Ground over 第五章 水浜の晴嵐 その8 白翼






空を飛ぶという初めての経験をした今の俺は清々しく――そして寒かった。

普段着で上空を駆け上がれば、極寒に震える。

本来瞬時に地上から空へ生身で上がれば気圧差が生じるが、何故か全くその影響はない。

呼吸困難に陥らず、新鮮な空の旅を味わえた。

どういう原理なのか不明だが、物理法則が適用されていない。

身体に影響がない理由は――魔法?

物理現象を無視し、科学を根底から覆す力の影響なのだろうか。

肺を守ってくれるなら、寒さにも耐えられるようにして欲しいが、その辺の融通は利かないらしい。

アリスの翼――

広大な空によく似合う白い翼は気高く、美しい。

魔法ではなく、どちらかと言えば鳥のような生物学的理由で飛んでいる気がする。

――考えても仕方ない、か。

寒さに張り詰める肌を摩って、俺は懐かしい地面の感触を味わう。


「とうちゃーく。此処でいいの、キョウスケ?」

「日が落ちたとはいえ、街中に堂々と降りるのは目立ち過ぎるからな。
港の方がまだ安全だ」


 ホテルから文字通り飛び出して、夕焼け空を堪能した二人。

正直まだ空を飛んでいたかったが、夜になってしまったので仕方ない。

俺の手を繋いで飛翔するアリスに指示を出し、俺はある着陸ポイントへ導いた。


港の倉庫。


開かれた港の右端側に位置する倉庫群の隅に、俺達は静かに降りる。

昼間は賑わっていた港も、夜になれば静かなものだった。

船から降りた観光客は街へと繰り出し、久方ぶりに運航した船を出迎えた街の人々も帰っている。

あまり騒ぎにもしたくない。

誘拐なんていう意味不明な出来事に巻き込まれているが、平和な時間を取り戻す気持ちは緩んでいない。

人目につかない場所を選ぶ上で、俺の知る限り立ち並ぶ倉庫はいい遮蔽物だった。

下の世界のように照明施設が充実していない港は、静寂に満ちた闇の世界だった。

最低限の灯りと星の光が、暗闇をより濃厚にしている。

子供が迷えば泣きそうな不気味さがあるが、俺を引きずり回す女の子は珍しそうに周りを見ていた。


「汚いところだねぇー。キョウスケのお家みたい」

「俺の家を見た事ないくせに、比較対象にしないでくれ」


 ――散らかってはいるけどな。

研究資料と化学薬品、発明材料に埋もれた部屋を思い出してこっそり呟いておく。

家か・・・

乱雑とした部屋だったが、今は無性に懐かしい。

宿泊先に不自由はしないが、自分の家がやはり一番良い。

元の世界への帰還を諦める気には、やはり到底なれない。

今は所詮束の間なのだと、強く思うことが大切だ。


「コラ、キョウスケ! 
レディーを前にして、何ボケッとしてるのよ!」


 膨れた顔をして、アリスは俺の腰を抱きかかえる。

思いのほか勢いが良くて、ついよろけてしまう。


「もう・・・わたしを暗がりに連れ込んで、つい妄想に耽る気持ちは分かるけど」

「おいっ!?」

「わたし初めてだから・・・夜景の見える素敵な宿がいい」

「そこから強制的に連れ出されたんだよ、俺は!」


 頬を赤らめるな、頬を。

見た目は人形のような整った容姿の女の子で、ソプラノボイスで大人のような物言いをする。

どのような冗談を口にしても、上品に聞こえてしまうので余計に性質が悪い。

本気で怒れないのは子供だからか、この娘だからか・・・

何にせよ、何時までもじゃれ合っている場合ではない。


「とにかく、移動しよう。
宿にはもう戻れないから、何処か腰を下ろせる場所を見つけないと・・・

・・・あれ。

ああああっ!?」


 愕然とする俺。

傍から見て挙動不審だったのか、怪訝な顔をするアリス。

問われた視線を受け止めて、俺は小さな声で呟いた。


「荷物・・・置いて来てしまった・・・」

「――。

おにーちゃん、つかぬ事を御伺いしますが――」


 聞きたくない、非常に聞きたくない!

全力で耳を伏せるが、アリスの大人びた――切れ味抜群の冷淡な声が耳の奥まで突き刺さる。


「――お金はちゃんと、持ってきてるよね?」


 きゃあああ、言わないで!?

現実逃避という科学者には似つかわしくない行動を、俺はやらかしてしまった。


そうなのだ――


出かける際に荷物を整理したのだが、窓から外へ連れ出された時置いて来てしまった。

衣服類はおろか、工具や化学品――旅の路銀まで。

全財産と発明品が、あの部屋で主人の留守を守っている。

――まずい。


「キョウスケって、実は甲斐性なしなんだー」

「あんな状態で飛び出してきたんだ、仕方ないだろう!?」


 手に持ってたのに、ドタバタで落としてしまったのだ。

痛恨の痛手である。

今更、あのホテルに戻るのは無理だ。

今頃少女の悲鳴を聞きつけた従業員が、室内の確認をしているだろう。

科学者と被害者が居ない現場なので判断に困っているだろうが、誤報として認識はしないだろう。

ホテル内を捜索・見回りをして、最低でも滞在客の所在を確かめるに違いない。

室内に残されているのは荷物のみ。

荒らされた形跡もない以上、事件に発展しようがない。

問題はアリスの背後関係。

今はもう夜。

保護者か親類、アリスの身元引受人が探し回っているかもしれない。

アリスが何も話さないので何とも言えないが、ホテル側と連動すれば、騒ぎの規模は一挙に拡大するだろう。

現状況は危ういバランスを保っている。

どう転ぶか何とも言えないが、何をするにしても金や装備が必要だ。

初っ端からミスるとは、また雲行きが怪しくなって来た気がする。

せめてビジョンを携帯していれば、仲間と連絡が取れたのだが――


「アリスはビジョンを持ってないか?」

「えっ――いよいよ、誘拐表明するの?」

「違う! 仲間に連絡を取るの!」


 頼むから、期待するような顔はやめてくれ。

お宅のお嬢さんは御預かりしました、なんて言いたくない。

アリスは心から不満げに口を尖らせた。


「おにーちゃんは誘拐犯としての自覚を持って欲しいな」

「持ちたくない、持ちたくない。
無いなら無いって、最初から言ってくれよ。
・・・困ったな・・・」


 これからどうする――?

ホテルに戻れないので、仲間と連絡が取れない。

公衆電話ならぬ、公衆ビジョンとかないだろうか?

――どっちにしろ、金がいるか。

腹も減ってきたし――



「――キョウスケっ!」

「どうし――っ」



 アリスが鋭く視線を向ける先。

港の暗がりを縫うように、何人かの人影がこちらへ向かって来る。

通りすがり、港の関係者――?



――常識的な推測は、俺のこの世界での経験が否定した。



「逃げるぞ、アリス」


 胸に湧き上がる不安――

俺は小さい手を掴んで、思いっきり駆け出した。
















































<第五章 その6に続く>






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