彼は自分の親の名前を知らなかった。
子供のころ両親と死別した彼は、秋雨の本家にすら見捨てられ行くあてが無い。
そんな彼に手を伸ばしたのは荒神という小さな退魔の一族。
彼はそうして荒神信吾となった。
子供のころから剣を習い始め、彼はいつのまにか彼は大人に混じり仕事をするようになっていた。
それももっとも危険な殺し合いを確実にするような仕事ばかりを。
父や母が魔物との戦いにて死んだ姿を見ていた信吾は、もはや恐怖という感覚が凍結していた。
だからそんな彼が恐怖を感じられるのは戦いだけだった。
そしてその時だけが、彼が自分が生きていると思える時。
そんな彼が受けた新しい依頼はとある神社の巫女神を守る事。
もしかしたらその依頼を受けたのは、なんとなく感じていた不思議な感覚のせいなのだろうか。
彼はそんな事を考えてながら迎えが来るのを待っていた。
-------------------------------------------------------------
縁の指輪
負の壱の指輪 一刻目 心無き巫女の神
-------------------------------------------------------------
とある山道、その深い木々に覆われた道を信吾と月美は歩いていた。
「山奥とは聞いてはいたが、ここまで山奥とはな」
「はぁはぁ…… はい、祭っている物が…… 本当に力のある神具なの… で街中におくわけには… いかないんです… はぁはぁ…」
「しかしなぁ月美とやら、その山奥の神社の巫女たる汝が私より先に音を上げてどうする?」
「貴方が、速いん、です!」
信吾は後ろを見ると、そこで荒い息を立ててふらつきながら歩いている月美の姿があった。
この山奥にある神社の巫女であるはずの彼女が先に疲れることに不安を信吾は覚える。
しかし彼女のいった言葉でやっと自分のペースが速すぎた事に気づいた。
本来なら休みながら進むはずの山道をペースを落とさず歩いていればダウンするのは当たり前。
むしろ疲れた様子を見せない信吾がおかしい。
「休みを入れるか?」
「是非、お願いします…」
「分かった」
近くにあった岩に腰掛けて信吾は周囲を見渡した。
月美が石に座って水を飲んでいるのを横目に、目をつぶり気配を探る。
周囲にあるのは自分と月美の気配だけ、野生動物の気配すら無い。
(妙だな)
いくらなんでも“静過ぎる”。
まるでそこにいる者達が死に絶えたかのように、誰もが恐れ逃げ出したかのように、静か。
それは横たわる死の静寂だった。
このような静寂に覆われた場所は、今までに何度も見てきた。
例外なくそういう場所は妖気や毒素に満たされた汚毒による死の静寂。
しかしここには正常で清らかな空気が流れていた、清らかな死の静寂という矛盾した世界がここにある。
「これじゃあ…」
まるで命すら汚毒と考え、消し去ったかのようだ。
そんな事を考えてそれがおそらく正解だろうと信吾は感じた。
完璧に汚れ一つ無い清潔な場所を作るには、命すら邪魔なのだから。
そう、この場所は清らか過ぎる故に生き物が住めない異界となっているのだ。
毒で清められた、忌々しい聖域。
まさに異界と呼ぶにふさわしい場所だ。
「どうしました?」
「あ、いや……… “ここ”はいつもこうなのか」
「お気づきですか、この場所の異常に」
「…気づかないほうがどうかしている」
信吾は冷や汗が頬を流れるのを止める事ができない。
ここにいるだけで魂を押しつぶされそうな不安感と、世界からの疎外感を感じる。
場所そのものに拒絶されているという感覚は人の存在を侵す。
訓練により精神的な防御の術を学んでいる信吾ですらこうなのだ。
普通人ならその場で衝動に負けて自害しかねない。
「なんでこんな場所が」
「かつてここで、とある神魔が滅ぼされたそうです。
その神魔は正式な方法で死ななかったため、今もこの地を汚染していると言われています」
「御伽噺みたいだが、事実だろうな」
この場所そのものが、それが事実だと語っていた。
こんなおぞましい世界が普通の方法でできるはずがないのだから。
「それでは参りましょう、長くは居たくないですから」
「だな………」
ふいに、鳥の鳴いている様な気がした。
それを見上げても、木々により狭くなった空には鳥などいない。
だからこそ、その鳴き声は悲しく聞こえる。
まるで断末魔の泣き声のようで………
「気にするな、忘れろ」
信吾は、そう自分に言い聞かせた。
まさにこの空気は父と母が死んだ時のそれ。
小さな頃の記憶など消え去るはずなのに、それだけは消える事が無い。
忘れるなと言われているみたいに消えそうに鳴った時に悪夢として蘇る。
何度も、何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も…………
いつのまにか、冷や汗や不安感、疎外感も消え去っていた。
かわりに、それが襲ってくる。
それはまるで部屋の中に入り込んでくる、冷たい風のような恐怖。
「信吾殿、どうなさいました?」
気づいたとき、月美と信吾の場所は逆転していた。
立ち止まったままの信吾を、先に進んで大分上にいる月美が不思議そうに見ている。
それに気づいて、何を馬鹿馬鹿しいと信吾は思う。
ここはあの時の場所と同じ山奥、そのせいであれを思い出した。
結論をそう決め、信吾は歩き出す。
左の手の平が食い込んだ爪で血を流している事など、痛みにすら気づかなかった。
だけど以上に、今すぐ此処を離れたいという思いが強かったのだ。
そしてその思いはさほど時間が立たずに満たされる事となる。
歩き出してからすこしして、いきなり空気が変わった。
静寂なのは変わらない、だが今までになかった蝉の声や、木々が風に揺られて起きる音がある。
それを聞いた時、信吾は自分の耳を疑う。
今は、蝉の鳴く時期には速いのだ。
「ここは………」
その静寂の変化は、それが見えたのがきっかけだった。
神社だ、大きいとはいえないがそれなりに広く手入れも隅々に行き届いている。
こんな辺鄙な場所にあるとは思えないほど、綺麗だ。
「やっと着きました… やはりここに来るまでは息苦しいですね…」
落ち着いたといわんばかりの声で月美が言う。
やはり彼女にもあの死の静寂は苦しい場所だったらしい。
それはまるで………死の世界の中央にある聖域、まるで台風の目みたいで………
ゾクリと、信吾の背筋を悪寒が走った。
「ここに問題の巫女神が?」
「はい、ここの拝殿にいつも……
近くに住むための小屋があるのですけど、神社から出る事が無いのです」
「それは………、食事とかはどうしてるんだ」
「私が持っていきます、けど、むしろヘタをすれば食べる量より“アレ”の方が多いぐらいで」
「“アレ”とは、何だ?」
その問いに、月美は答えない。
アレとはよほど不愉快な物らしく、嫌悪で吐き捨てるように言った。
「彼女に会えば一瞬で分かりますよ」
「………言いたくは無いんだな」
「はい、言いたくありません」
まるで太陽の下で微笑む子供のよう笑みを浮かべつつ、拒絶の言葉を放つ。
その矛盾的な表情と言葉は一種幻想的なモノに見える。
悪い意味で現実とは離れていた。
「それでは会いにいってみるか」
「今はよしたほうが良いと思います、今は寝ている頃でしょうから」
「どういうことだ?」
真昼とは言わないが、まだ太陽は沈んでいない。
とてもではないが寝るような時間ではないはずである。
そのため信吾は一瞬、彼女が何を言っているのか分からなかった。
「寝ている、こんなに早く?」
「そういう意味の寝ているではありませんよ、むしろ起きて貰っていた方が……… ッ!?」
「魔物かッ!」
不意に二人は人外の気配を感じて周囲を見渡した。
だが目に見える範囲には何もいない、感覚が鋭すぎるゆえに目に見えない距離のそれを感じ取る。
剥き出しの敵意と悪意、理性など無い。
下級鬼かとも信吾は思ったが、それにしては殺意も悪意も雑だった。
「ここらへんにはあの森がありますから、時々発生するんです」
「なるほど…… では、いくか」
「今なら彼女が居ますから、何もしなくとも大丈夫です」
「何?」
刀を抜こうとした信吾の手を、月美の手が抑えた。
やさしく触れてはいるが絶対に抜かせまいとしている。
それがどうしてか分からない。
「むしろ今は戦意などを抑えてください、誤解されます」
「誤解、だと」
「“来ましたか”」
不意に、神社の奥から人影が歩んできた。
その人影の主を見たとき、信吾にはそれが本当に人間なのか分からなかった
白すぎる、色が無いゆえの白の長い髪。
まるで月のような白い肌、それを覆う巫女装束の赤はまるで血のようで………
伏せられていた顔が上げられ、蒼い瞳が信吾を見た。
背筋が凍った。
その感情というものが何一つも無い、飾りの無い文字通りの無表情。
ゆっくり、その紅を塗ったみたいに赤い唇が歪んで、笑みを作る。
瞬間、その女の姿は消える。
信吾の高い動態処理はどうやって消えたのか見えていた。
何の予備動作もない跳躍で彼女は信吾達を飛び越えて神社の鳥居に着地。
そして再度の跳躍で視界から消えていったのだ。
「まさか、ここの巫女神とは…」
「そう、戦巫女なんですよ」
戦巫女――― 文字通り魔たるモノと戦い、それを滅ぼすための巫女の事だ。
そのための家系が存在し、その家の中でもっとも武術に長けた者を戦巫女として神社へ派遣する。
それゆえにそれが巫女神というのは変な話なのである。
派遣されてきた、つまり元々その神社に居る者では無いのだ。
酷い話だが、だいたいが神社を守るための生きた道具と扱われるのが戦巫女というものなのである。
だからそれがその神社の巫女の中でもっとも地位の高い者“巫女神”となるのはありえない。
たとえどれほど力が強くてもだ。
「出るぞ」
「お願いします」
今度こそ刀を抜くのに妨害は無かった。
特に破邪の力やなんやらの特殊な力を持ってるわけでは無い。
ただ頑丈さと斬って来た敵の数が多いだけの呪を込められた刀。
かつては戦場で人を斬ってきた刀は、主が死に野に晒されていたのを集められ溶かされもう一度、刀として蘇る。
十分な呪いと戦の空気がしみこんだ鉄は、十分とそれが生きた刀となった。
信吾の使う刀はその呪われた刀の方でもかなり新しい分類に入る。
呪いは貧弱で小さくそれだけでは武器として使えない。
ただその呪の力がこれを魔を斬れる刀としていた。
だが決して魔を倒すための武器ではない、それにしてはあまりに貧弱すぎる。
「そんな貧弱な退魔の武器で戦うお積もりですか」
「昔から今も変わらない、これで十二分だ」
そう言い放ち、信吾は駆けた。
神速とは言えないがかなり速い速度、その姿が見えなくなる前に月美も自分の住んでいる小屋へと向かう。
小屋にある自分の部屋に愛用している弓を置いているのだ。
今も護身用の短刀を持っているが、月美の能力ではこんな物で戦えるはずが無い。
(しかしあの森に入るのは、気が進みませんね…)
そんな事を考えていながら、その足踏みは早く正確だった。
ゆっくりと時間をかけて、手遅れになる頃に着くように。
嵐のような連続攻撃、それは正確性にはかけていたがそれゆえに凶暴。
凶暴というものを物質化すればこうなるといえそうなほど、それは苛烈だ。
それを行なっているのは信じられない事に一人の少女。
白と青の巫女は、その悪魔じみた戦い方に対して無機質な無表情を浮かべている。
時々浴びる返り血にすら顔色一つ変えない。
ただ敵を殺した時だけ、笑みをうっすらと浮かべる。
それを見ればその笑みが孕む狂気に身動きが取れなくなるだろう。
運の悪いのか良いのか、敵である下級鬼はそれに気づかない。
間違いなく運が悪いと言えた、唯一生き残れる逃亡の機会を失ったのだから。
「くふ、ふふ…あは、きゃは、はは、ははは…」
笑っていた、愉悦に笑っていた。
あまりにも純粋で、だからこそ危険な笑い声。
その笑い声の息継ぎごとに、刀を振るう。
ザシュ、グサ、ザン、ドス、ゴス、グシャ………
形容しがたい生々しい斬撃と破壊の音。
破壊されていく魔物たち、木々の影により生まれた闇の中、巫女は微笑む。
だがそれが邪悪な笑みであることは間違えようが無い。
「あは、きゃははは、くふ、あは……はーははははは!」
やっと鬼達は自分達の過ちに気づいた。
こんな悪魔に関わるべきでは、無かったと………
だがそれは遅い、あまりにも遅すぎる理解。
逃げ出そうとした一体が、ゆっくりと倒れこんだ。
当然だ、すでにその体を動かす頭と体は別れを告げていたのだから。
殺戮という名の嵐は止まらない、犠牲者をその暴虐に巻き込んでいく。
だがその嵐にも法則が一つだけあった、それは逃げようとする相手を優先するという事だ。
一人も逃がさない、みんな殺してやる。
そういった意思があった。
「本当に人間なのか疑問だな」
それをすこし離れた木の上で信吾は見ていた。
此処まで追ってきたはよかったが近づくのは危険だと判断したからだ。
危険なのは鬼ではない、あの巫女神の少女。
こっちも近づけばあの嵐の獲物にされるだろう。
「敵味方の区別など、あれではしてくれんだろう」
ゆっくりと音を立てないように気をつけてながらため息をつく。
強い、圧倒的に強いが……… 危険だ。
それよりなにより、あれではいつ“壊れるか”予想もつかない。
今、最後の鬼が倒れた。
ふらりと幽鬼のような動きで巫女は刀を鞘に収めてその場に座り込んだ。
血の池に巫女装束が浸り、赤く穢れていくのを気にも留めない。
むしろそれが当たり前のように彼女は血を浴びている。
一瞬、それが信吾には美しく華麗に見えた――― それは魔なる美しさに毒されたためか。
すぐ眩暈のようなその感覚は消え去ったが、これ以上はここにいてはいけないと叫ばれている気がした。
去ろうと思って行動を起こそうとした時、信吾は頬を撫でる風を感じた。
思わず風の吹いてきた巫女神の方を振り向く。
そこに、彼女はいない。
木下から、白い髪の女が信吾を見上げていた。
「なぁ―――」
「くす…… ゆーすけ、そこにいたの………」
巫女神が小さく微笑んで、手を信吾へと広げた。
それはまるで木に登った自分の子供を見つけた母親のように穏やかな笑みだ。
だがその母親は血塗れ。
子供が見れば悪夢を見るだろう、そんな姿だけが非現実なほどその笑みは優しい。
だからこそ、ぞっと信吾は戦慄に凍る。
体が震える、止められるわけが無い。
だって一瞬だとは言え、その姿に母を思い出していたのだから。
「どうして……… おりて、こないの」
「……ッぁ………」
「…おこらないから、ねぇ… おりてきて」
なぜ、その笑みや言葉はとても優しいのだろう。
体の振るえを抑える事ができない。
その恐怖に耐えているといつの間にか、一段下の枝に信吾は立っていた。
違う……… 降りていたのだ、無意識のうちに。
何で、だと信吾は自問する。
問題にすらなっていない、自分は彼女のところへと降りようとしただけなのだ。
だからこそ、恐怖はさらに強まった。
「何を呑まれてるんですか貴方は」
その叫びが、囚われていた信吾を解放した。
弓を担いだ月美が荒い呼吸を繰り返しながらも、巫女神を見つめる。
「天馬雫様、どうかお静まりください」
「つきみ… 邪魔、けど… もういい、今度にする」
すねた子供のような声で巫女神たる少女、雫は言う。
目をすこしだけ細めて、珍しく人間的な感情を見せた。
そして、また無表情になり去っていく。
「初めて見たら、凍ってしまうのは分かっていますが降りてください」
「あ、ああ…」
「アレがここの巫女神、強さの代わりに人間を捨てた存在なんですよ」
地面に降りた信吾は震えたままの手に力を込めて振るえを止める。
怖い、という次元では無いような気がした。
そもそもあれは本当に怖いという感情だったのかも、信吾にはよく分からない。
むしろそれはおぞましい事に………
(そんなはずが無い、捨てろ… そんな感情、捨てるんだ!)
信吾は考えかけていた感情を捨て去り、それに気づく。
そんなものを無視して考えれば、彼女を知っているような気がしたのだ。
しかし会った事など一度も無いはずである。
天馬の人間に、ましてや戦巫女にあう機会などあるはずが無い。
それは街中で黒竜が荒れ狂っているぐらい、異様な事なのだから。
他の竜族とは違い、他者との関係を拒み自らの里である異界より出てこない竜。
無論、そんな存在が地上に出てくる事など無い、例えにそういう存在を出せるほど天馬の戦巫女というのは特別なのだ。
「…天馬か、そこの戦巫女ならこんな辺鄙な場所に来ないと思うのだが」
「そういう場合は大体が事情というものがあるんですが」
「すまん、無神経だった」
何事にも理由があり、それがいい理由とは限らない。
それぐらい察するべきなのだ。
自分でも聞かれたくないことがあるだろうにと思いって信吾は嫌な気分になる。
「いずれ話すことがあるでしょうが」
「ああ、こちらからは聞かない」
「ありがとう」
そして歩き出す月美、信吾も歩き出そうとしてそれに気づく。
向けられている視線を感じた彼は視線の方を振り向く。
なぜかそこに雫がいた。
木の幹よりすこしだけ顔を出してこちらを見ている。
可愛らしいとも言えそうだが、目に光が無いのでかなり怖い。
「気にしないでください、いつもああいった感じです」
「出来そうに無いな」
「そこを何とか」
「はぁ………」
敵意あると言うわけではないが、見られているのはあまり気分が良い事ではない。
雫はすこしすると遊びに飽きた子供のように去っていった。
「視線を合わせないでよかったです」
「何だと?」
「かなり軽いのですが、魅了の力があるので雫様には」
「だから、なのか………」
それであんな感情を抱いたのかといわれると、それは何となく違うと思えた。
おそらくそれもキッカケの一つではある、だがそれだけでは無い。
間違いなくその火種が燃え上がるために使われた油は、信吾自身の内にあるのだ。
母というイメージが一瞬浮かんだ。
だが、雫という巫女神と信吾の母親は全くの別人… 全く似ていない。
むしろ異様なほど元気であった母とは共通点すら見当たらなかった。
しかし、そのイメージが何故か残っている。
(たく、餓鬼ではあるまいに)
心でそう呟いた頃、神社が見えてきた。
そして先ほどまで居た場所を、やっと理解する。
先ほどまでいた戦場は、あの忌々しい森だ。
それを知った信吾に疑問が浮かぶ。
なら何故、あの恐ろしい場所に居たはずなのに恐怖を感じなかったのだろう。
「…そろそろ、暗くなってきます」
「ああ、そうだな」
「“神社に入らないと狂いますよ”」
そう言って月美は駆け出した。
脱兎のごときその速さに信吾は唖然とし…… ゆえに、逃げ損ねた。
まず感じたのは、寒さだった。
何も着ずに水を全身に浴びて雪山に入ったかのような死の寒さが全身を舐める。
それに震えるよりも早く鼻腔に腐敗を連想させる空気が進入してきた。
あの孤独感と疎外感が滅びの津波のように襲い掛かって………
「――――――――――――――!?!?!?!?」
悲鳴、いや擦り切れてもはや音にもならない叫びを上げて信吾も駆け出した。
一瞬でもここには居たくなかった。
こんな場所にいたら人間の魂はすぐに擦り切れる。
生存のため、いや“存在する”ために“消滅”から逃げ切らなければならない。
信吾の知識ではなく本能がそれを教えていた。
「いそいで… “回廊”が… ひらく、から」
女性のその声だけが現実との接点。
そこを目指し信吾は走り走り走り駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて………
正気を取り戻した時、彼は神社の中、地面に仰向けに倒れこんでいた。
夜となった空には月が輝き、世界を淡くその神秘の光で照らしている。
その光を浴びて“憑いていたもの”が祓われたような気分。
一度呪われた事があり、それを祓ってもらった事が信吾には一回あったが、今の気分はまさにそれだった。
月が何かに遮られた。
月美だった、倒れている彼を心配そうに覗き込んでいる。
そして信吾の額に置かれていた手ぬぐいを取り、冷たい絞られた手ぬぐいを新たに置く。
使ったほうの手ぬぐいを持って立ち上がった彼女に、ゆっくりと信吾は口を開いた。
「お…れ……は……?」
「なんとか帰って来れましたね」
“帰ってこれた”という言葉に恐ろしい物を感じながら、ゆっくりと信吾は立ち上がる。
別に体に異常は無い、だが異様な虚脱感が体を蝕む。
人の精神と肉体のうち、精神だけが疲労困憊していた。
「どこへ、繋がっているんだあの森は…」
「知りません」
そう感情を、不快感を隠さずに彼女は言う。
信吾は彼女のその感情と同じものを、あの先に感じていた。
ある意味、その先はこの世界の縮図。
善意や好意といった良い部分を除いて、それ以外を濃縮したような………
戦場もあれに比べれば子供の遊び以下の品物だ。
だがそれの本当に嫌な部分は、それが決して人間の外のものではないという事。
それは人の理解できる暗黒が渦巻いている。
理解できないという逃避が許されないのだ、あの先の世界では。
「ここは、何だ」
「地獄ですよ」
信吾の疑問にむしろ呆れたような顔をして月美は言う。
気づくのが遅いと言わんばかりに、そして気づかないほうが幸せだったとい言わんばかりに。
呪われた森に囲まれた、小さな楽園。
だが考え方を反転させれば誰もがその楽園に入った以上、外になど出ない。
見事なまでに美しい歪んだ楽園、幸福な牢獄。
間違いなくそれはこの世界に存在する地獄に違いない。
「………なんて」
なんて、残酷な幸せだろう。
森は闇の中に幻想的に存在し、月がそれらを淡く照らす。
美しい絵画のようでありながらその中身は邪悪。
「しかし、残念です」
「何が、だ」
「貴方が死ななかった事が」
ポツリと、そんな狂った言葉を月美が言った。
抑制のないその言葉に背筋が凍る。
「私は生まれた時から、ずっと此処に居ます」
月美が闇に溶けてしまいそうな、小さな声で呟く。
だがそれは澄んだ鈴のようにリンと響いた。
月を背景に、少女は言う。
信吾はそれを、聞きたくは無かった。
だが少女はその呪いの言葉を詠唱する。
「地獄にいるものが、それを地獄と自覚するには………
楽園にいるものと比べるのが一番簡単です」
そこで、微笑む。
柔らかく暖かい笑みが、なぜここまで暗い喜びを纏っているのか信吾には理解できない。
ただこの夜と月の光が狂気を生み出しているように思えた。
やっと信吾は自分が感じていた不快感が、月美とは全く別の方向を向いている事に気づく。
月美の憎悪は、信吾に向けられていた。
「だから、本当はあそこで貴方には死んで欲しかった。
………普通の世界にいる貴方と比べて、私は地獄にいる事を自覚した」
冒しそうに彼女は笑う。
そして……… 信吾を呪った。
「私は、貴方のせいで地獄に堕ちた!
なのに……… 私はッ!」
吼えるように叫んだ。
叫んですぐに、少女は駆け出して信吾の視界から消え去っていった。
「………初めて」
「ッぁ!?」
後ろから声をかけられて信吾は驚く。
振り向くとそこにはあの巫女神が立っていた。
「彼女は、あんなに感情を出したのは初めて」
しかし彼女があの巫女神だと一瞬気づかなかった。
あの狂気はいずこかヘ消え、唯の優しい少女がそこにいる。
信吾をその深い色合いを持つ瞳で見つめ、呟く。
「ねぇ、月美を助けてくれません?」
悲しげな顔をして、巫女神は月下の下に立っていた。
次回 縁の指輪
負の壱の指輪 二刻目 現実世界の牢獄―魂と心の重り、拒絶の世界―