(あれから……何時間経ったんだ?)
時間の感覚は完全に無くなっていた。あれから数時間経ったのか……もしくは数分と経っていないのか、それすら分からない。もしかすると数日が経過しているのかもしれないとも考えたが、餓死していないところを見るとそれは無いようだ。
(時計……時間、を)
指一本動かすのですらままならない。全身の力を込めてなんとか首の角度を変えるが、壁の高い位置にかけられている時計を見ることは出来なかった。仕方が無く窓を見る。
(………朝、なのか)
まるで気づかなかったが、部屋に朝日が差し込んでいた。いつのまにか夜は越していたらしい。
身体の感覚はほとんど麻痺している。途中で痛みの許容を超えたのか、痛覚が一時的に機能を失っているらしかった。幸か不幸か、そのおかげで自分は狂わずに済んでいるらしい。
もっとも――ここまで壊れた痛覚と身体が元通りになるか疑問ではあるのだが。
「……う、ご……け」
歯を食いしばって腕を立たせようとする。
今の自分はカーペットに前のめりに倒れている状態だ。これでは時間も確かめられない。身体を起こすのが無理でも、せめて仰向けにならなければ時計は見れない。
一晩中腕立て伏せをやらされたような筋肉疲労を感じる。たっぷりと時間をかけて左腕を床に立たせた。
「―――く、あぁ!!」
あらん限りの力でそのまま身体を転がす。どうにかそれで天井を向くことが出来た。
視線を動かして時計を見ると9時を過ぎたところだった。まだ日も変わっていない。ログアウトしてから……大体九時間ほどか。時間を確認できて安堵したのか、強烈な眠気が襲ってくる。
(……眠ったら……やばい、かな)
雪山の遭難でもあるまいしと思いつつ、それはそう的外れでもない危惧だった。
今の亮の身体は控えめに言っても重病人のそれだ。
呼吸は浅く、体は動かない。立つことすら出来ず、血の気は無いに等しい。顔色は真っ青で病室にいても何ら違和感のない状態だった。
しかも汗で全身が濡れている。湿っているのではなく、完全に濡れていた。体温は限界にまで下がっており、眠ってしまえばよくて風邪、普通でも肺炎にかかってしまう。
いや、むしろこの衰弱状態で眠ってしまえばもう一度起きることが出来るのかさえ疑わしい。
(……昼までじっとしてるしか……ないか)
それで少しでも回復してくれればなんとか動けるかもしれない。
そんな僅かな希望を抱き、ただ昼まで睡魔と闘い続けるしかなかった。
そして――数時間後。
結果だけを言えば身体を動かせるようになった。
ただ――回復したとは言い難かった。
まず体が燃えるように熱くなり始めた。
次いで忘れられていた痛覚が戻り、激痛が精神と肉体を同時に苛む。
オマケに激しい嘔吐感に襲われた。その上、眩暈で視界はぐちゃぐちゃだ。
体が動くようになったのは単に、一時的に断線していた神経が繋がり始めたからだろう。
「動けるように……なっただけでも……まだ、マシか」
壁に体を預けるようにして、ずるずると階段を降りる。
体温が下がる心配より、脱水症状を危惧するほどに汗をかいている。まずは水分を取る必要があった。
ダイニングに出ても両親の姿はいつもどおりなかった。いたら確実に病院に連れて行かれたであろうが……。
「―――プハァ」
コップ一杯の水を一息に飲み干し、息をつく。
冷たい水が体の芯に通り、思考までもが冷えていく錯覚を覚える。
「……何か食わないと、な……」
半分眠っているような頭でどうにかそれだけを考える。
昨晩に体力を消耗しきったせいだろう、栄養が全く足りていなかった。何でもいいから食べ物を腹に入れて、まともに動けるだけの体力は回復させたかった。
他の事は全部後回しだ。
何故こうなったのかはさっぱり分からなかったが、それを考えることさえ出来ないほどに体が弱っている。まずは栄養を取り、着替えなおしてから眠らなければならない。何かを食べて栄養さえ取れば眠っても大丈夫だろう。
「まずは……体力を……」
それからのことはよく覚えてはいない。
次に亮が目を開いた時には、既にベッドの中だった。
*****
「――以上が今回の件に関する報告です」
世界を観測し、調停する英知の結晶――『知識の蛇』にパイの凛とした声が響く。
彼女の両脇の壁に走る光は一定のリズムを刻み、幾何学状に記された聖印をなぞる。
「ふむ……素質の有無が確認出来たことだけでも僥倖と言うべきか……」
部屋の最奥。祭壇に浮かぶ台座に屹立するヤタは顎に手をあて、何かを思案しているようだった。
彼は英知の座につくべき正当なる人物。およそこの『The World』の知識と銘打たれる全てを頭脳に刻み込んでいる賢人だ。パイも彼にだけは一目を置き、最上の敬意を払っていた。
「判った…。引き続き“死の恐怖”の開眼を促してくれたまえ…」
「……ヤタ様。差し出がましいこととは自覚していますが、よろしいでしょうか?」
「何かね、パイ…」
「“死の恐怖”の因子――彼がそれを所有することには問題があるのではないでしょうか」
「何故そう思う…?」
「彼は碑文の扱いに失敗し、危うく暴走寸前の状態となりました。彼に碑文を所有、使用させるには無視できぬリスクが生じるのではないかと危惧しております」
なるほど、彼女の言っていることは事実だ。
提出されたデータを見ても、碑文は一時的にとはあらゆる存在からの制御から外れていた。
碑文とは『The World』における核爆弾のようなものでもある。
碑文とは在るだけで危険な存在であり、それを所有するものには常に危険と責任が付き纏う。
一度制御をしくじれば容易く暴発し、その所有者もろとも周囲一帯を吹き飛ばす。
いや――周囲一帯で済めばまだ損害としては軽いものだといえる。ともすれば、この『The World』自体を吹き飛ばしかねないほどの力を秘めているのだから――。
碑文とはそういう存在だ。それを所有し扱う人間はいつ傾くとも知れぬ天秤を支える調律者となる。左の皿には碑文が賭けられ、右の皿に自身の意志の強さ、そして絶対に失うことの出来ないモノを――命を賭けている。
それがバランスを失ったとき――何が起こるかは容易に想像がつくだろう。
「彼の目的から考えても碑文の所有者に相応しく無いと判断しざるを得ないのではないかと思われます。彼は復讐の為に『The World』に居ます。その目的の為、碑文を無差別に使用する可能性が無いとは言い切れません。また彼には記憶の障害が見られます。危機に瀕したときにそれが発症しないとも限りません。他に――」
「――パイ」
八咫は変わらぬ口調で、静かに――しかし重く口を開いた。
「君の危惧していることは十分に理解した…。確かに碑文にはそれ相応の危険が生じ、彼にその力を預けるには軽視出来ぬリスクが生じる…」
「でしたら今すぐ彼の碑文使いPCを隔離し、『G.U』の管理下に――」
「――だが」
焦ったようにパイは口を挟もうとする。それを視線で押し留めた。
彼女はハセヲが碑文を所有することを良しとしていない。
G.Uの実働隊を統括する立場として、そして恐らくは――彼女個人の立場としてもハセヲが碑文を所有し続けることに反対している。
後者の立場からは察することは出来ないが、前者の立場からであれば八咫にも理解できる。
故にハセヲから碑文を隔離する、という彼女の意見には全くもって賛成だ。
ただし――それが、出来うることであれば、の話だ。
「パイ、オマエも判っているのだろう…?」
淡々と、ただそこにある事実だけを語る。すなわち――
「彼の碑文はもう――彼を選んでしまっていることに…」
碑文の隔離など、出来なくなってしまっているという事実を。
「……今の段階であれば、彼のPCごと『The World』から隔離することは可能です」
「それでどうなる…? 我々はようやく見つけ出した碑文使いを失うことになり、AIDAの被害は増大するばかりとなる…」
「ですが、彼が碑文を扱う危険に比べれば――」
「碑文を扱うこと危険に関しては、全ての碑文使いに共通することだろう…。君もクーンも、同様にその危険が付き纏っている…。我々が彼に対してすべきことは、その危険性を少しでも下げる為、開眼を手助けすることだ…」
「――――了解、しました」
表情を変えなかったのは奇跡に近い。しかし、その口調からは隠しようもなく苦々しさが滲み出ていた。
恐らくは、彼女もそれしかないということを理解していたが為に。
「では引き続き、ハセヲには開眼を試行させることとする…」
「判りました……。非常時で無い限り、私とクーンでバックアップをしておきます」
「うむ…。しかし、それでも結果が出なければあの方法を試す事とする――今回より、確実な方法を…」
今後の方針を決定し、パイは『知識の蛇』から退出した。
この部屋の所有者、ヤタ以外に誰も居なくなった空間に異質な声が響いた。
「随分と手荒な真似を考えるのね?」
似つかわしくない、と言わざるを得ないだろう。
壁を走る光ににぼんやりと照らされているだけの暗い部屋だというのに、その声はただ広い草原に吹く風のような韻を含んでいた。
まるで場違いな、しかし心地よい声に応えるようにヤタは腕を組む。
「それも仕方が無い…。今のところ、確実な手段はこれしかないのだからな…」
「碑文はもう目覚めかけてる。時間をかければ自然と開眼に近づくと思うけど」
「我々にはその時間が無い…。それは君も同様だろう…?」
いや……同様ではない。
彼女にとって、残された時間は我々より少ないはずだ。それこそ、もう一刻の猶予も無いほどに。
「――他の碑文は?」
「先日『誘惑の恋人』の所在が判明した…」
「見つかってないのは『惑乱の蜃気楼』と『策謀家』――それに『再誕』ね……」
「それらは現在調査中だ…。君の方では何かわかっていないのか…?」
「さあ、どうかしらね。貴方こそ『再誕』を見つけられていないとは思わなかったわ」
「――――」
女性の声はこの場に在っても飄々としたものだった。
姿は見えないが、今どのような表情をしているかは容易に読み取れる。
「三爪痕の情報は?」
「それも現在調査中だ…」
「調査中調査中、か……。調査しなきゃいけないものが多くて大変ね」
「そう思うなら君からも情報を提供してもらいたいものだな…」
八咫はやや嘆息しながら頭上を仰ぎ見た。
実際、八咫の仕事量は半端なものではない。
AIDA現象の解明解析。AIDAが発生した際の探知、及び駆除。AIDAの存在を一般PCに隠匿する為の情報操作に被害抑止。これだけでも激務だというのに、更に碑文使いPCの探索と回収、それらに付随する雑務が加わる。
その仕事量は常人ならば過労で倒れかねないものだ。
八咫という稀に見る不世出の鬼才だからこそプロジェクト『G.U』は成り立ち、そして機能している。
「私だって全てを把握してるわけじゃないわよ」
「それでも持っている情報量は我々よりもおおいはずだ……CC社の全面バックアップを受けている我々よりも、な……」
「――――」
「碑文の所在だけでも構わない…。現状を打破するという目的では君と我々は一致しているはずだ…」
「――――」
「見返りに、彼についての情報が手に入れば真っ先に君の元へ渡すことを約束する…」
「――――『惑乱の蜃気楼』の保有者を見つけたわ」
その声に呼応するように『知識の蛇』は一人のPCを映したモニターを表示した。
八咫はその姿を一目見て、溜息にも似た声を漏らした。
「よりにもよって、か……。皮肉なものだな」
「運命の女神様は悪戯好きのようね……。ねえ、さっきの見返りは要らないわ。代わりに一つ約束して」
「――なに?」
八咫の表情は平静そのものだったが、内心では当惑していた。
彼女が生きている理由の半分は『彼』だ。
その彼女にとって『彼』の情報提供、という見返りは破格のものであるはずなのだ。
緊張が高まる。
彼女が先ほどの見返りを捨ててまで要求するもの……それは一体どれほど難題なものか想像もつかない。
「その約束とは…?」
身と心の両方を緊張させたまま、先を促す。
そして彼女の口から紡がれた条件は――八咫を違った意味で困惑させるものだった。
*****
「――――レアだ」
「……他人の家に忍び込んだ第一声がそれか? 自称大親友」
ベッドの横に棒立ちになっている不法侵入者を睨む。
いつの間にか時刻は夕方。窓からは斜陽の影が差し込んでいる。
「いや、だって実際レアだろ。オマエが真っ昼間から布団に潜り込んでるなんてよ。写真に取ってばら撒きたいぐらいだ」
「……おい、ナチュラルにとんでもないこと口走るな犯罪者」
「む、犯罪者とは失礼な! 俺が一体いつ法を侵したというのだ優等生!?」
「現在進行形で住居不法侵入及び恐喝の現行犯だ! オマエじゃなきゃ通報してるぞ!!」
理不尽な言動に対し、耳朶に響くほどの大声で言い返した。
眠りから覚めたのはつい先ほど。しかし、いまだに夢の中にいるのと同じだった。
なにせ意識のはっきりしないまま身体を起こすと、すぐ隣にこの馬鹿が当たり前のように立っていたのだ。
はっきり言って悪夢だった。これは最悪の目覚めに近い。夢なら覚めてくれと念じつつ、冷静に現実を受け止める。
そして断言されてたじろぐ伊藤を視線で牽制しながらぼやいた。
「ったく、一体何の用だよ? いや、そもそもどうやって入り込んだ」
「ンな当たり前の事聞いてどうすんだよ優等生。ンなもんピッキングしたに決まってんだろ?」
「……うちさ、最近防犯用の錠前を変えたばかりなんだけどな」
「ああ、それ親父がやってる会社の傘下のやつ。サンプルで練習してきたから楽勝だったぜ」
「…………」
なんだかどうでもよくなって、再び布団にバタリと倒れた。
そもそもコイツに常識を求めようとする自分が悪いのだろう。この馬鹿はあらゆる意味で規格外の男だ。常識の範疇で考えようとするとこっちが混乱してしまう。
今日何度目かのため息を吐く。
そして寝転んだまま伊藤のすぐ隣――ちょこんと居座っているもう一人の訪問客に顔を向けた。
「――で、なんで浅見さんも居るのかな」
「あれ、バレちゃった?」
訪問客――浅見さんは悪戯のバレた子供のような表情で舌を出した。
バレるも何も堂々と部屋に入って来られて気づかないほうがおかしいだろう。
もっとも、伊藤だけならともかく、浅見さんまでいるとは思わなかったが……。
「マサヨシちゃんが三崎君のとこに乗り込むって言うから止めにきたんだけど」
「それがなんで一緒に人の家に入り込んできてるんだ?」
「あはは……えと、ちょっと三崎君の部屋見てみたいな〜、と思って」
「…………寝る」
弁解する浅見をよそに、亮は布団に潜り込んだ。
「寝んなよ亮〜! せっかく親友が訪ねてきたってのにそりゃねえんじゃねえのか〜!?」
「人の家に勝手に乗り込んできておいてなんで不満タラタラなんだよ……。第一、昨日は全然眠ってないんだ。寝かせてくれ」
普段の亮であれば人前で布団にもぐったりなどは死んでもしない。
だが、今回だけは別だ。とにかく眠りたかった。身体を休めたかった。
「らしくねえなぁ。もしかして風邪でもひいたわけ?」
「似たようなもの……かな。病人を労わる気持ちがあるならさっさと帰れ」
しっしと布団の中から手だけを出して追い払う。
(――――え?)
そこでようやく気づいた。
普通に喋れるほどまで回復した体調、そして思い通りに動かせるようになった体に。
(……動ける)
――信じられない。
あれほどの痛み、それがほとんど消えている。
体力は回復しきっていないようだが、数時間の睡眠でここまで体調が良くなるのはおかしい。オマケに眩暈も無くなっている。
いや、おかしいなんてものじゃない。これは――“異常”だ。
「三崎くん、どうかした?」
微妙な気配の変化を察したのか、浅見が心配そうに声をかけた。
「いや……なんでもないよ」
「ならいいけど……。何か欲しいものとかない? お粥位なら作れるけど」
いつの間にやら看病される形となっている。
苦笑しつつも大丈夫だと返答した。
考えるのはとりあえず後回しにする。二人のいる前でこんなことを考え込んでも仕方が無い。
ちゃっかり二人は居座り、そのまま雑談へと話は移っていった。
平凡な、それこそ誰でもするような日常の話。
しかし――何故だろうか。
亮にとって、それが当たり障りのない話をしているように感じてしまったのは。
「――なあ亮、いっこ聞かせてくれ」
途端。声のトーンを落とした真剣な声で伊藤が言った。
「オマエが寝込んでる原因――例の『やらなきゃいけないこと』が関係してんのか?」
「――――」
一転、沈黙が部屋を支配する。
見ると隣の浅見も神妙な表情をしてこちらの答えを待っていた。
どう答えるべきか、と考えると同時に一つの疑問が氷解する。
伊藤が暴挙に及んでまで乗り込んで来た理由。
品性方向の浅見までがそれを止めず、ここにいる理由。
それが――判ってしまった。
「――無関係とは言い切れない、とだけ答えておく」
「そうか、野暮なこと聞いて悪かった。俺らそろそろ帰っから、ゆっくり休んでくれ」
その答えでも一応は満足したのか、二人は立ち上がり部屋を出ようとする。
「おい、伊藤」
その背中を、刺すような言の葉で呼び止めた。
「昨晩のこと、どうやって知った?」
「――――」
今度は向こうが黙り込む番となった。部屋の扉の前で、二人は背中を向けたまま立ち止まる。
「――何のことだ? さっぱり分からねえな」
伊藤は仰々しく肩をすかしながら、扉のノブに手をかける。
その態度で亮の推測は確信へと変わった。
「二人とも、わざわざお見舞いを有難う」
そうして、二人の“当初の目的”に対して感謝した。
「それに、あともう一つ」
そして、言わなければならないことを口にする。
「関わらないでくれ――迷惑だ」
その言葉には頑ななまでに、拒絶の韻が含まれていた。
その拒絶の意志を読み取ったであろう二人はしかし、そのまま何も言わずに部屋を出て行った。
それを見送ってから再び布団に倒れこむ。あれだけ眠ったというのに体は睡眠をほしがっていたようだ。ほどなくして意識がまどろんでいく。
完全に眠りに落ちる前にふと視線を横に――伊藤たちが座っていたあたりに移す。
そこにはいつのかにか、果物の山が置かれていた。
To be Continue
作者の蒼乃黄昏です。
小説を読んでいただきありがとうございました。
簡単な一言でいいので、ご感想を頂けると嬉しく思います。
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『第零話:終わり逝く世界』をお送りさせて頂いてます。
作者蒼乃黄昏さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板に下さると嬉しいです。