――――♪ ♪〜♪………
その軽快なメロディーが聞こえてきた時、フェンリは帰還の最中にあった。
お気に入りのアニメソングで設定した、携帯の着信音。
そんな絶世の美人には似合わないメロディーを、ボタンを押す事で止める。
「んー、私の知り合いにこの番号にかけてくる人、いたっけかなぁ?」
実は彼女はこの携帯電話をろくに使用した事が無かった。
聖十字の経費で買わされた物なのだが、重要な連絡はほとんど専用の通信機で行なうため携帯をそれに使用することは無い。
あげく携帯電話で話し合うほどの友人達は例の通信機を使用するので、この携帯は全く使用されないのだ。
「はいはい、こちらは『神喰い狼』です」
『あ、あの………』
「―――誰だ、キサマ」
フェンリは相手の声を聞いた瞬間、戦闘を行なうための思考へ自分を変更した。
一度も聞いた事が無い声だった、それが自分の携帯にかかってくる。
悪戯などでかけることができない、そんなふうにできているこの携帯に。
『え、えっと秋雨錬って言います』
「秋雨、錬……… 何、まさかお前が?」
思わずフェンリは自分の耳が狂ったかと思った、なんでこの電話に、送り主が出てくるのだ。
そしてふと、血の気が引いた。
今、指輪は何処へ向かって、運ばれている?
「待て、秋雨! お前は今、何処にいる!?」
『えっと………』
「昼夜がいるな!」
『いますけど―――』
最悪のパターンだ、そもそも昼夜よりの連絡は『神社に錬がいる』と今回は設定されている。
そして今、指輪は見当違いの方向に進んでいる。
時間的にもう余裕は無い、手加減している暇など無い。
「5分だ、それまで待て少年」
返事を聞く前にすでにフェンリは駆け出していた、虹色の光がその足を包む。
異能が現実へ侵食する時に放たれる『異界の光』、異能の力が強ければ強いほどありえない現象を引き起こす異能者の必ず持つ特殊な力場。
最強の異能者、その一人であるフェンリの放つ『異界の光』は物理法則をも突破する。
衝撃波がさきほどまでフェンリがいた場所を揺さぶる。
一瞬の内に、生身で、フェンリは音速の壁を突破したのだ。
だがすぐにその音の壁を突破した故の衝撃も消える、いや停止する。
フェンリは駆ける時に音を立てない、一瞬で彼方より来て敵を引き裂き消えていくのだ。
普段の彼女が発動する能力は実際の能力が誇る現実停止の一側面に過ぎない。
「よ、見っけ、っと」
1キロ近く離れた先の彼を見つけて、フェンリは呟く。
一気にその距離を零に、そして彼がその手に持つ『それ』を奪う。
そのとき、その人物と目があった。
当然だ、フェンリの生み出した空間に彼も入ったのだ、同じ時間に自分達は存在するのだから。
「な、フェンリさん!?」
「囮役ごくろうさま、帰っていいぞ」
弘平はいないはずだった自分の上司が目の前に突然現れ、運んでいる物を持っていく事に悲鳴に近い疑問の声を上げた。
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縁の指輪
四の指輪 六刻目 覚醒する“血〜戦神〜”
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「感じるでしょう、綾美ちゃん。 ………異質な何かがいる違和感を」
「………はい」
「覚えておきなさい、世界者とはこの世界にいながらいない… そんな世界の異物なのよ。
だから常に違和感を纏って存在する、奴らと貴方達は絶対に敵対する…から」
昼夜が巨大な弓を用意しながら、鷹のような目で遠くを見ながら、言う。
戦慄が走るほどその声は、世界者への怒りに満ちている。
そして悲しくなるほどに綾美と錬の事を思っていた。
「来るわよ、トロメア…… コキュートス03、最悪の錬金術士が生み出したホムンクルス」
「ホムンクルス?」
「人間を模して作られた自動人形の事、ただし模した対象は世界者、その性質の一部を引き継いでいるわ」
「世界者――― アンテノーラ………!」
「コキュートス02ね、あの糞尼ね。 覚悟しなさい、世界者は―――そのぐらいか、それ以上に邪悪よ」
嘘だ、綾美は叫びそうになって―――しかし、そうだろうなと感じてしまった。
あの狂気が骨格となり構築された精神を持つあのバケモノ以上の異形。
だが綾美には不幸なことにソレが想像できた、吐き気がするほどおぞましい存在を想像し、気分が悪くなる。
しかし、もしも昼夜が綾美の想像をしている物を見たら悲しげに笑いながら言うだろう。
まだまだ生易しいと、そんなくだらない物では無いと――― まだ地獄はその程度の浅さでは無いと。
その時だった、昼夜が彼方を見つめて呟いたのは。
呟きこそ、戦闘開始の合図となる。
「速い… 音速とはいかないけど、これは苦戦しそうね……… ―――来る!」
弓を射るには矢が必要なはずだ、しかし昼夜の矢を取り出し、構え、射るという動作はあまりにも早く矢が見えない。
まるで宙を画板にして描かれた線のように、残影すら残すほどの速度で“5本”の弓が走る。
それが飛んでくる何かを迎撃した。
閃光が走る、数は5……… 神速の矢は神速の拳で迎撃される。
向かってきたのは人型、しかしけっして人では無い。
漆黒のコートを翼のように広げた少年、世界者のホムンクルス『トロメア・コピー』。
「―――やァ!!」
掛け声とともに両手の爪を鉤爪へ変化させ、綾美が飛ぶ。
爪の放つ二連の斬撃、それをトロメアは拳で打ち落とす。
ありえないと驚愕する綾美の顔面を、間合いを詰めて鷲づかみ、そのまま力を込めて粉砕しようと―――
「油断しないで綾美ちゃん!」
弓を刀のように構え、昼夜が突撃した。
その重過ぎる弓は遺憾なく鈍器として機能する。
重い音を立てて弓はトロメアの顔面とぶつかる。
かなりの衝撃だったらしくその手は綾美を離し、後ろへ仰け反り血を吹く。
赤い血をトロメアは流すが―――赤いという事は人間に擬態する余裕があるという事だ。
トロメアが倒れようとしながらも、その手を昼夜へと伸ばす。
「やばッ―――」
伸ばされる死をもたらす腕、構える弓は重くそれを叩き落すにはあまりにも不向き。
その手が昼夜の首へ触れようとしたとき、綾美が動く。
「おりゃ――――!」
ハイキックが決まった、蛙の玩具のようにトロメアは吹き飛ぶ。
だが空中でそのコートを広げ姿勢を立て直した、そして加速―――綾美へと襲い掛かる。
トロメアの放つ拳と綾美の鉤爪が激突する。
爪が折れた、破片となって飛び散る――― そして、続いて放たれた蹴りが綾美の腹部に突き刺さった。
「――――ッ!」
軽々と、しかしとんでもない勢いで綾美は吹き飛ばされ木に激突して止まる。
息が止まる―――普通の人間ならこんなダメージを食らえばまともに動けないだろうが綾美は違う。
昼間とは言え吸血鬼としての体はこのダメージに耐えて見せた。
「このぉ!」
昼夜が弓を構える、矢は明るい光を纏い―――光の矢となる。
『破魔の矢』―――極々一般的な、弓を使う魔を滅ぼすための技。
だが昔、最高位の獣巫女―――魔物への殺し屋―――であった彼女のそれは圧倒的な威力を持つ。
放たれた矢はもはや矢といえる品物ではなかった。
ビーム兵器と勘違いしそうな閃光が横へ走った、トロメアはその直撃を喰らって、その右半身を失う。
しかしすぐに何事も無かったかのように再生する。
「駄目ね、私じゃ………」
当の昔に知っていた事だが実際に戦ってみて、世界者には勝てないという事を実感する。
勝てるとすれば錬だろう、彼の破壊する力は彼らの不死すら破壊できるはずだ。
だが今の錬にとって戦闘は即死の猛毒だ。
そこまで思考を疾走させて、昼夜は次の攻撃の準備に入った。
結論として、結局のところ、錬が戦えるようになるまで此処を死守するしかないのだ。
いざとなれば自分を盾にしてでも――― それを覚悟した時、昼夜はそれに気づく。
「――――キサマっ!」
トロメア・コピーは昼夜に見向きもしなかった。
綾美へ追撃をせんとその翼を広げている――― その目的はすぐに分かった。
この場にいる中でもっとも弱い綾美を真っ先に殺そうとしているのだ。
戦闘の常識で考えれば弱い相手を狙うというのは当然だ、しかしそんな理屈以前に許せないと思った。
昼夜は弓を構える、今までの構えとは違い騎士が槍を持ち突撃しようとしている様に見える。
「逝け、光輝の弓!」
放たれた矢は、昼夜自身。
魔力とマナを融合、精錬して生成した力を纏っての単純な体当たり。
だがそれは矢に力を込めて放つ破魔の矢とは違い、込める力は段違いだ。
昼夜は空を断つただ一つの矢となる。
超加速が止まり、昼夜は止まろうとする。
しかし勢いが付きすぎたせいかなかなか止まらず、数十m進んだところでやっと止まった。
だがその分、その威力も絶大であった。
昼夜が駆け抜けた道には何も残っていなかった。
強力な力により何もかもをなぎ払い、文字通りに突き抜けたのだ。
「昼夜さん!」
「慌ててどうしたの、さすがにこれを喰らえばすこしぐらいは―――」
続く言葉の代わりに血が吐き出された。
それはいつの間にか、昼夜の背後にいたトロメアが放った手刀、それが肩から胸までを引き裂いた故の吐血。
………突撃は確かに強力だった、しかしトロメアは一撃を喰らいながらも昼夜に追随し、背後に回っていたのだ。
ほとんどの力を使う大技ゆえの、放った後の隙を狙うために。
「くはぁ…」
「よくもぉ!」
怒りに燃える綾美のトロメアへの奇襲はとんでもないものだった。
巨大な岩石を両手で持ち、トロメアの頭部に叩き込んだのだ。
岩石が砕け散り大量の血が飛び散る、人間なら頭が丸ごと抉れるような凶悪な一撃。
昼夜はその隙に自分に刺さったままの手を引き抜いた。
大量の血が流れるが昼夜はその程度では死なない、体ごと弓をフルスイングで後ろへと叩きこむ。
大きな音を立ててトロメアが吹っ飛んだ。
しかしすぐに立ち上がる、全く効いていない。
「本当に時間稼ぎしか、できないの………!」
綾美が悲壮感と怒りに溢れた言葉を漏らす。
それに昼夜は苦笑いで返した。
「それ以外、できると思う?」
「………ッ!」
分かってるのだ、綾美にもそれぐらい。
しかしアンテノーラに対する記憶が、その事実を許さない。
復讐を果たせないゆえの怒りが身を苛んでいるゆえに、綾美は冷静な考え方ができない。
だから普段しないような、無茶苦茶な攻撃を仕掛けてしまう。
思えば綾美が先手を取るというところからおかしいのだ。
消極的な人格の持ち主である綾美が何の迷い無く吸血鬼の力を行使して攻撃を仕掛ける。
昼夜は綾美の表情を見て、やっと気づくのだ――― 今の彼女は戦ってはいけないと。
「このぉおおおおおおおおおおおおおお!」
「綾美ちゃん、やめ―――」
その時、トロメアが動いた。
彼が拳を何も無い宙へと振るう、それは空間をガラスのように砕く。
砕けた先に広がる闇、真空の命が存在できない宇宙の闇、それへ両腕を突っ込んだ。
そしてその手が引き抜かれたとき、彼の手には巨大な剣が握られていた。
「――― 【聖剣】!?」
「そんな玩具――――!」
「怨(オーン)!」
台風にも似た一撃だった。
発生源たるトロメアを中心にして、周囲のモノが斬り刻まれて吹き飛ばされる。
綾美は皮膚を硬化させて防御するが――― ソレすら上回る一撃は彼女の右腕を斬り飛ばした。
彼女自身もその台風に対抗できず、吹き飛ぶ。
昼夜もそれを防ぐ術を持ってなどいなかった。
ただ距離が綾美より遠かったため斬り刻まれるという事は無い、ただその程度の差だ。
彼女も吹き飛ばされ、木へと叩きつけられる。
「きゃああああああああああああああああああああ!?」
「ぐぅうううううううううう!」
悲鳴が聞こえた時、心臓が凍りついた。
誰の上げた悲鳴であるなど、すぐに分かる――― 一緒に暮らしているのだから。
すぐに分かる、なぜなら小さな頃の自分を支えてくれた義理とはいえ姉なのだから。
錬の口内に血の味が広がる、唇を強く噛んだせいだ。
「なんで――― なんで、なんで……… なんで!」
こんな時に戦えない、戦わないといけないのに戦えない。
それはある意味、苦痛を与える拷問よりもはるかに残虐だ。
精神を切り刻むに、これほど容易で簡単なモノは無い。
「――――………!」
あまりに静かなこの神社は雑音で悲鳴を消してくれない。
いっその事、どんなに汚らわしい音でもいい、それがあれば悲鳴は消える―――
ワケが無い、聞こえなくなるだけだ。
それでは何の解決にもならない、少なくとも錬には慰めにもならない。
「待っていられるわけ――― 無いだろうにぃぃいいいい!」
一度、その言葉を吐いてしまえば後は簡単だった。
今まで抑えていた『戦ってはいけない』という理性の誓約はあっさりと千切れ、『戦わないといけない』という感情の思うが侭、走り出す。
指輪は外す必要は無い、罅が入った指輪では暴走する力を抑える事は出来ない。
力を解放したとき、後戻りできない黄泉路への旅が始まる。
―――だから、何だ?
錬はそう心の中、全力で魂の底から叫んだ。
戦わないとといけない時に戦えないのなら、死んだと同じだ。
駆け出す、何処に彼女達がいるなど分かるわけが無い。
しかしそんなモノは関係など無いのだ、行かないといけないのだから。
走り出してみて、錬は今の自分が出せる速度に怒りを感じた。
能力を用いている間はビルからビルへ飛ぶほどの身体能力を有している。
しかしそれに比べて今の自分の惨めさはなんだ。
能力を使ってなければこの程度、あの瞳がなければ自分は何も出来ない雑魚――― そう罵られている気がした。
「…………………くそ、くそくそ、くそくそくそくそくそ―――――くそぉおおおおおおおおおおおお!」
叫べば酸素を使う、走っているのに叫んだら早く疲れてしまう。
分かっている、錬だってその程度分かっている。
しかし叫ばずにはいられない、自分がどこまであの力に頼っていたのかやっと分かったのだから。
自分が憎んでいる力がなければ何も出来ない、その力に生かされていたことをやっと知る。
それが分かって、錬の心中では怒りや情けなさなどが混ざり合って錬を苛んでいる。
「―――――いいさ、だったら………」
錬はそれを思いついたとき、今までの悩みと悔やみが融けていくのを感じた。
知れず知らず、本人すら気づかない間に錬の口は笑みを作っている。
それは嘲りだった、自分への。
「堕ちてもいいさ、代価に俺がやりたい事をやるだけだ」
死織を思い出して、今度は自分の意思で笑みを浮かべる。
自分の『死織』はいったいどんなものなのか、想像してみるがあまりイメージが湧かない。
だからこそ、力を使うのに戸惑いは無かった。
指輪は嵌ったまま、力を解放する。
いちいち、もう指輪を外す必要は無い――― そこまでの力はもう指輪には無い。
――――― そして錬は、地獄の門を開いた ―――――
「――――痛………」
覚悟はしていた、あの汚毒が精神を蝕む事ぐらい………
だが一度能力を開放した時、それが甘い事を知る。
世界は白と黒だった、大昔の白黒テレビのような景色の中で緑の線が走っていた。
その線は世界の罅、自分がその存在の『破滅』を召喚するための陣。
破滅と現在を解け合わせ、破壊という忌み仔を生み堕とす。
意識が消えかける、だがもし消えたら気絶ではすまない、もう次は無い。
どんどんと加速的に自分の正気が磨耗していくのを実感していた。
そして知る、今見ているものは見えていけない世界の裏側であると。
世界という劇の舞台裏、それをのぞき見る者への制裁。
「………………」
言葉を失う、もはや喋るという行為も許されない。
一瞬でも気を抜けば世界へ“融けて”しまう。
それを無力化する事はできない、なぜなら自分もその一部なのだから。
■■という世界を構成する要素の、その一部であり核であるのだから。
「―――――!」
「え………」
「―――錬!」
最初の一撃では、驚く綾美と昼夜が見えた。
軽く跳ねただけなのだが錬が予想したより今の錬は高い力を持っていた。
神社からこの距離を、すこしの考え事をしている間に踏破するほどに。
「―――――!」
言葉はいらない、必要なのは咆哮だ。
相手へ自分の敵意と憎悪と殺意を叩きつける事。
その呪いの言葉と共に、錬は手刀を振るった。
トロメアは反応すらしなかった、錬の振るうそれはまるで刀のようだった。
切断は無理であったが、錬が放った一撃はトロメアの聖剣を持つ右肩の骨を衝撃で外した。
赤い光が空間に走る、紫電と共に空間が壊れ――― 丙子椒林剣が現れる。
今までにありえない妖気を纏っているように見えるには、気のせいなのだろうか。
「錬、やめて――――」
昼夜が叫ぶ、だが今の錬には届かなかった。
誰かが叫んでいるというのは感じていたが、どうでもいい事だ。
今は『これ』を壊さないといけない。
「ふくッ……く………く……くは…はは、ははははははははははは!」
『れん』は錬ではなくなっていた、それに名前はまだ無い。
ただ綾美達の知る錬では無いのは確かだった。
『死織』と同質の『錬』、つまりは錬にとっての死織。
笑う、哂う、笑みの衝動を抑えきれず、亀裂のような笑みを浮かべて声を漏らす。
それはまるで悪魔の産声であった。
「分解(バラ)けろ」
無造作に『れん』は剣を振るう。
トロメアは左腕で迎撃しようとした、確かに迎撃は出来た。
けど代価はとても大きかった、トロメアの左腕は剣を払いのけたと同時に骨から肉、骨、神経、それら腕を構成する部分がバラバラになった。
血が一滴も溢れないのが不気味だった、どうすればここまで綺麗に解体できるのか予想もつかない。
今の『れん』は、もはや人智という狭い箱に収まる存在では決して、無い。
「もろい、なぁ」
笑顔で錬は言う、その顔を見て、見てしまって綾美は悲鳴を上げそうになった。
錬の事をよく知っているからこそ、今の錬が違うという事がわかる。
その変貌が、その笑みが綾美には死織と同じに見えたのだ。
「れ――――」
「綾美ちゃん! やめ――――」
錬を止めようと綾美は錬へ向かって走る。
自分を止めようとする綾美を『れん』は冷たい目で見て、剣を無造作に振るった。
斬られる――― そう綾美が思った時、後ろから駆け込んだ昼夜が綾美を抱きしめ横へ飛んだ。
着地など考えていなかったので地面に無様に叩きつけられ、転がるが綾美はすぐに立ち上がった。
にちゃりと掌に嫌な感触を覚えたがそれが何か気づかない。
綾美は信じられなかったのだ、錬が自分を殺そうとするなど。
一度、レイ・ゼフィランスが生きていた頃に暴走した綾美に影響を受け、戦いあった事はあった。
しかし今の綾美は理性を保っている、少なくともあの時のような怪物では無い。
ただ錬が、あの時と違う、もっと最悪の状態であるという事。
「邪魔するな綾美、お前のためにやってるんだ」
「嘘、錬はそんなふうに笑わない――― 命を刈り取る事をそんな風に笑わない」
「違うな、いるだって楽しんでいるさ。
違うというならなんで俺は魔物を殺しまわっているんだ?」
錬が夜中に家を抜け出して、鬼を狩っている事は知っていた。
考えたくは無かった、それを楽しむためにやっているという事を。
「最初から錬には人外の血が流れているんだよ――― 親が吸血鬼なんて関係ないほど、それを知るよりも前から錬は知っていたんだ。
だって、殺し合いを楽しんで、殺し合いをやめる事ができない男が……… 人間のワケがないんだから」
「なら何で私を助けたのよッ! 錬!」
「助けるという行為をするのは人間だけだ……… だから、たぶん君を助ける事で自分が人間であると信じたかったんだろうね錬は。
現に君とあって以降、この神社に来るまで錬は自分がバケモノとは思っても人外とは思わなくなったからね」
違和感があった、『れん』の語っている事は綾美にとっては劇物に近い言葉。
だがその中にとてつもない違和感がある、それが錬が言っている事とは思えない感触を生み出している。
「綾美ちゃん… 騙されないで、全部嘘よ」
「昼夜、さん!?」
「そいつは錬じゃない、誰よ―――アンタは!」
ヒステリックな声で昼夜が叫んだ。
それに『れん』は楽しげに言うのだ、最悪な言葉を。
「全部、錬が自分すら理解していない深層意識の部分だ、嘘は一つも言って無い。
分かって欲しかったよ、昼夜、貴女には……… 俺が、『夜月』だって事を」
「事態は最悪です、ええ………はい、そうです、義父さま………。
おそらくは『夜月』が出ているかと、はい、そっちの方です」
フェンリは走りながら携帯電話で話している。
通信機でもいいのだが、大きいので走りながら喋るのには向かないのだ。
肝心の携帯電話も、フェンリがあまりに速いので電波が途切れがち、雑音が多い。
だがそんな事はこの状況では小さな事だ。
「最悪、戦闘不能にして指輪を使用する必要があります…
勝てるでしょうか、私で……『秋雨錬』に」
『弱気になるなよ、フェンリ、上手く立ち向かえって直撃を受けないふうにすれば今の錬になら勝てるさ』
「義父さまは楽観視しているかと…」
『アスラルに応援を頼んでも到着までに錬が持たない』
「恩人の息子ですものね……… 帰ったら一万円分のおせんべいで手を打ちます」
『………頼んだ』
携帯電話を切る、それを仕舞うと今度こそ本格的に加速を始める。
位置はだいたい分かっている、殺気や敵意がレーダーより正確に感じられるほどフェンリは実戦慣れをしている歴戦の戦士だ。
こんな凶悪な気配を見逃すわけが無い。
跳んだ、駆けた勢いのまままるでミサイルのように空を舞う。
空気を凍結さえ足場を作り、それを蹴る事で姿勢を安定させ尚且つさらに加速する。
その手に持つは永遠に溶けない氷、彼女が生み出した永氷(えいひょう)の剣。
美しい幻想の輝きを、ダイヤモンドダストを纏ってフェンリは降下する。
目標は、もう見えていた。
昼夜が真っ先に気づいた、空を駆ける狼の姿に。
その手に持つ罪人の首を跳ねる処刑の剣、その身が凍りそうなほどの美しさに。
「フェンリ!」
「―――――何っ!」
自分への敵意に気づいた夜月が丙子椒林剣を振るう。
その一撃とフェンリの一撃が激突、フェンリの剣が砕けちる。
しかしフェンリはその衝撃を上手く利用し、華麗に着地。
その様は美しく、まるで絵画を思わせた。
「キサマ、何だ」
「黙れ、盗人風情が」
あまりに毅然たる態度であるがゆえに、突然現れたのに絶大な存在感だった。
その美貌が怒りと闘争心の笑みに染まっている。
しかしそれが彼女をより美しくさせていた、まさしく戦の女神のごとく。
戦こそが彼女の美しさだった。
「すまないが恩人の息子だ――― 大人しく封印されろ」
「貴女は錬をどうする気なの!」
「安心しろ、殺しはしないさ。 だから、退け―――」
綾美はフェンリと錬の間に立っていた。
フェンリへ向かい、両手を広げ、通さないと言わんばかりに。
「邪魔するなら、お前も敵だ」
「そうだよ、綾美、どいて、くれないかな?」
夜月が優しい声で、労わるように言う。
あまりに優しい声なので、思わず元の錬に戻ったと錯覚するほどだった。
しかし振り向いて見た錬の顔が、邪悪な笑みを浮かべているのを見るまで。
「俺は錬と君の事を第一に考えてるから。
だから……… 邪魔なモノは全部壊さないと―――」
「錬と君? よく言う―――!」
フェンリがその身に異界の光を纏う。
直接向けられていなくとも、綾美はその殺気が自分の身を震わせるのを感じていた。
「キサマは―――」
「だから、死ねよ」
夜月が先に動いた、フェンリを壊すために。
フェンリは何の準備動作も無しに後ろへ飛ぶ。
接近戦でも勝てなくは無いが、一撃で確実に殺せる夜月と違いフェンリは殺す事はできない。
ゆえに錬の能力では反撃できない距離から攻撃し、弱める。
「凍れ!」
その言葉が空気中の水分を凍らせた、夜月の上へ無数の氷球が降る。
だがそれは相手の注意を向けさせる事もできなかった。
無造作に夜月が振るう剣で彼に当たる氷球だけが切り払われる。
地面に激突し、砕ける氷球、舞う氷片。
そこへ横に走るツララの矢が雨のごとく放たれる。
今度も当たるものだけが切り払われる。
だがそれは決して倒すための攻撃ではない、現に夜月はこの攻撃を切り払うために前へ進む事ができない。
時間稼ぎのための攻撃、それは十二分の硬化を発揮している。
「………不愉快だ、殺せない―――」
「それはよい、お前に殺しなどさせんさ」
「それは無理だ―――だってお前、死ぬんだから」
フェンリはその声を聞き、身が凍る気がした。
彼女の言葉を挟んで、夜月の声が聞こえる方向が違う。
とっさに彼女は自身の周囲の空気を凍結させ氷のシェルターを創造。
それは彼女の背後より振るわれた剣を見事受け止めた。
シェルターはその一撃を防いだ代価に崩壊する。
フェンリはとっさに前へ跳びながら体ごと振り返る。
さきほどまでいた場所の後ろには、足より血を流す夜月がいた。
その傷は一つの術を連想させる、そう、紅の魔術だ。
フェンリはその瞬間に自分の死を悟った。
いかなる防御を用いても間に合わない、紅の魔術にて加速する超速度よりの一撃を防ぐには少なくとも地面に足をつけていないといけない。
今は跳んだせいで浮いている、避けられない。
微笑が、夜月の微笑みがどこまでも残酷な嗜虐の笑みに歪んだ時、彼の足が地面を蹴って―――
「れぇえええええええええええええええええええええええええん!」
綾美が、フェンリと夜月の間に立っていた。
攻撃を放った夜月ですら止められない、まっすぐに剣は―――
綾美へと襲い掛かった。
次回 縁の指輪
四の指輪 七刻目 縁の指輪