あの頃の幼子は、ただ真直ぐだった。
「リュウ君、いたくない? だいじょうぶ?」
「いたい……すっごくいたい……」
世界がどうとか、正義がどうとか、幼子には関係がなかった。
「どうしてそんなケガまでしてあの子をたすけるの? リュウ君がいたいのなんて、わたしイヤだよ……」
「だって、イジメはいけないことだもん。とうさんがいってた」
ただ自分の内の心を信じ、それが正しいと思っていた。
「ほら、もっとしっかりつかまって、ころんじゃうよ」
「いたた……リエちゃん、もうちょっとやさしく……」
“言葉は力”であると信じ、間違いと思う事があれば声を大にして『それは間違いだ』と叫ぶ。
幼い心は、ただ正しい事を追い求めていた。
「いつもいえのなかで本ばかりよんでるからだよ。わたしよりかけっこおそいんだもん」
「ぼ、ぼくはそれでこまらない!」
世界は優しいと錯覚し、自分の未来は明るいと妄信していた幼き日。
「わたしがこまるの! わたし、じぶんよりよわいひとのおよめさんになりたくないもん!!」
「だったらぼくよりつよいひととけっこんすればいいじゃないか……」
誰よりも暖かな場所にいるという確信があった。
誰よりも幸福である自信があった。
「ダメ! そしたらリュウ君ちがうひととけっこんしちゃうじゃない! それはダメなの! リュウ君のおかあさんにリュウ君のことたのまれたんだから!」
「ぼくはたのんでないよ!」
世界なんて、どうでも良かった。
だた、自分の世界が暖かいならそれでよかった。
「りゅ、リュウ君はわたしのこときらいなの!?」
「き、きらいじゃないけど……」
自分がどれ程無力で矮小な存在だったか、幼子は気付かなかった。
「じゃあけっこんするの! いいでしょ?」
「――――だめっていったらぶつくせに……」
気付こうともしなかった。
「ほら! うちが見えたよ! きょうはわたしのうちでおとまりの番だからね!」
「わかったよ……。わかったから、もうすこしやさしく……あいた!?」
自分の世界が――――泡沫の夢であることに…………
魔法少女リリカルなのは―――暗き瞳に映る世界―――
第三章
第五話
〈リュウトの休日 後編〉
黄昏が深まる時刻。翠屋の客足が閉店に向けて減り始めていた。
そのお蔭で臨時店員の肩書きから予定より少し早く開放されたリュウトは、目の前に座る女性にそれとなく視線を向けた。
十一年という月日を越えて再開した幼馴染――――時津ゆりえに。
「久しぶりリュウ君、十一年振りだっけ……?」
「そう、だったかもしれませんね、確かに随分久しぶりだとは思いますが……」
長い黒髪を風に遊ばせ、ゆりえはリュウトの口調に眉根を寄せた。
「ん? 変な喋り方、昔みたいに話そうよ」
「これが今の私ですよ。ゆりえさん」
「そっか……」
リュウトの言葉に、ゆりえは困ったような、それでいてどこか安心したような笑みを浮かべた。
そしてリュウトもまた、ゆりえの浮かべる表情に懐かしさを感じていた。
「――――――――誰?」
店舗の外に置かれたテーブルに座る二人を物陰から見詰める美由希の声は、どことなく不機嫌だった。
「――――――――幼馴染らしいです」
ついでにその隣から上司とその幼馴染を睨むアンジェリーナの声も不機嫌だった。
「聞こえるの?」
「一応、読唇術は覚えました。魔法で集音もできますし」
「同時通訳お願い」
「――――いいでしょう」
アンジェリーナは耳に入る雑音を消して目的の声のみを抽出する。
こそこそと上官を監視する、これが時空管理局のとある二等陸尉の休日だった。もちろん、バレたら色々な意味で辛い事になるだろう。
『元気にしてた? 英国に行ったって聞いたけど、一度も連絡取れなかったから心配してたんだよ?』
『一応元気ですね。ゆりえさんもお元気でしたか?』
『“リ・エ”』
『――――まだ拘ってるんですか……?』
『だって皆“ゆり”とか“ゆりちゃん”としか呼んでくれないんですもの。リュウ君だけの呼び方だから、“リエ”って』
『光栄――――と言えばよろしいので?』
『さあ?』
「――――――――」
楽しそうだった。
美由希とアンジェリーナは揃って半眼になってリュウトを睨む。
あえて二人の内心を表すなら、ある日見つけた迷い犬を家に連れて帰り、一生懸命世話をして、ようやく懐いたと思ったら元の飼い主が現れてあっさり帰ってしまったというところだろう。
どちらも種類は違えど独占欲の発露だと思われる。
「――――――――もっと思いっきり叩けばよかった」
「――――――――もっと仕事やらせればよかった」
「お姉ちゃん……」
「アニー……」
同じように二人を見張るなのはとフェイトが困ったような笑みを浮かべる。
その隣にいるアリサといえば――――
「――――――――」
こちらも不機嫌だった。
理由もおそらく同じだろう。
「アリサちゃん、リュウトさんかてわざとじゃないと思うんよ」
「そうだよ、リュウトさんがそんな事するはずないと思う」
「――――――――」
はやてとすずかの言葉にも返事を返さず、アリサはなのはとフェイト、はやての順番に視線を巡らせて溜息を吐いた。
「――――――――いっちばん動揺してるのはあんたたちでしょ?」
「そ、それは……」
なのはの表情が強張る。
店に入って来た時の二人の会話と今の二人の様子を考えると、リュウトの出身は自ずと明らかになる。
そして、三人はそれを知らされていなかった。
「あのダメ男がどこの誰かなんていうのは、あたしにとってはどうでもいいの。でも、あんたたちは違うんじゃない?」
そう言うアリサ自身も、動揺していないはずはない。
遥か彼方の世界から訪れた異邦人。そう認識していた人物が自分たちと同じ世界で生まれた存在だったのだから、彼女の動揺も不思議ではなかった。
だが、アリサはそれを無理矢理心の奥に押し込めた。
「――――あたしはアイツを信じるわ」
「アリサちゃん……」
はやての声は震えていた。
そして、その目には明らかな尊敬の念がある。
「アイツは一人で泣いてた。その涙を、あたしは信じる」
実際に涙を流していたわけではない。だが、アリサの目には確かに涙する青年の姿が見えた。
アリサの隣でリュウトを見ていたすずかが自分に何かを言い聞かせるように頷き、そして口を開いた。
「――――わたしも、リュウトさんは悪い人じゃないと思う」
「すずか……?」
その声にフェイトが微かな驚きと共に視線を向ける。
大人しく人の前に出る事が少ない友人が、こうも強く自分の意思を通すことがフェイトにとって驚きだった。
「リュウトさんは嘘を吐いたわけじゃない。わたしたちに言わなかったのは、きっと意味があると思う……」
「意味って……?」
「それは……分からないけど……」
すずかは自分の言葉に自信があるわけではない。だが、そうするべきだと心の内の何かが訴えていた。
ここで信じなければ、永遠に失われる――――と。
「――――――――ごめんね」
「なのは?」
なのはも内心では先輩魔導師を信じたかった。
だが、同時になのはは知っている。
リュウトの事を知らないという現実を知っている。
「――――――――」
なのはは俯いたまま、心に吹き荒れる嵐に耐えていた。
そして、それは同じようにリュウトの後輩である二人の親友も同じだった。
もしもこの時リュウトが彼女たちの様子を見ていたら、困ったような苦笑を浮かべていただろう。
『君たちは優し過ぎる』――――と。
「今日はどうしたの? 向こうの学校、休み?」
ゆりえは止まることなく質問を繰り出す。
まるで一〇年の空白を埋めるように、少しでもあの頃に戻れるように――――
「いえ、学校は卒業したので今は仕事をしています」
「へえ、どんな仕事なの?」
ゆりえの顔には純粋な好奇心しかない。
リュウトはそれに苦笑を浮かべた。
「“人助け”――――でしょうかね」
リュウトのその言葉に、ゆりえの表情はぱっと輝く。
「やっぱり! リュウ君ならどこに行ってもそうすると思った!」
「そうですか?」
「だって、生まれてから六年も一緒にいたのよ? それくらい分かるわ」
確かに生まれてから六年間、二人はいつも一緒にいた。
斜向かいの家は、二人にとってもう一つの我が家だった。
「――――――――」
だからこそ、ゆりえの言葉は今のリュウトにとって無形の刃となる。
「どれだけ傷付けられても人を傷付けない。相手が暴力を振るっても、リュウ君は絶対に反撃しなかった。まあ、わたしはそれが心配だったんだけど……」
「――――――――そう、ですか……」
ならば、自分は変わってしまった。
自分は最初の任務で、抵抗できないほどの圧倒的な暴力で相手を無力化した。
それは、ゆりえが知るリュウトの姿ではないのだろう。
そして、今に至るもそれは変わらない――――
「――――なら、私は変わってしまったのでしょうね……」
「え……?」
「ゆりえさんの知る私ではないという事です。今の私は平気で人を傷付ける、大多数の正義のために少数の正義を踏み躙る人間ですから……」
「リュウ君……」
ゆりえはリュウトの言葉と表情に胸を詰まらせる。
その悲しそうな微笑みは、あの時の子供からは想像もできない表情だったから……
「――――――――違うわ」
「――――?」
「きっと、違う」
どれ程時間が経っても、人はそう簡単に変わらない――――微笑みながら、ゆりえはテーブルの上の幼馴染の手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。
「――――――――美由希さんは、知っていらしたんですね」
二人から視線を外し、アンジェリーナは隣の美由希に話し掛けた。
これ以上は覗きという低劣な行為になってしまうと感じたのかもしれない。
それと同時に心の内には猛烈な吹雪が吹き荒れていたが、アンジェリーナはそれを上官の優柔不断な態度が原因であると断じた。
「リュウト君の事?」
「ええ、この世界の人間には教えていないと思っていたので、正直驚きました」
美由希も同じように二人から視線を外していた。
アンジェリーナにちらりと目を遣り、溜息を吐く。
「――――リュウト君、別に隠す気はなかったみたいだから……」
「でしょうね、あの方が本気で事実を秘匿したら私でも分かりません」
リュウトとアンジェリーナでは情報を閲覧できる資格に大きな差がある。
一介の士官と将官を比較すれば、それは当然だった。
「そっか……」
美由希もそれは分かっていた。
おそらくリュウトは、誰かに気付いてもらいたかったのだ。
故郷にいるのに、誰もそれに気付いてくれないというのは寂しいことだろう。
だからこそ、真実を隠さなかった。
同時に真実を喧伝するような真似もしなかったが――――
「あの子たち、やっぱり知らなかったんだ……」
美由希は少し離れたテーブルに移った妹とその友人たちを見詰める。
五人はいつもと変わらないようにも見えるが、全員が一つのテーブルを気にしているのが分かった。
「アリサちゃん、気になるなら行ってもいいよ?」
「うん、わたしたちは大丈夫だから……」
「そういう言葉はあのヘタレをちらちら見るのをやめてから言いなさい。――――はやてもよ」
「え? わ、わたしは別に……」
「――――それ、飲める?」
「へ? あ――――」
はやては自分の前に置かれたカップの中身を見て言葉を詰まらせた。
そこには明らかに多すぎる砂糖を投入された紅茶がある。
溶けきらなかった砂糖がカップの底に沈み、光を反射していた。
そんなはやてから意図的に意識をずらし、アリサはリュウトに視線を向けながら呟く。
「はやての保護観察官になったのも、多分同じ世界の出身者だっていうのもあるんじゃない?」
「――――――――」
今ならそう考える事もできる。
だが、それを確かめる術がはやてたちにはない。
「結局、誰もあのヘタレの事知らなかったって事ね……」
微かな憤りの込められたアリサの言葉に、四人はただ黙っているしかなかった。
「前にリュウト君が言ってた。『ここに来る事で自分の道を決めたかったのかもしれない。すべてが始まった場所だからこそ、終わらせる事ができるかもしれないと思った』って」
「提督が……」
小さな声で呟くように紡がれた美由希の言葉に、アンジェリーナは自分の上官のもう一つの覚悟を見た気がした。
レティに聞かされたリュウトの過去。
美由希の口から語られるリュウトの決意。
その二つは大きく異なるように見えて、実は一つの道に繋がっているのではないか――――アンジェリーナはふとそんな事を考えた。
「――――どうしてかな……」
「美由希さん?」
「どうして……リュウト君は誰も信じないのかな……」
「!!」
美由希の発した言葉はアンジェリーナにとって青天の霹靂だった。
否、アンジェリーナはその可能性を考えなかったわけではない。
ただ、それを受け入れることは到底できなかった。
自分を必要だと言ってくれた人物が自分を信じていないなど、アンジェリーナは信じたくなかった。
それが自分のような仕事に就く人間にあるまじき思考だとしても、それだけはどうしても譲れない一線。
しかし、美由希の言葉に納得してしまう自分がいるのも事実だった。
「――――――――」
そして、深く考えてみればみるほどリュウト・ミナセという人物が分からなくなる。
時空管理局では決して一般的とは言えないベルカ式カートリッジシステム搭載のデバイス、それも古代ベルカ式融合騎をモデルにしたと思われる『融合システム』搭載型インテリジェントデバイスを二機同時に操る魔導師。
そして、それを運用できるだけの技術力を持ったデバイスマイスター。
八歳の頃より学んでいるという戦略と戦術を駆使する指揮官。
航空戦技教導隊の副司令に推されるほど――将来的には、だが――優秀な戦技教導官。
ここ数年では最悪と呼ばれる学究都市『ゼオ』の生物災害を『陸』『空』の部隊と協力して収めた執務官。
「――――――――」
どうして気付かなかったのだろう。
いや、どうして疑問に思わなかったのだろう。
「――――――――あの人は、一体誰……?」
この中に本当の姿はあるのか――――それすらも謎のまま、アンジェリーナはかの人物の下でその才覚を発揮していた。
それが望まれた事だからだ。
他の誰でもない。自分を知り、自分を憐れまず、自分の能力を欲した人物だからこそ力を尽くして支えようと思った。
誰かに頼まれたからじゃない、自分で『支えたい』と思ったからこそ全力を尽くせたのだ。
だが――――
「――――――――」
それすら偽りだとしたら、自分は何を信じればいい。
真実を見せない人物を、どうやって信じればいい。
心を見せぬ人の心を、どうやって支えればいい。
その疑問に行き着いた瞬間、アンジェリーナの心に黒々とした感情が芽生える。
「――――――――美由希さんは、提督を信じる事ができますか?」
「アンジェリーナさん……?」
「――――――――私は、あの人が信じられなくなりそうです……」
アンジェリーナは寂しそうに呟く。
これだけの事で疑念に押し潰されそうな自分の心が嫌だった。
誰にだって秘密はある――――アンジェリーナにも、リュウトに明かせない秘密が多くある。
それなのに、人の言葉一つで人を信じる事ができなくなる自分が憎い。
上司がどれ程孤独な存在なのか、ついさっき自分で語ったばかりなのに――――
自分はその孤独を紛らわせるだけでもいいと思っていたはずなのに――――
この身は、ただの部下だと割り切っていたはずなのに――――
いつの間にか、リュウトを弟のように見ていた。
「――――――――私は、妹なんです」
「え……?」
美由希は突然のアンジェリーナの言葉に驚く。
しかし、アンジェリーナは誰が聞いていようとどうでもよかった――――否、誰も聞いていなくとも関係なかった。
ただ、自分に語りかけていたのだから……
「一族の中でも落ちこぼれで、嫡流なのに魔法も満足に使えなくて、両親も私に対して誰かの妻になって血筋を残す以外の役目を期待していませんでした」
かつての隆盛を目指す両親の許で、アンジェリーナはひたすら虐げられる日々を送っていた。
その支えだったのは――――ただ一人の姉。
「私を一人の人間として見てくれたのは姉だけでした。姉にも魔法の才はありませんでしたが、それを補って余りある優しさを持っていました」
自分たちを虐げる両親にすら、アンジェリーナの姉は愛情を抱いていた。
しかし、彼女は決して家を愛していたわけではなかった。
だからこそ――――
「――――――――ですが姉は……家を捨てました」
「!!」
驚く美由希の様子を気にする事もなく、アンジェリーナは言葉を続ける。
「姉は見つけたんです。自分を必要としてくれる人を……」
家を出奔する前日。アンジェリーナの姉は妹に一つの言葉を贈っていた。
『あなたのただ一人の“人”を見つけなさい。そして、その人を見つけたら、どのような形でもいいから離れずに生きなさい。それが、人が幸せになれる方法の一つだから……』
「未だに意味は分かりません。ですが、提督と出逢った時に私はこの言葉を思い出しました」
再会のあの日――――黒髪の少年と武人然とした使い魔の少女を伴って目の前に存在する年下の上官の姿。
その光景を目にした時、心の奥底にもう一つの感情が芽生えていた。
「――――――――今なら分かります。私は、私と接する姉と同じ気持ちを提督に抱いたのだと」
いつも張り詰めたままの姿を見て、幾度怒鳴りそうになった事だろう。
自分の事を欠片も考えない人間が他人を救うなど不可能だと言えたらどれ程楽だっただろう。
だが――――言えなかった。
「あの人は誰にも頼らない。頼ってはいけないと考えているから……」
「そんな……!」
美由希の言葉に、アンジェリーナは自分の心に残った堰がひび割れるのを感じた。
「あの人は怖いんです……!!」
「!?」
その叫びに、美由希はもとよりなのはたちまで驚いたような表情を浮かべてアンジェリーナに目を向ける。
辛うじてリュウトたちには聞こえていないが、それはこの世界での魔法使用に慎重なリュウトの姿勢に救われただけの偶然だろう。
しかし、今のアンジェリーナにそんな事は考えられなかった。
「自分の傍に居る人が消えるのが何よりも恐ろしいんです……! “力”がないと護れないと知っているから……! “力”を得ても護れない存在があると知ってしまったから……! それでも護りたいと願わずにはいられないのがあの人の弱さだと、私は知ってしまったんです!!」
そう、知ってしまった。
いや、たった今気付いてしまった。
あそこで笑っているリュウトの悲しい笑顔を見てしまったから……
「“力”を得ても……強くなっても強くなっても……! 一人の人間に護れる人の数は限られてる。それでも護りたいと願ったら、自分の事を部品と思うしかないじゃないですか! 自分は誰かを生かすために生きていると思い、自分の命は命ではないと考えるしかない。その手が届く限り人を護らなくては、あの人は自分を保てないから……!!」
歪な青年だった。
彼女たちから数メートルしか離れていない場所で違和感なく世界に溶け込んでいる青年は、この世界でもっとも歪な存在なのかもしれない。
救うためにしか生きられない青年が、未来を築ける可能性は高くないのだから――――
「護れない事が一番怖いんです。だからあらゆる“力”を求める。権力も、技術力も、魔法の力も……! それが自分の身を滅ぼす猛毒と分かっていても、あの人がそれを躊躇う理由はどこにもない……!!」
護れないなら生きる意味はない。
この世のすべてが代償を必要とするなら、自分の力は他人の命の代償とする。
「命で命が買えるとは思いません。ですが、命で命は救えると思います。でも、あの人はそれが分からない……」
そう、分からない。
自分に向けられる正の感情が理解できない。
おぼろげながら理解できるのは、リュウトを魔法の世界に誘った新たな家族の気持ちだけ――――
だが、その家族もすでにいない。
そして、リュウトは自分がその家族を見捨てたと考えていた。
ただ自分の望みを叶えるために、最後の家族を見捨てた――――と。
「私にはもう分かりません。あの人が何を思い、何を成そうとしているのか。私には分からない……」
「アンジェリーナさん……」
美由希にはアンジェリーナの苦悩が僅かながら理解できた。
アンジェリーナという少女は、人一倍愛情深い人物なのだろう。
相手を嫌って冷たい態度をとる事もあれば、相手を想うが故に冷たい態度をとってしまう事もある。
そうすることでしか相手を想えない、不器用な少女だった。
だからこそ、自分よりも不器用なリュウトに姉のような気持ちを抱いたのだ。
執務室でたった一人重圧に耐えるリュウトの姿に、かつての自分の姿を映して……
「――――――――シグレもきっと同じなんです。本心を見せないあの人に、きっと心の底では失望している」
孤独を恐れるが故に孤独に陥る。
そして、孤独を恐れるが故に孤独を求める。
最初から孤独であるなら、孤独を恐れる事はない。
「一人が怖いなら頼ればいいのに、助けて欲しいと叫べばいいのに……!」
だが、それはできない。
近しいものが消える苦しみに耐えることができないから――――
「リンディ提督とレティ提督の言葉の意味が分かりました」
アンジェリーナは自分の気付いた事実が間違いであって欲しいと願う。
「あの人は子供なんです。この世界から旅立った日から少しも成長できない子供。提督の心はあの女性と別れた日のまま、迷子になって何処かで泣いている――――美由希さんもなのはさんも、フェイトさんも、はやてさんもそれに気付いているんじゃないですか……?」
「――――――――」
たった数ヶ月の関わりだった。
だが、確かに彼女たちの前にかの青年は存在したのだ。
『ここは私にとって『終わりの地』なんです』
『ふう……了解しました。アリサ』
『――――――――ありがとうございました。本当に……』
『――――分かりました。では、時空管理局提督として、魔導騎士八神はやて。貴女にこれを託します』
『まぁ、何はともあれ家族は大切にしてください。あとで悔いが残らないように……』
『頑張れとは言いません。ただ、自分にだけは正直に、真直ぐに前に進んでください――――これは私の師の一人が言っていたことですけどね』
その言葉が虚偽であったと誰が断じることができるのか。
それ以前に、他人の言葉の真偽をすべて知ることができる存在がこの世に存在しているのか。
「――――――――」
それぞれが記憶の中の青年に疑問を投げ掛け、一つの答えを得ようとした瞬間――――
『――――ごめんなさい!!』
「!!」
彼女たちの耳に飛び込んできたのは、リュウトの目の前で頭を垂れるゆりえの懺悔の叫びだった。
「――――!! アンジェリーナさん!」
「はい!」
アンジェリーナはすぐに魔法を行使、状況の把握を始める。
その心に罪悪感がないといえば嘘になる。
だがしかし、ここで知らなければすべては暗闇のベールに包まれたまま、一人の青年の心に封じられる。
それはいずれ青年の心に深い闇となって根を張るだろう。
そうなった時、後悔する事だけはしたくなかった。
『――――……の事故の後、私はリュウ君から逃げたのよ……』
アンジェリーナの口から発せられるゆりえの言葉は、青年の今を案じる者たちに一つの灯りを差し出す。
「違う……?」
「そう、違うと思う」
ゆりえはリュウトの目を見て微笑む。
その微笑みは、リュウトが驚くほど彼の母に似ていた。
「リュウ君は変わらない。わたしと一緒に遊んだリュウ君のままよ」
「――――いいえ、私は変わってしまいました」
だが、暖かく優しいゆりえの言葉を否定し、リュウトは頭を振る。
「多くの人々から恨まれ、同時に多くの血をこの身に吸わせた私のどこにかつての私がいるというのですか……?」
「――――――――」
ゆりえはリュウトの言葉の内容にかすかに目を見開き、そしてその言葉の内にある悔悟の情に目を伏せる。
「――――わたしはそれでも変わらないと思う」
「ゆりえさん……」
リュウトの顔に言いようのない感情が映し出されるのを見ても、ゆりえの心は変わらなかった。
それが目の前の青年にどれ程の痛みを与える言葉であろうとも、ゆりえの記憶の中に存在する幼い子供に嘘は吐けない。
姉と弟のように――――時には兄と妹のように過ごした六年間。ゆりえは今まで一度たりともそれを忘れた事はなかった。
「リュウ君が五歳の時、いつまで経ってもリュウ君が帰ってこないってサツキさんがうちに駆け込んできた事があった。おじさん――――時臣さんが出張でいなくて、サツキさんは明日香ちゃんを抱いて真っ青な顔でお母さんに縋り付いてた。しばらく経ってお父さんが帰ってきてから、雨の中お母さんと一緒にリュウ君を探しに行ったわ……」
「――――――――」
リュウトも憶えている。
忘れる事などできない思い出だった。
「夜になってもリュウ君は見つからなくて、サツキさんはうちのソファでずっと震えてた。明日香ちゃんを抱き締めて、涙を流して――――『ごめんなさい、ごめんなさい……』って誰かに謝りながら」
ゆりえはずっとその姿を見ていた。
本当なら自分も探しに行きたいと思っていたが、両親がそれを許さなかった。
それがサツキを気遣っての行動だったのだと、ゆりえは随分後になって気付いた。
「真夜中になって明日香ちゃんが眠っても、サツキさんはずっとソファで待ってた。ニュースを見ながら、何か事件に巻き込まれたんじゃないかって落ち着かなかった」
「――――――――」
リュウトはそんな母の姿を知らなかった。
記憶の中の母は、優しくも厳しい母だった。
無茶をして怒られ、夜中まで本を読んで怒られ、父と一緒に二人だけで海に釣りに行って怒られ、ゆりえや明日香を泣かせて怒られ、明らかに失敗したと分かるご飯を残して怒られ、プールで泳げない母を笑って怒られ、レストランで母の椅子を引かずに怒られ、運動会の借り物競走で大好きな女の子と書かれた紙を引いて、母ではなくゆりえを引っ張っていって怒られた。
その姿からは、ゆりえの言うような母の姿など想像できなかった。
「お父さんとお母さんが帰ってきてリュウ君が見つかったって聞いた時、サツキさんは明日香ちゃんをお母さんに預けて飛び出していった。わたしとお父さんは、必死で後を追いかけたわ」
「――――――――」
「サツキさんは何度も転んで、泥だらけになってリュウ君の処に走った。リュウ君がいたのは――――」
「公園の遊具の中、でしたね」
「うん……」
リュウトは公園の遊具の中で雨を凌いでいた。
腕の中に小さな子犬を抱いて――――
「リュウ君を見つけた時、サツキさんはすぐに抱き締めたかったんだと思う。でも、サツキさんは泣きながらリュウ君を叩いた。何度も何度も――――」
「――――あれは痛かった……」
身体も、心も痛かった。
泣きながら自分の頬を打つ母の姿に、リュウトは罪悪感を抱かずにはいられなかった。
それがどんな理由を持った事でも、母を泣かせたという事実は変わらない。
本当はいつも笑っていて欲しかった――――だからこそ、痛かった。
「――――――――最後の一瞬、叩かれると思った私の頬に暖かい手が優しく触れました。すぐに抱き締められて、耳元で――――『ごめんね……』って言葉が聞こえた時、私はもう母を悲しませないと誓ったのです」
そして、その誓いは確かに果たされた。
たった一年だけの誓い。
だが、確かにリュウトは誓いを果たした。
「リュウ君は公園で捨て犬を見つけて、どうしたらいいか分からなくなっちゃったんだよね。時臣さんもサツキさんも働いてたからペットは飼えないし、飼い主になってくれそうな人に心当たりもなかった。だから、ずっと公園で動けずにいた……」
見捨てることも連れて帰る事もできず、リュウトはずっと子犬を抱き締めていた。
どれ程時間が経ったのか分からず、リュウトはその場から動けなかった。
「結局子犬はうちの親戚に引き取られて、リュウ君は両方の頬を真っ赤にして幼稚園に来た。クラスの子たちが大笑いしてたの憶えてるわ。――――わたしがぶん殴って大人しくさせたわね」
「――――――――」
どうやらこの頃から周囲に強い女性が集まるという運命は決まっていたらしい。
「ふふふ……そういえばあの子犬、今でも元気だそうよ」
「そう、ですか……」
もう一三年も前になるのだから、老犬である事は間違いない。
それでも元気に生きていると聞き、リュウトの頬が緩む。
「ほら」
「え?」
「今、笑った」
ゆりえはリュウトの顔を見て、満足そうに笑う。
「あの頃と変わらない笑い方だった。それでも、変わったって言うの……?」
「リエさん……」
「――――――――それに、リュウ君が変わっても、わたしは気にしない。そう決めたから……」
「え?」
顔を俯かせたゆりえにリュウトはかすかに狼狽した様子を見せる。
そんなリュウトの姿を一瞥し、ゆりえは椅子から立ち上がった。
そして――――
「ごめんなさい!!」
「り、リエさん!?」
リュウトが驚きの声を上げるのも構わず、ゆりえは頭を下げたまま言葉を続ける。
「十一年前のあの事件の後、わたしはリュウ君から逃げたのよ……」
「な……」
「わたしは、三人のお葬式に行ったの! でも、逃げてしまった……」
「!!」
リュウトの記憶の中に、ゆりえが両親と妹の葬儀に出席していたという事実はない。
ゆりえの両親が一度だけ顔を出した事があったが、親戚たちに遠ざけられてしまった。
「――――――――わたしは、リュウ君が怖くて逃げたのよ」
「――――――――」
リュウトはその言葉に納得する自分がいる事に気付いていた。
それほどまでに、あの時の自分は荒んでいたのだから――――
「最初は泣いてると思ってた。わたしが行って慰めなくちゃって思った。一緒に泣こうと思ってた……! でも、リュウ君は泣いてなかった……」
それどころか、何の悲しみもその目に宿していなかった。
家族が死んで天涯孤独になったというのに、欠片の動揺も見せず、ただ家族の棺の前で立っていた。
その姿を見た瞬間、ゆりえはその場から逃げ出した。
幼馴染の姿が、何か得体の知れない怪物に見えたから――――
「ごめんね、本当にごめんね……! リュウ君が辛くないはずないのに、本当は誰かに一緒に泣いて欲しかったはずなのに……」
「――――――――」
あの時、もしもゆりえが一緒に泣いてくれたら、今のリュウトはなかっただろう。
自分は決して孤独ではないと知り、普通の生活に戻る事もあったかもしれない。
「――――ねえ、リュウ君。罪滅ぼしって訳じゃないけど、もしもこのまま日本にいるなら、うちに来ない……?」
「え?」
おずおずと上目遣いでリュウトを見詰めるゆりえ。その目に光るものを見つけてリュウトは珍しく動揺する。
「あの後ね。お父さんもお母さんもリュウ君を引き取ろうって考えてたんだよ? でも、親戚の人たちに断られちゃって、そのままリュウ君はイギリスに行っちゃった……」
リュウトとゆりえの両親は、お互いを無二の友人だと考えていた。
だからこそリュウトはゆりえの家を我が家のように思っていたし、ゆりえもまたサツキや時臣を実の親のように思っていた。
それを考えれば、ゆりえの両親がリュウトを引き取ろうとしたことは驚くことではない。
「――――ダメ……?」
「――――――――」
リュウトはすぐに断らない自分に驚いていた。
何をどう考えても時津家に行くという選択肢は選べない。
異世界で責任ある立場にいると説明しても理解されないとは思わないが、やはり迷惑が掛かるのは間違いないからだ。
だが、リュウトはどこかでそんな日常を望んでいるのかもしれない。
自分の考えに沈みこむリュウトの姿を誤解したのか、ゆりえは微かに頬を赤らめて別の選択肢を提示した。
「――――やっぱり自分の家の方がいいわよね……。だったら、わたしがリュウ君の家に行く……!」
「は?」
「お父さんとお母さんに頼んでみる。大学は家から通ってるから大丈夫だし、家も近いからオーケー出してくれると思う……」
「え?」
店内でどたんばたんと何かが暴れる音がした気がするが、リュウトはそれどころではなかった。
降って湧いた平和な日常への切符。
それを目の前にして、リュウトは自分の立場を見せ付けられた。
「――――――――すみません」
「――――リュウ……くん……」
裏切られたという表情のゆりえに、リュウトは自分の選んだ道の険しさを知る。
だが、もう引き返すことはできない。
「リエさんの言葉は素直に嬉しいです。おじさんとおばさんにも会いたいです。ですが、私はもう……」
「何で……」
「――――今日の夜には向こうに帰ります。ですから……」
「嘘!!」
「リエさん……」
テーブルに叩きつけられた手がかたかたと震えている事に気付き、リュウトは再び後悔する。
やはり、自分はこの世界には戻ってはいけないのだ――――と。
「ねえ、わたしが嫌い?」
「いえ、そんなことは……」
「小学校に入ってすぐ、リュウ君はいなくなった。リュウ君の家に行っても誰もいなくて、うちに置いたままのおもちゃも返せなくて、借りたままの絵本も返せなくて……!」
自分の周囲に残る思い出の欠片を見るたび、ゆりえは自分の行動を後悔した。
あの時手を伸ばしていれば、リュウトが遠くに行く事はなかったのだと。
「もう一度戻ってきて! 今度は絶対に手を離さないから! もう独りにしないから……!!」
「――――――――」
十一年前に同じ事を言われていたら、間違いなく自分はこの世界に残っていただろう。
なのは達と同じように学校に通いながら魔導師としての仕事をして、この世界の出身者という事で『ジュエルシード事件』や『闇の書』事件にも直接参加する事になっていた可能性もある。
そうなれば、家族の仇を別の形で討つ事だってできたかもしれない。
しかし――――すべては遅かった。
「リュウ君……!!」
「――――――――すみません、リエさん……」
「リュウ君! お願いだから……!」
「リエさん」
リュウトの肩を掴み、必死で翻意を促すゆりえ。
彼女もある意味では被害者なのかもしれない。
生まれた時から姉弟のように育った存在が消え去り、残ったのは後悔だけ――――ゆりえは十一年間それに耐えてきた。
そして、運命は彼女の前に可能性を提示した。
かつての日々に戻れるという可能性を……
「ねえ! リュウ君!!」
「リエさん」
「もう一度、あの頃みたいに一緒に――――」
「リエさん!!」
「!!」
それを理解しても、リュウトにこの世界に戻るという選択肢は存在しない。
多くの怨嗟と血に塗れたこの身は、すでにゆりえの傍に立つことを許されないから――――
「――――すみません」
もはや、ゆりえの言葉はリュウトにとって痛みにしかならない。
「リュウ、くん……」
ゆりえの失意の表情が、リュウトの心に深く突き刺さった。
「――――あるじどのぉ〜〜……」
「あんたが泣かない! 仕事ボイコットして来たかと思えば大暴れして今度は泣く!? 何様のつもりよあんたは!?」
「うるしゃい!! 最初はリンクも少し開いてて、すごく嬉しそうな感情が伝わってきたのに、突然すごく悲しい気持ちが流れ込んできたと思ったらリンクが閉じられて……」
「で、仕事放り出して文字通り飛んできたと」
「あう……」
小鳥形態でスタッフルームの窓から侵入したらしいシグレは、そこで普段の姿に変身すると、驚く桃子たちを置き去りにして美由希とアンジェリーナの間に割り込んだ。
その後ゆりえの同居発言で大暴れし、今度は滝のような涙を流しながら窓にへばりついている。
「提督が知ったら嘆くわね……」
「だ、だって……!」
「はいはい、言い訳は聞いてあげる」
アンジェリーナは突然の闖入者に不機嫌になりながらも、シグレに先を促した。
「――――ちょっと前からまた精神リンクが少しだけ開いてて……悲しいとか、寂しいとか、怖いとか、そんな気持ちがどんどん流れ込んできて……」
「悲しい……って、リュウトさんが?」
なのはが首を傾げる。
フェイトやはやてたちも同じような表情を浮かべているから、それは周囲の共通の疑問なのだろう。
「多分、そうだと思います。表層意識の一部しか分かりませんが、わたしがリュウト様の感情を見分けられないはずはありません」
普段は固く閉じられている精神リンク。
それが今日は珍しく開いていて、シグレも鼻歌交じりで主の喜びの感情を満喫していたのだろう。
だが、それは突然大きな悲しみと共に閉じられた。
シグレが仕事を放り出してくる理由には十分だ。
主が精神リンクの制御に失敗するなど、今までになかったのだから。
「――――い、今でも……悲しいって気持ちが……流れ込んできて……わ……わたし…………ひっぐ、えぐ……う、うわぁ〜〜〜〜〜〜〜〜んッ!!」
「ちょ、ポンコツ娘!?」
「うるしゃい丸太女! ひっく――――びぇえええええええええええええええッ!!」
「うるさい! ここは店の中……って聞きなさいよ!」
「うぁああああああああああああああああああああああッ!!」
シグレの目からぽろぽろと零れる涙。
なまじ整った顔立ちのため、その光景は周囲の者たちの心に悲痛な想いを呼び起こさせる。
「りゅうとさまぁ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!! 胸が……心がいたいですぅ〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
床にぺたりと座り込んで大声でわんわん泣きじゃくる少女に、残った客は訝しげな表情を浮かべている。
それでも嫌な顔をしないのは、シグレの叫びが純粋な悲しみに満ちているからだろう。
そんな中、美由希はシグレの姿に別の何かを重ねていた。
「――――――――リュウト君……?」
「え……?」
「リュウト君……だよ……」
美由希は驚くアンジェリーナにそう呟く。
彼女の目には、シグレの姿がリュウトに見えていた。
だからこそ――――
「うぁ…………?」
「――――ほら、泣かないの……」
彼女は、シグレを抱き締めた。
何の心配もないのだと、涙を流す必要はないのだと――――
「大丈夫……大丈夫だから……」
「ひぐ……えぐ……」
少しずつ落ち着いていくシグレ。
その様子に、周囲の客からも暖かな眼差しが向けられる。
彼らにはシグレが美由希の友人に見えているのかもしれない。美由希という友人に慰められるシグレの姿に、悪意など抱きようもないだろう。
「怖くない、怖くない…………わたしもアンジェリーナさんも、なのはもフェイトちゃんもはやてちゃんも、アリサちゃんもすずかちゃんも、お母さんも――――みんな味方だから、絶対怖くないから……」
「っく……あるじ……どのぉ……」
シグレは美由希のエプロンに顔を押し付け、声を殺して嗚咽する。
流れ込む感情は強くなるばかりで、シグレは必死にそれに耐える。
生まれてから七年間、これ程強い感情に晒された経験がないシグレにとって、この感情の嵐は耐え難いものだった。
だからこそ、ただ感情を露わにして泣き叫ぶしかない。
「りゅうとさまぁ……りゅうとさまぁ……!」
「シグレさんはリュウトさんが大切なんやね……」
「――――――――はい……」
微笑みながら自分の頭を撫でるはやてに、シグレはこくりと頷く。
シグレにとって、リュウトは生きる意味と名前と命を与えてくれた存在。
主だから慕っているのではない――――慕っているからこそ主と呼ぶのだ。
「――――多分、シグレさんの涙はリュウトさんの涙なんだと思う……」
「うん……リュウトが泣けないから、シグレが代わりに泣くんだ……」
なのはとフェイトがシグレの背中を擦りながら呟く。
はのはたちは自分たちが知らないリュウトの姿を、シグレを通して見つけた。
「――――ほら、綺麗な顔してるんだから顔拭きなさいよ……」
「これ――――使ってください……」
アリサとすずかが差し出すハンカチ。
アリサは以前リュウトの前で泣いた事を思い出し、感情の発露とはこれ程痛いものなのだと再確認する。見ているだけで伝わってくる悲しみと苦しさに、アリサは窓の外のリュウトを見詰める。
すずかにとってリュウトの姿は決して明るいものではない。それでも、リュウトは決して悲しみを表に出さなかった。そして今、目の前にその悲しみがあるのかもしれない。
「――――――――提督もあなたも、どうして不器用なのかしら……」
六人の少女に慰められる同僚を前にして、アンジェリーナは溜息と共にぼやく。
もっと器用な生き方ができる能力があるのに、その選択肢を最初から捨てていたリュウト。
そして、それに心から付き従うシグレ。
この二人が不器用でないはずはない。
「まったく……これじゃ私が悪者じゃない」
「――――――――子供料金……」
「うるさい手荷物扱い」
いつものように言い返し、アンジェリーナは泣き虫な同僚のために新たな紅茶を注文するべく、微笑みを浮かべる桃子の許へと歩いていった。
「――――リエさん、これを貰っていただけませんか……?」
そう言ってリュウトがワイシャツの胸ポケットから取り出したのは、端々が擦り切れた小さな紙袋だった。
ゆりえは呆然としながらもゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取る。
「――――開けていいの……?」
「もちろん、あなたのために買ったものですから……」
「わたしの……?」
ゆりえは震える手を抑えながら、ゆっくりと袋を開く。
そして、その中に存在したものを見た瞬間、ゆりえの大きく見開かれた目は自然とリュウトに向いていた。
「――――――――リュウ君、これって……」
「ええ、あの日約束していたお土産です。今まで渡せず、申し訳ありませんでした」
「――――うん、ありがとう……」
ゆりえは袋から取り出したガラス細工のキーホルダーを胸に抱き締める。
リュウトはゆりえの表情に微苦笑を浮かべると、ポツリと本心を漏らした。
「あの日、ゆりえさんが一緒じゃくて本当によかった……」
「リュウ君……」
リュウトの運命が変わったあの日、本来ならゆりえも一緒に出掛けるはずだった。
だが、その直前でゆりえが体調を崩してしまい、リュウトはゆりえにお土産を頼まれたのだった。
『わたしの好きなお土産だったら、置いていく事を許してあげる』――――ゆりえのその言葉をリュウトはしっかりと覚えていた。
「――――気に入ってもらえましたか……?」
「――――――――うん……」
そして、ゆりえもまたリュウトとの約束を覚えていた。
リュウトとの思い出を大切に大切に抱いていたゆりえにとって、このキーホルダーは何物にも代え難い思い出の象徴。自分の想いの正しさの証明だった。
「日本に戻る度にこれを渡したいと思っていました。ですが、ゆりえさんが私を憶えているという確証も、自信もなかった……」
すでに自分の事など忘れているかもしれないと考えると、リュウトがゆりえに会いに行くことはできなかった。
それが恐怖という感情だと、リュウトは気付いていた。
「情けない事この上ないですが、ね……」
「ううん、わたしも同じだから……」
ゆりえもまた、幾度もリュウトの家に足を運んでいた。
誰もいない事は分かっていても、そこに残る思い出に縋りたかった。
「多分リュウ君が頼んだんだろうけど、時々人が入って家とか庭の手入れをしてたでしょう? それを見るたびに何度もリュウ君のことを聞こうと思ったんだけど、怖くて聞けなかったわ。リュウ君はわたしの事忘れてるんじゃないかって考えちゃって、足が竦んでしまった」
「――――――――」
数年前まではグレアムが手を回して家の手入れをしていたが、今ではリュウトが手配をしている。
家はシグレが自発的に掃除に訪れる事も多々あるが、庭や父の趣味である車の手入れはリュウトが業者に頼んでいた。
できるだけ当時のまま残せるようにという、リュウトがこの世界に対して行う最大の干渉だった。
「――――――――でも、よかった……」
ゆりえは顔を上げ、キーホルダーをそっと握り締める。
「リュウ君が元気で、本当によかった」
「――――ゆりえさんも……」
「うん、ありがとう」
リュウトは気付いていた。
自分の予定通りに事が進めば、もう二度とゆりえに会うことはないのだという事に――――
「ゆりえさんに会えてよかった」
「リュウ君?」
本心だった。
時空管理局の提督としてではなく、同時に魔導師としてでもなく存在できる唯一の世界。
そこに残る思い出に出会えたことは、リュウトにとってこの上ない幸運だった。
「本当は、もう会う事もないと思っていました」
「リュウ君……」
この世界に戻ってきても、あまり家には近付かなかった。
近付くときも無意識に理由をつけていた。
そうしないと、自分の弱さに押し潰されそうだった。
「――――――――」
「ねえ、リュウ君」
「はい」
目を伏せるリュウトに、ゆりえは微笑みと共に手を差し出す。
その手に包まれた自分の右手がかすかに震えたのを、リュウトは少しだけ意外に思った。
同じ手で多くの人々を傷付けてきたというのに、まるでそれを許されたかのような錯覚に陥りそうになる。
「困ったらいつでもわたしを呼んでね。リュウ君はわたしの――――弟みたいなものなんだから、助けるのは当たり前なのよ?」
「――――私もゆりえさんが困ったら助けに来ますよ。あの頃よりどこか弱くなったのは間違いないですが、強くなった面もありますから……」
心も身体も、弱くなった。
それと同時に、比べ物にならないほど強くもなった。
今のリュウトにゆりえの願いを叶える強さはないが、ゆりえの命を護れる強さはある。
そのために――――誰かを救うために強くなった。
復讐だけでは強くなれないとある人は言った。
――――『心無き強さは強さに非ず、心ある弱さは強さ也』
リュウトにとって多くの者が師だった。
力を教えてくれた者もいれば、知識を授けてくれた者もいる。
自分の思い出を語り、決して後悔はするなと叱咤してくれた者もいる。
その誰もがリュウトを助けてくれた。
それを知っているからこそ、リュウトは前に進む。
多くの者に貰ったものを、新たな者に遺すために――――
「遠くにいても、ゆりえさんを護ります。それは誓ってもいい」
「――――――――何に?」
「え?」
「何に誓ってくれるの?」
「それは――――」
リュウトは言葉に詰まる。
何に誓うべきなのか、それが分からなかった。
神や法に誓うべき想いではない。
己の職務に誓うべき願いでもない。
ならば――――
「――――――――想い出に……」
自分が嘘を吐けない存在に誓うだけだ。
「ゆりえさんとの想い出に誓います」
忘れたくても忘れられない想い出。
それがあるから生きていられる。
なら、それに誓うのがいま自分にできる最高の誓約だ。
「――――――――」
ゆりえの目が大きく見開かれ、その目に再び宝玉が溜まっていくのをリュウトは黙って見詰める。
その宝玉が店の光を反射して零れ落ちた時、ゆりえは小さく、だがしっかりと頷いた。
「桃子さん、今日はお世話になりました」
「ううん、店の売り上げも上々だったし、今度から士郎さんと恭也がいないときはリュウト君にお願いしようかしら」
「都合がつけばお手伝いしますよ」
都合がつけば、だけど――――リュウトは内心苦笑しながら目の前に座る桃子に曖昧な答えを返す。
必要のない嘘は絶対に吐かないし、必要でも嘘を吐かないと決めた人間には嘘を吐かないのはリュウトの信条だった。
それが往々にしてリュウトの騒動に満ちた日々を作り上げる一因となっている事に、本人は全く気付かない。
「――――――――あの子は帰ったのね」
「はい」
ゆりえはあの後すぐに帰っていった。
最後まで名残惜しそうにリュウトを見詰めていたが、幼馴染の決意が変わらない事を悟ると、一言別れを告げて去っていった。
「――――――――」
リュウトは店の外に視線を向けると、ゆりえの最後の言葉を思い出す。
『リュウ君がどんな事をしているのか分からないけど、わたしは最後まで味方だから……』
ゆりえが異世界や魔法の事を知っているはずはない。
だが、リュウトがゆりえの知る日常の中に身を置いていない事は気付いているのかもしれない。
「いい子なのね」
「ええ、そうですね」
リュウトは閉店した店内をゆっくりと見回す。
たった一日の仕事だったが、今までに経験した事のない充実感が身体に残っていた。
その最後にゆりえに会えた事はリュウトにとって最大の幸福になった。
「ねえ、リュウト君……」
「はい?」
リュウトの前で微笑む桃子がその目に好奇心を宿して問う。
「――――あの子、ひょっとしてリュウト君の初恋の人?」
「は、はあ……」
リュウトは桃子の質問に戸惑う。
客観的に捉えたことはなかったが、当時の自分とゆりえはそれなりに仲が良かったと思う。
それに――――
「――――――――確か、結婚の約束とかでキスされた事があったような……」
「あら」
リュウトの言葉に桃子は驚いたようだった。
「ませてたのね〜〜あの子……」
「さあ、私には何とも……」
約束とは言ってもリュウトがそれを了承した事はない。
幼いながらも果せるか分からない約束はしなかったのだ。
最終的には押し切られた気もするが、ゆりえがそれを憶えているとは限らないだろう。
「う〜〜ん、リュウト君の周りにいる人ってみんな個性的ねぇ……」
「――――――――」
あなたも十分個性的です――――リュウトは喉まで出てきた言葉を涼しい顔で飲み込んだ。
少なくとも、桃子は“仕事”で顔を合わせる人々よりも個性的だとリュウトは確信していた。
おそらく時空管理局という巨大組織の中でも、桃子の個性が埋もれる事はないだろう。それ以前に桃子とリンディ、レティが揃った際には絶対に近付きたくない魔の三角形が出現するに違いない――――リュウトがそんな失礼千万な考えを思考に走らせていると、桃子が何かに気付いたように手を叩いた。
「ああそうだったわ!」
「何でしょう?」
リュウトが首を傾げる前で桃子はエプロンのポケットから封筒を取り出すと、それをリュウトの前に置いた。
「はいこれ、今日のお給料よ」
「――――――――」
リュウトは封筒を取り上げると、それを矯めつ眇めつ観察する。
「どうしたの?」
「――――いえ、こういう風にお給料をもらったのは初めてなので……」
「ふふふ……そういえばそうだったわね」
「そうです――――って、あれ?」
桃子の何ともいえない暖かな視線の前で観察を続けていたリュウトは、給料袋が異常に軽い事に気付いた。
僅かに眉を動かすリュウトの様子に気付いたのか、桃子が少しだけ――――本当に少しだけ申し訳なさそうに表情を変えると、ぱんと音を立てて手を合わせる。
「ごめんなさい。気付いたと思うけど、中身はからっぽなの」
「――――――――」
リュウトは桃子の言葉に硬直する。
「あなたの秘書さん、アニーさんだったわよね? その子と美由希が妙に仲良くなっちゃってね、あなたの支払いでなのはたちにケーキをご馳走してたのよ。途中からシグレちゃんも混じって“楽しそうに”お茶会を開いてたわ」
「――――――――へー」
他に言葉が出てこなかった。
自分が頭部に何度も攻撃を受けて稼いだ報酬は、どうやら麗しの姫君たちのおやつに化けたらしい。
その中に自分の使い魔も含まれているというのだから、リュウトが言葉をなくすのも無理はない。
ちなみにその姫君たちはすでにそれぞれの自宅へと帰っている。
この世界に活動拠点を持たないアンジェリーナはリュウトの実家で待っているとの事だったが。
「――――――――」
はて、何か怒らせるようなことをしただろうか――――そんな事を考えて黙り込むリュウトに追い討ちにがかけられる。
「足りない分は後であなたから貰ってくれって……」
そう言って桃子が差し出した伝票には、明らかに高い――あくまで翠屋の中でだが――ケーキばかり狙って食べたと思われる金額が書かれていた。
ここはケーキバイキングじゃないぞきっと――――リュウトは伝票の金額を財布の中身と照合しながら心の中で嘆く。
奢るのは構わない。
もしも相手がエイミィなら断固として支払いを拒否するが、アニーやなのはたちに対する日頃の感謝の気持ちと思えば、快く支払いに応じる事ができるだろう。
だが、この仕打ちには納得できない事も多々ある。
「――――――――」
そもそも何故このような事を勝手に決めるのかが分からない。
支払いをさせようというのなら、事前に一言あって然るべきだろう――――リュウトは自分の中の常識が間違っていないか少しだけ不安になる。
難しい顔で財布を開くリュウトの様子に苦笑しながら、桃子は娘二人とその友人たちの気持ちを考えて少しだけリュウトに報復する事にした。
「リュウト君、私もケーキいいかしら?」
「――――――――」
リュウトの手がぴたりと止まる。
同時に壊れたおもちゃのようにがくがくと桃子に視線を向けた。
その様子が面白くて、桃子は声を出して笑いたくなる。
だが、それでは意味がない。
「もちろん自分のお店のケーキじゃつまらないから、この後知ってるケーキ屋さんに一緒に行きましょう」
「――――――――マジですか?」
「ええ、マジよ。せっかくだから夕食後のデザートにさせてもらうわね。もちろん全員分」
珍しい言葉遣いのリュウトに内心ガッツポーズする桃子。
本当ならこんな事をするつもりはなかったのだが、娘たちの内心の痛みを考えると、少しだけ意地悪にもなろうというものだ。
(――――みんな、君の事が大事なのよ……?)
娘たちがリュウトの出身を知ってショックを受けていることは知っている。
自分はそれ程気にならないが、娘――――特になのはとその友人たちは大きな衝撃を受けたことだろう。
(まったく……無意識に人を振り回すのは、士郎さんにそっくりね)
自分が大いに振り回された夫に良く似た青年は、桃子の目の前で財布の中身を悲しそうに見詰めている。
つくづく貧乏性だ。
(――――そういえばリュウト君って士郎さんや恭也と仲が良かったわね。似たもの同士、息が合うのかしら……?)
それは単に士郎と恭也が武術家としてのリュウトを気に入っているだけだが、武術に明るくない桃子から見れば大きな差はない。
(どちらにしても、ただじゃ終わらないわね)
母としての勘も、女としての勘もそう告げていた。
だが、最終的に悪い結果になるとは思っていない。
それは桃子のリュウトに対する信頼から来るものなのだろう。
「さて! 戸締りしたら行きましょう!」
「――――――――はい」
元気よく立ち上がった桃子の前で、リュウトはぐったりと立ち上がった。
「ほら、行くわよリュウト君。元気元気!」
「――――――――げんきげんき〜〜」
リュウトは生まれて十八年目にして初めて言葉と状態が欠片も一致しないという経験をした。
――――――――できれば二度と経験したくないが……
桃子を高町家に送り届けた後、一緒に夕食をとの誘いを丁重に断り、リュウトは自宅への道をのんびりと歩いていた。
街路灯が照らす道を一歩一歩踏みしめながら歩いていたリュウトは、高町家から十二分に離れた事を確認すると光が届かない暗闇に向かって声をかけた。
「――――シグレ、出てきなさい」
その言葉に暗闇の中の気配がびくりと動く。
「――――――――」
リュウトはそのまま暗闇に視線を固定したまま数秒の空白を越えた。
やがて、その視線の先に一つの人影が現れる。
「――――主殿、その……決して隠れていたわけでは……」
「帰りますよ」
「ッ!! ――――――――はい……我が主……」
言い訳の途中でバッサリと斬り捨てられたシグレは、リュウトの冷たい言葉にその特徴的な耳をぴんと伸ばすと、すぐに萎れたように主に追従した。
(――――きっと怒ってる……リュウト様、すごく怒ってる……)
とぼとぼと主の後ろを歩きながら、シグレはぺたりと垂れた耳を震わせる。
精神リンクは完全に封鎖されている。
もう主の心は分からなかったが、それでもシグレはそう思った。
仕事を放り出して勝手に管理外世界に来たと思ったら自分の主をこそこそとつけまわしていたのだ。シグレがリュウトの感情を怒りと判断することに不思議はない。
だが、シグレの予想とは裏腹に、次のリュウトの言葉に怒りの感情は見られなかった。
「――――――――隣を歩きなさい」
「は……?」
シグレは突然の主の言葉に思わず立ち止まる。
「この世界ではその方が自然です。たまにはいいでしょう」
「で、ですが……」
「私の言葉は聞けませんか?」
「い、いえ……!!」
悲しそうなリュウトの声に、シグレは慌てて主の隣に並ぶ。
(あ――――リュウト様、背が伸びたんだ……)
久しぶりに並んで歩いた主は、シグレの記憶より少しだけ大きくなっていた。
「シグレ」
「あ、はい……!」
「――――?」
ぼんやりと隣を歩く主を見詰めていたシグレは、慌てて視線を外して返事をする。
その様子に微かな疑問を抱いたリュウトだが、結局は何も言わなかった。
「翠屋はどうでしたか?」
「はい、レアチーズケーキが思いのほか美味しかったです……――――って、ああ!?」
シグレは慌てて口を押さえる。その耳がバタバタと慌しく動いているのは、本体――――シグレの動揺を端的に示しているからだろう。
主のアルバイト代で飲み食いして思いのほか美味しかったとは何たる不忠――――シグレはその場で腹を切りたくなった。
もちろんそれを実行に移すことはないが。
「――――――――そうですか、良かったです」
「あうあうあうあう……」
ぐるぐると回るシグレの目。
何か言わなくてはと思っても、下手に口を開いたらぼろが出そうでそれもできなかった。
そんな使い魔の懊悩をナチュラルにスルーして、リュウトはさらに言葉を続けた。
「アニーさんたちも満足していましたか?」
「――――――――」
「怒ってないですから」
「はい……」
そうリュウトに促され、シグレはようやく口に当てていた手をどかした。
だが、その耳は力なく垂れ下がったままだ。
「あのカキ氷女も美由希さんも、なのはちゃんたちも満足していたようです……」
シグレは記憶の中の風景を思い出しながら主の質問に答える。
次々と積み重なっていく皿。
黙々と獲物を消化していく乙女たち。
にこにことそれを見守る桃子。
自分もその中に混じっていたとはいえ、できるなら主には知られたくない光景だった。
「そういえば、今度はエイミィも連れてきて全種類ワンホールずつ食べようと言っていました」
「――――――――」
一瞬だけリュウトの足が止まった。
だが、すぐに再び動き出す。
「――――――――」
「申し訳ありません……その……止められなくて……」
シグレは隣を歩く主に謝罪の意を精一杯伝える。
まさか、自分も誘われているとは言えなかった。
「――――――――まあ、いいでしょう。必要経費として諦めます」
「はい……」
リュウトは何とも言えない表情で答え、シグレはその表情に申し訳なさそうな顔を返した。
「――――――――」
「――――――――」
黙って歩く二人。
その気になれば手を繋ぐ事も腕を組む事も容易い距離だが、二人はただ黙って歩き続けるだけだ。
それが当たり前のように――――
「――――――――」
「――――――――」
だが、この日だけは少しだけ違った。
リュウトの手がシグレの背に伸び、その髪に触れたのだ。
「ッ!?」
びくりとして身体を硬直させるシグレ。その目は驚きに見開かれていた。
使い魔のその様子にリュウトは少しだけ驚くと、使い魔の髪に触れていた手を下ろした。
「――――すみません」
「あ、いえ! 気にしないでください!」
リュウトの謝罪に、シグレは手をぶんぶんと振りながら答える。
もちろん、その本心は別だった。
「でも、いきなりどうなさったんですか?」
シグレは内心の動揺を抑える意味も兼ねて主に向かって問い掛ける。
本当なら理由もなく一日中触られていても良かったのだが、それを言ったらまるで春を売る職業の女になったような気がしてとても口には出せなかった。
「いえ……昔を思い出しましてね……」
「昔……?」
「ええ、あなたのモデルになった母の姿を思い出しましてね」
「あ……」
シグレは言葉を失った。
幼い願いに身を任せて選んだ姿。
主の理想とする女性の姿を望んだ自分は、主の母親にそっくりに成長した。
それが主に大きな悲しみを与えたという事を、シグレは随分後になってから知った。
「――――悲しそうな顔をしないでください。シグレは母の代わりではないのですから……」
「はい……」
主を悲しませたという事に気付いたシグレが涙ながらに謝ったときも、リュウトは同じようにそれを許した。
シグレが望んだのなら、自分は決してそれを否定しないと――――
「今日ゆりえさんと会って、懐かしい想い出をたくさん思い出しました」
「はい」
シグレは主の言葉を遮ることなく先を促す。
「だからでしょうか、シグレの髪はどんな感触だったかと気になってしまいましてね……」
「――――――――」
シグレは主の言葉に喜びと悲しみを覚えた。
主が自発的に自分を望んでくれたという事と、それが想い出に起因する事だったという事実。
その二つがシグレの心に相反する感情を与えた。
だが、シグレはそれを覆い隠して言葉を紡いだ。
「それで――――」
「ん?」
「それで、わたしの髪は如何でしたか?」
「――――シグレ……」
悲しいのは事実。
だが、嬉しいのも事実だ。
髪どころか、自分の身体を構成する微細な原子一つに至るまでリュウトのものだと思っているシグレにとって、リュウトが自分に触れてくれたことは大きな喜びだった。
だからこそ、シグレはリュウトに問うたのだ。
「――――如何、でしたか……?」
「――――――――君だけの、優しい感触でしたよ」
「!!」
二度目の問い掛けに、リュウトは微笑みならが答えた。
その言葉に、シグレは言葉をなくす。
主は――――『君だけの』と言ったのだ。
人間ではない擬似的な生物である使い魔だが、それは決して誰かの模造品ではない。
リュウトの言葉は、シグレにそう思わせるだけの優しい色に満ちていた。
「あ、あり……ぐす……あり、がと……ぐす……」
シグレは必死で涙を抑える。
どうして抑える必要があるのか分からなかったが、いつもの癖でそうしてしまったのだ。
だが、リュウトはそんな使い魔の頭を撫でると、反対側の手でシグレの涙を拭った。
「あ、あるじどの……!?」
「気にしないでください。女性に涙を流させて放り出すなど、父もギルも許さないでしょう」
「あう……」
真っ赤になって俯くシグレ。
ある意味では同一人物と言える使い魔と術者だが、各々の人格を持っている以上、それは別個の存在なのだろう。
二人は立ち止まったまま、少しだけお互いの熱を感じていた。
「主殿」
「はい?」
高町家とリュウトの実家の中間あたりに差し掛かった頃、シグレは主に確認すべき事をようやく口に出した。
「今回の訪問、主殿は最後の思い出にとお考えですか?」
「――――――――」
鋭い光を伴ったシグレの言葉を聞いても、リュウトは黙って歩き続けた。
それは決してシグレを無視したのではない。ただ、無言が答えだっただけだ。
そして、それはシグレにも分かっていた。
「――――――――そうですか……」
当たらずとも遠からず――――リュウトの態度はそう物語っていた。
シグレはそれを確認すると、再び黙り込む。
そしてその一分後、沈黙を破ったのはリュウトだった。
「――――――――シグレは……」
「はい」
主の言葉を一言一句聞き逃すまいと、シグレは聴覚に神経を集中した。
「シグレは、私の消えた後もこの世界に残りたいですか?」
「え……」
だが、その耳に飛び込んできたのは、彼女が予想もしなかった言葉だった。
主の言葉を何度も反芻し、次の瞬間にはその主のコートの袖を皺が付くほどの力で握っていた。
「あ、主殿……! それは、わたしなどもう必要ないということですか……!?」
大きく震える声。
それと同時に、シグレの目には恐怖の色が浮かんでいた。
主に捨てられるかもしれないという絶対的な恐怖。
曖昧な契約内容によって成り立っているリュウトとシグレの関係は、リュウトの意思一つで簡単に崩れ去るものだった。
だが、その恐怖は次のリュウトの言葉であっさりと消え去った。
「まさか、違いますよ」
「そ、そうですよね……申し訳ありません……」
シグレはリュウトのコートから手を離し、深々と頭を下げた。
「いえ、頭を上げてください。私の言い方が不味かったのでしょう」
「はい」
リュウトの許しを得て、シグレは頭を上げる。
その目にはやはり安堵があった。
冷静に考えればリュウトが理由もなく自分を見捨てるはずがない。
シグレはそれに気付かなかった自分に腹が立った。
それでもシグレは気を取り直し、主に再び質問を浴びせる。
「それでは、先ほどの言葉は一体?」
「――――正直に言いましょう」
リュウトは一拍の間を挟み、再び口を開く。
「今日ゆりえさんと会ったことで、私がこの世界に残した懸案事項のいくつかは片付きました。ゆりえさんの現状、そのご両親の現状、あの事件の際の記憶の確認、そして――――」
ずっと持っていたキーホルダー。
それをゆりえに渡し、リュウトの心残りはもうそれ程多くない。
「おそらくすべてが桜が咲く頃に終わっているでしょう。その前に美由希さんとの約束が残っていますが、それを片付けたらこの世界に戻る事もないはず」
「はい」
シグレはリュウトの言葉に欠片も動揺しない。
リュウトの言葉は、すでに何年も前から決まっていた事だからだ。
「私が言っているのは、その後の事です」
「その後、ですか……?」
シグレは首を傾げる。
すべてが終わった後なら自分は存在してないだろう。
主が存在していない以上、使い魔である自分が存在できるはずもないからだ。
「私はシグレが望むなら君だけでも残れるように手を尽くそうと思っているんです」
「え……」
リュウトの言葉は、シグレにとって今日一番の驚きを生み出した。
その口も眼も大きく見開かれ、驚きという感情以外思いつかない表情となっている。
「もちろん、確実な事は言えません。私がどうなるかも分かりませんから……でも……」
「――――――――」
「君が望むなら最大限の努力をします。折角仲の良い友人ができたのです。無理に私に付き合う事もないでしょう」
「――――――――」
リュウトにとってシグレは比較するものがないほど大切な存在だ。
それを自分の個人的な事情に巻き込みたくはなかった。
だが――――
「使い魔の契約を変更し、主を別の人間に代えるという方法が存在すると聞きました。事の真偽は不明ですが、それが可能なら――――」
「嫌です」
シグレは、毅然とした態度で主の目を見詰めた。
その目に一切の迷いはなく、宝石のように透き通っている。
「シグレ」
「主殿がなんと言おうと、これだけは譲れません」
「“残れ”と命令してもですか?」
「――――――――はい」
明らかな叛逆。
だが、シグレはそれでもリュウトの言葉を聞くことはできなかった。
「主殿は契約で仰いました、“共に在れ”と。それを違えるのですか?」
「――――――――」
「わたしはいつ如何なる時も主殿の矛であり続けます。そして、主なき矛は朽ちるだけ」
「――――――――」
「主殿も、それはお分かりのはず」
リュウトは内心嘆息した。
たった七年の月日で、使い魔の少女は大きく成長していたらしい。
自分には勿体ない使い魔だ――――リュウトはそんな想いを込めてシグレを見詰める。
「――――分かりました。今回の私の言葉は存在しなかった、それでいいですね?」
「御意」
シグレは恭しく頭を下げる。
自分の意見が認められたのが嬉しかったのではない、自分が主を満足させる答えを見出せた事が嬉しかった。
「さて、それでは帰りましょうかね」
「はい、あの鉄面皮女も待っているでしょう」
二人は何事もなかったかのように歩き出す。
「今度は美由希さんとの約束ですねぇ」
「――――あの、わたしも……」
「ん?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そうですか? ならいいですが……」
先に見えるのが途切れた道でも、きっと自分は後悔しないだろう。
主と共に生き、主と共に消える。それ以上の望みはない。
「帰ったら久しぶりに六時間睡眠です」
「あ、あの、わたしも一緒に……」
でも、もし一つだけ願いが叶うなら、自分は――――
「何か言いましたか?」
「いえ、言ってません」
自分は、あの人と腕を組んで歩きたい。
「そうですか……?」
「はい」
幸せそうに笑うあの人の腕を引っ張りながら、掛け替えのない時間を過ごしたい。
「そうだ、向こうに戻ったら――――」
「仕事はダメです」
この作り物の魂の願いを叶えてくれる存在がいるのなら、どうか――――
「し、シグレが厳しい……」
「主殿のためです」
どうか、来世でこの人の隣を歩かせてください。
「で、ですが――――」
「ですがもよすがもありません。今日は休暇です」
「――――――――」
「分かりましたね、主殿」
「はい……」
どうか、この人と共に生きられる世界を――――ください。
第六話につづく
〜あとがき〜
皆さんこんにちは、悠乃丞です。
急展開とまで言われたのに、結局ぐだぐだになってしまった観のある第五話ですが、如何だったでしょうか?
リュウト君は幼馴染と再会し、心残りの一つを片付けました。
その結果、物語は最後の局面に向けて動き始めます。
まあ、その前にシグレさんの一人称が待っているんですがね。
ここらでガス抜きしておかないと、物語がえらい事になりますので頑張ってコメディを書きたいと思います。
それではここで、拍手への返事をさせていただきます。
※ くらひと更新を毎回のように楽しみにしています!これからもガバショ!!
>感想ありがとうございます。最近は更新も滞ってしまい、大変申し訳なく思っております。
皆様の応援に後押しされ、ここまで来る事ができました。今年中には決着をつけたいと思っております。
その前に本編そっちのけで過去篇とか書かないと間に合わないかもしれないという現実が厳しいです。お盆を利用して話数を稼がなくてはなりませんね。
今回も返事が遅くなり、申し訳ありませんでした。
更新ペースを上げると言っておきながら一週間丸々遅れるという大失態を演じた私ですが、次回こそはと第六話の執筆を進めております。
過去篇と同時進行であるために混乱する読者様もおられるかと思いますが、執筆を止める事は絶対ありませんのでどうかよろしくお願いします。
さて、次回はシグレさんの一人称。何気に登場回数が減った彼女が普段何をしているのか、その秘密が明らかになります。
今回はかっこよかった彼女ですが、普段は結構アホの子です。
時空管理局には秘密の集団がいくつか存在する。
非公式ファンクラブと呼ばれる彼らは、彼らの追い求める人物たちのために日々活動していた。
だが、その中には数少ない公式ファンクラブが存在する。
使い魔公認本人非公認のリュウト・ミナセファンクラブ。
そこに所属する技術者が、盟友たる使い魔の少女に送った献上品。
これを開いた時、主不在の執務室に使い魔の奇声が響き渡る。
次回、魔法少女リリカルなのは―――暗き瞳に映る世界―――
第三章
第六話 〈シグレの一日〉
一〇一匹リュウト君大行進?