少女は闇夜の空を切り取ったような衣を纏い、そこに居た。
どうしてそこに居たのか、それを思い出そうとしても無駄な事は知っている。
なぜなら自分はその瞬間に生まれたからだ、生まれる前の記憶など無いに決まっている。
「血が―― 飲みたい……」
それが発生してから、生まれてから初めての言葉だった。
自分の存在の意味、人の願いより生まれた存在。
超越的存在の一つ―― 血の女神、血液の神秘を統べる者。
それはまだそれを定義する言葉は無かった、この時代に彼女を指差す言葉はまだ存在していない。
……だが後の世では、人は彼女をこう呼ぶ事になる。
そう―― 最初の帝級吸血鬼、吸血鬼のオリジナル。
彼女は強い喉の渇きに顔をしかめながらも、空を見上げた。
墨を混ぜた水のようにすんだ漆黒、その中に輝く星の輝き。
それが夜空と呼ぶ事をまだ彼女は知らなかったが、赤子のように手を伸ばしてその輝きに見惚れた。
――そして今、昔あこがれた、あの星達の輝きの下―― 黒い少女と青い女が殺しあっている。
片方は吸血鬼の女神、本来なら絶対と同じ意味を持つ世界を持ちながらも、彼女はそれを使っていなかった。
決して傷つき、血を流すはずのない彼女は、片目を血で潰され、片足を折られ―― もはや死に体。
無論、相手をしている蒼い女も決して無傷などではなかった。
背中から生えている鳥の翼は強引に引き千切られ、痛々しい傷跡を見せている。
「オアシス…… 何で、よ」
「最初から分かりきっていた事ではないかの…… 汝、真逆、己の正体を知らぬわけではあるまい」
オアシス―― 黒き少女と対峙する彼女もまた、怪物の一体だった。
無数の人外の可能性を取り込んできた異形。
そしてそれだけの多くの怪異を持ちながらも、いまだに人間としての基本的な要素を失っていない。
それが、彼女が人為的に人を外れていった証拠でもあった。
「そしてワシの―― ワシ達がどのような目的を持って人を外れてきたのか、とうに知っておろう?」
「嫌よ、いや……」
「全く、おぬしには何度もいったはずなのじゃが……」
幼子のように、涙を浮かべながら戦いを止める事を哀願する吸血鬼の女神相手に、オアシスは聞き分けの無い子供を相手にした大人の笑みを浮かべる。
だがその手に持つ矛の蒼白く輝く刀身が、その真意を語った。
矛が、無防備な黒い少女の腹を引き裂く――
ズシャ―― グチャ……
一撃は余りにも見事だった。
たった一撃で黒い少女は体を真っ二つにされ、上半身と下半身がばらばらになる。
どんな生き物でもここまで体を破壊されれば生存の見込みなど無い。
アメーバなどならともかく、人体という複雑な構造を持っているならなおさらだ。
なのに――
「オアシス
!?」「……ワシは、おぬしを殺す事にためないなどない」
上半身だけになった黒い少女は生きていた。
どのような怪異が働いているのか、彼女の体は宙を舞い、下半身があるときと同じように滞空していた。
バケツをひっくり返したかのような勢いでその断面から血が噴出している。
だがその血は地面に落ちる事無く、黒い少女から特定の範囲に滞空した。
「やよ…… これ以上やるなら―― アナタを殺してしまう」
「博愛主義か、似合わんぞ、ヴァンパイア……
そんなのはお前等にはもっとも似合わない―― だから、ワシは御主を“殺したい”」
「オアァァシスゥゥゥウウウウウウウ!!!」
神速としか例えようが無い速度でオアシスは駆けた。
繰り出す矛先はもはや音速の壁に匹敵し、目に捉えることすらできない。
だがその一撃が黒き吸血鬼の女神に届く事は出来なかった。
矛先が血の結界に触れた瞬間、矛が消え去った。
破壊されたなら残骸が残るはず、なのに矛だけがオアシスの手の中から消え去っている。
何らかの攻撃だった、本来なら離れて警戒するべきだ。
しかし勢いに乗ったオアシスはもう止まる事は出来ない。
そのまま黒き少女の纏う血の結界に接触し……
「――ぬかった……」
「お…… オアシス?」
瞬間、矛のように結界にオアシスの体が触れた瞬間、彼女の下半身は粉砕されていた。
大量の血と骨、そして肉と皮が混ざり合い、吹き飛ぶ。
誰がどう見ても、それは致命傷。
オアシスは黒き少女とは異なり、自分の肉で作られた血の海にその上半身を沈めた……
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縁の指輪
六の指輪 一刻目
そして、死へと立ち向かう
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気づいたとき、自分の掌は真っ赤だった。
絵の具でも塗りたくったみたいに鮮やかな赤。
血以外の、何物でもない。
(何だ、これ)
もう分かりきっているのに、あえて疑問を脳内で述べる。
今まで何をしていたのか―― 別に何もしていない、ただ料理を作っているだけだ。
ただ考えるだけでは嫌な事しか思い浮かばず、気が滅入るので綾美達が止めるのを押しのけて強引に。
今は―― そうだ、包丁を使って野菜を斬ろうとしていて……
目に入った包丁は、奇跡的に地面に落ちているだけだった。
それには血の一滴もついていない、発作的な自殺行為はしなかったようだ。
なら、なんで自分の掌は真っ赤なのか―― それを思い出せない。
何となく感じる不快感に口を拭った時、錬は出血の元を見つけた。
「また、吐血―― なのかな……?」
痛みは無かった、だがそのせいで痛みに意識をそむける事も出来ず、今の自分の状態を理解してしまう。
痛みを感じていないのではない―― ただ人間が意識できる痛みを超えて痛覚神経が麻痺してしまっただけだ。
それを理解したとき、いつの間にか震えていた足は自分の体を保持できなくなった。
ガクンと膝が折れて、地面に体が叩きつけられる。
その衝撃で、錬は口から大量の血を吐いた―― 息が吸えなくても、苦しむための神経はその役目を放棄している。
ただ空気の吸えない事だけが自分の気道が詰まっている事を教えてくれた。
とっさに錬は自分の口内へ指を突っ込み、強引に気道を確保する。
そこまでしてやっと、痛みが蘇ってきた――
「はぁ…… がァ…… ぐはッ…… う、くッ…… ふぅふぅふぅ…… はぁはぁ… はぁ……」
肺が酸素を求める軋みに、錬は必死になって呼吸をする。
普段なら何の問題もなくやっている空気を吸うという行為が、どれほど大変な事だったのか思い知らされる。
何が『人間性の欠如』だ、それより確実に、このまま死ぬ方が速い……
「死んでたまるか…… 誰が死ぬものか…… 死んで、たまるか……!」
まるで幽鬼のような青白く―― なのに妄執じみた生への渇望に見開かれた瞳。
もし何も知らぬ人が今の錬を夜中に見れば、亡霊か死人と思うだろう。
それほど、今の錬は死霊じみていた。
そのとき、慌ただしく誰かが走ってくる音を、錬は耳にした。
大量の血による血臭、この意味に気づかない者などこの家には誰もいない。
「錬――
!?」
声の主は綾美だった、吸血鬼の彼女こそ家の中でもっとも血に敏感な存在だ。
何も知らなかった頃の彼女なら何とか誤魔化せただろうが、今の錬の状態を知っている彼女を騙せるはずが無い。
もはや加速的に壊れていく錬の体。
奇跡的にまだ人間としての活動は可能だが、それも今のようにそれも時々、その幻想は砕け散る。
それに規則性はほとんどない、寝ていると当然苦痛に襲われ目覚める事もあれば、ただ道を歩いている時に血を吐くこともある。
ただ今、それに規則性は現われ始めていた。
単純な話、その苦痛の間隔が短くなっている。
それは錬がどんどんと、坂道を転がるボールのように止まる事無く、破滅へと加速している事を意味した。
「……また、世話を…… かける…… な」
今回は思ったより深い痛手だったようだ。
苦痛が治まってきたとたん、今度は意識が遠のいていく。
綾美があげる悲鳴じみた声の意味を理解するよりも早く、錬は意識を手放した。
「もう、限界よ」
錬が意識を取り戻して、彼は真っ先にアスラルに呼ばれた。
そして今の椅子に座り、アスラルの冷たい宣言を受け止めている。
だが、怒りに震える手が、錬の心境を語っていた。
「本来なら、絶対安静にしておくべきだわ」
「で、安静にしてのんびりと死ぬのを待てと?」
「そうは言ってないわ、死織、無垢なるについては聖十字軍が調べている。
そもそも―― ここにアナタがいる無意味さにいい加減気づきなさい」
「……アスラルッ!」
瞬間、錬はテーブルを飛び越えてアスラルの首にナイフを突きつけていた。
その顔は伏せられており、対峙しているアスラルにもその顔色は分からない。
しかし錬から殺意が叩きつけられる事で、今の錬がどのような顔をしているのか手に取るように分かった。
「分かっているさ、分かっているから―― 言うなッ!」
その声質は、なんと表現したらいいのかアスラルには分からなかった。
悲しみなのか怒りなのかそれとも別の何かなのか―― 色々な物が混ざり合っている複雑な心境でのみ出す事ができる声。
それが今の錬の心を表していた。
しかし、だからこそ――
「何度でも言うわ―― 夢、見てんな、死にぞこない」
「――ッ!」
アスラルの首が宙を舞わなかったのは、奇跡なのかもしれない。
2ミリほど、浅く首に食い込んだナイフ、その刀身を伝わり血が流れ落ちる。
そのような状態にあって、アスラルは顔色一つ変えない。
今の錬では、衝動に任せてアスラルをそのまま殺しかねないのに。
それを理解しつつ、決して揺るがない。
それが、彼女が年上の人間としての、大人としての、もしくは聖十字軍最強の一角と呼ばれる彼女の意思の力なのか……
錬にはそれがどちらなのか分からなかったが……
ただ、ナイフを伝って、血が錬の指をぬらした。
「あなたがやるべきことは三つ。
1、あなたの精神を蝕む無垢なるの排除。
2、あなたの肉体を壊す血の争いの阻止。
3、これ以上死を早めないようにする事。
これだけ面倒な事を抱えて、他に何か一つでもする余裕があるとでも思っているの」
「……それが何だ、俺は人間的な行為を全部止めろと?」
「――わがままいうな」
アスラルの眼帯が、誰も触れる事無くその顔から離れる。
あらわとなった瞳は黒、左目の黒い瞳―― それが射抜いた錬のナイフは溶鉱炉に投げ込まれたかのように融解した。
アスラルの魔眼、錬は驚く事無くナイフを手放した。
テーブルに落ちるまでにナイフは固形化し、異様な姿となった鉄塊はテーブルで跳ねる。
それまでの間に、錬は椅子へと戻っていた。
「わかってるさ、わがままって事ぐらいは」
「……―― そう、それで、どうしたいの」
「別に、ただ寝たきりになって衰弱死なんて冗談じゃないって話だ」
「……私だって嫌に決まっているじゃない」
そうとう、錬は追い詰められているようだと、アスラルは確信を深めていた。
前から彼の怒りは鉄のように熱しやすく、冷めやすい。
だが今のように、瞬く間の感情の変化など見た事が無い。
それが今の錬の精神的疲労をあらわにしていた。
「……とりあえず、考えてはおくよ」
不意に、錬がかすれて消えそうな声でそう言った。
それにアスラルは驚き、思考にはまり込んで錬に意識を向けていなかった自分に気づく。
錬が居たはずの席を見たとき、そこには誰もいなかった。
ガラッ、と音がして振り返れば、錬はすでに部屋から出て行く所。
思わず呼び止めようと口を開き、アスラルはそこで止まった。
――今更、どんな言葉を言えばいい。
そう自分の中、冷静な自分が冷たく言い放つそれに言い返す言葉が思いつかなかったからだ。
「錬ッ!」
だがその『言うべき言葉』を思いつかないまま、アスラルは錬の名を叫んでいた。
しかしその意志力に欠ける声は、錬を振り向かせる程度の強制力すら持っていない。
名前を呼ばれれば振り向く、その当然の反応にすら機能していなかった。
「……錬」
悲しげな声が聞こえて、アスラルはビクリと驚く。
少しして、その声が自分の出した物だと気づいた。
自分の声とは到底思えないほどの、悲しげな声―― 精神的に参っているのは、自分もだろうと思考する。
そして、それは今の錬とは比べ物にならないほどの小さな疲労という事も、嫌でも思い知らされた。
「くそッ、馬鹿か俺は」
ガツンと、容赦ない強さで錬は柱へと自分の額を叩きつけていた。
浅く皮膚が裂けて血が流れるが、その程度の痛みなどもはや役に立たない。
引きつり軋む肺、念入りに針先で斬り裂かれたかのような喉、ハンマーで頭の中を殴られる。
そういったものに比べれば、赤子のような小さな物だった。
だからこそ、今の錬には苦痛による悲劇からの逃避すら許されない。
目を逸らす事無く、今、己のみに降りかかる絶望を噛みしめるしかないのだ。
「何をアスラルに八つ当たりしてやがる――」
――でも、五月蝿いのは確かだ――
アスラルに謝りたい気持ちと、アスラルを憎み侮辱する気持ちが混沌として存在していた。
それは互いに相容れる事無く、なのに錬の脳裏に消える事無く存在している。
「わかってる、もう“普通”なんてありえないんだ」
――そもそもアスラルなんて来なければよかったんだ――
「俺は―― 人間じゃないんだから」
――何で教えた、知らなければよかったのに――
「“普通”なんて、ありえない―― 俺は――」
――■■なんだから――
己の心にすら、憎悪を覚えた。
自分の心がばらばらになって、別々の方向へ歩いているような感覚。
吐き気がするほど、不愉快な感覚だった。
「……ッチ」
今は、この家にもいたくはなかった。
夏休み明けの休日とはいえ―― いや、だからこそ外には知り合いがいるかもしれない。
その前で発作が起きれば、今までの何もかもが崩れるだろう。
――だから、どうした。
錬はそう心中で吐き捨てた。
自暴自棄としかいえない行為、だがそれを錬は何の躊躇もなく実行する。
荒んだ今の錬には、それを止める意味を見出せなかった。
錬を知る者が見れば―― いや、赤の他人が見ても怖気の走るような笑みを浮かべて錬は歩き出した。
右手に持ったままだった、アスラルの血が張り付いたナイフを専用の鞘に収めてポケットに押し込む。
「……何処へ行くの、錬」
「……アスラルの血か―― しまったな」
当然アスラルの血の臭いなどすれば、何があったのか確かめに来るのは当然だ。
そして錬とアスラルが話し合っている中、その血の臭いがする。
なら、その場から離れた錬に会おうとするのは、当然。
そして、錬は隠す気などなかった。
何をしていたのか、見せるために。
まるで汗を拭うためにポケットからハンカチを取り出すみたいに。
錬は、アスラルの血のついた、ナイフを綾美に見えるように取り出した。
「ああ、もう少しでアスラルを殺すところだった」
今日の天気を言うみたいな口調だった。
正気の人間が聞けば、その言葉を呟く者の正気を疑うだろう。
そしてその通り、今の錬はまともな精神状態ではない。
もしこの場に第三者がいれば、少女が彼に刺されると思うはずだ。
しかし……
「そっか、よかった―― じゃあアスラル、死んでないんだ」
心の底からホッとしたといわんばかりの、気楽な口調。
だが磨耗した錬の精神では、その歪んだ“何か”に気づけない。
「ああ、少し首を切ったけど」
「ははは、それだけだったら大丈夫だよ」
「そうだな、それじゃ俺は出かけるから」
「暗くなる前に帰るのよ〜」
「わかってるって」
違和感はあるが、それが今の錬には何か分からない。
だがそれはある意味、仕方ない事とも言えた。
なにせ彼自身が沈み込もうとしている“それ”に、錬はとことん鈍感となっていたからだ。
そして錬は普段の足取りで家を出る。
何一つ変わらない、靴の置いてある位置も、そこから外へ出る扉を開けるのに必要な歩数も、あけるのに必要な力も。
変わったのは――
「いってくるな」
「ええ、いってらっしゃい」
この場にいる二人の、その心だった。
絶望に濁った男と、狂気に澄んだ女。
どちらが上とか下とか、そういうものではない。
天国と地獄のどちらが上下かにも似ている。
どっちも死後の世界である事に変わりなし。
思ったより、軽い音を立てて扉が開き―― そして、閉じる。
扉が家中と外界を遮断し、錬は外へとたどり着く。
時間にして数秒以下、しかしある意味、それは絶対的な決別を示していた。
もっとも簡単でいつも誰もがやっている、我が家と言う聖域から抜けるという儀式。
いつもやっている事なのに、錬はどこか追い出されたかのような疎外感を感じていた。
今までは強気だったのに、いつの間にか弱気になっている自分に気づき、怒りを感じる。
多少に大股で怒りを隠す事無く歩き出す。
「とりあえずは公園へ行くか―― 今の時間なら、人気は少ないだろうし、な……」
軽く口に出して見て、それは名案だと錬は思った。
アスラルの血がナイフを伝わり、指に触れたときの―― 血に濡れた指先の感覚。
そして錬の中の鬼は、その感覚に愉悦を覚えていた。
自分が浅ましい獣に成り下がった気分。
(すまないな、アスラル)
詫びを心中で呟きながらも、錬は不確かな足取りで歩いていく。
だが今、錬は足を動かしてなどいなかった。
体は動く、心は止まっている―― 夢の中のような、浮遊感。
自分すら見失って、自分の体にすら裏切られて見捨てられたような感覚。
そのような悪夢じみた極々短い時間の旅路。
今のボロボロな錬にしてみれば、普段の2倍近い距離の旅路。
だけど、力を振るえばこの程度の距離、30秒もかからない事も知っていた。
それを思い出した瞬間、暴力的な衝動が錬の脳裏を走る。
踏みしめた小石が、砕け散った。
錬の体重が重くなったわけではない、錬の力が小石を踏み砕いたのだ。
人間の力でもできるかもしれないが―― 何の予備動作もなくできる事ではない。
ギュ、と。
錬が履く靴のゴムが軋む音を立てる、瞬間――
――錬はその場から消え去っていた。
「はは、ははは―― ははは……」
もし肉食の獣が声を出して笑えるとしたら、この笑い声以外考えられないと思えるほど凄惨な、力の開放に震える笑い声だった。
錬はたった一度の跳躍で公園まで飛んだのだ。
距離にて―― いや、そんな計算などしなくても人間には絶対に不可能だと理解できる距離。
だが錬はいとも容易くそれを成した、それも――
「ふっ、ふは、ははははは―― まだ加減してコレかよ…」
人間のものとは思えない邪悪な喜びに震える笑みを浮かべて、錬は自分の成した事を楽しんだ。
自分の醜さをさらけ出してでも、一瞬でも憂鬱な真実から逃れる快感。
麻薬じみたそれに、歪んだ愉悦を見出した錬は壊れたかのように笑う。
錬の様子を隠れて見ていた公園の動物達は、その狂気に死の恐怖を見出して逃げ出した。
夜中にその笑い声を聞けば、地獄からの声と確信するだろうそれは――
錬の口内からあふれ出した、赤い血によって止められた。
「あはは……はは ……脆いよなぁ……」
ドサンと膝が折れ曲がり、錬は地面へ膝をついた。
血は極々少量で、決して今までのように血に溺れるような事にはならない。
しかし、口内に広がる鉄の味は、正気を失いかけていた錬を目覚めさせることが出来た。
そして嫌が応にも絶望すら思い出させる。
「嫌だ―― なんであんなふうに飛べるのに、なんだって壊せる力を持っているのに―― なんで自分を助ける力が一つもない」
“払う”は、身を守る術であって今の自分を救ってはくれない。
神無は奇跡や呪いを消せてもガンや腫瘍は治せない。
精神世界とは違い、肉体に縛られる現実の世界では、自分に破壊を突き立てる事などできない。
致命的な崩壊を迎えつつある、今の自分を救える力は―― こんな馬鹿ばかしい力をもっているくせに、一つも無い。
「あーあ…… 馬鹿馬鹿しい」
公園のベンチに座り込んで、空を見上げる。
馬鹿馬鹿しいぐらい、錬の心中とは反対の、抜けるような青空だった。
「……――?」
ガサガサと、何かが草を踏んで歩く音が聞こえた。
しかし錬は慌てる事無く、ゆっくりと音が聞こえてきた背後を振り向く。
なぜなら、その足音は人間のものではなかったからだ。
そして錬が感じ取ったとおり、振り向いた先にいたのは一頭の犬。
「逃げ出さなかった―― いや、できないのか」
離れているため一見しただけでは分からなかったが、その犬は左前足を怪我していた。
かなりの大怪我らしく、歩くのが精一杯取った状態。
そばにいけばまだ傷口から漂う血臭が嗅げるだろう、そこまでの怪我なのだ。
「たく……」
ベンチから立ち上がり、錬はその犬へと近づいていく。
対する犬―― 柴犬の、まだ幼い子供 ―― は錬から逃げようとまともに動かない足を引きずりながら歩き出す。
ただ普段の調子で歩くだけでも、簡単に追いつける。
それだけ、弱弱しい歩みだ―― だが錬はそれを見て、足を止めた。
「…… やっぱり、怖いよな……」
動物は、人間と違って理性にて感情を抑えるなどしない。
楽しければ喜ぶ、悲しければ悲しむ―― 怖いなら、脅える。
これ以上、その子犬に近づいて脅えさせる必要など無いと思い、錬はベンチへと戻った。
本当なら無理にでも捕まえて治療すべきなのだろうが、そこまでする気力は錬には無い。
もしかしたら数日後にこの公園を通った時に、この子犬の死体が転がっているかもしれないが―― 知った事か。
「俺には、関係ない――」
対岸の火事なんて言葉を、錬はふと思い出した。
自宅のそばで起きた火事なら、必死になって消そうとするだろうが――
誰が好き好んで、川を挟んだ向こう側の火事まで消しにいくだろうか。
この子犬を助けたところで、何の意味があると聞かれれば、無いという言葉しか用意できない。
助けたところで自己満足でしかない―― 傷を治したらまた公園に放せばいい、そんなもの無責任に他ならない。
この子犬を助けると言うならば、傷を獣医に見せてから、この子犬を飼うか親を探す必要がある。
そんな救世主じみた人間になる事も、怪我だけ治して放置するような無責任な人間になることも、錬には嫌だった。
「昔は犬とか飼いたがっていたんだけど―― な……」
よく刀冶に犬を飼いたいとねだったものだが、結局、飼う事はできなかった――
ふいにそんな過去の出来事を思い出して、錬はそれに疑問を覚える。
飼いたいといったときに、刀冶が言った反対の言葉の、飼えない理由が思い出せなかったからだ。
それは確か、自分に関係する事で―― それを言われてとても不愉快な気分になった事だけは覚えている。
なのに、何を言われたのかがさっぱり思い出せないのである。
そんな事を考えながら子犬を横目で見ていると、ふいに誰かがその子犬を抱き上げた。
錬には特にそれに考えさせられる事など無い、どこかの救世主気取りが来た―― それだけだ。
だから、錬はその誰かの足音が自分に向かってくる事に軽い驚きを感じていた。
(どうせ、『何でこの子犬を助けないの』とか言うつもりだろう……)
自分が正しいとか思い込んでいる人間の言いそうな事を頭の中でいくつか考えて、どれで話しかけられるか頭の中で賭けて見る。
その中でもっとも高い確率だったのは悪口じみた言葉ばかりだったが、それも仕方ない。
なぜなら、自分の考えは捻くれていてどちらかと言えば悪人じみているのだから。
悪人にはそれにふさわしい言葉があると、そう思うから―― だから。
「大人になったわね、昔はこういう子犬を見るとすぐに飼いたがったのに」
「え……?」
そんな言葉は、予想の中に無かった。
驚きを隠せぬまま、錬は顔を上げてその声の持ち主を見る。
驚きの理由は二つ、放たれた言葉の意外さ、そしてその声―― こんなところで聞くことなどない、と思っていた声。
そして上げられた視線の先には、“彼女”がいた。
「おはよう、秋雨…… 錬」
「死織……
!?」
見間違えなどない、漆黒の姿―― 黒い着物、黒い髪、黒い瞳。
だからこそ、錬はそれに違いを感じていた。
全く同じだからこそ、その違いが際だつ、緑色の中の赤が際立つように。
死織の姿でありながら、死織ではない―― なら……
「梓織、姉さん……」
呆然とした口調での、呟きじみた言葉に、彼女は微笑で正解である事を返した……
次回 縁の指輪
六の指輪 二刻目 愛と憎悪の獣達