傍から見れば、ただやっかいになる家で歳が離れていない子と仲良くなるのは必然であろう。だが、少年から
見ればすべてが偶然であり、またそれも必然と言えたのだ。
以前少年は母親から聞いた言葉がある。偶然とはまさに必然と言うというのをよく聞くけれど、結局のところ
その事象を捉えた自己視が偶然か必然かを決めるのだと。
少女と少年の出会いというのはまさにこの事に当てはまるのだろう。
少年は偶然。そして少女は必然だと。
出会いというカテゴリに入る事によって、結果としては少年の考えと少女の考えは同類項でくくることができ
る。そして見事数年後までこの付き合いは変わらなかった、否、変えたくなかったといった方が正しいだろう。
しかしそれは少年の1人よがりだということに彼は気付かされることになるのだが。
彼は思う。この出会い自体に何も問題も無くまた普通に友人として付き合うには短い時間だったな、と。
少年の母親が起きるとされている1週間。この間に何があったのか、また少年が語る。
志麻恭司が独白するたった168時間の物語を。
第十三話「やくそく・前編」
――――1日目
出会いの日を零日とし、今日より1日目とする。
さて昨日の間に何かあったかといえば、俺の部屋をどうするのかという議題があがるも、その議題自体はもの
の数分で片がつくものであった。
空き部屋自体はわりとあったようで、むしろ問題は掃除がなされていないという事ぐらいだった。
夜は掃除に費やし、ほぼ高町家全員で掃除を行ったのであっという間に綺麗になった。
ベッドではなく布団に足の小さな机が一つあるだけの簡素で簡易的な空間。むしろ俺に部屋を割り当ててくれ
るというだけで頭が上がらないというのに、ここまでされてしまうと逆に恐縮してしまうくらいである。それほ
ど優遇されているのだと、子供ながらに思う。
ただ、それでも私物は無いのでまずは自宅から必要な物を1週間分取りに行く。
もし母親が起きることなく1週間過ぎたとしても、もう少しいてもいいのよと桃子さんより言われていたのだ
が、とりあえず母親自身が1週間で起きると言っていたので、まずはそれに従う事にしたのだ。
さてそれで今、俺の家へと向かおうとしたのだが……。
「おはよう、すごい早起きなんだねきょー君。あれれ、何処行くの? そっちは洗面所じゃないよ」
早朝、それもまだ日が出ていない状態で必要な物だけ取りに行こうと考えていた俺の行動は阻まれる。
俺の目の前にはまだパジャマ姿でこれから顔を洗いに行くよと言わんばかりの眠気眼をこすりながら現れた高
町家長女、美由希さんの姿があった。
さてこのあだ名なのだが、どうやら俺と恭也さんの名前の字が1字同じだという事で美由希さん脳内会議によ
りこういう呼び名になったらしい。ちなみに恭也さんの呼び名は恭ちゃん、だそうだ。
それにしてもみんな朝が早いようで……とこの後事情を聞いてみると桃子さんと士郎さんで喫茶店を営んでい
るらしく、その上まだオープンしてまだ月日も経ってないという。その喫茶店の軌道がしっかりと乗るまで忙し
いとの事。そう、士郎さんがいないからこそ家族で助け合っているという事らしい。
「美由希お姉ちゃん、なんでもないよ」
ちなみについ最近指摘された俺の癖がこの時点で既に出ていたらしい。
まったくもって子供らしくない子供だと自分でも思う。
「そう? それじゃお姉ちゃんと一緒にきょー君の家に行こうか。必要な物取りに行かないと、明日から学校も
行くんだよね」
「うん」
さてこの後問題も無く俺の家から必要な衣類や学校への持ち物、その他色々と必需品をそろえたのだった。
「ありがとう、お姉ちゃん」
「どういたしまして。私達のとーさんも大変だけど、きょー君のお母さんも大変だもんね。お互い様だよ!」
「うん、だからありがとう!」
「いい子だー、いい子だよー」
この日の戦果。
美由希さんから頭を撫でられる。
――違うんじゃないのかな……。
――――2日目
学校に行く日。
既に朝食は出来上がり、皆食卓につき桃子さんの手料理を頬張る。パティシエとしての腕だけではなく、料理
人としても問題ない出来であり、ついつい居候という事実も忘れ次のご飯へと手が伸びる。
そんな姿を高町家に見られながら――微妙に愛玩動物を見るような目だったのは忘れておく――食べきる。
家を空けるのが一番早いのが桃子さん、当然ながら翠屋の開店準備があるためだ。
次にというほど間は空かないのだが恭也さん、美由希さんと続く。まず翠屋で手伝いをしてから学校へ行くと
いう事らしい、当然ながらこの事に関してはさすがの俺も申し出をした。何もせずに厄介になるというのは子供
心ながらにも居た堪れない気持ちであったのは確かだったから。
しかし相手は桃子さんだ。
相手の真意を見破り、そこから己の成すべき事を決める事に関しては随一と言っても過言ではない人物。そん
な人が学園に入って1年するかしないかという子供に手伝わせるだろうか。
答えはノーだ。
気持ちは嬉しいけれど、というまるで女の子に告白して断られる前振りから始まる拒否の返事を貰った。それ
でも俺の居た堪れないと思っていた気持ちを軽くするのには十分だった。
しかし、今を思うと開店準備というのはやはり大変な事なのだから手伝ってもらってもさせる事が無い、とい
う裏返しでもあると思う。店内で何も出来ずうろたえる様子を見るのは忍びないのだろう。
そういう訳で俺はいつも通り学校へと赴く事となる、のだがどうにも気になることがあったので少しだけ話を
していこうかと思う。その相手こそ高町なのは。高町家の末っ子である。
「おはよう、なのはちゃん」
「おはようございます、恭司くん」
どうしても違和感を抱く。
子供だからだろうか、余計にそれが敏感に感じ取ることが出来た。いや、実際にまだ子供なのだからなんとも
言えないのだが。
違和感の正体はなのはの敬語にある。どうしても、それが引っかかってしまい気になったといえば気になる。
だがそれ以上に気になったのは、桃子さんや恭也さん達が家を空ける時に見るあの顔だ。
何か言いたそうなのに躊躇う。
そんななのはが俺はとても気になったのだ。自分の母親や兄、姉なのに何を躊躇う必要があるのだろうか、子
供なのだから言葉にしてしまえばいいのに。そう俺は無責任にも思ってしまう。だが、なのはの顔は既に笑顔だ
けだ。あの伝えたいけど言えない、我慢した顔の面影は既に無くなっていた。
そうやって子供ながらに色々と考えてたせいか、なのはが俺の顔をうかがってきた。
「どうしたの? 恭司くん学校始まっちゃいますよ」
「うん、そうなんだけど……」
言いよどんでしまう。この時の俺は自分の気持ちをストレートに出すことが苦手だったからだ。
はっきり言おう。昔の俺は内気な性格だった。常に話す事を躊躇う、そんな俺がなのはの心配をしているのだ。
今思えば滑稽だが、恐らく自分の姿をはっきりとなのはに重ねて見てしまったせいだろう。
だから余計に彼女の我慢する姿が気になった。
「なのはちゃん、この後どうするの?」
「家でお留守番ですよ」
「なのはちゃんははどうするのって聞いてるの」
「んん、何かして遊んでますよ」
この時にはっきりとは分からなかったが、なのはの心の内が分かった気がした。
だから俺は1つの決心をすることにした。
「そっか、それじゃなのはちゃん待っててね、行ってきます」
「う、ん……? いってらっしゃい」
なのはの怪訝な顔を無視し、俺は何食わぬ顔で学校へと出かける。
その腹のうちは、世間的に言えばあまりよろしくない行動をするという一物を抱えて。言わば、サボタージュ
と呼ばれるものである。
だけど当時の俺だって、そういう事をすることはいけないという事くらいは理解していた。だけどそれを犠牲
にしてもやるべき事なんだろうと俺は決意したのだ。
――学校に何事も無く到着。
1時間目や2時間目は普通に授業を受けた。何故ならそれらは全て教室で行われるからだ。さてチャンスは次
の3時間目にやってきた。
体育。
こう聞けば、大半の人は分かるだろう。そう着替えをしてから学校の外に出る、この2つの行為が時間を空け
てくれる。ある程度慣れた人なら心構えなど必要ないのだろうが――慣れる人などいるのだろうかと少しだけ疑
問だが――この時の俺は内心は緊張しっぱなしである。
クラスの全員が着替えに入ったと同時に俺は荷物を持ってトイレへと行く。途中好奇心旺盛なクラスメイトが
何処へ行くのか聞かれたのでトイレと言うと「お前体操服持ってるけど、トイレで着替えるつもりかよ」と笑い
ながら聞いてきたので、その答えに「ついでだよ、ついで」と返した。
当然ながら、その後この年齢である特有の洗礼が待っていた。
その辺りは割愛させていただくが、トイレ、小学生、このフレーズくらいで想像していただけると助かる。
とりあえず当時の俺にとっては恥ずかしい思いをしながらも、行動を止めることは無かった。それ以上にあの
子が寂しい思いをしていると思っただけでも胸がはちきれそうな気分だったからだ。
さて、トイレで時間を潰し授業が始まるとほぼ同時にこっそりとトイレから出る。
目指すは裏門。
ちなみに学校自体のセキュリティーは万全な物だ。侵入者はおろか校外へ出るだけでも一苦労というのに俺は
それを断行する。何故そんな勝ち目の無い戦いへ挑もうとするのか?
いや違う1つだけ、勝算があった。
今でも付き合いのある悪友曰く、3時間目の授業はじめ15分の間だけセキュリティーが切られるという事ら
しい。何故かと理由を聞いてみると警備の人間がこの時間だけ休憩するからと言っていた。
そこで悪友に何故セキュリティーをわざわざ切る必要があるのか、とも聞いてみると。
「休憩時間じゃないから監視カメラとかに写るのがまずいんじゃないかね。
あぁ、ちなみに何をやっているかも聞きたいか?」
との事。当然ながらその後の話は小学生が聞いてはいけないのだろうと判断し遠慮しておいた。
つまるところ、警備員が独断で毎日その休憩時間を設けているらしい。
しかし小学生がそこまで周到に調べているあたり悪友は後にとんでもないことを引き起こしそうで怖かったが、
別の意味で怖いので見知らぬ振りをしておいた。
とまあこのような経緯もあり、さらには今日において3時間目が体育という今日この日、やらねばならぬだろ
うと決意を新たにしたのも確かだ。
さて、気付けば裏門が見える――のだが、何故かこの日に限って名前の知らぬ先生が裏門を見渡せる位置に立
っていたのだ。
なんで今日に限って、と愚痴りそうになるがやらなければならない。
どうせ後日怒られるのだ、今怒られて為すべき事が出来ないのと、後で怒られても為すべき事をしたのでは大
いに意味が違ってくる。
強硬手段を取る事にした。
裏門の横には大きな木が生えている、これがターゲットだ。学校の中を見られないという非開放的な木ではあ
るが、今の俺にとっては僥倖である。そそくさとその木によじ登り、裏門の外へ繋がっている枝を綱渡りの要領
で歩く。
位置的にも先生は見えるだろうが視界において上というのは案外見られていないものだ。そんな事露知らずに
俺はただ隠れながら進めるという理由だけで木に登った。
そのまま裏門から出た所でおおよそ4mくらいの高さから途中にある枝をつたいながら降りる。正直に言えば
かなり怖かったが、それでも俺は止まることは無かった。
ここまでなんだかんだと経緯を語ったのは一応理由はあるのだ、その種明かしは後にしよう。
結果としては脱出成功である。
誰に見つかることも無く、裏門からこっそり通学路へと戻ろうとして気付く。
「いつもの道歩いてたらきっと止められるかな……」
そういうことで、いつもの通学路は使わずに遠回りをしながら高町家へ行ける道を方角から探す。
当然ながら方角があっちのほうだ、程度にしか理解していなかったので時間がかかってしまうが、なんとか昼
前には家へと戻る事が出来た。
玄関を開ける。
するとなのはが何事かと駆け足で玄関へと様子を見に来た。
「――あれ? 恭司くん」
「恭司くんですよ、ただいまなのはちゃん」
「え……あ、おかえりなさい」
戸惑うなのはを置いて俺はひとまず制服から着替えるので自分の部屋へと戻る。
するとなのはが付いてきた、まあ何で早く帰ってきたのか聞きたかったんだろう。そのまま部屋へと通す。
いつもの私服に着替えながら、なのはの質問に答えた。
――何で早く帰ってこれたのか。母さんの所に行きたいと言ったから。
――何で着替えないで病院に行かなかったのか。今日はまだ行くつもりじゃないから。
――じゃあ何で早く帰ってきたのか。なのはちゃんと遊びたかったから。
大まかに省略するとこんなやりとりだった気がすると思い出す。
俺が何をしたかったのかと言えば、なのはの相手をしてあげたかったのかと思う。何度も言うもなのはにとっ
ては失礼かもしれないが、なのはの姿が俺に重なって見えたから。
きっと、寂しいのではないのだろうか――と。
そのまま夕方になるまでずっとなのはと一緒に遊んでいた。一緒に積み木で遊んだり、一緒に外へも出かけた
りと普通の、それこそ友達のように一緒に遊んだ。
当時俺に出来たことといえばこれくらいだった。
さてと、そろそろ種明かしといこう。既に時刻としては夕飯時になりつつある時刻病院から戻ってきた桃子さ
んが帰ってくた。その前に恭也さんや美由希さんも帰ってきている。
「ただいま、恭司君いる?」
「おかえりかーさん。恭司ならなのはと遊んでるが……、何かあったのか?」
「あーうん、ちょっとね。ありがとう恭也」
なのはと結局ずっと遊んでいた事となる俺だったのだが、まったくもって危惧していなかった相手から思わぬ
攻撃を受ける事となった。
「恭司君」
ふと俺が振り返ると、そこには鬼がいた。
「あ……、えーっと」
一生懸命にごまかす言葉を思いつこうにも、顔を逸らす事が出来ない。きっと本気で桃子さんは怒っていたと
思う。勿論桃子さんの怒り顔を見ながら俺は言い訳すら考える事が出来なかった。
当然ながら何で怒っているのかという事に関しては大体検討がついていた。
母親が病院で意識不明、子供が1人、そんな子供が学校を抜け出す。考え付く結果としては嫌な方向にしか進
まない。学校側もそういう想像を当然ながらしたのだろう、そして思いつく行動といえば――
「恭司君の学校から連絡が来たわ。
――学校抜け出したって聞いてびっくりしたわよ。もしかしたら何処か知らない所へ行ってしまうのではない
のかとか、先生方も心配してたわ。さて、どうしてこんな事をして心配かけさせたのか教えて貰いましょうか」
「う……」
子供ながらの浅はかな考えだった。怒られるのは明日の学校でと思っていたからだ。
そして後日聞いたことになるのだが、リークしたのは悪友らしい。実は警備のあの話確かな情報らしいのだが、
何故それを俺に教えたのか、それはあいつが俺を貶める事に対して労力を惜しまない事。これを考慮できなかっ
た俺の負けである。
勿論、桃子さんの言っていることはもっともな事であり、それを理解できない俺でもなかった。
「ごめん、なさい」
謝るしか無かった。謝って済む問題では無いことは重々承知した上で謝った。迷惑を顧みず俺の事を引き取っ
てくれた人に対して今日の行為は冒涜だったと気付かされる。
けど、俺はその行為自体を謝る事は無かった。
「心配かけて……ごめんなさい」
俺が後悔してしまったら、なのははどうなる。
なのはの為にした事なのにその事について謝ってしまえば俺は、なのはのせいにしてしまう気がした。だから
俺は絶対に後悔もしないし、行いに関して謝らない。
俺が謝るのは、心配をかけさせてしまった人に対して余計な思いをさせてしまった事に関して謝る。
そんな俺の意思が伝わったのか、桃子さんの怒気は少しだけ晴れる。
「はあ……本当は何で学校を抜け出したのか聞きたかったけど……大体は分かったわ。恭司君、もう2度とこう
いう事はしないでね? 本当に心配したんだから」
「うん」
「よろしい、それじゃあご飯にしましょう」
俺に向ける桃子さんの笑顔は晴れ晴れとした物で、それを過剰に感じてしまう。
本当に俺を心配してくれたんだな、と。
この日の戦果
なのはと遊んで桃子さんに叱られた。
――少しだけ大切な事を学んだ気がした。
――――3日目
学校に行った日。
何故か学校に行くと何事も無く繰り返される日常の如く、俺の脱走騒ぎはまったくといっていいほど話題には
ならなかった。
その事に関して悪友が色々と画策していただけあって、アフターケアも任せておけばいいという事なのか。そ
ういえば、今後もあいつに色々とされるも何故か大きな騒ぎにはならず、俺だけが必ずあたふたしていた記憶し
か残っていない。
無駄にアクティブな奴だと今でも思う。
それに桃子さんにはこれ以上心配をかけさせたくないので、大人しく授業を受ける。まあ思考の半分くらいは
殆どなのはの事ばかりだったが。
当然ではあるが昼以降も授業を受け、他の大衆と同じ様に同じ時刻に帰宅する。
なのはの事も気になったのだが今はそれ以上に『翠屋』という喫茶店に興味が向いていたので、とりあえず今
日のところは教えてもらった道筋通りに進んで翠屋に行くことにしたのだ。
学校から一直線に進み、道に迷うこと無く歩いているとすぐ先に翠屋の軒先が見える。
さすが小学生の授業数である。店内にはまだお客さんの数は多くなく、特に並ぶことなく入ることが出来そう
だった。
店内に入ると落ち着いたBGMと共にコーヒー豆特有の香ばしい薫りが鼻を通る。店内にはお客さんが数人い
るくらいで席はいくらでも空いていた。
とまあ受付に誰もいないので、玄関先で佇む事にした俺。
そんな俺の様子をカウンターの奥からたまたま店内の様子を見た桃子さんに見つかる。そのまま桃子さんは俺
をテーブル席に座らせると少し待っててねとカウンターへ戻ってしまう。
何もすることがなく、様子を見たかっただけの俺に対して妙に接客しているような桃子さんではあったが、思
えばここは翠屋であり桃子さんは従業員であり、俺は一介の客に変わりは無い。それにここにいるお客さんにと
って俺らの関係は分かるわけが無く、桃子さんの対応は正しいものなのだろうとぼんやりと馬鹿は馬鹿なりに考
えていた。
それが意味のない解釈になってしまうのはもはや言うまでもない。
桃子さんが戻ってくると手にはトレイを持ちその上にはコップとお皿がある。コップの中には橙色をした液体
――きっとオレンジジュース――にコップから少し離れた所にある皿の上にはおいしそうなシュークリームが乗
っていた。
何も注文していないのに出てきた品物に俺は戸惑いを覚える。
「ゆっくり食べていってね」
聞いてみるとサービスとの事。
先ほどまで考えていたお客さんと従業員という公式は見事に崩れ去り、桃子さんは既にいつもの俺との距離で
接してくれた。
それが子供ながらに特別なのだと感じるのは簡単である。子供というのはいつでも特別と言うものに憧れる。
ヒーロー、主人公、王族、特殊な力、そして魔法使い。
そんな世の中の物語で溢れていて、けど現実でそれになれないような特別。それ以外にもこんな簡単な優越感
を得ることだけで子供は特別と感じるのだ。
俺自身その枠を外れる事はなくまったくもって傲慢な事だが、それでも俺はとても満足した気分でいた。
早速だがいただいたシュークリームを食べる。
「おいしい」
考えも無く口にした言葉、反応だけで出た言葉、そして口から発せられた言葉がこのシュークリームに対して
抱いた気持ち全てだった。
ただ下品に甘いだけでなく、カスタードは甘すぎずそれでいて甘味と分からせてくれるくらいの甘みで口当た
りの軽いクリーム。しっとりとした焼きたてのシューがまたクリームの甘みを引き立たせてくれるアクセント代
わりとなっていた。
甘いものがここまでおいしい物だと気づかされたのは今日が始めてだった。
今まで駄菓子とかを母さんに隠れてこっそり食べていた事があったが、どうにも俺は満足しなかった。自分で
も思う、贅沢な舌だと。
お陰で俺は今日この日をもって自他共に認める甘味好きになったのだ。いや桃子さんには本当に頭が上がらな
い思いである。え、甘いもの好きなのに駄菓子は駄目だって? だからさっきも言っただろう贅沢な舌だと。
「どうだったかな、シュークリームの味は」
「とてもおいしかった、本当においしかったよ。ありがとう桃子お姉ちゃん!」
「ふふ、気に入ってくれて何より。それより恭司君、もう少しここにいる?」
思案する。
なのはの事も気になるし、それに翠屋の事も気になる。天秤にかけることはあまりよくないのだが、どうして
も選択肢としてこの2択だった為、かけざるを得なかった。
昨日は確かになのはについていたからいいという訳でもない。なのはの事は結局分からず仕舞なのだから。
だけど俺は――
「今日はもうちょっとだけ居てもいいかな? まだジュース残ってるし」
「いいわよ。というより遠慮なんかしなくていいのよ」
言葉にしなくても伝わる気持ち。
お互い何も重要な事を話していないのに、ある程度お互いが言いたい事が伝わっているこの感覚。心地よいこ
の気分に俺は酔いしれるも、何をすべきなのかを見失わないようにする。
桃子さんは今度俺の席からカウンターへ、そしてカウンターから厨房へと身を引いた。
その間に続々と入ってくるお客さん達。女子高生、女子中学生、仕事途中のOL、サラリーマン、カップルと
多岐に渡って翠屋へ来店する人たち。
きっとこの人たちも桃子さんの作るケーキや、おいしいコーヒー、居心地のいい店内に惹かれてやってくるん
だろうな。
俺も皆と同じようにこの店が大好きだ。今でもその気持ちは変わらない、きっとこの先もずっと――
この日の戦果。
翠屋の位置と甘味の素晴らしさに気づく。
――変わりたくない、変えたくない。そんな気持ちを抱いた日。
――――5日目
悔しさに初めて涙した日。
今日も早めに帰ってきた俺を出迎えてくれたのがやはり1人家で留守番をしていたなのはだった。
昨日の事もあるので少々顔を合わせずらかったがそれでも彼女は大切な友達である。昨日思い知らされた俺は
それでも諦めずになのはと一緒に遊ぶことにする。
「今日も早いね、恭司くん」
「ん……、そうかもしれないね。あ、そっちにあるピース僕に頂戴」
「はい、これだよね」
「うん、ありがとうなのは。これをここにっと」
「あれ? それ違う気がするよ、ほら絵が合わない……、でもどうしていつも早いの?」
「あわわ本当だうーん、難しいねパズル」
なんとなく、言うと恥ずかしかったので肝心なところは全て曖昧にしていた。
気難しいと言えば話は早いのだろうけど、それだけでは語れない何かがあると思っていただけると助かる。自
分自身あの時抱いていた感情はなんだったのだろうかと今でも疑問に思う事があり、それを知るには俺にはまだ
早いのかもしれない。
いつか昔の思い出話として笑いながらその時の感情も含めて語れる日がきっとくると思っている。そんな日が
来るのは本当にいつなのだろうかと時々不安にも似た焦燥に駆られるが、慌ててもしょうがないだろう。
「これと……、これをくっつけて……」
「なのは何してるの?」
「んとね、はいこれ!」
なのはは手持ちのピースを使ってなにやら忙しくひとつひとつをくっつけていた。それらは全てきちんと正し
くくっついており、なのはの思考は数学的向きなのだろうと誰もが思うような速さだった。まあそれは今のなの
はの成績を見れば一目瞭然なのだが。
なのはが急いでくっつけたピースを俺に差し出してきたので、それを覗き込むように見ると。
「うわあ、星だあ……、すごいねなのは!」
「えへへへ」
でも本当に見せたいのはきっと俺じゃ無い、それは昨日で分かっていた事だった。だけどそれでも俺は淡い期
待を胸に抱いてしまうのだった。
だから俺はつい、言葉にしてしまう。ずっと胸にしまっておこう俺が関与すべき問題じゃないと頭のどこかで
常に警笛を鳴らしていた筈だったのに――
「恭也お兄ちゃんと美由希お姉ちゃんも見たら、きっと一緒に喜んでくれるよ!」
「…………」
永遠に楔で繋いで表に出さないようにしていた言葉が簡単に箱から飛び出てしまった。
恭也さんと、美由希さん、そして桃子さんに士郎さん。俺には出来ないここに入る事は出来ない。
なのに俺はその出来ない事を平然と出来る事と勘違いしてしまっていた。俺は今でも思う、恐らく現状生きて
きてこれほどまでに後悔の念に苛まれたことは無いと。
俺のそんな無責任な言葉になのはの表情と感情は凍りついてしまう。溶けることの無い、一面が氷で覆われた
永久凍土の如く。
その時になって愚か者の俺は気づく、己が言った言葉の真意を。
「……パズル完成させよう? 恭司くん」
「――うん」
謝る事すら出来ない、なのはは既に笑顔だったからだ。
否定されるのが怖かった、拒絶されるのが怖かった。だから俺は謝ろうとしたけれど口には出来ず、なのはが
普通の調子に戻るのが早かった。
でも、俺はこの事で決意を新たにする。
俺が唯一出来る事それは――
時刻は既に空に掛かる赤いカーテンが黒い星模様のカーテンに替わり、大分時間が過ぎた頃。
夕飯も頂き、あとはゆっくりとする時間、俺は行動に移る。なのはは既に寝ている時間というのも計算済みで
ある。
「桃子お姉ちゃん、お話があるんだけど」
「その声は恭司君ね。なあに?」
食器を洗っていた桃子さんは、話しかけてきた俺に手はまだ食器を洗いつつも顔だけ向けてくれる。
別に疲労感はあまり無いと見られる顔だったけど隠しているのは分かってしまう。俺が心配するのも小門違い
なのかもしれないけれど、それでも俺はやはり心配になってしまう。
疲労が見えないなんて事は無いはずなんだ。
だけど、俺にはそれを聞く事はしない。今する事はその心配事に上乗せして塗りつぶす行為なのだから。
「うん、恭也お兄ちゃんや美由希お姉ちゃんも聞いて欲しいから、今はまだいいよ。食器洗うの手伝うね」
「ありがとう、恭司君」
台所に当然の如く手が届かないので補助台を出してもらい、桃子さんが洗った皿を布で水分を拭き取る。
お互い無言で作業する。
俺の様子が少しだけ違う事なんて桃子さんにはお見通しだったようで、重要な話なのだろうと思ったのかもし
れない。そのせいか俺らはお互いに喋る事は無かった。
これからやる事、話す事は全て都合のいい話なのかもしれない。これでうまくいくなんて思ってもいない。だ
けど俺がしなければ俺自身が絶対に後悔すると、それだけは分かっていた。
全て拭き終わり、食器を元の場所に戻すとテーブルには桃子さんが呼んでくれたのだろうか、なのは以外の高
町家全員が揃っていた。俺はテーブル席に付くことは無く、みんなを見渡せる位置で話をしようとする。
手に汗を握ってしまう。
知らないところで俺はどうやらとても緊張していたらしく、自分で気づいてみると心臓の音は激しく耳元で聞
こえる様な気がするし、額には変な汗も掻いていた。
それでも絶対になのはを助けてあげるんだという使命感にも似た様な、そんな自分勝手な思いを持ちつつ口を
開く。
「あのね、お話を聞いて欲しいの」
言ってしまう、俺は自分が何をしているのか分かってても言ってしまう。
だって、約束したから。絶対にって約束をしたのだから。
みんなの目が俺へと向けられるがそれでも気にせず続きを語る。
「みんな大変だって分かるんだ、僕だって子供だけどそれでも分かる。
桃子お姉ちゃんはみんなを支えてくれてる、それでお店も支えなくちゃいけない。
恭也お兄ちゃんはそんな桃子さんを支えてる、自分だって辛いのに桃子さんを支えてる。
美由希お姉ちゃんは分かっててもみんなを不安な気持ちにしたくないから、笑顔でいる。だけど――」
自分の思いを口にするという恐怖感は拭い去れない程大きく。口の中は乾燥し、唇も乾き、目も少しだけ虚ろ
になるし、さっきから心臓は張り裂けそうになっている。だが心の奥底では自分が沢山いた。
――言ってしまえ! 俺が思っている事を全て吐き出してしまえと、自分に打ち勝とうとする俺と。
止めておけ、どうせ誰も分かってくれないと、消してしまいたいくらい嫌な俺がいた。
けれど俺は自分に正直になりたかった。だから俺は嫌な自分を押しのけて力一杯今思っていることを話した。
「――なのはは? なのははどうなの!?
みんな自分の事で精一杯だって分かってるよ、みんな辛いんだって本当は泣きたいくらい辛いって。
そうしたらなのはだって辛い思いをしているのに、なのはの事をいい子だってそれで終わりにしちゃってる。
なのはの事を見てあげてよ、本当は辛いのにみんなと心が離れ離れになってるって思ってるよ。そんな気持ちで
なのはが苦しんでいるのに、どうして誰かが付いていてあげないの!?
それともみんなは、なのはの事なんとも思わないの!」
なんて我がままな思いなんだろうか。
気持ちを、思っている事を口にするという事が思っていた以上に難しい事も知った。
俺が見る限り、いつもなのはは1人だった。実際、なのはにはみんな良くしていた。けれどなのはの気持ちは
いつも1人だった。
「恭司が言ったように、俺たちは確かに気持ち的にも実際に辛い。だけどそれはみんな一緒だってお前も言って
いた。だけど、今俺たちがすべき事は――」
分かってる。
いや分かっているつもりだった。だけどそれでも俺は必死に彼女の為だけを思い、叫ぶ。
悔しくて、とても自分が情けなくて、涙しながら叫んだ。
孤独な女の子がいる事をここにいる皆に分かって欲しかったから。
「みんな忘れてる!
――本当に大切なモノには順番なんてない! だから……だか、ら」
もう駄目だった。せき止める物は何も無かった。俺は俺の言葉でこの場にいる人達を傷つけている。
俺の傲慢な思いでなのはを助けてあげようと、救ってあげようとしたけれど、俺の気持ちだけが空回りしてい
た。
握った拳はとても痛くて、それ以上に心が痛くて。
俺が出来たのはここまでだった。俺はそこで……、逃げたんだ。
「恭司君!」
「恭司!」
「きょー君!?]
桃子さん達が放つ制止の声も振り切り俺はこの場から逃げ出してしまう。
みんなに合わせる顔が無いから、悔しくて涙した自分を見せたくなかったから。
本当はこの家を出て行こうと思ったけど、それこそ桃子さんの思いを無駄にする行為だとさすがに思いとどま
る。それに出て行ったところで行くところは誰もいない暗くて寒い自分の家だけだ。
「…………」
俺は自分の部屋へ戻り、1人窓から見える白く輝く三日月を眺めながら殻に閉じこもる。
どうしてもっとうまく伝える事が出来ないのだろうか。
話すというのはとても難しい。自分以外に今の自分が思っていることを伝える、そんなことで済んでしまう言
葉でも、そんなことで片付けられない何かがあるという事は確かなのだ。それを話す事というのは本当に難しい
と思う。
「…………綺麗だね」
俺が部屋に閉じこもってから数分してからだろうか、扉の前に誰かが立っていると分かった。
誰だろうか、桃子さん? 恭也さん? それとも美由希さんだろうか、俺は今は誰も会いたくないと思ってい
た。俺はあの人達にどういう顔をして会えばいいのか分からないから。
だけどその誰かが俺の部屋に入ってくる様な気配は無い。ノックも無い。ただそこに居るだけだった。
そんな生殺しな気分が俺の心を蝕むように這ってくる。いい加減に入ってくるなら入ってきてくれ。そんな言
葉を口にしてしまいそうになる。
だから俺は――扉を開けることにした。
「……」
「こんにちは。あれ? 夜だからこんばんは……、かな? えへへ」
思ってもいなかった人が俺の視線の先にいた。
まだ俺より小さい女の子。末っ子のなのはだった。
「どう、して」
「起きてたよ、ずっとずっと。きっと恭司君は私なんかの事で苦しんでるのかなって思ってたら眠れなかった」
「なんかって……、言わないでよ、自分の事なんだから」
この場で立ち話もなんなので、俺はなのはを自分の部屋へと招き入れる。
彼女は既に寝る前だったのでパジャマに着替えていた。可愛らしい熊のプリント入りの桜色をしたパジャマで
ある、それと腕に持っていたのは枕だった。
「ありがとう、恭司くん」
「――え?」
「うん全部聞いてた、聞こえてたよ恭司くんの声。ありがとう、あとごめんなさい」
そう言うとなのはは持ってきていたハンカチで俺の顔を拭く。
涙や涙の跡を消し去るように、それが自分の為に流してくれた涙なのだと理解して。
彼女の顔に笑顔出ないのは俺にとってとても苦痛だった。菜の花の様に周りの皆も笑顔でいられるような笑う
彼女の笑顔が無いのがとても悲しかった。
だから俺は必死に笑顔を作った。
なのはが笑顔を作りやすいように、俺が笑顔でいてあげようと思った。
それになのはが言ってくれたありがとうという一言、俺にとってはその一言がとても嬉しかった。彼女の為を
思ってやったことなのだ、彼女が嫌な思いをしてしまうのでは意味が無い。
俺は何故だか彼女を救ってあげようと思っていたのになのはの感謝だけで、まるで俺がなのはに救われたよう
な気がした。
俺達はそのまま一緒に笑顔で次の日を迎えた。
この日の戦果。
思っていた事を、なのはの苦しみを少しでも助けてあげようと思った事をみんなに言った。
――自己満足かもしれないけれど、それでも俺達はお互いに救われた日。
【あとがき】
こんにちは、こんばんは、おはようございます。きりや.です。
読む方の時間帯はきっとバラバラですので、全部挨拶してみました。
8月中旬より『外痔核』と呼ばれるいぼ痔にかかり、直るのにおおよそ3週間。
8月末より顎がズレ、かみ合わせがおかしくなり、噛む度に激痛が走るという現象が起こり、医者にかかって
みるとなんとまあ、親知らずが原因ということで抜歯してきました。
現在、前歯の神経が死んでいるということで、色々と治療を受けている最中であります。
まさに踏んだり蹴ったり。
また最後となりましたが、読者の皆様とこのSSの展示をしてくださったリョウさんに感謝を。
では次にお会いできる機会を楽しみにしています。
作者さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板、