恐らくは、来るだろう。
ハセヲはそう考えていた。
むしろ来ない方がおかしい。それでは辻褄が合わなくなる。
恐らくは現実に帰還した直後――『狂痛』がくる。
気づかないようにしていたもの。
考えないように努めていたもの。
パイの前では必死に、普段どおりに振舞おうとして、目を背けていたもの。
それは、『ハセヲ』が碑文に何らかの接触をした後、『三崎亮』が耐えがたい苦痛に襲われるという事実。
(今までは碑文に開眼していなかった……。碑文に触れるのは、ほんの一瞬だった。けど、今回は――)
神闘の最中に考えていたらしいソレを整理して、思い返す。
恐らく、痛みと碑文との関連性はまず間違いなく有るといっていい。
過去痛みに襲われた際、その全てに碑文が関わっている。当初は三爪痕の最後の攻撃――『データ・ドレイン』と何らかの関連があると見ていたが、ある程度の知識と事実を得た今では碑文と関連している方が納得できる。
一度目は全身の虚脱感、並びに衰弱。
二度目は右腕を中心とした激痛。恐らくはスケィスの右腕を喚び出したのが要因。
三度目は全身隈なく駆けずり回る狂痛。頭の中がぐしゃぐしゃに掻き回される、喩えようも無い痛み。
そして今度の四度目――。
(――――ッ)
考えないようにしていた。
それでも、身体は震えていた。どうにかパイには隠し通せたらしいが、こんな状態でバレなかったのは奇跡に近い。
怖かった。どれだけ強がろうとも、怖かった。
痛みならば耐えられる。痛みであれば、この身は耐えてくれるだろう。
問題は、痛みですらない――狂痛。
痛みなどというものにカテゴライズすることのできない、脳裏に刻まれる異界。精神がバラバラに千切られ、それが串刺しにされていく感覚。死を望んでしまうほどの、狂おしいソレ。
ソレに負けることがただ怖かった。ソレに負けて、三崎亮が壊れてしまうことが心底怖かった。壊れてしまえば、もう誰も救えなくなってしまう。今までに誓った全てが果たせなくなってしまう。ただ、それだけが怖かった。
だからというように、強く歯を食いしばる。こんな所で壊れるわけには行かない。こんなところで立ち止まっている暇は無い。ようやく力を得たのだ。ようやく誰かを救えたのだ。ならばこの身は――こんなところで壊れることは許されない。
強い決意を改めて心に刻み込む。次の瞬間――
「が――ギ、ぃア、あアぁアァァァあァアAa――!!!」
来た。狂おしいソレが来た。
覚悟を決めていてもどうしようもないソレが来た。
視界が反転し、現実に戻ると同時に全身隈なく駆けずり回る痛みの群れ。
咄嗟にこの二日間準備して出番の無かったタオルを掴み、そのまま咥え込む。
「ぃ……っ! ぁ、あ……!!!」
噛み締めたタオルに遮られ、悲鳴がくぐもる。同時に椅子から転げ落ち、身体を掻き抱いた。
必死にかみ殺しているはずの声はそれでも口から勝手に出てくる。いかに防音仕様の壁越しといえど、何かを噛んで無理矢理にでも押し殺さなければ、悲鳴が漏れて聞かれてしまう。
そうなればアウトだ。今夜は親が帰ってくるかもしれない。もし両親にこの状態が知られれば――いや、『The
World』をしていることを知られた時点で俺は――――。
「――――!?」
携帯の着信音。この場に相応しくない、軽快な電子音。
電話にでることなどできない。出たところで、電話先の相手に聞かせてやれるのはくぐもった悲鳴だけだ。
そんなことを考えている間にも、頭の先からつま先までを、高速で痛みが巡回していく。
時間を確認したかったが、身体が言うことを聞かない。痛みが駆け抜けるたびに筋肉が硬直し、痙攣に襲われる。
――電話は鳴り止まない。
脳髄をミキサーにかけられたような、ぶっ飛んだ痛み。
全身を掻き毟りたい衝動に襲われる。
まるでそれは内側に蠢く蟲どものよう。
頭が割れて理性は砕ける。
――電話は鳴り止まない。
どうにか視線だけを動かすが、焦点が合わない。丸い時計が向日葵に見える。
聴覚は生きているだろうか。噛んでいたタオルを少しだけ緩め、自分の悲鳴を聞いてみる。
聞こえた。頭の中に響き渡る。あまりの煩さに頭が割れそう。自分はまだ正気だろうか。
名前は? ハセヲ、三崎亮。ここは? 自宅、自分の部屋。時間は? 不明、恐らく夕刻。
――電話は鳴り止まない。
正気。まだ意識はある。大丈夫。まだ耐えられる。
けどいつまで。いつまで耐えればいいのか。あれから何時間経っただろうか。
数時間。いや数日。もしや数週間。それはない。まだ生きている。餓死していない。では数日。
それもおかしい。部屋は暗い。明かりが無い。まだ朝ではない。日は昇っていない。
――電話は鳴り止まない。
では数時間。それもおかしい。感覚が永遠となる。時間が壊れている。意識は既に時間旅行。狂々廻って一回転。
数分もしくは数十秒。それでコレなら壊れてオ終い。終着駅はもうすぐ目の前。
終わりニ向かって一直線。音速を超エて暴走中。壊れて弾けてレールの向こウ。
――電話は鳴り止まない。
千切レて飛んでく意しキたち。ひっシに集めるかたっパしから、かぜに乗ってハラはラと。
瓦落多ジミたあガきはむ意味。頭のナかハ大コウ水。理性は消エてさヨウなラ、棺おけにイレて火葬じョう。
ソレでハバイバイお客サま。暴走列車ハドコまデモ。マタ会うトキは檻ノ中。
――電話は鳴り止ま
『ハッ――ハッ――ハッ――!! 亮!?』
頭の中に木霊する電子音。一秒単位で死んでいく意識。ワケもわからず伸ばされた右腕。
光を零す液晶画面。荒れた息と焦った声。電話を掴んだ自分の右手。死亡間際のメッセージ。
『ハッ――ハッ――ハッ――!! おい、返事しろよ、聞こえてんだろ!?』
バラバラに千切れていく意識。ぼんやりと浮かぶ思考。
鍵の開いた扉。扉の奥から覗く闇。闇の中に棲んでるアイツ。アイツの鳴らす本能の警鐘。
鍵を、鍵を閉めなければ――。
『くそったれ! オイ楓、先行ってるぞ!!』
朽ちる。意識が。
消える。視界が。
見える。地獄が。
そうして堕ちる――深い、闇へ。
どこだろう。
どうやらマトモであるらしい頭で最初に思ったのは、そんな疑問だった。
堕ちる寸前に垣間見たものが地獄ならば、ここもまたそういった場所なのだろうか。
『しつこい。いい加減にしなよ、アンタ』
闇に響く誰かの声。光無き空間にただ響く。
『こんだけやってもまだわかんない? ホントに壊れるよ』
その空間には自身と闇のみが存在していた。その姿は――『ハセヲ』のものだ。
「テメェ……誰だよ」
凝視するも、あたりに広がるのはただ深い闇。
自分の姿すら見えない闇の中、二つの声が反響する。
(――自分の姿すら、見えない?)
そこでまた疑問が浮かぶ。
自分の姿すら見えないのならば、なぜ俺は『三崎亮』ではなく『ハセヲ』だと判ったのだろうか。
『今はオレとお話中』
気配でも読み取ったのか、闇の声が苛立たしげな音色を含ませて届く。
『で、どーなの』
「……何がだよ、ワケ判んねぇ」
『だからさー、なんで諦めないのって』
声には、ケラケラと嘲笑が混じっている。
音源を探ったものの、周囲全てから放たれているような感覚で判らない。
『こんな目にあっても懲りずに戻る気だろ。そーゆー風に孤高なヒーロー気取って楽しいワケ? もしかしてそんな自分が格好いいとでも思ってんの? ハッキリ言ってダサすぎ』
「ンだとテメェ――!」
嘲りそのものの声に怒りを覚える。
(――――なに?)
だがしかし、その怒り以上に聞き逃せない疑問が頭を巡った。
「――――“こんな目にあっても”だと?」
知っている。こいつは知っている。
『三崎亮』が狂痛に苦しめられていることを、知らないはずのことを、知っている。
「――――誰だ、オマエ」
もう一度、聞いた。
知っているはずの無いことを知っている、声の主に。
『聞いてるのオレ。アンタじゃない』
「――――――」
『ねーねー、なんで戻んの?』
幼なさを残した声が届き、ハセヲは目を細めた。
ヤツは『ハセヲ』が必ず『The
World』に戻るということを知っていて、その理由を知らないのか。
だが、わざわざ説明する必要は無い。言いふらすようなことでもない。誓いとは内に秘め、成すべきものだ。事実、今までハセヲはその誓いを他の誰にも教えてはいない。
だが――その秘めてきた誓い、それをコイツにだけは言わなくてはいけない気がした。
何故か、コイツにだけは――
「――――俺は、誓った」
『なにを?』
「彼女を、志乃を取り返すと――必ず救うと誓った」
そう、この身には誓いがある。
その誓いの為だけに、今の俺は存在している。
それが存在理由であるならば、他に如何程の理由が必要だというのか。
『……そんだけ?』
「理由なんて、それで十分だ」
――そう、誓った。
誓ったのだ。
どんな目にあおうとも――
血に塗れ、憎しみに染まり、幾千の怨嗟をこの身に受けようとも――果たすと決めた誓いがある。
この身には誓いが在る。果たさねばならない誓約が存在する。
その誓いの為ならば、居場所を作ってくれた彼女を救うためなら――
「志乃を救うためなら、俺は何度でも――――修羅になるっ!!」
『ハセヲ』は喜んで、地獄の業火にでも飛び込むだろう。
何度でも――誓いが果たされるその時まで、何度でも。
『――――――』
叩きつけた言葉は闇に響くことなく、力強く周囲に満ちた。
――長い沈黙。
そのまま何秒経ったか、嘆息混じりに闇が口を開く。
『ふぅん……わかった。どうせもう引き返せないし、オレの役目はもうオシマイ』
「――役目?」
『そ、アンタに警告するって役目。どっちみち、これで手遅れになっちゃったしね』
言って、闇であるソイツは人間の形で姿を表した。
それでも、輪郭しかわからない。全体像すらぼやけており、せいぜい自分と背丈が変わらない程度しか判断できなかった。
『オレは何度も警告した。触れるたんびに、警告してあげた。それでも――アンタは選んだ』
「……? オマエ、何言って――」
一瞬。、錯覚とも取れる表情が見えた。
見えたのは口元のみ。それでもハッキリと、ソイツが哂っているのが解った。
「触れるたびに……警告? まさか――」
『ピンポーン。痛み流してたのオレ。苦労したんだよ、壊れない程度にするの。あ、今回のは嫌がらせのオマケね』
「――――ッ! テメェ、が!!!」
影に向かって、殴りかかった。
影は軽快に飛び跳ねてそれを躱し、拳が空を切る。
『そんな怒んないでよ。親切心だったのに』
「ふざけんじゃねえ!!」
『ふざけてない。オレ、いたって真面目』
幼稚な声が僅かに硬直し、緊張を帯びた。
『死ぬより怖いモノあること、知ってる?』
影が突如として聞いてきた。
ハセヲは曖昧に答えを返す。
「……知るかよ」
『オレ、知ってるよ』
飄々とした口調から一転、ひどく真剣な響きへと声が変わった。
『アンタは死の恐怖すら知らない。オレはよく知ってる。それ以上の恐怖も知ってる』
畏れている。
飄々としたその人影は、ソレを心底畏れていた。それが、声だけで知れた。
――だから、やつは、何度も、警告したのか?
『こっちのオレはこれで消える。けど、あっちのオレは今もあそこにいる。それ、忘れないで』
それを最後に、再び影は飄々とした口調に戻った。
『じゃーね。せーぜー頑張りなよ』
影はそう言うなり、軽快に跳ねて離れた。
そのまま、背を向けて深い闇へと消えていく。
『オマエ――つくづくヤな野郎だな』
その背中に向けて、心の底からの本心を口にした。
するとソイツ――影は何を思ったか、見えもしない顔を笑みに歪ませる。
そして消える間際、ひどく嬉しそうに呟いた。
『それ、持ち味』
To be Continue
作者の蒼乃黄昏です。
小説を読んでいただきありがとうございました。
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『第零話:終わり逝く世界』をお送りさせて頂いてます。
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