〜その笑顔が見たくて〜
〜
In the white world 〜episode 8
最初に、嗅覚をくすぐった。消毒液に、清潔すぎるくらいのにおい。それが、俺がまだ生きていることを自覚させる。
ゆっくりと目を開ける。右足に違和感があった。動かない。左足は動くのに。一瞬よぎった嫌な予感を振り切るように、光が差し込んできた。思わず目を瞑りたくなるような白が。
ここは・・・病院か。左側には窓。窓からは駅前の風景が一望できる。2階、いや3階、もっと上かもしれない。どうやら1人部屋のようだ。
視線を右へ持っていくと、姉さんが座っていた。歓喜と悲壮が入り交じったような顔をしていた。不安になる俺。
少し上体を起こして姉さんの横・・・そこに誰かいるのかを確かめる。
誰もいない。
姉さんがまだ起きるなとでも言うかのように俺の胸を押してベッドに寝かせる。
俺は内心ほっとした。しかし、反面、なんだかおかしな気分も混在していた。自分で言うのもなんだが、人にそっと触れられただけでも跡形も無く消え去ってしまいそうな・・・そんな感じだった。
「楓、聞いて・・・」
姉さんが、俯いたままゆっくりと話し始めた。俺が少し躊躇する。俯いているからだろう。俺が躊躇していて、頷く前に、話を続けた。
「足ね・・・今、右足をギブスで固定しているの。左足は擦り傷とか切り傷だけだったらしいんだけど、右足ね、複雑骨折で結構酷いらしいの。・・・・・・・・・」
姉さんがそこで言葉を切る。
「どうしたの?」
怪訝に思って俺が先を促す。
「私達はそこまでしか聞かされてないの。先生が言うには、それから先は本人の意思を確認しないといけないって。」
そこで姉さんは泣いてしまった。泣いた姉さんをこんなに近くで見たのは久しぶりだった。俺のことでなくなんて俺の記憶の中では初めてだ。前に泣いていたのは父さんが死んでしまったときだろうか。それから姉さんが泣いたところを見たことが無い。
・・・無論、酔っていて芝居で泣きつかれたりするのは何度もあるが。
姉さんに視線を戻すと、肩を過ぎるくらいまで伸ばした茶がかった黒髪。顔を見ることは出来なかったが、そこから落ちる涙を見て俺は視線をそれからそらした。
姉さんが、「また後で来るから・・・」とそう言って立ち上がり、病室を出て行った。
しばらくが長く感じられた。駅前の騒がしいほどの音が壁を通して微かに聞こえる。
それから幾分も経たないうちに―――俺には数十分に感じられたが、再び病室の扉が開いた。音をあまり立てないようにしてある、ゴムか何かのこすれる音。
扉とベッドを仕切るカーテンからでてきたのは、瑠璃ちゃんだった。腰まで届こうかというほどの金色の髪、その長い髪のためかは分からないが、小さな顔。二重で、はっきりと、くりっとした目、少なくとも低くはない形のいい鼻、ほんのり紅い小さな唇。
しかし、目は赤く充血しており、顔は憔悴して、金髪は心なしか色褪せたように見えた。それだけで、彼女が今までどんな状態であったかを推測することが出来た。彼女は俺と目が合うと、俯いてしまった。
瑠璃ちゃんが俺の横―――姉さんが座っていた椅子に座る。いまだ俯いている。長髪が彼女の顔を隠してしまっていてこの距離でも瑠璃ちゃんの顔は見えなかった。
「・・・ごめんなさい・・・」
小さな、小さな声だった。この至近距離でもやっと聞き取れるぐらいの、涙声で。
俺がその意味を理解するのに数秒を要した。
「何で・・・謝るんだ・・・?」
それは疑問よりも、落胆に近い言い方だった。
「・・・え・・・?」
瑠璃ちゃんは訊き返す。声は幾分か大きくなった気がする。涙声には違いないが。
「俺は、瑠璃ちゃんに謝ってもらわなきゃいけないことなんてされてない。逆に感謝されることは…したかもしれないけどね。」
皮肉なんてものは何も無い。ただ、謝ってもらう理由は何処にも無い。本当にそれだけだった。
「・・・・・・じゃあ、・・・・・・ありがとう、です・・・ね・・・」
瑠璃ちゃんは少し躊躇した後、上ずった声で言った。
俺は瑠璃ちゃんの頭をポンポンと叩いた。瑠璃ちゃんは笑った。しかし、目からは止めどなく涙が流れていた。
「おいおい、もう泣くのは止め。」
くしゃくしゃと瑠璃ちゃんの髪を掻き立てる。
「でも・・・楓さん、2週間も眠ってたら・・・心配したんですからね・・・!」
はっきりとした目がもっと大きく見開かれて俺の目を見る。
そのとき、俺はこれまでの姉さんや東、瑠璃ちゃんの言動が不自然なことに合点した。
姉さんも泣いていた。2週間も眠っていればありうる話ではあった。。
俺は、姉さんたちに計り知れないほどの心配をかけていたのだ。
今日は・・・6月4日か。
「・・・謝らなければいけないのは俺みたいだったな。・・・ごめん。」
上体を起こして―――痛みはなかった。酷いのは姉さんの話だと足だけみたいだし。―――俺は瑠璃ちゃんに軽く頭を下げた。
瑠璃ちゃんは、小さくかぶりを振って、布団の裾に泣きついた。
何か言っているみたいだったが、何を言っているのかはまったく分からなかった。
俺は、瑠璃ちゃんから視線を逸らし、駅前の風景を眺めていた。彼女にかける言葉は俺には分からなかった。ただ、泣き止むのを待っているだけ・・・
いつもと変わらぬ駅前の風景。まだ梅雨ではないのか、天気は快晴だ。
サラリーマンが行き交い、たまに学生も見かける。おばちゃんや、おじさん―――中には若い女性―――が、ティッシュやらチラシやらを配っている。バスが来る。タクシーが客を待っている。
そう。いつもと変わらない、駅前の風景。
俺は、瑠璃ちゃんが泣き止んでいることに気付いた。
視線が合うと、瑠璃ちゃんは、ばつが悪そうに、「すいません・・・」と小さく呟いた。
「なあ、瑠璃ちゃん・・・」
立ち上がって、病室を出て行こうとする瑠璃ちゃんを俺は呼び止めた。瑠璃ちゃんが振り向く。
「悪いんだけど・・・さ。5月20日の時の返事・・・もう一度、聞かせてくれないかな・・・」
その言葉に、瑠璃ちゃんは固まった。そしてしばらくした後、体全体をこちらに向け、切れ切れに言った。
「・・・だから、・・・・・・それは・・・私には・・・―――」
「瑠璃ちゃんの本当の気持ちが知りたい。その前の日に言われたこととか、この事故のことは除いて。」
瑠璃ちゃんの言葉をさえぎって静かに言う。
瑠璃ちゃんはもう一度椅子に座り、目を閉じた。
「それでも・・・ダメなのか?俺じゃあ。」
その言葉に反応するように目を開ける。
「私は・・・・・・、でも・・・」
「でもも、しかしも、だってじゃあ無い。瑠璃ちゃんは俺のことをどう思っているのか。それだけでいい。」
またも、瑠璃ちゃんの言葉をさえぎる。
「私は・・・楓さんのことが・・・あの・・・その・・・」
俺は何も言わず、次の言葉を待つ。可か不可か。
「あの・・・その・・・す、好き・・・です。」
瑠璃ちゃんはそう言うと、顔を真っ赤にさせて、俯いてしまった。それがまたかわいい。
「じゃあ、俺と付き合ってくれませんか?」
改めて訊いた。
「はい。」
答えは即座に帰ってきた。
そして胸に小さな感触。
瑠璃ちゃんだった。瑠璃ちゃんが俺も胸に飛び込んできたのだ。
俺は少し腰をひねって、瑠璃ちゃんと真正面に向かい合うようにする。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・」
そう小さく言っているのが聞こえて、
「瑠璃ちゃんは謝るようなことはしてないよ。」
諭すように言った。
しかし、瑠璃ちゃんは胸に顔を埋めたままで、小さく何度もかぶりを振った。まるで自らを納得させるかのように。
そんな瑠璃ちゃんに俺は、胸を貸してあげることしか出来なかった。髪を撫でる。シャンプーの残り香がした。
「楓さん・・・!」
瑠璃ちゃんの手が俺の背中に回る。
「瑠璃ちゃん・・・?」
瑠璃ちゃんの手に力がこもる。
「恐かったんですからね・・・楓さんが死んじゃったら、って・・・あの日からずっと泣いてた。どうしてあの時に「はい」って言わなかったんだろうって。ずっと後悔してた。楓さんともう会えなくなる夢。どこかへ行ってしまう夢。死んじゃう夢。毎日そんな夢ばかりで・・・それでいつも泣いてた。もう・・・そんな夢、見なくてもいいんだよね・・・?」
瑠璃ちゃんが、一息に話した。2週間分の全てを吐き出すように。
「ああ。」
瑠璃ちゃんの髪を撫でながら答える。
俺の胸の中で瑠璃ちゃんが顔を上げた。俺の手が瑠璃ちゃんの背中に回る。
瑠璃ちゃんの目が閉じられる。俺も目を閉じつつ、それに吸い込まれるようにして・・・触れた。
軽く触れ合うだけ。でもそれだけで俺には十分だった。
瑠璃ちゃんは、顔をまた真っ赤にして立ち上がった。
「あの・・・楓さん、偶然だと思いますけど・・・あれ、恥ずかしかったんですからね・・・」
そう言って小走りで出て行った。
あれ?俺にはまったく心当たりが無かった。俺に言うことだから・・・たぶん事故があったときなんだろうけど・・・見当が付かない。
入れ違いになるくらいに東が入ってきた。もう1人。東の後ろに水上さんもいた。2人とも私服だった。
「あれ?今日は休みだっけ?」
「学校終わって着替えてきたんだ。もう5時だぞ。」
「しかも2人で。」
「面白そうだったからついてきたのよ。私にも少し非があったしね・・・。」
言って水上さんは目を閉じて東の肩に体重を預ける。
「俺の寝てた2週間の間に何があったんだ・・・」
「いろいろさ。」
東が即答する。奴にも春がきたようだ。
「それよりだ。さっき廊下で瑠璃ちゃんとすれ違ったけどどうしたんだ?なんか顔を真っ赤にしてたけど。・・・まさか・・・!」
「何を想像している。もう一度答えを訊いた。それだけだ。」
「で、どうだった?」
答えの変わりに俺は親指を上に立てて見せる。
東も同じように返してくれた。
「それより、瑠璃ちゃんが言ってたあれってなんだ?」
「あれ?」
俺は頷きつつ、
「ああ。偶然だと思いますけど、あれ恥ずかしかったからやめてくださいね、って言われてな。心当たりが俺には無いんだが。何か知っているか?」
東がぼそっと無知って幸せだねぇ・・・といったのはとりあえず無視する。
「どうしても知りたいか?一応心当たりが1つある。」
「・・・・・・」
少し躊躇して俺は頷いた。
「・・・事故の時、おまえは瑠璃ちゃんに飛びついた。と、ここまではいいな。」
俺はゆっくりと頷く。
「そのとき、おまえは飛びついて地面に落ちた。そのときにな・・・」
東が唾を飲み込む。俺も思わず唾を飲み込んだ。
「おまえの顔が瑠璃ちゃんの…その…胸の谷間に埋まってた。」
「・・・・・・」
俺がそれを理解するのに数十秒もかかってしまった。
「それに対する反応は控えさせてくれ。」
重々しげに俺は言った。
2人とも無言でそれを了承する。
「あ、茜。俺、こいつとちょっと2人っきりで話がしたいから、廊下で待っててくれ。」
To be continued
この話はフィクションです。
実在の組織、グループ等とは何ら関係ございません。
尚、KST内とのプロフィール等とは少々相違点がありますがご了承ください。
作者さんへの感想、指摘等ありましたらお気軽にこちらまでどうぞ