ディスプレイを歪ませながら『アルティメットOS』が起動を開始する。その起動音を目覚ましに、完全に闇に堕ちた意識がゆるゆると浮かんできた。
『再起動完了しました』
ノイズ混じりのディスプレイが瞳に映る。
「……あれ? 俺は……?」
“現実世界のハセヲ”が呟く。
「三爪痕と戦って……それで……」
ダメだ、まだ意識がはっきりしない。
『処理を継続します』
ディスプレイが無感動に告げるその言葉を瞳に映しながら、自分がどうなったのかを思い返そうとする。
しかし――
「……クソ、思い出せねぇ」
意識に靄が掛かったかのように、記憶の端々が曖昧になっていた。
『全システム初期化処理終了しました』
ノイズを一通り流し終えたディスプレイが告げる。
「……?」
その表示を理解し……否、理解が出来ないために急速に意識が覚醒する。
「初期化だと!? どういうことだ!?」
心当たりがない。三爪痕にやられる瞬間までの記憶は呼び起こせたがそれからの記憶がまるで無かったのだ。まさか、気を失っている間に初期化したというワケでもないだろう。
ワケが分からない。しかし、ディスプレイは冷淡に真実を告げていた。
「初期化……まさか!?」
メールステーションへと転送し、メールボックスに目を通す。
「……そんな、馬鹿な!」
メールステーションを映し出すディスプレイが映し出すそこには――
『メールデータがありません』
ただの一通のメールも、無くなっていた。
「冗談だろ……」
戸惑いが、意図せず口をついて出る。
「削除って……全部、消えてる……のか? 昔、志乃がくれたメールも……」
茫然自失のままぼんやりと呟く。
それほど重要なメールというのは特に無かった。
何人かと連絡を取り合う程度にしかつかってなかったメールが消されても、問題はないとは言わないが許容はできる程度のものだった。
しかし、志乃のくれたメールだけは例外だ。
そのメールは発信者、志乃にとっては他愛も無いものだっただろう。コミュニケーションをやり取りするための、ただの世間話のメール。しかし、ハセヲにとってそれはただのメールではない。
半年前に失ってしまった彼女を感じる事が出来たのは、彼女が昔にくれたメールだけだったのだ。
「ホントに全部初期化されてるのかよ……」
事実を認め切れないまま、デスクトップへと戻る。
「ワケわかんねぇよ! なんでだよ!!」
力任せに机を叩く。叩きつけた手が痛むがどうでもいい。
それに応えるように、デスクトップを映したディスプレイは、新たなメッセージを表示させた。
『Mail Stationでメールを一件受信しました』
まるで待ち構えていたような……ハセヲが初期化されたことを確認するのを待っていたかのような、絶妙のタイミング。
自失状態から立ち直れぬままぼんやりと呟く。
「…メール…。とりあえず、見てみるか……」
全てが消され、抜け殻となったメールステーションへと戻る。
そのメールの件名には『死の恐怖へ』とあった。
送信者名は、文字化けしていて読めなかった。
「……文字化けした送信者名……。あの時の、アルケノン大瀑布に呼び出してきた奴か!?」
一語一句をも逃さぬよう目を凝らして、メールを読む。
挨拶や前置きなどはなく、いきなり本題が書かれていた。
貴方には三つの選択肢がある。
一つ、危機のない虚無の日常。
二つ、心身を削る真実の探求。
三つ、全ての業を背負う救済への道。
今はその意味を知ることは叶わない。
しかし、どれを選択しようとも貴方は何かと戦うことになる。
故に、この場における選択を後悔してはならない。
恐らくこれが『The World』から逃れる最後の機会となるのだから。
願わくばこの選択が、貴方にとって誇れるものであらんことを――
「……一体、誰なんだよ……」
全く見当がつかなかった。『The World』でハセヲのメールアドレスを知っている人間は少ないはずなのだが……こんなメールを送ってくる相手に心当たりはない。
ただの悪戯と受け取ってもいいのかもしれない。しかし……そう受け取るには、あまりに重すぎた。
このメールの送信者は、本当に俺を案じている。それが何故か直感的に判ったのだ。
「―――」
天井を仰ぎ、吐息。
内容を真摯に受け止め、その上で思考する。
……元々、俺が『The World』をプレイし始めた理由は、ただ娯楽が欲しかっただけだった。
あの頃はつまらない日常をダラダラと過ごす毎日に飽き飽きしていた。そんな時にこのゲームの名前を、『The world』を耳にした。
噂では『The World』は文字通り世界そのものだと聞いた。現実世界に次ぐ、二つ目の世界。現実世界とは違い、プレイヤー達の理想の世界そのものである。そんなことを聞いていた。
そんなどこまで本当かわからない話を鵜呑みにしたわけではない。しかし、多少なりその理想の世界とやらに興味が湧いたのだ。
始まりは好奇心からだった。理想の世界なんて言葉に踊らされただけだ。
そして真実、ハセヲにとって『The World』は理想郷とは成り得なかった……。
『The World』を初めてプレイしたあの日、ハセヲはPKに殺された。
しかも、極めてたちの悪いPKだった。
初心者だけを狙って親切を装って近づき、誰にも邪魔されないところまで連れ込み、逃げ道を無くしてからいたぶって殺すのだ。
初めて『The world』にログインた時に最初に会ったPCは、何も知らない初心者のハセヲにまるで教師のようにゲームのやり方を丁寧に教えてくれた。ハセヲはその親切に素直に感謝していたのだ。
そして一通りのレクチャーが終わり、感謝の言葉を述べたところで――本性を露にしたPKに裏切られ、殺された。
期待を込めてプレイしてみれば、悪質な詐欺紛いの手口にあい罵倒された挙句殺された。しかもそれだけではなく、殺された後でさえ踏みにじられ、いたぶり続けられたのだ。
虚偽と裏切りと蹂躙に支配され、塗り固められた反理想郷。そのようにハセヲが感じたのも無理は無い。
このようなPKをされた初心者は大抵2パターンにわかれる。二度と『The world』をプレイしないか、誰も信用しなくなるかのどちらかである。
ハセヲも例外ではなく、こんなくだらないゲームは誰が二度やるものかと思った。しかし、ハセヲが殺された時に現れたPCの影響で、もうしばらく続けてみようかと考え直したのだ。
そのPCはハセヲを殺したPKを容易く始末し、殺されたハセヲを蘇生してくれた。
そして手を差し伸べつつ、無骨な拘束具を左腕に纏ったPCはこう言ったのだ。
“Welcome To 『The World』”――と。
それが、オーヴァンにもらった最初の言葉だった。
始まりはそんなもの。始めた理由はいたって平凡。興味が湧いたからやってみた、ただそれだけのことだ。
しかし、今は違う。俺が今もなお『The world』をプレイしているのは志乃を意識不明から助け出すためだ。
ゲームを辞めることはしなかったものの、人間不信になりかけたハセヲにこのゲームの楽しさを教えてくれたのは彼女だった。
何かについて世話を焼いてくれたのがすこし照れくさく、そして嬉しかったのを覚えている。
彼女はゲームの楽しさだけではなく、様々なことを教えてくれた。そんな志乃は、ハセヲにとって姉のようなものであり、ハセヲは――彼女に好意を抱いた。
その彼女が消えてしまった『世界』をハセヲは許容出来なかった。
故に『The World』をプレイする理由も自然と変わった。彼女が意識不明となった半年前のあの日から、ハセヲにとって『The World』は復讐の舞台と化し、それは義務となった。
そんなハセヲが『The World』を続けるということは即ち、志乃を助けるためということになる。そして、その為には……
「再び三爪痕と戦うしかない……か」
志乃を助ける方法が、現状これしかない。
俺には志乃が意識不明になった理由がわからない。三爪痕だけが唯一の、ただ一つの手掛かりなのだ。
だが……俺は三爪痕にやられた。完膚なきまでに叩きのめされた。全ての武器が破られ、全ての攻撃が通じず、抗うことも出来ず、一矢報いることすら叶わず殺された。
「再び三爪痕と戦うだと……? 手も足も出ず、こんな目にあってもかよ……」
パソコンの全てのデータが強制初期化された。これは事実だ。
絶対的な信頼性を誇る、究極の名を冠されたOS「Ultimate」が外部からのハッキングを受け、強制的に初期化処理されたのだ。世界規模の悪質ウィルスによる、大量殺人事件「Pluto Kiss」の例もある。下手したらどうなってたわからない。
「三爪痕に挑んだはいいものの、返り討ちに会って、意識が飛ばされて、気が付いたらこの有り様だ……」
心中で自嘲する。そしてそれは事実だ。
再び戦って勝てる保証は全く無い。次にやられた時どうなるかわからない。そもそも、今こうして意識不明になっていないことが僥倖ですらあるのだ。"次"の保証はどこにもない。
「けど…それでも……」
気づけば、強く拳を握っていた。
手が白くなるほど強く、握り締めていた。
「あぁ、それでも……!」
そして気付いた。
もう自分が何を『選択』するかなど、とうに決めていることを
「答えなんて、最初から決まってんだよ!」
この選択がどれに当て嵌まるかなどは判らない。何を意味するかなど判らない。どこに行き着くのかは判らない。ただ……後悔だけはしない選択だということが判っていた。それで、十分だった。
「俺はあの『世界』に――『The World』に戻る! そして……」
半年前に誓った、己と世界との誓約。
「志乃を取り返す!! 絶対だっ!!」
決意の祝詞を紡いだ。
*****
『世界』に在りて、その女は想う。
誓約を聞き届け、慈しむように、悔やむように……空を仰いで想う。
「やっぱり……こうなっちゃう、か」
もう、引き返せはしない。
彼は既に選択してしまった。それも……確固たる自らの意思で。
「私も……覚悟、決めなきゃね」
選択を迫ったのは自分の意思だが、選択したのは彼の意思。故に、これからの自分には躊躇いも、戸惑いも、後悔すらも、許されない。
例え、この結末が誇れないものだとしても――それでも、やり遂げなければならない。
「願わくば……」
そう、願わくば――
「『世界』にとって……アナタにとって――」
私にとって、それが誇れるものではなくとも――
「――行き着く答えが誇れるものであらんことを」
To be Continue
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