その男は森の中を、鬼を追って駆けていた。

 右手には抜き身の日本刀を持ち、その鞘を左手で持つ。

 その歩みこそ神速とはいえないが、最適の足場を進む事により森の中でもその速度が衰える事は無い。

  小さな川を飛び越えた時、男は自分の前を駆ける鬼に鞘を投擲した。

 鞘は回転してしまい、大した打撃にはならないもののその鬼の体勢を崩す事に成功する。

 男は流れるような動作で倒れた鬼に刀を向けた。




 「まさか鬼が相手とは。 だが仕事は仕事、相手が何であれ斬る事に変わり無し」




  その男はその鬼を一撃で斬り伏せると、振り返った。

 弓を持った巫女が、足場の悪さに苦労しながらも男のところまで来る。




 「信吾殿、鬼は―――」

 「脆い奴で助かった、刃が使いものにならない程度で済んだ」




  信吾と呼ばれた男は、刃が欠けたりつぶれたりしてしまった刀を巫女へと見せた。

 その刀は業物では無いにせよ、安物では無い。

 切れ味こそ低いもののその強度は高く、たとえ血にまみれ刃が潰れても持ち主の力量次第でいくらでも斬る事ができる。

 だがその刃は潰れるどころか、もはや刃とはいえない状態になっていた。

 魔を倒すために作られた武器ではない道具などこんなものだろう。




 「巫女神はどうした、一緒では無かったのか」

 「あのお方を追いかけられるのは貴方でしょう?
  私では到底、あの足には追いつけません」

 「弱音を言うな、それではいつまで立っても強くはなれんぞ」




  軽く変形してしまった刀を拾った鞘に強引に押し込め、信吾は周りを見渡した。

 彼女の気配は独特なので、すぐに見つけるからだ。




 「戦っているな――― 駆けるぞ、月美」

 「お、お待ちください信吾殿!?」




  返事を待たずに信吾は己の最大の速度で駆け出した。

 そのあまりもの速さに、月美は彼を見失ってしまう。

 全速力でここまで来たので、息が切れていた。

  月美は自分以上の速度で駆けておりながら、息一つ切らせない信吾に心底驚いていた。

 そして同時に本当に信吾が人間なのか疑う。

 巫女神が殺さなかった以上違うとは思うが、この世界には例外というものが存在する。




 「しかし―――」




  それでも月美は、信吾を信頼していた。

 仲間だからという単純なものではなく、大昔から続いてきた関係のような不思議な信頼………










 










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                縁の指輪 
    三の指輪 四刻目 闇と月と絶望と


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  爆発対壁は、どちらも相手を越えることが出来ずにいた。

 アスラルが見た血の壁は“非物理世界”よりの攻撃を受けて爆砕する。

 だが爆砕した壁は元の血へと戻り、一瞬で硬化し元に戻る。

 そのイタチゴッコが繰り返されていた。

  アスラルは何度も移動してエギテレィスを“見よう”とするのだが、それを許すはずなど無い。

 巧みに血の壁を操り、エギテレィスは己の姿を隠す。

  終わりの無いいたちごっこ。

 だがそれは片方の手加減があってこそのものだった。

 エギテレィスは余裕の笑みを浮かべ、爪を立てて己の左手を掻き毟る。

 引き千切られた血管から、多量の血があふれ出した。




 「準備は終わった、ではダンスを楽しもうではないか、うんアスラル?」

 「―――つぅ………」




  血の壁を乗り越えて、数本の血の剣が飛ばされる。

 それと同時に壁も何十ものニードルと化した。

 瞬間、視界が開ける、アスラルの目がエギテレィスを見る。

 それはとっさに頭をかばったエギテレィスの両腕を吹き飛ばす。

 確かに吹き飛ばした、だがそれはエギテレィスの咆哮が変えた。

  掠れて声にすらなっていない、叫び。

 エギテレィスがそれを叫んだ時、その腕はビデオを逆再生したかのように復元する。

 吸血鬼の再生能力ではありえないほど素早く、そして以上な回復だ。

  そしてそれをアスラルは何か知っていた。

  魔竜――― 竜の中でも再生と復元に特化した竜族。

 その力はたとえ全身を破壊されたとしても、叫びさえすれば数秒で再生する事ができるほどの力。

 不死ではないが、この上なく不死に近い不老の竜。

 その竜の『竜魔法』にあまりに酷似していた。




 「まさか――― エギテレィス、お前は」

 「そうだよ、私こそ世界で唯一の“吸血鬼化”した竜だよ」




  もう一度アスラルは“見て”その右腕と胸の大半を爆砕させる。

 だがそれはものの数秒で元通りに“復元”した。




 「やれやれ、どうしてこうもせっかちなのかな、アスラル。
  それともそれとも、魔竜に君の瞳ごときが効くとでも……… 本気で思ったのかな?」




  嘲りを含んだ声で言いながら、エギレティスはおもむろに駆け出した。

 とっさにアスラルは彼を見ようとしてしまう。

 そのとき彼女は自分に迫る血の武器がそれを許さない。

  血の剣が浅く彼女の左足を切り裂いた。

 痛みで膝を折りアスラルは膝を地面に付ける。

 追撃のニードルを“見て”破壊し何とか立ち上がって後ろに下がった。




 「戦闘経験が無さ過ぎるのがあだとなったようだな、アスラル、残念だ、非常に残念だ。
  今は殺すべき存在がいる、お前ごときを相手にしている暇は無い!」




  エギレティスを倒す術は無い。

 あるとしたら再生を許さない攻撃を仕掛けるしかないが、アスラルの魔眼では無理だ。

 一部を爆砕させても、すぐに再生する。

 さきほどの壁のように爆発対再生のイタチゴッコが始まるだけ。

 今度はアスラルに勝ち目が無いという最悪のおまけ付きだ。

  アスラルの攻撃を受けて体を爆砕されながらも、エギレティスはアスラルへ駆ける。

 腕が飛んだと思った瞬間、それは一瞬で復元する。

 エギレティスの咆哮が世界を狂わせ、彼が怪我をしていないと世界が“誤解”した。

 竜の魔法は世界を意のままに変える魔法、小さな世界の支配者。




 「左を再拘束! ―――拘束を一時的に開放、右の太陽を開放する!」




  左の魔眼、爆砕と粉砕が効かないなら右の魔眼。

 アスラルのもう一つの魔眼たる太陽――― 精神支配と拘束、封印の魔眼。

 それは見ただけで発動する、精神への魔眼としては規格外の魔眼だ。

 左も魔眼も見ただけで破壊するという異常なほど強力な魔眼だが、右はそれをもしのぐ。

  アスラルの眼光がエギレティスを貫く。

 瞬間、アスラルとエギレティスの精神は一時的につながった。




  それは血の色をした地獄だった。

 一人の女が血塗れの金槌で何体もの吸血鬼を滅す。

  彼女が戦っている理由はひとつ。

 それは吸血鬼達には理解できないものだった、それゆえに恐怖した。

 エギレティスはその女を前に震えるしか出来ない。

  そして女は―――




  アスラルはその地獄を幻視し、とっさにエギレティスから視線をそらした。

 今見たのは今のエギレティスの行動に影響を与えている、奥底からの恐怖の光景。

 それがあまりにも強く、回路を逆流してきたのだ。

  そして見た光景の中にいた女は、なぜか知った存在になんとなく似ているように感じる。

 性別も違い、年齢も違うだろうが――― どことなく錬を思わせた。

  驚くアスラルを見て、エギレティスは自分の心を覗かれたと分かった。

 しかし怒る事無く、むしろ楽しげに笑みを浮かべる。

 そのうっすらとした、それゆえにそれが根本である事を思わせる狂気がありありと見て取れる。

 彼の笑みは、そんな笑みだった。




 「見たな、それが私の心のもっとも奥に刻まれたものだ―――
  あの女、秋雨錬の母――― 秋雨朱理姫の行った吸血鬼の大量虐殺!」




  すこしだけ残っていた紳士面をも殴り捨てて、彼は叫んだ。

 そしてその叫びの中の名前にアスラルは驚く。

 錬の母親が、あの地獄の光景を生み出したのだと、あの男は言っているのだ。

 だがアスラルにはそれよりエギレティスの楽しそうな笑み、それを不気味に感じていた。




 「彼女の子があの程度で死ぬものか、そして生かすものか。
  私は救世主になるのだ、あの影を拭うためにもな。
  そう、私はあの女に脅えているのだよ―――」




  その言葉でアスラルはエギレティスが救世主になると言っている意味が分かった。

 この男は何かにすがらないともう自分が保てないのだ。

 たまたま邪悪な存在がいて、それを知ったが故にそれにすがった。

 その存在が強大で邪悪なほど、それに立ち向かう己は高貴な存在に見える。

 そんな己の姿を見ることでしか恐怖から逃れられないのだ。

  高貴な存在だから、愚鈍な恐怖など自分には存在しない。

 そんなふうに自分を騙して




 「そんなに怖いならこの世に出てこなければいいのに」

 「ふざけるな、この恐怖とそれに脅えた自分への憤怒、それを抑えて生きていけるものか!」

 「ならここで終わりなさい」




  手加減など無く、最大威力で右の魔眼で見る。

 それは一撃でエギレティスの精神を木っ端微塵に破壊するはずだった。

 だがそれは血の壁で阻まれて無力化される。

 言うまでも無く血の精神など無い、右の魔眼では破壊すらできない。

  もう一度左目を開放するために彼女は一度魔眼を封印した。

 そしてもう一度開放しようとした時、エギレティスが飛び掛って来る。

  左の魔眼でその体の大半が吹き飛んだが、それを気にも留めずエギレティスはアスラルを殴り飛ばした。

 3メートルほど吹き飛ばされ、壁に強く叩きつけられる。

 はっきり言おう、彼女は間違いなく聖十字中で最弱クラスの体力保持者だ。

 同僚のフェンリより何度も警告を受けているほどだ。

  力はあろう、だがそれに溺れていた、うぬぼれていた。

 いくら一撃で象すら粉砕する力があろうと、その肉体はあくまでヒト。

 ゆえに異能でなく単純な力押しで負けるのは自分にお似合いだとアスラルは思う。

 最後に今度から体を鍛えておこうと考えて、彼女は気絶した。










 「あっけない、あっけなさ過ぎるぞ、眼光のアスラル」




  エギレティスはアスラルを倒したのに、なぜか虚無感に心を蝕まれていた。

 彼女の戦いは怒り――― 単純な故に正しい怒り故の戦い。

 それと戦い勝利した自分には何があった?

 ―――実に簡単だ、たんなる見栄と、恐怖からの逃避だ。

  そんな自分が正しいはずの彼女を打ち負かし、なぜか勝利している。

 狂った世界の法則が、そこにはあった――― 正しいモノが勝つという楽園など無い。

 ゆえにエギレティスは彼女に勝った事で虚無を感じていた。

  もしかしたら自分は、死ぬべきだったのではないか。

 竜魔法など使わず、あのままアスラルの一撃で破壊されていればよかったのではないか。

 そんなふうに感じるのだ。




 「否、認めない――― そんな己の全否定など、認めない―――」




  声にして出せば、その声は小さくかすれている。

 気づいていなければエギレティスはアスラルの魔眼を抉り出してでも手に入れようとしただろう。

 だが、気づいてしまったのだ。

 自分自身のあまりにもみっともない、惨めな姿に。

 望んでいた高貴な救世主とはあまりにもかけ離れた愚かさ。

  だから彼はこれ以上アスラルに何も出来ない。

 しかし彼は止まる事が出来なかった、あの恐怖の光景が脳裏から離れない。

 それが秋雨錬への殺意という形であふれ出していた。




 「逃がすか、逃がすものか。 秋雨の血を引く者め………」




  彼は心の奥で、自分がこれ以上惨めになる前に殺してくれと望みながら歩き出す。

 それはもはや心と体がばらばらになった存在だった。

 心は惨めさからの開放を、体と意思は恐怖からの開放を。

 心は死ねない自分の死を、体と意思は恐怖の無い生を

  矛盾を孕みながら、本人はそれに気づいていなかった。










  綾美は錬を背負って、姫椿と共に逃げていた。

 錬の体はただでさえ綾美より体格が良く、その上脱力しているせいで重い。

 だがまだ錬は生きていた、温もりがあった。

 それが無くなる時を考えるだけで、綾美は怖くなる。

  そのとき、姫椿が立ち止まった。

 狐の耳を動かして周囲を警戒する、そしてゆっくりと口を開く。




 「綾美さん、錬さんを連れて早く逃げてください」




  姫椿が後ろを向く、その先からエギレティスがゆっくりと歩いてきていた。

 綾美は悟った――― アスラルが敗北したという事を。

  エギレティスはゆっくりと歩いてくる、それが苦しんでいると感じたのは気のせいか。

 そんな事を考えてしまい、呆然とする綾美の耳に叫び声が飛び込んでくる。




 「綾美さん逃げて!」




  その叫びでやっとやるべき事を思い出し、綾美は錬を背負ったまま駆け出した。

 螺旋槍を構えて姫椿はゆっくりと口を開く。

 そしてエギレティスの姿を見てにやりと微笑んだ。




 「ずいぶん――― 慌てなさっているじゃありませんか、エギレティス」

 「雌狐がァ――― そこを、退け退け退け、退け!」




  憤怒と憎悪、そして焦りを隠しもせず叫ぶ。

 そんなエギレティスの姿がたまらなく愉快で、声を上げて笑ってしまう。

 言うまでも無くエギレティスの怒りはその笑い声により強まった。




 「秒殺だ瞬殺だ滅殺だ絶殺だ、完殺だ! 邪魔するなら死ね!」

 「はいはい、すこしは静かにしてください、馬鹿丸出しで笑いが止まりませんから」




  余りにも強い怒りにより声にならない叫びを上げて、エギレティスは突撃した。










  もう走る事が出来ない―――

 たとえ吸血鬼としてもその力に限界がある。

 もう紗美は錬を背負ったまま走る事が出来なかった。

  エギレティスとの遭遇した場所からかなりの距離を走っている。

 最低でも姫椿とエギレティスの戦いの音が聞こえないぐらい離れられた。

 しかし、それでも綾美は嫌な予感が拭えずにいる。

  そしてそれはすぐに形を成した。

 血の剣を持ち、服を血の朱で染めた鈍い闇色の髪の男。

 エギテレィス・ハートレス、公爵級吸血鬼の一人。

 聞こえなくなくなるほど離れたのではない、戦いそのものが終わっただけだった。




 「姫椿はどうした!?」

 「あの雌狐か。 なら逆に聞こう――― たかが5つ尾の妖狐ごときが私に勝てるとでも思っていたのか、うん?」




  探していた錬を見つけて落ち着いたのか、その口調は普段の調子に戻っている。

 たがそれでも綾美ですら分かるほど内心は乱れていた。

  綾美はゆっくりと錬を地面に置き、エギテレィスへと歩んでいく。

 そして覚悟を決めて、ゆっくりと言う。




 「錬は、殺させない」

 「思いの一つや二つで絶対的な力の差を埋められるとでも思っていたのか」

 「私はこう見えても親殺しの吸血鬼なのよ」

 「なるほど、つながりがあると思ってはいたが、探し者が見つかるとはな。
  秋雨の子を殺した後にお嬢さんを勧誘するとしよう」

 「ふざけるな」




  手を変化させて綾美が突っ込む。

 だがそれよりも早く血のブレードが襲い掛かった。

 合計5本の剣先がエギテレィスの纏った血から生える。

 それらが綾美へと襲い掛かっていく。

  5本の剣先のうち、4本を綾美は無視した。

 防ぐのは一本、心臓狙いの一撃だけである。

 なにしろ綾美は吸血鬼、手足の損傷など問題ではない。

 だがもし心臓を破壊されればその能力は劇的に低下する。

 なにしろ吸血鬼の力の源は血、その核たる心臓はもっとも重要な器官だ。

  綾美の予想の通り、エギテレィスの攻撃の内、4つはフェイントだった。

 本命の一撃は綾美の爪が横へ弾く。

 だが次の瞬間に避けられたブレードが変形して四方に血のニードルが伸びた。

 とっさに綾美は下がるが、右足がその内の一本によって地面へと縫い付けられてしまう。

 骨すら貫通したそのニードルによって綾美が身動きが取れなくなってしまった。




 「――――あッ!?」

 「だから、言っただろう? 無駄だと」




  つまらないものを見ているように、ポツリと言う。

 何とかニードルを引き抜き立ち上がった綾美の顔面を鷲づかみにする。

 その絶大な握力により、綾美は自分の骨が軋む音が聞こえた気がした。

  苦痛に顔を歪めながらも何とか逃れようと足掻く。

 だがエギテレィスの絶大な腕力の前にはそんなもの無駄な悪あがきにすぎない。

 ゆっくりと意識が遠のいていく。




 「では、秋雨を殺すとするか」




  その声が意識を失う前に聞いた言葉だった。









  ―――誰かが遠くで話している。

 優の意識はぼんやりとその会話を聞いていた。

 実は錬には意識が有った、ただ体が動かせないだけだ。

 だからこそ彼は心の中で悲鳴をあげていた。

  ―――エギレティスとアスラルが対峙した。

 ―――アスラルが負けて姫椿が足止めのために立ち向かった。

 ―――そして今、綾美が自分を助けようとして、敗北した。

  綾美が血を流して地面に倒れる。

  ―――見えないが、アスラルも血を吐いて倒れていた。

 それが錬には見ているかのように鮮明に思い浮かべられた。

  ―――ひめつばきは主人に心の中で助けを求めていた。

 ―――誰かがここへ向かってきている、だけど間に合わない。

 そんな事も何となく分かった。

  そう今、ここで秋雨錬はエギレティスに殺されるのだ。

  ―――それもいいかもしれないと、一瞬思った。

 ―――だがその後の事を考えて、血が沸騰した。

 ―――憤怒に魂が灼熱する、怒りが魂を振るわせる。

  ―――俺を殺したあと、アイツはアスラルを本当に殺す。

 ―――ひめつばきも殺され、綾美が連れ去られる。


  ―――また彼女を失う、あの時みたいに――――!




  その瞬間、錬の意識は別の場所に居た。

 闇一色の無駄に広い部屋、その真ん中で錬は椅子に座って天井を眺めている。

 部屋には飾りなのか、悪趣味な何本もの罅が入った黒い鎖が張り巡らされていた。

  一通り見渡した時、部屋の隅っこにある扉が向こう側から開かれた。

 そこから――― 秋雨錬が入ってくる。


  ―――それだけは許せないだろう、錬?

 ―――だからすこしの間、俺が変わるよ。

 ―――アイツに勝つにはあの力がいるけど、今の君じゃ使えないからね。


 ――― だれだ、お前は?


  もう一人の錬は鎖を避けながら錬の方へと歩いてくる。

 そしてゆっくりとお互いを見た。

 もう一人の錬はまるで焔のように純粋な赤い瞳をしている。

 その時の錬はまるで湖のように澄んだ、蒼い瞳をしていた。


  ―――秋雨夜月、君にとっての死織さ。

 ―――けど死織みたいに君に取って代わるなんてできないけどね。

 ―――今も戦争の真っ最中さ、奴を出し抜くのには苦労したよ。


  ―――お前の言っている事はよく分からない。


  ―――いいかい秋雨錬、死織に気をつけろ。

 ―――俺がどうして君を支配できないのか、そんな事をしないのか、それが死織と違う所だ。

 ―――君を守るのが僕の存在理由でね、だから僕が君の代わりにあの馬鹿を倒すよ。


  ―――勝手な事を言うな。


  ―――今の君じゃ指輪が無いと暴走する。

 ―――あいつの毒は僕ごときが立ち向かっても意味が無いんだ。

 ―――すぐに彼女が用意した本物が届くだろうから、それまで我慢してくれ。


  もう一人の錬は錬を置いて部屋から出て行こうとする。

 錬は慌ててそれを追おうとするが、閉まった扉はもう開かない。

 それになぜか、開けてはいけない気がした。

 この部屋の外はきっと、自分の原形、そして見てはいけないものなのだから。


  ―――ああそれと、朱理お母様と伍龍お父様によろしく。









  そのとき、エギレティスは半死人のはずの彼が立ち上がったところを見た。

 彼が何も無い空をナイフで切り裂くと、傷口からあふれ出る血は止まり死から回復する。

 “死を祓う”を行ったなどエギレティスには分からない、だが今の彼が秋雨錬でない事は分かった。

 なぜならその錬からは妖気のような気配があったからだ。

 暴走している錬でもあった正常な気は、その錬には断片すら無い。




 「だ、誰だ、お前は―――!?」

 「秋雨夜月――― 錬の盾にして、その断片」




  秋雨夜月はそう宣言してから、舞った。

 踊るかのような軽やかな動きでエギレティスへ迫る。

 エギレティスは血の壁を展開した。

  錬の魔眼もアスラルの魔眼をも防いだ壁、だが慢心はしていない。

 しかしそれは夜月の一撃で消え去った。




 「な―――に」




  彼が振るったナイフの軌道にあわせて、舞う血に込められた力が消える。

 まるで最初から無かったかのようにあっさりと何の抵抗も無く。

 彼の瞳は錬の蒼い瞳とは違った、まるで怒りが色と変わったかのような澄んだ赤。

 それはまるで魔を意味する色、だがそれはあまりにも澄んでいる。

  夜月が飛翔した。

 たった一歩の移動で間合いは零になり、夜月の一撃が襲う。

 血の壁がそれを阻むが、力を消されて単なる血に戻ってしまった。

  それによりエギテレィスは理解した、間違いなく夜月という存在は自分にとっての天敵であると。

 錬があらゆる物の物理的な破壊を行うというのなら、これは人ならざる力を何もかも消し去る。

 力を込められたからこそ血は血ではなくなった、ゆえにその力が消えれば血に返るしか道は無い。

  夜月の舞いは加速して行く。

 だが唐突に後ろに飛び夜月はエギテレィスより間合いを取った。

 そして手を宙にかざして咆哮する。




 「汝が主、秋雨錬の破片“秋雨夜月”が告げる、来い“丙子椒林剣”!」




  封じていた箱を破壊し、それは夜月の手に召喚される。

 丙子椒林剣、本来の持ち主で無くとも呼ぶ事ぐらいはできるのだ。

  そしてその剣の本当の力は十二分に発揮される。

 そう、持ち主の力を増幅、覚醒させる宝剣としての能力。

 刀冶はこの剣を持つ事により『両断』という絶技を使用できるようになったように、夜月もその真なる絶技を使えるようになる。




 「この一撃は消滅だ、お前の人外の力という力をすべてコレで消してやる」

 「舐めるな、能力が通じなくとも腕力で肉塊にしてしまえばいいだけの事!」




  血の武器は効果が無いと言え、単純な腕力で破壊すればいいだけだとエギテレィスは考えた。

 そう吸血鬼の中でも上位の存在たるエギテレィスの腕力は人間の比では無い。

 その力は人間などいともたやすく肉塊に変え、岩石すら粉砕する。

 だがそれを見て、夜月は余裕の笑みを浮かべた。

  あまりにもその笑みは楽しそうで、思わずエギテレィスの背筋を寒気が走った。

 それは形を成したエギテレィスの滅びといっても間違いは無い。

 エギテレィスにどうにも出来ない滅びを与えるためにこいつは現れたのだ。

 そんな空想をしてしまうほど、夜月の笑みは残酷な楽しさに溢れていた。




 「ねぇ言っておくけど、君なんかが僕に勝てるとでも思っているのかい? 僕は錬と違い、消すのが専門なんだぜ」




  夜月が丙子椒林剣を振るうと、赤く輝く5本の刀身が生じる。

 そして彼はその剣を両手で構える、その構えは剣道の正眼。

 数多い剣術の流派の中で使われる基本、そして最強を称される構え。

  空気が変わった、呼吸するだけで斬られるような痛みがジン…と走る。

 それは夜月が刀を構えたのが理由だった。

  昔から侍は刀を抜いた時、死を当然と変える。

 刀を抜いた瞬間から彼らはただ殺し殺される存在へと代わるのだ。

 ゆえに今の夜月もそれに他ならない。

  エギテレィスはその鬼気迫る剣気にいつのまにか後退していた。

 距離にして10メートル――― だがそんなもの今の彼にとっては零にも等しい。




 「―――斬」




  一歩、たった一歩の踏み込みで距離は零と化した。

 唖然とするエギテレィスの右腕が、斬り落とされる。

 そして返し刃で腹が深く斬り裂かれる。

 最後に蹴りを加えて夜月はそれをうまく使い後ろに下がった。

  その一瞬の連続攻撃にエギテレィスは膝を折る。

 だがそれで終わりではない、5本の赤の刀身が彼の体を抉る。

 そしてそれは彼の血を支配する力の一部と、竜魔法の一部をも削り取っていった。




 「―――――なにぃ」

 「呆けるな、殺すぞ――― いや、殺す」




  鬼気迫る表情で宣言し、夜月が駆ける。

 それを血の武器で防ごうとするが、それが何の意味も無い事などとっくにわかっていた。

 むしろ夜月の前では何の力も持たない単なる武器の方がよっぽど効果的だ。

 そう夜月の絶技の前では物質の強度こそがモノをいうのである。

  それがたとえ千を超えた神代の防具であっても、竜殺しに使われる聖剣であっても夜月の前では無駄。

 だから彼が斬れないほど分厚い鉄板の方が確実なのである。

 神の奇跡すら消す力、伝説を無かった事にする力、すべてを物質の優劣に置き換えてしまう力、それこそが夜月の絶技なのだ。




 「吸血鬼なら自前の爪があるだろう――― それが硬いのなら防げる」

 「―――そうか、神話殺し――― 神無の魔眼、ふざけるな。 破壊と神無!?
  世界は狂ったか、一人の人間に二人の意思――― あげくに神眼階級の瞳の二重!? ふざけるな!? キサマはオリジナル・ヒューマンか!?」

 「幸運にも最初の人型では無いよ、俺は所詮、錬の影。 この神眼も錬のモノだ」




  驚愕にエギレティスの顔は凍結する。

 破壊の瞳なんてふざけたモノを持っているだけで人間の規格外。

 あげくにもう一つの神眼、そんなもの、新話に出てくる魔神に他ならない。




 「さぁ、そんな事はどうでもいいんだ。 それよりも――― お楽しみを再会しようぜ?」




  微笑みながら、夜月は言う。

 それは――― エギテレィスへの死刑宣告だった。












次回 縁の指輪 
三の指輪 五刻目 夜月乱舞








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