強襲人形、旧第四世界にて使用された人型兵器の名である。
巨大な四肢を振るい、専用の剣で城を破壊し歩兵の武器を装甲で弾く強力な兵器だ。
しかし、その最大の特徴はその独自のエネルギー源にこそある。
『神の血結晶』
人形の炉心は、中核部分『神の血結晶』と搭乗者を精神的に接続することで動力を生み出す。
だがこの一見、何の不便も無くエネルギーを生み出せるこの物質にも弱点が存在する。
この世界のみ発掘される超物質である『神の血結晶』は鉱物でありながら命と精神を持っているのだ。
それに精神を接続する事は、すなわち精神が混ざり合うというコト。
………簡単に自我など崩壊してしまう。
それを阻止するために作られた指輪、これは精神と精神に『壁』を作るシステムを持っているのだ。
コレを用いることで人は精神を安全に接続する事が出来る。
「つまり『黒月の指輪』とは」
「旧第四世界の物質。 霊体を持つ超物質『ヒヒイロカネ』製の指輪――― 神の指輪だ」
フェンリの話を切り株――― フェンリが素手で木を切り倒して加工した ―――に座りながら錬と綾美は聞いていた。
指輪が異常な性能を持つ魔道具であると知ってはいても、その原形が兵器だったとは予想外。
世界が複数存在している事も驚愕だったが、その恩恵を指輪という形で受けていた錬は簡単に受け入れる事が出来た。
いや、受け入れるしかない。
彼女が、ここまで真っ直ぐな女性が嘘をつくはずなど無い。
「本来ならこっちの指輪を送る気だったらしいぞ昼夜は。
だが製作が間に合わなかったから最低限の加工だけをした急造品をお前に応急処置として渡した」
「それでやっと完成したってわけか…」
「あの時の昼夜はなかなか刺激的だったぞ、あそこまで真摯でひたむきな昼夜などその前は想像すらできなかった」
「昼夜姉さん………」
錬は呟きながら自分の指にはめられた新たな黒月の指輪を見つめた。
今までの指輪などまるでガラクタに見えるほどの力を持っている。
『瞳』を開いていない今の錬でも指輪の魔力を感じる事が出来るほどだ。
現に紅の魔術によるダメージは数分ほどで感知していた。
今までとは回復力も比べ物にならない。
「しかし指輪を手にいれたところで、お前の無垢なるが消えたわけではない」
「ああ……… 分かる、魂の奥底で何かが叫ぶ声が聞こえてる」
それは実際には音にならない、現実に無い声であった。
だが錬だけにはその忌々しい声が聞こえている。
錬を闇へと誘う暗黒が。
「それがお前の最大の怨敵だ。
お前はこれから、それを滅ぼす術を――― この真なる黒月の指輪が壊れる前に見つけなければならん」
「大体… どのくらいだ」
「もって、あと一年」
それが錬に与えられた正気のリミットだった。
超えれば死すら超える狂気の世界への。
錬の存在そのものの、制限時間………
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始まりの終わりより―――
縁の指輪
―――終わりの始まりへ
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「まったく、フェンリから聞いた時は心臓が止まったわよ」
「大げさだな」
山道をくだり、麓へ降りてくれば待っていたアスラルが跳びかかって錬へ抱きついてきた。
そのままぎゅっと強く抱きしめる。
今までの精神的負担から開放されたせいか、自分が何を行なっているのかもわかっていないようだ。
それで少し嬉しそうな錬を見て、綾美が冷たい目をしていた。
「いいかげん離れたほうがいいのでは」
「ええそういえばそうね」
しかしすぐに綾美はアスラルの心中を察して微笑みながらアスラルへ提案した。
その言葉にアスラルはふと正気に戻り、錬を解放する。
錬はそのまま、ゆっくりと地面へ座り込んだ。
「今回はヘビーだったよ」
「話は聞いてるわ。
フェンリは聖十字のつながりを辿って“無垢なる殺し”の方法を探すらしいわよ」
「たぶん見つからないよ――― 方法は俺の中にしかない」
「そうね、敵は貴方の邪悪な部分そのものなんだから」
無垢なるは錬の精神へ住まう存在。
それを他人がどうにかする事はできない、結局の所、無垢なるヘと戦いを挑めるのは寄生されている人物しかいないのだ。
錬の無垢なるを滅ぼせるのは錬以外ありえない。
自分を救えるのは自分だけ、他人は手伝う事しかできないのだから。
「邪悪、違うよ――― やはりあれは“無垢”なんだ。
自分以外を知らない、だから――― 俺たちの世界から見れば邪悪なんだ」
視点と立っている場所が違うといえばいいのだろうか。
無垢なると人間はまったく別の場所にいて、違う視線で相手を見ているのだ。
あくまで無垢なるが邪悪というのは人間のものさしでしかない。
「でも… 無垢なるが“邪悪”とか、“無垢”とか関係無い」
錬が底冷えする声で、囁くようにその言葉を吐いた。
そして綾美とアスラルが共にうなずく。
「無垢なるを、殺す」
血が錬の唇より流れる、錬自身が自分の唇を噛み切ったのだ。
その血を舐め、その味を感じ、その痛みと、その鉄の味で、自分が人間である事を再確認する。
まだ時は満ちていない、時間はある。
「俺が、生き残るために」
人は所詮、他を犠牲にしなければ生きてはいけない。
ならその犠牲者に自分がなる前に、相手を食らうまでだ。
肉食獣を餌にする肉食獣がいれば、まさにそれが錬と無垢なるの関係。
加える前に自分の牙を突き立てて喉を噛み千切り、喰らうまで。
できなければ、自分が相手の腹を満たす贄になる。
「何より、あんな屑に俺を利用されてなるものか」
「当然です」
「何を今更」
その言葉に綾美とアスラルがうなずく。
これからの目的は、三人とも同じだ。
そして三人は錬の家へ足を進め始めた………
―――空港。
予想より早く再度訪れた場所でネェムレスは携帯電話に偽装した聖十字専用通信機へ耳を傾けていた。
ネェムレスがかけたわけではない、向こうからこの通信はかかってきた。
あまりのも予想の上を行く相手にネェムレスは戦慄を隠せずにいる。
相手は――― 聖十字の最高幹部。
『君の飛行機が出そうだから、間に合ってよかったよ』
「一便くらい遅れても構わんよ」
『こっちが困る。ただでさえ事態は切迫しているんだ』
「用件を」
ネェムレスが緊張で震える声で言う。
相手の威圧感はまさに異常というべきだった、一度信号に変換され復元された音のはずなのに。
身が、凍りつく。
バケモノか… とネェムレスは心中で叫び、乾いた喉へ唾を飲み込んで強引に潤す。
こうして離しているだけで心身が消耗しそうだった。
『探してほしい妖怪がいる、彼女が錬には必要だ――― そして君にもね』
「何?」
『君の失った記憶、錬の“無垢なる”の殺害、この二つが行なえるのは四つの世界を探しても彼女だけだ』
脳が停止したと思った。
“自分の失った記憶”、普段は気にもしないそれが彼の声で聞いたらまるで神話のリンゴのように魅力的なモノに思える。
ここまで魅力的なら、たとえアダムやイヴでもそのリンゴへ手を伸ばすだろう。
「誰を、探せばいい」
『世界最古の九尾―――“妲己(だっき)”の子だ』
「だ、っき……… 神話級の妖怪じゃないか!」
『ああ、そうだな。 本人ではないが、さすが狐……… “こっち”では見つけられないんだ』
その言葉にネェムレスは軽く驚く。
聖十字軍の情報収集能力はかなり高い次元を誇る、それこそ“現在の『神』の位置”を知っているほどに。
そんな彼らが見つけられないとは…
「無理だ、お前達が見つけられん者をどうしろと」
『一つだけ、ある。 “妖狐の村”にいけば、まだ“彼女”との接点が残っているはずだ』
「………そうだな、たしかにそういうことなら俺と姫椿しかできないな」
妖狐の村がある場所は“この地球には無い”。
虚層回廊といわれる“第二世界の裏側”に存在する村へは、その村に住まう者に望まれた者しか行く事は出来ないのだ。
かの紫の魔王すらその異界に行くには命をかける必要があるという。
だがネェムレスは違う。
彼の覚えている一番古い記憶にて、彼がいた場所こそが“妖狐の村”なのだ。
そして一度、そこに居た者を異界は拒まない。
『報酬は弾むぞぉ〜 戦車一台、欲しくないか?』
「いらん」
『今ならM1エイブラムスを… 嘘だ嘘、まあそれぐらいの報酬は出るという話だ』
「………受けよう」
『詳しい話は北海道支部で』
通信をネェムレスから切る、幾度か聖十字からの依頼を受けており、この形式の依頼には慣れている。
聖十字をはじめとする裏の組織の通信は高い技術力で暗号化されていが、それでも完璧ではない。
万全を期して、内容は口で伝えられる。
「それでは北海道への予約を入れてまいります」
「ああ頼む椿」
通信を終えたのを見計らい、声をかけた姫椿にネェムレスは答えた。
そして予約を取りに歩いていく彼女を見て、違和感を覚える。
普段の彼女ならネェムレスの頼みというだけで、大喜びの上でスキップしかねない。
なのに、今の彼女の後姿は悲しげに見えた。
だがすぐにその理由を悟る。
これより行く妖狐の村は彼女にとって、禁忌といっていいほどの場所。
いくら依頼のためとはいえ、彼女にとってあそこに行く事は拷問と何も変わらない。
「また、傷つけたな………」
いつだってそれに気づくのはもう何も出来ない終わったあと。
あの時のように彼女を傷つけて、ネェムレスは深く後悔した。
「どうすれば、いいんだろう………」
いっそのこと、“記憶が無いことも消えて”しまえばよかった。
そうすれば記憶などに縛られる事など無いだろうに。
「どうすれば………」
地獄に落ちる覚悟はあった。
むしろ死後も楽になれないことなど当の昔に覚悟済みだ。
しかし――― 速すぎる。
あまりにも――― 酷い ―――速過ぎる!
「ッ………」
大量に口の中にたまった血を吐き捨てる。
治らない、この血は決して止まらない。
血栓が出来ようが、絶対に止まらない、実感と確信。
今、昼夜は――― 死へと向かっていた。
錬に、正確には錬の無垢なるに受けた破壊の因果は、昼夜の無死の呪いすら超えたのだ。
すぐには死なない、限りなく不死の体は血液がなくなったぐらいで死にはしない。
だが――― いつか死ぬ、間違いなく死ぬ。
望んでいた、死だ。
「ぃゃ……… いや………」
なのに、今の昼夜はそれに恐怖を覚えていた。
この体になってから死に恐怖を感じる事など無いはず。
だが――― なのに。
「まだ錬が………!」
それが昼夜を生へ縛る楔だ。
ただなんとなく、出会っただけの他人だった――― 最初は。
しかし望まれないモノを持つせいで苦しんでいたのが、自分に重なって見えた。
だから最初は自己満足に過ぎなかった――― いつからだろう、錬の存在が自分にとってもっとも大事な者になったのは。
「死にたくない――― まだ、死にたくない―――
死に、たくないよぉ…………!」
薄暗い森の中、木に背中を預けて昼夜は泣き顔で呟き続ける。
啼いて啼いて泣いて鳴いて泣いて泣いて泣いて………――――――
そして、顔を上げた。
「始めまして」
「………梓織ちゃん… ね」
そこにあの漆黒の少女が、いつの間にか存在していた。
彼女の容姿を見て、昔錬に聞いた姉の話を思い出す。
その話で聞いた外見を、歳相応にすれば間違いなく、この少女になるだろう。
すなわち――― 彼女は死織と同じ姿をしていた。
「死にたくない?」
「――― ずっと死にたいと思ったのに、本当に死ぬと思うと――― 駄目だった」
「死を覚悟なんて誰にも出来ないから、悲しむ必要は無い」
誰よりも死を理解しているはずの少女がそう断言する。
「―――死から、貴女はもう逃げられない」
「………絶望しろと」
「したければしなさい、その前にやれる事があるでしょう」
突き放すような、冷たい声だった。
だが決してその冷たさは死を思わせるものではない、そうではなく今の昼夜に普段の彼女へ戻ってほしいという想いからの物だ。
「………そう、よね」
その“暖かい冷たさ”を感じて、昼夜は何とか立ち上がった。
「死ぬ者の意地を、見せないとね」
死ぬのは、もう逃れられない――― こればかりはどうしようもない。
だがまだ時間は有った、ただ死ぬのではないのだ。
その残り時間、それを生かすのも殺すのも――― 彼女自身が選ぶもの。
もう、泣いている余裕など無い。
たとえ後世から最悪や悪魔と罵られても、やらなければならない。
昼夜は立ち上がった。
そして、迷い無く、歩き出した。
その決意に溢れた背中を――― 秋雨梓織、本当の錬の姉は静かに見ていた。
数時間、たかがそれだけしか離れていないはずの家は何十年ぶりに帰ってきたかのように感じた。
いやそれに匹敵するほど、今日の出来事は激烈なものだ。
過去、前世の記憶――― 救えなかった命と叶えられ願い。
死織の正体、そしてその末路へと止まる事無く進む自分の最後。
残りの、時間。
「どうすればいいんだ… くそ」
どうすればいいかなど、分かる訳が無い。
そして考えれば考えるほどに、死織の笑い声が思い出されるのだ。
自分とそれが重なり、指先が震える。
―――震えた指じゃ、上手くできない。
まだ可能性が尽きたわけでは無い、幸いこちらには聖十字軍という巨大組織のサポートが存在する。
かれらなら何らかの手段を見つけ出す頃が出来るだろう。
だがそれを逆に言うのなら、錬自身にできる事は無いという事だ。
組織の力に個人が敵うわけが無い。
―――そうさ、だから今は自分に出来る事をする。
ただ待っているのは、心身を消耗させるはずだ。
しかし心の消耗は無垢なるの汚染を進める事になるだろう。
なら、例え無駄と知っていても自分の道を進み、自分に出来る戦いをするだけだ。
―――さぁ、やろう。
まずは何事も無いように自分の日常を過ごそう。
何時ものように綾美とアスラルに食事を作って、綾美と家事をして―――
地獄へ錬を導こうとする無垢なるに、散々幸せそうな自分を見せ付けてやろう。
―――!
…………………
……………
………
…
「――――え」
まるで寝ぼけていた状態から、一瞬で目覚めたような気分だった。
手を伝って流れる生暖かいそれが、錬を目覚めさせたのだ。
その赤く、紅い、命の水ともいわれるそれは――― 鮮血。
「血の… 跡?」
すなわち―――
「ごふぁ………」
大量の血が、口からあふれ出した。
床へぶちまけられた鮮血は、極々普通の血だ。
だからこそ、その異質さは目立つ。
そして直感的に錬は自分に何がおきているのかを理解した。
吐血をしたのは、血が血に拒絶反応を起こしているせいだ。
錬の退魔士としての血と、吸血鬼として血が互いを敵だと理解した事により、殺しあっているのである。
そのダメージにより、気管の何処かが出血して吐血したのだ。
すさまじい苦痛だった… 錬が、戦い慣れをしている錬が床に倒れ伏せるほどに。
「がッ……… ごふぉ……が、は………」
まともに息が出来ない、指輪が再生しているだろうが、遅い。
思わず強く喉を掻き毟るほどに、苦しい。
―、―――――――――!
何処か、遠いところから声がする。
その次の瞬間、苦痛が消え去った。
苦しさのあまり、発狂したかと錬は思うほど、唐突な苦痛の終焉。
だが気づいたとき、目の前にいた女性を見てやっと悟る。
アスラルが精神を操るその右の魔眼で錬の精神から痛覚を遮断したのだ。
苦痛のあまり、濁り停止していた思考がやっと再開する。
「錬、一時しのぎだけど…」
アスラルが何か粉末状の薬を錬に飲ませようとするが、錬はそれを口に入れることができなかった。
さきほどまでのダメージでろくに体が動かない。
薬を飲めないほど消耗していると分かったアスラルは口に薬を含んだ。
そしてミネラルウォーターをペットボトルより取り出し、その水も口の中に含む。
戸惑う事無く、錬とアスラルの唇が触れ合った。
そのまま口移しでアスラルが薬を錬の口へ流し込む。
恥ずかしさと心地よさで心臓が止まってしまいそうだったが、錬は何とか薬を飲み込むことが出来た。
「今…… の、は」
「聖十字軍の半獣人が使う薬、獣人と人間の間に生まれた子供はよくこういう症状が出るから」
「あ………あ、そう、いう…… ことか」
「綾美ちゃんは何とか誤魔化したわ。 …いつからこうなったの?」
「初め、て……だ よ、こ んな…こと」
その言葉にアスラルは驚愕した。
顔が青ざめている、信じられないといわんばかりだ。
「嘘よ、初めてでココまで酷い症状が出るなんて!」
「……………本当、だ」
「……はっきり言うわ、こんな症状がこれから続くなら――― 一年も持たない、もっと早く貴方は死ぬわ」
ギチリ、と空気が肺から搾り出された。
思わず錬が悲鳴をあげそうになったせいだ、たった一年、たった一年の期間は――― まやかしだった。
「この症状が出た半獣人の死亡率は30%、今の貴方まで症状が悪化した場合は――― 90%以上よ」
「はは……… 酷い話だ」
「―――錬!」
「何で、こんな、目にあわなければいけない!」
目の前のアスラルに噛み付くように、錬が吼えた。
彼女はその剣幕に、いやそれ以上に目の前の錬の顔に驚愕していた。
――― 泣きそうな顔をしていた。
たとえどれほど死線を越えてきたとしても、彼はまだ中学生なのだ。
それなのにこのような――― 一年という正気の制限時間、9割以上という高い死の割合を誇る死病の発病。
まだ少年といっていい彼には、あまりにも残酷すぎる運命だった。
「まだ――― 生きたいよ、まだお母さんの顔だってろくに見たこと無いのに――― 今までの事謝って無いのに―――
なんでこんなに目の前には死とか滅びとか破壊とか、そんなものしかないんだよッ!」
「錬…………」
言葉では、もう意味など無い。
昔、盲目のせいで苦しい思いをしていたアスラルだからこそ、今の錬の苦しみが分かった。
言葉ではもう遅い、言葉は確かにすばらしいが万能ではない。
だから………
やさしく、アスラルは錬を抱きしめていた。
「ア… ス、ラル?」
「泣きなさい、泣き声は私以外に誰も聞かせなくするから、思いっきり」
「ぅ…うぅ…………ぅ… ぁ…ああ… ―――――――――!!!」
それはまるで赤ん坊の産声にも似た、全身全霊を込めた叫びだった。
アスラルは、錬の強いところばかりを見ていた。
強力な異能、戦闘のセンス――― 聖十字という組織にいた彼女は彼のそんなところばかり見ていた気がする。
けど大の大人でも持っていないような力を持っていても、錬はまだ15の中学生。
こんな現実は、余りにも重過ぎる。
「本当……… 酷い話」
ポツリと、アスラルは呟いた。
それは錬の号泣でかき消され、彼女自身の耳にも届かない。
だけど、錬にはアスラルが悲しんでいるのが触れ合う肌から感じられた………
荘厳な音楽が流れていた。
―――――! ―――――! ――――! ――――! ―――――!
ヘンデル作「メサイヤ」。
ハレルヤという単語を聞けば、この曲がどんなものか思い出す者も多いだろう。
ヘンデルが生み出した最高傑作、死の前日まで彼はこの曲を演奏し続けた。
その荘厳な音楽が満たすのは漆黒の部屋。
部屋には時計の数字が存在する方向、1時ごとに一つの棺桶が置かれている。
そしてその棺桶は一つを除き、開いていた。
「何時まで寝ておるのじゃ?」
部屋の中央に備え付けられたレコードの隣、そこに置かれた椅子に一人の少女が座っていた。
老人めいた口調をその可愛らしい声で呟くのは違和感が溢れている。
芸術的な細金細工を思わせる長く細い金髪をポニーテールにまとめ、その年齢に合わない血のように紅い口紅を差していた。
13歳ほどのアメリカ人の少女と遠目ならいえるかもしれないが、その容姿や気配はそれに合わないほど淫靡だ。
「起きよ――― “トロメア”!」
「せっかく気持ちよく死んでたのに起こすなよアンリ姉さん」
一つだけ閉まっていた棺桶が勢いよく内側から開かれた。
そしてその中から現われたのは言うまでも無い――― あのトロメアだ。
死んだはずの――― 世界者。
「何を言うのじゃ、どうせ出していたお主はストックじゃろうて」
「違う。 真面目に戦った、まあ“本体”は使っていないがな」
「当たり前であろう。お主の本体など出してはあの一帯が壊滅じゃろうて」
とんでもなく物騒な事を言いながらも、彼らには笑顔があった。
余りにもその差は激しく、普通人なら吐き気すらしそうなほどだ。
「それにしても、ずいぶんと楽しそうではないか」
「ええ……… 最高の狩人に会えたからな」
「ほほう、それはよい事だ。 しばらくは愉しめそうではないか!」
闇の中に拍手の音が響く、少女の愉悦の笑い声が響く。
それは子供の無邪気さと邪悪さが共存した、悪魔の笑い声。
金髪の悪魔は高々と笑う。
「全ては妾の思うが侭… とはいかんが大抵はそうじゃ、退屈には刺激的な出来事が一番の特効薬であろう?」
「当然、死闘こそが我が生きる場所ゆえに」
「………秋雨錬か――― 妾も欲しくなったわ。 あれほど壊れかけの逸材はそうそうあるまいて」
瞬間、少女の髪が変容した。
髪は夜になった空のごとく漆黒に染まり、漆黒に染まった髪は自らほどけてもう一度集まり姫カットと呼ばれる髪型となる。
昔、平安の女性貴族がした、頬骨の髪の部分を顎の長さで整え、真っ直ぐに切りそろえた髪型。
その姿は先ほどまでと一転、日本人形を思わせる姿となっていた。
「妾、アンリ・マンユが命ずる――― トロメア、秋雨錬を堕とせ。 手段は選ぶな」
「…分かったよ母上」
瞬間、闇が晴れた。
暴力的というべきほどの光が一瞬にして出現、その場の闇を薙いだのだ。
「いたかカイーナ」
「はは、母上。 今は『秋雨刀冶』と呼べよ」
「うふふ… そうであったな」
黒子のように真っ黒な装束を着た人型が、いまだ部屋の隅に漂う闇より剥離する。
黒い仮面を外すとその下から『秋雨刀冶』の顔が出てきた。
だがその顔に浮かぶいやらしい笑みが、彼が刀冶ではない事を明らかにしている。
「刀冶の持っていた資料、全部手に入れたぜ… はは、最悪の俗物だよ、コイツは」
そういいながらカイーナは自分の顔を、刀冶を指差した。
笑みがいっそう深まる。
「こいつは自分の欲望に負けて、孫を利用したのさ」
「ほう、それは興味をそそる話しよ、妾にも聞かせよ」
カイーナはゆっくりとした動作で彼女へと近づき、その耳元で自分の見つけた真実を呟く。
聞けば聞くほど、少女の笑みは深まる。
そして語り終え、カイーナが離れる時には、彼女は高々と哄笑していた。
「うふふ、ふは。 ははは、はははは… あ―――はははははははははははははははは!
愉快愉快、愉快じゃ、愉快じゃのう! この世の中、まだまだ捨てたものではないわ。
こんな糞野郎がいるとはのう! あ――――――はははははははははははははははは!」
闇は闇としてソコにある。
たとえ明るい部屋でも、そこは、まさに世界の暗黒、そのものだった。
次回 縁の指輪
五の指輪 一刻目 聖十字軍<キャラバン>