私の選択
『もしもし、戸塚ですが』
電話に出たのは、声の感じが二十代半ばくらいの女性でした。
「戸塚さんのお宅でしょうか? 間違いないですね? 私ですか? ええ、それをこれからご説明いたします」
女性は、私の話しぶりと声の抑揚に、不審者を相手にするような受け答えをしました。私の声が、ヘリウムガスを吸引した九官鳥が詩吟するみたいな、奇妙なものになっていたからでしょう。安物ですけど、このヴォイスチェンジャーの効果は抜群なようですね。
耳障りな自分の心音を無視し、私はいつもどうり平静を装って受話器に向かった。
「では、単刀直入に言わせていただきますね。貴女のお子さんをこちらでお預かりしています。どういう意味か……解りますね? 貴女の娘さん、なゆきちゃんですね、彼女を誘拐させていただいたということですから」
受話器の向こうで女性が息をのむのが分かった。これで、心理的優位に立つことができそうですね。
「ああ、ご安心を、別に危害を加えたりはしておりませんから」
こちらの丁寧な口調(とは言っても、それは慇懃無礼と同じ種類の表面的な丁寧さにすぎませんが)は、相手にとって不気味以外の何物でもないでしょうね。鼻息荒く金を要求するような三流のような方とは、私は違います。
もっとも、私もお金の要求はしますけどね。
『どうしてうちの子を……』
母親とおぼしき女性が、喉をひくつかせながら訊ねてきました。
「どうしてもこうしても、たまたま目についたからです。お宅のお子さんがです。お気の毒です。しかし、安心して下さい。こちらの要求と指示にしたがっていただければ、お子さんには何らの危険も御座いませんから」
『よ、要求とは?』
「奥さん、誘拐を扱ったドラマなんかを見たことないのですか? 決まっているでしょう、お金ですよお金。身代金というやつです」
『お金……』
「ああ気にしないでください、大丈夫ですから。億とかいうとんでもない額を用意しろなんて無茶は言いませんから。ああ、それからくれぐれも言っておきますよ、警察には連絡しないように。貴女のためになりませんよ」
――なりませんよ、の部分で声を太くして、ことさら強調するように言いました。
警察に連絡するなとは言いましても、そんなものは、紙が風で飛ばないように文鎮を置くところを、ストローで代替するようなものです。
効果は期待できません。だけど私は、被害者が警察に連絡する気を起こさないように、いくつか考えていることがあるんです。簡単なことですよ。まずは身代金の金額を低く設定することなんです。
何千万も要求したところで、そんなものが右から左にポンと用意できるなんて思ってはませんからね。大金を要求されれば、並の家庭の人なら、自分達の手には到底負えないという焦りや不安で警察を呼んでしまいますからね。
そこを逆手に取ればいいんです。なんとか自分達だけで解決できると思えるような金額を要求するんです。
「いいですか? 十万円です。十万円用意してください」
『え!?』
気の抜けたような声が返ってました。藪をつついたら蛇ではなくミミズが出てきたような間抜けさを、女性は感じたのかもしれませんね。私もいささか自嘲気味に鼻で笑ってしまいました。
「驚きましたか? まぁ無理もないでしょう。一体いくら要求されるのかと思いました? 間違いのないように繰り返しますが、十万円です。福沢諭吉が十人だけです」
つい口調がからかうようなものになってしまいます。
『他には……?』
半ば毒気を抜かれたような声で女性が訊ねてきます。
「他? いえ、それだけです。十万円を用意していただき、こちらの指示通りにお金を届けていただければ、他に望みはありません」
私が考えていることのもう一つは、たった十万円のために誘拐に踏み切るこちらの不気味さを持って、万一の場合には子供の命が保証されかねないという印象を相手に与えることです。
十万円を惜しんで子供の命が奪われるよりは、泣き寝入りする方がマシだとそう思わせるのです。損して得取れの発想を植え付けようというワケなのです。(もっとも、相手には損しか残らないんですけれど)
女性は黙り込んでしまいました。
「たかが十万円のために誘拐をするなんて、何を考えているんだ。――そんな風にお思いでしょうか? まぁ世間一般の感覚から言えばそうかもしれないですね。しかし、逆にお考え下さい。たった十万円で娘さんの命は保証されるのです。
そして、たった十万円を出し渋った結果、娘さんは神隠しに遭うことになります」
『……たった十万円』
「ええ、十万円です。随分安く見られたものだと不服に思われたでしょうか? しかし、この額は娘さんの価値を反映したものではありません。私は、単に十万円を手にすることができればそれでいいのです。
例えさらったのが会社の重役の子供だろうが中流家庭の子供だろうが、要求するのは十万円です」
受話器が黙り込みました。
「繰り返し言いますが、警察には連絡されないように。もしこの取引きがこちらにとって望ましくない方向に進んでしまった場合、娘さんの命ばかりか、お宅様の他のご家族にも累が及ぶやもしれませんので」
考えの三つ目がこれです。取引きが失敗した場合には報復があることをほのめかしておくことです。そうすれば向こうもへたには動けません。
そして、あくまで取引きがこちらの予定通りに済めば、子供はちゃんと返すということを強調すること。
子供の解放後、被害者が警察にことの次第を伝えることがあったとしても、その時には私はこの街からは姿を消しているという算段です。
残る問題は、身代金の受け渡しです。さらってくるだけなら簡単なんです。誘拐においてもっとも犯人の手腕が問われるのは、この身代金の受け渡しをいかにしてクリアするかです。
歴代の誘拐犯達は、それこそあれやこれやと煩雑な手段をこうじて、
自分自身の安全を確保しつつ、かつ身代金を手に入れる方法を模索してきました。
にもかかわらず、その大半が失敗に終わっていたりするんです。指定した場所に金を置かせておき、それをこちらで回収するなんてのは論外なんです。
架空の銀行口座を設けたりする犯人もいたようだが、これも捕まえてくれと言っているようなものですから。
身代金を持った被害者を電車に乗らせ、携帯電話で指示を下しながら特定のポイントに電車がさしかかった時に、窓から金を投下させるなんていう方法も考えられました。
また、密封した容器に金を入れさせて、それを川に流させるという奇抜なアイディアもありますが、いずれにしろ私にとっては他山の石にすぎません。おかげで今回、私はそれらと全く違う方法を考案することができたのですから。
「いいですか奥さん、では、これから身代金の受け渡し方法をご説明いたします」
はやる気持ちと声のトーンを押さえて、私は切り出しました。
「まず――」
『……っく、っく』
いよいよ、私が考えに考え抜いた指示を授けようというその時、受話器の向こうからしゃっくりのような声が聞こえてきました。
『っく、っく、っく』
「どうしました?」
『あっははははは〜〜あ〜っはっはっは〜〜』
女性が高らかな笑い声を上げる。ショックのあまり、横隔膜が痙攣でも始めたのでしょうか? と私は思いました。
私が怪訝に思って黙っていると、
『……殺しちゃていいわよ』
「今なんと?」
意外すぎる言葉が返ってきました。思わず私の方が訊ねていました。
『だから、お金を用意して、あんたの指示に従わなければ娘を殺すっていうんでしょう?』
「え、ああそうですが」
『だったら、お金は用意しないから、あんたの要求はのまないってことね。すると娘は死ぬことになる。要求がのまれない場合は殺すって、あんたが宣言したんだから』
殺すなんて、そんな直接的な表現を私は一度もしていません。いや、そんなことは今は問題じゃないんです。この女性は何を言っているのですか?
『あ、そうそう、一つ確かめておきたいんだけど、あんた本当にうちの娘を誘拐したの?』
「ええ、もちろんです。ここにちゃんといますから」
それは間違ありません。私のすぐ傍らには、さるぐつわをかまされたなゆきちゃんがいます。胸には「うさぎくみ・とつかなゆき」と書かれた名札が付いています。
「こ、声を聴かせます」
どういうことでしょう。全く予想外の展開に、私はすっかり狼狽してしまっています。
幼女のさるぐつわと、両手をうしろ後ろで手に戒めていたロープとを取り外す。そして受話器を持たせました。
「……ママ」
蚊の鳴く声の方が大きいのではないでしょうかというくらいのか細い声で、なゆきちゃんは受話器の向こうにいるはずの母親に呼びかけでいました。
『なゆき? ごめんねぇ、お母さんあんたのこと助けてあげられないから。じゃあおねえさんと替わってくれる』
それは私にも聞こえていました。なゆきちゃんがおずおずと差し出す受話器を受け取ります。が、私には女性に向けて発する言葉が思い当たりませんでした。
『本当に誘拐したみたいね。でも、さっき言ったようにあんたの要求には従わないから』
当然のことですが、身代金目的の営利誘拐というのは、被害者側がさらわれた人間を無事に帰して欲しいと思うからこそ成り立つのであって、「殺していい」などと言われてしまってはどうしようもありません。
だからと言って、本当に殺しては本当に元も子もなくなります。
「子供の命が惜しくないんですか? 私がやらないとでも思っているつもりで?」
そうだ、殺していいなんて言っているのは、実は本心ではなくハッタリなのだ。私はそう思いました。
『別に、だから言ってるじゃないの、殺していいって。それに殺さないと思ってないワケじゃないわ。娘の命は……どっちでもいいわね。むしろあんたが始末してくれるのなら願ったり叶ったりかな』
「……な!?」
二の句が継げません。ブラフでもなさそうです。
『なんで私がこんなこと言うのか解らないって感じね。いいわ教えてあげる』
背徳の蜜をこっそり舐める愉楽にも似た声音で、女性は囁きました。
なゆきの服の袖をまくってみたら解るわ。クスクス笑いながら女性は言いました。
膝を抱えてうつむいたなゆきちゃんに近付いてみます。腕を取ろうと手を伸ばしたら、なゆきちゃんが激しく震えているのがわかりました。声は上げないでと言い聞かせてから、おもむろに服の袖をまくり上げました。
口が開けませんでした。なゆきちゃんの前腕の中ほどから上腕にかけてが、奇妙な色のスタンプを押されたかのように変色していたからです。血色が悪いとかいう次元の問題ではありません。
怯え、青ざめたなゆきちゃんの顔色すらも、まだ正常に見えるくらい、それはひどい有り様でした。
再び受話器を握る手がかすかに震えました。
「う、腕を見ました。これは貴女がやったのですか!?」
『そうよ』
なんのためらいも、それを感じさせる間も置かずに女性は平然と答えました。背筋にうすら寒いものが這いまわってきました。
「な、なんのためにこんな、こんな酷いことを」
『酷い? 面白いこと言うわねあんた。勘違いしないで、それは世に言う虐待なんかじゃないわ。躾よ、し、つ、け。まぁ夏場の服装とか、プールなんかがあったりすると、どうしても腕を露出することになるからやっかいでね。
皮膚が弱いからいつも長袖を着ていることにして、プールも特別に欠席させてもらったりと、面倒が多いわ』
「これが、躾ですって!」
知らず声がひび割れた。
『あら、もしかして怒っているの? あんた正気?』
「……殺していいってのはどういうことです」
『ふふん、子はかすがいっていうじゃない。邪魔なのね、ハッキリ言うと。私と夫とをつなぎとめているなゆきが邪魔なの。
だから、気が触れたように振舞っていれば夫も愛想を尽かすかと思っていたんだけど、いっそう私を気遣うようになった。煩わしい。
そこにきてみさとはいつも人の顔色をうかがうようにオドオドしている。気に障るわ。そしたら私の躾も熱が入ってしまうワケよ』
滅茶苦茶です。この女性は喋りながら精神分裂をしているんじゃないだろうかとおもうほどでした。
『いらないのよ、みさとは。だからあなたが殺してくれるなら大助かり。無事に帰してくれなくていいから』
「貴女、それでも親ですか!」
『あら心外ね、誘拐犯なんかにそんなこと言われたくな』
女性の言葉を最後まで聞かず私は受話器を叩きつけていました。私が荒らげた声と一連の物音から逃げるように、なゆきちゃんが耳を塞いでいました。私は、途方にくれました。
『見渡す限りどこまでも田圃が埋め尽くしている農村の小道を、私は一人で歩いていた。
一月前とはうってかわって鋭さを失った陽光に小手をかざし、抜けるような青空を見上げる。そこに広がるのは、青い――どこまでも青い初秋の空。ゆるやかに吹き行き、頬をくすぐる風に思わず微笑んでしまう。
頬から耳元をなぞり、髪をさらって心地よく吹く微風に目を細める。すれ違う老婆に思わず「良い天気ですね」と挨拶をしてしまいそうだ。そんなことは私の普段の行動様式の中にはあり得ない。
だが、このあまりにも平和でぼっかてき牧歌的な風景に包まれている今だけは、「日常」という私にとっての呪縛から開放され、縮みきった身体を一杯に伸ばし、そして弛緩できる貴重な一時だと思えた。
足元には黄緑から狐色に変わりつつある稲の絨毯が延々と広がっていて、先刻から私の髪をいたずらっ子のようにもてあそぶ風に揺られ、稲穂がさわさわと小気味良いリズムを刻んでいる』
本を閉じて投げ出します。ありふれた日常に疲れた主人公の女が、フラリと出かけた旅先で、奇妙な事件に巻き込まれるとかいうミステリ小説でした。
随分前に買って、冒頭の数行を読んだところで、隠公左伝の桐壺源氏となっていたものです。
ふと手にしてみましたが、今の私には何をする気力もないことを再認識するだけでした。
荷物をまとめて引き払う準備をしていた殺風景な部屋で、私は放心し続けています。
幼女、なゆきちゃんの方を見てみます。彼女は、膝をかかえた姿勢のまま、じっと畳を凝視していました。時折私の方に視線をくれるものの、私と目が合うとさっと顔を背けてしまいます。
またちらりとこちらを見ます。すぐに目をそらしてしまいます。私の顔色をうかがっているのでしょうか。
先刻のなゆきちゃんの母親の言葉が頭から離れません。同時になゆきちゃんの腕の傷痕が目に浮かびました。
計画は完全な失敗に終わりました。いや、そもそも始まりすらしなかったような気がします。まさかあんな風に応じられるとは夢にも思いませんでした。
日本での誘拐事件は、戦後から現在にかけておよそ二百五十数件が起きています。
そのことごとくが失敗に、つまり犯人が金を得て逃げおおせた事例がなかったのです(人質が殺されることはありましたが)が、見方を変えればこれらは氷山の一角であると考えられます。
成功率ゼロの犯罪というが、それは表沙汰になった事件に限っての話なのです。
ようするに、成功の事例がないというのは、犯人の、
「人質を無事に帰してほしければ金を用意しろ。そして"絶対に警察には連絡するな"」という常套句を被害者側が反古にして、結果、事件が発覚するからであり、
実際には、被害者側に警察への通報をさせずに取引きを成立させ、まんまと身代金を手にした犯人もいるのではないでしょうか?
そんな淡い妄想めいた考えが、計画の端緒でした。しかし、目隠しを使わなかったりと、今ごろになって細部の欠陥に思い当たります。もう、どうでもいいことなのですけれど。それに今は、他に考えることがあります。
この子を、なゆきちゃんをどうするか。あの女性は本気でした。殺しても何とも思わないでしょう、むしろ喜びさえしそうに感じました。あれは冷静に狂っています。
私にはこの子を殺す気などありません。最初からなかったのです。大口をたたいていたのは私の方でした。子供をさらってくるのが思いのほか簡単だったから、勘違いしていたのでしょう。
身代金を受け取ることができれば、あとは逃げるだけ。そう考えていました。
逃げる? 何から? それがそもそも今回の計画を実行に移した動因でした。でも、それすら、もうどうでもよくなっていました。退路は断たれてしまいました。いまさら他の子供をさらってくる気力などありません。
私は見てしまったのです、人間が裡に飼っている魔性というものを。
「ふ……ふっふっ、あっはははは……はは……」
笑いがこみ上げてきます。またあの女性の言葉を思い出したから。誘拐犯なんかに言われたくないわ。まったくその通りですね。
なゆきちゃんが、自虐の笑い声を上げる私を見ている。ポカンと口を開けて、どこか白痴美的だった。
改めてよく見てみると、この娘はなかなか整った顔立ちをしています。
「帰っていいのよ」
言って私は、でもこの子が本当に帰りたい場所なんてあるのでしょうか? と余計なことを考えました。そして、何かがつながったような気がした。なゆきちゃんが私の言葉を受けて首を横に振ったから。
どうしてあっさりとさらってくることができたのでしょう? 違ったのです、なゆきちゃんはさらわれたんじゃなく、自分から私についてきたのです。彼女は最初から、私が声をかけた時から、自分が誘拐に巻き込まれようとしていることに気付いていたのです。
だけど、あえてそれから逃げずについてきのです。
何故? 母親が自分を助けようとするか知りたかったからのでは?
「帰っていいのよ」
もう一度言ってみます。なゆきちゃんは無言で首を横に振ります。
「帰って、お姉ちゃんのことを警察の人に言っても、私は仕返ししたりしませんよ。大丈夫だから、帰っていいのよ」
強く唇を結んで、なおもなゆきちゃんはかぶりをふります。
「帰りたくないの?」
伏し目がちになゆきちゃんはうなずきました。私の想像は、正鵠からそう遠くはないところを射ぬいてたのでしょう。
「どうして帰りたくないの?」
うつむいたまま、なゆきちゃんは鼻をすすると、涙を浮かべて顔を歪め始めました。
「帰ったら、なゆき、ママに、おこられるもん」
そう言って、なゆきちゃんは泣き伏してしまいました。
たがが外れたように嗚咽をもらすなゆきちゃんを見て、だけど、私にはどうしようもない現実があるだけで……この子に何かしてやれるワケでもないのです。卑小な自分を恨めしく思いました……。
鼻息荒く金を要求する誘拐犯の神経が欲しい。私は中途半端。ああ、あの小説の主人公が羨ましい。日常が嫌だからといって、私に逃げる場所なんてありはしないのですから。
いつのまにか、窓の外は茜に染まっていました。
泣き疲れて眠ってしまったなゆきちゃんを置いて、私は部屋を出ます。閉店間際のスーパーに足を向けます。どういう心境の変化ですかね、今の私は、あの子に何かをしてあげたいのでしょう。
精肉売り場で牛の挽き肉を手に取ります。見ると、牛肉はどれも四割引きとなっていました。
そういえばこの店は明日休業日でしたね、売り場の店員がさかんに売り尽くしセールだと連呼していました。まぁ、私にはもう関係のないことなのですが。
私は、挽き肉をカゴに入れると、鶏肉の棚に目を向ます。ささみの部分を取ってカゴに入れ、次は調味料売り場です。
ブイヨンスープの元を一箱、それからケチャップをカゴに入れます。
次いで、雑貨のコーナーで何品かを見繕い。
最後は野菜売り場に向かいます。
じゃがいも、にんじん、たまねぎにかぼちゃ、あとはサラダに使えそうな緑の野菜をいくつか。
レジに向かおうとして、ふと乳製品売り場に目がいきました。そこでもいくつかの商品をカゴに入れることにしました。卵を買うのも忘れていたのでそれも入れます。
会計に向かいます。財布の中では、福沢諭吉がすました顔で鎮座していました。本当に虎の子の金でしたが、気にすることはしませんでした。
部屋に戻り、扉を開けようとして、はたと思います。
ああ、この扉を開けて、何もかもが復元されていたらどれだけ楽でしょう。あまりにも漠然とした思いでした。
ノブをひねる。部屋の中は出かけた時のままです。
調度のたぐ類いが、折りたたみの小さなテーブルしかない殺風景な室内の、閑散としたその中で寝息を立てているみさとちゃんがいました。
服の下の傷――。
なゆきちゃんは静かに眠っていました。
規則正しく上下する腹部が、眠りの充実を感じさせます。
私はそっとに近付くと、服の袖をずらして腕をさらけださせてみます。
ひょっとして現実というものはこういう色をしているのかしら。安らぎすら感じさせるなゆきちゃんの寝顔の、その肌の色と、腕のそれとは、まるで別の生き物のように違っているのですから……。
みさとちゃんの手を取り、自分の両の手の平で包んでみます。
小さい――。
あまりにも儚く小さい。
いたいけなそれが、私の中に名状しがたいものの萌芽を生み出しました。
なゆきちゃんの手が、私の手の中で軽く握られます。目を覚ましたのかと思い、彼女の顔を覗きこんでみますが、無意識にしたものらしく、なゆきちゃんは変わらず眠ったままでした。
そっと手を置き、室内を見まわしてみます。そんなことをするまでありませんでした。布団はおろか、座布団みたいな気の利いたものは何一つないのです。私は上着を脱いで、眠るなゆきちゃんに被せました。
一息ついてから、買い物の入ったビニール袋を引き寄せて、これから作るもののレシピを頭の中に展開しました。
まずは野菜各種を必要な分だけ取りだし、皮を剥いて切っていきます。
カセットコンロを取りだし、ガス缶を取り付けて、火が点くかを確認します。……大丈夫のようですね。
その上に、使い古してみすぼらしくなった片手鍋を置きます。ペットボトルから水を注いで。水道は、とっくに止められています。
薄くサビの浮いた包丁でたまねぎをみじん切りにします。半球状にしたたまねぎの外周に沿って、放射状に等間隔で包丁を入れていく。
それから、今の切り口と直角に交差するように切ります。細かくなったたまねぎを、さらに、口当たりがよくなるように刻んでいきます。
じわじわと目頭が熱くなってきます。仕方ないですね。これは、生理的な反応ですから。それ以上でも以下でもありません。
みじん切りになったたまねぎの半分を、焦げがこびりついた小さなフライパンで炒め。
続いて、鶏肉、じゃがいも、にんじん、かぼちゃを一口大に切りそろえ。切った材料は、あちこちが欠けている茶碗の中に移します。
気泡のフツフツと立ち昇る音が聞こえてきました。鍋の水が沸いたようですね。切った野菜を鍋の中にポンポン放り込んでいきます。
間もなく野菜のアクが浮かんできましたが、おたまがないので、代わりにスプーンでせっせせっせとすくいます。
一段落してから固形ブイヨンを入れてかき混ぜます。この手のブイヨンには化学調味料の類いも入っているのですが、空腹は、鍋から立ち昇る湯気を、私にふくいくたる香気だと感じさせてくれました。
味見をしてみたが、悪くはありませんでした。
視界のすみで、なゆきちゃんが寝返りをうつのをとらえた。どうやら目を覚ましたみたいですね。
きょろきょろと辺りを見まわし、私の顔で目を止めました。自分が置かれている状況を思い出したのでしょうか、身をすくめて顔を伏せてしまいます。
「おはよう。ちょっと待っててね。今ご飯を作っているから」
なゆきちゃんは、上目遣いに私を見ました。昼は食べていないから、お腹は減っているはずです。
「……うん」
注意していないと聞き逃しそうな小声で、なゆきちゃんはうなずきました。それから、ぐしぐしと目をこする。腫れぼったい目がいっそう赤くなっていきます。
買い物袋から、食材と一緒に購入した布巾を取り出します。私は、布巾にボトルの水を染み込ませて、それでなゆきちゃんの顔をぬぐいます。彼女はされるがまま、布の下で黙っていました。
「お腹空いた?」
私の問いに、なゆきちゃんはごく微かな動作で首肯しました。それから、雑然と広げられた食材や、傍らで湯気を立てている鍋を遠慮がちに見まわしています。
「そうだ、お姉ちゃんと一緒に作ろうか?」
小首をかしげて、なゆきちゃんが再び私を見ました。意外な申し出でしょうか、もしかしたら、あの母親とは、一緒に料理を作る機会などなかったからでしょうか、不思議そうに私を見上げました。
なゆきちゃんを横目に、挽き肉と、先ほど軽く炒めておいたみじん切りのたまねぎとを取ります。そして、ボウルの代わりのどんぶり鉢に、肉と炒めたたまねぎを入れて、卵、調味料などを目分量でいれます。
なゆきちゃんに向き直って、彼女の手を取ります。さっき使った布巾に再び水を吸わせて、キレイな面で手を拭いて。そして、加工前の材料が入ったどんぶりを差し出します。
「これを手でぐにぐにしてみて」
片手で宙を揉むようなジェスチャーをして、どんぶりを手渡します。
なゆきちゃんは、両手で受け取ったどんぶり鉢の中と、私の顔とを交互に見て、こくりとうなずきました。それから、こわごわといった感じで指先を挽き肉に触れさせて、ちょんちょんと人差し指と中指辺りで数回突っつきます。
きっと、生肉に触れるのも、これが初めてのことなんでしょう。
ふと私は、なゆきちゃんの服の袖を腕まくりさせるかどうかで、少し迷いました。けれど、何も言わずにおきました。なゆきちゃんも知ってか知らずか、袖はおろしたままで作業にとりかっていきました。
挽き肉の冷たくて柔らかな感触と、ほんのりと熱を持ったたまねぎと、その二つの対比を、なゆきちゃんはどのように感じ取っているのだろうか。
なゆきちゃんがどんぶりの中のものを掴もうとすると、指の間から挽き肉がにゅるりと顔を出す。それをどんぶりに戻してまた一掴み。にゅるり。また戻す。
ぎこちない手つきで材料をこねる。悪戦苦闘しながらも、どんぶりと格闘するなゆきちゃんが私には微笑ましかった……。
「いいよ、その調子その調子♪」
なゆきちゃんは、今自分がこねているのがハンバーグの原形だとわかっているのでしょうか。そんなことを教えられることはなかったのですから。
やがてハンバーグのたねは、ほどよく混ざり合った。それを整形して、たまねぎを炒めたフライパンで焼く。なゆきちゃんは、パチパチとフライパンの表面がはぜる音に驚きながらも、肉汁がにじみ出る様子を興味深そうに眺めていました。
新しく布巾をおろす。それで、ハンバーグをこねて脂や匂いのついたなゆきちゃんの手を、再びキレイにしてやる。濡れた布巾程度では取れない脂は、別に買った殺菌効果のあるウェットティッシュで丁寧にぬぐってあげます。
焼きあがったハンバーグを、少し大きな皿に盛り、その上に、フライパンに残った肉汁をベースにしたソースをかます。
空いたフライパンで、今度は鶏肉を炒める。火が通ったら、先ほどのたまねぎの残りも入れ、続いて白ご飯を入れた。
なゆきちゃんは、私が料理する様子を、飽きることなくじっと見ている。フライパンを返す動作に合わせて、視線が上下した。
「おもしろい?」
訊くと、なゆきちゃんは私の手元を見たままうなずきました。
ざっと炒めて、塩胡椒、それからケチャップをまわしかけます。火力が弱いのには目をつぶって、ご飯と具に、まんべんなくケチャップがなじむようにフライパンを動かします。
一つのフライパンで、ハンバーグとチキンライスとを立て続けに作るなんて、洋食屋の人間が聞いたら邪道だと言いそうだが、二品ともうまくできました。
チキンライスを、型の代わりの茶碗によそう。その茶碗を、ハンバーグを盛った皿の空いたスペースにひっくり返して乗せます。綺麗な半球状にチキンライスが盛られました。
しかし、これではまるでチャーハンだ。思わず苦笑しながらも、お皿の残ったスペースに、既製品のプリンを容器から出して乗せます。
料理の配置を整えて。あとは、簡単にキャベツなどを刻んでサラダに見立てます。
旗はないですし、見た目もいまひとつですが、お子様ランチの出来あがりです。
小さなテーブルの前に、小さななゆきちゃんを座らせた。私は、なゆきちゃんの前にうやうやしく皿を置き、そして、皿の両脇にスプーンとフォークを添えます。
なゆきちゃんが私を見上げます。私は笑顔を作りやんわりうなずきました。
「どうぞ召しあがれ」
私もテーブルにつきます。なゆきちゃんの向かいに座り、なゆきちゃんが私の料理をどう評価してくれるかを期待しました。
なゆきちゃんは、まずスプーンを取って、ハンバーグを口に合うサイズに崩した。それから、私をちらっと見ました。今一度、私はうなずいて、遠慮なく食べるよう促した。
おぼつかない手つきで、みさとがスプーンを口に運ぶ。
「おいしい?」
ゆっくりと口を動かして、飲みこむ。なゆきちゃんは私を見てうなずいた。
「……おいしい」
なゆきちゃんが、初めて薄く笑みました。
「良かった。ほら、どんどん食べて」
そう言って、私も自分の空腹を満たすことにしました。
ちっぽけな自画自賛ですが、私は料理が得意です。特に今日の料理はどれもよくできていました。チキンライスにハンバーグの風味が付いているあたり、まともな洋食屋ではお目にかかれない一品だと自分では思います。
カチャリ、と、音がした。何かと思ってなゆきちゃんとの方を見ると、スプーンがテーブルの上に寝そべり、その周りに米粒が散らばっていた。チキンライスをすくおうとして、なゆきちゃんが手を滑らせてしまったようです。
「ああ、大変」
布巾を取って、私がテーブルを拭こうと手を伸ばしたら、なゆきちゃんが震え出しました。ぐすぐす鼻をすすりながら、目に涙をためている。
「ど、どうしたの?」
突然のことに困惑しながらも、私は訊ねてみた。しかしなゆきちゃんは、震えながら何かに耐えるようにじっと下を見ている。一筋、二筋、はらはらと涙がこぼれ落ちてきました。
いよいよどうすればいいのかわからなくなり、私は、とっさに頭を撫でてやろうと手を伸ばしました。
「ひっ」
なゆきちゃんは、両腕で頭を覆うようにして固まってしまいました。
「……?」
私が戸惑っていると、なゆきちゃんが泣き顔をそっと上げて唇をわななかせました。
「なゆきのこと……たた……かないの?」
「え…………?」
むしろ、無防備な胸の隙間を激しく叩かれたのは私の方でした。ようやく察することが出来ました。何故なゆきちゃんはこんなにも怯えているのか。彼女は、スプーンを落としてテーブルを汚してしまったという些細な過ちを咎められることを恐れていたのです。
ただ言葉だけで叱られるのではなく、条件反射が身体に染み付くような折檻を。その証拠は、なゆきちゃんの腕に刻印されています……。
「叩かないから……そんなことで叩いたりしないから」
布巾を放り出して、私はなゆきちゃんの頭をそっと包み込んだ。こみあげてくるものがあり過ぎて……止まりませんでした。
あの後、なゆきちゃんはなんとか泣き止み、食事も一応片付きました。
泣き疲れたのか、なゆきちゃんは、私の膝にもたれかかって眠っています。そっと髪を撫でる。ねんねんころりよおころりよ。穏やかな寝顔でした。
……あの時、母親からいらないと言われた時、この子はそれをどんな思いで受けとめたのでしょう。
『ごめんね。お母さん、あんたのこと助けてあげられなくって』
そうでした。私も言われたことがあった。同じようなことを。ただ、私の母親となゆきちゃんの母親とでは、その言葉に込めた想いは、まったく正反対のものでしょうが。
酒に溺れ、日がな一日母さんに忍従を強いる暴君。私の父親像とはそんなものでした。
その、社会の吹き溜まりに、骨を埋めることが目に見えているような男から、逃れるように母さんは家を出ました。その時に、母さんは私に言いました。
ごめんねと。泣きながら。
後に、私は二つ上の姉と一緒に施設に預けられました。月に一度だけ、母さんが会いにきてくれるのがとても嬉しかった。母さんの暮らしは、正直辛いものだったと思いますけど、その時だけは私たちのわがままを笑顔で聞いてくれました。
遊園地に連れていってもらった帰りの、少し小さなレストラン。大きなイス。ゆらめくガス灯と、母さんの笑顔。そして、皿を色とりどりに飾った小さな料理たち。姉さんと二人でポロポロこぼしながら食べた……。
正直味なんて覚えていません。ただ母さんといられるのが嬉しかったのです。
ああ、そうだった。そして、電車の中で、私と姉さんは母さんの膝に頭を預けて眠っていたのでした。
不意に、頬がくすぐったくなった。たまねぎのせいではないです。
なゆきちゃんの頭を撫でる手を止めて、寝顔を眺めた。あの時の私も、こんな安らいだ顔をしていたのでしょうか。
すう、すう、と、小さな呼吸音が私にも安らぎをくれる。
そっとなゆきちゃんの首筋に触れる。伝わってくるぬくもりが、再び私の頬を濡らした。
この町を出ましょう、なゆきちゃんと共に……そして、二人で見つけましょう、心から安らげることの出来る場所を……。
私なんかに出来ることなのでしょうか。
いえ、やらなくてはならないのです
なんとしても
私はなゆきちゃんとこれからも過ごしていきたい。
楽しいこと、嬉しいこと、時には悔しいこと、悲しいことだってあるかもしれません。
それでも……わたしは。
そして――
いつか、あの女性の呪縛から解放され私に満面の笑みを浮かべてくれるまで。
それまでは……なゆきちゃんと共に
後書き
今回は秋子さんを焦点に当ててみました。
口調とか大丈夫でしょうか?
合ってますかね。
それと今回はチャットで知り合った信じる心さんに教えていただいた、タグ打ちソフトを使って作成してみました。
前回の作品ではHPの管理人であるリョウさんにすべて任してしまっていました。
タグ打ちは面倒だと言うことが分かりこれからは自分で打ちます(断言)
……きっとそれが当然なんでしょうね
とりあえず、おかしなところとかあったら指摘をお願いします
感想とかもくれるとかなりうれしいです
それでわ
作者さんへの感想、指摘等ありましたらお気軽にこちらまでどうぞ
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