Ground over 第五章 水浜の晴嵐 その14 暗号
俺は自分が良識的な人間であると思っている。
自由奔放で独創的な価値観を持つ葵が俺を常に枠外の領域へ連れ出しているが、連れられた先も現実社会の範囲だ。
子供の悪戯、自由な時間を持つ学生だけの特権。
社会に奉仕する大人達から見れば、超常現象を追い求める葵でさえ子供の夜遊び程度にしか見られていない。
まして嫌々付き合っているだけの俺は、普通の学生と変わらない。
将来科学者を目指し日々研究しているが、科学者だって一般人だ。
社会の枠からはみ出す行為に躊躇するのは当然。
向かう先が犯罪者ならば回避すると抗う気持ちは、当然の心理だ。
俺は当たり前の人間――認識は出来ているのに、足が勝手に震え出している。
『少しだけど……一緒にいてくれて、嬉しかった。
遊んでくれて、本当に楽しかった。
……ありがとう』
少女の最後の言葉が、胸を深く抉る。
頭の中で再生する度に汗が滲み出て、喉がカラカラに渇く。
静かな理性に凶暴な本能が荒れ狂い、心を滅茶苦茶に掻き乱す。
自分を守る理性と、人を救おうとする本能――
人間には誰しも心に天使と悪魔を住まわしている。
世界の果てで誰が死のうと心が痛まないのに、目の前で誰かが傷付けば心が動いてしまう。
赤の他人である事に違いは無いのに、この身勝手な気持ちは勝手に生まれ出でるのだ。
気持ち悪くて堪らない。
俺は俯いたまま、ジッと拳を握って座り込んでいた。
――目の前の、空席だけを残して。
俺をからかい続けた小悪魔な御姫様は、既に席を外された。
たった一日だけの関係は嘘のように、簡単に消えてしまった。
暗殺者に追われ、実の母親に命を狙われている少女が――俺を案じて、勇敢に飛び出して行った。
明るい女の子の声は、既に聞こえなくなっている。
――聞こえるのは、群集の戸惑いに満ちた悲鳴。
王女の麗しき存在感はこの広い町でさえ飲み込むほどに、尊く美しい。
裏通りの古びた店の前でも、白鳥が一声鳴けば雀達の関心を強烈を引いてしまう。
ただでさえこの街は今、現在王女誘拐事件で緊張を帯びている。
役人達が走ってくるのは時間の問題だろう。
俺は大々的に指名手配されている身、あの娘もそれは分かっている。
恐らく人の気を引きながら移動して、表舞台に出て行くだろう。
王女として国民達の前に――
――無力な子供として、傲慢な母親の前に。
「……分かっているさ、俺だって」
如何に世間の常識を紐解いたところで、女の子一人を見捨てた事実は変わらない。
今の自分がどれほど惨めでみっともないか、分かってる。
少なくとも葵が好むゲームやアニメの主人公ならば、断じて見捨てたりはしない。
御姫様を守る勇者として難航不落の相手でも果敢に戦い、勝利を収めるだろう。
必要な年齢さえ満たせば、美しい姫君との恋もありうる。
王女だって一人の女性、結婚相手を選ぶ権利は無くても心は自由。
――こんな座り込むだけの男を、絶対に選ばない。
俺は頭を抱えて、テーブルに額をぶつけた。
ガンガンと何度もノックのように打ち据えて、自分を呪い続ける。
俺は間違えていない――心の何処かで自己弁護する自分を。
俺は葵のような英雄願望はこれっぽちも持っていない。
ありがちな不幸な幼少時代を送っていたからではなく――単純に、物心をつくのは早かっただけ。
この世の中にサンタなんていないと分かった瞬間、多分現実社会に溶け込んでしまった。
平和主義を掲げる国家に守られた、一般人の一人として。
こんな世界に無理やり連れて来られてさえいなければ、俺はこんな問題に悩む事は無かっただろう。
――在りえない話だからだ。
「……? え――その……」
光り輝くスキンヘッドの親父さんが、白いカップにコーヒーを注いでくれた。
多分……俺達の話は聞いていただろう。
小声で話していたつもりだが、最後の方は意識なんてしていない。
狭い店で二人だけ――加えてこの世界に馴染まない洋服の俺と、白銀の髪の少女。
訳ありだと人目で分かるお客さんだ、気にしない筈は無い。
親父さんは何も言わずお代わりを入れてくれて、背中を向ける。
少女を見捨てた俺を責めず、さりとて何か優しい言葉もかけない。
俺を客として尊重し、気遣ってくれた。
湯気の立つコーヒーが温かく身に染みて――その苦味に、泣けてくる。
一気に飲み干して、立ち上がった。
――ホテルに戻ろう、俺の役目は既に終わった。
このまま座り込んでいては、俺は逃げる事さえ出来ない。
此処は別次元、自分の世界にさえ戻れば御伽話に変わる。
今はまだ良心の呵責を覚えているが、いずれ日常に埋もれて忘れていくだろう。
俺が居た世界では、それが当たり前だったのだから。
同じ国の人間でさえ、ブラウン管の向こうで新でも眉一つ動かさなかった。
――母親に殺された子供のニュースを聞きながら、ご飯を食べていた。
俺が異常なのではない、毎日を忙しなく生きる人間に毎日何処かで起きる事件など他人事なのだ。
我が身にさえ降りかからなければ、自分とは関係の無い悲劇に平然と目を瞑る。
天皇陛下の娘が死んでも、真剣に悲しむ人なんて関係者以外では誰もいないだろう。
俺は今まで疑問も無く、そういう世界に生きてきた。
関係さえ、無ければ――
――頭を振る、もう帰ろう。
葵達も今頃指名手配の件で、きっと心配してくれている。
あのお人好しの妖精や英雄万歳の葵が今回の事情を聞けば怒るかもしれないが、知った事ではない。
深く関わり過ぎた事が今回の反省点であり、これまでの過ち――
一刻も早く旅を終わらせて、自分の世界へ帰ることに専念しよう。
小さく一息吐いて、テーブルの上の伝票を探す自分に気付いて苦笑する。
――やっぱり、俺は向こう側の人間だ。
自分の中に存在する微かな昔の習慣に少しだけ癒されて――ハッとする。
「あいつ……勘定払ったっけ……?」
残された二つのコーヒーカップ。
優雅に飲んでいた少女は笑顔を残して、群衆の中に消えて行った。
自分の痕跡を何一つ残さず――
――お金も一切、置いていかずに。
ちなみに当然だが……無理やり連れ出された俺に、微々たる金しか持っていない。
愛想良く奢る義務なんぞ当然無かった。
追いかけないといけない――お金を払わせる為に。
「……ふふ、あはは」
何と言う勇者か――
命を狙われている姫君を我が身可愛さで好意に甘えておいて、コーヒー代を払わせようというのだ。
みっともないにも程がある。
あまりにもカッコ悪い自分が可笑しくて――思わず笑ってしまう。
そうだ――追いかけなければいけない。
暗殺者に襲われる? 黒幕は国家? 敵は国民全員?
だから、何だと言うのだ。
俺は何一つ悪い事はしていない。
胸を張って堂々としていればいい。
第一、何故俺が罪悪感に苦しめられなければならないんだ。
罪の重さに苦しまなければならないのは――俺を嵌めた連中だろう?
自分の子供を殺そうとしている、母親だ。
そして――
――自分が飲んだコーヒー代も払わない、あの我が侭なお嬢様だろう。
何とも……俺らしい理由ではないか。
些細なきっかけから行動の糸口を掴む、それもまた科学者に必要なセンスだ。
死なれては困る――あの可憐な女の子に。
コーヒー代を払わせるまでは、絶対に死なせない。
絶対に、だ!
「親父さん、勘定は悪いけど――ツケておいてくれるか?
あいつに絶対に払わせるから」
「行ってやりな」
何とも寡黙で、頼もしい一言だ。
風体こそ奇妙な店長だが、この異世界へ出逢えて良かった。
俺は頭を下げて、店の外へ飛び出した。
御姫様と庶民ではなく――美味しいコーヒーを飲んだ、テーブル席の関係を求めて。
<第五章 その15に続く>
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