「キミの読みが当たったみたいだよ」
「嬉しくもなんとも無いな、カンニングとかペテンって感じがしてさ。
奴らの考えの先読みなんて簡単な事だし」
地味だが質の良い家具などで固められた一室で、一人の人離れした美女と帽子を被った男が話し合っていた。
女は身長が高く、その金髪と金色の瞳により宝石のような美しさがある。
だが髪の毛は腰まで伸ばしているものの荒く切られており、口調や動作が子供じみていてその美しさを台無しにしてしまっていた。
「ボクとキミもこれまで一緒に頑張って来たけど、キミっていつも大事な部分は誤魔化すよね」
「すまない」
もう一人は大きな帽子を被り、その素顔を覗く事は出来ない。
だがその帽子からはみ出す長い金髪はぼさぼさで、それが作り物であるとすぐに知れた。
その地毛はそのカツラよりはみ出しており、長い黒髪である。
「ボクはキミが大好き」
「そうか」
「ボクは二人目の妻でも愛人でもいいから、嫌と言ってもボクはついていくよ」
そんな何時もの会話をしてから、二人は本題に入る。
いつもの唐突な会話は普通の隊員では理解できないが、二人にとってこれは極当然の会話だった。
そして聞かれていないか確認してから本題に入るのである。
「けど天恵のミズチ… 弘平クンを囮にするなんて――― 豪華な囮だね」
「すまないが彼ではあまりにも力の差が大きい、こうするのが一番よかった」
「弘平クンが帰ってきたらとっておきの二万円したお菓子セットあげよう」
「………それ俺がお前に買ってやったクッキーセットじゃ…」
男が呆れながら椅子に座り込む。
彼女の能天気は止められないと知っているからだ。
思うのは今回の作戦の成功と失敗、その鍵を握るのはただ一人。
今回の切り札にして、本命の女性の名を呼んだ。
「頼むぞ、フェンリ」
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縁の指輪
負の壱の指輪 三刻目 歪んだ願い―希望穢す絶望、唯一の光(闇)―
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あの日から、すでに一週間がたった。
信吾は現れる鬼相手にその力を見せつけ、ほぼ全てを雫と二人だけで倒してしまう。
そして月美は彼らを見失わないだけで精一杯。
「全く、うまくいかないものです」
天を仰いで月美は言う。
強くなりたいとは思ったが、何の成果も無いと気が滅入る。
たかが一週間では成果など出ないことぐらい分かるが、理解できてもそうそう納得はできない。
むしろそういう事を知っているからこそ月美は焦燥に身を焦がしていた。
「本当にこんな調子で私は………」
―――此処から出る事などできない―――
「―――――ッ!?」
耳元で誰かに囁かれたような気がして、月美は戦慄した。
その声はゾッとするほど冷たく、そのくせ焼け付きそうなほどの悪意がある。
断末魔の叫びすら此処まで恐怖を生み出す事などあるまい。
無数の怨霊の叫び声を纏め上げて地獄の業火で焼いたような、邪悪な声だった。
巻物に描かれた妖怪や幽霊など、これにくらべればよほど可愛い。
「―――誰も、いない…」
周囲の気配を探っても、蟲一匹すらいない。
冷静ならそのこと事態が不自然だと気づいただろうが、そんな余裕は今の月美には無かった。
追い詰められた小動物のように震えながら周囲を警戒する事しかできない。
「どうしたの」
「ひッ―――……… し、雫様…」
呆けて、まるで壊れかけた人形のような危うい足踏みで雫は月美の所まで歩いてきた。
正気を失っている時間らしく、その瞳は焦点を結んで折らず表情も無い。
「誰かいた………かしら…」
「雫様は感じたのですか」
「どこかで…この、不愉快な…気配は!」
雫の顔色が、変わった。
思い出した“それ”に対し、薬品で精神を犯すほどに高められた攻撃衝動が刺激されたのだ。
しかし、それにしては余りにもそれは“感情的”な叫びである。
なぜなら彼女の感情は同じく薬品により停止に近い状態で封印されているのだから。
「追えない、痕跡も無い……… どうして、いつも取り逃がす…!」
ギリギリと歯を食いしばり、雫は周囲を警戒した。
すこしして諦めたのか月美を感情の無い瞳で一瞥し、さっさと立ち去っていく。
ただ……… 月美には聞き逃す事のできない事を去り際に呟いて。
「ところで、見送りにいかないの?」
「はい?」
「信吾、町に下りるって」
「え―――ッ!?」
「本当にいきなりですね…」
「別に見送りになど来なくとも良かろうに、どうせ新しい刀を取りに行くだけだ」
「すこしの間とはいえ居なくなるのは確かでしょうに」
昨日、信吾は鬼との戦いで愛用していた刀の刃が潰れてしまったのだ。
それでも信吾の圧倒的な技能を持ってすれば斬れないことは無いのだが、やはり斬撃は鈍る。
微妙な鈍りこそが、人智を超えた怪物との戦闘ではそのまま死に繋がる………
理屈こそ分かっていた、だがそれ以上に月美には思うことがある。
信吾は月美を見る事無く、彼女に背中を向けたまま歩き出す。
話しかけた月美を、振り向く事無く。
振り向いてさえくれれば、まだ平気だった。
だがこれでは………
「おっちゃんの事だから予備のヤツはいつも用意してあるだろうし、行って帰ってくるだけだから一日もかからん」
「………わかり…ました」
「それじゃ、しばらく頼むぞ」
それだけ言って信吾は振り返る事無く去っていく。
ぎちりと、月美の中で何かが牙を向く。
知らず知らず彼女の顔は怒りで染まっていた。
「なんで、振り向かない………」
自分がまるで心配する必要も無い、取るに足らない存在だと言われたみたいでとても不愉快だった。
不協和音だけで構築された音楽を聴いたみたいに腹の中が煮えたぎる。
理解はしている………
彼も月美達を置いていくのが嫌で、悲しげな顔をしているところを見せたくなかったのだろう。
そういう人間であることは、この一週間でよく分かっている。
だが……… それでも納得できない。
「―――――!」
言いたい事が、言葉にならない。
今ならまだ何かを信吾に言える筈だ。
しかし……… その言いたい事を思いついたとき、すでに信吾の姿は見えなくなっていた。
「あ………」
何か、致命的な、失敗と、最悪の、後悔を、感じていた。
徹底的に、何かが壊れた気がする。
それが何かは分からない、だけど……… おしまいだと思った。
――――あはははははははははははははははははははははははははははははは……
「ん………?」
何か、変な笑い声が聞こえた気がして、信吾はもう見えない神社へと振り向いた。
どこかで聞いた笑い声だが、あまりにもそれは不愉快な笑い声。
他人を和ますなど絶対に不可能、憤怒と憎悪で他人の心中を焼かせるような悪意の笑い。
「…気の、せいか?」
そう思いたかったが、爆発しそうなほどに鼓動している心臓や寒気と悪寒がそれを違うといっていた。
ぎちぎちとゆっくり首を絞められていくような嫌な予感。
この森特有の不愉快も合わさり、信吾を不安にさせるには十二分だ。
さっさと森を抜けるべく足踏みを早めた信吾は、ふいに違和感を感じた。
世界に満たされていた“拒絶”の意思が、消えている。
その消え方はあまりに不自然で、白い紙に落とした黒い墨汁のように目立つ。
信吾は知らず知らず構えを取り周囲を見渡す。
何かいる、と彼の今までの戦闘経験が鍛え上げた勘が教えている。
「誰、だ」
「別に敵対するつもりは無い」
声は、坂の下より聞こえた。
普通の歩みで、坂を上り一人の少年が登ってくる。
彼を見た瞬間に信吾の疑問は氷解した。
“拒絶の意思”が消えたのではなく、それすら上回る“何か”で塗りつぶされただけであると。
「………あれが近くにいると感じたから、見に来ただけだ」
極普通の黒髪、黒い瞳、極普通の日本人の特徴。
しかし誰も彼が普通の人間だと聞けば首を傾げるだろう。
あまりにもその瞳は冷たく、他人をどうとも思っていない。
それは信吾も見た事がある色だった、それは道に転がる石を蹴るように何の気負いもなく人を殺せる者の目。
人がしていいものでは、無い。
もはやそんな目で他人を見る存在は、文字通り人より外れた存在… 人外だ。
「お前は、何者だ」
「世界者“拒絶のコウ”」
「世界者…… だと?」
世界者、不死にして理解できぬ者達。
人とは全く別のルールに従い存在する魔物でなければ人でも無い異形。
退魔士の中でもまるで世界の七不思議のように語られる怪異。
それが、世界者。
「いるのか……… 本当に、この世界に」
「………………」
その質問にコウは答えない、ただ身を翻し坂を下っていく。
会話する価値を見出せないとその背中が言っていた。
「お前ッ!」
「言っておく、お前達の怨敵はもう黄泉返っているぞ」
何を言っているのか信吾には分からなかった。
だが言いようが無い焦燥感と、ワケのわからない動揺が背筋を走る。
「それはどういう―――」
だがすでに世界者の少年は、影も形も無かった。
まるで最初から居なかったように………
その様子を見て信吾はあのうわさを思い出していた。
世界者はまるで嵐のように現れて散々全てを荒らした挙句に、いつのまにか消えていく。
まさにそうだと思った。
まだ、予感は消えない。
「雫様……… 何処ですか?」
月美はそういいながら神社を回っていた。
昼食の用意が出来たので雫を呼んだのだが、返事が返ってこなかったのだ。
探してみてもなかなか見つからない。
「…………」
―――馬鹿に、しているのか。
自分が思っていたことが、あの笑い声と同じ声で聞こえる。
あまりにも“自分の考え”に似ていたので思わず自分が言ったのかと思ってしまうほどだ。
だがその衝動―――怒り―――を隠さずさらけ出すのか今までに感じた事が無いほど愉快だった。
思わず月美は笑みを浮かべる。
もし、その姿を他人が見ていれば彼女を鬼と言うだろう。
文字通り“鬼気迫る”笑みであった。
子供がみれば泣き出す以前に気を失いそうな、そんな笑みをしておりながら月美の心中は実に穏やかである。
なにせ下手な混ざり物が無い分、純粋に憤怒に焼けているのだから。
「雫様、どこですか」
―――早く出てこないとご飯抜きですよ。
「昼食、食べないのですか」
―――そんなに食べたくないんなら、歯を引き抜いて指を潰して口を縫い付けて永遠に食べられなくして差し上げましょう。
「雫様!」
―――それよりそのか細い首を折って殺してやる!
どんどん、止まる事無く思考は負の方向へ進む。
今までに無いほど月美はそれが楽しかった。
同時に本当に自分が“自分”なのか分からなくなっていた。
考えている事の何処までが自分の考えで、何処までがそうではないのかも分からない。
それ以前になんでそんな事を考えるのかも分からない。
何かがおかしい、狂ってる。
気づいていても思考の暴走は止まらない。
「…………」
―――殺す、殺してやる。
その時、笑い声が聞こえてきた。
すぐに月美はその笑い声が雫だとわかった、ずっと待っていたのだから。
元々は護身用に持っている短剣の柄を左手で持って、できるだけ穏やかな笑みを浮かべる。
そして、雫の声が聞こえる森へと入った。
まっさきに見えたのは、幻想的なほど美しい光。
夜の中蛍が光るような優しい光や、夜空の星の輝きを集めたような美しさ。
そこに居たのは、雫だけではなかった。
長い、長い… 黒い髪、光を反射して銀に輝く。
身長は高め、見たことも無い異国の服を身にまとう、優しげな顔立ちをした男だった。
その男が扇を手に、見たことも無い舞踏を舞う。
扇を振るうごとに光が舞い、星は歓喜し唄を歌う。
それは、一人が踊る舞踏だとは思えなかった。
極々自然に自然そのものが彼の踊りに喜び、ともに踊っている。
まるで神に捧げる神楽の舞のように、それは人の人智を超えた神秘にも例えれる舞踏。
―――なんで、奴が。
ふと、月美の中にいた“月美ではない思考”がその言葉を呟き、消えた。
憑き物が落ちたようだった。
舞踏がその激しさを増していく。
まるで終焉に向かうために鼓動を高めるように、どんどん激しくなる。
男の額から汗が舞う、極度の集中状態に入っている男はそれすら気にしない。
ただただ舞踏が激しくなっていく。
そしてゆっくりとゆっくりとその動きが静寂へ向かい、止まった。
「…………ふぅ、これでいいのか雫」
「ありがとうカル、一年に一回は貴方に舞って頂きたいものです」
「はは、来年また来ますよ」
男は手ぬぐいで汗を拭いながら、岩に座り込み舞踏を見ていた雫と親しげに話す。
雫は、今は雫だった、優しげな表情で男を見ている。
あの笑い声は純粋な歓喜によるものだったらしい。
やっと冷静な思考を取り戻した月美は声をかけようとする。
「あの…」
「雫、お迎えが来たぞ」
「……うん…」
名残惜しみながらも雫は岩から立ち上がり、月美へと歩き出す。
今まで自分を支配していた暴力的で残忍な思考が消えたことを疑問にも思わず、月美はある程度近づいたところで跳んだ雫を抱きとめた。
雫に気を取られている間に男の気配が消えた時、月美は彼が去ったと思った。
しかし彼は別に移動も何もしていない。
(あれ…)
確かに月美の感覚でも、彼が居なくなったと感じた。
雫もそうであったのか不思議そうな顔をしている。
二人の人間に不思議そうな目で見られても、男は顔色一つ変えない。
ただゆっくりと立ち去ろうとして―――
―――!
鳥の声が聞こえた。
ゆっくりとその鳥が男の手に飛んできて、止まる。
いやそれは鳥では無かった、とんでもなく精巧に作られたからくり人形だ。
月美にはそれがどうやって動き、飛んでいるのかも分からない。
「あれは、蒼の………」
雫がポツリと呟く、その間にも男はその人形の足に縛られていた手紙を抜き取り読んでいる。
月美にはその蒼という単語でやっとからくり人形の正体が分かった。
七色の魔法の無機物支配の力を意味する蒼の魔法。
その力を行使すれば重く空を羽ばたけない命無き鳥も、空を自由に飛び主の命令を果たす式神となる。
だが蒼の魔法や魔術で作られたかりそめの命は術者の能力によって維持できる最大距離が変わる。
遠く離れた位置にいる他人に送るにはよほどの力と技術が必要だ。
ここまでの力をもつ魔法使いや魔術士がいるとは月美には思えなかった。
「……奴らが動いたか……」
男が、そう呟いた。
まるで感情を感じさせない、いや感情を出さないようにしたゆえの無表情。
ため息をついてから雫を見て、言う。
「すまないがしばらく帰れなくなった………
今日一日、泊めてくれないか?」
「喜んで」
雫は無邪気な子供のように微笑んで言う。
あっけなく決める雫に呆れながら、月美はそろそろ冷えていそうな昼食の事をやっと思い出した。
「思ったより不愉快な事態だな」
男はその夜、屋根の上に上がり星を見上げながらそう呟いていた。
あの後に三人で昼食を食べた後、男は月美に自分の名前を明かしている。
カル・イグニーニス、様々な国を旅している旅人。
月美や雫にはそう誤魔化したが、そうでない事はすぐに分かる。
ただの旅人が蒼の魔法により作られた式神より、情報を貰うはずが無い。
「雫がいるから何とかなると思ったが、これでは無理だな…
刃とやらも居ないようだし、ここまでタイミングが悪いとは……… まるで運が無い」
くるくると手で扇を宙に放り投げたりして遊びながら、カルは周囲の気配を探る。
雫でも無理なほどの超広域を索敵し、人ならざる気配を発見。
その精度はとんでもない高く、その存在が何かも確かめる事が出来た。
「世界者… 連中が直接起動するとは、そこまでのものなのか無垢なるとは…」
月光か世界を照らす中、カルはその世界者に集中し、殺意を叩き込んだ。
面白いぐらい捕捉した世界者の気配が動揺する。
思わずカルは笑ってしまった。
「素人か、再構築体か……… どっちにしても三下だ」
くくくと馬鹿にした笑みを浮かべて、索敵を終了する。
意識を周囲に何らかの媒介を用いて広げるこの索敵結界は術者なら誰でも使えるほどの簡単な術だが、危険性は上位の術すら軽くしのぐ。
あまりに広げられた意識は世界に解けてしまうのだ、強い精神力が無ければすぐに廃人と化す。
そんな危険極まりない術を使っておりながら、カルには顔色一つの変化も無かった。
雫の自動的な人外への攻撃衝動に引っかからないはずなのに、それは人とは思えない。
「さて、俺一人でどこまで押さえられるかな」
「お前はいつもそうだ、武器が追いついていない」
「なら俺に追いつける武器を寄こせ、“鋼鉄製作者”白神の名が泣くぞ」
「荒神のボウズがいうコトか」
白髪が混じる老人の前で、信吾は置かれた無数の剣や刀をあさっていた。
使い物になりそうな武器を探しているのだがどれも使い物になりそうに無い。
前に持って行った刀がもっとも使えそうな武器だったのだ。
「ふん、荒神なら合う武器もあろう、だがお前の…」
「黙れ、俺は―――」
「お前の武器はこれだと決まっておる」
老人が家の床板をはがし始めた。
金槌を叩き込んで壊して、一つの木箱を取り出す。
その箱は、禍々しい気配を出している。
「まさか…」
それに見覚えがあり、信吾は凍った。
秋雨の宝剣、丙子椒林剣……… 刃の父が使っていた武器。
ゆえに、刃に与えられるはずだった剣。
「普通の武器も用意してやる、覚悟が――― 必要なら使え」
一本の刀身の赤い刀と、木箱を差し出す。
木箱は何枚もの力ある護符や呪符、札などで封印されている。
木箱自体も普通の木では無いらしく、妖気らしきモノをまとっていた。
「赤い剣、あの馬鹿蒼が置いていった剣じゃ………」
「アーシアが、これを?」
「アイツの作った、四つの刀の一本。
馬鹿にしているような、ふざけた武器」
「“使い手に全てをゆだねる”か」
それは、正確には刀とは呼べない物かもしれない。
刀身をもつ武器は鋭くないといけない、だがこの刀身は切れ味が皆無だった。
ただ頑丈で折れない、歪まない。
斬るには使い手が常識を超えた腕で振るい、その腕前で斬らなければいけないのだ。
常人ではこれで斬ることは、できない。
「だがお前にはもっとも相性のいい武器かもしれない」
無言で信吾は木箱と赤い剣を執った。
肩に木箱を担いで赤い剣を鞘に収めて腰に差す。
「金は」
「いらん、預かり物を返すだけだ」
それがこの二人の交わした最後の会話だった。
信吾はそれだけ聞いて、己の全速で駆け出す。
嫌な予感は、ますます強まっている―――
「…ふぅ、そろそろきつくなって来たな」
屋根の上でカルは目をつぶって座り込みながら言った。
長く集中しているので脂汗が出て時々意識が飛びそうになる。
向こうも迂闊に接近すれば殺られると分かっているので派手な行動に移れない。
時々カルの隙を狙って接近しようとするだけだ、それをカルは敵意や殺意を向けて威嚇する。
「ちッ! 去れ!」
またも近づこうと試みたそれに殺意を叩きつける。
慣れるなんてできないほどそれは鋭く、凶悪な殺意だ。
来ると分かっていてもそれには脅えてしまう。
「……くふ……」
意識が遠のきかけて屋根に倒れこむ。
頬に触れる冷たい屋根の感触にすこしだけ感謝してカルは目を開ける。
もうこれ以上、目をつぶっていては眠ってしまう。
そしてこの状況で寝るという事は、冬山で寝るように文字通り“寝ると死ぬ”という事だ。
「……何をやっているのですか?」
「雫か…… やれやれ、ついにお前に気づく事もできなくなってきたか…」
不意にかけられた声にカルは驚く事無く答えた。
普段なら雫クラスの隠蔽能力など問題では無いのだが、疲労はよほど深刻らしい。
「敵意や殺意をそんなに気安くばら撒かないでくださいな」
「そうできたら… なッ!」
雫と離しているのが隙だと思ったらしく、敵が接近して来る。
それに殺気を叩き込むが今度は怯まない。
「……雫、戦えるか?」
「くす…… 出来ないわけない… この殺戮舞踏人形が戦えないわけ、無い」
武器として刀を取り出し、愉悦に笑う。
カルとしては天馬製の戦巫女としてより雫として戦ってほしいのだが仕方ない。
カルが武器として取り出したのは笛であった。
木を加工して作った笛と、それにつなぐ剣。
繋がれた笛は剣の柄として機能し、普通の剣の二倍近い柄を持つ槍のような剣にする。
槍というには剣の部分が大きく、剣というには槍に近い。
そしてあの舞踏に使った扇を三本、左腕の内側に止められたポケットに入れる。
ポケットの位置的に片手でその扇を取り出し、広げる事ができた。
「敵は不死だ、散々痛めつけてここに近づきたくなくなるぐらいやればいい」
「くすくす…… それは、楽しそう」
そして雫はあの兵器としての笑みを浮かべながら突撃していく。
カルも一呼吸してから雫よりも速い動きで駆け出す。
敵の気配も加速し、こちらに近づいてきていた。
「…あれ、雫様にカルさん…?」
月美がみたのは駆け抜ける影だけだった。
そしてそれを追う月光で銀に煌めく光跡だけである。
その時、なぜか月美は嫌な予感を感じて振り向いた。
そこに、赤い女がいた………
赤く長い髪、長すぎて大部分を地面に引きずっている。
綺麗な髪だがそのせいで大部分は傷んだり汚れたりしていた。
瞳も血のように赤く輝き、唇は口紅を塗ったように赤い。
赤い赤い、女だった。
全て赤の服で身を包み、爪さえも赤い色で染めている。
「アナタが、月河月美よねぇ……」
「は、はい?」
「そうですか…… ア――――――ハハハハハハ!
なんて愚図だい! こんな虫けらが“次の候補”ぉ、イ――――はははははは!
ちょーち、むかついたぜジュデッカちゃん!」
狂ったように、否、狂気そのものの奇声を上げて女は叫んだ。
赤い髪で顔が隠されているせいでそれは夜に彷徨する、幽鬼のように見える。
だがその手がその長い爪を、右腕は左肩に、左腕は右肩に突き刺し掻き毟り血を流す。
そしてその手が振るわれ、数滴ほど月美の頬に当たり、頬を伝って流れる。
その暖かい血こそが“それ”が生き物であると合唱する。
「あ―――あぁ、あぁぁぁああ!?」
逃げ出そうとした時、月美は女が無造作に振るった髪で足をすくわれ尻餅をついてしまった。
逃げようと立ち上がって走ろうとするが腰が抜けてしまい立てない。
それでも月美は服を汚しながらも後ろへ下がる。
怖い、そうとしかいえなかった。
狂気もそうであるがそれを自覚しておりながら隠そうとせず曝け出す。
敵を威圧するとか理性的な理由など無く、それが“それ”にとっての当たり前なのだ。
狂った声で叫び、天へ向かって大声で笑う。
単純な狂った故の恐怖が形を成したのが、その女だった。
「お願い逃げないでよ、そんなふうに死に掛けたウサギのような可愛らしい可愛らしい顔されちゃうとお姉ちゃん困っちゃうじゃないか!
ええい、爪を剥いで左腕を切り落して歯を5本ぐらい引き抜こうとおもってたのにぃ…
思わず優しくして、爪を剥いで左腕を切り落して歯を5本ぐらい引き抜いて両足の骨を複雑骨折させちゃうぞ?
あぁなんて優しいワ・タ・シ、“アンテノーラ”ちゃん、ヒ――――ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!」
長い髪を振り乱し、女は嘲笑する。
その様を見て月美は叫んでいた。
「助けて信吾―――!」
「残念んー、間に合わないよ、間に合わない。
残念でしたいいざまですおばか馬鹿馬鹿、キ―――――ハハハハハハハハハハハ!」
月美の希望をあっさりと侮辱しながら、アンテノーラは月美へと近づいていく。
「さぁて、遊びましょうかお姫ちゃま、イ――――――――ハハ!」
次回 縁の指輪
負の壱の指輪 四刻目 反転世界―楽園が地獄に変わる時―