魔法少女リリカルなのは―――くらひとSSS―――
―月村邸の会談 その時、ネコが動いた―
「来てしまった…」
明らかに一般の家庭のそれとは違う門戸の前で、一人の青年が呟いた。
この家の住人である少女からの招待を受けたのが、数日前の事。
それ以来、この場所に来るために急用が入らないように根回しを済ませ、さらにはこの邸宅に居るであろうネコ達に対抗するための魔法を練り上げた。
本来の仕事の片手間でやるには少々手強かったが、青年はそれも必要な苦労と割り切っていた。
約束した事なら、目の前にどんな壁があっても成し遂げる。それは、青年が自分に課した一つの誓約でもあるからだ。
そして、ふと招待を受けたときの事を思い出す。
決して、ある種の天敵に相対する事から逃避しているわけではない。
――少なくとも本人はそう思っていた。
『すみません。お仕事中でしたか?』
耳に当てられた通信端末から聞こえる声に、いや、その声が紡いだ言葉に青年は苦笑した。
自分のこの役職を考えれば、仕事のない時に狙って連絡できる人間が、一体どれだけ居るというのか。少なくとも、片手の指で事足りてしまうだろう。
この仕事にも一応就業時間というものがあるが、青年にとってそれは就労時間の一つの基準であって、仕事の開始や終了を意味しているわけではないのだ。
「いえ、休憩のいい口実になりました」
『――ええと、ごめんなさい…』
青年の言葉を皮肉と受け取ったのか、少女は声のトーンを落として謝罪の言葉を発する。
無論、青年にそのような意図などない。
「いえいえ、本当に助かりました。今は一人で仕事をしている所為で、休憩をとる事も忘れてしまいがちですから…」
『そう、ですか。良かったです…』
「それで、今回はどうしました? なのはさん達でしたら、今は訓練中のはずですけど、緊急の用事ですか?」
青年は、今この少女が自分に連絡してくる理由で一番可能性として高いのは、少女の友人である自らの後輩たちの事だろうと考えた。
もしかしたら、訓練中で連絡が取れなかったのかもしれない――そう考えたのは青年にとってみれば、それほど不自然な事ではなかった。
本局に後輩たちが居る以上、青年に連絡をとればほぼ確実に後輩の少女たちに連絡が取れる。青年は当たり前のようにそう思っていた。
しかし、少女の返答は青年が考えていたものとは、違うものだった。
『ち、違うんです。今日は…ええと……リュウトさんにお話しがあって…!』
「私に、ですか?」
青年――時空管理局提督リュウト・ミナセは、少女の言葉に、珍しくきょとんとした顔をしながら答える。もっとも青年の居る執務室には他に誰もいないので、その珍しい表情を見たものは居なかったが。
『ええ、そうです。この間、遊びに来てくださいって…』
「ああ、なるほど」
ようやくリュウトにも合点がいった。少女はそんな彼の様子に構うことなく喋り続ける。初めて連絡する相手ということもあって、緊張しているのかもしれない。顔の見えない電話――正確には全く違うものだが――だと、人によっては少女のように緊張する事もある。
『それでですね…。今度の土曜日っていかがですか?』
「ええと…」
『すみません。お忙しいのに…』
「いえ、気にしないでください」
急な誘いだと自覚しているのだろう。申し訳なさそうに言う少女に答えながら、リュウトは自分のスケジュールと、地球の暦を頭に思い浮かべる。
『その日ならきっと大丈夫だろうって、なのはちゃん達が…』
「――――」
確かにその通りだ。しかし、何故それをなのは達が知っているのか。
そこまで考えたリュウトは、先日ここに暇つぶしに来た幼馴染のことを思い出した。
彼女ならリュウトの予定を知っていても不思議はない。大方、リュウトが席をはずしている間に彼の仕事用情報端末からスケジュールを覗き見たのだろう。
本来ならプライバシーや機密漏洩の問題があるだろう。あの幼馴染がそんなことを気にするとは思えないが、同時に機密情報を見るような無分別な人間でもない。個人的にも少女を知っている彼女の事だ。おそらく二つ返事で調べる事を了承したのだろう。
「はあ…」
リュウトは自分の周りに居る女性たち行動力に溜息を吐いた。
その行動力に助けられる事も多いが、後始末を押し付けられる事もまた多い。
『あの…、駄目でしょうか?』
リュウトの溜息を勘違いしたのか、少女が不安げな声で問うてくる。
「――ああ、大丈夫ですよ。今度の土曜日ですね」
『そうですか! 良かった…』
少女は明るい声で喜びを表す。ひょっとしたら体でも表現しているかもしれない。
「それで、私は何時に伺えばいいでしょうか?」
『あ! そのことでお聞きしたいんですけど…』
「何でしょう?」
『ええと……』
少女はそこで僅かに逡巡したように間を空けたが、意を決して言葉を続けた。
『もし…よろしければ、うちでお昼ご一緒しませんか?』
少女の提案はそれほど不思議なものではなかったが、確かにあまり面識のないリュウトを誘うのは勇気のいることだろう。特に、この少女はそういう積極的な姿勢を示す事は少ないと後輩たちにも聞いたことがある。
リュウトはそう考えた。
「ご一緒してもよろしいので? ご家族の方とかは…」
『大丈夫です! お姉ちゃんも、是非にって言ってましたから』
「そうですか…。でしたら、ご相伴にあずからせていただきます」
『はい! 楽しみにしてますね』
「ええ、こちらこそ」
そこまで喜んでもらえるとは思わなかった。
リュウトがそう思ったのも無理はない。端末の向こうからは、通信端末越しですら分かるような幸せオーラが滲み出ている。
どうしてそこまで喜んでもらえるのか分からないまま、リュウトは少女――月村すずかの自宅までの道を誰に聞こうか考えていた。
「さて、どうしたものやら…」
リュウトは月村邸の門戸の前で途方に暮れていた。こういう家に縁がなかったわけではないが、少なくともプライベートで気軽に遊びに行ったとはとてもいえないような経験だけだ。
先ほどから幾つもの監視カメラがこちらを向いているのが分かる。おそらく中の住人はリュウトの来訪に気が付いているのだろう。しかし、向こうからの反応がないことから考えれば、おそらく自分が何らかのアクションを起こす事を期待されているのかもしれない。
普通に考えればインターフォンを押して来訪を告げればいいのだろうが、リュウトは自分に向けられる無機物の目に、別の意図があるような気がしてならない。
(ひょっとして、歓迎されていない?)
そう思ったリュウトだが、結局は大人しくインターフォンへと手を伸ばす。他に方法を考え付かなかったのだ。まさか強行突入して屋敷を制圧するわけにもいかない。
作動を告げるブザー音のあとに、少し幼さを残した女性の声が聞こえてきた。
≪どちらさまですか?≫
「リュウト・ミナセです。本日はすずかさんのお招きを受けまして…」
≪はい。伺っております。ただいま門をお開けしますので、少々お待ちください≫
「はい」
その声の主はリュウトの返事を聞くと、すぐにインターフォンを切る。
そして、門が開錠される音と共に、先に見える玄関から誰かが出てくるのがリュウトの目に映った。
影はリュウトに軽く頭を下げ、大きな門を開くと、お辞儀をして歓迎の言葉を続ける。
「ようこそいらっしゃいました。すずかお嬢様より、お話は伺っております。こちらへどうぞ…」
そう、緊張した面持ちで挨拶したのは、エプロンドレスを着た、やはり女性というには若すぎる少女だった。リュウトよりは年下だろうか。
「ありがとうございます」
もっとも、心中のそんな感想などリュウトの表情には出てこない。至極真面目な、しかし少女の労をねぎらうような笑顔で、ゆっくりと礼を言った。
そんなリュウトの仕草に、その若いメイドは余計に緊張してしまったようで、その動作はどこかちぐはぐなものだった。
リュウトはそんなメイドの後を、広大な庭を眺めながら月村邸に向かって歩いていく。歩きながらネコ避けの魔法の作動を確認したのは、やはり慎重な彼らしい行動だった。
「いらっしゃい。初めまして――になるわね」
邸宅の中へと歩を進めたリュウトの前に、長い髪を揺らした女性が現われた。
その女性は何処かすずかに似ていて、リュウトはすぐに目の前の女性がすずかの姉だと気が付いた。
「ええ、初めまして。リュウト・ミナセです」
「月村忍。気付いてるでしょうけど、すずかの姉よ」
そう言って忍は笑みを浮かべてリュウトに握手を求めてきた。
リュウトはその手を握り返しながら、笑みを浮かべる。
「すずかさんやなのはさんから、色々お話は伺っています。恭也さんの恋人だと」
「すずかったら…。悪口言って無かった?」
「いえ、いいお姉さんだと…」
リュウトは公園での光景を思い出しながらそう告げる。
「あら、だったら可哀想なことしちゃったわね」
「は?」
「ふふ、前にあの子が貴方と会った時のことね。無理矢理聞き出しちゃったから」
「はあ、そうですか…」
リュウトには何がどう可哀想なのかさっぱり分からない。世間一般の姉妹とはこういうものなのだろうかと思ってしまう。リュウトの一番身近だった姉妹は、はっきり言って規格外で何の参考にもならない。
「それでね。そのすずかなんだけど、今ちょっとお使いに行ってもらってるのよ」
「そうなんですか?」
リュウトもまさか招待主が留守だとは思っていなかった。
てっきり屋敷の何処かに居るものだと思っていたのだ。
「ええ、ごめんなさいね」
リュウトはその謝罪が別の人間に向けられているように感じられたが、無論、彼には何も出来ない。
「すずかが帰ってくるまでは、私の相手をしてくれると嬉しいんだけど」
「――――はい、喜んで」
そう言って悪戯っぽく笑う忍に、リュウトが抵抗できるはずも無かった。例えそれが罠のような気がしても。
時空管理局提督リュウト・ミナセ。周囲も認めるフェミニストだが、実際にはヘタレという噂が絶えない。それにはこういう理由があった。
「ええと、それで、其方の方は…」
「え!?」
リュウトはお茶の席へと案内され、すでにお茶の用意も万端整っている状態だった。
しかし、彼はお茶を淹れてくれた少女の名前を知らないのだ。
「ファリン。ひょっとして…」
「ああっ!?」
「ポット持ったまま叫ぶのは危ないかと…」
流石に目の前で叫ばれると、リュウトも困る。
「す、すみません…!」
「いえ、危ないのは貴女の方ですし」
「え、ああ!? すみません!!」
「いえ、ですから…」
「ファリン。とりあえず、ポット置きなさい」
「はい…」
そんな遣り取りの末、ようやくファリンと呼ばれた少女は落ち着き、姿勢を正して自己紹介を始めた。その顔がいささか朱に染まっているのは、自分の失態を初対面の人間に見られたが故だろうか。
「申し遅れました。ファリン・K・エーアリヒカイトです…」
「ありがとうございます。先ほどもご挨拶しましたが、リュウト・ミナセです」
「はい! よろしくお願いします!」
「ふうん…。聞きしに勝るフェミニストね」
「そうでしょうか? 自分では何とも…」
「いいんじゃない? 悪癖って訳でもないし、ファリンも嬉しそうだし」
「ええ!?」
「あら、嫌なの?」
「そうじゃないですけど、初対面の人の前で…」
「誰でも最初は初対面よ」
「それはそうですけど…」
「それに、私もリュウト君とは初対面よ」
「リュウト君…」
「いやだった?」
思わずこぼれたリュウトの呟きに、忍は眉根を寄せて問う。彼女からしてみればリュウトは学校での後輩と変わらぬ年齢で、雰囲気的にもこの呼び方が一番合うだろうと思っているらしい。
リュウトは忍のそんな表情を見て、慌てたように首を振る。
「あ、いえ。珍しい呼び方をされたもので…」
例外的に後輩の姉が同じ呼び方をするが、それは同じ歳であるが故の気安さからだろう。
少なくとも、此方の世界以外でそのような呼び方をする人間は殆どいない。
それに――
(リュウト君か…。彼女も始めはそう呼んでいたっけ…)
リュウトの脳裏には、既に鬼籍に入った元同僚の姿が浮かんでいた。
『人間は手の届く範囲の人しか守れないんです。でも、偉くなれば手の届く範囲も広くなるでしょう?』
『そうかな? 僕は手が届いても守れない人も居ると思うけど…』
『――そうですね。でも、だったら強くなります。強くなって、偉くなって、守れる人が少しでも多くなるように…』
『――そうだね。きっと出来るよ』
『その時は、リュウト君も一緒に頑張ろうね』
『――部下になれって事?』
『う〜ん、リュウト君のほうが偉くなってそう…。ちょっと悔しいかも…』
『そんな目で見られても…』
もはや戻る事も出来ない過去。ただ守りたいと願い続けたあの人はすでにこの世に居らず、リュウトは彼女が目指した場所へと近付いている。
(マリア…)
「へえ…。普段はどんな呼び方されているの?」
「!?」
「どうしたの?」
リュウトは忍の声に意識を引き戻された。
ともすれば表情に出てしまいそうな程の動揺を隠し、リュウトは忍の言葉に答える。
その言葉を発し終わる頃には、彼は動揺から完全に脱していた。
「ええと…、少なくとも君付けは珍しいですね。特にファーストネームになると」
まさか提督と呼ばれているとは言えない。ひょっとすればニックネームくらいで納得してもらえるかもしれないが。
「へえ」
「わたしはリュウトさんって呼んでいいですか?」
先ほどまでは萎縮してしまっていたファリンも、リュウトが思いの外親しみやすい人物であると認識したらしく、片手を挙げて提案してくる。
ファリンの変わりように僅かに驚いた様子のリュウトだったが、すぐに笑顔を浮かべて快諾する。
「ええ、もちろんです」
「わたしの事はファリンでいいですからね」
「分かりました。ファリンさん」
リュウトのその言葉に、ファリンは嬉しそうに笑みを浮かべた。
やっぱり、笑顔の似合う少女だと、リュウトはぼんやりと思った。笑顔が似合う人はやはり笑っていてもらいたいものだ――リュウトの心に、昔日の記憶が再び顔を出した。
「ふうん、じゃあ今は海外にいるのね」
「ええ」
「すごいですね。わたしなんて外国行ったら帰って来れなさそうです」
「確かにそうね。絶対に迷子になるわ」
「ひどいです…。忍お嬢様」
「事実よ。ノエルなら心配は要らないでしょうけど、ファリンは街に買い物に行くだけでちょっと不安だもの」
「否定できないのが悲しいです…」
「あはは…」
目の前で行われる会話に、リュウトは乾いた笑いを返すしかなかった。
女性の会話とは、どうしてこうも男性を居心地悪くさせるのだろう。他の人は違うのだろうか。リュウトがそう考えていたのも無理はない。
すでに二人はリュウトをダシに、30分以上も喋り続けている。彼のしている事といえば、たまに話を振られては答え、そこから派生する二人の会話を聞き続ける。そんなことの繰り返しだった。
確かに目の前にいる二人は見目麗しい女性だ。リュウトの知り合いで、女性を口説く事を生きがいと言って憚らない局員がここに居れば、間違いなく眼福と言っているだろう。ひょっとしたら口説いているかもしれない。
だが、生来の性格か、女性をほとんど意識しないうえに色恋沙汰に興味を持たず、更には仕事が生き甲斐というか、生活の基本になっているリュウトにしてみれば、二人の容姿はさしたる意味を持たない。
本来なら本能が強い子供時代に訓練を始め、早すぎるとさえいえる時期に理性に思考の全てを委ねるという事をしてきたリュウトは、異性間の感情に理解と一定の経験だけはあるが、それ以上の感情は経験したことがない。
自分に対する負の感情は敏感に感じ取る。だが、正の感情、特に恋愛感情などは気付く事だけは出来ても自分の中に経験がない為に理解するには至らないのだ。
母たちもそんな息子を心配していたが、一度でも恋愛すれば変わるだろうと結局はさじを投げた。自分たちが行った過剰なスキンシップが一因かもしれないとは、全く考えていない。
兎にも角にも、リュウトとしてはこの会話から脱出したいとは考えないが、積極的に加わるほどの度胸も経験も無い。その末路が延々と続く姦しい会話をBGMにしたお茶会だった。
「それにしても、恭也と引き分けるとはね…。恭也が悔しがって鍛錬の時間が増えたってぼやいてたわよ」
誰がとは言わないが、リュウトもすでに誰が言っていたかなど分かっている。本人から文句を言われたからだ。
「私に言われてもどうにも出来ませんけどね。それに手を抜いたら失礼ですし」
「まあね。加減をするのと手を抜くのは違うから…」
「ええ、まさかお互いに本気でやり合う訳にもいきませんでしたからね」
そんな事になったら、闘いの場になった高町家の道場が全壊していただろう。いっその事結界でも張ればいいのかもしれないが、手合わせの為に結界を張るのも本局の納得が得られるか分からない。
結果、お互いに制限を設けた上での手合わせとなったのだった。
一切の技を使用せず、純粋な剣術と体術のみの恭也と、一切の魔法と魔力を使った身体強化を禁じ、同じように剣術と体術のみのリュウト。
戦いは白熱したが、結局は引き分けという事になった。
「まあ、恭也も手応えを感じて、満足してたみたいだから」
「おかげで何度も手合わせする羽目になりましたけどね」
すでに数回手合わせをしているが、近頃は美由希に稽古をつけるように頼まれる事もあった。稽古の後に高町家でご馳走になる夕食は美味だったが、納得できない自分が居るのも確かだ。
それでも、楽しいと思うリュウトが存在する事も、また事実だったが。
「そろそろね…」
「は?」
「ううん。こっちの事」
「はあ…そうですか」
茶会が始まって40分が過ぎた辺りで、忍は唐突にそう呟いた。
その声に訝しげな顔をするリュウトだが、忍はそんなことは気にも留めない。
「……さてと、月村家ドッキリ企画の始まりね」
「――――何か、仰いましたか?」
何か不穏な台詞を聞いた気がしたが――そんな疑念に囚われたリュウトは忍に訊ねる。
「ううん。言ってないわよ」
いけしゃあしゃあとそうのたまった忍の表情は、どこか魔女を連想させるものであった。
「悪いんだけど、しばらく席を外すわ」
「…………?」
「ほへ――?」
その表情を隠して、忍はそう告げた。
リュウトはその言葉に僅かに眉を動かし、ファリンに至ってはポカンとした表情で忍を見ている。
そんな二人の顔を見ながら、忍は内心で笑みを浮かべる。もちろん、表向きは申し訳なさそうな表情を崩さないが。
「だから、少しの間ファリンがお相手してね」
「ええ!?」
「だから、そんな声出すほど嫌なの?」
「…………」
「あ、いえ、びっくりしちゃって…」
苦笑いを浮かべるリュウトを見て、ファリンは自分の失言を慌てて否定する。
彼女にしてみれば、正式な招待を受けた客の前で失礼なことは言えない。それに本当に嫌がっているわけでもなかった。
「じゃあ、お願いね」
そういって忍はそそくさと部屋を出て行った。その仕草に僅かな違和感と嫌な予感を感じたリュウトだが、初対面ということで自分を無理矢理納得させた。
そこで感じた違和感と予感を信じてこの邸宅を脱出していれば、この後に起こる悲劇は回避できたのかもしれない。
まあ、すずかと会わずに帰る事出来ないので、結局は変わらないのかもしれないが。
結局のところ、それが運命だったのだろう。
「ええと、何か聞きたい事ありますか?」
「あ、そうですね。じゃあ……」
リュウトの声に我に返ったファリンがここぞとばかりに質問してくる。
外国での暮らしや、大変だった事。すずかと出会った時の話もした。
リュウトが誘猫体質――リーゼアリア命名――だと知ったときなど、ファリンがわざわざ手近なネコを連れてきて実験なども行った。ネコ避け魔法を解除した瞬間に屋敷中のネコが反応したために実験は中止になったが、ファリンはその話が真実だと納得したようだ。
後から考えてみればファリンとの歓談は確かに楽しかった。しかし、自分に注がれている視線に、ネコを気にするあまりリュウトは気付く事は出来なかった。
「さて、そろそろ帰ってくるはずだけど…」
部屋の一角を占領するモニターの光だけが光源の部屋で、忍は不気味な笑みを浮かべていた。
彼女が見つめるモニターの中では、リュウトとファリンが楽しげに談笑している。
先ほどまではネコ実験の結果を話していたようだったが、今はファリンが今までしてしまった失敗談などを照れくさそうに話している。
初対面だからこその気軽さで、姉であるノエルに叱られたと話すファリンとその話を笑いながら聞いているリュウト。そのモニターの中で二人は平和そうだった。
しかし、それでは面白くない。
少なくとも忍はそう思っていた。
リュウトが未だに遠慮している部分があるのにも、忍は気付いていた。それほど焦る必要もないのだが、妹が気に入った人物の本音を見てみたいという好奇心に忍は勝てなかったのだ。
そして、忍が待っていた人物が帰宅するのを、別のモニターが知らせる。
ついに、月村邸ドッキリ企画が開始されようとしていた。
「あ、そういえば、この前わたしが作ったお菓子があるんです。食べてもらえますか?」
ファリンはリュウトが料理をすると聞いて、そんな事を提案してきた。彼女からしてみたら自分が作ったお菓子がどの程度のものなのか、先入観無く味見をしてくれるだろうと思ったのだ。
「ええ、構いませんよ」
リュウトも目の前の少女が作ったお菓子に興味があったし、自分の意見で参考になるならとその提案を承諾した。
「じゃあ、持ってきますね。あ、お茶…」
立ち上がったファリンはリュウトのカップにお茶が残っていないのを見て、お菓子を持ってくる前にお茶を注ぐことにした。
そして、それが月村家騒動の幕開けだった。
「ええと…」
台車に乗せられたポットを手に取り、ファリンはリュウトのカップにお茶を注ごうとする。
しかし、台車からポットを持ち上げ、リュウトに向き直ろうとした瞬間、ファリンの踵が何かの段差に引っ掛かってしまった。
「ひゃっ!?」
素っ頓狂な声を上げるファリンにリュウトが気付いたとき、彼女は既に自分では体勢を立て直す事が出来なくなっていた。その上、ファリンは熱いお茶が入ったポットを持ったまま。
リュウトは訓練で鍛えられた動体視力と判断能力で状況を確認、詳細を把握し、自分が助けるべきだと認識する。
しかし、ファリンは両手でポットを持ったまま倒れそうになっているため、手を握って助けるというわけにもいかない。下手に手を握ってポットからお茶が零れたら、ファリンが火傷を負ってしまう。
そう考えたリュウトは、直接ファリンを抱き寄せて体勢を立て直す事にした。
(緊急事態につき、失礼します!)
心の中で謝りながら、リュウトは椅子から立ち上がり、ファリンの腰へと手を伸ばした。
その風の如き動きは、鍛え上げられた武術家のそれによく似ていた。
「あわわわ………」
「っ!!」
(届けっ!)
そんな声を出しながら倒れるファリンの腰に、間一髪のところでリュウトの手が届く。
「……あれ?」
「ふう…」
自分にお茶がかかる事を想像して目を瞑っていたファリンだが、自分が倒れていない事にようやく気が付いた。
リュウトはその様子にほっと一息つくと、この部屋に近付く複数の気配を感じとる。その中に自分の知る二つの気配があることに気付いたが、リュウトがそれを疑問に思う前に事態は動いた。
寸でのところで抱き留められたファリンは、目の前にリュウトの顔があることに動揺してしまった。
「あ、あ、あ…」
「へ?」
その声に気付いたリュウトだが、彼には何故ファリンが動揺しているのか分からない。その為、リュウトはファリンの予想外の行動に対応する事が出来なかった。
「――――ひゃああああ!!」
「あ…。すみません」
「あ、いえ………きゃっ!?」
「はいぃ!?」
顔を真っ赤に染めたファリンが、リュウトの手から逃れようと身をよじらせた。リュウトとしても嫌がるファリンを無理に抱きとめることも出来ないので、手を離そうとする。
しかしその瞬間、ファリンはドジメイドの真価を発揮し、再びその場に倒れるという結果をもたらした。その時にリュウトの足を払い、巻き込むというおまけも付けてである。
不意を突かれたリュウトが出来る事といえば、ファリンが両手で持っているポットを弾き飛ばし、ファリンを抱き締める事で彼女が受けるであろう衝撃を少しだけ和らげる事だった。
「よし!!」
忍はモニターの中でファリンを抱きとめるリュウトを見て、そんな声を上げた。
そして、廊下を歩く待ち人の姿を確認して、作戦の成功を確信する。
「さて、これでミッションコンプリートね。にしても、まさかあの子まで来るとは…」
月村家ドッキリ企画とは、どこか距離を置きたがるリュウトに対し、忍が仕掛けたちょっとした悪戯だった。
床に仕込まれたギミックを使ってファリンが倒れるように仕向け、リュウトにそれを救出させる。どうやって助けるにしろ、ファリンとリュウトはそれなりに接近しているはずである。
そこに待ち人であるすずかの登場。しかし、今回は特別ゲストも居るようだ。
リュウトがファリンとくっついている場面を見たすずかとゲストがどんな反応を示すか。少なくとも無反応という事はあるまい。
即興で考えた作戦としては、思った以上の成果をあげそうだった。
しかしそこで、ファリンのドジによって、忍ですら予想もしなかったことが起きた。
≪ひゃああああ!!≫
「え?」
ファリンが再び倒れそうになるのを、忍はポカンと見ているしかない。
そして、次の瞬間。ポットの割れる音が忍の耳に入ってきた。
「いたた…」
「…ええと、大丈夫ですか?」
床に倒れたリュウトは目の前で顔を顰めるファリンに声を掛ける。リュウトが後頭部に手を回したため頭部を打つ事は無かったが、それでも背中を床に打ち付けた事に変わりはない。
ファリンの頭の向こうに、割れたポットが散らばっているのがリュウトの目に入った。
なんとかなったと、リュウトは再びほっと息をついた。もっとも、ポットを割ってしまった事は謝らないといけないな――リュウトはそんなことを思った。
「ファリンさん?」
リュウトは再びファリンに声を掛け、無事であるか確かめようとする。
しかし、その答えを聞く前に大きな音を立てて部屋のドアが開け放たれた。
「リュウトさん! 大丈…夫…で………」
「リュウト! 今の…お…と……」
「うぅん…」
「………え?」
問題:招待された家のメイドを助けました。しかし、客観的に見ると、その体勢はメイドを押し倒しているようにも見えます。というか、そうとしか見えない。そして、その瞬間に招待主とその友人がその場に現われました。さて、どうなるでしょう。
「――――」
「――――」
「――――」
「リュウトさん…?」
自分の下から聞こえてくるファリンの声に、リュウトは僅かに気を取り直した。しかし、リュウトの目の前にあるファリンの顔は恥ずかしさからか赤く染まっており、リュウトにとって致命的な誤解を増幅させる危険性があった。
(不味い! ヤバイ! よく分からないが、すごくやばくて不味い!!)
リュウトは背中に嫌な汗が浮かぶのを実感する。だが、ファリンを支えたままの体勢では来る脅威に対して、満足のいく備えが出来るはずも無い。
危険性という自分の身に破滅をもたらす存在が少女たちへと届く幻が、リュウトの目にはには確かに見えた。
果たして、その危険性はきっちり二人の少女に認識された。
「ファリンと、リュウトさんが――」
抱き合ってる――恥ずかしくて口には出せない言葉を自分の中で反芻し、真っ赤な顔をして二人を見つめるすずか。それに対して、もう一人の少女――アリサ・バニングスは静かなままだった。
「――――――う」
「はい?」
アリサの呟きは、リュウトには聞き取れなかった。しかし、戦場で培われた防衛本能が危険を告げている。
とっととここから脱出しろ!! と。
「―――――ろう」
「ええと、アリサちゃん?」
すずかもまた、隣で顔を俯かせて肩を震わせるアリサに、何処か危険な雰囲気を感じていた。
「――――リュウト…さん?」
そんな中、ファリンだけは状況を把握できていないのか、どこかぼんやりとした顔でリュウトを見つめている。
そして、その声がトリガーになったのか、アリサが顔を上げた。
その顔には、凄まじいまでの怒りがあった。
「この…! 変態メイドフェチやろおおおおおおお!!!」
「え、ちょ、ま…」
答:エライ事になる。
アリサ渾身の飛び蹴りを顔面に受けたリュウトは、メイドフェチってなんだろう、と薄れる意識の中で考える。あと、スカートで蹴り技はどうだろう、とも。
「……悪かったわよ。いきなり蹴り飛ばしたのは」
そう言うアリサの顔は、謝罪一割不満九割といった感じだった。すずかに促されて謝りはしたものの、本人としてはいっそ止めを刺したかったのかもしれない。
彼女はリュウトをファリンの上から蹴り飛ばしたあとも攻撃を緩めず、最終的にはマウントポジションからの連続ビンタを繰り出す寸前までいった。結局は正気に戻ったファリンとすずかに止められ、それは叶わなかったが。
その結果、アリサは不機嫌。リュウトは弁解をするも聞き入れられずという事になっている。
「それに、何でよりにもよってファリンなのよ。忍さんやノエルならともかく…」
――いや、それはそれで不味いだろう。
そう思ったのは誰だったか。それはともかく、リュウトも必死だ。このままでは人生を左右しかねない事態に発展するだろう。
「アリサ、ですから誤解だと…。それにそこまで怒る理由が…」
「怒ってないっ!!」
「どこをどう見ても怒ってるようにしか見えないですけど…!」
「あたしが怒ってないって言ってるんだから、それでいいの!」
「まあ、いいですけどね…」
これ以上刺激して大爆発させるよりも、このまま適度に小規模噴火させておいた方が無難だとリュウトは判断した。怒りという感情は爆発的に高まるが、沈静化するのもまた早い。ならばこのままにしておいて、後から事情を説明すればいいだろう。
「ファリンさん。先ほどは失礼しました」
「あ、いいえ! 助けてくださって、ありがとうございます!」
ファリンはそのまま転ぶんじゃないかとリュウトが心配するほどに頭を下げる。それは、ただ単にリュウトの顔を見ていられないというだけかもしれないが。
そんな遣り取りを見ていた忍は、ひょっとして自分は余計な事をして事態を拗れさせたのではないかと思ってしまう。まさにその通りだが、真相を知るものは忍以外に居ないため、誰もその事を指摘できなかった。
「初めまして。リュウト・ミナセです。今後ともよろしくお願いしますね」
忍がそんな事を考えているうちに、目の前の状況は少し変化していた。
ファリンとの会話を終わらせたリュウトが、初対面のノエルに挨拶をしていたのだ。
ファリンはへそを曲げたままのアリサに事情を詳しく説明している。こうする方がリュウトへの礼になると考えたのかもしれない。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ここでメイド長を勤めさせて頂いております。ノエル・K・エーアリヒカイトです」
そう言って、まさに完璧といえる仕草でノエルは挨拶を返す。
「すずかお嬢様より、ミナセ様のことはよく聞かされておりました」
「ノエルッ!?」
「まあ、どういう風に聞かされていたかは聞かないほうがいいでしょうね…」
(すずかさんの精神の安定の為にも…)
その言葉はリュウトの内から出る事はなかったが、ノエルにはそれが分かったようだった。
「…そうですね。ですが、お聞きした通り素晴らしい方だとお見受けいたします」
「そうでしょうか? ――――いえ、自分の評価は自分でするものではないですね。分析ならともかく」
「ファリンを助けてくださったのです。姉として、大変感謝しております」
「どういたしまして」
そう言ってリュウトは微笑を浮かべた。
その頃にはファリンがアリサに事情を説明し、彼女の機嫌はだいぶ良くなっていた。もっとも、アリサはその日、リュウトの足を全力で踏んだり、ネコをけしかけたりと様々な嫌がらせを繰り返していたが。
そんな風にドタバタと慌しく今回のリュウトの月村邸訪問は幕を閉じた。
忍にはいつでも遊びに来て構わないとも言われたが、何故かアリサがそれを頑なに拒否した。
結局、アリサの家にもいつか遊びに行くということで彼女の機嫌は直ったが、そのときの彼女の目は明らかに何かを画策している目だった。
バニングス邸訪問の際、リュウトはこの世の終わりのような顔をしていたとは、副官と使い魔の言だが、真実はまた別の話である。
END
〜あとがき〜
皆さんこんにちは、悠乃丞です。
今回はリュウト君月村邸攻略の巻をお送りしました。
月村邸といえば大量のネコですが、それだけでは短編の意味がないと言う事で、主人公には8歳(9歳?)年下の小学生に蹴り飛ばされていただきました。
まあ、メイドを不可抗力とはいえ押し倒した以上、なにか報いを受けねばならないので仕方がありません。美味しい役の後には不味い役です。
にしても、ノエルさんまともに出てこないなぁ。そのうち別の短編でメインキャストを務めてもらってもいいかもしれません。メイドはそれだけでネタが出てくる気がします。ノエルさんやファリンさんは何気にキャラが立っているので、ネタも出しやすいのですよ。
さて、次回のくらひとSSSの予定は、おそらく高町家の人に出てもらうと思います。士郎さんや恭也、美由希辺りは全く出てきていないので、出来れば出したいなあと思います。
それでは、皆さん。次回をお楽しみに。