「……よくも―― よくも…… 裏切ったな」
「……梓織か」
突如、首元に突きつけられた刀の切っ先に動じる事無く、刀冶は自らの背後に立つ人影を見た。
あまりにも鋭い刀とは真逆の存在が、そこにいた。
まだ幼い少女、しかし可愛らしい外見とは全く合わない、冷酷な輝きを放つ刀が背筋を凍らせる。
顔は、その刀身の身を裂くような寒さより、なお冷たい。
無表情というものを、仮面にして人につけてもこうはならない、そんな冷たい表情。
ただその中で、強く噛みしめられ紅い血を流す唇だけが人間性を見せていた。
「よくも……錬を」
「どの『錬』の事かな?」
刀身が浅く、刀冶の首に潜り込んだ。
薄っすらと刀身を伝って、血が畳の上に落ちる。
それはあっさりと畳に吸い込まれ、血痕を残すだけとなる。
刀冶の問いに少女は口を開く。
その際に唇の端から血が流れる、唇の傷はかなり深いようだ。
「全員の、錬よ」
「言い見て妙だな、しかしそれ以外に言いようがないか」
「言葉遊びをしにきたんじゃない」
落ち着いた刀冶とは違い、少女は殺気立っていた。
顔色こそ無表情を何とか保ってはいるが、その激情は全く隠せていない。
その手は怒りに震え、すこしのきっかけで刀冶の首を切断しかねない。
とてつもなく危険な状態でありながら、なお刀冶は少女を挑発した。
「それでは何をしにきた、錬を直しにもきたのか」
「……人を、道具と一緒に扱うな」
「私にとっては同じものだよ」
「――――!」
刀冶の首に食い込む事無く、刀身が離れた。
がその直後、刀冶の顔面へ少女の振るう鞘が叩き込まれる。
血と共に、何本かの歯が舞った。
壁に叩きつけられ、刀冶は息を詰まらせる。
そんな彼に刀を突きつけ、少女は冷たく言い放った。
「知ってるのよ、あんたが死にたがっている事なんてね」
「……なら、一思いに首を切ってくれ」
「嫌よ」
倒れこんだままの刀冶に、顔を近づけて梓織は微笑む。
だが、それは微笑むというにはあまりにも禍々しい笑み。
今までが無表情だった分、その笑みの恐ろしさが強調される。
「錬は、助かるの?」
「黄色に聞いたが、無理だそうだ」
「へぇ ……それで今更、反省なんかしてるんだ」
嘲るような色さえある、冷たい声。
それに刀冶は――
「すまない」
ただ、一言だけ。
瞬間、少女の顔色が変わる。
あまりに劇的で唐突で、目の前で見ていた刀冶ですら一瞬、あらわとなった感情が何か分からなかった。
だがそれはかつて、自分が身を浸していた
一瞬にして、憎悪に満ちた狂気の顔に――
手には黒く輝く小太刀が――
それを見た刀冶の顔色が変わる。
一瞬で青ざめていた顔が、真っ白に。
「お前―― “死”織か――ッ!?」
「くは…はは、ははははははははははは――― 死んじゃえ、刀冶ィイイイイイイ!」
梓織は―― いや、“死織の無垢なる”は狂人じみた声と共に刀を振るった。
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縁の指輪
五の指輪 七刻目 彼が目覚める
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自分の受けているダメージを再確認する。
左腕骨折、戦闘に支障大。
簡単な結論、壁に叩きつけられたとき、受身を取れず、腕をぶつけてしまった。
錬は自分らしくない失態に舌打ちしながらも、突然襲い掛かってきた寒気に従い、その場を飛び退いた。
ゼロの振り下ろしたかかとが、錬のいた場所を粉砕する。
人間の形をしている生き物が出せるとは思えないほどの膂力。
錬の防御力などこれほどの力の前には無いも等しい。
喰らっていれば砕け散ったコンクリートと運命を共にしていたはずだ。
「疾ッ!」「無駄!」
コンクリートを目隠しに錬はナイフを投擲するが、どれ一つも届かない。
当たったところで痛手を当てる事はできないが、絶望的な時間稼ぎの中、一秒でも稼げればそれで十分だ。
それに時間稼ぎに別の意図もある、傷が回復する時間を稼ぐという意図だ。
錬の新しい指輪は、いまだ彼の指にある。
今までの指輪とは違い、力を行使するのに外すなどといった動作は必要なく、意識による問いかけで封印を解除できる。
つけたままということは、指輪の治癒能力も使えるという事だ。
現に、折れた腕もすでに動かせるほど回復していた。
自分の身体能力が許せる限界距離を跳躍し、ゼロから離れる。
後ろではなく、ゼロを飛び越える形だ。
下手に後ろへ行くより、相手に振り返るという動作を行わせる方が時間を稼げる。
いや、後ろへ飛んだところで追いつかれるのがオチだ。
悔しいが―― 錬よりもゼロの方が速い、大幅に。
破壊以外において、全てにおいてゼロに負けている。
「……どうした、お得意の破壊をしないのか」
「――安い挑発だな」
錬の力は離れていては使えない、斬撃に乗せるしかない。
これほどの実力差があるのに接近するなど自殺行為の何者でもない。
それが互いに分かっている、だからこその会話。
片方は手出し出来ないゆえに、もう片方は余裕ゆえに。
だが、会話に自分の優位を持ち込めたのは錬だった。
ゼロは突然、空から落ちてきた数本のナイフに身を刺される。
ほとんど傷は無い、普通の人間でも浅く皮膚を切られる程度だろう。
だがゼロの意識は一瞬だけ錬から離れる。
その一瞬の隙こそ、錬の狙っていたものだ。
錬は、跳躍の時に隠し持っていたナイフを、ゼロの真上で空へと投擲したのだ。
そしてナイフは重力の助けを借りて、ゼロへと襲い掛かる。
たとえ一瞬で傷を癒せるほどの回復能力を持っていても、どれほど小さな怪我でも、怪我を負えば意識はそちらを向く。
時間は少なくともその一瞬があれば―― 錬は何もかもを破壊する。
(腕や心臓は駄目だ―― 俺の破壊と向こうの再生が拮抗してしまう…… 首を刎ねるしかない!)
破壊の力を込めて首を刎ねる―― その威力は使う錬が躊躇するほどだ。
一度、鬼狩りのさいに行なったのだが、首が飛ぶどころか頭が爆砕した。
一撃必殺―― いや、一撃必滅の領域だ。
喰らえば即死は確実の一撃。
しかし、その一撃は―― ゼロの肩から生えた腕に防がれた。
「――ッ!?」
「……人間と戦っているつもりだったか?」
普通の腕とはまったく別の場所、背中から伸びた、三本目の腕。
人の腕では決して無い、生えている場所もそうだが、それは赤い腕―― 赤鬼の手だ。
錬の破壊はそれを見事に壊して見せたが、威力が削がれてしまい、首まで至らない。
とっさにさがろうとするが、それを許す敵ではない。
攻撃を行ったのは、彼の肩より伸びてきた四本の腕。
どれもが鬼の腕で―― それらが全力を持って振るわれる。
錬一人を殺すには十分すぎる破壊力を持つ拳が錬へと迫り――
とっさに錬は“払らい”、死の鉄槌を防いだ。
局所的な因果律への干渉、破壊で自分の死という運命を破壊する。
一気に視界が濁る、比喩ではなく意識が文字通り遠のきかけた。
人の身で神の領域に踏み込んだ罰だ、今の錬にはそれは猛毒を飲んだのと代わらない。
「ぐふぅ……が、ふぁ…… くっ……!」
口の中に広がる血の味、何度もした事がある吐血と似ていた。
苦痛の中、しかし錬は迫り来るさっきに無意識の回避を行なう。
またも叩き下ろされる鉄拳、ある種の嘲りだ。
苦し紛れの回避をするしかない錬―― 自分の永遠を脅かした敵が無様に逃げ回る様を見て、歪んだ喜悦に浸るために。
後ろに跳びながら、再度ナイフの投擲。
今度は届いた―― だが皮膚で弾かれる、眼球に吸い込まれたはずのナイフさえそれを突き刺せず地に落ちる。
「無様だなぁ、錬」
「――…… いい気なもんだな」
「ああ、いい気分だ―― 私の今の力、存分に楽しませてもらっている」
まるで質の悪い酒に酔ったような声でゼロは言う。
力に溺れる、そういう事を聞いた事があるが、まさしくその状態。
そんな醜い奴に殺されそうになっている、とてつもなく不愉快な事だ。
錬は何とか立ち上がり、剣を構える。
とっくに分かっていることだが―― 分が悪い戦いだ。
時間稼ぎの戦い、いや、時間稼ぎしか出来ない戦い。
しかしこの短時間、時間にして二分程度でこの様だ。
(――…… 綾美、頼んだぞ)
唯一、錬が助かる可能性は綾美たちが援軍を呼び、ここにたどり着くまで生き残る事だ。
目の前の脅威のことを除いても、明らかに分が悪い。
錬が死ぬ方が、助かるより高い確率だ。
また、襲い掛かってくる殺意に無意識のうちに体が動く。
またも叩き落される鉄拳、全く同じ攻撃だが、反射的に避けられても見切るのは不可能な速さだ。
反撃などもってのほか、剣で防ぐか避けるので精一杯。
近づかれすぎた、そう思った錬は間合いを取るために跳躍で下がるが―― それがミスだとすぐに思い知った。
錬の跳躍ではゼロを振り切る事が出来ない、それを知っていたはずなのにとっさことでやってしまったのだ。
「それが力の限界か!」
「――!?」
ゼロの振り下ろした魔拳が、コンクリートの地面を砕く。
破壊した手が、そのままコンクリートの塊を掴む―― そして、投擲。
錬へと巨大なコンクリート塊が迫る。
第三者から見れば、全速疾走する車が歩行者へ襲い掛かるように見えただろう。
本人から見れば、迫り来る断頭台の刃にも見えた。
そしてその一撃の向こう側、ゼロが構えるのが見えた。
ゼロの放つ『破壊の担い手』、遠距離攻撃の構え。
コンクリートの上から、叩き込む気だ―― どちらかを避ければもう片方に当たる、回避出来ない。
とっさに錬は再度、“死を払う”を行なう。
破壊の力を因果律に影響させる絶技、払う代価は絶大だが、やるしかない。
「ツァアアアアアアアアアアア!?」
「ウォオオオオオオオオオオオ!!!」
運命の破壊は出来た、死は避けられた。
が、放たれた『破壊の担い手』の衝撃に巻き込まれ、錬は――
「姉上…… よろしかったのですか?」
「いいわけ、ないでしょう――!」
ギリギリと、綾美が唇をかみ締める音が、祐騎には聞こえた気がした。
周囲には濃厚な血の臭いが満ちている、邪魔してきた悪魔たちを綾美が惨殺したから。
祐騎は何もしていない、綾美の異能が発動した―― それだけだ。
そのとき、綾美へと真後ろから、死んだふりをしていた悪魔が襲い掛かってきた。
とっさに祐騎は動こうとするが、その必要すらない。
始まりと同じは、常に等価
気づいたとき、悪魔の攻撃は空振りに終わっていた。
振り向く事無く放たれた綾美の裏拳が悪魔の顔面を打ち砕く。
バチャと音を立てて、肉と血が跳び散った。
このように簡単に、綾美の前では悪魔は屈する。
彼女の異能、『ウロボロス』は今、完全に発現していた。
今までの中途半端な発現とは全く異なる、異質な力。
それは今の彼女に絶対的な力を約束していた―― ように見える。
「こんなに簡単なのに、今まで、“話”を聞くまで使えなかったなんてね……」
「……姉上」
「……行くわよ、雑魚は私に任せなさい」
綾美の異能は、アスラルが考えていた以上の力があった。
彼女への全ての攻撃は失敗に終わり、反撃で確実にしとめる。
他人から見れば絶対的な存在に思えるだろう、だが、祐騎はそれを見つけていた。
彼女の体には、無数の傷が刻まれていた。
それは高速で再生する中、すぐに消えていくが―― 攻撃を喰らっている証拠に他ならない。
彼女の異能が何を起こしているのか皆目検討もつかないが、それが絶対的なものではない事はすぐに知れた。
原因は予想がつく―― おそらくは処理が間に合っていないのだ。
おそらく彼女の異能はかなり膨大な処理を必要とするのだろう、彼女の精神がそれを処理しきれないほどに。
苦痛に顔を歪める綾美。
絶大な―― おそらくは因果律すら影響を与える異能の反動。
ルシフやフェンリ、アスラルといった上位異能者ならともかく、力が強いだけの綾美には御する事の出来ない暴れ馬だ。
彼女に気づかれないように注意しながら、祐騎は自分の鉄線を振るう。
力の制御に注意の大半を割いている綾美はそれに気づく事が出来ない。
幾度か綾美の異能が間に合わず危ない場面もあったが、それは全て彼が防いでいた。
普通の状態ならそのような危険な場面に気づくはずだ。
だがそれに気づかないということが――
(……我を見失っている、話さないほうがよかったのかもしれない)
今更、何を言っているのか。
その考えはそう心中で呟くほど、つまらない考えだった。
話さなければ何も進展しない、それほど重要な意味を持つ事だ。
本来なら錬にも聞かせるはずだったが、綾美が静止した。
先に彼女だけに話してしまったのは、完全に祐騎のミスだ。
そして彼女に口止めされただけで、話せなくなるのは祐騎の愚かさである。
「急がないと急がないと急がないと急がないと急がないと急がないと急がないと急がないと……」
まるで怪しげな儀式における呪文のように、永遠と呟き続ける綾美。
彼女の姿、乱れた髪に爛々と輝く瞳を見て―― 戦慄が走る。
自分を責めて追い込んでしまう、祐騎はその余りにも悲しい彼女の性格に、自分がいない間の彼女の地獄、その一端を思い知らされた。
そしてそれを考えもせず、自分が苦しみから逃れるためにただ話してしまった。
自分はとんでもない愚か者だ――
そのとき、翼をはためかせ、綾美と祐騎の前に数体の悪魔が着地した。
綾美たちへ、その顔を向けて笑みを浮かべる。
それは新たな獲物を見つめた肉食獣の笑みなのだろう―― だが、今の綾美にはそれは侮辱の笑みに他ならない。
一瞬で、彼女は怒りに支配される。
「邪魔、するなァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
殺意を剥き出しにした、鬼女じみた顔で咆哮する。
吸血鬼としての本性を剥き出しにした―― 人外としての彼女の姿。
爪を振るって敵を引き裂き――
牙で首の肉を食いちぎり――
拳で敵を粉砕する――
狂戦士ですら戦慄するような戦い方だった。
その様を、祐騎は一瞬たりとも見逃さないように見つめる。
これは彼の罪なのだ、彼女を追い詰めたのは間違いなく自分、なのだから。
卑怯者で愚か者には地獄絵図こそふさわしいはず、なのだから。
だから、目をそらせるわけには行かない。
「……数、ばかり…… いるんだから!」
「姉上、相手をしていては時間がいくら合っても足りません」
「……そうね」
20体近くを血祭りにあげたところで、周囲が血で塗れたところで綾美と祐騎はこれ以上の戦闘が無意味であると感じた。
戦闘をしながらでも移動はしていたが、やはり普通に進むに比べてその速度は大幅に落ちる。
あまり時間をかけるわけには行かない綾美たちにとって、現在のような時間の浪費こそが最大の敵だ。
今までのように相手をしながらでは、時間がどれほどあっても足りない。
時間をかけすぎたせいか、綾美たちが強かったせいか、彼女達を囲むようにまた無数の悪魔が現われた。
今までとは違い、時間をかけてゆっくりと包囲を狭めてくる。
その動きは訓練された軍人と比べれば稚拙としか言えないが、彼らの能力を考えれば十分な驚異。
だが綾美たちはそれを目にしつつも、口を開いた。
「最小限の敵だけを倒して駆け抜ける、それが一番でしょう」
「分かったわ、先に行くわよ」
「はい、確実についていきます」
綾美が目の前に迫ってきていた悪魔を殴り飛ばし、駆け出した。
殴り飛ばした悪魔に追いつき、その顔面を掴んで盾代わりにし、包囲を突破する。
その後ろについた祐騎が鉄線を振るい、追いかけようとした数体の足を切断した。
包囲を抜けた後、綾美は掴んでいた顔面を握りつぶし、投げ捨てて駆け出す。
まさに電光石火の動きだった。
悪魔たちは仲間の損害を気にせず、彼女達を追いかけ始める。
足を切断されて動けない悪魔が他の悪魔たちに踏みつけられていき、圧死した。
仲間の犠牲を気にしないというよりは、仲間という意識が無いだけか。
とにかく彼らは綾美たちを追うために動き出す、速いというわけではないが逃げ切れるほど遅くはない。
「しつこい……!」
「姉上!」
「……わかってるわ!」
また怒りは再燃したのか、綾美が足を止めて応戦しようとしたところを祐騎が叫んで食い止める。
綾美が冷静な判断が出来ないなら、それを補うのは自分の役目だと彼は分かっていた。
彼がいなければ、またも綾美は無意味な戦闘を再開していただろう。
彼の叫びにより、何とか踏みとどまった綾美はさきほどよりも早く走り出す。
焦りは本来危険なものだが、このような事態ではかなりの力を発揮する事が出来る。
綾美達は焦りに身を焼かれながらも、走り続けた。
「がふぉ、ぐふぉぐふぉ…… く……は…… あ… ああ・・・」
舞い散った粉塵を吸い込んだせいか、真っ先に出たのは咳だった。
息が詰まるが、錬は何とか耐えて息を整える事が出来た。
どうやら、一瞬とはいえ気絶していたようだ。
全身を走る苦痛により目覚めた錬は、残り少ない体力を振り絞って立ち上がる。
これほどの痛手をこうむっている癖に、丙子椒林剣だけは手放していないのは自分でも呆れてしまう。
この剣を無意識のうちに盾代わりにしたおかげか、致命傷は受けずにすみ、骨も折れていない。
だが全身を襲った衝撃は酷く、全身の関節が軋むようだ。
そこで錬は今までの状況をやっと思い出した。
慌てて周囲を見渡し、ゼロの姿を探すが―― 無い。
残骸に埋まったまま死んだと思い、立ち去ったのか……
今までの死闘から開放された事で気が緩んでいたのか、そんな楽観的な考えを浮かべた。
錬らしからぬ失態、その罰は即座に訪れた。
「……助か――!?」
瞬間、錬は後ろから頭をつかまれ地面に叩きつけられていた。
容赦ないその一撃で意識が跳びかかるが、激痛ですぐに目覚めさせられる。
一撃だけではない、何度も何度も叩きつけられる。
額が割れ、血が決壊したダムの水のように流れ、コンクリートを紅く染めた。
「――ぁ…… が……」
「はははははは、捕まえたぞ雑魚が」
言うまでも無く、ゼロの声だった。
錬が反応できないほどの速さで、錬の真後ろに回ったのだ。
油断さえしていなければなんとか危険を感じ取り、回避する事ができただろう。
だがすでに錬は捕まり、逃げる術はもはや無い――
ゼロはまたも錬を地面へと叩きつけた後、無造作に蹴り飛ばす。
受身もとれないまま、ビルの壁に叩きつけられた錬は多量の血を吐いた。
肺を痛めただけではない、おそらく病気によるダメージがこれまでの容赦ない攻撃によって表面化したのだ。
ここまで痛手を受けた以上、錬はもはや戦える状態ではない。
それを知っているのか、ゼロはまるで見せ付けるようなゆっくりとした動きで錬へと歩いてくる。
暴力の喜びに、その顔は歪んだ笑みに染まっていた。
醜いその笑顔に錬は顔を嘲りに歪める、それにゼロは怒りに顔を染めた。
「たく、俺はこんな奴に永遠を失わされるところだったというわけか……
どうしてくれる、錬。 お前みたいな屑に屈辱を味わった俺の怒りを、さァ!」
またも蹴り飛ばされ、錬は地面へ叩きつけられる。
地面へ大量の血が広がっていく、だがおそらく出血によるショック死より、ゼロに嬲り殺されるのが先だろう。
その死へと向かう中――
――いまさらながら、錬の視界が緑に濁っていく。
普段とは違い苦痛がなく、無垢なるによる精神支配にしてはあまりにも大雑把な汚染だった。
その様子で、錬には無垢なるが慌てているのが手に取るように分かった。
(宿主が死ぬかもしれないからか……)
でも、それでいいかと錬は思う。
こんな奴(ゼロ)に殺されるのは不愉快だが、無垢なるを慌てさせたのは愉快だ。
ここで死ぬのも―― ありかもしれない。
そんなことを考えて――
緑の視界の中で、錬は――
《死なせてなるか!》《死なせない》《こんなところで》《お前を》《死なせてなるか!》
――何人もの声が、聞こえた気がした。
瞬間、そう、まさにその瞬間だった。
錬の脳裏に、知らない知識が浮かんでいく。
それは無垢なるが錬へ伝えようとする何かだ。
無垢なるが錬にこの状態を打破する方法を教えようとしている――
与えられた知識のほとんどは、雑音混じりで解読できない。
無垢なるの知識は人間とは認識の仕方が違い、錬の精神では翻訳できないのだ。
だがその中で、長い時間をかけて、現実には一瞬でその知識は形を作り上げる。
……そして形を成したのは、エギテレィスとの戦いの光景だった。
夜月が錬の力を借りて、紅の魔術を使った瞬間。
それが何だ―― そう思ったが、手に入れた知識がそれだけではない事を教えていた。
そう、夜月が錬の能力を使えるなら――!
錬に夜月の能力が使えないはずがないと―― 無垢なるが錬に咆哮する!
「死ね、錬」
夜月の能力にアクセス――― 神無を選択、発動。
錬へ振るわれた拳、それを迎え撃つのは錬の左手。
それごと破壊しようとした拳は、錬の左手に触れた瞬間、黒い泥となって散っていた。
ゼロを構築する無数の獣たち、それを具現化するための擬似たんぱく質、それがつながりを絶たれ崩れたのだ。
とっさに下がって間合いを取るゼロ、その体が錬に触れられた場所からゆっくりと崩壊していく。
「何っ――!?」
「お前の体が、真っ当な人間じゃなくて助かったよ」
これ以上の崩壊を防ぐためにゼロは自分の右腕を肩から切り離した。
その直後、切り離した腕は黒い泥となり地面へ広がった。
ゼロは錬が触れた事で発生した異常を再確認する。
触れられた瞬間、感覚がなくなり、自分を構築する力がその意味を失って消滅した。
それにより自分の体が本来の形である生命の泥に還元されたのだ。
だがこの力は自分のオリジナルで、紅の魔王でも解除するにはかなりの時間を要するはず……
なのに、触れただけで、しかも一瞬にも満たない時間でゼロの腕は完全破壊された。
――ありえない。
「何、だ――!?」
「夜月、ありがとう……」
ゼロは見た―― 俯いていた錬が顔を上げる、その瞳の色は――
右目の蒼、左目の紅、二つの異色なる異形の瞳。
錬は右手に丙子椒林剣を持ち、左手を数回ほど試しに動かす。
使い方は分かった―― 後はこれで――
「ゼロ、お前を否定してやる」
「――ッ!?」
異能同時発現、破壊と神無の力の同時発動。
今の錬が使う力は、それだ。
何もかもを破壊する力と、全ての人外を否定する力。
錬の、人外の知識すら超えた超常の異能。
錬はあふれ出す力と、今まで散々に痛めつけられた事への怒りに身を任せて――
ゼロへと突貫した。
次回 縁の指輪
五の指輪 八刻目 それぞれの戦い