魔法少女リリカルなのは <貫く風>
プロローグ
少年の左肩を、無造作に突き出された刃が刺し貫いた。
「が……あっ……」
激痛が脳を灼いた。
おびただしい程の鮮血が肩から噴き出す。
なすすべなく少年は崩れ落ち、貫かれた肩を押さえ痛みに蹲った。
痛みと出血で朦朧とする意識の中、何とか見上げた先には、振り抜かれる人影の右足。
無防備なその胸元に容赦なく蹴りが叩き込まれた。
肋骨がみしりと嫌な音を立てて軋み、身体が小石か何かのように吹き飛ばされる。
瓦礫の山に背中から叩きつけられ、喉から血泡が溢れ出す。
身体がずるりと地面に落ち、そのまま動けなくなる。
少年を蹴り飛ばした人影は、手に持っていた刃を逆手に持ち替え、ゆっくりと少年に歩み寄り、そして馬乗りに圧しかかった。
暗い殺意に満ちたその瞳。
嗜虐の愉悦に歪むその口元。
少年の血で濡れた刃が、これみよがしに掲げられている。
――――僕は、死ぬのか……?
ぼんやりとした頭でそんな事を考える。
このままでは、確実に自分は突き刺されるだろう。
その先に待っているのは“死”だけ。
推測でも何でもなく、確定した事実として、それが分かる。
だけど、それでもいいはずだ。
彼女に出会い、彼女の存在に救われた。
出来損ないと呼ばれ、棄てられて、ただ死を待つだけだった自分を拾い、彼女は育ててくれた。
生きるための知識と、何より優しさをくれた人。
殺す事しか知らなかった自分は、人の温もりを知った。
彼女に救われた命だった。
彼女のためなら、この命すら惜しくは無い。
だから、彼女に殺されるというのなら、それが何よりも満足できる結末であるはずだった。
なのに――――
――――死にたく、ない……
理由も無くそう思った。
想いも決意も忘れ、少年はただ純粋に、自らに訪れる“死”を恐怖した。
殺されても構わないはずなのに――――なのに、それでもやはり、死ぬ事は恐ろしい。
――――死にたくない、死にたくない、死にたくない……!
血にまみれた刃が振り下ろされる。
刃が鳴らす風切り音。
少年は限界まで目を見開き、
――――死にたく……ない――――!
びしゃり、と何か生暖かい物が顔にかかった。
「あ……え……?」
無我夢中で突き出した右の拳。
それは、今まさに少年に向かって凶刃を振り下ろそうとした人影――――女性の胸部を貫き、抉り飛ばしていた。
向こう側が見渡せるほどの穴が穿たれ――――そこから血と砕かれた骨片、そして、臓器の残骸が垂れ落ちている。
降りかかる血肉によって視界が赤く染まる中、少年は呆然と貫いたままの自分の右手を見つめていた。
渦巻く風を纏った自分の右手を――――
……ずちゃ……
風が消え、生々しい音を立てて、少年の手が女性の身体から抜け落ちた。
女性は刃を振り下ろそうとした姿勢のまま、その動きを止めていた。
胸を貫かれ、臓器の大半を失いながら、しかし、彼女にはまだ息があった。
「――――――」
血にまみれた口元が微笑を形作り、何か言葉を紡ごうとして血の塊を吐き出し――――そして、息絶えた。
上半身に冗談のような大きさの穴が開いたその身体。
かつて、少年の家族同然の存在だったモノ。
そこに生命の痕跡は、もうない。
少年の放った拳が根こそぎ奪い去っていった。
最早彼女は、惰性のように血肉を垂れ流すただの骸と成り果てていた。
降りかかる血。
その温もりが次第に失われていく。
急速に冷たくなっていく女性の身体。
それに、自分が彼女を殺したのだと今更のように気づいた。
瞬間、恐怖と絶望、悲哀、あらゆる感情が少年の心を押し潰す。
「あ……ああ……」
死体から這い出るようにして、少年は立ち上がった。
熱病に冒されたように身体が震えだす。
「殺した……? 僕が、先生……を?」
自分が生きるために彼女の命を奪った。
出来損ないと言われた少年の身体は、自分の命を護るためにその能力を開花させた。
つまり、それは――――
それは、“生”か“死”の極限状態だからこそ、弁解の余地もない明確な優先順位の差。
彼女の命よりも自分の命の方が大事だという、何よりの証。
浅ましく、惨めで卑小な自分の本性。
「嘘だ……嘘だ……嘘だっ!」
傷ついた肩を庇いもせずに、少年は首を振り乱す。
しかし、どれだけ否定しようとも何も変わらない。
答えてくれる者は誰もいない。
ただ、死人と少年だけが、血だまりの中で向かい合う。
「……ぼ……」
ひゅーひゅーと掠れた息を吐きながら、少年は唇を戦慄かせる。
乾いた空気が喉に張り付き、気持ち悪くて内臓を吐き出してしまいそうな感覚に陥る。
「僕は……僕は……!」
奇跡は起きない。
神様なんて何処にもいない。
現実は何処までも残酷だ。
濡れて揺れる視界の先には、真っ赤な血の海と、そこに沈む物言わぬ骸。
「あ……ああ……」
少年の足が、無意識に一歩後ずさる。
その拍子に、左腕から滴り落ちた血が、地面に跳ねて小さな音を立てた。
そして――――
「あああああっ!」
とうとう、死体から背を向けて駆け出した。
大量の血を流し、痛みで満足に呼吸もできず、次第に白く霞んでいく視界。
それでも、少年は一瞬たりとも立ち止まらなかった。
……お前が殺した……
耳元で、声が聞こえた。
その声を振り切るかのように、その声から逃げるかのように、少年は走り続けた。