夢を――見た。
虚ろでおぼろげな、しかし形を得ている夢を見た。
夢見ているのは『私』なのか。それとも『彼』なのか。もしくは『彼女』なのか。
それすら判らない。自己を確定することすら出来ず、ただ夢を見ているという状況のみここにはあった。
――白い世界。
誰も触れたことの無い手付かずの領域。
誰も見聞きすることの無い漂白された空間。
誰も立ち入れぬはずの――壁の向こう側。
そこにはあらゆるモノがあった。
地面へ向かって生える高層ビル。
決して開かぬ自動ドア。
顔のないフランス人形。
空を飛ぶペンギン。
電線にとまる飛行機の群れ。
太陽を煌々と照らす地球。
――そういったあらゆるモノが存在していた。恐らく、ここはそれら混沌の中心地にしてあらゆる可能性の貯蔵庫。
在り得ないなどというコトは在り得ない。だから在り得る。在り得ないが故に在り得る。
「――馬鹿馬鹿しい、それは矛盾だ」
――矛盾。
肯定と否定の極致。その狭間にして最果てに創造された概念。
在り得るということは可能性の肯定。
在り得ないということは可能性の否定。
在り得るのが在り得ないのならばそれは否定の極致であり、在り得ないことが在り得るとすればそれは肯定の極致となる。
肯定を否定すれば、それすなわち否定。否定を肯定すれば、それすなわち肯定。
されど真逆。
肯定は否定されるこそ肯定という正の可能性を得ることが出来、否定は肯定されるからこそ否定という負の可能性を得る。
故に矛盾。
この矛盾はおよそあらゆる存在が持ち得なければならない概念であり、同時にあらゆる存在が認めてはならない概念。
――混沌。
――原典。
――螺旋。
――源初。
――輪廻。
そういったモノがこの世界の名称であり、またその意味である。
「――つまり、この世界には全てがあり何も無いということか……。それでは何の意味も持てぬな」
そう――結局のところ意味は無いのだ。
全く以って、何の意味も無い。
これまで長々と記述され語られたコトに僅かたりとも意味は無く、またこれまで延々と羅列され語られたコト以上に意味の有るモノは無い。
『しかし』――或いは『だからこそ』これまで脳裏に印刷され続けた記述を理解する必要は無い。
だらだらと意味も無く垂れ流された情報であり記述であり真実であるそれらを理解する必要は皆無だ。
何故ならばこれを記述した人間ですら、それを理解できぬままにただ機械のように羅列を刻んでいるだけに過ぎないのだから。
「――しかし、願望の終結点としての機能だけは維持している」
“ここ”は可能性の貯蔵庫。肯定であり否定であり在り得ることであり在り得ないことですらある概念の帰結点。
可能性とはそういうモノだ。凡そあらゆる存在全てを肯定し、同時に否定するモノ。
だから――在り得るのだ。待ち侘びた、そして最も恐れた今の状況も、可能性としてのみ論ずれば在り得るのだ。
故に今はただ、ここにある『事実』のみを理解すればいい。
これが虚像だとしても一向に構わない。
ここにある事実。
それが判れば問題ない。
「――ならば、歓迎しよう」
この状況を。今ここに展開された可能性を。ただひたすらに歓迎しよう。
何故『此処』に『在る』のか。
『今』という時間が『いつ』なのか。
『これ』は本当に『現実』だと言えるのか。
そんなことはどうでもいい。
唯一絶対の事象として認識できる今の状況が判れば――。
今の私が“絶対者と闘っているという現状”さえ認識できればそれで良い。
「――往くぞ、絶対者よ」
この手の刃は神の剣。この身に宿るは渾身を以ってなお出せぬ全力。この記憶は一度ヤツと戦ったことのあるモノ。
これ以上は望めまい。これが最善、これが理想、これが渾身。
ならば、ただ為すだけ。そして成すだけ。
それが自身にとって唯一の目的であるのならばそれを躊躇う必要は無い。
かくして己が身体は疾走を開始し、地平の果てを駆け抜ける。
足は地を蹴り手は空を掴む。疾走は疾風となりそれはやがて神風と化す。
「――――!」
感覚が剣となる。鋼よりも硬く刃より鋭く鞘よりも流麗な思考が流動し、やがて一つの意志に向かい集化する。
限りなく一点に凝縮された意識はこの場における一つの解を導き出す。
『この世界』の『この身体』に許された余命であり制限時間。
――三瞬。
一瞬を三度束ねた時間。
一瞬を三度迎える刹那の時間。
それがこの身体に許された時間だ。
それが過ぎれば“終わってしまう”。
『この世界』における『私』が終わってしまう。
故に、三瞬。
全てを賭してでも、この三瞬で決着をつけなければならない。
“――最初の一瞬が到来を告げる”
その一瞬の中に敵であるべき影は幾重にも残像を残し、実に八度の斬撃を放った。
首を刈る横一文字。
居合いよりも迅い逆袈裟。
両肩、喉、眉間を穿つ四の刺突。
右と左の半身を分断す大上段からの振り下ろし。
鎧をもかち割る豪の閃撃。
音速超過の衝撃は斬撃の一部へと変換され、その一つ一つに必殺の意が宿る。
それら悉くを避けた。
人間では望むべくも無い――否、人間では出来ぬ動きと速度を以って音より速く、風より鋭く、獣より獰猛に駆け、回避を成した。
“――重ね束ねる瞬き、二瞬へと攻め入る”
今度はこちらの番だ。敵は体制を崩している。攻勢に出るには今しかない。
ミシリと音をたてるほどに柄を握り締め、一瞬の内の半瞬を思考に割いた。
いくら体勢を乱しているとはいえ、アレは超越した存在だ。
超越できない自分たちにとっての神にも等しき上位存在。有象無象が幾百幾千と集まろうと傷一つ与えることすら叶わぬ一個の戦神。腕の一振りで天までが震え上がる大いなる信仰対象。罪人どもを微塵の容赦すらなく裁き断ずる執行者。それに立ち向かうのであれば正攻法では通じまい。
何がある。何で倒せる。何をすれば立ち向かえるのか。考えろ。考えろ。時間は無い。思考は冴えている。敵が体勢を整えつつある。猶予は無い。武器はある。考えろ。敵を穿つ手段を。何をしている。速くしろ。一瞬など束の間すら無いのだ。
「ウ―――」
時が加速する。攻撃方法は無限。通じる手段は皆無。ならば考えろ。時間がないと言っている。時の流れが速すぎる。これ以上は無駄。一瞬が満ちる。攻勢に出ろ。手段が無くとも抗わなければ話にならない――。
「――――オ」
もう待てない。時は過ぎた。残り四半の瞬すら無い。これ以上を思考に割く意味は無い。何をしている。動け。疾駆しろ。方法などはどうでもいい。剣を握れ。駆け抜けろ。
「オォ―――」
往け。考えろ。敵を打倒する方法を。違う。考えるな。余裕が無い。思考時間は既に尽きた。駆ける。跳べ。敵は目前。見つけた。見つけるまでも無い。敵は其処にいる。
「――――オオォ」
違う。見つけた。見つけたのだ。何を。手段。抗う手段。在り得ない。猶予は無い。手段は皆無。在り得ないなどというコトは在り得ない。それが真理。打倒は可能。だが間に合うのか。ならば間に合わせる。故に走れ。疾く迅れ。身体を支配するは脳ではなく衝動。想いは刃に。思考は腕に。我が衝動は思考が導く血路を擦る――――!!
「オォォォオォォォオォォ――――!!!!」
巨人より雄雄しく、竪琴より繊細に、炎より猛々しく、風より鋭く放たれた必滅の一閃。極最小の死角、一縷の理想、生と死の狭間、そこしかないという辿るべき太刀筋をなぞり二界を乖離するこの一撃。それには、いかな絶対者といえど消滅せしめる確信があった――。
しかし――同時に無かった。
いくら探そうともどこにも無かった。
無い。無い。無い。無い。在るべき筈のソレが無い――。
斬、という衝撃。
耳に届く斬撃音。
視界に映る攻撃の成果。
敵を打倒せしめた手に残る感触。
そこしかないという理想の髄であるはずの斬撃が得るはずの、敵を倒した手応え。
それら全てが――どこにも無かった。
(――――躱された!?)
“――刹那が去就を告げ、最後の三瞬目を迎える”
まだ敵を倒してはいない。ならば三瞬目が来る。最後の一瞬が来る。
(――――備えろ!)
この体勢では一瞬の全てを支配することは出来ない。ならば半瞬。二分の一瞬後に来るべき半瞬に賭けろ。今備えるべきは先の半瞬。その半瞬を生き延びなければ意味が無い――!
「――――ァ……」
声。
ひどく間近から届いた声。
触れ合わんばかりの近接距離から放たれた声。
地平を睨む目線の真下。地を這うように跳んで来た“ヤツ”がそこにいた。
「――――!?」
知らず驚愕の表情を象る。
大地に根を生やすが如き前傾姿勢で放った、必滅の意を持たされた剣撃。それを死地に自ら飛び込み、掻い潜って回避するなど――最早常軌を逸している。
「アァァアァァアァァァ……!!!」
絶対者の口蓋から漏れる吐息が力を増す。何気なく振るう一撃でさえ必殺の威力を放てる敵が――“力を篭めている”。
それを知覚し、導き出される意味を理解した脳髄に警告音が満ちる。そしてただ一つの命令を身体に下した。
(躱せ――!)
言われるまでも無い。避ける以外の選択肢は無い。その存在が絶対であり、また敵である以上それに触れることはすなわち死を意味する。防御など無意味。受けた腕ごと粉砕される。原形すら保てず粉微塵にされてしまう。
そんなことは先刻承知。避けねば死ぬ。当たれば消える。ならば避けろ。何をしてでも回避しろ。後に来る半瞬のことなど考えるな。どんなに無様でもこの一撃を躱さなければそこで“私”は終わるのだ――!
「――――チィッ!!」
二瞬目の斬撃を放ったままの前傾姿勢。
その体勢から真横に弾けとんだ。
右足が胴体から千切れ飛びかねない無理矢理の回避行動。
身体を保全する為の制御装置すら破壊しての全力離脱。
だが――それを以ってしても避け切ることは出来なかった。
「――――ガ、ァ!?」
左肩を僅かにかすめた狂刃。
それで左腕が壊れた。まるで傀儡のように捩れ、折れ、壊された。
「――――」
だが過ぎた。
これで半瞬が過ぎた。
これで来るべき後の半瞬が来た。
敵を視ろ。今の一撃により一時的に力を失っている。完膚なきまでに無防備。
先ほどの一撃は敵にとっても全力のそれ。それを生き延びた。ならば今度はこちらの番。残った右に渾身の力を篭める。
あとは簡単。どう振るおうとも防げない。あれほどまでに無防備となった体では防げるわけが無い。あとは当てるだけ。自身の全てを篭めたこの一撃をあてるだけで事足りる。
ただ、当てるだけで終わるのだ。
「――――!?」
そう、当てるだけ。
それだけでいい。どう刃を振るおうとも構わない。あてれば終わる。ヤツを倒せる。だというのに――。
「――――届かぬ、か」
遠すぎた。遠すぎた。刃を届かせるには遠すぎた。
――当たり前だ。
避けれぬはずの一撃を避けた回避行動である跳躍。なんの考慮もせずに跳んだ全力離脱は彼我距離を絶望的なものとしてしまったのだ。
遠すぎる。遠すぎる。ただ一撃をあてればそれで事足りるというのにそれは余りにも遠すぎる――。
敵が体勢を整える。虚ろに光る双眸が獲物を捉え、右腕を高く振り上げる。
気づけば三瞬の攻防は終わっていた。絶対者は審判を下すかのように、緩やかにその右腕を掲げる。その動作には些かの乱れも無く、ただ流麗なる時と共に光を満たす。
「――――」
光が満ちる。紅い光が収束する。
赤光は円環を象り回転数は臨界に突入。猛り狂う暴虐の力は弾丸となり、銃身と化した右腕に装填され撃鉄を起こす。
「――今回は私の負けか」
僅かの淀みも無く、軽い嘆息と共に敗北を認めた。
その表情には感情が無く、ただここにある事実を冷徹に受け止めている。
数秒後の死を、在るべき姿であると言わんばかりに享受している。
「だが――忘れるな、絶対者よ」
体内から溢れ出し、肉体を獰猛に喰らい始めた黒き同胞にさえ何の興味も無く、ただ自らを断罪する絶対者を見据える。
「死神は既に産み落とされたことを」
そして、赤光の銃口から放たれた力がその身を貫く寸前。
「私はいずれ目覚めるコトを――」
不適な笑みを残したまま、光に貫かれた体が破砕する。そして、虚像である彼は再び夢へと還った。
――――かくして、幕間は終わる。
これは虚像でありつつ虚無に非ず。
それは実像でありつつ実体に非ず。
夢は還り、虚像は本来の座へ戻ろうともこれは無意味に終わりはしない。
繰り返される歴史。重ねあわされる記憶。蓄積する経験。
それらは虚ではなく実へと還り、いずれ形を得るだろう。
虚ろなる夢物語は幾たびを廻ろうとも、往き尽く結末は消滅の一点に帰結する。
しかし、『彼』が実を得た時に同じ運命を辿るとは限らない。
『しかし』――或いは『だからこそ』重ねて宣言しよう。
黄昏は、もう目前にまで迫っているのだと――。
To be Continue
作者の蒼乃黄昏です。
小説を読んでいただきありがとうございました。
簡単な一言でいいので、ご感想を頂けると嬉しく思います。
ご感想をメールで下さった方には、お返しに
『第零話:終わり逝く世界』をお送りさせて頂いてます。
作者蒼乃黄昏さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板に下さると嬉しいです。