『知ってる? 私があの人と出逢ったのはまだハイスクールの頃だったのよ』
――――どうして。
『まあ、ハイスクールって言っても“――――”には分からないかな?』
――――何故。
『あの頃は毎日退屈だった。勉強もつまらなかったし、パパもママも家のことばかり』
――――分からない。
『天才だのスノウフィールドの誇りだの言われてたけど、たかが一五の小娘に過剰な期待はどうかと思うの』
――――あの日のあなたはこうも笑顔だったのに……
『でもね、学校の後遊びに行った街であの人に私がぶつかって、大事な書類を風に飛ばしちゃったんだぁ』
――――どうして。
『めちゃくちゃ怒られてさぁ、『子供がどうしてこんな時間に一人で出歩いてるんだ!』ってすんごい顔で怒るの』
――――どうして。
『私さ、飛び級したんだ。だから周りは年上ばっか』
――――どうして。
『それでもみんな子供にしか見えなくてさ。あの人が私を怒鳴ってくれたとき、初めて“大人”って存在に会った気がした』
――――どうして。
『そしたらもう止まらなくなっちゃって、すぐにあの人を探し出した』
――――どうして。
『そしたら驚き、私と二〇歳も離れてたの!』
――――何故。
『まあ、愛に歳は関係ないってことであの人の家に転がり込んだんだけどね』
――――あなたが……
『『ここに置いてくれなきゃ街で宿探す』って脅したわたしが言うのもなんだけど、あの人ってバカよね、何日経っても何もしてこないんだもの。日本人ってみんなそうなのかと思っちゃったわ。ま、日系人のわたしが言っても変なだけか……』
――――幸せそうに笑っていたあなたが……
『あの人が日本に帰るのは三年後って決まってた。だから、わたしはそれまでに大学を卒業しようって決めたの。あんなに頑張ったのはきっと人生で初めてね』
――――死。
『家に戻ってパパとママに怒られたけど、わたしはそんなことどうでも良かった。ただ、あの人と一緒にここに――――日本に来たかったのよ』
――――出逢わなければ、あなたは……
『三年後、あの人が日本に帰国する日。わたしはあの人に無理矢理くっ付いて日本に来た』
――――母とならなければ、あなたは……
『パパとママにはもう会わないって言われたけど、あの人と一緒ならそれでも良かった』
――――僕は……
『知ってる? あなたの名前は新婚旅行で行ったヨーロッパの楽器から取ったのよ。綺麗で芯の強い音色でね、わたしもあの人もすごく気に入ったわ』
――――僕は……
『“――――”。わたしの宝物……』
――――母さん、僕は……
『明日香もあなたも、この世で一番大切なわたしの子供』
――――僕は、あなたが大好きでした。
『あなたが選ぶ女性はどんな子かしら?』
――――あなたに掛けられる言葉が……
『あなたの子供は、どんな子供かしら?』
――――あなたの作る料理が……
『あなたが作る家庭は、どんな家庭かしら?』
――――あなたが歌う子守唄が……
『気が早いって言われても、これは親の特権よね』
――――僕を抱き締めるあなたの温もりが……
『ねえ“――――”、私の大事な大事な息子……』
――――僕は、大好きでした。
『“サツキ・スノウフィールド”ではなく、“雪原皐”、“水無瀬皐”としてあなたに祝福を』
――――もう二度とその温もりには会えないけど……
『あなたの世界が、永の笑顔に包まれていますように……』
――――僕は、あなたを忘れません。
魔法少女リリカルなのは―――くらひとSSS 昔語り 第七夜―――
―ある提督と執務官の昔話 中編―
陸士204部隊部隊長執務室。
立体モニターの光が照らすその部屋には現在、三つの影がある。
一人は大柄の体躯を椅子に押し込み、机の上で指を組んでいる男。
一人はその背後で虚空に浮かんだ制御卓を叩く女性。
一人は執務机の前で直立不動のまま動かない小さな子供。
三者三様。共通点と言えば同じ色の制服を着ているという一点だけだ。
「――――以上です」
女性の言葉と同時にモニターが消え、部屋の灯りが燈る。
その光に照らし出されたのは、眉間に深い深い皺を刻み込んで瞑目する男と、その男の言葉を待つ十に満たないであろう少年だった。
(――――部隊長補佐をやってそれなりに経つけど、こんな場面は初めてだわ……)
女性の視線は少年に向かっている。
彼女の息子より尚年下の少年。普通なら親の庇護下で未来と夢だけを見ても許される年頃だ。このような場所にいて違和感がない存在ではなかった。
「――――先の戦闘記録を確認した上で何か申し開きはあるか、ミナセ二士」
巌の如き低音。
それが自分たち陸士204部隊のトップに立つ二等陸佐の静かな怒声だと、女性はよく知っていた。
しかし、並の隊員なら震え上がって声も出せないような威圧感の中でも少年に動揺している様子はなかった。
「いえ、すべて事実です」
細波一つない湖面のような声。
ただ平坦で感情の一切を失った少年のその声に、女性は意図せず眉を顰めた。
自分の子供がこのような喋り方をしたら自分は一体どのような顔をするだろうか。おそらく今のような表情をするに違いない。
「命令無視、独断専行、容疑者に対する過剰な魔法の行使――――すべて事実だというのか貴官は……!」
ドンッという音が執務室に満ちる。
男が机に拳を振り下ろした音だった。
机に叩き付けた拳をそのままに、男は少年に向かって言葉を続けた。
「命令無視と独断専行に関しては問題とする気はない。この容疑者は貴様を執拗に狙ってきたと聞いている、自己防衛の観点から考えれば致し方ないと判断もできよう。だが、この過剰な攻撃は何だ!? 貴官は容疑者を殺す気だったのか!」
「いえ、そのような考えは毛頭ありません。その証左に魔法の設定は非殺傷となっていたはずです」
しかし、少年は問題がないとは決して言わない。
それは自分の行動がすべて正しかったとは考えていなかったからだ。
男は少年のその言葉に押し黙り、再び指を組む。
「――――――――分かった、貴官の言い分を信じよう」
幾許かの時が過ぎ、男はそう静かに呟いた。
「実を言うと、貴官の処分に関して地上本部から待ったが掛かった」
「――――――――」
少年は無言。
ただわずかに眉を動かし、男の真意を探っているようだった。
「先のテロ事件で地上本部に対する市民の信頼は大きく損なわれた。ここで容疑者逮捕の功績を持つデルタ分隊の貴官を処分しては、残ったなけなしの信頼すら失う可能性があるという判断だろう」
推定の形を取ってはいたが、男は自分の言葉を確信していた。
同期の現役将官から聞いた話も、その考えを補強する以外の役目を持たなかったからだ。
「結果から言えば容疑者が負傷したという事実もない。――――貴官は別だがな」
少年の肩には先の事件で負傷した際の傷が残っている。
日常生活を送るには問題ないと判断されたが、実戦やそれに準ずる訓練は未だ不可能だった。
「医務官はなんと言っている」
「は、純粋魔力による負傷であった事、応急処置が適切であった事、事後処置が適正であった事、諸々を含めて全治一週間前後とのことです」
「――――そうか」
それは男が医務官より受けた報告と一切齟齬のない内容だった。
少年は自分の負傷を客観的に捉え、医務官の言葉も正確に受け止めている。
だが、男は少年の言葉にはなかった事実を医務官から聞いていた。
「分かっていると思うが、いくら貴官が医療魔法に高い素養を持っていても限界は存在するだろう。本来人間が持つ自然治癒能力に頼らない魔法での治療は、魔法を受ける人間の身体に少なからぬ負担を掛ける故な。今はいいかもしれんが、過剰な治癒魔法の行使は今後の貴官の成長に歓迎できない影響を与える可能性があるとの見解だそうだ」
未だ成長期の少年の身体は、この時点で大きな負債を抱え込んでいる。
これが少年の身体の今後の成長に悪影響を及ぼすという考えは、男にとっても理解し易いものだった。
「できるなら数年計画で訓練メニューを組み、貴官の健全な成長を待って任務にあたらせるべきという考えもある」
せめて一〇歳まで訓練と任務を選ぶべき。
このままのペースで身体に負担を与えると、少年の命は決して長くない。
医務官は己の職務に対する責任感と、子供を守るべき大人としての責任感から男に訴えた。
「だが、それは貴官の意思次第だ。世間一般の子供なら親の意思が優先されるだろうが、今の貴官は時空管理局の武装局員。他の何よりも本人の意思が尊重される」
どれ程優れた魔導師であろうとも、個人での限界は自ずと見えてくる。
少年もまた、それを感じているはずだった。
だが――――
「――――部隊長と医務官の心遣いは欣快に存じます。ですが、今の自分にその時間的猶予はありません」
「――――――――」
男は大きく息を吐いた。
少年の強情さは男が知る養父譲りなのか、それとも実の両親から受け継がれた資質か。
どちらにしろ、少年の心は変わらない。
「――――いいだろう。貴官の人生だ、貴官の判断に任せる」
「は、ありがとうございます」
「だが――――」
「……?」
男は瞑目したまま言葉を続けた。
「貴官にはしばらく実家に戻ってもらう。問題行為は功績と相殺されたが、部隊内には貴官の行動を問題視している者がいる。――――分かるな?」
「――――は、デルタ分隊隊長のエルステッド二尉を始めとする方々です」
「怪我の治療という名目も立ち、地上本部に対する申し開きも容易だろう。部隊内のほとぼりが冷めるまで貴官に二週間程度の休暇を与える」
それは事実上の謹慎処分。
だが、それを口に出すものはこの部屋のどこにもいなかった。
「は、命令とあらば」
「うむ、下がってよい」
「失礼いたします」
その小さな身体には似合わない敬礼。
男と女性がそれに答えると、少年はきっちりとした動作で身体を反転。執務室から退出していった。
男は少年が消えた扉を見詰め、僅かに吐息を漏らした。
「――――――――君の息子はいくつになる?」
男の言葉が自分に向けられた質問と気付き、女性はすぐにそれに答えた。
「はい、つい先週一〇歳になりました」
「そうか、おめでとう」
「はい、ありがとうございます」
女性は男の口に微笑みがあることに気付いた。
彼女は部隊内では厳しい部隊長として知られているこの男が、周囲の予想を裏切るほどの子供好きであることを思い出す。
「可愛いものだろう?」
「はい、仕事が仕事ですから毎日会うわけにもいきませんが、夫も協力してくれますし」
「君の旦那さんは――――」
「はい、地上本部で内勤をしております」
男は自分の副官を勤めるこの女性が、家庭ではどのような顔を見せるのか気になった。
だが、それは自分がおいそれと見てもいいものではないのかもしれない。
「では、母としての君に訊こう。――――彼をどう思う?」
「ミナセ二士ですか?」
「ああ」
頷く上司に女性は少し考える仕草を見せた。
しかし、彼女の心は考えるまでもなく決まっている。
「――――正直なところ、彼の素性がよく分かりません。グレアム提督に養われていたとは聞きましたが、彼の実の両親は一体?」
すでに少年は独り立ちしている。
部隊の宿舎で一人暮らしをしている少年の様子を女性は何度か見に行っていた。
「両親、か……」
男は少年の養父であるグレアムからある程度の事情を聞いている。だが、それは部隊内に知らされてはいなかった。
事情が事情ということもあるが、少年の立場はすでに世間の大人と比べてもなんら遜色はない。そこに自分がでしゃばるような真似は出来なかった。
しかし、この女性なら母としての意見を聞かせてくれるかもしれない。
「他言無用。それでも聞くかね?」
「――――――――はい」
女性は男のその言葉で、少年に複雑な事情があると察した。
だが、それで退くなら人の母親などやっていられない。
男は女性の返事に頷くと、執務室の天井を見上げて訥々と語り始めた。
「――――彼の出身世界はミッドチルダでもなければ他の管理世界や観測世界でもない。もちろん、魔法など存在しない世界だ」
「――――――――」
魔法の存在しない世界出身の魔導師。
矛盾しているように聞こえるその言葉だが、少年の養父もまた同じように魔法の存在しない世界の出身者だ、それほど不思議ではない。
「本官も詳しくは知らんが、彼はとある古代遺物の関わった事故で家族をすべて喪っている」
「え…?」
「その古代遺物の調査を担当したのがグレアム提督だ。おそらく、その調査の際に保護したのだろう」
女性の驚きを無視して男は話を続けた。
「その一件から約一年後、彼は管理局への入局を希望した。そして、陸士訓練校の短期コースを経て、現在に至っている」
簡単な説明だった。
だが、女性はその説明だけで少年の危うさを感じ取る。
「もしも君の息子が同じ立場だったら、君はどうする?」
「――――――――自分の不甲斐無さを嘆くしかないでしょう。愛しても愛しても、それでも足りないはずの我が子にこのような人生を送らせるなど、私には到底耐えられません」
己の息子が、あの笑顔が似合う我が子が戦場に出る。
彼女は、それを想像するだけで体に震えが走る気がした。
「おそらく彼の両親もそう考えているだろう。我が子を止められない本官を死後の世界で憎く思っているかもしれない」
「それは――――」
「構わん。事実だ」
自分はあのような子供を守る為に今の立場にいるはずだった。
だが、現実はそれとは大きく異なり、守るべき子供を戦いの場に送り込んでいる。
「――――――――君は、“力”を持ったことを幸運だと思うかね?」
「は…?」
男はぽつりと呟く。
それは、女性に対する問い掛けだった。
「ミナセ二士のように、類稀なる魔法の才能を持ったことを“幸運”だと思うかね?」
女性がぽかんとするのを咎めもせず、男は重ねて問う。
二度繰り返されたその質問に、なんとか気を持ち直した女性は少し悩みながらも答えた。
「未来に関する可能性が増えたことを考えれば、幸運だったと言えるかもしれませんが……」
「どちらとも判断がつかない、か?」
「はい……」
才能を持ったことは幸運かもしれないが、それは本人次第だ。
彼女には判断がつきかねた。
「では質問を変えよう。君は魔法の才能を持ったことを“幸福”だと思うかね?」
「――――!」
幸福であるか――――そんな質問は無意味だ。
今の少年の状態が“幸せ”であるなど、一人の子供の母親として決して認められるものではない。
「――――いえ、そうは思いません」
「本官も同じ考えだ。才能の有無と幸福か否かは直結しない。才能はどれだけ優れていようともそれ自体は幸福への手段の一つに過ぎないはずだからだ」
「――――――――」
少年の才能のどこに幸福への道があるというのか。
己を傷付け、他者を傷付け、それでも足りずに何かを傷付けている。
優れた魔法の才能は、少年になんの幸福ももたらしてはないないではないか。
義憤に駆られる女性の耳に、彼女の上司の静かな声が飛び込んできた。
「――――本官はミナセ二士に指揮官としての教育を施そうと思う」
「なッ!?」
本気か――――女性はそんな意味を込めた視線を上司に向けた。
これ以上この仕事に深入りさせるなど、少年の将来をより狭める行為だ。
「本官にはミナセ二士がその年齢よりも尚弱く幼く感じるときがある。だがそれは、この仕事を続けていく中で二士自身の命を危険に晒すだろう」
「――――だから、指揮官研修を受けさせると?」
「ああ、目立った功績もなく年齢的な問題もあってしばらくは一陸士扱いだろうが、このままミナセ二士が成長するなら或いは……」
「ですが、それではあの子の将来は……その……」
「決して長くない、か」
「はい……」
人間は誰しも死に向かって進んでいる。
だが少年の死は、彼らの目に見えるほど近い存在だった。
「なればこそ、本官はミナセ二士に指揮官としての生き方を教えたいのだ」
「何故ですか…?」
女性は上司の意図が分からなかった。
真に少年の未来を案じるなら、もっと別の手段があるはずだ。
「弱さを見せぬために。毅然と立ち、すべての物事を受け止められる強さを与えるために――――本官はそう考えている」
「――――――――」
「本官のできることなど高が知れているが、それでも諦めたくはないのだ」
そう言って視線を落とす男の脳裏には、容疑者の眉間に突き付けたデバイスの引き金を引く少年の姿があった。
何の躊躇いもなく引かれた引き金。
それを為したのは、制服の袖を余らせた少年だった。
「本官は大人でありたいと思っている。ただ歳を取るだけではなく、若者を導ける存在でありたいとな」
「部隊長……」
彼女とてそう願っている。
母となってから、その想いはより強くなった。
すべての子供たちに笑顔と光輝く未来を――――と。
「――――分かりました。地上本部への許可申請を行います」
「頼む」
どれ程の才能があれば人は幸福になれるのか――――永遠に解答が出ないその問いに、少年はどのような答えを返すのだろうか。
「――――本官も、所詮この程度の人間ということか……」
男はそんなことを呟きながら情報端末を操作し、机の上にモニターと文字入力制御盤を展開した。
隊舎の中を歩き、少年は食堂へと向かっていた。
時刻はもうすぐ昼で、少し早いが昼食の時間としてはそれほど不思議な時間ではない。
彼の自宅――――ギル・グレアムの自宅に戻るには空港から定期空路を使うしかない。他の交通手段もあるが、それでは時間がかかりすぎる。
「座席の予約はいいとして、お土産っているのかな……?」
彼の母親に対してならば少年自身が最大のお土産になるだろう。だが、少年本人がそれに気付くことはない。
そんなことを呟きながらざわめきが支配する食堂に入る少年。
その瞬間――――
≪!!≫
食堂内の喧騒は完全に消えた。
「――――――――」
自分に注がれる様々な視線。
好奇、懐疑、そして嫌悪。
多くの感情を伴った視線が少年の身体を無数に貫く。
「――――それも当然、かな」
今回の自分の行動は己の身のみならず、同じ部隊の人間をも危険に晒す行為だ。
それなのに自分は一切の咎を受けていない。
部隊内での自分の評価が大きく変わるのも当然のことだった。
「日替わりAランチお願いします」
「はいよ!」
そう言ってカウンターに注文を告げる少年に答えるのは、ここに来てからずっと彼のことを気にかけてくれる料理人の一人だった。
否――――
「…………ッ!?」
かつて、気をかけてくれた料理人だった。
『ん? 特盛りじゃないな、ダメだぞぉ――――ほら! 超特盛りだ! しっかり食べて早くでかくならないと他の隊員にバカにされるぞ!!』
「ひ、日替わりAランチ、な」
少年に向けられたその瞳は、隠しきれない恐怖を孕んでいた。
つい先日までの親しげな笑顔はどこかに消え去り、まるで自分とは違う生き物を見るような眼差しを少年に向けてくる。
『残すな馬鹿野郎! そんなことだからいつまで経っても隊に馴染めないんだ! 食うまで待ってるからな!』
「お、お待ちどう…さん……食べ終わったらここに置いておいてくれ……」
カウンターにトレイを置き、そそくさと厨房に消えていく料理人。
その態度は、まるで自分の可愛がっていた動物が恐ろしい猛獣であったことを知ったかのようだった。
「――――――――ありがとうございます」
少年はそれだけを呟き、トレイを手に持ってカウンターを離れた。
顔を俯かせ、肩を僅かに震わせながら、少年は手近なテーブルに座る。
「――――いただきます……」
料理を作ってくれた人に感謝の意を伝えるその言葉がこれほど虚しかったことはない。
周囲から人が消え、遠巻きに様子を窺う者だけが残される中で、少年はゆっくりと食事を取った。
(怖い――かな? ううん、確かに怖い。大きな“力”は途方もなく怖い存在だ)
圧倒的な存在によって断たれる未来。
少年はそれをよく知っていた。
(でも、だからこそ……)
自分には“力”が必要だ。
相手が圧倒的な“力”持っているなら、自分もまた圧倒的な“力”を持たなくてはならない。
(もう二度と――――)
もう二度と、悔やむことがないよう。
もう二度と、己の無力を嘆かぬよう。
もう二度と、大切な人たちを喪わぬよう。
もう二度と――――
「奪わせない……誰も……!!」
その為に必要なことなら、今の自分の状況も受け入れる。
周囲のすべてが自分を“敵”と見ても、自分は決して“敵”として見ない。
「――――――――僕の敵は、奪う奴だけだから」
護られなくてもいい。ただ、護る――――少年はそれを胸に刻み、己の傲慢に笑みを浮かべた。
そう、決して戻らぬと決めた凄惨な笑みを……
「ミナセ! ミナセ二士はどこだ!?」
食堂に男の怒声が木霊する。
その声に、食堂にいた者の内かが少年に視線を向ける。
男はその視線を辿り、少年の姿を捉える。
「く……!」
その姿に顔を歪めると、男は靴音を響かせて少年の座るテーブルへと近付いてくる。
「――――何かご用ですか、エルステッド二尉」
少年は男――ダグラス・エルステッドの視線を受け流しながらそう問い掛けた。
「聞いたぞ……! あれだけのことをやっておいて二週間の謹慎だと? お前の養父はよほどお前が大事らしいな!」
嘲るような眼差しを向け、ダグラスは少年の胸倉を掴んでその身体を持ち上げた。
「ぐ……う……」
「今回の一件、貴様の行動にどれだけの危険があったと思っている!? 確かに俺の判断では事件解決には繋がらなかったかもしれん。だが、貴様の行動は俺たちの命を玩んだだけだ!!」
ダグラスは少年を壁に押し付け、周囲の視線など意に介さずに怒鳴り続ける。
「AAランクだろうがなんだろうが、俺の指揮下に入ったからには命令に従え!」
「――――――――」
少年はダグラスの目を見詰めるだけで何も反論をしない。
同時に、決して頷くこともしなかった。
ただ――――
「……に…い……グレ……ア……ムてい……と…くは……かん……け……い……あり……ません……て……い……せ…い……を…………」
「ッ!? ふざけるなッ!!」
少年の言葉にダグラスは激昂する。
手に力を込め、少年の苦しげなうめき声を封殺するかのように制服の襟を締め上げる。
「グレアム提督のことなどどうでもいい! 今すぐ誓え、二度と命令に背かないと!!」
「…………ぁ……ぅ……」
空気を求めて動く少年の口。
だが、そこからダグラスの求めるような言葉は決して出てこない。
「誓え!! 今すぐにだ!!」
「ッぐ……!」
壁に叩きつけられ、悲鳴にもならない掠れた声を漏らす少年。
その様子に、周囲からダグラスを止めようと何人かの局員が集まってくる。
「二尉! これ以上は……!」
「そうです。結果的に問題は発生しなかった、それで納得しましょう」
「うるさい! お前らはこいつの戦い方を見てないからそんなことが言えるんだ! 仲間を仲間と思わないような戦い方を認める訳にはいかない!!」
止めようとする隊員たちと揉み合うダグラス。
その中で少年はダグラスの手から解放され、床に落ちる。
荒く息を吐く少年に、何人かの隊員が声を掛けてきた。
「だ、大丈夫……?」
「医務室に連れてった方がいいんじゃないか?」
「げほッ! ごほッ! い、いえ、大丈夫です……」
首を押さえながら息を整える少年。
その目は、やはりダグラスを見据えていた。
「――――何だ、その目は?」
少年の視線に気付き、ダグラスはその声に怒りを滲ませる。
「いえ――――二尉、一つだけ聞いてもよろしいですか?」
ダグラスの視線の意味を理解しているのかいないのか、少年は自分の首に痣を付けた上官に問い掛ける。
「言え」
ダグラスは不機嫌そうに続きを促した。
第三者に止められたことで、ようやく落ち着いてきたのかもしれない。
少年はダグラスの言葉を受け、静かに口を開いた。
「――――――――仲間とは……」
「……?」
少年の口から漏れた言葉に訝しげな顔をするダグラス。
だが、少年の口から出た次の言葉に、ダグラスの表情は一気に強張る。
「仲間とは――――何ですか?」
「な…に…ッ」
「仲間とは一体何ですか?」
「お、お前……! 俺をバカに……!!」
そう言って少年の制服を掴もうとするダグラスだが、その少年の目が純粋な疑問で満ちていることに気付いた。
そして――――
「――――お前、まさか……」
「そこで何をしている!?」
ダグラスが伸ばしていた手を降ろしたその時、食堂の入り口からこの部隊の最高責任者の怒声が響き渡った。
「げ、親父殿…」
「不味いぞ! 早く逃げろ!」
ダグラスと少年の周囲に集まっていた局員たちは鼓膜を破らんばかりの怒声に追い立てられ、散り散りになって逃げていく。
「――――ここで何をしている? ミナセ二士は出発の準備があるだろう」
蜘蛛の子を散らすように去っていく自分の部下たちを睨み、陸士204部隊部隊長リチャード・ミンギスはダグラスと少年に歩み寄る。
そのミンギスからの言葉に、少年は背筋を伸ばして謝罪の言葉を発した。
「は、申し訳ありません」
「構わん。用事が済んだのなら早く行け、休暇は今日の午後からだ」
「は、失礼いたします」
ミンギスの視線に追いやられるように、少年は二人の前から去っていった。
「――――――――」
「――――――――」
その背中を見詰める二人。
沈黙の続く中、ダグラスは僅かな躊躇いを滲ませる口調で言葉を発した。
「――――部隊長、その……申し訳ありませんでした」
「始末書は今日中に出せ」
「はい……」
予想通りの罰。
だが、ダグラスはその言葉に安心している自分がいることに気付いた。
(アイツのことで罪悪感でもあったっていうのか? バカバカしい……!)
自分の言葉は間違っていない。
ならば、罪悪感を覚える必要もないはずだ。
「――――――――」
だが、そんなダグラスの内心を見透かしたかのように、ミンギスの口から言葉が漏れた。
「――――奴をどう思う?」
「最悪の部下です。魔導師としてはどうか知りませんが、奴は集団戦というものを理解しようともしない」
「――――――――確かにな」
普段からそう思っているのだろう、ダグラスの言葉には一切の澱みがなかった。
そして、その言葉に小さな苦笑を浮かべるミンギスもまた、少年に関しては同じ評価を下している。
「集団戦を理解できない、か。だが、訓練校での成績は悪くない」
「机上の理屈と実戦は違います!」
ミンギスの言葉に食って掛かるダグラス。
士官学校を卒業したダグラスには陸士訓練校の訓練内容は理解しきれないが、少なくとも基礎的な戦術理論に差があるとは思えなかった。
ならば少年が基本戦術を理解できていないのではないか――――ダグラスの思考はミンギスの吐き捨てるような声に吹き飛ばされた。
「ふん、貴様如きが実戦を語るな。足元を掬われるぞ」
「――――――――」
ミンギスに不満げな目を向けるダグラスだが、その視線の先のミンギスは何の痛痒も感じていない様子で周囲を見回す。
「逃げ足だけは速い連中だ。だが、好都合でもある」
「は…?」
「奴の上司として、貴様には『リュウト・ミナセ』という存在を知る義務がある。しばらく付き合え」
「お、親父殿ぉ!?」
言うだけ言ってダグラスに背を向けるミンギス。
食堂の片隅にあるテーブルに向かうその後を、ダグラスは慌てて追いかけた。
「貴様はミナセ二士が集団戦を知らぬと言ったな」
二人掛けのテーブルに座り、ダグラスに命じて調達させたお茶を一口飲んでから、ミンギスはそう切り出した。
テーブルの反対側で不機嫌そうにお茶を啜っていたダグラスはそれに頷く。
「はい。個人戦闘能力は目を見張るものがありますが、それを差し引いても独断行為が過ぎます」
「ふむ……」
ダグラスの言葉を聞き、ミンギスは顎に手をやってどこともつかない場所に視線を向ける。
そのまま少し考え込んでいたミンギスだが、やがてダグラスに一つの解答を提示した。
「貴様の言葉は正しい。実を言うと、ミナセ二士は集団戦の経験がほとんどないのだ」
「何ですって!? 陸士訓練校はそんな基礎も教えないのですか!?」
「落ち着け馬鹿者。そんな訳はなかろう」
テーブルに身を乗り出すダグラスを押さえ付け、ミンギスはさらに言葉を続けた。
「短期育成コースだったことも多少は影響しているだろうが、奴は訓練校でパートナーを得ていない」
「――――――――何故ですか?」
二人一組による訓練は陸士訓練校のカリキュラムで多くの割合を占めている。
ダグラスでもそれくらいは知っていた。
だからこその疑問だ。
「何故? 貴様が言ったのだろう、奴は独断行為が過ぎると」
「それは訓練を行わなかったからでは?」
「違う。訓練を行わなかったのではない、できなかったのだ」
「な……! どういうことですか!?」
ミンギスの言葉に、ダグラスは再びテーブルに身を乗り出す。
だが、今度はミンギスもそれを抑えようとはしなかった。
「奴の養父が『海』のグレアム提督だとは知っているな?」
「はい」
「その使い魔二人が非常勤の戦技教導官であることは?」
「いいえ……――――って、まさか!?」
ダグラスの脳裏に一つの答えが導き出される。
それは、ダグラス自身が信じることができないようなものだった。
「あいつは――――ミナセは、戦技教導官に鍛えられたとでも言うのですか!?」
ダグラスは自分で言った言葉が信じられなかった。
戦技教導官は並の戦技教官とは訳が違う。
時空管理局の最強集団。エースオブエースという大空舞う鳥たちの巣。一騎当千、万夫不当の実力者の集まり。
ダグラスもいつかはそこまで上り詰めたいと思っているが、現状の実力ではそれも不可能。
(そんな、バカな……)
そんな存在に鍛えられた人間が、自分の部下になっていた。
ダグラスはその事実に、世界がぐらぐらと揺れている気がした。
「無論、戦技教導官に鍛えられてもそれが実力の向上に繋がるとは限らん。だが、奴はその訓練を乗り越えた」
「――――――――」
そんな人間が陸士訓練校に入りたての候補生たちとコンビを組めるはずがない。
大人と子供ほども実力差がある中で無理矢理コンビを組ませれば、そのどちらも破滅を迎えることになる。
そう考えれば、訓練校の教官たちの判断は賢明だった。
「教官たちもミナセ二士の扱いには苦慮していたそうだ。七歳にして一線級の実力を保持する魔導師。そしてあのギル・グレアムの養い子。本官とて及び腰になるかもしれん」
「そう……でしょうね……」
「そして、それはその戦技教導官すら予想していない事態だった」
ミンギスはグレアムから少年に関しての相談を受けていた。
少年の身を守る為に行った訓練が、少年の命を縮める結果になってしまった――――と。
それに事実に心を痛めたグレアムが、自らのコネクションを利用して少年をこの部隊に送り込んだのだ。もちろん、それは少年に知られてはいない。
「――――グレアム提督からはミナセ二士を普通の子供に近付けて欲しいと頼まれている。陸士訓練校の訓練を経て鈍化した子供としての感性を取り戻して欲しいと」
「それは――――」
自分たちの職分ではない――――ダグラスはそう言おうとして口を噤んだ。
(俺は今何と言おうとした? ――――職分ではない? そんな訳があるか…!)
自分の仕事は人々の笑顔を守ること。
それに例外はない――――あるはずがない。
しかし、自分にそのような役目が果せるのかダグラスには分からなかった。
「部隊長は俺にそれができるとお思いですか?」
「できるかどうかは貴様次第としか言えん。だが、本官ではミナセ二士に遠すぎるのだ」
「――――――――」
部隊長と一陸士では立場に差がありすぎる。
物事を教えることはできても少年を子供に戻すことはできないだろう。
「忘れるな、ミナセ二士がどれ程大きな力を持っていようとも二士自身の何かが変わる訳ではないことを。そして、貴様もかつては子供だったことを」
「――――――――」
「そんな顔をするな。本官も二士に指揮官研修を受けさせようと考えているところだ、貴様一人に二士を押し付けたりはせん」
「――――随分入れ込んでいるようですね」
ダグラスはぼそりと呟く。
自分の上司が何人もの指揮官を育てたことは知っているが、七歳の子供を育てたとは一度も聞いたことがない、おそらく初めてのことなのだろう。
「入れ込んでいる訳ではない。単に興味が湧いただけだ」
「興味ですか?」
「うむ、二士が今のお前の歳になったとき、どれ程の人間になってるだろうか、とな」
「それは俺に対するあてつけですか……!?」
「ふん、自分で考えろ」
士官学校で幾度も問題行動を起こしたダグラスを引き取り、一線級の空戦指揮官に育てたのはミンギスだ。仮に少年がミンギスの門弟となるならダグラスは同門の兄弟子ということになる。
現在ダグラスは二四歳、それはつまり――――
(ミナセ二士がこやつの歳まで生きているかどうか、本官にとってはそれすら賭けということか……)
少年の命は少年の仇が現れるまで――――ミンギスはそれをダグラスに伝えることができなかった。
「――――お客様、大丈夫ですか?」
「――――――――」
少年が母の幻を見たのは、彼の養父が住む街へと向かう定期空路の機内でのことだった。
自分を抱き締める温もりも、暖かな声も、少年の心に焼き付いて消えることはない。
「――――ねぇ大丈夫? ぼく」
「――――――――」
最初は通常の対応をしていた客室乗務員も、少年がまだ幼い子供であると考えてその口調を変えてくる。だが、少年にとってそれは何の意味もない対応だった。
少年は覚醒しつつある意識を客室乗務員に向け、その口を開いた。
「――――大丈夫です」
「そ、そう?」
想像していたよりも遥かに大人びた口調。
客室乗務員は少年の言葉に驚きの表情を浮かべる。しかし、自分の職務に対する責任感は残っていた。
「でも、顔色があまり良くないわ。保護者の方は――――」
「いえ、一人です」
「え…? だって、こんなに小さいのに……」
「――――――――」
少年の言葉に再び驚く客室乗務員。
彼女の目の前にいる少年は、どう大きく見ても一〇歳に届いていないはずだ。
その思考を読み取ったかのように、少年は自分のジャケットの内ポケットからパスケースを取り出してそれを客室乗務員に提示した。
そこには、現在の少年の身分を証明するものが入っていた。
「――――!!」
時空管理局地上武装隊陸士204部隊所属リュウト・ミナセ二等陸士。
その身分証に目を丸くする客室乗務員の前で、少年は手荷物を纏めて頭を下げた。
「お騒がせして申し訳ありませんでした。身分照会が必要でしたら時空管理局地上本部の窓口までお願いします」
「あ……はい……分かりました……」
少年の言葉に茫然自失の体で頷く客室乗務員。
彼女は少年が扉に消えるまで、別の乗務員が話しかけてくるまでそのままだった。
「レールウェイの時間までは少しあるかな……」
今リュウトの居る臨海第八空港から彼の目的地までは公共交通機関であるレールウェイを使う必要がある。リュウトの持つ技能資格を考えればここで車を確保して目的地まで向かうことも可能だが、見た目が子供であるためその審査には時間が掛かる可能性が高い。
少年は面倒を避けるべくレールウェイでの移動を選んだ。
「――――それにしても、人が多いなぁ……」
女神か天使か、リュウトにはよく分からない像が立つホールは多くの人でごった返していた。
仕事に向かう途中らしき会社員。旅行から帰ってきたらしい若い女性のグループ。見学に来たと思われるリュウトより小さな子供の集団。これからどこかに出掛けるらしい家族連れ。
リュウトの目の前には、これ以上ないほどの平穏な日常が広がっていた。
「誰も僕が管理局員だとは思わないんだろうな……」
部隊の宿舎から持ってきた物はそれほど多くない。
これから向かうのは少年の暮らす家だ、必要な物は揃っている。
「そして――――人を平気で撃つ人間だとも思わないんだろうな……」
そう小さく漏らして、リュウトは自分の手を見詰める。
「――――――――」
ダグラスの言葉通りだと思った。
自分は部隊の人間を危険に晒す。ならば、誰かを傷付ける前に別の場所に移るべきなのかもしれない。
「でも、『闇の書』を見つけるには管理局に居るのが一番手っ取り早い」
リュウトの行動原理はそれだけだった。
管理局で何かを成そうという意思はない。ただ、管理局に居ることが最も効率的であると考えただけだ。
そして、見つけた後のことなど欠片も考えていない。
「――――――――」
すべてが終わったとき、自分は生きていない。
伝説とすら呼ばれる古代の遺物を前にして、一介の魔導師であるリュウトが生き残れる確率など限りなく零に近い。
そして、リュウトにはそれ以降の未来を見ることができなかった。
「リーゼには迷惑掛けるんだろうなぁ……」
記憶の中の母とは違う二人の母。
親というよりも友人と言った方がしっくりと来る関係だが、それ故に今の距離を保っていられる。
「――――――――」
数ヶ月前に初めて会った一人の女性。リュウトの心にはその姿が時折現れた。
「――――いい母さんじゃないか、クロノ」
リンディという名のその女性は、リュウトの後輩の母だった。
訓練中のクロノに慈愛の満ちた視線を向けるリンディを、リュウトは幾度も目にした。
それ程長い期間クロノと共に修練をした訳ではないが、それでもリンディが何度も訓練場に足を運んでいたのを覚えている。
「――――大切にしなよ。気付いたときには全部なくなってたなんて、僕だけでいいから……」
大切な人を、誰が望んで喪うものか。
リュウトは開いた手を握り締めて歩き出した。
ここに帰ってくるのは約一ヶ月振りだった。
一年以上の時間を過ごしたこの世界での故郷。その中をリュウトはゆっくりと歩く。
「――――――――誰も居ないってことは、訓練場かな……?」
座学ならここでもできる。それなのにここに居ないということは、訓練場での実技訓練ということなのだろう。
「クロノも頑張ってるなぁ……」
リュウトは弟弟子の奮闘振りに笑みを浮かべる。
リーゼのメールには、あまり覚えは良くないがそれを補って余りある努力の才があると記されていた。
時に努力は才能に勝る――――リュウトは実父にそんな言葉を聞かされたことを思い出した。
「――――才能なんて……」
自分に才能があるとは思えない。
魔法の補助がなければ任務に耐えられないほど、リュウトの身体能力は一般の子供より劣っている。
それに対し、クロノは基礎的な身体能力でリュウトを上回っていると聞いた。二歳という子供にとっては絶対的なアドバンテージがあるにも拘らず、リュウトは魔法なしではクロノに勝てないのだろう。
「――――ないもの強請りはみっともない、か」
ないなら獲ればいい。足りないなら補えばいい。それでも不足なら――――創り出せばいい。
「僕も負けてられないな……」
そう呟き、リュウトは訓練場へのトランスポーターを起動する。
「――――――――『闇の書』はもっと強いんだから……」
リュウトの言葉は、転送の光に消えた。
集中を絶やすな。
自分の手の内にある力に意識を集中しろ。
「――――――――」
クロノは魔法陣の中心でひたすら意識を一点に傾ける。
「五六……五七……五八……」
自分のすぐ近く、魔法陣のすぐ外でカウントが行われている。
それは自分の操作する誘導弾が標的用のリングを潜り抜けた回数だった。
一つのリングを通過すると別のリングが光り、それを通過するとまた別のリングが光る。
それを繰り返し、誘導弾の操作技術を磨くのがこの訓練の骨子だ。
誘導操作弾の操作技術向上は別の分野でも活かせる。魔力の運用に関しては、どの訓練もどこかで繋がっているのかもしれない。
「八九……九〇……九一……」
数字が大きくなるにつれ、操作弾の軌道にぶれが生じる。
それはだんだんと大きくなり、クロノはそれの修正に気を取られ始めた。
「――――く……ッ」
「速度が落ちてるよ。リングはいつまでも光ってないんだから、時間を掛ければその瞬間アウト」
「分かってるよ……!」
「そう、ならいいけど」
「――――ッ!!」
魔法技術関連の師であるリーゼアリアの言葉にクロノは柳眉を逆立てる。
だが、師の言葉は正しい。
そう思い直し、クロノは再び意識を集中する。
「一〇一……一〇二……一〇三……」
この訓練に終わりはない。
ノルマというものは存在せず、ただひたすらリングに誘導弾を通す。
「――――――――」
「一一二……一一三……一一四……」
こうして訓練を始めて数ヶ月。
クロノは毎日のようにリーゼからの指導を受けていた。
だが、クロノは一日たりとも兄弟子の存在を忘れたことがない。
(――――あいつはもう管理局にいるのに、ぼくは……)
魔導師としての力は間違いなく兄弟子が勝っている。
それはクロノも良く分かっていた。
(あいつが陸士訓練校に入ってからもう三ヵ月半、その間ぼくは何をしていた?)
未だ基礎訓練から抜け出せない自分と、第一線の部隊に空戦魔導師として所属している兄弟子。
弥が上にも自分との差を見せ付けられる現状に、クロノは倦んでいた。
このまま修行を続けてこの差は埋められるのか、それ以前に自分は兄弟子にとって何であるのか。
(リュウトにとって、ぼくは取るに足らない不出来な弟弟子なんだろうな……)
基礎的な魔力に大きな差はないとリーゼに聞いた。潜在魔力ではリュウトが上回っていると聞いているが、現在使用可能な魔力に差はほとんどないはずだ。
だが、リュウトは魔力の制御に関してクロノの遥か上を行くという。
(どうして魔法のない世界で生まれたあいつにそんな才能があるんだ……!)
そう思ってやり場のない怒りを抱いたこともある。
同じ師に学んでいながら、どんどん大きくなっていく溝。
このままでは一生追い付くことなどできないのではないかとさえ思えてしまう。
(父さんが死んで、母さんはいつも無理をしてる。ぼくが父さんの代わりになって母さんを助けなきゃいけないのに……!)
その為にも、自分は少しでも早く一人前の魔導師になる必要がある。
兄弟子に負けないくらいの魔導師になって、母を助ける――――クロノはその一心で修行に耐えていた。
だが――――
(――――――――もしかしたら、母さんの子供はあいつの方が良かったんじゃないか……?)
兄弟子なら母を支えられる。
強く正しく、そして優しい兄弟子。
母と並んでいる場面を想像しても、決して違和感を覚えることはない。
自分と同じ髪色をした少年は、きっと母を笑顔にすることができるだろう。
いずれは公私に渉って母を支えることができるようになるに違いない。
(――――――――)
自分の価値とは何なのだろうか。
どれ程足掻いても背中しか見えない兄弟子。
どれ程切望しても得られない“力”。
どれ程願っても叶わない夢。
自分は何のためにここに居るのだろうか。
(――――――――分からない)
本当に兄弟子が母の支えとなれると思うなら、兄弟子に母のことを頼めばいい。
あの兄弟子のことだ。戸惑いながらも母のことを気に掛けるに違いない。
(――――――――母さんも、リュウトのこと気にしてるみたいだし……)
時折ここに現れる母が兄弟子の近況をリーゼに尋ねている場面を、クロノは幾度も目にしている。
そのときの母の顔には、心配そうな、それでいて頼もしそうな複雑な表情が浮かんでいた。
それに対し、自分に向ける表情は心配そうな顔ばかりだ。
(リュウトほどの才能がぼくにもあればいいのに……)
同じほどの才能を欲するわけではない。
ただ、母に心配を掛けない程度の才があればいい。
(でも、叶わないんだろうな……)
ここ数ヶ月の訓練で、クロノはそれを思い知らされた。
兄弟子が数日で覚えたことを、クロノは一週間以上も掛けなくては覚えられなかった。
体術に関しては自分の方が優れていると聞いたが、それとて過去の兄弟子と比べた場合だろう。
今の兄弟子は陸士部隊の一員だ、その技量が低いはずはない。
(ぼくにあいつほどの力があれば、母さんを守れるのに……)
自分を見てあんな顔をさせることはないのに。
夜、一人で悲しそうな顔をする母を見ることはないのに。
小さな自分でも、支えになれるはずなのに。
(どうして……! どうしてぼくには……!!)
クロノは心の中で叫ぶ。
その声に答えたのは、自分を見ていたリーゼアリアの怒声だった。
「クロノッ!!」
「ッ!?」
気付いたときには遅かった。
クロノの手に内にあったはずの誘導操作弾は、その手から飛び出して迷走を始める。
「く……っ」
「クロノ! 早く魔力結合を解いて!」
「まだだ! ぼくはまだ……!!」
まだ、諦めていない――――クロノはその意思を糧に誘導弾を操作しようと意識を集中する。しかし、彼の手にそれが戻ってくることはなかった。
「〜〜〜〜ッ!!」
「もういいから解除してクロノ! そのままのコースだと……」
自分に直撃する。
クロノにもそれは分かっていた。
だが、兄弟子に対する対抗心からか、クロノは誘導弾の魔力結合解除を実行できずにいたのだ。
「ぼくは……! ぼくは……!」
「――――――――終わりだね」
クロノの様子に小さく嘆息したリーゼアリアが誘導弾を撃墜すべく魔力を集中させた刹那――――
「――――――――スティンガースナイプ」
<Stinger snipe.>
静かな声が二人の背後より響き――――
「!!」
「誰!?」
クロノに迫っていた誘導操作弾が飛来した銀色の矢に貫かれた。
砕け散る誘導弾。
その残滓が降り注ぐ光のカーテン、その向こうに一人の少年の姿があった。
「リュウト……」
リーゼアリアが呆然と少年の名を呼ぶ。
彼女もここに息子がいるなど思ってもいなかったのだろう、その顔にはただ驚愕だけがある。
「どうしてお前がここに……」
真直ぐに伸ばした腕の先には、未だ魔力の残滓を棚引かせる漆黒の銃。
今までぴくりとも動かなかったその銃口が下がり、クロノの兄弟子は困ったような笑みを浮かべて口を開いた。
「――――どうしてって、一応ここは僕の家なんだけど……」
その言葉はひどく当たり前の内容で、クロノは一瞬気勢を削がれる。
「違う、そうじゃない」
「ん?」
不思議そうに首を傾げる兄弟子。
その様子に、クロノは溜息を禁じ得なかった。
「――――いや、いい」
どうやっても兄弟子には勝てない。
クロノは心の中でそう吐き捨て、口を閉ざした。
「リュ――――ぼぉ――――ッ!!」
「!?」
遥か彼方より響いた声にびくりと肩を震わせるクロノ。
その声の主は、彼のもう一人の師でありリュウトのもう一人の母であるリーゼロッテだ。
声のする方向に恐る恐る視線を巡らせるクロノ。その視線の先にあるトランスポーターのある建物からここに向かう道に――――ネコ型暴走特急がいた。
「リュ――――ぼぉ――――ッ!! おぉ――――かぁ――――えぇ――――りぃ――――!!」
「ロッテ……」
姉妹の暴走っぷりに頭を抑えるリーゼアリアだが、その彼女もすでに息子にへばりついている状態だった。機嫌よさげに尻尾を揺らし、放すものかと足まで絡めてその胸にリュウトの頭を押し込んでいる。
「アリア、その格好で言っても説得力はないよ」
その状態でも一片の動揺も見せないリュウトに、クロノは別の意味で恐ろしさを感じた。
(――――ここで修行すると、こんな風になるのか……!?)
自分はとんでもない所で修行しているかもしれない――――クロノはそんなことを考えた。
そして、クロノの思考を切り裂くように暴走特急がその場に飛び込んでくる。
「リュウトぉッ!!」
リーゼロッテはここまでの道程で得た運動エネルギーをそのまま利用し、里帰りした愛息子に抱きつこうと空を飛ぶ。だが――――
「――――――――」
「へ……?」
その愛息子は、彼女の抱擁を身を反らすことで回避する。
当然受け止めるものがあると思って突っ込んできたリーゼロッテは、リュウトの動きに対応できずに間抜けな声を漏らして――――
「へぶッ!」
地面に突っ込んだ。
がりがりと地面を顔面で削り、数メートルも進んだところでリーゼロッテは動きを止める。
そして彼女の動きが止まった瞬間、その尻尾はくたりと地面に垂れた。
「――――――――」
「――――――――」
「――――――――」
無言。
ひたすらに無言だった。
息子の反抗期か、それとも成長による下克上か、リーゼアリアはそんなことを考えて戦慄した。
どちらにしても自分と姉妹では太刀打ちできない事態だ。息子が反抗期になるなんて考えたこともない。
早急に父と作戦会議を開かなくてはならないし、オブザーバーとしてリンディを召喚することも考えなくてはならないかもしれない。
(ああ……! もう一緒にお風呂は入れなかったらどうしよう!? 一緒に寝てくれなかったらどうしよう!? 遊びに付いてきてくれなかったらどうしよう!? ああどうしよう!?)
彼女の中では母親の苦悩が渦巻いていた。
だが、誰も反抗期になったとは言っていないし、そんな事実もなかった。
「――――ロッテ、そんな速さで抱きつかれたら骨折しちゃうよ。アリアがくっ付いてるせいで受身も取れないんだから」
「わたしのせいじゃないよ、リュウトが避けるから……」
「――――――――」
全く動かない背に投げ掛けられる姉妹と息子の言葉。
その言葉を聞いているのかいないのか、地面と熱烈な抱擁を続けているリーゼロッテはわなわなと小さく震え始めた。
「避けないと困るでしょ? ロッテもいつまで寝てるの、修行終わったなら早く帰ろう」
「そうだね。クロノ、今日の訓練はおしまいにしようか」
「――――ぼくは構わない」
クロノは諦めたように嘆息する。
どうせこの双子ネコは何を言っても聞き入れない。それが息子のことなら尚更だ。
「――――――――む……」
「ロッテ?」
リュウトは地面から――――地面にへばりついたままのリーゼロッテから聞こえた声に首を傾げる。
その瞬間――――
「無視するなぁあああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
地面から顔を引き剥がしてリーゼロッテが立ち上がる。
だが、その魂の叫びは息子には届かなかった。
「してないよ」
「ぐ……」
それどころか一刀の下に斬り捨てられる。
二人の母の元から巣立ち、息子は強かになって帰ってきたらしい。
「ロッテこそ、突然抱きつくのはどうかと思うよ? 相手のことを考えないと……」
困ったよう顔で母の行動を諫めるリュウト。
だが、その言葉を聞くような母ではなかった。
「アリア! リュウトが反抗期!?」
「そうみたい。どうしよう……?」
「父様に相談しないと! リンディにも話を聞いてもらって……」
「でも、反抗期は子供の健全な成長に必要なことだって書いてあったし……」
「それでもダメ! あの可愛いリュウトが反抗期!? そんなのいやぁああああああああああああッ!!」
「わたしだって嫌だよ! でもどうしよう!?」
「――――――――」
「――――――――」
ばたばたとリュウトの周囲を駆け回る二匹のネコ。
その様子に、クロノとリュウトは無言を貫いていた。
片方は呆然と、片方は苦笑を浮かべ、二人は己の師がこちらの世界に戻ってくるのを待つしかなかった。
グレアム邸のリビング。その中心に置かれたソファで二人の男女が言葉を交わしていた。
「リュウト君が戻ってきて良かったですね、グレアム提督」
「――――まあ、な」
満更でもないようなグレアムの様子に、リンディは微笑む。
管理局では名提督として知られ、恐れられるグレアムも、この家に居るときはただの爺馬鹿だった。
「あの子を引き取ってもう二年近くになるが、まさかこんなに早く親離れするとは思っていなかったよ」
「クロノといい、リュウト君といい、親の気持ちを考えない子供たちですね」
苦笑を浮かべるリンディの言葉に、グレアムもまた苦笑する。
「ああ。だが――――」
「誇らしい――――ですか?」
グレアムは頷く。
「あの子の両親と妹を殺したのは“奴”だが、それを防げなかったのは紛れもなく私だ。そんな私がリュウトを誇りに思うのは、死んだあの子の家族に申し訳ないがね」
「提督……」
グレアムは膝の上で組んだ指を見詰めてそう呟く。
リンディは掛ける言葉が見つからず、グレアムを見詰めるだけだった。
「後悔――――しているのかもしれない。自分の決断に」
“不可抗力だった”と言うのは簡単だ。だが、リュウトの家族として生きているとそんな言葉は使えなくなる。
「君の良人を殺し、クロノの父親を奪い、そしてリュウトの世界を破壊した。どう贖えばいいのか、正直私には分からない」
「提督、私たちは……」
自分たちはグレアムの決断を恨んでいない――――そう言おうとしたリンディをグレアムは手で制した。
「リンディ、君はクロノが死んだらどうする?」
「え?」
「クロノが選ぼうとしている道はそういう道だ。そして、リュウトが歩み始めた道もそういう道だ」
「それは――――」
リンディはそれを否定できなかった。
彼女の夫はクロノやリュウトと同じ道の途中で命を落としたのだから。
「リュウトを引き取ってから、私はあの子のために死ぬことができる自分がいることに気付いた。親としての感情なのか、それとも贖罪の願いなのかは分からん。だが――――」
何もできない自分がいるものまた、事実だった。
息子が死に向かうのを、彼は止めることができない。
「私はリュウトの未来が明るいものであることを願った。それがあの子にとって幸せだろうと考えた。だが、あの子はそれを望まなかった……」
リュウトは、自ら荊の道を選んだ。
大人の世界にただ一人で飛び込み、生きていくことを選んでしまった。
「私は『海』の提督だ、表立ってあの子を助けることもできない」
本局と地上本部が犬猿の仲であることは誰でも知っていることだ。それこそ入局したての新人でも知っている。
地上部隊の運用に次元航行部隊の提督が口を出すなど、不可能に近い。
「私は、私という養父を持つことであの子にいらぬ苦労を掛けている。今の部隊は私の後輩が部隊長を勤めているし、部隊の雰囲気もおおらかだ。だが、地上本部の一部の高官はあの子を次元航行部隊の回し者と呼んでいるらしい」
「――――本当、なんですか?」
リンディはそのような事実を聞いたことがなかった。
だが、グレアムが嘘を吐くとは思えない。
「事実だ、おそらくな……」
グレアムは顔を俯かせ、神に罪を懺悔する咎人のように組んだ指を固く握り締める。
「本当にすまないと思っている。私はあの子の家族を奪っただけでは飽き足らず、異世界での孤独を強いている。死によって私が裁かれることであの子が救われるなら、私は何の躊躇いもなく死を選ぼう」
だが、それはリュウトに再び孤独を強いることになるだろう。
だが、それが言い訳のようにも聞こえ、グレアムはその苦悩をより深くする。
「私にできることといったら、あの子の孤独を少しでも紛らわせることだけだ」
「だから、リーゼたちの仕事を……」
「その程度で親の務めを果せるとは思えないが、な」
八歳の子供が独りで戦うには、この世界は冷たすぎる。
グレアムはその現実を嫌というほど味わっていた。
「『エスティア』を撃つと決めたとき、覚悟はしていた。自分は決して戻れぬ道に進んだのだと……」
「……はい……」
「――――――――あの子の未来は、もう光の中には戻らないのだろうか……」
「――――――――分かりません」
二人は己の子供たちが選んだ道を、ただ遠くから眺めるしかできない。
道を進むとき、人は孤独になる。
その孤独を糧に進む道は――――
「――――――――すまない、リュウト」
リュウトの実家に残された家族との写真。
グレアムはそれを手に立ち尽くしたことがある。
これ程輝いていた者たちがもうこの世にはいないのだと痛感し、ただ立ち尽くすしかなかった。
冷蔵庫に残された材料。
クローゼットの中に仕舞われた衣服。
玄関に残された靴。
ポストに入っていた手紙。
壁に貼られた子供たちの描いた絵。
母親が育てていたという観葉植物。
父の趣味だという何台かの車。
子供たちが親に内緒で作った押入れの中の秘密基地。
そして――――夕日に照らされた思い出の詰まった家。
「リュウトはもう、あの家には帰らないのかもしれん」
リュウトは、故郷と決別した。
家族の仇を討つ――――それを成すということは、家族との決別も意味する。
「あの子はもう、あの世界に何も残していないのだろうか……」
「グレアム提督……」
もしそうなら、少年の未来に光はない――――グレアムはその事実に気付き、“力”の無力さを悟った。
「みぎゃああああああああああああああああああッ!!」
「!!」
突如響き渡った悲鳴に、グレアムとリンディは顔を見合わせて互いの驚愕を確認した。
声の主には心当たりがある。
「ろ、ロッテ……ですよね?」
「う、うむ……」
リビングに蔓延していた暗澹たる空気を根こそぎ吹き飛ばした悲鳴。それはグレアムの娘が発したものだった。
発生源は浴室。
そこにはリーゼと、リーゼに強制連行されたリュウトがいるはずだ。
「――――な、何……?」
自室で自習をしていたクロノも現れる。
先ほどの悲鳴は、彼の部屋にもしっかりと届いていたらしい。
クロノは恐る恐るといった様子で浴室へと続く廊下を覗き込む。
その視線の先で、浴室のドアがものすごい音を立てて開かれた。
「とぉおおおおおおおおおおおさまぁあああああああああああッ!!」
そこから飛び出してきたのは、バスタオルを巻いただけの姿で髪と尻尾の毛を逆立てるリーゼ姉妹だった。
その姿にクロノがぎょっとして目を逸らし、リンディがまん丸に開いた口を手で押さえ、グレアムが頭を抱える。
「リュウトの怪我がすごく増えてるぅ〜〜〜〜ッ!!」
「ど、どういうこと!? ねえ、父様!」
「お、落ち着けリーゼ。仕事が仕事だ、傷の一つや二つで大騒ぎするな」
「一つや二つじゃないから大騒ぎしてるの!!」
「肩になんかこ〜んな大きい傷ができてたんだよ!?」
身体全体で大きいということを示すリーゼロッテと、グレアムに掴みかからんばかりの形相で拳を振るわせるリーゼアリア。
グレアムは娘たちにリュウトの現状を説明しなかったツケがここで噴き出したのだと悟った。
「珍しく服を脱ぐのを嫌がると思ったら怪我を見られるのが嫌だったんだよ!!」
「肩の傷なんて一生あのままだよきっと! どうすんのさ!!」
「アリア、ロッテ、落ち着いて……」
ばたばたと手を振り回してグレアムに迫るリーゼを、リンディは必死に抑えようとする。
だが、今の彼女にそれができるはずもない。
「リンディだってクロノに傷ばっか増えてたら嫌でしょ!?」
「それは――――確かにそうだけど……」
「だったら黙ってて!!」
「は、はい」
リーゼアリアとリーゼロッテの剣幕に萎んでいくリンディ。
母親としての愛情に差がないなら、二対一では勝てるはずもない。
「父様! 返答次第によってはリュウトを連れてここから出てくからね!!」
「私たちの寮に連れてって、そっちで生活するよ!!」
「落ち着けというに……」
「落ち着けるかぁあああああああああああああッ!!」
「抱きついたときに傷の感触がぁああああああああああああああああッ!!」
「抱きついたのか、その格好で……」
グレアムは娘たちの過剰なスキンシップにがっくりと肩を落とした。
このままでは息子の健全な成長に悪影響が――――と考える辺り、グレアムも相当な爺馬鹿兼親馬鹿だ。
「とりあえず、落ち着くんだ。リュウトだって管理局の航空魔導師、怪我ぐらいはするだろう」
「怪我させないために今まで頑張ってきたのに、これじゃ意味ないじゃん!」
「わたし、リュウトの部隊にちょっと行ってくる!!」
「あ、あたしも!!」
「待てと言ってるだろう!!」
親子がどたばたと揉めている光景を、リンディは呆けたように見詰めていた。
それでも気を取り直してふとずらした視線の先。そこにはリーゼが飛び出してきた浴室の扉があった。
悲鳴を上げて飛び出していった母親のことなど、リュウトは大して気に留めていなかった。
リーゼの行動が突飛なことはよく知っているし、それが大騒動になることはあっても他人の迷惑になることは滅多にないということも、リュウトは経験から知っていたからだ。
「怪我ぐらいで大騒ぎするなんてリーゼも子供だなぁ……」
おもいっきり的外れな言葉を吐きつつ、リュウトは頭からお湯を被る。
「――――――――あつい」
湯の温度は少し高めだった。
そのせいで傷のいくつかが痛みを発するが、リュウトはそれを無視する。
「――――――――」
リュウトは何かを振り払うように頭を振ると、髪を洗おうとシャンプーに手を伸ばした。
だが、その背後で浴室の扉が開く。
「――――リーゼ?」
飛び出していった二人が戻ってきたのだろうか――――リュウトはそう考えて背後を振り向く。
だが、そこに居たのは彼の母親二人ではなかった。
「お邪魔するわね、リュウト君」
「――――――――は?」
リュウトはそのまま固まった。
輝くような翠の髪、優しげな眼差し、そしてリュウトが心のどこかで懐かしむ暖かな声。
リュウトの背後にいたのは――――タオルでその身を隠したリンディだった。
髪を結っていないリンディを見るのは初めてだ――――リュウトはそんな場違いな感想を抱いた。
「ここのお風呂って本当に広いのね。クロノには聞いてたんだけど、入るのは初めてだわ」
「――――なんでここに?」
「リーゼたちがグレアム提督と“お話”してるから、代わりにって思って……」
「“お話”?」
「ええ、“お話”」
リュウトはリンディの言葉の真実を何となく理解したが、それ以上何か言う事はなかった。
ただ、リンディに一つ問うただけだ。
「入るなら僕出ますか?」
「ううん、いいの。リュウト君とお話したかっただけだから」
「――――――――そうですか……」
リュウトはそれ以上何も言わず、再びシャンプーに手を伸ばした。
だが、リュウトのその手を越えて、リンディの白い手がシャンプーの容器に伸びる。
「――――?」
「折角だから洗ってあげる。――――そのままでも大丈夫?」
「――――――――はい」
首を傾げるリュウトに返ってきたのは、リンディの笑顔だった。
その笑顔に圧倒されたわけではないだろうが、リュウトは特に反発する事もなくリンディの為すがままになる。
いつの間にかタオルが落ちてリンディの身体が露わになっていたが、リーゼで嫌というほど見慣れている――――触り慣れている?――――リュウトにとって特別なものではない。すでに感覚が鈍化しているとも言えるかもしれないが……
そう考えると、グレアムの懸念はすでに現実のものとなっていたのかもしれない。
「クロノとは違う髪質ね、リュウト君の方が柔らかいわ」
「そうですか」
「いっそ伸ばしてみるのはどうかしら?」
「――――――――考えておきます」
「ねえ、どうして敬語なの?」
「年上だからです」
「リーゼとグレアム提督は?」
「敬語使うと怒るからです」
「じゃあ、私も怒る」
「――――――――分かった」
「うん、そっちの方が可愛いわね」
「――――――――」
わしゃわしゃと頭を洗われながら、リュウトは少しだけほっとしている自分がいることに気付いた。
リーゼたちのようなむちゃくちゃな洗い方でもなければグレアムのような力強い洗い方でもない。母として自分の子供の髪を洗ったことのある者だけが知っている力加減。
リュウトは久しぶりにその感覚を味わっていた。
「――――髪、長いんだ……」
「私?」
リュウトはこくりと頷く。
「そうかしら? 自分では当たり前になっちゃったけど……」
リンディは肩に掛かる髪に視線を落として首を傾げる。
そんなリンディの動きを知らず、リュウトはぽつりと呟く。
「――――母さんが……髪、長かった……」
「――――――――そう……」
リンディは少しだけ手の動きを止め、再び手に力を込める。
「ちょうどリンディさんと同じくらいだった」
「うん」
「僕がお湯に入ってる時に、母さんは髪を洗ってた。長いから大変だって言ってたけど、父さんが好きだからって」
「うん」
「いつの間にか妹も髪を伸ばし始めて、リボンをあげたんだ」
「そう」
「妹は、お風呂に入る時も外すの嫌がってた」
「うん」
「――――――――大切にしてた」
「そうなの」
「でも――――――――」
リュウトはそこで言葉を止める。
リンディはそれに気付かない振りをした。
ただ、手を動かしてリュウトの頭を洗う。
「リンディさん、僕は何も護れないのかな……」
一切の前置きなく告げられたその言葉には、言いようのない不安が見え隠れしていた。
リンディはそれに気付き、ゆっくりと頭を振る。
「そんなことはないわ」
リンディは心からそう思っていた。
だが――――
「――――――――」
リュウトからの返事は、なかった。
「こっちの痣は?」
「徒手格闘訓練、思いっきり殴られたから」
「――――この傷は?」
「陸士訓練校の懸垂降下訓練中に落ちた」
「大丈夫だったの?」
「ヘリに乗ってた訳じゃないから、大丈夫だった」
リュウトの言葉には、自分の身体に刻まれた傷に対する感情は一切感じられない。
むしろ、その傷を間近で見せられたリンディの方が顔を歪めていた。
「――――痛くなかった?」
「痛いなら大丈夫だって聞いた。痛くなくなったら危険だって」
「――――――――」
確かにそれは正しいのかもしれないが、リンディからすると理解はできても納得はできないのかもしれない。
それを告げたのが八歳の子供なら尚更だ。
浴槽に入ってから数分。湯の熱に紅く染まる少年の肌には、多くの傷痕が浮き出ていた。
「リーゼたちが心配してたわ。リュウト君が怪我してるって」
「怪我は当たり前だと思う。向こうはこっちみたいに無傷で捕らえようなんて思ってないから」
「それにしても……」
「『海』にも突入訓練はあるんでしょ?」
「え、ええ、あるわね……」
「僕たち『陸』は、建物とか車両内とかの限定空間での制圧訓練とかもしなくちゃいけないから……」
「大変なのね……」
「そう言うと教官に怒られるけど」
「それも大変なのね」
「うん」
時折顔を出す少年としての顔。
リンディはそれを見たいがためにリュウトに話しかけていたのかもしれない。
「部隊の人は優しくしてくれる?」
「――――――――僕は嫌われてるから」
「そう……」
嘘を吐くという発想がないのだろう。リュウトは自分の置かれている状況を大して気にもせずリンディに話した。
そして、それは仕方がないことなのだと――――
「僕は確かにあの時何も考えてなかった。本人にメタトロンを突き付けた時も、ただ犯人が憎かった」
「――――――――」
「助けられる“力”を持っているのにそれで人を傷つける。僕はそれが許せなかった」
「――――――――」
「でも、僕も同じだ。結局怒りに任せて引き金を引いたんだから……」
「リュウト君……」
自分に背を向けて水面を眺めるリュウト。
その姿に、リンディは歳相応の少年の姿を見た。
自分の未来が見えず、周囲に必死で助けを求めている少年の姿。
がむしゃらに進むのは、止まる事が怖いから……
「――――リュウト君、こっちにいらっしゃい」
それに気付いた時、リンディは笑顔でリュウトを招き寄せた。
「――――?」
不思議そうに首を傾げるリュウト。
そんなリュウトを、リンディは両の手でしっかりと抱え込む。
「――――リンディさん?」
「大丈夫、私がちゃんとここに居るから」
「――――え?」
「何か困った事があったら――――リーゼやグレアム提督に心配かけたくないなら、私に相談してもいいのよ?」
自分でもどうしてそう言ったのかは分からない。
だが、そうする事が一番自然だった。
「――――本当はね、クロノが訓練を始める事に少しだけ反対だったの」
「――――――――」
「クライドさんが居なくなって、あの子まで居なくなったらどうしようって思ったの……」
リンディは自嘲気味に笑う。
「でも、あの子がクライドさんと同じ目をして私に言ったわ。『ぼくが母さんを護る』って」
「――――――――」
リュウトはリンディに抱きかかえられたまま、ただ静かに耳を傾ける。
「私には止められなかった。あの子が自分の手から離れていくのを感じているのに、それでも止められなかった」
「――――――――」
「ねえ、リュウト君」
「――――何?」
リンディの言葉にリュウトは振り返る。
その時リュウトの目の前にいたのは、彼の知る“母”という存在だった。
「あなたにこんな事を頼むのはきっと褒められた事じゃないと思う。でも、あなたにしか頼めないの」
「――――?」
リュウトはリンディの眼差しに純粋な愛情を見た。
それが誰に向けられているのか――――それはリュウトにとって疑問ですらない。
「クロノを――――あの子を護って欲しいの……」
「え……?」
「友達としてでも先輩としてでもいいから、あの子を助けてあげて」
「――――――――」
リンディの言葉は、リュウトにとって恐ろしく残酷な願いだった。
向けられる慈愛に満ちた瞳がリュウトの心を締め付ける。
それでもリュウトが口を開こうとした時、リンディがそれを遮った。
「――――――――ごめんなさい」
「――――何が?」
リュウトはリンディの謝罪の意味が分からない。
何か謝られるような事があっただろうか――――リュウトは考える。
「私は今、あなたにすごく酷い事を頼んでる。本当ならあなたも誰かに護ってもらう立場のはずなのに、自分の子供を護って欲しいって――――」
「――――謝らないで」
「え?」
リュウトは俯かせた顔を上げたリンディに、小さな笑みを向けた。
「リンディさんの願いは正しい。クロノはリンディさんにとって掛け替えのないたった一人の子供でしょ? だったら、謝らなくていいよ」
「でも……」
「大丈夫、クロノは僕が護る。リンディさんの願いは、僕にも少しだけ分かるから……」
何に縋っても護りたいものがある。
どれ程蔑まれようと叶えたい願いがある。
成し遂げられないと分かっていても追いかけたい想いがある。
人間とは、そういう生き物だ。
「リンディさんは自分の願いを誇っていいと思う。クロノの母親はリンディさんだけなんだから……」
「リュウト君……」
「だから、僕は僕にできる限りクロノを護るよ。約束する」
誰かの願いであっても、己が望めばそれは己の願いとなる。
「それに、クロノは僕より強い」
「え……」
「クロノの願いはすごく綺麗なんだ。僕には真似できないくらい」
「リュウト君……?」
リンディはリュウトの目に映る哀しみに心を揺らした。
どう足掻いても手に入らない願い――――リュウトはそれに気付いていた。
「約束する。クロノは僕が護る、クロノが自分で誰かを護れるようになるまで……」
「――――――――ありがとう」
「ううん、僕こそありがとう」
「どうして?」
リュウトは自分の心に少しだけ意味が生まれた気がした。
この“力”を持つ理由ができた気がした。
「僕の“力”は誰かの願いを護るために、誰かを救うためにあるんだって、教えてくれたから……」
「――――リュウト君の願いは……?」
「ん……?」
「リュウト君の願いは、護らないの?」
心配そうなリンディの眼差し。
リュウトは、ただそれだけで救われた気がした。
「――――僕の願いは、意味を得る事だから」
「意味……?」
「うん、僕が生きる意味を――――」
天井を見上げ、リュウトは微笑んだ。
「僕が生き残った意味を――――」
そして、その願いは叶おうとしている。
『他者と、他者の願いを護る』という決意によって――――
数年後、リンディは自分の言葉を後悔する事になる。
だが、この時のリンディは歳相応の笑みを浮かべるリュウトを見詰めるだけだった。
そして――――
「――――――――」
クロノは震える手で扉を閉めた。
心の内にあるのは様々なものに対する怒り。
「――――――――リュウト、お前はどうして……!」
どうして、自分の欲しくて欲しくてしょうがないものを、望むものを簡単に得られるんだ――――
「母さんの願い――――ぼくが叶えられない願い――――」
自分はそれ程までに頼りないのか――――クロノは自分の無力さに唇を噛み締める。
“力”も、母の信頼も、リュウトはいとも簡単に手に入れてしまう。
その事実に、クロノはただ憤るしかない。
「リュウト、ぼくは――――ぼくは、お前が嫌いだ……!!」
その憤りに任せて机に叩き付けた拳は、空しい音を立てただけだった。
後編につづく
〜あとがき〜
皆さんこんにちは、悠乃丞です。
本編を含む物語の根っこにあるリュウトの願い。
今回はそれの始まりを書かせていただきました。
復讐を願っていたリュウトですが、リンディやクロノとの出会いはそれに変化を与えました。
ただ復讐するだけでは意味がない、それだけでは家族に報いることができない。リュウトはそう考えて力を求めます。
本編ではすでにある程度の完成を見ているリュウトの信念ですが、この時点ではリンディに求められて生まれた小さな願いでしかありません。
一度完全に破壊された価値観を再び得るには、これから数年の時が必要になります。
それを描き、最終章である第四章に向かいたいと思います。
次回は後編。
クロノと共に訓練をするリュウトですが、やはり二人の間には溝があります。
リンディの願いを叶えようとするリュウトと、母を護りたいと願うクロノ。
二人の想いがぶつかり、二人の関係がようやく変化する時が訪れます。
護れなかったリュウトと護りたいクロノ。
間違いというものが存在しない二人の想い。
その結果は如何なるものか、お楽しみに。
ついでに言いますと、リュウトの母親に関してはきっちりモデルがいたりします。
いや、現実は小説より奇なりと言いますが、私にとってはそれ程違和感のある設定ではないんですよねぇ……それが良い事かは定かではありませんが。
それでは皆さん、次のお話で会いましょう。