連音は約束の場所を目指す。
心のざわめきも痛みも既に無い。
迷いも今は感じない。
無いのならばそれで良い。今日一日、それで終わりなのだから。そう思う。
出来るなら、はやてに楽しい一日を残してやりたい。そう願う。

だが、自身の異常を少年は未だに気が付いていない。



    魔法少女リリカルなのは  シャドウダンサー

      第十二話  分岐点 −ターニングポイント−



住宅地の中にある公園。それ程大きくはないが、近所に住む子供達にとっては貴重な遊び場である。

その隅に八神はやての姿があった。

水色のワンピースと薄いケープを羽織り、その膝の上にはバスケットが置かれている。
何度も時計と公園の入り口を見やり、溜め息を吐いたり、そわそわとしたり。
非常に落ち着きがない。


「ふぅ…自分でお昼にって約束しといて遅れるってどういう事やの…?」
そう寂しそうに呟いて、時計を再び見る。時刻は十二時を過ぎようとするぐらい。
そもそも約束の時刻というのも、昼ぐらいと言っていただけだ。

だからはやてが連音を遅刻呼ばわりするのも微妙に筋違いであった。

とは言え、はやては十二時前から待っているので色々言いたい所もあるのだろう。
「こうなったら手練手管、あらゆる手段を使こうて今日一日弄繰り回したる…クックック……」
とても数行前と同一人物とは思えない程の邪悪な笑みを浮かべて、はやては両手をワキワキとさせる。
「あれやらこれやら……色々やったる……八神スペシャルや……!」
「ほぉ、八神スペシャルってのは何だ?」
「そらぁ、ザ・逆セクハラ祭り!―あのクール気取った二枚目半のいけすかん部分を徹底的に崩したるで―に決まっとるや…ろ・・・・・・・」
「ほほぉ〜、そりゃあ楽しみだなぁ?はやてさん?」
はやてが振り返ると、とってもにこやかに笑う待ち人の姿があった。
「あはは……そうやろ?で、連音君はいつからそこに…?」
「いやいや、手練が手管でどーのこ−のといった辺りからだ」
「それ最初からやん!?」
ツッコミを入れながら、はやては車椅子のレバーを倒す。ゆっくりと車輪が回りだし、連音との距離をとっていく。

しかし連音はにやりと笑うと腕を振った。瞬間、ポコンと何かがはやての頭に当たる。
「あたっ」
痛くもなかったがつい口をついて出てしまう。
思わず見上げたはやての顔にバウンドした何かが降って来た。
反射的にそれをキャッチしてまじまじと見る。
「ゴムボール?」
何でそんな物が降って来たのか、と、はやてが慌てて顔を上げた。
降って来たのは誰かが投げたから。誰が投げたのかといえば当然一人しかいない。

そこに連音の姿はなかった。代わりに背後に気配が生まれた。
気配ははやての顔に手を伸ばし、その柔らかな頬を――。

グニュ〜〜〜〜〜〜ッ!!

思いっきり潰した。
「ふぶぶぶぶぶ!!?」
「うわ、ブサイクだな〜!?」
「ふぶーーーーーっ!!」
はやては必死に抵抗するが、背後を完全に取られた上、足の不自由なはやてには為す術が無か

ゴスッ!

「あぐっ!?」
突如連音の脛に一撃が入った。
何が起きたのか分からずはやてを見ると、電動車椅子の操作用レバーが思いっきり倒されていた。
座席の下にはモ−ターとバッテリーの入ったボックス部がある。
その位置は奇しくも連音の脛の位置とバッチリ一致していた。
全力バックでそれをぶつけて見せたのだ。

「おまっ…マジで痛いじゃねえか!」
「女の子の顔潰しといてよう言うわ!」

こうして先日と同じ光景が公園で繰り広げられたのであった。



そして二十分が過ぎて、二人揃ってぜーぜーと肩で息をしていた。
「…ったく何でこうなるんだ!?」
「それはこっちの台詞や!……はぁ、もう止めや…」
「だな…」
二人して納得し、そして盛大に溜め息を吐いた。


公園を出て、二人はとりあえず何処に向かうかを話し合う。
連音としては何処に行くもはやて任せにしているので、話し合う意味も余り無いのだが。

「とりあえず、お昼ごはんにしよか?」
「は?」
「あれ、もしかしてもう済ませたん?」
「いや…まだだけど……」
「そうかぁ、じゃあこの先に大きい公園があるからそこにしよ?」
「また公園か…って待て。公園??」

はやての言葉に思わず連音は反応した。
「何で公園なんだ?屋台でも出てるのか?」
「ちゃうよ。ほら、お弁当作ってきたんや。公園やったらベンチもあるし」
そう言ってはやてはバスケットを見せた。
「食えるのか?」
「失敬やな。これでも料理は得意やねんで。一人暮らしのスキルなめたらあかんよ」

次を右、この先は左、等とやっている内に目的の場所が見えてきた。
敷地内に入り、まず目に入ったのは何とも立派な大樹だった。
公園の中心に根を張り、偉大さをも感じさせるそれは、
幹の太さや枝葉の広がり具合から見ても何百年単位の樹齢であるとすぐに分かる。
風に揺れる葉の音にも何か壮大な息吹のようなものさえ感じさせられた。
これ程のものが何故、外れとはいえ住宅地の中にあるのか、連音はふと疑問に思った。

二人してそれを見上げながら、はやてが口を開いた。
「この木はな、ず〜っと昔からここにあるんや。この辺りの守り神なんやで」
「なるほど…守り神か……」
その説明だけで連音は感じるものの正体を充分に分かった。
この木は土地神なのだ。
器物、千年の時を経て精霊を得る。
物ですら命が宿るのだ。命を持つもの、この大樹も恐らくは霊樹となっているのだろう。
大樹が土地神であるというのは別に珍しい話ではない。

見上げる二人に大樹はまるで笑い掛けるように葉を鳴らした。

(そういえば御神樹に登って母さんに怒られたっけ……)

不意に思い出す幸せだった時間。厳しかったが、優しくもあった母の顔。
だが、今の連音にはそれを思い出すことは出来ない。

思い浮かぶのは、いつも冷たくなった母の姿だけだから。

「あ、あそこが空いてるわ。あそこにしよか」
はやてはいつの間にか見上げるのを止めて、ベンチを見つけていた。
そのままそこに向かっていく。
連音も、もう一度だけ見上げてからその後を追って歩き出した。


はやては連音に抱えられて、ベンチに腰を下ろした。連音もちょっと間を空けて腰を下ろす。
その間にバスケットが置かれ、はやてが「ジャジャーン」と自分でSEを付けてバスケットを開いた。
「おぉ〜…」
バスケットの中にはサンドイッチにミートボール、ポテトサラダに小さめのフライドチキンと
色とりどりのメニューがきっちりと詰められていた。
サンドイッチも幾つかの種類があるようで、断面に見える色合いがどれも違っていた。
「どうや、美味しそうやろ?」
恐れ入ったか、と言わんばかりにはやては胸を張る。
「さぁ、どうだろうな?」
「……喧嘩売っとるな?売っとるやろ?こっち向きぃや?」
睨んでくるはやてを華麗にスルーしつつ、連音は手を合わす。
「じゃ、頂きます、と」
まずは目に付いたサンドイッチを一つ、手に取る。
パンの間には緑と赤とピンクがある。
「あ、それはBLTサンドや」
「BLTサンド…?」
「ベーコン・レタス・トマトサンド。略してBLTサンドや…知らんの?」
「あぁ。サンドイッチ自体、ノエルさんに作って貰ったのが初めてだったからな」
連音は初日の夜にノエルが作ってくれたのを思い出しながら、サンドイッチを口に運ぼうとする。
が、その腕をガシッと掴まれた。
「連音君?」
「……何だよ?」
「誰?ノエルさんって…?」
何をいきなり、と言おうとしたが、はやての笑みが物凄い迫力を発している。
下手な事を言ったらどうなるか分からない。
連音は慎重に言葉を捜した。
「んと………メイドさん?」
「……ほぉ〜?連音君はメイドさん属性を持っとるんか。へぇ〜。
で、何でメイドさんがサンドイッチなんよ?」
「何言ってんだ?ノエルさんって、俺が世話になってる家のメイド長だよ」
「ほほぉ〜、つまり連音君は毎日メイドさんに起こされたりご飯作ってもらったりしとると…?」
はやての目がジト〜ッとしたものに変わる。
「まぁ、起こされる事はまず無いけど、飯は作ってもらってるか。洗濯も…」
それが仕事なのだから当たり前なのだが、
思い返してみると随分と世話になっているのものだと感じてしまう。

それを聞いたはやては益々以って面白くないという顔をする。
「そうか〜。きっと出来過ぎなぐらい、美人で仕事のできるスーパーメイドさんなんやろうなぁ〜?」
「ん、よく分かるなぁ?」
きょとんとする連音を見て、はやてはしばらくジト目をしていたが、やがて盛大に溜め息を吐いた。
「なんや、アホらしくなったわ……」
訳の分からないという顔の連音を置いて、はやてもバスケットからサンドイッチを取り出して齧りついた。

とりあえずどうにかなったのだと思い、連音もサンドイッチを口に入れる。
「っ……!?」
途端、眉を潜める連音。
「…どうしたん?美味しくない…?」
「いや、何でもない。美味しい……と、思うけど?」
「何それ。美味しくないんやったらハッキリ言うてよ!?」
「いや、判断する基準がいまいち分からないから……ほら、初めて食べるし…」
「むぅ〜…とりあえず素直に思った事を言うて」
拗ねたように言うはやて。今度は連音が溜め息を吐いた。
「………美味しい」
「……ま、今回はそれで許したげるわ」
連音の答えに一応は満足したのか、はやては自分のサンドイッチを食べる事に戻った。

連音は改めてサンドイッチを齧る。
だが、やはり同じだった。
(味が…しない……。どうして……!?)

舌に触れる感触はある。だが、味がしない。
感触があるのだから舌が麻痺した訳でもない。もし麻痺していたら喋る事もままならない。

つまり、味覚だけが消えているという事だ。
(一体いつから…?もしかしてシュークリーム…あの時には……?)

その前のアイスコーヒーは普通に味がしていた。その間、何があったという事も無い。

(いや、一つだけ……士郎さんと話したか……でも…)

それがこの状態とどう繋がるのか、考えもつかない。
結局、連音は訳の分からないまま、味の無い昼食をとる事になった。


幾ら味がしないといっても胃に物が入った事で、空腹はしっかり満たされた。
はやては綺麗に食べられた空のバスケットを満足そうにしまっている。

「それで、これから何処に行くんだ?確か買う物があるとか言ってたろ?」
「うん。大きいものとかはヘルパーの人に頼んだり、お店に注文したりするんやけど…。
流石に歯ブラシとか小さいものは頼み辛いから」
「そんなものか?」
「そんなもんや。じゃ、駅前のデパートに行くで!」
「……何でデパートなんだよ……?」
歯ブラシぐらいならわざわざデパートに行く必要はない。
連音の心に「とか小さいもの」の部分がすごく引っ掛かった。
今、感じているものを一言で言うなら

―嫌な予感―

であった。



駅前にある八階建てのデパート。
その生活雑貨売り場――ではなく、
「何で婦人服売り場…というか、下着売り場じゃないか!ここ!!」
三階、婦人服のフロアにいた。

嫌な予感、的中である。

「せやから『とか小さいもの』て言うたやんか〜♪」
ご機嫌で下着を探すはやて。その背中に悪魔的な羽と尻尾とが見えるのは気のせいだろうか。

まだ、何か企んでる。連音は確信していた。

周りは当然女性ばかり。子供とはいえ、男は連音だけである。
なので当然目立つ。

ひそひそと声が耳に届く。
尤も、その内容の殆どが「あの子可愛い」である事に色々思うものがあるが。

「連音く〜ん?」
「何だよ?」
ニヤニヤと笑うはやてにまたしても嫌な予感がする。
「これ、どっちがええかな?選んで?」
そう言って両手に持った物を見せてきた。

一つはグレーと白のストライプ。もう一つはライトピンクでフリル付きリボンのワンポイント。
口にしにくい、ちょっと小さめの三角に似た形のそれをヒラヒラさせている。

「は…はやて……?」
「ほら〜、早くして〜?」
ワザとらしく大きな声を出すものだから注目度が更に上がる。

(こんにゃろぉ……!ん…?)

周りがくすくすと笑う中、連音ははやての顔が僅かだが赤み掛かっているのを見た。
人を辱めながらも、はやて自身も衆人環視の注目を浴びて恥ずかしいのだ。
しかしそれよりも連音をからかう事の方が強いようだ。何という根性。

「フッ…」
連音は僅かに口元を歪めた。
向こうがこの状況を何とも思っていないなら何を言っても無駄だろう。
だが、そうでないのなら攻め手は在った。

(これが忍姉だったらこうは行かないだろうけどな…)

こういった悪戯は照れがある以上、崩しやすい。
そして崩し方は、

「そうだなぁ……縞々の方は、どうもはやてのイメージに合わない感じだな。
そういうのはもっとこう、活発な奴に似合いそうだし。
そっちのピンクのは…もうちょっとフリルとか付いた物の方が似合うんじゃないか?」
何処までも真剣に返す。しかもできるだけ細かく、しっかり考える姿を混ぜたりすると尚、効果的だ。

果たして連音の狙い通り、はやては思いっきり真面目に返されたもので顔を真っ赤にしている。
その耳にヒソヒソ声が聞こえてきた。

「あら、最近の子は進んでるのね」
「お母さん、そういう話じゃ」
「しっかし大胆ね〜。あんなの彼氏に聞くなんて」
「まだ子供じゃない」
「初々しいとは言えないわねぇ〜…」
「不健全です…」

ヒソヒソヒソ……。

いつの間にかはやてをも巻き込んでヒソヒソ地獄は肥大化していく。

流石にこれは効いたのか、はやては手にした下着を戻し――ライトピンクのはちゃんと持って、
その場から退散した。連音も傷は浅くなく、その後をそそくさと追った。

下着売り場から離れた場所のレジで会計を済まし、今度こそ雑貨品売り場に向かった。

歯ブラシと幾らかの小物を買い、その後もデパート内をうろうろと見て回りながら、
デパートを出た時にはすでに三時近くなっていた。

「う〜ん、楽しかった〜!」
「はぁ…俺は何だか疲れたよ……」
「もう、いい若い者がそんなんじゃあかんよ?」
「同い年が言う台詞か!?ったく…」
はやてはデパート入り口に出ていた出店で買ったジュースを飲みながら、
連音は車椅子を押しながら、ふと自分の手を見た。微妙に体が鈍く感じる。

(何だ、このだるさは…?たかが一日寝ないぐらいでバテるほどじゃないはずだが…?)

今まで感じた事のない感覚。だがすぐに消えるだろうと、とりあえず捨て置く事にした。




翠屋の厨房では忍と恭也が洗い物をしている。
二人の間を包む空気はいつもと違い、重いものであった。
「連音の事もそうだけど、最近なのはちゃんの様子も変よね。……すずかも元気ないの気にしてるし」
「あぁ……だが、あれは自分の悩み事は誰にも話そうとしないからな。
自分で考えて、自分で解決してしまう。兄としてはもうちょっと頼って欲しいんだがな」
「そっか。……私って頼りないのかな………?」
「そんな事ないだろう?」
「だって連音の事も、すずかの事も、結局どうにも出来ないもの……」
珍しく弱音を口にする忍。伏せ目がちに零す姿を見て、恭也は――。

「あっ…」
忍の頭にポン、と感じるゴツゴツとした感触。
見れば恭也の手が乗せられていた。
「そんな事はない。俺達にできる事なんて、きっとほとんど無いんだ。
だから、無理にしようとしないで良いんじゃないか?」
「なら、何ができるのよ?」
「……支えてやる事だ。本当に辛い時に、その背をほんの少しだけ、な…」
恭也は優しく笑う。
「それが、家族だろう?」
「家族……。そうね、そうかもしれないわね?」
忍もつられて笑う。
「それはそうと…恭也?」
「何だ?」
「泡、ちゃんと落としたわよね?」
「……あ」
恭也が自分の手を見ると泡が付いたままだった。当然、忍の髪にも泡が引っ付いている。
「恭也〜〜〜〜〜?」
「っ…!……すまん」
忍は恭也の足をゲシゲシと蹴る。
「髪が痛んだらどうするのよ!?」
「痛っ…!だから謝ってるだろう?」
忍の足から必死に逃げる恭也。

二人の空気がちょっとだけ軽くなったようだった。




はやてと連音は駅前通りから、商店街に移動していた。
行った事のない、ゲームセンターでクレーンゲームをやったり、
新しい本を探して、書店を巡ったり、
はやてがよく行く図書館にも足を伸ばした。

その後も普段は通らない道を通り、二人で色々なものを見つけたりした。

裏路地でひっそりとやっているお茶屋。
綺麗な着物を中心に揃えた和装専門店。
ひっそりと建つ小さな祠なんてのもあった。
この町に住んでいるはやてでも知らない場所を沢山見つける事ができた。


気が付けばもう、空がオレンジ色に染まりだしていた。
「あ〜あ、もう終わりなんか…。今日は随分早い気がするわ…」
「……そうだな。早かったな、ちょっと……」
二人は高台にある公園から、海鳴の町が染まっていく様子をじっと見ていた。

「今日はありがとうね…。気ぃ、使ってくれたんやろ?」
「……別に、そんなつもりじゃない………」
顔を向けたはやては連音の様子に気が付いた。
「大丈夫?顔色悪いよ?」
「あぁ…昨日は寝てないから疲れただけだ……」
「あかん!ちゃんと寝ないと体がおかしくなるよ!?
もう、知っとったらもっと早く帰ったのに……」
そう言って車椅子を反転させて出口に向かう。
はやてがふてくされて頬を膨らませる様子に、苦笑いながら後を追った。

「――っ!?」

それは突然だった。
踏み出した足が体を支える事もできずに崩れ落ち、そのままペタンと尻餅を付いた。
立ち上がろうと四肢に力を入れようとするが、動かない。
(何だ…何が……?)
視界が揺らぐ。白く染まり、全てが染まっていく。
(なにが……)
息が止まる。不思議と苦しさはない。
(ナニ…ガ…?)
不思議な浮遊感に包まれて、それが最後だった。



「っ?…連音君……?」
背後で聞こえたドサッという音にはやては振り返った。
そして、息を呑んだ。
瞳に映ったのは、まるで糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちた少年の姿。

「連音君っ!!」
はやては慌てて連音の元に駆けつけた。車椅子の車輪をロックし、地面に降りる。
仰向けに倒れていたため、体勢を直す手間もなく状態を確認できた。

「つ…連音君…?嘘や…何で……息してへんのよ!?」
つい数十秒前まで普通に話していた少年は、まるで違う何かに見えた。
むしろ、最初からこうだった様にさえ見えてしまう。

「…そうや、救急車!救急車呼ばな!」
はやては周囲を見渡した。公園になら公衆電話があるはずだからだ。
はやても携帯電話は勿論持っている。だが、使う機会がないので持ち歩く癖がなく、
その上、今日は病院の検査があったので自宅に置いて来てしまったのだ。

少し考えれば連音が持っている可能性も思いつきそうだが、
冷静さを無くしたはやては公衆電話を探す事しか頭が回らなかった。

「――あった!」
細い木の奥にチラリと見える緑色。はやては車椅子によじ登り、電話機に向かった。
早く、早く。
思いばかりが焦り、はやてはそれに気が付かなかった。
レンガで覆われたその歩道の一部。
そこの一部が割れて、大きく窪んでいる事に。

「きゃっ!」
ガツン、という衝撃が走り、はやては放り出された。
「痛た…っ!」
起き上がり、車椅子に乗ろうとしたが、その車椅子自体も転倒していた。
電動式で重量もある。普通に起こすのもきついそれを、足の不自由なはやてが起こす事は不可能だった。

はやては車椅子を諦めて、這いずって電話まで向かう。
転んだ時に擦りむいた手のひらが痛む。
這いずる度に擦り傷が増えていくがそれに構う時間は無い。

はやての目にはただ電話機のみが映っていた。

ようやく辿り着き、脇の木に掴まって体を必死に伸ばす。
そして――。

「そんな……阿呆なことあるかぁ!!」
無情にも貼り付けられていたのは『故障中』の文字。

「まだや…まだ……!」
もう一度、周囲を見渡す。必死に何度も。
諦める訳には行かなかった。
(誰か……)
泣き出しそうな自分を抑えて、探す。
(誰でもええ……)
電話が無いなら、人を。何でもいい。連音を助けてくれる誰かを。何かを。
(連音君が…死んでまう…!!)

その思いが届いたのか、

「あの、どうかしましたか?」

不意に、柔らかな声が掛けられた。
まるで、天使に出会ったようだ。
後にそうはやては思った。




夕焼けの道を風芽丘の制服に身を包んだ少女が歩いていた。
「はぁ…すっかり遅くなっちゃった……。もう、久遠が寄り道するから…」
そう言って足元を見る。
少女のすぐ脇を一匹の仔狐がちょこちょこと歩いている。
その口元には餡子がペッタリと付いており、それを舌で嘗め回しながら少女を見上げた。
「くぅん?」
久遠と呼ばれた仔狐は小首を傾げる。それに少女は「はぁ…」と溜め息を吐いた。「今月、結構厳しいのにぃ…」
今の財布の状態を思い返して、出せるものはそれぐらいだった。

「――くぅん!?」
「久遠…!?待って、何処行くの!?」
久遠は突然走り出した。向かう先には公園がある。そこに飛び込むように久遠の姿が消えた。
少女はその後を追い、公園に入る。
しばらく走ると、久遠が少女の来るのを待っていた。
「やっと追いついた…。どうした…何、この感じ…」
そこに至ってようやく少女はそれに気が付いた。曲がりくねった道の先、
そこから感じる気配。

生者と死者の気の混在する気配。
だが、それは徐々に弱まっている。
少女は久遠を抱きかかえ、その先に向かった。
そして、今にも泣き出しそうにしている女の子と、倒れている男の子を見つけた。



「あの、どうかしましたか?」
少女は出来るだけ冷静に、優しく声を掛けた。
今、何が起きているのか分からない。
しかし確実に何かが起きている。
それを知る事が第一だからだ。

だが、はやては誰かが来てくれた事で、心の緊張が切れてしまった。
「っ…!?」
言いたくても、声が詰まって出せない。
早く、救急車を呼んで欲しいのに、それだけの事も言えない。

その時、少女の腕に抱かれていた久遠がピョンと飛び降りた。
そして、倒れたままの連音の元に駆け寄った。
「久遠!?」
少女ははやての所から連音の所に行く。
そして何が起きているのか、ようやく分かった。

「どういう事なの…?この子、”魂”と”魄”が弱まってきてる…!?」
「那美…この子、あぶない…」
「分かってる。弱まっている原因は……魄が魂に引き摺られているみたいね……でも…と、詮索は後回し!」

少女、那美は連音の胸にその手をそっと置く。
そして瞼を閉じて、深く息を吸い込んだ。

「―高天原に神留座す。神魯伎神魯美の詔以て。
皇御祖神伊邪那岐大神。
御禊祓へ給ひし時に生座る祓戸の大神達。
諸々の枉事罪穢れを拂ひ賜へ清め賜へと申す事の由を、
天津神国津神、八百萬の神達共に聞食せと恐み恐み申す―」
那美の体に白い、陽炎のようなものが揺らめく。

「掛まくも畏き 伊邪那岐大神。
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に。
禊祓へ給ひし時に成り座せる祓戸の大神等。
諸々の禍事、罪、穢有らむをば。
祓へ給ひ、清め給へと白す事を聞食せと、恐み恐みも白す―」

那美の口から紡がれるのは祝詞と呼ばれるもの。
穢れを祓い、清浄なるものへと、を謳う言霊である。

その光が連音の体にも流れ、その小さな体を包んでいった。
それは正に神秘的で、はやてはその光景にただ魅入っていた。


そして光が消え、那美の手が連音から離された。
「……うぅ……?」
少しの間を置いて、呻き声と共にゆっくりと連音の瞳が開かれた。
それを見て、はやてはその目を大きく見開き、那美は額の汗をぬぐった。

「よかったぁ…連音君……」
「はやて…?うっ…!?何が…?」
連音が体を起こそうとするが、胸に鋭い痛みを覚えて顔をしかめた。
「まだ無理に動いたら駄目です!もう少し横になってないと…」
そう言って那美が連音を再び横にしようとするが、それを連音は制した。
「大丈夫です…。それより、あなたは…?」
「わたしは神咲那美と言います。こっちは友達の久遠です」
那美はそう言って、いつの間にやら腕の中に納まった久遠を見せた。
「その人が何かやって連音君を助けてくれたんよ?」
「そうか…。面倒をかけてすいません……」
頭を下げる連音に那美は笑って首を振った。
「大した事はしていません。ただ、祝詞の力を借りて、弱まっていた魄に霊力を注いだだけですから」
と、そこまで言って那美はハッとした顔をした。
はやてはぽかんとしているし、連音も那美をジッと見ていたからだ。
「ご、ごめんなさい…。こんな事言っても分かりませんよね…。
良いんです。友達にも宇宙人の会話だとか言われますから…」
「いやいや、そんなん思ってませんから。というか魄っていうのがよう分からんかったんで……」
はやては慌ててフォローを入れた。
実際、現実離れした世界を知っているので、今更霊力だのと言われても驚きはしない。
魔道、魔力があるのだから霊力だってあるだろうから。

「魄というのは陰陽道における肉体を支える氣の事で、
その魄と、精神を支える氣―魂を以って魂魄となるんです」
那美の説明に、はやては少し首を捻る。
「魂魄いうのはあれ……人の魂の事ですよね?」
「そうです。言葉からも分かりますが、その二つは密接に繋がっていて、
精神が肉体に影響したり、はたまたその逆だったり。そういったものにも関係するんです。でも……」
那美は視線を連音に移す。何か言い難そうにしているだけで連音には理解できた。
だが、それに気付かない振りをして、はやての車椅子を起こし、連音はもう一度那美に礼を述べた。
「助けて下さって有難うございました」
「あ、いいえ…。お礼なら久遠に言ってあげて?この子が最初に気が付いたんですから」
那美は腕の中の久遠を見せる。
「そうですか…有難うな、久遠」
「くぅ〜ん」
連音の出した手に大人しく撫でられる久遠。
その様子に那美は驚いていた。
久遠は人見知りが激しく、初めて会った人に大人しく頭を撫でられている事などない事だった。
見る限り、久遠は嫌そうには一切しておらず、むしろ撫でられる事に心地良さを感じているようだった。
(不思議な子……久遠がここまで心を開くなんて……)


それを見ていて、はやてはある重大な事実を思い出した。

「……そういえばその仔、さっき……喋りましたよね……?」
「ふぇぇっ!?」
「くぅん!?」
二人…いや、一人と一匹は同時に素っ頓狂な声を上げた。
「そ…ソンナコトナイデスヨ……?」
「く…くぅん……?」
一人と一匹は揃って視線を逸らした。
しかし、はやての視線は突き刺さったままだ。
「じ〜〜〜〜〜……」
「「………」」

はやての視線攻撃に一人と(略)はすぐに限界となった。
先程から汗がだらだらと出ている。
連音はしょうがないとばかりにはやてに声を掛けた。

「その辺にしとけよ、はやて」
「でも、この仔確かに――」
普段のはやてなら人の隠したがる事を突っ込んできたりはしない。(笑いになる部分は捨て置いて)
だが喋る小動物という存在は、一月足らずの出来事と合わせて、
はやての価値観を吹っ飛ばしてしまう程の衝撃であった。

このままでは埒が明かないと連音が答えを言った。br> 「そりゃそうだろう。久遠は妖だからな」
「ふぇぇっ!!?」
「くぅんっ!!?」
連音の一言にさらに素っ頓狂な声を上げる一(略)。
「妖て……妖怪なん、久遠って!?」
「あぁ。神咲という苗字に久遠という名の狐が喋った。となれば『神咲家』の『妖狐久遠』しか思い当たらないからな」

妖狐久遠。その言葉に今度こそ那美は驚きの声を上げた。
それはつまり『神咲家』の意味をも知っているという事だからだ。
「ど、どうして…!?君は一体……!?」
「そういえばまだ名乗ってなかったですね。
俺は辰守連音といいます。そっちは八神はやてです」
「こら、そっち扱いかい」
はやてのツッコミを左に受け流し、連音は那美の反応を見た。
那美は非常に正直な性格のようで、驚きで目を見開いている。
「辰守…まさか……あの伝説の一族の……!?」
「伝説かどうかは知らないですが、神咲家とは家柄上、縁もありましたね、確か…」「じゃあやっぱり…竜魔の忍……?本当にいたなんて……でもまだ子供…」
ぶつぶつと言う那美。それの向こうからはやての声がした。

「あの〜、連音君?一体どういう事やの?」
「この人…神咲那美さんは『神咲一灯流』の人なんだよ」
「神咲一灯流…?」
「神咲一灯流というのは退魔の技で、それを継承してきた一族なんだ。うちとはその関係で敵だったり味方だったりしてたらしい」
「…?味方は分かるけど何で敵?」
「竜魔は基本、世に仇なす存在でなければ妖を守る事もあったんだ。そういう時は敵同士にもなったみたいだ。
実際、俺の徒手空拳の師匠は人じゃないしね」
連音は久遠を受け取りながら答えた。
「……今、もの凄い事をさらりと言わなかった?」

はやての指摘を右に受け流し「流すなぁ!」


「竜魔がいるという事は、やっぱりここ最近起きている怪異についてですか?」
「えぇ。でもこれはこちらの領域です。神咲の方が関わる事ではありませんから」
そう口にする連音。その言葉尻にはどこか突き放すようなものがあった。
那美はそれを聞いて首を振った。
「でも、その体の状態じゃあ…。今はわたしの霊力で補っていますが、原因が分からない以上…」
「原因なら……もう、分かってます」
「え…?」
「すいません、これで失礼します。はやて、悪いけど一人で帰れるか?」
「え……えと、大丈夫やけど…?連音君、体―」
「そうか、それじゃあな……」
はやての言葉を途中で遮って、連音は背を向けて歩き出した。
その、今までと全く違う様子にはやてはただ黙って見送るしか出来なかった。

連音の姿が消えて、公園に冷たい風が吹いた。
軽く体を震わせるはやてに那美は優しく声を掛けた。
「良かったらお家まで送らせてくれますか?」
「でも、これ以上は迷惑…」
「わたしがはやてちゃんを送りたいだけですから。
友達の妹さんと同い年くらいだから、ここで別れちゃうのも心配ですし…」
微笑む那美の言葉に嘘は無いとすぐに分かり、はやてはその好意に甘える事にした。

「分かりました。お願いします」
「えぇ。久遠、行きましょう…………久遠?」
那美は公園を見回したが、久遠の姿はどこにもなかった。
先程、連音に撫でられていた時には那美が抱いていて、その後に連音が抱いたのだ。

そしてそこから那美の視界に久遠はいなかった。

「もしかしてあの子…ついてっちゃったの!?」



夕闇に落ちる人気のない道。所々に街灯が道を照らすが焼け石に水程度のものだ。
迫り来る夜の闇に抗うには、余りにも頼りない。

だが、忍にとってそれは友。自らを隠し、守る薄絹の大盾。
光がなければ見えない世界。そんなのは忍者には在って無い様なものだ。
闇こそ忍としての最高のパートナーなのだ。

その筈なのに、今、連音の心は目の前の暗い道にざわめいていた。
どこまでも続く暗闇の道程。
先が見えない世界は連音の心が具現化したようだった。

魂の弱まり。
それは今の自分が大きく揺らいでいるから。
自身の存在、それを否定し続けてきたその結果。

魄の弱まり。
それは一度完全に死んで完全に消えたから。
母の命と引き換えで得た、仮初めだから。

だから魂の影響をダイレクトで受けてしまう。
生きる事とはそのものが意思なのだ。それが揺らげばその分、肉体は支えを失っていく。
だから、味覚を失った。
生命そのものを支える中で一番不必要だから。


「っ…!」
世界が嘲り笑っている。

もう時間がないぞ

お前はこのまま無駄に死ぬ

贖罪の時など来ない

犯した罪は永遠に消える事はない

誰もお前を許しはしない


世界が追い詰めていく。過去が今を殺しにやって来ている。
悩む時間も、道を求める時間も無い。

答えは知っている。
教えてもらったから。

だが、それを受け入れる事は出来ない。
それは母を殺してしまった自分の、今までを否定する事になる。

だが受け入れない事もまた、きっとそれまでの自分を否定する事なのだろう。

今までと、それまでと。

「俺は……」
「くぅん?」
「………おい」
「………くぅん??」
「何でここにいるんだ!?」
「つらね……しんぱい…」

久遠は連音の足元にちょこんと座り、尻尾をぱたぱたと振っていた。
ほとんど無意識で連音もしゃがんでその頭を撫でる。
「大丈夫だよ。那美さんの霊力で体の方は暫くはもつから」
すると久遠は首を振った。
「つらねのこころ……ずっといたがってる……」
「っ…!?」
久遠の言葉に連音の手が止まる。
会って少しも経っていないのに、心を見透かされていたからだ。

だがそれも仕方のない事だ。
それだけ今の連音には余裕がない。そして猶予もない。

無垢な瞳に映る自分の顔の何と情けない事か。

「正に”落魄”ってか……」
そう独りごちる連音の指に暖かな物が触れた。

そこにいたのは仔狐――ではなく、巫女装束に身を包んだ少女だった。
その小さな手が連音の指を優しく包み、自らの頬に引き寄せる。
「あたたかい……つらねのこころ…」
「温かい…?俺の心が…?」
そんな筈はない。そう言いたかった。
人を殺め、母の命を奪った人間の心が温かいものか、と。

だが、少女の――久遠の言葉はどこまでも真っ直ぐで、だから何も言えなかった。
「でも…あたたかいの……つらねだけじゃない」
「え…?」
「すごくやさしくて……あたたかいひと…ずっといっしょにいる」

不意に視界が歪んだ。さっきの様なものとは違う、不思議な感じ。

気が付けば涙が溢れていた。
「あれ、何で……?」
止まらない。止められない。
でも、不快ではない。それがまるで至極、当たり前の事の様に。


「よしよし……」
久遠の手が連音の頭にそっと添えられる。

その瞬間、フラッシュバックした。




初めて御神樹に登った日。
そこから降りられなくなって泣いていた連音を雪菜が助けにきた。
あっという間に下ろされて、思いっきり怒られて。
その後、聞いてきた。
「で、どうだった。あそこからの景色は?」
「すっごく綺麗だった…!」
そうにこやかに答えた連音の頭に温かなものが触れた。
そして、柔らかな微笑と共に連音は抱きしめられた。
「そう……、良かったわね」

その時の笑顔はすごく印象的だった。



久遠は泣き続ける連音の頭をそっと撫で続けた。



今はまだ気が付かない。
自分が母の笑顔を思い出した事に。


この瞬間が、きっと過去と未来の分岐点となる事を。
















今回もとらハキャラの登場、ヒロインなのはの出番なし!www
はやてとお出かけ、那美や久遠との出会い。
特に久遠との話はやりたかったエピソードでした。

本編中、那美が唱えていたのは大祓祝詞(おおはらえののりと)です。
本来は神事の前に唱えるもので、今回は言霊とかけて。
死の世界の穢れを祓う=迫る死を祓う。という事です。

こちらの久遠は、とらハとちょっとだけ設定が違ったりしてます。
(片言でも意味のある言葉が喋れたりとか。祟りの解釈も実はちょっと変わってます)




では、とっても貴重な拍手レスです(笑)


>シャドウダンサー面白い!!
主人公辛い過去を背負ってますね。これからどうなるのか楽しみです。


ありがとうございます。
背負った過去と向かい合う時間も無いままに物語も進みます。
限られた時間の中で彼が何を選ぶのか、ぜひとも御付き合い下さい。










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