空白の少女は夢を見る。
それはまるで希望の白に溢れた善い夢。
だが夢は、所詮夢に過ぎない。
現実に流され、砕かれ、微塵と化し、呑まれるのが定め。
それは余りにも悲しい、事。
「此処に新しい闇が蠢く―――」
少女には見えていた。
呪われた忌々しい穢れた闇の竜が、獣を従える様を。
その闇が今度はどのような結果を呼ぶか―――
「所詮、アナタの思う通りというわけ?」
何も無い虚空に向かいつぶやく。
そして少女は竜を見た。
―――竜もこちらに気づいている。
少女は竜を見て、その本質を笑った。
竜の先に待つ無意味を見据えて、笑いの衝動が抑えれなくなったのだ。
竜が顔を憤怒に染める。
その様があまりにも滑稽で、笑いが止まらない。
獣が唸り声を上げて少女へと襲い掛かった。
瞬間、獣は一瞬で引き裂かれ地面にぶちまけられる。
余りにも大きい、力の差。
竜は陣を敷き、魔法を使おうとする。
だが、少女は笑いながら去っていった。
竜はゆっくり呼吸を整える。
―――いつのまにか、背中は冷や汗で濡れていた。
「なんだ、今の女は………」
竜は恐怖が混ざった声でいった。
「くだらない男」
少女は冷たくいった。
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縁の指輪
三の指輪 一刻目 闇は蠢く
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「けど、これだけの買い物で足りるの?」
「大丈夫大丈夫、アスラルは小食だし、綾美だってあまり食べないだろう?」
夕日に染まった道を、買い物袋を両手に錬と綾美が歩いていた。
買い物袋の中身は、近くの店にて購入した食料品である。
しょうゆなどの重い物を錬が持ち、軽い物を綾美が持っている。
単純な腕力なら人間で無い綾美の方が上なのだが、男性である錬の意地が重い荷物を持たせる事を許さなかった。
綾美に腕相撲で完敗したので、腕力をつけないといけないと思っているのも理由の一つであろう。
「美味しいものはたくさん食べたいけど……… どうしても食が進まないのよね…」
「まあ喰いすぎて腹壊すよりはいいだろう?」
「それはそうだけど………」
錬は話し合いながらも足元に転がっていた石を避けた。
しかし錬自身は石があったことにすら気づいていない。
つまり、彼は無意識の内に危険を回避しているのだ。
その変化に、錬も誰も気づいていない。
「さて、そろそろ家に着くな」
「アスラルさんお腹すかせてなければいいですね」
「全然食べないのに、食事が遅れるとすぐに不機嫌になるしねぇ」
「そこら辺は子供みたいで私はかわいいとおもう」
「食事を作っている身としてはあんまりプレッシャーをかけないで欲しいんだけどね」
錬と綾美は笑いながら道を歩く。
その二人はまるで、手をつないでいるかのように見えた。
『さて嫌な情報と、最悪な情報と、悪夢のような情報と、そして絶望的な情報があるけど… どれから聞きたい?』
「ルシフ。 パッと聴くと、どれもいい情報なんて無いように聞こえるんだけど?」
『ハァ、いい情報? それならフェンリが笑いながら言うでしょうね』
アスラルが持つ専用の携帯から、不機嫌そうな女の声がした。
ルシフ=ヒアノーラ、聖十字の三強の一人『黒翼のルシフ』の声だ。
教会最強の美女と有名だが――― アスラルから言わせれば、とんでもない厚さの猫かぶりである。
本性は自由気ままでマイペースな女だ。
『で・どれから聞く?』
「すこしでも落ち着きたいから、一番マシな方からお願い」
『OK・かなり前だけど、人工鬼の発生があったわね? 竜伊から報告がやっと来たわ、黒幕は倒せなかったらしい』
「本当に遅い、もう数ヶ月も立ってるわ」
『あいつらが動いている以上、ウチの総司令と『K』、そして大聖典しか教えてくれないわよ。
私だってフェンリと通して聞いたぐらいだし』
「気が滅入る」
アスラルは最初からとんでもない話を聞いて嫌な気分になった。
少なくとも聖十字と教会のトップにしか話せない相手となると、ろくでもない存在に違いない。
ただ一つの慰めは、とっくに事件そのものは終わっている事だけである。
『二つ目、日本に公爵級吸血鬼エギテレィスが侵入した、目当てはお宅のお嬢ね』
「アーク・エネミーが? いろいろな所から追われているのに余裕ね」
『主人吸血鬼に吸血されたのに精神支配に抵抗できる人なんて始めて。
けっこういろいろなところでお宅のお嬢は有名よ …エギテレィスも興味を持つぐらいにね』
公爵級吸血鬼エギテレィス―――
教会、聖十字ともに発見しだい殲滅と決定されたほどの危険な吸血鬼である。
アーク・エネミーの名前が示すとおり、その危険性は他の吸血鬼を大幅に上回る。
既に数多くの戦闘員や民間人が犠牲となっていた。
しかし、その大敵の名は、また別の意味ももっている。
『三つ目、しかもエギテレィスは無数のキメラをつれているらしいわ』
さらに彼が危険なのは、彼が一人で行動するのではなく、無数の合成獣『キメラ』を連れ歩いている事だ。
確認されているだけでライオンやタカなどの動物だけではなく、ワイバーンなどの魔獣も材料にされている。
エギテレィス製のキメラ達は聖典や聖十字の名を持つ異能者ならともかく、一般戦闘員では話にならない戦闘力を有していた。
故に彼には迂闊に手が出せないのだ。
しかしアスラルにとってキメラなど相手にならない。
錬はもちろんだが、綾美もアスラルの特訓によってかなり鍛えられている。
キメラごときなら、錬も綾美も圧勝できるはずだ。
『そして最後、そして一番重要な事。 『K』から――― 『歯車が動き始めた、もう止められない』だそうよ』
―――そのとき、アスラルの思考は停止した。
ただ脳裏に浮かんだのは「ついに来た」の一言だけである。
そのとき、形態から慌てている声が聞こえてきた。
『あ、ちょっと待って……… ええ、分かったわ。
新情報よ、名無しとその従者が日本に入ってきたわ』
「と言う事は」
『近いうちに焔のお姫様も日本に来るでしょう』
ルシフが言った事を聞いてアスラルはため息を一つついた。
しかしすこしは状況が良くなったことを知って気持ちが軽くなる。
だからついつい声が明るくなった。
「気が滅入りそう」
『まあ頑張れ、応援ぐらいはしてあげる』
「遠慮するわ、それじゃ切るわよ」
『ああ、それじゃあ』
携帯の電源を切ってアスラルはため息を一つ突いた。
名無し、焔の姫君……… どちらも公爵吸血鬼である。
しかし実際のところ、彼らが来てくれるのは歓迎するべき事なのだ。
なぜなら、彼らは危険な魔物を刈る処刑人なのだから。
―――名無しこと『ネェムレィス』
彼は吸血鬼化の時、記憶を失ってしまった吸血鬼だ。
しかし彼が無意識の内に使う技が、日本のとある退魔の技と類似しているため、元退魔師だと判明した。
彼は決して決まった地域には住まず、世界各地を旅している。
現在は梅雨姫椿という人間の少女が一緒に行動しているらしい。
―――焔の姫君こと『ティナ・エミュオン』
焔の意思と火炎の気性を持つ熱血女吸血鬼。
ここ最近では、ネェムレィスの後を追って各地を旅している。
昔、一度日本に来て弟子を一人育てたらしいが、誰かは判明していない。
たとえエギテレィスといえど、同じ公爵級吸血鬼二人相手では滅ぼされるはずだ。
問題は二人が間にあってエギテレィスを滅ぼす前に、エギテレィスがお嬢こと綾美に接触する事である。
エギテレィスは自分の目的のためなら何でもする奴だ。
綾美と会えば、何をするか分かったものでは無い。
「さて、どうしましょう」
眼帯の留め金を人差し指でいじりながら、アスラルは言った。
しかし言葉とは裏腹に、既に心は決まっている。
綾美と錬を苦しめる存在なら、滅ぼす―――
「ここが、日本。 か………」
空港にて、飛行機から降りた青年が自分に言い聞かせるかのように呟いた。
夕日をまぶしそうに見た後、眼鏡をつけて目を隠す。
その彼の動作を見つめている少女が居る。
「どうしました?」
「あ、いや。 昔、此処に居たのかもしれないと思ったらな」
「記憶損壊………」
「気にするな、生きているだけマシだったと思うべきだよ」
青年はそういいながら自分の荷物を取る。
少女も彼に続いて奇妙なほど大きい袋を担いだ。
中身は青年の物が刀三本に、少女の槍が一つ。
だがどちらも普通の人間や機械を誤魔化せるように細工がしてあった。
「まずは仕事、できればお姫様に追いつかれる前に済まさないと」
「まだ追いかけてきているのですか、しつこいですね」
「………目の前で言うなよ、まだ俺は死にたくない」
「了承しました」
少女は袋を担いで歩き出した、青年も彼女のあとを追う。
小さく口笛を吹きながら青年はゆっくりとした動作で左の通路を見た。
―――そこに、漆黒の少女がいた。
青年は眉をひそめた、なぜなら少女の気配を感じなかったからだ。
もし少女がわざと気配を出さなければ気づけなかった。
二人だけが別の世界にいるかのように、誰も立ち止まった青年に気づかない。
少女の存在にも、誰も気づいていなかった。
漆黒の少女は青年がこちらを見ているのを確認した後、ペコリと頭をさげる。
そして顔を上げて、悲しそうな顔をして何かを呟いた。
読唇術を使える青年は何を言っているのか、唇の動きを見て理解する。
『かれらをたすけてください』
青年も唇だけ動かして言った。
『かれらとはだれのことだ』
漆黒の少女は何も答えない、ただ青年を見つめる。
そしてふいに青年の後ろを指差した。
「―――――!?」
とっさに後ろを振り向く青年。
そこにいたのは袋を持った従者の少女だった。
すぐに振り返るが、すでに漆黒の少女は影も形も無い。
―――はめられた。
「どうなさいましたか名無し様」
「いや、問題は無い。 まずは戦闘六課へ滞在届けを出しに行くぞ」
こうして『ネェムレィス』は日本に入国した。
最初に心に残ったのは、あの漆黒の少女への違和感。
あそこに居ないようで、確かに居た、間違いなく、あの場所でネェムレィスに言ったのだ。
(まあ、『かれら』が誰か分かったのなら努力はするさ)
ネェムレィスは心の中だけで漆黒の少女へと返事する。
『ありがとうございます』と、言われた気がした。
食卓に並んだのはカレーであった。
甘いものが好きなアスラルに、辛い物好きの綾美。
二人の間をとって中辛のカレーを用意したかいがあったのか、両人ともに好評だった。
だが問題だったのは、アスラルがふいに言った言葉だ。
「また綾美ちゃんを狙って吸血鬼が日本に入ったそうよ」
「――――え」
カレーを食べ終えた時、アスラルはとんでもない事を軽い口調で言った。
それを聞いた錬と綾美はカレーを水で無理やり押し込んで、むせる。
先に回復した綾美が大声でアスラルに向かって叫んだ。
「そ、そんな大変な事をそんな『今日は晴れよ』見たいな軽い口調で言わないでください!」
「一応公爵級なんだけど、同じ公爵級二人に追われているの。 そうそう見つかるような事はしないでしょう」
カレーを食べながらアスラルは言った。
そのアスラルの態度に、狙われている当人の綾美は冷たい目でアスラルをにらんで言う。
「それでも狙われているのは確かなんですよね」
「そうね、その通り。 私は見回りをするけど、奴に会ったら迷わず逃げなさい」
そういって、アスラルは眼帯を指差した。
正確にはその眼帯に覆われた自分の魔眼を指し示しているのだろう。
絶対的な力を持つ、異能の力。
「―――私なら、十分戦えるわ。 たとえ相手がアーク・エネミーだとしてもね」
教会日本支部の地下5階、そこはある目的だけに作られた場所だった。
その部屋の中には女性が一人、椅子に座って自分の左腕を撫でている。
撫でている部分には皮膚は無く、筋肉が丸出しになっている。
いや、その筋肉は樹脂でできていた。
それは間違いなく、筋肉と同じ動きをするために製作された人工の筋肉だ。
その暗い部屋に一人の少年が入ってくる。
少年は女性を見つけると、手に持っていた肌色の紙みたいな物を指差した。
「人工合成皮膚、第一から届いたぞ」
「さすがに人工とは言え、筋肉組織丸出しは他人には気持ち悪いもんね」
「血を通せば筋肉とさほど変わらないからな」
人工皮膚を受け取った少女は腕に貼り付け、専用の薬品で固着させる。
さらに皮膚の境目に専用の生体部品でできたテープを貼り付けて、同じく薬品で取り付けた。
このテープを引っ張ることにより、人工皮膚を簡単にはがす事が出来る。
「それで私への任務は」
「国内に侵入したエギテレィスの撃退だとさ」
「あの自称救世主の迷惑ヤロウ?」
「言ってる意味は分からないが、多分君が思っているヤロウだろ」
椅子から立ち上がった少女は壁に立てかけておいたスレッジハンマーを手に取った。
工事現場でコンクリート砕きや、杭の打ち込みに使用するハンマーである。
重量は大の大人でも片手では使用できない、だが少女はそれを片手で軽々と持ち上げた。
しかもそのスレッジハンマーは、通常のものより遥かに大きい特大サイズの品物。
そのハンマーの重量は当然ながら、もはや人間の扱える品物ではない。
スレッジハンマーを棺桶じみた木箱に入れて、少女は次の得物を手に取った。
作業用機械を思わせる外見と構造をしてはいたが、それが放つ気配は凶器のそれだ。
巨大な杭とそれを撃ち出す装置に下半分を支配された巨大な機械。
『パイルバンカー』とその武器は呼ばれている。
火薬の爆発を利用し、銀の表面加工を施された巨大鉄杭を叩きつける。
銃の機構とよく似てはいたが、単純な破壊力で言えば大型トラックとの正面激突に匹敵するだろう。
その絶大な破壊力が、杭の先端一点に集中する。
もはや対人武器としては使えないほど、その武器の威力は高い。
そのパイルバンカーも、スレッジハンマーと同じ木箱に入れる。
木箱の蓋に黒と黄色の装飾がなされたテープを貼り付け、少女はその木箱を背負った。
「何度見てもとんでもないパワーだ」
「強化素材製の人工骨格のじゃ無ければ重みで背骨が壊れている。
パワーが優れているのではなく、バランスが優れているのです」
「ああ、言っておくが、酷使しなければ次のメンテナンスは3ヵ月後、ミリタリー出力で戦闘行為をしたなら二週間以内には来て欲しい」
「出来る限り努力はする」
少年は部屋の隅においてあったヘッドギアを見つけた。
それを手に取り、少女に投げ渡す。
少女はヘッドギアを受け取り、少年に笑顔を返し、部屋を出て行った。
そして少年は、
「彼女が笑顔? ………明日は雨か」
本人の前で言えば殴られそうな事を言った。
その日の夜、錬は闇夜を翔けていた。
別にアーク・エネミーの捜索が目的ではなく、単純に鬼の気配を感じただけである。
「夏休みに入ってもう大分立ってるっていうのに…」
錬は自嘲気味に言ってから目を細めた。
鬼を見つけた――― 黄色い皮膚と角を持つ鬼、下級の黄鬼だ。
その鬼は近くのビルの屋上から見下ろしている錬に気づいていない。
周りを見渡し、その鬼へのもっとも素早く近づけるルートを探す。
となりの一階分低いビルへ飛び移り、そのさらにとなりのビルに飛び降りれば鬼へ強襲できる。
そして跳ぼうとした時、それは起きた。
鬼の近くの影から、数体の異形が這い出してくる。
狼の体に蝙蝠の羽と蜥蜴の尾を持つ獣。
獅子の首と山羊の首、そして尻尾の代わりに蛇をつけた獣。
豹の体に、鷹の首と翼を持つ獣………
まさに神話に出てくる魔物達のような狂った外見を持つ獣の群れ。
その群れの出現に一番驚いていたのは、鬼ではなく錬であった。
なぜなら限界近く神経を研ぎ澄ましていたのに、今まで獣達の気配を感じられなかったからである。
その獣達は鬼へと飛び掛っていく。
鬼は爪を振るい応戦するが獣の方が数が多く、そして俊敏だ。
振るわれる爪の間を縫って牙を突き立てる。
その牙には毒があったのか、鬼はもがき苦しんだ。
そしていともあっさり絶命する。
「何だ、アレ………」
錬は呆然と呟く。
その獣達は鬼の死体を数個に分解し、持ち去ってしまった。
あまりにも手際がよく、高い知能があることを感じさせる。
「私の兵隊だよ、少年」
突然、錬の後ろから誰がが言う。
とっさに振り向き、その男を見た。
一瞬、錬はその男を人間と認識できなかった。
夜の闇の中でもはっきり分かる真紅の瞳、鈍い闇色の髪。
外見は人間の姿をしている、だがそれは人間ではありえない。
「―――何者だ!」
振るいだしそうな体を意思の力で強引にねじ伏せて叫んだ。
錬のその叫びに男は歪んだ笑みを浮かべる。
笑みというには余りにも狂っているそれは、その本人の狂気を代弁していた。
「始めまして、私の名前はエギテレィス・ハートレス。
公爵級吸血鬼の一人に名を連ねている者だ」
「公爵級!?」
名前こそ知らないが、公爵級吸血鬼と言われて思いつくのは一人しか居ない。
綾美を狙っているという吸血鬼、アスラルがアーク・エネミーと呼ぶ存在。
「お前か、綾美を狙っているという奴は」
「ほう、その少女を知っているのか。 日本について早々に手がかりを得られるとはこれは行幸」
エギテレィスはその手袋に包まれた右腕を差し出した。
それはまるで握手でも求めているかのように。
だが彼の顔が浮かべる笑みは、獲物を見つけた獣のそれに酷似していた。
「では『仲良くしようではないか』」
「――――!?」
一瞬、錬の世界が狂った。
錬の思考に侵入し、何かが心を支配しようとする。
すぐに自分とエギテレィスをつなぐラインを見つけ、錬はそれを『何か』を払った。
それを合図に精神への圧迫感は死滅する。
自分の精神支配が破られるのを見て、エギテレィスは思わず錬へと拍手を送った。
「私の精神支配方程式を打ち破ったか………」
「小汚い手を使うな、お前!」
さきほどの何かは、エギテレィスの精神支配攻撃だった。
彼は握手を求めるフリをして、それを媒介に錬の精神を支配しようとしてきたのである。
しかし、錬は『払う』で精神支配を払い、無力化したのだ。
錬は蒼に染まった両眼でエギテレィスをにらみつけた。
その目は敵意と、土足で心に入られた故の怒りで満ちている。
対するエギテレィスは余裕綽々な態度で、その錬を冷ややかに観察している。
「いや何、優秀な人材はどんな手を使っても手に入れておきたいものさ」
「それが相手の精神を踏みにじる手段でか? ふざけるな」
「ふざけていない、私は誓って真面目だ」
エギテレィスはそう言ってから高々と右腕を掲げて、指を弾いた。
その音を合図にして異形の獣達が彼の影からあふれ出してくる。
なんてことは無い、錬が気配を感じられなかったのはこの男が影の中にしまっていたからに過ぎない。
「さてさて、今度は正統的な手段で勧誘しよう。
少年よ、私の部下にならないか。 大いなる大敵を滅ぼすために」
「―――何?」
一瞬、錬は何を言っているのか分からなかった。
勧誘を受けた、それは分かる。
だが奴はその後に言った、大敵という言葉に現実味が無さ過ぎる。
「正気か、吸血鬼」
「正気さ、誰も気づいていない、だが私は幸運にも奴らの危険に気づいたのだ。
あの忌々しい生物外、あの悪意の女を滅ぼさなければいけないだ! あの大敵に打ち勝たねばならぬのだ!」
まるで自分の言葉に聞惚れているかのように、その言葉は演劇じみていた。
内容がもし本当なら、とんでもない邪悪がいる事となるだろう。
だが彼の言葉にはそれへの脅威ではなく、それに立ち向かおうとしている自分への自画自賛しか無い。
その内容と口調の食い違いに、思わず錬は眩暈を感じる。
アーク・エネミー、つまり大敵。
奴はこの演説をするからこそ、大敵と呼ばれているのだ。
「私の精神支配から逃れられる以上、君は魔術士か魔法使いか異能者なのだろう。
その技能を、能力を、意思を、私。 否、世界のために使ってみる気は無いか?」
「…………………」
「ん。 何を黙っているのだい? 男なら誰でもあこがれる『英雄』になれるチャンスだぞ?
そして教えてくれたまえ、月河綾美という名の吸血鬼を私は探しているのだ。
私の配下に加わる栄光を与えるために!」
眩暈を通り越して錬はこの男に失望を感じた。
勧誘などではなく、これは自画自賛の繰り返しに過ぎない。
聴いているだけで心の底、いや魂の内から苛立ってくる。
この演説は彼のためだけに行われる、彼が彼をほめる一人芝居なのだ。
「お前………そんな事で…? そんな事で此処まで、日本まで来たのか」
「吸血鬼というのは生まれた時から上下関係が決定している。
それは覆るのは上にいる吸血鬼が滅んだときだけ。
………しかし、しかしだ!
それを覆すイレギュラーが現れた、それが君の知っている吸血鬼クンだ。
支配されるはずの身でありながら、主に逆らい、あげく逃走を続け、ついには主が死んだ。
私は手に入れるべき逸材だと思わないか、思うだろう? 思うよなぁ!」
錬は深く息を吸った。
アスラルからは『会ったら迷わず逃げなさい』といわれているが、それがどうしたと錬は思う。
こんな醜い存在がいると思うだけで、怒りがあふれ出してくる。
生きている事が、いや……… 存在している事が許せない。
「……一言だけ、言っていいか?」
「ほう、遠慮する事は無い。 言って見たまえ」
「それじゃお言葉に甘えて……… 消えてしまえ」
錬は一瞬で間合いを詰めて取り出したナイフで斬りかかった。
エギテレィスはそれに驚きながらも後ろへと飛翔し、その一撃をかわす。
「それが答えか、少年?」
「見れば分かるだろう、それともお前の知能じゃ無理なのかい?」
「………殺してやろう人間ッ!」
あっけなく化けの皮は剥がれ、エギテレィスは獣じみた声で叫んだ。
獣が錬を標的と認め、飛び掛っていく。
錬は彼らの攻撃を『払い』ながら、獣達の崩壊の線にそって斬る。
雑な合成をなされていた獣達はその戦闘力に対して、あまりにも線が多すぎた。
たとえ背中を向けていようが向き合っていようが簡単に彼らを破壊する事ができる。
ホンのすこしの時間で、獣達は一匹も残さず破壊された。
「はは、作りが雑だな。 これならブリキ玩具の方が壊れにくいぞ」
「ちッ、なるほど、なるほど。 破壊の瞳か、最強級の神眼ではないか。
まあ抉り出せば使えるだろう……… いいか、目は壊すなよ」
当たり前だが獣はまだ尽きていない。
エギテレィスの影から次々と獣達があふれ出してくる。
一体一体はお話にならない弱さだが、数が数だ、いずれ数に押しつぶされるだろう。
「………質より量か、まあ部下が役立たずって所はお似合いだな」
「少年、君はその量に押し負けられて、食い殺されるのだよ」
『さて、それはどうかしら?』
「―――何だと!?」
精神に直接聞こえてくる女性の声、それはエギテレィスだけではなく錬にも聞こえた。
錬はその声を聴き、紅の魔術で肉体の安全装置を解除してとなりのビルへと飛翔した。
無論、エギテレィスは錬を追撃しようとしたが、その右腕が何の前触れも無く突然に爆砕する。
「これは……… まさか『眼光のアスラル』か!?」
『距離は遠いから感覚支配は出来ないけど、攻撃はできる……!
消し炭にされたくなければ、せいぜい惨めに逃げ出しな』
アスラルの声は冷たい。
口調も錬や綾美への優しい口調ではなく、敵意むき出しの口調になっていた。
エギテレィスは必死にアスラルの姿を探すが、影も形も発見できない。
その数秒後、エギテレィスの周囲を警戒していた獣の一匹が爆砕した。
『最終通告、次はエギテレィス? 貴様の顔面を粉砕してやろうかしら』
「アスラル、いつか貴様の眼球を抉り出し、我がキメラの材料に使ってくれよう!」
それだけ吼えて、エギテレィスは翼を広げ逃げ出した。
錬はビルの屋上に着地した後、紅の魔術を解く。
とたんに羽のように軽くなっていた肉体は重くなり、脂汗がにじんだ。
『錬、大丈夫? 今回は間に合ったけど、次は』
「分かってる、アイツの一人芝居で頭に血が登ってた」
『やっぱり? みんなそういうのよね。 よく我慢できた偉い偉い』
「子供扱いしないでくれッ」
紅の魔術の副作用による虚脱感が収まってから、錬はゆっくりと立ち上がって月を見た。
月はこれから満月へといたる、三日月だった。
ネェムレィスが戦闘六課のビルに着いた時、既に時刻は午後十時を回っていた。
吸血鬼の身としては夜こそ本来の行動時間であるため、体は軽い。
だが従者の少女には飛行機による移動は大変だったらしく、欠伸をよくしている。
「眠いなら先にホテルに行ってていいぞ。 二人分の滞在届けは出しておくから」
「何を……… ふぁぁ……… 言うのですか、従者が主人を置いて寝られません」
そうは言っているが、ここまで眠そうだと逆にネェムレィスの方が不安になる。
しかしこんな状態の彼女が一人でホテルまで帰れるのか心配だったので、仕方なく一緒にビルへと入った。
とたんに怒鳴り声が聞こえてきた。
『秋雨錬は危険です! 今すぐ保護、もしくは確保するべきです』
『雪雄君。 その件はもう終わったはずよ。
何度も言うようだけど、死織に襲われた刀冶さんは健在だし、今は死織も返り討ちにあって手傷を負っているらしいわ。
それに学校には護法童子の岡島さんもいるから、最悪の場合でも何とかしてくれるでしょう』
『―――! それは楽観的過ぎます!』
『だから………』
「何だ一体?」
ネェムレィスはその会話を聞いて、話の内容が分からず頭を傾げる。
その後ろで、従者の少女は必死に眠ってしまいそうな自分と必死に戦っていた。
老人が腰掛けて、三日月を見上げていた。
その光景には何の問題も存在しない。
問題なのは、その老人そのものである。
彼は間違いなく死んだはずの、秋雨刀冶だった。
「何、人間みたく月を眺めているんだいカイーナ?」
突然、『刀冶』は後ろから話しかけられた。
普通の人間が聞いたなら背筋を凍らせるような、美しいはずなのにおぞましい声。
なのに刀冶はその声を聞いて笑みを浮かべた。
「ははジュデッカ、死織がついつい刀冶を殺っちまったんでな。
それに、お月見ってのもなかなか愉しいもんだぜ?」
「謹んで辞退させてもらうよ、こう見えても忙しいんだ。 自由気ままな君とは違ってね」
刀冶のフリをした存在は、ゆっくりと振り向いた。
ジュデッカ、それは白いのに黒い男だった。
肌は命を感じさせないほど白く、見るものの心を凍らせる。
彼が来ているのは魔法使いを思わせる黒い衣で、その衣の黒も肌をより白く見せていた。
だが、それでも第一印象は黒いのだ。
そうまるで……… 地獄のように。
「問題はアーク・エネミー『エギテレィス』の活躍しだいだ。
せめて彼のもう一つの能力ぐらいは覚醒させてもらいたいね」
「ああ全くだ、屑は屑らしく、な。」
『秋雨刀冶』を模した怪物が愉しそうに笑う。
ジュデッカが聞くものを恐怖させる声で嘲笑する。
間違えようの無い絶対悪が、此処にいた。
次回 縁の指輪
三の指輪 二刻目 己の尾を喰らう蛇<ウロボロス>