を覚まさなかった。
救急車に乗せられ、病院へ向かうまでは意識を保っていたのだが、搬送先の海鳴大学病院へ辿り着くや否や意識を失った。
どうやら、はやてに心配を掛けまいと無理をしていたらしい。
その証拠に、潰されていた秋人の下半身はボロボロだった。
圧迫されていたことにより血が行き渡らなく、さらに血を流していたので壊死寸前までいっていた。
まぎれもなく重症である。
医師の話では骨も折れていたらしく、意識を保っていたのが不思議だったそうだ。
そんな秋人の病室へ、今日もはやては足を運んでいた。
部屋に入ると、ため息を吐く。
今日も、目を覚ましていない。
もしかしたら今日は目を覚ましているかもしれない……そう思っていたのだが、その期待は今日も裏切られてしまった。
はやてが持ってきた花はもう萎れており、新しい花を添えるために花瓶を手に取り、水道のある場所まで向かう。
花瓶の中の水を取り換え、新しく買ってきた花を添え、病室へと戻る。
――――よぉ、来てくれたのか。
そんな幻覚を見る。
またため息を吐き、花瓶を飾った。
ベッドの傍に車椅子を止め、秋人の手を握る。
点滴の針が刺さったその腕は、幾分細くなっているような気がする。
いつもはヴォルケンリッターたちも見舞いに来るのだが、今日ははやて一人。
飽きたのではない……辛いのだ。
眠っている秋人を見るのも、悲しみに暮れるはやてを見るのも。
シャマルの回復魔法も試したが、それは肉体を回復するものであり、精神の回復は叶わない。
だが毎日少しずつ魔法をかけ、医師に疑われない程度に回復はした。
それでも、秋人は眼を覚まさない。
美由希は秋人の顔を見ると、いつも苦笑していた。
起きないのはネボスケだから、だからまだ起きない……と、自分に言い聞かせるように。
なのはやすずかも見舞いに来たが、結果は同じ。
アリサは複雑な表情で秋人の顔を眺めるだけ。
たまたまはやてが遅れた時、アリサが先に病室にいたことがあった。
その時のことは忘れられない。
いつもは気の強いアリサが、涙を流していたのだから。
ごめんなさい、ごめんなさい……と、嗚咽交じりに泣いていた。
「ホンマ……秋人は罪な男やね。あないに可愛い娘を泣かすなんて……」
ポロリ……と、涙が零れる。
それはどんどん溢れてきて、止まらなくなってしまう。
「秋人……秋人ぉ……」
もし、このまま二度と目が覚めなかったら?
「そんなの……そんなの嫌やぁ……」
もう一度話をしたい。
もう一度頭を撫ぜてもらいたい。
もう一度……いや、ずっと一緒にいたい。
そう願うのは罪なのだろうか?
わたしは願ってはいけないのだろうか?
わたしは、幸せになってはいけないのだろうか?
分からない。
もう、何も分からない。
「秋人……」
涙が、秋人の手に落ちる。
すると、病室に変化が起きた。
極彩色の光に包まれる病室。
それは、秋人から発せられていた。
「秋人……?」
眠りに付いていた者の、眠りを覚ますもの。
それがこれだ。
そして、それを発した者がどうなるか……それは必然のように。
今この瞬間、幾度かの楽園への扉は開かれた――――
夢幻にして現実にして有限にして無限にして光にして闇にして現にして幻想にして破滅にして救済にして救世にして支配にして煉獄にして楽園の話。
罪を背負いし男と罰に怯える少女、そして仮面の従者に二つの姿を持つ野心家の物語。
男の名は四宮冬二、またの名をアブホース。
少女の名はシュブ=ニグラス。
従者の名はバイアティス。
野心家の名はニャルラトホテップ。
男たちは暗殺者。
動機もなく道理もなく理由もなく利益もなく目的もなく黙想もなく原因もなく幻想もなく因縁もなく印象もなく清算もなく正当もなく狂気もなく興味もなく命題もなく
明解もなく義侠もなく疑問もなく獲得もなく損失もなく崇拝もなく数奇もなく妄執もなく蒙昧もなく欠落もなく結論もなく懊悩もなく応変もなく益体もなく約束もなく
正解もなく成功もなく執着もなく終焉もなく根拠もなく困惑もなく負荷もなく風情もなく決別もなく潔癖もなく超越もなく凋落もなく遠慮もなく演摘もなく努力もなく
度量もなく帰結もなく基盤もなく霧消もなく矛盾もなく独善もなく毒考もなく傾向もなく敬愛もなく打算もなく妥協もなく煩悶もなく反省もなく誠実もなく静粛もなく
瞠目もなく撞着もなく極端もなく曲解もなく偏見もなく変哲もなく安堵もなく暗澹もなく哀楽もなく曖昧もなく相談もなく騒動もなく喝采もなく葛藤もなく構想もなく
考察もなく徹底もなく撤退もなく計算もなく契約もなく無念もなく夢幻もなく容赦もなく幼心もなく資料もなく訓練もなく寂寞もなく責任もなく誹謗もなく疲労もなく
体裁もなく抵抗もなく究竟もなく屈託もなく技量もなく欺瞞もなく要望もなく様式もなく選別もなく先例もなく検分もなく険悪もなく題材もなく代案もなく混沌もなく
懸念もなく禁忌もなく緊迫もなく倦怠もなく権限もなく気配もなく外連もなく躊躇もなく中庸もなく敷衍もなく不安もなく解説もなく回避もなく規則もなく企画もなく
陵辱もなく良識もなく虚栄もなく拒絶もなく防備もなく忘却もなく踏襲もなく到達もなく娯楽もなく誤解もなく惰性もなく堕落もなく叱声もなく失墜もなく嫌悪もなく
見解もなく感情もなく癇癪もなく意見もなく威厳もなく境地もなく恐怖もなく作為もなく策略もなく思考もなく思想もなく諦観もなく勝算もなく安心もなく不純もなく、
純朴かつ潤沢な殺意のみで。
人を殺す。
殺人鬼。
殺人、窃盗、誘拐、密売。
悪魔に魂を売り渡すかのように、金になることなら何でもやった。
問うべきは手段ではない。
その男にとって目的こそが全て。
切実な現実。
彼には金が必要だった。
傾き続けてゆく天秤。
その左皿が沈みきる前に、力づくでも浮き上がらせるだけの金が、右皿には必要だった。
そして、その夜も天秤は彼を踊らせる。
同時刻、海鳴大学病院。
秋人の替えのパジャマや下着を持って、ヴィルケンリッター――ザフィーラは外で待機――とヴィンセントは来ていた。
はやてには用事があるから行けないと言ったが、やはり心配だったのだろう。
エレベーターに乗り三階へ行き、秋人の病室の前までくる。
そして気が付いた。
秋人の病室から漏れ出る、明らかな魔力の気配に。
しかし、知っているはずの秋人の魔力ではない。
これは別人の魔力の反応。
秋人の魔力が静かに、そして冷たい夜風だとするならば、この魔力は熱気を孕んだ暴風。
危険を感じ、シグナムはすぐにドアを開いた。
シグナムの瞳に飛び込んできたのは、極彩色の光の奔流。
魔力と呼んでいいのかすら分からぬその圧力は、まさに異質。
ロストロギアの魔法生命体として生まれ落ちて幾星霜……このような魔力は知らない。
シャマルに目配せするが、彼女も知らないのか首を横に振るばかり。
ヴィータは中心部にいるはやてを見つけ、少女に近寄り肩を抱く。
少女は震えていた。
当り前だろう、この間まで戦いはおろか魔法にまったく縁遠い存在だったのだから。
少女は震える唇で何かを呟いている。
耳を傾けると、少年の名を呟いていた。
今はまだこの病室内だけに溢れているが、いつこの場から流れ出るか分からない。
そう判断したシャマルは結界を張り、この場を遮断した。
濃厚な魔力がその場にたちこめ、何とも息苦しく、呼吸をするだけで神経を使い、冷や汗が流れる。
その時、異変が起きた。
秋人から溢れている極彩色の光が揺らめいたのだ。
それは苦しそうにうねり、のたうつ。
まるでこの場に留まるのを嫌がるかのように、暴れたいと訴えるように、狂ったように。
どうにかしようとするが、彼女たちに術はない。
もしこの場に闇の書があったならば、秋人の魔力を遮断し、鎮めることができたかもしれないが、あいにくと闇の書は家に置いてきている。
どうする? どうすればいい? 考えるが、何も思いつかない。
三人が途方に暮れていると、決意したような表情をし、はやては秋人に近づく。
動かない足を引きずりながら、ゆっくりと、確実に近づく。
途中、近づくなと言うように極彩色の光がはやてに触れる。
その瞬間、誰かの思念のようなものがはやてに流れ込む。
まず感じられたのは、悲しみ。
ついで怨嗟。
悲しみと怨嗟が混じり合い、どのように形容していいのかまるで分からない感情が少女の矮躯を蝕む。
だが、そこで見つけた。
少女が最も尊いものと信じているものを。
それは、人を愛する心。
この世で最も美しいものが見つかり、少女は涙を流した。
よかった。
本当によかった。
悲しみや怨嗟は人に必ずあるものだが、本当の愛を知っている者は少ない。
心優しい少女は、自らを蹂躙しているものにでさえ、慈しみの心を持って接した。
それが通じたのか、思念はやがて萎み、彼女から離れてゆく。
まるで恐れたように、それでいて感謝を伝えるように静かに。
彼女の念が届いたのか、この異常事態を引き起こしている者の目尻が微かに動く。
しかし、その表情は――――
男の凶刃に倒れ、それは死んだ。
頬に血が付き、男の表情はより陰惨になる。
その格好のまま、ねぐらとしている安アパートまでの道を辿る。
この界隈では人殺しなど日常茶飯事、男の姿を不審がる者などいない。
ドアの前まで辿り着き、鍵がないことに気が付く。
仕方なしにドアベルを押すと、安っぽい音が鳴り響く。
ドアが静かに開き、仮面の従者は彼に近づき何かを言うが、男は耳を傾けない。
従者を退けリビングへと足を向ける。
「……お疲れさま」
儚い、痩せた少女だった。
彼女はケープをはおりながら椅子に座り、こちらを見ている。
血の臭いで一瞬顔をしかめたが、男の様子を感じとり怪我がないことが分かり、安心した表情をする。
男も少女の姿を見て、今まで固まってた表情を和らげた。
その場に不釣り合いな柔らかい雰囲気。
従者は静かに席を外し、寒風吹き荒ぶ外へと出た。
男は少女に近づき、背後から肩を抱く。
少女は男の手に触れ、微笑む。
その姿は、まごうことなき恋人の姿。
だが、その姿にはタイムリミットがあった、彼らには時間がない。
彼女の生命が尽きようとしている。
それは、今まで奪ってきた生命の報いを受けるように、彼女に静かに忍び寄る。
しかし、気が付いた時にはもう手遅れだった。
審判者は少女の身体を蝕み、今この瞬間も滅ぼし続けている。
少女は言う。
楽園へ行きたいと。
そこならば、もう罰に怯える必要はないと。
それは許されざる願い。
だとしても、彼は叶えてやりたかった。
それが、彼に出来る全てなのだから。
窓を叩く夜風、弾む吐息、薄暗い部屋、楽しそうな談笑、虚ろな月明かり、白い吐息、
薄汚いない部屋、痩せた膝の少女、幾度となく繰り返される問いかけ、尽きることのない『楽園』への興味。
嗚呼……少女にはもう見えていないのだ、傍らに横たわるその屍体が。
男の夢想は残酷な現実となり、少女の現実は幽幻な夢想となる。
男の楽園は永遠の奈落となり、少女の奈落は束の間の楽園となる。
ヴィンセントは動かなかった。
一番秋人のことを知っているはずのヴィンセントが動かないことを不審に思いシグナムが問いただすが、ただ黙するのみ。
貝のように口を閉じ、じっと秋人を見つめている。
まるで全てを納めないといけない使命を負っているかのように。
その目は監視者。
結界は秋人の魔力によりブレ、震えている。
暴走した魔力ははやてとヴィンセントを襲いはしないが、ヴォルケンリッターたちには襲い掛かっている。
それに触れるだけで、あらゆる感情が脳にダイレクトに流れ込む。
はやての時は一瞬だけだったが、ヴィルケンリッターには違う。
舐るように、嬲るように、蹂躙する。
ある者は魔力を吸われ、ある者は魔力が霧散し、ある者は膝が床に崩れ落ちる。
そして、その光はヴォルケンリッターを蹂躙すると共に、あるものを辺りにまき散らす。
それは――――狂気
その狂気に触れた者は、普通ならば発狂し、ショック死をするか自らを狂わせ、自己を失う。
だが、ヴォルケンリッターたちは耐えて見せた。
そのあまりある恐怖から……。
そんな状態にも関わらず、ヴィンセントはただじっと眺める。
監視者としての使命を負って――――
愛を語り合う二人を残し、従者は当てもなく歩く。
彼らは逃亡者だった。
ありふれた犯罪組織の中で、一際異彩を放っている組織から。
『グレート・オールド・ワン』。
旧支配者と名付けられた組織。
彼らは、特殊な術を持ってあらゆる犯罪行為を実行する集団。
最初は小さな燻りだった。
それが今では、天をも焦がすほどの焔火となってしまった。
少女は疲れてしまった。
他人の命を奪うくらいなら、自分の命を絶ちたいと願うようになった。
しかし、男の存在がそれを留めた。
彼らはいつしか惹かれあい、愛し合った。
男は言った。
逃げようと。
男は、一番信用できる男を従者に選んだ。
仮面を付け、決して素顔を晒さない男を。
従者は空を見上げ、その経緯を思い出していた。
思えば馬鹿な話だ。
かけられた言葉はたった一言。
――――僕たちに付いてきてくれ、頼む。
苦笑する。
たったそれだけでホイホイ付いてくるとは……全く馬鹿らしい。
嬉しかったのかもしれない。
相手の腹を探り合う連中しかいないあの場所で、一番輝いていたあの二人に信用されていたことが。
だから、従者は黙って付いてきた。
彼らを守ると約束し、忠誠の証として自分の身体に刻んだ刻印。
その瞬間から、彼は男の従者となった。
男が出かけている間は少女を守り、男が家にいる時は金を稼ぐために外に出る。
足が止まっていたことにより、通行人とぶつかる。
従者は視線を前に戻し、歩き出す。
ただ、ポツリと呟きながら。
(旧支配者アブホース……宇宙の不浄全ての母にして父……同じくシュブ=ニグラス……千匹の仔を孕む森の黒山羊……千匹の仔を孕む山羊……)
『旧支配者』。
旧支配者は、外なる神々に比べれば遥かに矮小であり、ある程度は宇宙の法則に従わなければならないという意味では通常の生物と同じである。
とはいえ、通常の生物と比べれば異質で、かつ桁違いに強大な存在。
その知性、精神も人類よりも遥かに発達している。
『旧支配者』の名の通り、彼らは古の宇宙の支配者であり宇宙を自在に行き来するものから地底に封じられているものまで、
その力、形状、由来、性質、大きさは千差万別だが、地球においてはその活動は停止、ないしは制限されている状態であり、
それゆえに人類は繁栄を続けられているのである。
しかしいつの日か、彼らが再び立ち上がる時が来れば――それまでに人類が絶滅しているかもしれないが――その時は地球は再び彼らのものとなるだろう。
(同じくバイアティス……忘却の神、バークリイの墓……)
白い息が天に昇る。
存在を知らしめてしまう狼煙のように。
男の夢を見た。
おそらくは時折見るあの男の夢。
いつもは断片的にしか見れないのに、今日はやけに長かった。
気だるげに目を開けると、夕日が瞳に映ってきた。
「秋人……?」
幼い声。
聞き覚えのあるその声の主は――――
「はや、て……?」
自分を見つめる十の瞳。
それは愕然としている瞳だった。
そして、歓喜に溢れる瞳となる。
だが、彼だけは違う。
……監視者だけは。
薄暗い部屋。
そこに横たわる古びたソファに座る少年は、唇を歪めていた。
見つめる先にあるモニターに映っているのは、少年と同じ姿を持った少年――――相沢秋人。
「まさか、自力で覚醒るとはね……さすがだよ」
少年は知っている。
秋人があの夢を見たであろうことを。
だが、少年は愉快そうな表情とは別に、不満げな表情もしている。
監視者の存在。
アレが邪魔だ。
そもそも、このような事態に陥ったのもアイツのせいだ。
アイツがあのようなことをしなければ、このような未来になど至っていない。
忌々しく監視者を睨みつけ、知らず拳を握っている。
亡き者にしてやりたいが、今は時期じゃない。
そう、今は……まだ早い。
千の貌を持つ者は言っていた。
監視者は重要な役割をしてもらい、役目の済んだ彼には舞台から掃けてもらうと。
その役割とは、神の生誕祭の下準備。
その祭りでは、盛大なパレードを行おう。
真っ赤なライトに照らされる秋人と僕。
そして、観客の歓声に彩られ、僕らは踊る。
世界の終末まで。
永久に。
狂った輪舞曲を踊り続けよう。
しかし、その曲を弾くのは僕たちではない、彼女だ。
彼女の伴奏で始まり、この歌は回り始める。
世界終末組曲が……賛美歌が……。
主役は僕たちだ、誰にも邪魔はさせない。
たとえ僕らの舞台に上がってくる者がいたら、全力で排除しよう。
その舞台に似つかわしいのは、僕らなのだから。
「楽しそうな顔ね、四季」
いつから居たのか、女がそこに立っていた。
鬱陶しげに視線を一回送り、モニターに戻す。
「これが楽しくないわけがないでしょう? だって、これでやっと回り始めるんだから」
「楽園への扉は開いたばかり……これからよ。私たちの出番は」
楽園パレードの参加者は集どる。
約束された彼の地へ――――
秋人が目覚めたことにより、ヴィンセントはナースコールを押し、医者を呼んだ。
診察が始まると、医師は驚愕した表情をした。
「驚いた……もう治っている……?」
それはこの場にいた全て――ヴィンセントは除く――の者が我が耳を疑った。
秘かに回復魔法をかけていたとしても、それは気付かれないように微々たる程度である。
それが全快するなど……とてもではないが信じられない。
念のためともう一度詳しく検査したが、結果は覆らない。
医師は困惑していたが、喜ばしいことだ、と微笑んでくれた。
はやても訳が分からなかったが、一応元気になったのだからと、喜んだ。
一方ヴォルケンリッターたちは、秋人を訝しげな表情で眺めている。
アレは一体なんだったのか……それが判明するまでは素直に喜べない。
ヴィンセントはただ一人、黙する。
が、口を開いた。
「いやぁ〜。よかったよかった。本当に良かったねぇ。まさに奇跡! これも、乙女たちの祈りが通じたからだよ」
先ほどとは打って変わっていつもの調子。
仮面を外し、新たな仮面を付けるように素早く変わる。
幕が変わり、新たな舞台が始まるかのように。
語り部のようにしなやかに。
監視者から傍観者となるように。
だが、今はまだ語る時期ではない。
楽園組曲は、始まりを告げるブザーが鳴ったばかりなのだから。
「それで先生。退院はいつごろできそうですか?」
周りの反応などお構いなしにそう聞くヴィンセント。
医師はカルテを見ながら考えこみ、やがて口を開く。
「検査込みで三日ほどで。……ですが、これは異常ですよ?」
「それはそうですよ」
何かを知っているかのような口ぶり。
だが、期待したのが馬鹿だった。
「私が毎日お百度参りをしましたからね! いやぁ、神様は意外と願いを聞いてくれるものだ」
「……あ、いえ。そういうことを聞いているのではなく」
「ハハハ、冗談です」
医師の手前、これ以上ふざけるのは得策ではないと判断したのか、顔つきが真面目なものとなる。
「秋人君は昔から自然治癒能力が無駄に高い。今回もそれでしょう。それに、まだ成長期だ。骨は幾分付きやすい」
納得できないというような顔をしている医師を、得意の口八丁手八丁で丸めこむヴィンセント。
まるで催眠術にかかってしまったかのように、医師の目がとろんとしてくる。
耳元で口をゆっくりと動かすヴィンセントとブツブツと何かを呟く医師。
カルテに何かを書かせると、ヴィンセントは手を叩き、現実へと引き戻す。
「先生。いつごろ退院できそうですか?」
「このままいけば、三日ほどで退院できますよ。よかったですね。では、私は回診がありますので」
そう言い医師は部屋を後にし、それを看護師が慌てて追いかけていく。
残された面々は茫然とヴィンセントを眺めていた。
いち早く元に戻ったシグナムがヴィンセントに問う。
「い、今、何をしたのだ?」
「なぁに、私は本当のことを聞いたまでさ」
「だが、あの医師の様子は……」
「二日酔いだろう」と言い、ヴィンセントは笑った。
……もしかしたら、秋人よりこの男の方が留意すべき存在なのだろうか?
掴みどころのないこの男は、どこからが本当で、どこまでが偽りなのだろうか?
今はまだ、判断できない……。
「では、私は外にいるザフィーラ君に報告してくる。彼も、アレには気づいているだろうからね」
「じゃあね」と言い残し、ヴィンセントは病室から去っていった。
ヴィンセントが去ったことにより、その場には何とも言えない沈黙が漂う。
その沈黙を破ったのは、シグナム。
「相沢……あの魔力は一体なんだ?」
「魔力……?」
秋人はシグナムの目を見つめ、キョトンとした顔をしている。
まるで何も知らない、幼子のように。
「まさか……何も覚えていないのか?」
気まずそうに首肯する秋人。
秋人の意思ではないとすると、あれは無意識で起こった暴走。
しかし、秋人の魔力量は精々Aランク止まり……だが、あの魔力――――いや、純然たる魔素は、明らかにAランクではない。
そして、あの禍々しさもまた……魔力とは別のもの。
(調べる必要があるか……)
シグナムはシャマルに目配せし、考えを伝える。
念話をしようにも、先ほどのアレで魔力が枯渇しているので、できないのである。
ちゃんと伝わったようで、シャマルは浅く頷く。
(もし、アレが主に仇名すものだとしたら……その時は相沢を)
始末する。
そう、烈火の将は心に誓った。
「そうか、そんなことが……」
「ああ、もうビックリさ。私の寿命が三秒は縮んでしまった。いやぁ、まいったまいった」
全然まいっていない素振りで、ヴィンセントは笑う。
対照的に、ザフィーラは訝しむようにヴィンセントを見つめている。
確実に、この男は何かを知っている。
そうでなければ、息子とまで言っていた秋人があのようなことになったというのに、このように軽い態度でいられるはずがない。
しかし、デパートではいの一番に秋人たちを助けに行ったのも事実。
一体……どれが真実の顔なのだ?
それとも……。
(……全てが偽りの仮面)
ザフィーラの態度に気が付いたのか、ヴィンセントは咳払いを一つすると真面目な顔つきとなり独り言を呟いた。
それは独白のようだった。
「今は、まだ私たちを信じていてほしい。打ち明けてからどうしようと構わないが……せめて今だけは、夢を見させてくれ」
その独白に近い独り言に対し、ザフィーラは否定も肯定もしない。
ただ――――ただ、黙するのみ。
その態度が彼らしいと思ったのか、ヴィンセントはニッと笑う。
そして、二言三言話すと、ヴィンセントはその場を後にした。
誰も居ない道を歩く。
まるでこの街には自分しか居ないのではないかと思えるくらい静かだ。
「ようやく覚醒たか……それとも、覚醒てしまったと言うべきか……」
そう呟くと、ヴィンセントは顔を下に向け、タバコを取り出した。
壁に背を当て、火を点け煙を吸い込む。
肺が煙で満たされるのと同時に、落ち着きを取り戻すように、顔色が良くなる。
もう一度吸い、今度は天に向かって吐きだす。
それは真冬の息のように白く、儚い印象を与えた。
「今度は、どうなるかな……? 秋人君、君は……」
どっちを選ぶ?
それから三日後、ようやく退院の日となった。
その間、アリサにすずか、そして高町家といった面々が秋人の顔を見に来たが、元気な秋人の表情を見るなり頬を綻ばせた。
しかし、アリサだけはしかめっ面をし、文句を言うばかり。
曰く「アンタは馬鹿」。
曰く「迷惑をかけるな」。
だが、いくら言われようが怒る気にはならない。
それは、そんなに顔を赤くし、瞳に涙が溜まっていればなおのこと。
そんなアリサを見て苦笑し、秋人は手招きをした。
おずおずと近づくと、秋人は手をアリサの頭に近づける。
まさか……と思ったが、その期待は裏切られる。
秋人はアリサの頬に触れると――――引っ張ったのだ。
よく伸びるモチ肌の頬は心地よく、秋人はやめようとしない。
やめさせようとぽかぽか叩くが、秋人は笑うばかり。
抗議の視線をぶつけていると、秋人はポツリと「ありがとう」と言った。
それが意味するのは、心配をかけた礼と、感謝の気持ち。
アリサは「フンッ」と鼻を鳴らすことで返した。
その頬には、涙が一粒零れていたと言う。
「よし。荷物はこれで全部か」
バッグの中に入院していた時に使用していた物を全て詰め込むと、それを片手に持ち立ち上がる。
少ししか滞在していないはずなのに、寂しさのようなものを感じるのは何故だろうか。
だが、それと同じ――――いや、それ以上に嬉しい。
家に帰れるのだ。
当り前だろう。
「アキトー。用意できたか?」
声をかけてきたのは、八神家の末っ子、ヴィータ。
バッグを見せると、ヴィータは近づいてきて、秋人の手からバッグをひったくった。
何を? と思ったが、気遣ってのことだと気づき、何も言わずに頭を撫ぜてやる。
そうすると、猫のように頬を綻ばせ、嬉しそうにする。
それが可笑しく、思わず苦笑してしまった。
病室を出てエレベーターで階下へと下り、受付で退院手続きを終え、そのまま病院の外へと出る。
そこには、八神ファミリーが揃っていた。
気恥ずかしさから、目を逸らしながら片手を上げ挨拶すると、はやては笑顔で「おめでとう」と言ってくれた。
それが嬉しく、秋人も笑顔で「ああ」と言う。
秋人は八神家の全員を見渡し、おかしなことに気がついた。
「あれ? ヴィンセントさんは?」
こういうめでたい場には必ずと言っていいほど参加するだろうヴィンセントが居ない。
みんなに聞くが、三日ほど前から姿が見えないんだそうだ。
ヴィンセントに放浪癖はない。
それに、どこかへと行く時は必ず声をかけるはずである。
秋人の胸に、一抹の不安が漂う。
が――――
「いいじゃないか。この後二人で遊びに行こうよ」
「そ、そんなこと言われても……」
看護師をナンパしていた。
その場で新喜劇も真っ青なコケを見せる八神ファミリー。
秋人が笑顔でヴィンセントに近づくと、ヴィンセントは気がついたようで、こちらも笑顔で対応してくる。
その隙に看護師は逃げだした。
「久しぶりです、ヴィンセントさん。ずいぶん楽しそうでしたね」
「うん。楽しかった!」
渾身の右ストレート。
だがかわされる。
しかし、右ストレートはフェイク。
狙いは――――がら空きのボディ!
「うごっ……!」
……悪は消え去った。
あとがき
伏線が苦手です、どうもシエンです。
今回は秋人の夢の話でした。
いきなりの急展開で申し訳ありません。
それではまた次回お会いしましょう。
拍手返信
※シエンさんへ。
ヴィータにスク水→殴られるのが王道コンボだと思う俺ガイル。
>た、確かに……! それはまさに王道コンボ!!
いやぁ、思いつきませんでした。
いつか使って、秋人を苦しめてやろうっと(ぇー
追記
拍手はリョウさんの手で振り分けられています。
文章だけではなく、誰宛てなのかを明記してください。
文章だけでは、誰に宛てたものか分からないことがあるそうですので。
ご協力お願いいしたします。
作者さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板、