過去を話そう。
彼の出来事を辿ろう。
過去の過去を話そう。
彼女の出来事を辿ろう。
それは、辛くも悲しかった出来事から始まった。
悲哀の混じった新たな出会い。
伝えよう、大切な人へと。
第十二話「過去の先にあるもの」
それはいつかの優しい時をゆっくりと刻んでいた毎日の1日。
まだ世界が自分にとって不条理で理不尽で時に牙を向けるものと知らなかったそんなある日。
学校の帰りに母親と一緒に買い物をしてから家に帰ろうと思った時。昼の白い光が徐々に夕方の茜色に染まろ
うとしていた時。手を繋ぎ、横断歩道を渡りながら母親に今日の晩御飯を笑顔で尋ねていたそんな、いつもの幸
せな日常の時。
その日、その時――日常の線が歪んだ。
「――――お願いっ!」
トンッと母親に背中を押された。急だったのでびっくりした、だからその母親にふざけないでよと怒ろうとし
た。
――振り返る。誰かの悲鳴だろうか甲高い声が聞こえる。
「きゃああああ!」
理解できなかった。
何があったのか理解したくなかった。
ついさっきまで一緒に手を繋いで歩いていた母親が――地面に力なく横たわっているのを見た事を。
「お……お母さん? お母さん! お母さん!」
必死に叫んだ。
赤。
嫌だった。こんな風にいつも幸せな日常がいとも簡単に崩れ去る程、脆い物と知らなかったから否定した。で
も、そんな事実を消し去さろうとして叫んだ自分にとって今見える世界は冷たく鋭利な物で、現実はいつも辛く
苦しい物だとこの時、理解した。
赤。
自分から少し離れた所に、1つの赤い乗用車が止まっている。その乗用車は既に原型を留めてはおらず、途中
ガードレールや電柱にぶつかったのだろう、見るも無残でところどころに凹みがあるのを見つける。
恐らく母親をこのようにしたのはあの車だという事は分かった。
自分が守られる存在だとこの時理解する、俺は叫びそんな時間を消し去りたいと思った。
俺はこの時、何度も叫ぶ事しか出来なかった……。
「あ……あ、ああ……い、嫌だああああああああああああああ!」
この時緊張の糸が切れたのだろう、俺は気絶してしまう。
――――アカハモウイヤダ
母親の志麻美咲は、息子である志麻恭司を襲う脅威――信号を無視した車――から守ろうと必死になったのだ。
「君が志麻美咲さんの息子さんだね?」
息子と聞かれ何の事だろうと少しだけ戸惑うが、それが自分の事だと言ってるのは何となくだが分かった。
「……うん」
「そうか、とりあえず安心するんだ。君のお母さんは大丈夫、ちょっとだけ眠っているだけだからね」
この時、恐らく母さんは中々目を覚まさないのだろうな……と意識してしまうも、それでも俺は頷くことしか
出来なかった。
「…………うん」
俺が意識を取り戻したのは病院の1室だった。恐らく診察室のすぐ横なのだろう、そこのベッドに自分は横た
わっていた。
少し前の話になるが意識を取り戻した後、すぐに俺は混乱した。自らの母親が倒れた事を思い出し、また叫ん
でしまったのだ。助けて……と。当然ながら病院内である、女性――後で聞いてみると医師だと言ってた――が
やってきてすぐ俺をあやしてくれた。恥ずかしながらもその時の事は今でも思い出せる。
先程まで話していたのはその女性だ。
この時までは良かったと思った、けど母さんは中々起きなかった。俺も1日ここにいる事になったのだ。
「………………ん」
暇である。
何もない病院、白い真っ白な壁とカーテン。白いベッドには母さんが眠っていた。頭には痛々しい白い包帯を
付けて静かに眠っている。
何処を見ても真っ白だったという印象が俺の頭を埋め尽くす。
当時の俺には見たいテレビ番組があった、もしかしたらロビーに行けばテレビがあるかもしれないと思ったの
でそっと母さんの眠っている病室から出て行く。
「うぐ、迷った……」
さて当時の俺はまだ小学生である。まあ当然といえば当然なのだが、この広い病院のロビーを探すのだけでも
必死だったのだ。
左を見ても右を見ても同じ光景。
病棟と言っても入院患者用なので人の出入りが少ない。とりあえず、人が来たらついて行ってみようと思う。
多分ロビーか人がいるところに行くかもしれないからと無い知恵を絞ってたどり着いた答えがこれだった。
立っているのも疲れるので黒い簡易の椅子に腰掛ける。
やっぱり見渡しても白。その白に染まるあの色を思い浮かべてしまう……さっきの――
「う……うう……」
気持ち悪くなった。
何かを思い出そうとして、必要な何かを思い浮かべようとして……急に吐き気を感じる。
忘れよう、もう思い出さなくていいんだ。あんなあ――
「どうしたの?」
不意に俯いている俺に声を掛けてきた女性がいた。
その時の俺にはその女性の目が何故だか――今になってみれば理由は分かるけど――凄く辛そうな瞳をしてい
ると思った。
声を掛けられたのなら、礼儀良く返さないといけないと母さんに何度も言いつけられていたので、しっかりと
返す、事実と一緒に。
「迷子」
何処が礼儀良くなんだかという突っ込みは無しにしてくれ。言うなればテレビが見たくてこの人に教えてもら
えれば行けるんじゃないか……とか不埒な思いを抱いただけなんだ。
だがそんな一言だけ返した言葉に、彼女は酷く狼狽した様子で俺の事を心配してくれた。
「大変、迷子なのね。すぐ看護婦さんの所につれていってあげる……。
そうだ君、お名前は?」
「志麻恭司です」
親切な人だとこの時本気で思った。一応気になったので名前を尋ねる事にする。
そんな彼女が――
「あたし? あたしは高町桃子って言うの。恭司君さあ行こうか」
「うん」
高町家にお世話になる一端の出来事だった。
結局の所ロビーに行くことは無く、ナースセンターにお世話になることとなった。
見事迷子扱い。
いや、自分が桃子さんに迷子と言ったのがきっと悪かったのだろう、そのまま俺は――当時ではまだ看護婦と
呼ばれていた――看護士の人に引き取られるかと思えば。
「その病室であるなら、あたしが一緒に連れて行きます」
桃子さんが俺を母さんの所まで連れて行くと言ったのだ。
その間色々と話をする。何を話したのか覚えてはいないが、きっと他愛ない事なのだろう、思い出さなくても
いい内容だ。
俺がそうやって話し込んでいると気付けば母さんが寝ている病室にやってきた。
「これで大丈夫だね」
「ありがとう、桃子お姉ちゃん」
……まあ、気にしないで欲しい。あの時の桃子さんと今の桃子さんに容姿的に違いはないのだけど――それは
それで脅威ではある――やはり年上の姉みたいに見えたというのは、間違い無い。
桃子さんに促されたが、俺は病室に入ることは無く、ただ目の前の白い扉を眺めているだけだった。
そんな俺の様子をおかしいと感じたのか、桃子さんは踏み込んできた。
「どうしたの? お母さんが待ってるんじゃないの?」
「……うん。
だけど――お母さん寝ちゃってるんだ、だから暇になるから僕はここを出たんだ」
「そっか、んじゃお姉ちゃんと遊ぶ?」
結果として、俺は桃子さんについて行くことにした。
普通ならばここで俺なんて無視して病室に入れるだろう、というか普通の人なら多分そうする。例え母親が寝
ていたとしても、母親の場所が一番だって思うだろう。だけど桃子さんは違っていた。俺の事を見捨てる事無く、
まるで自分の息子のように扱ってくれた。それがとても嬉しかった。
病院を一緒に歩き回っていると、面会時間も過ぎようとしたころだ。廊下の端で話している看護士さんが居た
が、俺と桃子さんは気にも留めずその前を通ろうとした。
「今日……れた……さん、どうやら意識が…………らしいの」
「それってあの車に……たって……?」
「そうなの、しかもご家族が…………1人しかいなく……」
「親……?」
「ううん、どこ……ない……い」
――特に気にも留めなかった。そんな事実は知らなくて良かった。
だから俺は必死に桃子さんの手を引っ張る、だがやっぱり桃子さんの心は一歩踏み込んだんだ……それもさっ
き知り合ったばかりの俺に向かって。
桃子さんはやんわりと俺の手を外し、待っててねと言われたが、これ以上ここに居たくなかったので俺は先に
戻ってると一言残して背中から聞こえる桃子さんと看護士さんの話を聞かずにその場を去った。
母さんの病室が何処にあるかはもう覚えた。だから自分の母親の所に戻りたくなったので俺はさっさと病室に
入る。まだ、母さんは起きない。
「……お母さん、約束してたハンバーグ食べられなかったね」
本当は母さんが帰ってくる今日の夜一緒にハンバーグを作って一緒に食べるつもりだった……だけどそれは叶
う事は無い、そんな事を思い浮かべたからだろうか途端に悲しくなってきた。
目の覚めない母親、食べられなかった晩御飯、そして白いこの景色にただ1人取り残された感覚。そんな俺を
空っぽにするような俺という存在が希薄になる、そんな思いだけが俺を蝕み病室に漂う。
――涙した。
何でだろうと叫びたかった、何で起きてくれないのかと叫びたかった、恭司と一言母さんの声で言って欲しい
と叫びたかった。ただ……それだけだった。
「う……うっううぅぅ……」
堪えようとした、必死に声だけは出さないように耐えた。
男の子が泣くんじゃないと母さんに言われていた、だから必死に母さんの言いつけを守ろうとした。そうすれ
ば、きっと偉い偉いと頭を撫でながら、あのいつも優しい笑みを見せてくれるんじゃないかと思ったから。
だけど――母さんは起きる事は無かった。
とても悔しかった。母親に守られている自分がもっと悔しくなった、だから先ほどまでの悲しみに拍車がかか
る。
「お母さん、お母さん……」
泣くんじゃないと言われると思った。そんな淡い期待すら抱いてしまう。
でも、それでも……母さんは起きなかった。
「そんなになるまで耐えてたのね……」
泣いている俺の後ろから声がした。
いつの間に病室に入っていたのだろうか、そこには桃子さんが俺の事を悲しそうな目で見ていた。なんで桃子
さんが辛そうな顔をするんだろう。俺が辛いのに、桃子さんもそんな顔をするのだろう。その時はそんな事ばか
り考えてた。
「桃子お姉ちゃん……お腹痛いの? だから辛そうな顔してるの?」
「あ……そんなこと無い、痛くないよ。
それよりごめんね、勝手に入っちゃって……それと気付かなくて。お母さん起きないんだよね」
桃子さんの問いに俺は頷く事しか出来なかった。
痛くないと言う桃子さんの辛そうな顔が戻る事は無く、何かを決意したのか俺にこう言った。
「お母さんが起きるまで、あたしの所に居る?」
桃子さんが最初何を言っているのか分からなかった。今の俺の居場所はこの白い部屋なのだから、何処にも行
くことは無いと思っていたから。だけど桃子さんは俺のそんな考えを否定し、俺を誘う。その誘いに俺は戸惑い
しか覚えなかった。何故なら――
「お医者さんが、ここに居ろって……」
まあ、きっと医師もこんな風には言っていなかったと思う。俺はこの様に言われたと思っていたのだろう、だ
から桃子さんに誘われて、まるで医師が俺の事を手放したかのような感じで答えてしまったのだ。
桃子さんはそんな俺にひるまず、一緒に行こうと再度言った。おまけにその医師とも話はつけてあるので問題
は無いとも一緒に述べる。
悩んだ。母さんの傍に居られない事にとても迷った。だけどそんな甘言に釣られるように俺は桃子さんが差し
伸べた柔らかい手を取る。さすがに母さんを置いていくのは忍びないと思っていたけれど、当時の俺は寂しさよ
り暖かい何かを追い求めたのだった。
何度も言うが、桃子さんの行動は本来ならばありえない行動であることは今でも思う、だけどそれ以上にあの
場に居たら壊れそうな俺を見捨てておけなかったのだろう。多分俺もそう思ってたからこそ桃子さんに何の疑問
も抱かずに懐いた。
――俺は一時でも失った母親の代わりを桃子さんに見たのだ。
俺達が病院を出てみると既に外界では日は無く、月が照らす幻想的な光と共に人工的な光に包まれた町並みが
目を覆う。
時刻は夜、辺りは住宅街で静まり返っている。家から所々漏れる蛍光灯の光と街灯だけを頼りに俺と桃子さん
はひたすら歩いたのだ。
歩き続ける、すると数十分歩いただろうか桃子さんが急に止まるので俺も一緒に止まる。先に見える日本家屋
のような家、これが桃子さんの自宅という事らしい。
門をくぐる、次に見えるのが玄関。古き良き日本家屋、まさにこのような形容詞が似合うような家屋だった。
俺は緊張しつつ、桃子さんに促されて敷居を跨ぐ。
「かーさん遅かったじゃないか……。
――ん、この子は?」
出てきたのは自分より年上の男の人だった。顔に疲労していますと書かれてるくらいに疲れきった顔をして。
急に出てきた男の人に驚きながらも、第一印象が大切よと母さんが言っていたのでやはりここも気を引き締める。
……なんだね、マザコンとでも言いたいのか。
「志麻恭司、こんばんは」
「恭司君、あたしの息子で恭也って言うのよろしくね。恭也、こっちの子は病院で会ったの、ちょっと……ね」
ぶっきらぼうに言ってしまう。
だがそれ以上に気になったのが、母、息子というキーワード。なので純真無垢に聞く、悪意は無かったんだ悪
意は。
「このお兄ちゃん、桃子お姉ちゃんの姉弟じゃないの?」
「――ぶっ」
盛大に吹いた――恭也さんが。
現在進行中で腹を押さえて必死に笑いを堪えている。今思い返すと俺の言動は恭也さんを吹かせるのに強力な
ワードだったのだろう、あえて言うならばツボという奴だ。
「きょ、恭司君と言ったね?」
「うんそうだけど。……それよりどうしたのお兄ちゃん、そんなにお腹押さえて痛いの?」
「いやなに、痛いのは確かだがそういう痛みではないぞ? ――くく。
ああ、恭司君俺は高町――くくっ……恭也だ。そ、そこのお姉ちゃんの息子だよ」
凄く、笑いを堪えてる。
さてここで俺にとってまだ不明点がいくつもある。
「あの、お姉ちゃん」
「何、恭司君――恭也後で覚えてなさい」
恭也さんだけに聞こえるように言ったつもりでも隣にいる俺にも丸聞こえです、桃子さん。
さて、ここで不明点を明かそうと、子供心ながらに聞くのだ。
――女性という女性に対してである禁句を。
「お姉ちゃんって、今何歳なの?」
さて子供というのは無垢なものであるという言葉を聞いたことは無いだろうか? それは恐らく間違ってはい
ない、この時の俺がいい例である。
無垢な子供というのは時折禁句をこのように平気で世にばら撒くのだ、それも悪意無く。それが性質の悪い物
と分かっていないからこそ、大人より遥かに酷いものである。それを直すには世を知るしかないのだが、当時の
俺にとっては無理な話である。
さて、俺がこのデスワードを述べた後の記憶が何故か途切れ途切れになっているのだが、俺のシナプスがきっ
と脳神経間を通らず記憶しなかったのだろう――いや、そうしてくれ。
そういうことで時をすっ飛ばして……多分数分くらいか、記憶している所から始めよう。
「はてさて、お取り込み中の所悪いのだがここは高町殿の自宅かね?」
不意に後ろから聞こえる女性の声。
「失礼、高町殿というと語弊を招く。
――高町士郎殿の家はここで合っているかね?」
前にいる恭也さんが驚いている。何に驚いたのか分からないが唐突だったからだろうと推察する。
俺はここにいるのは初めてなので、この人の来客は俺宛では無いという事だけは――
「ふむ、そこの坊主が恭司か。
お前の母親――美咲から伝言、承っているぞ」
――俺にでした。
「貴方は誰ですか?」
桃子さんが後ろの女性に振り向き話しかける、俺も倣って来客の女性を見た。
高町家の玄関より少し後ろの方に居る女性、黒いスーツ姿に黒いネクタイ。黒い服装が相まって強調するル
ビーを彷彿させるように煌き長く紅い髪の毛、歳の頃は20代後半か……はたまたそれ以下か、妙に年齢を感じ
させない女性だった。
どうやら、このいきなり現れた女性はここが高町家であることを知り、更には俺に用事があるという。それに
意識を失っている母さんの伝言と言うではないか。
だが、意識を失っているからこそ何故この女性が母さんの事を知っていて、どうやって何かを受けたのだろう
か。疑問の種は尽きない。
「私か、私はそうだな高町士郎殿の同業者かつ敵対者さ。それとそこの坊主の母親、美咲の上司でもある」
「――――っ、なら貴方達が……」
不穏な空気を感じ、恭也さんのほうを見ると、恭也さんが女性の言葉に反応し女性を睨みつけていた。
……何か思い当たる点でもあったのだろうか。
「ああ、すまぬ。これもやはり語弊を招いたな。どうにも私は言葉を選ばない気質にあるようでな……っとそん
なことはどうでもいい。
――あの人をやったのは他の奴さ、敵対者ってのはビジネス上のでな。なあに彼奴ならすぐにでも治って戻っ
てくるだろう、それほどあやつは柔ではないさ。まあ今は大事にと言っておくよ」
「……いえ、俺も早とちりしてしまって……失礼しました」
この時、俺は子供ながらに理解した。散りばめた点はいくらでもあったのだ。
何故桃子さんが病院に居て、恭也さんが桃子さんを遅いと心配し、そして目の前の女性の物言い。それらが全
て線で繋がるとき、なんとなく俺は悟ってしまう。
――高町士郎という人が、今危険な状態だという事だ。
俺には何も出来ないし、出来たとしても俺は母さんの事で精一杯なのだ。だからここで無理に彼らに気を使う
必要も無いので、俺はそのまま何も知らないままでいようと思った。
「さて坊主――」
「僕の事?」
「そうだ、お前の事だ。
お前の母親は大丈夫だ、確かに意識がないようだが問題は無いと本人が言っていたのでな」
俺には一体何の事だか分からなかった。それは俺が幼いという理由だけでは無い、むしろこの場に居た桃子さ
んも混乱していただろう。何を言っているのだろうこの女性は……と。
意識を失っているのに、本人が言っていた。
一体全体この言葉には何の含みがあるのだろう、今の俺でも推し量れぬ物である。だがそれの後つきたしで言
葉が続いた。
「すまぬ、これも語弊か……治らんな私のは――ふふ。
ああ、とりあえず言伝としてはだ、美咲が倒れて意識不明になった場合、お前に話しておいて欲しいと言われ
ていたのでな。
『とりあえず長い間眠っているから1週間後くらいにまた来て欲しい』
との事だ。どうやら彼女は1週間は眠っているという事らしい、どういう理屈かは知らんがな。しかし、美咲
が休みになると我が社も右倒れだ、早く復帰してもらいたい物なのだが……まあこれはどうにかなるものでもな
いからな、っとすまん独り言ばかりだ、とりあえず伝えたぞ。
さて……本来ならば私が坊主を引き取る役目だったのだが、どうやらそれは彼女に任せれば大丈夫そうだ。
ではまかせましたぞ、高町桃子殿」
「――え? は、はい」
急に話を振られたのでどもってしまった桃子さん。
無理も無い、あれだけ長々と話されて急に話を振られたら誰だって動揺するだろう。おまけに内容が内容だっ
たので余計に混乱する。
女性は桃子さんの言葉に満足したのか、そのまま立ち去ろうとする。
「では、さらばだ」
一応、名前だけでも聞いておいたほうがよさそうだと思い、俺が呼び止めて名前を聞こうとした。
だが――
「ふん、坊主の物語に介入しようとは思わぬよ。
まあ尤も美咲ので私は十分だからな、もうこれ以上は――いらぬ。
私との出会いも料理の隠し味程度と思ってくれても構わぬよ、ではな」
と不敵に笑みを浮かべ、そのまま彼女は名前すら告げずに消えてしまうのだった。
擬音で表すとぽかーんとここ一同に当てはまるであろう。それほど彼女の存在感は凄かったし、突然現れたか
と思えば急に消えていなくなったから余計に呆然とした。
だけど何故か懐かしいとも同時に思った。初めて会った女性に対してこのような事を思ったのは生まれてこの
方この時だけだと思う。
「な、何だったんだ……」
「さあ……とりあえず恭司君のお母さんの上司だっていう事だけは分かったけど……」
ありとあらゆる推測が行き交うが、それでも理解出来たのは母さんの上司という事だけ。
それでも今ここで考えても仕方が無いような気もするが……。
「お母さん、ずっと寝てるだけなのかな?」
「あの人の言うとおりなら……ね。
さ、仕切りなおして行きましょう恭司君上がって上がって」
ほらほらと桃子さんは俺を家に入れようと急がせる。
何かあるわけでもないのに、なんでこんなに心の内が楽になったのだろう……と思い返せば、母さんが無事だ
という事が分かった事に安心していたのだろうと思う。
本来ならば俺の事なんて放っておいてもおかしくない状況にも関わらず、俺を受け入れてくれた高町家。そん
な暖かい人たちに囲まれて俺はこれから1週間を過ごすこととなる。
家に上がると、特に異常さを見受けられるような物もなく、一般的な家庭の家だった。そして言われるがまま
に進むとリビングに着く。そこに積み木で1人遊んでいる俺より年下の女の子がいた。
当然お世話になるのだ、挨拶を交わそうと近づくと……俺が近づいたのが悪いのかはたまた少女が下手をした
のか、積んでいた積み木が崩れ落ちる。――俺のせいか……?
崩れ落ちたのがきっかけで少女は目の前に立っている俺に気付いたのだ。
「こんにちは」
可愛い笑顔で挨拶をしてくれた……が――
「――もう夜だからね、こんばんはだよ」
どこか抜けてる女の子だなと失礼ながらに思ってしまう。
つっこみをいれられて狼狽する少女だったが、気を取り直して挨拶をしてくれた。
「にゃ!? うぅ……こ、こんばんは」
――そう今日この日、運命というべきなのか、はたまた偶然とでも言うのか……俺の中の日常が崩れ去った日。
初めて高町なのはと志麻恭司が出会った。
【あとがき】
諸事情とそして当小説の設定を煮詰めていたら気づけば数ヶ月、更新が大変遅くなり申し訳ありません。
過去の話という事で本当はあまり長引かせたくないのですが後数話だけ続きます。
ちなみに完結までしっかり書かせて頂きますので、気長にお待ちしていただけると助かります。
また最後となりましたが、読者の皆様とこのSSの展示をしてくださったリョウさんに感謝を。
では次にお会いできる機会を楽しみにしています。