もし貴方が私を愛してくれて







 ディアーナ・ボルドィレフという女性の名は、裏社会において恐怖と畏敬で呼ばれている。彼女の名は忌み名であり、支配者の一つ名であり、麗しき女傑の通り名でもあった。

夜の一族の支配を狙った一家のボス、己の父親でもある男を逮捕による引退に追い込んで、ロシアンマフィア最強の地位を確立した女性。

彼女が新しいボスに就任することにより、生業としていた今までの違法ビジネスは完全に見直され、貿易業などの合法的なビジネスに積極的に手を出して、莫大な富を築き上げた。

ディアーナの賢明な支配の下、ロシアンマフィア組織は拡大を続ける一方で、暴力による支配から栄智による統治となり、ロシアという一国を超えてヨーロッパ大陸へと広がりつつある。

急速な変化は時に急激な歪みを生み出してしまうが、彼女は清濁織り交ぜた改革を成し遂げることで、混乱をもたらさず着実に組織を運営していく。


合法と違法――相容れない手段を矛盾なく成し遂げることが出来たのは、妹のクリスチーナの存在が大きい。


クリスチーナ・ボルドィレフは姉に反する存在であり、暴力の権化。殺人姫の異名は伊達ではなく、父の血を濃く継いだ彼女こそボスに相応しいとの評価も高かったという。

ディアーナとクリスチーナ、水と油の関係だった姉妹が見事に溶け合ったのを訝しげに思う者も少なくない。二人は決して、共に生きられる人間ではなかったからだ。

事実ディアーナの正当なる支配を望まぬ者達はクリスチーナを幾度と無く担ぎ上げようとしたが、他ならぬ本人の手で粛清されてしまっている。

彼女達が支配するロシアンマフィアの組織は、表裏問わず社会にとって必要悪。ある種矛盾しながらも、世界に必要とされる存在へと昇華したロシアの姉妹。


欲望と暴力の塊である父を見て育った姉妹の、突然の変化――二人は何故変わったのか、世界の人達は今も原因を知らずにいる。



「あけましておめでとうございます、貴方様」

「……毎年思うんだが、気軽に日本に来て平気なのか」

「お正月休み、家族で過ごすのは当然です」

「マフィアに正月休みとか、片腹痛いわ」


 不意打ちの来訪のように言っているが、事前に連絡を受けて俺が直接迎えに来たのである。歓迎だけの意味ではないのだが、ロシアンマフィアの女ボスはとても嬉しそうだった。

裏社会の大物に、本当の意味でのプライベートはないと言ってもいい。マフィアは悪の代名詞、国外へ出るだけでも異名は付き纏い、悪名が正義の味方を追わせてしまう。

特にロシアの支配者の来訪ともなれば、一国を揺るがす大事態である。彼女のことだから、あらゆる布石を打ってきたのだろうが。


「今年一年も、妹共々よろしくおねがいしますわね」

「ロシアと日本とでは、新年の意味合いも変わってくると思うんだが」

「私と貴方様の関係は不変でありたいものです」

「俺が望んでいるみたいに言うんじゃねえよ」

「ふふふ、私は殿方の心変わりを気軽に待つ女ではありませんよ」


 こんな言い方をしているが、ディアーナは基本的に俺を罠に陥れるような女ではない。恋だの愛だのについては処女のように純情で、子供のように可愛らしい。

ただ彼女の持つ力と暴力じみた背景が、彼女の愛を一方的に重くしてしまうのだ。マフィアの女という事実だけでも、大抵の男は腰砕けになってしまう。どれほど、美しくても。

だからこそ受け入れてくれる男が得難いのだが、それだけの理由で彼女ほどの女性が好きになったりはしない。彼女を求めるのならば、男もまた求められるようにならなければならない。

彼女の愛は男にとって最上の価値となりえるのだが、難儀させられただけに失礼ではあるが達成感よりも疲労の方が大きい。

ここまで漕ぎ着けるのに、本当に苦労させられた。


「で、肝心の妹は何処へ行ったんだ」

「飛行機を降りるなり、あそこのお土産さんに飛び込んでいきました」

「ウサギ、お団子食べるー?」

「土産物屋で何を食っている、ロシア娘!?」


 天使をイメージしろと言われたら、誰もがこの娘のような女の子を想像するだろう。お伽噺から飛び出たような可憐な少女が、きな粉で手や口をベトベトにして団子を齧っている。

国際空港で運営管理は厳しいはずなのに、ニコニコ顔で店内でお団子を食べている少女を誰も叱ろうとしない。少女の愛らしさに心を奪われたのか、本能が少女に近付けまいとするのか。

ディアーナの妹、クリスチーナ。天使のような、悪魔。数えきれない数の人間を壊した、少女。殺人の天才であり、暴力をこよなく愛する狂人。

裏社会の強面揃いを震え上がらせる悪名高き少女、ディアーナの支配を盤石にした悪魔の妹が団子の串を振り回している。


「日本のお菓子もなかなか美味しいね。ジャパニーズ、フレンチ?」

「日本の土産物屋なら何処でも売っている、ありきたりなお土産だよ。というか、ここで広げて食べるんじゃねえよ」

「えへへ、怒られちゃった」


 面白がって振り回す串を取り上げるが、クリスチーナはご機嫌なままで飛び付いてくる。正月であろうと何であろうと、特別意識せずにこの子はいつも無邪気だ。

誰にでも、ではないのは分かっている。恐ろしいほど気まぐれなこの子は、その日の気分で人を殺しも生かしもする。口答え一つで半殺しなんてザラだ。

機嫌がいい時でも笑って骨を砕いたりするし、この子にとって暴力は遊びと何ら変わらない。マフィアの中で生まれ育った少女に、倫理観なんてありはしなかった。

人の形をした災害――それゆえに誰も近付けず、少女は孤独のままでいた。父親でさえも、取り扱いに苦労するほどに。姉でさえも、憐れみながらも恐れるほどに。


今までは、ずっと。


「ディアーナに迷惑はかけていないだろうな。ちょっと目を離すとすぐに悪さをするからな」

「心配なら、ウサギがずっとクリスの傍にいてくれればいいよ。いっぱい、いっぱい、可愛がってあげるから」

「俺と一緒にいたらゴロゴロするだけじゃねえか、お前。落差が激しすぎる」

「だって、ウサギとぎゅっとしていると気持ちいいもん。ねえねえ、ウサギ。今晩、また一緒に寝ようね」

「全力でしがみついて来るから嫌だ。お前は俺という友達を抱きまくらと勘違いしているだろう」


 ハートマークを飛び散らせる女の子の襟首を掴んで、土産物屋から引きずり出す。雑な扱いをされているのに、クリスはキャッキャッとはしゃいでいた。馬鹿だ、こいつ。

元々アニメやゲームの文化が盛んな日本には興味があったらしいが、俺と知り合ってますます日本贔屓になったらしい。いつも日本に来ては、電気街の名を冠する謎の空間に連れ回される。

俺の言いつけは本当によく守り、俺の目の届く所では悪さもしない。暴力を愛する少女のこうした無邪気な姿を、裏社会の誰が想像できるだろうか?

その裏社会の今の支配者も年頃の女の子のように、ご機嫌斜めに頬を膨らませている。


「貴方様、クリスを甘やかさないで下さいと何度も言っているじゃないですか」

「叱っているだろう、こうして」

「こうして貴方様がかまうから、クリスが面白がるんです。程々にして下さい」

「そう言われても難しいんだよ」


「もう……こうなったら、私が悪さをしてみようかしら」


「マフィアのボスの悪さとか、シャレにならないから!?」

「火遊びとかは、結構好きなんですよ?」

「意味深な笑みで迫ってくるんじゃない」


 実を言うと、妹よりも姉のほうが甘えん坊なのである。警察当局や同業者には一切の隙を見せない女性が、隙だらけの微笑みで甘えてくるのである。

男を狂わせるこの笑顔がクセモノで、ほんの少し心を許すとエスカレートしてくる。真っ昼間から、マフィアの女ボスと懇ろになりたくはない。

全く、この姉妹は人の目もあるというのに――


うん……?


「どうかなさいましたか、貴方様」

「……いや、今チラッと見えた男が気になってな」

「よく分かったね、ウサギ。あいつ、殺し屋だよ」


 なるほど、妙な感じがした思っ……えっ!?


「殺し屋……?」

「うん、殺し屋。ディアーナとクリスを殺しに来たんだね」

「な、何で、お前らがここに来ていると分かったんだ。ちゃんと、万全に根回しをしてきたんだろう」


「いいえ」


 何言ってるんだこいつ、と言わんばかりに不思議そうな顔をする二人。キョトンとしたその顔が可愛い、などと言っている場合じゃない!

美人姉妹を有無をいわさず物陰に押し込み、二人の華奢な肩に手を置いた。もう色んな意味で、猛烈に力を込めて。


「根回しは当然、してきたんだよね!? そうだと言ってくれ!」

「いいえ、何一つしておりませんわ」

「正月休み、ウサギを一緒に過ごすために来ただけだよ」

「何を得意満面に、馬鹿なことを言っているんだ!? 白昼堂々と、日本にいる男に会いに来たら、何か意味があると思うだろう!?」

「既成事実というやつですね。この際、二人目を作りましょうか?」

「いやーん、ウサギったら正月早々姫始めする気なの。クリスも混ざる!」

「おまわりさん、こいつらです!」


 とばっちりを受けたらたまらないと容赦なく見捨てるが、いとも容易くとっ捕まってしまう。ディアーナは俺の右手を、クリスチーナは俺の首に両手を回して。

血に濡れたその手は、愛情溢れる力を込めて。鬱屈とした裏社会の空気を簡単に浄化させて、二人は綺麗な笑顔を向けてくる。

毒気たっぷりの、邪悪な微笑みで。


「逃がしませんよ、貴方様。運命を共にしていただきますわ、永遠に」

「今年も、来年も、ずっと可愛がってあげるからね。ウサギ」


 良識ある社会からはみ出してしまった罰当たり者達が、今年も大いに世間を賑わせる。

明るく無邪気に――そして、残酷に。































<終>







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