王都より登城するには半月は掛かるであろう辺境の町。人によってはそこを村と呼称してもおかしくは無い程に静かな活気があるだけである。
軒並み三階を超す建築物は存在せず、宿泊施設が精々と言うべきというよりも唯一の三階立てなのであった。
宗教関連の施設は存在を誇示するために街の何処からでも視認できる高さを持つものだが、建築を可能とする資金が無いのはその場所の経済状況を如実に物語る尺度となる。
無論、監査する者が視察すれば即刻最優先で建設を厳命する有様だが、遥か辺境にまで視察するだけの勤勉かつ暇な役所は存在しない。
この辺境の町は周辺の環境がそれなりに緑で恵まれているため、暮らす為に困窮する要素はそれ程多くはない。
近くに小川が流れて水には困る事もなく、四季も低温で食物の栽培には少し不自由はするものの人口の範囲内には収まっている。
しかしそれ故に、辺境のそれなりに経済力のある町は盗賊や野盗がつけ狙う危険性を孕んでいる。
王都から警備関係の治安部隊の手が届かずに好き勝手出来る恰好の穴場スポット、美味しい餌を目の前にして齧り付かない筈が無い。
そしてそんな辺境の町に一人の男が乾燥した土埃の舞う野道を通って立ち寄ってくる。
町の主街道に顔を出していた人たちはその男の姿を即座に認知して目を丸くしてしまう。男は慣れた様子で歩みを進めて適当に一人の女性に話を振る。
引け腰であったものの二・三言だけ言葉を交わして道の先を指で示す女性。男は女性に軽く会釈して女性に教えられた通りに歩みを進めて行く。
◇
「ほう、それはそれはご苦労な旅をしてなさいますなぁ――ええっと~…?」
「――リンクス、と申します。村長さん」
旅の男、リンクスは先ほどの女性に村長が在宅している家を尋ねていたのだった。
どの様な場所でもまずは最高責任者に謁見をしなければその街での活動に支障が出た時、対処の程度に雲泥の差が生じる。
辺境ゆえに今さっき名乗ったリンクスの名を覚えきれないご老体がこの町の村長を務めている。
若い者は皆、一様に王都へと行くものだからこうして後任問題が発生している所は少なくない。
「おお、リンクスさん。そうじゃったのう。それでぇー…この町の商売の許可が欲しい、とな?」
「その通りです。別段この町の商売の邪魔をするのではなく、珍品の卸し市という商売と考えて下されば問題ありません。
私が取り扱う商品は良く流通されている金品・被服・食材等ではない、それこそ滅多にお目に掛かれない掘り出し物があるかもしれません」
「ほぁ…? それはまた随分と珍しい商売で旅をなさっておいでで――」
旅商人と自称する男の唯一の手持ちである背負い鞄を見上げる村長さん。そう、この村長さんは見上げているのである。
こんもり盛り上がった山という表現がぴったりの巨大な皮鞄。傍にいるリンクスに鞄が倒れればプチリと押し潰されてもおかしくはない程に大きな鞄を背負って来ていたのであった。
その様なものが普通の家の中にあるはずもなく、村長宅の玄関先にずんぐりと置かれており、彼らは今玄関先で話し込んでいる。
巨大な荷物は非常に目立ち、近くの子供が興味津々にぺたぺたと巨大鞄に触れている。
町へと入った時にはこれをリンクスが平然と背負って歩いていたのだから驚くのも無理もない事である。
しかもリンクスの体格は巨漢ではなく、何処にでもいる町の優男風なのだから驚愕の味をさらに加味させていた。
「それで露店を開くとは言っても今日一日程度で構いません。流浪の旅の様なものですので明日には町を後にしますので」
「それでしたならば今日はご自由に露店を開いて構いませんよ。何分この様な僻地ですもので、外の珍しい物には目が無いでしょうな。
他の者にも声を掛けて寄らせる様に口添えをしておきましょう」
「感謝致します…」
村長に会釈し、再び鞄を持ち上げて背負い直す。その間の動作を見ていた周囲の人達は驚嘆の声を洩らす。
何しろ自身の体積の数倍大きい荷物を片手で持ち上げてあっさり背負うものだから驚かない方がおかしいのである。
まずは子供が率先してリンクスの後を追い、珍しくも奇妙なものが平凡な日常の中に投じられて刺激に飢えた手の空いている大人達も後に続く。
ある程度町中に移動すると程よい路地裏に鞄を下ろし、鞄の最頂点に括って丸めていた風呂敷を解いて石畳の上に敷く。
それを鞄の前面に展開し、皺を伸ばして端を重しで固定。幾重にも封印していた鞄の蓋を開けて中より様々な物品を取り出して風呂敷の上に並べていく。
見物していた人達は一つ一つの品を見る度に見た事も無い不思議な品々に不思議な嘆息の声を上げる。
「…おほん、これより露店を開店致します。何か品物で分からない物が御座いましたら何でも質問して下さい」
そう言って開店を宣言するも、大人達は見た事も無い物品に警戒心を強めているので率先して聞こうとはしない。
なのでここでは最も好奇心が大きく、尚且つ真っ先に疑問を口にする子供が手を上げて聞いて来る。
「これってなぁに、お兄ちゃん?」
その子供が手にしていたのは真っ黒な岩石。岩なのにつるつるとした触り心地に子供は興味津々。
「それは黒曜石と言って主に武器などの加工に用いられる鉱石。装飾用の貴金属の引き立て役としてもよく利用されている物だよ。
実際には目立つ事のないので忘れられがちだろうけど、それが無い装飾品は価値が極端に低くなる。
武器には主に魔導杖のクリスタルに使われる事もあるし、剣の柄に嵌め込む魔法石としても使われているね」
周囲が騒然とし、石を持つ子供から大人達が数歩離れる。その様子にリンクスは苦笑し、子供達は目を瞬かせている。
「ご安心を。その黒曜石には何一つ魔法素養は含まれておりません。なのでそれは装飾品の原材料としてしか価値はありませんよ」
そう言って他の黒曜石を両手に持って打ち合わせるもカチカチと鳴るだけで何一つ変化が起きない。それを見て皆、安堵して改めて近寄って来る。
「これは主に職人向けの商品でしたので、これなどは皆様向けの品物でしょう」
片手に持ち上げるのは奇妙な生物の干し物。平べったく、醜い顔立ちに顔を顰める者が大半である。
「見た目は芳しくはありませんが、酒の賄には持って来いのお勧め出来る物です。
酒場で酒と一緒に食べるもよし、夕食の一品に加えるも良しの食している地方では毎日欠かせない逸品ですよ」
干物が数匹並べられている傍の小袋から線状に刻んだ干し物を一人の男性に差し出す。
「一口どうですか?」
「お、おう…いただこうか」
おそるおそる手に取り、下手物の形を成していないので、気にせずに口に出来る形ではあった。
それでも先ほど見たインパクトの強い姿に躊躇してしまう。周囲の期待の眼差しに引くに引けなく、恐る恐る口に含んだ。
「――!!?」
「どうです?」
歯応えがあるために少しの間静かに噛み砕いていた男性は目を大きく見開いた。その様子にリンクスは薄く笑って評価を求めた。
「あんちゃん、一匹頂こうか…」
「毎度っ、一匹75イントになります」
「安っ?! いいのか、そんな値段で!?」
子供のお小遣いで買える価格に男性はすっとんきょんな声を上げてしまう。
「ええ。何分、私自身が酒を飲まない方で非常食にしかならないものでして、それに纏め買いでそれなりに値切りましたから♪」
「それじゃあよっ、四匹――いやいや、五匹くれっ!!」
「お買い上げ、有難う御座いまーすっ」
周囲を置いてきぼりにして男性は一人だけ鬼気迫る勢いで大量に買っていく。
軽く包装紙に包まれた干物を手にして男性は非常に満足な顔色で周りに笑顔を振り撒く。
「物凄く酒のつまみに合う上手い干物だったぞ」
それからと言うものの、子供も大人も騒然と風呂敷の前に群がり出した。
最初の干物は先の男性の一言で即時完売、その他の品物もそれなりに好評な内容で、文字通りに飛ぶ様にして売れていく。
しかしあまりあり合わせのお金が無いものだから物凄い形相で自宅へとお金の取りに行く人達が大勢いた。
さらにこの露天の話が小さな町全体に行き渡るのにそんなに時間が掛からず、手が出せる価格な為に町の人口の殆どがこの露天に集中する事となる。
最前線に居た子供たちを奥の商人席である側に避難させ、無料で飴菓子を御馳走して商売の見学をさせている。
それなりに商売をしていればこうした事態に備えて抜け目の無い安全策を講じるのであった。
その後の閉店間際には専門的な物以外があらかた売り切れ、初めに説明していた黒曜石は小さい物だけが幾つか売れていた。
専門的に見れば拳小サイズともなればかなりの高価値となるのだが、辺境の町の人々がそれを判断するには酷だった。
無論、鞄の全ての商品を売り捌いた訳もなく、次の町の為の商品はかなり残されている。
安いとはいえ大量に売れたのだから資金は上々。それに明日出発の前の朝市に顔を出して新たな商売用の品を買う際には、今日の礼に格安で譲る可能性が非常に高くなる。
安く売って安く買う。そして新たな場所でも安く売って安く買えるお得なループが可能となるのだ。
鞄の蓋を締めて風呂敷を丸め、改めて鞄の上部に括りつけて固定。ひと仕事が終えた溜息を吐いて空を見上げる。
茜色に染まった空が深く澄み渡り、既に数多くの星々が自己主張をして瞬き、そよ風が髪を撫でていく。
◆
たった一日だけ滞在した町は既に地平線の下ではなく、山の陰に埋もれてしまっている。
途中までを村長の御厚意により馬車で山の麓まで送ってもらった。もっとも、背負う荷物は別の馬車に乗せるという不便な運用法となってしまっていたが。
それでも刺激の無い辺境の人々にとってリンクスの売っていた物が大変娯楽になった様で、悪く言う者はいなかった。
今は山の中腹の道を歩いている。山の斜面は荷馬車の移送も考慮してそれなりに幅がある。
片側が崖という馬車同士が交差したくない道の作りとなっているが、人や生き物が通る気配すら此処には無い。
崖の下は青々と深い森が地平線の先にまで広がっているため、誤って落ちてしまえば直接的な意味も含めて死を覚悟しなくてはならない。
結局、日の出ている内に山越えをし切る事が出来ずに野宿をする。麓に届く二・三歩手前という所まで来ていたのだが、麓は森で覆われているので無難に山での野宿としていた。
山の通行人のために山小屋等の施設が基本的にある世の中ではあるが、辺境にその常識は通用しない、ましてや曰く付きの場所ともなれば尚の事であった。
「――エルフ、か…」
山を越えると伝えた時の村長や他の大人達は信じられないといった眼差しを向けてきた。
何でも山を囲う深い森の中にはエルフ族という精霊を信仰する種族が住まう場所で、近づく者には容赦しないと云う。
故に町と町を結ぶ山道を利用しようとする者はいなくなり、すっかりと町が寂れてしまったと苦々しく村長は話してくれた。
村長の話を近くで聞いていた大人達はそんな苦労をしていた自身の親達の思いを受け継いで、エルフ族に対しては憎悪に近い嫌悪感を隠そうともしていなかった。
しかし、道を辿って来て奇妙な点が幾つか判明した。山道はそれほど日が経っていない間に利用された足跡が多く確認できたのだ。
山を越えた先には村長達の町しかなく、あの口ぶりからして最近利用する者が皆無なのは間違いない。
なればあの足跡は一体誰のものなのか? 安直な推察では『エルフ族』という事になるのだが、それにしてはあまりにも人間的すぎるのである。
「―――」
瞬く空の輝きの明かりと焚き火の灯りが全ての薄暗い闇の中にリンクスを囲う様に気配を隠している複数の気配。
闇に紛れている様ではあるが、視線に力が籠り過ぎて徒洩れしているので丸わかりである。
獲物が通らない山道に竹の花を見つけたかの如く、珍しい獲物が来た為に興奮するなという方が無理な相談なのかもしれないが。
鞄を背に預けて特に動かずに静かに目を伏せる。傍から見れば焚火を焚いたまま寝入った愚者でしかない。
気配すら隠す気が無くなってきたご様子で、御座成りな足捌きで一気に肉薄をしようとしていた。
だが次瞬には小さな風切り音とともに同じく小さな呻き声とともに人が倒れ伏す音が響く。
「――!! ……! ――…」
何か慌てた様子で囲んでいる者達が動揺している気配と消え行く気配が五分五分になって静かに騒然としている。
やがて囲んでいた気配は遠のき、新たな集団の気配が近づいて来ていた。
「――貴様はこんな所で何をしている?」
「……ご覧の通り、野宿で御座います」
荷物の背後、完全に死角の向こうからの声に穏やかな口調で返答する。
見えてはいないが、獲物に手を掛けて警戒し続けているのが隠そうともしない気配で手の取る様に判断出来る。
先ほどの包囲していた集団はほぼ確実に盗賊の類の者達。もしかすれば山道の襲撃者は彼らの可能性は否定出来ない。
彼らはこの近辺の森の棲むエルフ族の名を語って悪行を繰り返した結果が、村長達のあの植え付けられて感情となって根付いたのだろう。
そして彼らの傍らで本に狩人として身を潜めていた今の彼らがもしかすれば―――
「盗賊の類がこの近辺を根城にしているのだ。焚き火などをして自ら狩られようとしている様なもの。即刻下山して町へと帰れ」
「御心使い感謝します。ですが私は旅する商人ですので帰る家など御座いません上、町の者に森には人を襲うエルフがいるとの事でこうして此処で夜を明かそうとした次第で御座います」
沈黙が下りる。背後で怒りの感情を押し込めているのがよく分かる。
この時点で既に相手の正体は判明しているが、それを口にするのは無謀でしかない。故に自ら切り出した。
「ご安心下さい。私は商人として旅をしてきた身ですので、それなりに戦いには慣れて御座いますので心配ご無用です」
「…今の輩でも自分一人で対処出来た、と?」
「お恥ずかしながら」
臆面もなく言い放つと徐々に気配が遠ざかっていく。去り間際に短く鼻を鳴らした事から「無駄な助けをしてしまった」とでも言いた気であった。
暫くして焚き火を消し、地面に横たわって睡眠の態勢を取る。満点の星空が目の前に広がり、自分一人が星の海に放り出された錯覚に陥りそうになる。
もっとも、光の奔流に飲み込まれた経験のあるリンクスにとって、それはあり得ない錯覚ではあった。なのでそれ程空を眺め続けずに、瞼を閉じてしまう。
◆
気が付けば森の中に放り出されていたリンクスは情報収集を即座に行った。
結果からして此処はリンクスの知識が適応する地ではない事が苦もせずに理解出来た。
近くの集落の隠れて覗いてみれば、中世西欧時代の貧しい暮らしそのものがそこにあった。
粗い布の服に木造の住宅。明かりには蝋燭の灯火と現代において過去の遺物と化していた物が現在進行形で使用されているのだ。
そしてさらに現実を突きつけられたのが盗賊の襲来。集落を盗賊が襲ってきたのだが、誰もかしこも手に持つ獲物はナイフか弓。
どんなにお粗末な強盗でも今時は拳銃の一丁、マニアックなのではファマスやC4を持ち込んでいく輩がいるのに時代錯誤な状況が展開されている。
その時点において唯一の情報入手が可能な拠点をこんな事で失させてならず、ライフルの弾一発放って頭である男の頭部をぶち抜いた。
頭が無くなったボスに呆気に取られ、時間差で届く射撃音に皆が一様に驚いてさっさと逃げていったのは僥倖であった。
ついでに盗賊の本拠地を追跡で発見し、殲滅がてら情報を引き出して全員の息の根を止めたのは予想外の収穫だった。
得られた情報は俄かに信じがたい事ではあるが、信憑性はあったので現状で可能な事をする事に。
盗賊らしく金品・女が拠点には存在していたので女は放置しては勝手に逃げ、金品・衣服・食料を頂いて地図を手にさらなる情報を求めて彷徨う事となった。
それにより得られて情報からして、この場所が地球ですらないのではという疑わしい結論を出さざる得ない。
大陸の名はアスガルド。そしてリンクスが居る地点の国名がミズガルド。
大陸の規模としては地図が正確でない以上、断言は出来ないが最低でもオーストラリア大陸程度はあるのは確かである。
それだけの規模を持ちつつ地球全土を監視できる衛星群が発見しないでいるというのは逆に在り得ない。故に異界であると認識し、考察の要素を多分に残す。
生活体系としては互いに差異は微細で、リンクスが生命維持を行う上で障害となる要素は皆無。
だが幾ばくかのこちら側が有する要素に関しては対処に手間がかかる。
この地に降りてより即座に認知したのが重力の小ささである。体が非常に軽く、動きに負担が少な過ぎて逆に動き辛かったのだ。
特に射撃の際、重力偏差の計算を経験則より求めていたので大きな誤差が生じ、補正するのにそれなりの時間を要した。
ましてや重力が軽いという事は常用する筋肉は少なくて済むために、質の劣化が激しくなってしまう。
元の場所では0.98の重力値とすればこちらは0.79ほどである。筋肉のみならず負荷を掛ける事で硬度を維持する骨にまで影響が出るために全体的には元の半分以下にまで能力が劣化する事になる。
荷物や着る服に重量を増す材質や重しを常備する事で対応する事で対処はしているが、首などのフリーな箇所は常に鍛えるしか術はなかった。
尤も、重力関連は肉体訓練で対処が出来るために解決は出来るが『魔法』に関してはどうしようもない。
魔法と一概に纏めたが、文字通りに『魔の力を用いる方法』である。非科学的に目の前に火を発し、水を生成し、ものによっては傷を治癒する事すら可能ですらあった。
用いる術は主に血筋によって強弱が決まるようであり、魔法が駆使できる者は宗教関係者や御家柄が高い者達に限定されている。
小さな火を発火させる等の簡易なものは混血児の者ならば出来なくもないというレベルで、魔法の有無で身分の生活が左右されている世の中。
当然、土地柄(?)が違うリンクスに行使出来る筈もなく、野宿では薪を集めて火を素手で焚くしかない。
そして彼が最も危惧するとも、気をつけなければならないのが知的生命体の『多様性』である。
大地は主に人間の生活圏で埋まっているが、極少数派として人間以外の知的な進化を遂げた存在が住んでいる。
エルフ族というのもその一つである。他にも人の姿ではない龍族や精霊などもいる様だが、残念な事に把握し切れていない。
人ではない以上、人の常識や概念など通用するかどうかすら判断出来ず、先ほどのように見逃してくれたのは運が良かったと言うべきである。
自身の縄張りに侵入した者は人が人への応対ならば警告して立ち退きを促せるが、龍ならば問答無用で食い殺されるかもしれないのだ。
人の住処に勝手に入り込んだ方が悪い――人の家に不法侵入をした無法者、と同じ定義であろう。
だからこそ、自ら知らず知らずに死地に足を踏み込まぬ様に情報が手に入り易い商人として旅をしているが、逆に得辛い人の世だと痛感させられた。
人間は同じ種族以外の種族を容認していない、排斥している嫌いが強い。他種族にしてみれば生活圏を脅かされているので、その警告を兼ねた侵入者へと威嚇攻撃を行っている。だが人間がそうは受け取らない。
主観的に攻撃を受けた者は主観的な情報で話を広め、それが人の真実として人の世に広まり、他種族は脅威なる存在として認知されている。
そのため、種族の数は知れてもその生態に関しては多くは知られずにいる。だがらこそ、有事の際には独自の対処で動くしかないのである。
そう、独自になのだ――…
◇
もうじき日が地平線の向こうより顔を出す時間。山から見下ろす森は朝霧に包まれて深い樹海と見違えてしまえる程に色鮮やかである。
日の光を直接浴びればさらに深い色合いを醸し出し、幻想が視界の下部全てを覆い尽くしていくだろう。
だが今の彼の視線は森ではなく、鞄の置いている傍の地面を眺めていた。何故ならその地面には一人の少女が眠っているからであった。
「………」
観察を続けているが少女は静かな寝息を立てて健やかな寝顔で眠っており、間近に人が立っている事など気が付く様子を見せない。
長い金色の髪に線の細い肢体、太陽の下で生きているのが不思議な程に白い肌は一種の等身大フランス人形と見紛う程に整っていた。
「…………」
リンクスは目を覚まして即座に感じた気配の主である少女を見降ろし続けて既に10分経過。
殺意などの『死』に関する気配が無かったのでこの少女は危害を加える目的に接近したのでは無い様ではあるが、傍で寝る理由など判断のしようが無い。
なのでどうすれば良いのか、起こして問い詰めるべきかどうかすら決断出来ずにいるのだ。
「――んっ」
一人納得し、やっとの事で行動を開始する。
まずは焚火の後始末を完璧にこなし、体を解して鞄を背負う。一連の行動の中で少女を起こさぬ様に細心注意を払って。
そして次の町を目指して歩き出す。麓に辿り着く頃には朝霧は消えているだろうし、今日中には森を抜けられるかもしれない。
◆
「こらーーーーーー!!!」
森の中の道を進んで半刻もしない内に背後より盛大な怒鳴り声が響いてくる。振り返るとそこには先ほど寝ていた少女が仁王立ちしてリンクスを睨んでいるではないか。
怒気に満ちた顔であっても繊細な顔立ちは崩れず、深い翡翠の瞳が射抜くように見据えている。
約束された将来の美は、今は可憐という名の蕾となって花咲く前から何もせずとも存在を主張している。
「妾の存在を無視するとは何事か!? 況してや床についている淑女の無防備な状態を放置するなどと人の身であろうとも言語道断である!!」
どうやら相手にしてもらえなかったのが気に食わなかったご様子。
盛大に息を切らせている様子からつい先ほど起きて周りがただの山道しかなかったと気が付き、全速力で追い掛けて文句を言いに来たのだろう。
「……お疲れ様」
とりあえず、労いの声を掛けた。少女は当然だとばかりに腰に手を当てる。
「うむっ! 妾にこの様な盛大な無礼を働いた輩は見た事が無い!――よって貴様には妾の御供となって妾を守れっ」
えっへんと胸を張るが、その相手は既に背を向けて森を進んでいる。
「だから無視するとは何様かーーー!!?」
今度は歩く際に先回りをして正面に立って怒鳴る。流石に今度は無視する隙は無い。
「――――人間様…?」
無難な答えを返す。
「そんなのは見れば一目瞭然だっ! 貴様は人と話をする際には他人の話を聞かぬだろう!?」
「…よく言われる」
仲間内につるんでいた時もローズやファントムたちとは一歩引いた所でぼーとしている事が多く、話など相槌を打つ程度しか話に参加していなかった。
「良いか、貴様は妾の召使として従事する権利を授与されたのだぞ。光栄に思うが良い」
「どういう経緯で決定事項に…?」
初見で家来宣言をされるとは理不尽極まりない。任務達成の条件を述べられたまま死地へと放り込まれた以上の理不尽さだ。
「昨夜の貴様の警備の者共との応対の一部始終を見させてもらった。視線を交わさずに彼奴等を引かせる大した度量、故にその気概が気に入ったのだ」
「…それで、傍で熟睡したのは?」
「従者が主人の傍で守るのが務め、近くに居るのが当然であろう」
話の繋がりが論理的に進まないのは嫌でも理解出来た。
要するに彼女はリンクスを気に入り、勝手に自分のモノになったと決めて勝手に寝て、勝手に居なくなったのを怒っている、と。
彼女の中では既に自分のモノとなっているために話の辻褄が合わないのは道理。この手合いは話で解決するのは難しい。なので、
「―――そう、御苦労様…」
「だから待てと言うてるに」
横を通り過ぎようとしたら鞄の端を掴まれた。見た目の割には力強い。
「何故拒む? 妾に仕えるのを許される者は極僅か、我が都では至極の名誉に値する役割だぞ?」
「…そっちでは良くとも、自分には関係の無い事柄なのでは?」
「人間の世にもあるであろう。王の傍に仕える者ほど権力に名声、栄誉が手に入るのではないのか?」
可愛く小首を傾げる。どうやらこの少女はそういった知識を身に付けている性質なのだ。
帝王学ともいうべきか、上からの視点で文学を学ぶ環境に居たために庶民の視点からは融通が利き難い。
「興味は、ない」
否定しただけでは話は通じない。なれば根本から否定をするのが通すには有効だ。
「おかしな話だ。人間は傲慢で、欲深い。故に常に同じ種族同士でありながらも人の踏み躙り、嬲り、蹴落として上に立とうとするのではないのか?」
「――間違ってはいない。けど、自分には関係ない事には変わりは無いから…」
少女の持つ知識に何一つ相違する要素は無い。人は何処までも強欲なのだ。金も権力も名声も、欲しいものは手にしたくなる。
元の世界ではその渦中で生き抜き、この世界ではその断片をよく垣間見ている。
「う~~むぅ、不思議なものよのぉ…。やはり己が目で確かめて見ぬ事には見聞は広がらぬか……?」
警告の警鐘が頭の中で鳴る。だが鞄を未だに掴まれた状態なので逃げられない。
悩み顔から万事解決した自信に満ちた顔へと変貌してこちらを見上げる。身長差ゆえに見上げている。
「うむっ。やはり貴様には妾の従者になって人の世を教えてもらうぞ!」
堂々巡り・自己中心的・唯我独尊・お前のものは俺のもの、俺のもの俺のもの。
彼女の形成された性格はおそらく上記の通りのものであろう。何かを言ったとしてもリンクスの話術程度で如何にか出来る相手ではない。
「…商売の邪魔はしない様に」
「ほうっ、貴様は商人なのか。ならば世俗に関しては詳しかろう? 妾の目に狂いではなかったのが一つ証明されたぞ!」
我が儘という訳では決してなく、歩きを再開したリンクスの隣を同じく歩く少女は素直であった。
従者とは本来、主の傍らでサポートをし、主の命が絶対である。しかしリンクスは自身の行動を優先すると宣言しているのに関わらず、主であるはずの彼女は納得していた。
彼女の感覚としては従者は案内人と同意義に捉えている節が大きい、と考えるのが妥当。
「それで貴様の名は何と申す?」
「…リンクス」
「リンクスと申すのか、そうかそうか。妾の名はエリス・シルヴィア・シルフィード。宜しく頼むぞっ」
得意満面の見た目相応の笑顔は純粋に綺麗であった。
「こちらこそ…?」
だからといって見惚れる性質ではなく、無難な返答にエリスの笑顔は不満顔にあっさり転換される。
「そこで疑問形で返すのは無礼であるぞ」
◇
森の中へと進入する日光は大きく生い茂る木々の木漏れ日となって細々と差し込んできている。
長い間人の通行が無いとされている道ともなれば、使わない道にまで手を煩わして整備する必要性は無い。
幾年もの間、それも道の土が完全に枯れ葉によって堆積した腐葉土で慣らされ、他の場所よりも少し窪んだ状態なだけである。
歩くたびに柔らかな土の感触と地面の染み込む冷たさが何度も踏み込む事で靴越しにでも浸透してしまう。
夜明けと朝露の連携、そして差し込む日の光を遮る森の影の援護もあって周囲の空気が冬の寒空の下の如く、冷気に満ちている。
野宿を着ている服の身のみで布団の代わりに出来る服装をしているリンクスであるも、長時間の滞在はあまり芳しくは無い状況下である。
「して、此れより何処へと向かうのだ?」
だというのに、隣を歩くエリスの服装はかなりの軽装としか言い様が無いほどに軽い。
鹿の類の毛皮を滑らかして編み込み、肌に馴染ませる服として上は肩口まで、下は腿半ばの短いスカート状で一枚着状態と見て相違無い。
手足を伸縮性のある黒い布状の物で包み隠しているので肌の露出と防寒性はお情け程度に機能はしていると言える。
それでも薄着にしか見えず、全く寒げな様子を見せないのはこうした環境下で生活をしていたのだと、如実に物語る性質を垣間見させた。
「…この先にある町に」
「その町の名は何と言うのだ? 人は如何ほど、どの様な生活を送っておるのだ?」
かなりの興味がおありの様子で、捲くし立てるかの如く聞いてくる。が、しかし。
「――さぁ…?」
「さぁ? さあとはどういう意味だ?」
「…これから行く町の情報は何も無い、から」
目を丸くしてこちらを見上げてくる。商人と聞いて何を想像したのか、知っているものばかりとでも思っていたのだろう。
残念な事に行く先々は常に見知らぬ土地の辺境の町なために常に情報は皆無に近い。
だからこそ、極めて珍しい品物を手に入る事もあり、逆に本当に辺鄙な場所である事も少なくはないのだが。
「………貴様は商いを生業とする商人なのであろう?」
「…正確には、流浪の旅ついでに金稼ぎで商いをしている旅人」
「なれば尚の事、様々な土地柄の知識に詳しいのではないのか?」
「行く先々は全て見知らぬ土地だから、常に素人が新たな世界に旅立っている…?」
「詩的な回答は要らぬ。つまり本当に何も分からず、町が無いかもしれぬ町へと向かおうとしておるのか…?」
数回の質疑でエリスは最後は恐る恐ると尋ねてきている。
「…そういう事に、なる」
「……………」
立ち止まるエリス。変わらず歩き続けるリンクス。数瞬の間に両者の間に距離が開く。
茫然としてリンクスの後ろ姿を見送っていたエリスだが、両の拳を握りしめてふるふると震え始めた。
「―――この、大空け者がーーーー!!!!」
べちゃり。
距離の応じた加速を乗せたエリスの跳び蹴りがリンクスの大きな鞄ど真ん中に命中し、リンクスは受け身を取る間もなく地面に突っ伏した。
幸いにも幾重にも堆積した柔らかな腐葉土がクッションとなって怪我は皆無。だが横になった鞄(の下敷きにリンクス)の上にエリスが仁王立ちしているので立ち上がれない。
「何処の世に何も知らぬ存ぜぬで商売をする愚か者がおろうか!
どんなひよっ子でも妾の居た都の者らでも、もっとマシな考えを持ち合わせておったぞ!?」
「…今までずっとそうしてきた。だからこれからも大丈夫――」
ぐしゃり。
上げた頭の下側から吐き出される言い訳を問答無用な踏みつけでより深く頭を地面にめり込ませて黙殺。
「何処が、どの様に、大丈夫なのか、妾が納得出来るよう、申せるのだろう、な!?」
踵でぐりぐりとさらに食い込ませ、遂には頭半分以上が地に埋もれてしまった。
流石にこれ以上は窒息の危険性もやり過ぎの可能性もあるので足を退ける。だがリンクスはぴくりとも動かない。
エリスもやり過ぎたかと少し心配になってきた。
「――むっ…!」
エリスの耳がひくりと動く。リンクスの顔を覗き込もうしていた顔を思い切り上げて周囲を見渡す。
「抜かったか――妾とした事がとんだ不覚をっ」
あまりに不甲斐無い従者に感情的となり過ぎて、いつの間にか周りを囲まれていた。
数を数えるにしても、かなりの人数かつ飛来する攻撃に意識が集中出来ない。
瞬間的な風切り音に反応し、細身でありながら鋭く俊敏な動きでかわしたその眼は飛来した――弓矢の通り過ぎる姿をはっきりと見据えている。
連続して飛来する複数の矢は木々の間をすり抜けている関係上、軌道を大幅に制限されているのでそう難しくは無い。
しかし全方位よりの場合は死角から来られる程に避け辛いものはない。故に動き続ける事で狙いを攪乱する。
俊敏性の高い動きに向こうは狙いよりも数による命中に切り替えたため、今度は逆に面による攻撃に切り替わったのでかわし難くなる。
「――っぁ?!」
遂に死角より飛来した一本の矢が右肩に突き刺さり、動きのバランスが崩れて地面へと無様に転がり崩れた。
細い身体は軽やかな動きの代償に矢は肩の深くに突き刺さっており、矢を抜こうにも少し手古摺ってしまう。
「っあぁあああ――!!?」
エリスは力を込めているが骨にまで達してしまっているためか抜ける様子が無く、苦痛に漏れる声が無駄になってしまっている。
これでは治癒しようにも元凶が刺さっている状態では意味が無い。状況は依然として悪いままなのだ、一刻も早く抜かなければ――!
「フュ~♪ こいつはたまげたな、道理で動きがすばしっこ過ぎだと思ったぜ」
茂みの中から現れた男は片手に弓を携え、空いている片手には腰のナイフに手が添えられていた。
獲物に不用意に近づかず、警戒を緩めずに獲物の是非を確かめに来るのはたった一人。確信して言える、こいつらは慣れている。
「おいっ! こいつエルフだぞっ、しかも上玉の小娘だぜ!」
矢が抜けずに転がっているエリスの姿に動けないのを確かめて周囲へと大声で叫ぶ。
するとわらわらと男の仲間達が集まり、数十人の大所帯――野盗の集団がエリスを囲む。
「おいおい。見た目がガキだからって俺らと同じ歳じゃあるまいに」
「でもよ、結構おいしいじゃねぇか。今までは雄の奴らばかりだったからそっちに興味ある富豪か夫人にしか捌けなかったしよ。今度は高く売れるぞ」
「いやいやっ。この場合は俺らで楽しむのがありじゃない?」
傷口より大量に出血をしているエリスを尻目に勝手に自分たちで話を進める男達。
苦痛に耐えて傾けていた耳には彼女を激昂させる内容が展開されていた。
エルフの人身売買、過去何度も知人の仲間や愛する者を連れ去った輩が目の前に居る!
「貴様らが、妾達の仲間を、連れ去――っ…ていたの、かっ!?」
エリスの怒声に男達は一斉にエリスを見下ろす。その視線は下卑たものを見下す目であった。
「あん? だったらなんだってんだ。お前もお仲間と同じ様に俺らの酒の金になんだよ。どうでもいいだろ、そんなの」
「貴様ら――っ!?」
何の罪の意識を持たない言葉にエリスは掴みかかろうと膝に力を入れて立ち上がろうとするが、右肩への蹴りに再度地に伏す。
「おいおいおい! 大事な金蔓をキズものにすんなよなっ」
「大丈夫だって。こいつら精霊の加護とかで回復は半端じゃないからこのぐらいどうって事ないぜ?」
単に肩を蹴ったのでは無く、矢の刺さった根元の肩を蹴ったのだ。矢が刺さったまま閉じかけた傷口が再度開き、血がまた溢れ出る。
「――っ、くそっ…!」
さらに抉られた傷と痛覚に今度こそ立ち上がる事は叶わず、無様に寝転がるしか出来ない。
ほんの一・二歩の先に大事な仲間の愛する者達を物として売り払う人間が居るというのに、何とも非力な事か…!
「おーい、こっちに何かおっきな荷物があるぞー!」
「あんっ?」
エリスが自身の無力さに嘆いているのを知らずに、男の一人が少し離れた場所に置いてある物に気が付いた。
彼らがエリスを見つけた時、大きな声を張り上げていた最中にようやく視認していたので茂みの死角にあったそれに気が付かなかった。
男達が見やれば確かにそれは大きい。ずんぐりとした大荷物は一つの革の鞄に充満を超えて満杯である。
「こいつぁー…何とも爽快だなー」
「おお。見てるだけで中に何が入ってるんだか想像できないぞ…」
何人かが近づき、しげしげと見下ろす。どでかいそれは見事としか言いようが無い。
「とりあえず…中を見てみる――?!」
手を伸ばそうとした瞬間、荷物が独りでにもぞもぞと動き出した。
近づいていた男達は思わず跳び退き、遠目に見ていた男達も驚いて数歩引く。
「―――痛かった…」
喋った、おっきな鞄が。あろうことか鞄は二本の足を伸ばして立っていた。
あんぐりと口を開けて呆然とする一同。だが近くに居た者はその正体に目をひんむく。
「に、人間!?」
「? はい、人間です…?」
振り返った鞄は、人間が背負っていた。それも青年という年頃の、決して身の丈を超え過ぎる物を背負えるとは到底思えない男が平然と。
男達の反応を無視してリンクスは周囲を軽く観察し、少し離れている男達の集団へと視線を固定した。
「………」
無言で近づく。表現としてすたすたであるが、どデカイ鞄を背負った姿を見る男達にはズンズンズンの表現としか見えず、近づく勢いに男達は勝手に負けて引いてしまう。
引く男達と迫るリンクスは、リンクスが引いていく男達の姿に構わず停止、そして地面に横たわるエリスの傍でしゃがみ込む。
「ふふっ。何とも無様な姿を晒してしまったのう…。妾が貴様の主人としての示しを見せねばならぬというのに――んぐぅ?!」
出血と苦痛によって消耗しているエリスはリンクスの姿を見て弱音を吐いているが、それは口に突っ込まれる木の棒によって封じられる。
「しっかりと噛み付く…でないとかなり痛い、から」
そして刺さっている矢の根元のしっかりと掴み、一気に引き抜いた!
「――――!!!!!!?」
体もリンクスの開いた手で抑え込まれており、衝撃的な痛覚に仰け反って暴れる事すらままならない。
唯一幸いとして、口に強制的に挟みこまれたそれなりに太い木の枝を全力に噛み込んだので、それが耐える要素となったお陰で悲鳴を上げるという屈辱を味わずに済んだ。
「――っぁ!!っああっ…かっ!はっ…!!―――っぁあ……」
その後も布による肩の根元を遠慮のない止血の縛りと薬草による傷口の消毒にエリスは無事な腕でリンクスに抱き付く。
それは痛みに耐えるため、痛みの気を逸らすための肉体的防衛意識のよるものでリンクスの脇腹にはエリスの指が半分以上めり込んでいる。
止血作業を終えた時点ではエリスの意識は辛うじて残されているが、出血量と消耗の多さに安定するまでの時間はかなり要する様子だった。
「……世話をかけた、な」
言葉を交わす事も難しいほど消耗している状態でも感謝の言葉を忘れないのは彼女らしい。
「肯定」
そして返される言葉の遠慮の無さに、小さく口を笑みに染める。
「―――馬鹿者、…そこは遠慮するところ、だ。まったく、なっておらん――ぞ………」
そこで限界が訪れ、リンクスの腕の中で意識を失った。背中は荷物で不可能なため、両腕に抱かれて持ち上げられる。
視線の先には男達が理解し切れずに突っ立っており、完全に置いてきぼりを食らっていた。
「な、なんだてめぇは…?」
「…少女を助ける鞄の男?」
疑問を疑問で答え、瞬時に男達の脇を通過する。
男達が認知して背後を振り返った時は既に、エリスを抱いたリンクスの姿は森の薄暗い光の中に消えていた。
◆
薄く見開いた瞳の先にあったのは木目の粗い天井だった。
見始めの段階では茶色い何かとしか認識出来なかったが、少しして意識もはっきりして分かった。
体が少しだるく、自分が横たわって掛け布団を体に掛けられているが、それを剥ぐのが億劫で仕方が無い。
それでもただ天井を見詰めているだけでは自分が何故こうして寝ていたのか理解出来ないから知るには起きるしかない。
「……むっ?」
なかなかに力が入らない両腕に力を込めて上半身を起こすとやはり気だるさが襲ってくる。
しかも嗅覚には触れる表現するに窮する奇怪な臭いが漂っているので、気分がさらに悪くなること請け合いである。
ゆっくりと周囲を見渡せば此処は何処とも知れぬ小さな部屋の一室の様であった。体を起こした彼女、エリスが寝ていたベッド以外には小さなテーブルが一つあるだけの簡素な作り。
そしてその唯一の家具であるテーブルに小瓶より紫色の煙を上げている物を弄る、知っているよーな顔の男が何かをしている。
小瓶の中身に突っ込んでいる棒で中身を掻き回すたびに吹き上げる煙がとっても非常にやばい感じがびんびんする。
「――何をしておるのだ、リンクスよ…?」
関わりたくはない雰囲気満点ではあるが、唯一の状況情報を有している彼女の従者(自称)のリンクスに声を掛ける。
「―――秘薬エリクサーの精製…」
相も変わらずワンテンポ遅れた返答の内容に、看過できない言葉が出て来ていた。
「エリクサーとな? あれは聖水の中でも最上位に位置する万能薬ではないのか?」
「……それもエリクサー、でもこれもエリクサー。効果が同じだからどっちもエリクサー、なのだ……?」
「――――つまり、それもエリクサーであると…?」
謎掛けのような言葉の答えに首を縦に振っての肯定が返ってきた。
エリクサーとはどんな病気や怪我をたちまち治し切ってしまう最高の薬とされ、精製方や現物入手は困難を極める。
それがこんな見るからに怪しい薬など、誰もエリクサーと信じる者はいないだろう。
「…はい」
目の前に突き出されるエリクサー(怪)にエリスの頬がヒクつく。
微妙にうっすら見えている立ち上る煙もさる事ながら、間近にある分に怪しい臭いが強烈に香る。
小瓶は透明で、中身がはっきりと見えるが煙の紫と違って緑色。でも表面で泡立つ気胞は赤い。
「………何の冗談だ?」
「飲めば、傷の治りがぐーんと早まる?」
「…………何故疑問形なのだ?」
「飲んだ事ないから」
「……………そんな物に効果があると何故分かる?」
「作り方を教わって、液体・泡・煙の三色が違えば間違いなくエリクサーだと教わったから」
「………………確かにその様な奇抜な出来物が他にあろうはずもないからな」
「肯定」
「…………………で? 味の方は問題無いのだろうな?」
「『甘くて辛くて熱くて冷たくて、魂が一時的に転生する味だ』って飲んだ事ある人はその表現がぴったりだと皆一様に首肯する味」
沈黙。
目の前に突き出されているエリクサー(怪)越しにリンクスを見据えて黙る。
無言の重圧を受けて尚、リンクスは首を傾げて飲まないエリスに疑問を持っている様子。
「飲まない…?」
「そんなもんを飲むかーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」
内に溜まってふつふつ煮え滾らせていた溜まりに溜まった不満が一気に爆発。
リンクスはとっさにエリクサー(怪)を引っ込めて今の衝撃で中身が零れるのを防ぐ。
「大体何だその色は?臭いは!? 況してや味まで奇抜な下手物を妾に飲ませ様とは貴様は妾を殺す気か!!」
「良薬苦し。良い薬ほど味は苦い物ですよ…?」
小瓶に蓋をして用無しなったためにエリクサー(怪)をポケットに仕舞う。
「第一それを彼のエリクサーと信ずるとし、妾に飲ませる根拠は何だ!?」
「筋肉断裂・出血多量・失血による体力の消耗に意識不明の重体。この状態の存在に他に効く薬は?」
「むっ――」
口籠って自分の右肩を見ると、そこにはがっちりと何重にも巻かれた包帯。
それを見て漸く自身が起きる前の状況を思い出した。仲間を襲う人間の男共にやられ、その後このリンクスに矢の傷口の手当をされて気を失ってしまった事を。
「――確かにその状態の人間ならばエリクサーもありなのだろう。だが、妾には精霊の加護も付加した自己治癒能力は高いのだぞ?」
結ばれていた包帯の徐々に緩め、傷口を露出させる。見れば傷口は既に塞がっており、小さな傷跡程度しか今は無い。
鏃がかなり肉に食い込んで抜き取るまでに時間が空いていたので抜いた時にも筋肉はさらに損傷していた傷口がしっかりと塞がり、筋肉の損所を覗わせない元の小さな肩がそこにはあった。
リンクスはまじまじとエリスの傷口を覗き込み、傷口の周りの筋肉を撫でて筋肉の損傷の度合いを確かめる。
「――アンデッド(不死者)?」
「戯け。妾は生粋のエルフ族の娘だぞっ」
彼女の感情の高ぶりに反応して耳がぴこりと動く。人でも癖などで小さくひくひくと動かせる者も居るが、エリスは文字通り大きく振れる。
尖る様に伸びる耳は少し角度はあるが横に伸びている。動物の尻尾の様に感情に反応してよく動く。
エルフと人間との外見的相違が明確である耳。少しぴんと立っていた耳は徐々に萎れていき、それに合わせてエリスの表情も曇っていく。
「…そうか。こうして妾が寝ていたという事は貴様に助けられたという事か。何とも不甲斐無い…っ」
初めは奇襲で不覚を取り、そして誰一人とて倒せずに地に伏して気を失ってしまった無力さ。
しかもその相手というのが同じエルフを攫っていた輩となればそれは屈辱であり、敵を討てない無能者の証だ。
エリスの性格ならば、その意味は非常に重い。
「復讐や報復は一族の尊厳を賭した重要な意味を持つ行為。…それを若輩者とはいえ、何一つ手を出せなかった――!」
拳を握りしめ、俯き垂れる前髪の下から透明な雫が零れ落ちていく。
剣も弓も持たない文字通り無防備であったエリスが、例えどんなに優れたい身体の力を有していたとしてもあの包囲から逃れるのは保証は無い。
身も心も未熟な彼女ならば尚更であるが、あの時あの場で何も出来なかった事が彼女には重く圧し掛かっている。
「………」
傍でそれを眺めているリンクスは何も言う事も無く、じっと見つめるばかり。
慰める事も無く、諭す言葉を投げかける事も無くただただ見詰めていた。
ただ、エリクサー(怪)を再び突き出して。
「飲む。寝る。起きる――で、それから考える」
「―――」
「療養中の身は精神状態が不安定になっている可能性、大。これを飲み、寝て、起きる。元気になってからの思考が吉」
顔を上げてこちらを見上げるエリスの顔は涙で濡れている。出会った当初の気の強さの欠片も無い、弱々しい一人の女の子がそこに居た。
翡翠の瞳が未だ溢れる涙に濡れてリンクスの顔がはっきりと見えないが、きっと変わらず無表情に見詰めている事だろう。
「…かもしれん。良かろう、今は貴様の言葉に従い飲んで休むとしよう。落ち込むのはそれからだ」
エリクサー(怪)を受け取り、蓋を開ける。変わらず奇怪な香りがするが、今は逆に気が紛れて好都合だ。
瓶の口に口付けてそのまま一気に傾け、喉の奥へと流し込んだ――。
◇
「村長」
無事に眠った(気絶?)エリスを見届け、部屋を出て真っ先に向かったのがこの家の主であり、町の長の老人の所であった。
「貴方ですか。それで、お連れの方の具合はもう宜しいので?」
「お陰様で。今は安定して寝ている」
「それは良かったです。この町はあの者共の影響でご覧の有り様。奴等によって被る被害は甚大です」
村長が窓の外を哀しい瞳で見る先には夕闇の中により一層寂れて見える家々、場所によっては草が無秩序に生えて住めない所も視界の中に多くある。
負傷したエリスを抱いて森の抜けた先にあった町は見た目通りの寂れた町、それも先の輩によって齎されたものであった。
若い者は皆無に近く、女は老いた者以外は皆無。皆が皆、最早生きるのを諦めた表情をする者ばかりだ。
「若い娘衆は全て奴等に連れて行かれ、抵抗する男共は例外なく殺されていきました。
剣や弓矢でやられるならば相討ち等で道連れに出来たでしょうが、何せ向こうには『魔法使い』がいるもので手も足も出なかったのです」
「―――魔法使い…」
窓から眺める先々の家々に灯る灯りは一割にも満たない。暖かな感じは無く、憂いと悲しみに満ちている。
「一人が火達磨にされ、一人が雷に打たれて無惨な姿となる。そうでない者はカマイタチにずたずたに切り裂かれていました。
今や残された者は若い女子供に老いた身の者ばかりに。奴等は襲うのを楽しんでいるとばかりに男を全員殺さず次の襲撃のために残すのです。
女子供もそうです。もう、若い男が居なくなった今、奴等は最後にはこの町の全てを奪っていく事でしょう。
この町に残っている者は皆、他に行く宛のない者や愛着を持って残る者以外に居りません。尤も奴等が逃げた者達に何かしていたのかは分からず仕舞いでしたが」
「愚痴や御託が多いのは、私を不満の捌け口にするため、か…?」
椅子に座り、テーブルを見詰めて手を組んでいた深刻顔の村長は動揺する。
見ず知らずの、しかも連れが奴等に襲われて怪我をしているというのに身勝手な話をしていた。
「いや、これは失礼をっ。何しろ奴等の縄張りを抜けて来て、連れが怪我をしていたと聞いて他人事と思えずに思わず愚痴ってしまいました」
窓の外から視線を戻さない彼に、村長は深々とため息を吐いて再び沈んだ表情で、話す。
「次にいつ、この町を奴等が襲ってくるか正直不安で堪りません。
孫の娘も連れ去られ、此処へ来た貴方がたも私どもと同じ運命を共にすると考えるとどうしても済まない気持ちでなりません」
「―――そう…」
悲痛な言葉を軽い言葉で返して入口へと向かう。
「ど、どちらへ?」
慌てて問い掛けるが、背を向けた歩みは決して緩まない。
「少々夜風に当たりに外へ。…それと、連れの部屋には――」
「あ、はいっ。今は安静にするのが大事な時ですし、お邪魔はしません」
「なら、いい」
確認をすると出る間際で開けていた扉を閉めて外へと出る。直ぐ外には中に入り切らない例の鞄。
蓋を開けて中をごそごそと奥まで漁ると抜き出される大きな筒。それは彼が使っている大型ライフルである。
ライフルを玄関の木の床に寝かせ、改めて鞄の中を漁って目的の物を全て取り出した。
いつもの服を全て脱いで黒いライダースーツに体を纏い、更に上に羽織るジャケットに弾丸を一発毎に差し込み、弾装も詰め込む。
腰に二刀の大型ナイフを差し込んで軽く跳躍して纏った物の状態を確認。そしてライフルを軽々と持ち上げて夜空を見上げる。
月は新月に近い為に細く鋭い三日月であった。雲も厚いのが多く、闇に覆われる時間は非常に多い。
◇
森の中で立ち上る白煙は細々としており、遥か彼方からは視認がし難い配慮が施された焚き火の周囲には多くの男達が屯していた。
エルフの住まうとされる森の中で駐屯している者達など限られており、エルフの人身売買をし、エリスを急襲した彼らである。
「さーて。丁度あの町で取れるものも取り尽くしたんでここいらでお開きパーティを盛大に開こうと思うんだ、どうだお前ら!?」
リーダー格の男が皆に大声で聞くと他の者も同調して歓声が上がる。
誰も彼もが心置きなく好き勝手暴れられ、そして殺しすら制限を持たせずに行える事に興奮していた。
「お頭! 本当に何でもやっていいですかい? 老い耄れの必死こいて逃げるケツぶっ叩いて楽しんでもよ!?」
「構わねぇ! 最後は無礼講だー!!」
より一層激しい喜びの悲鳴が森の中を木魂す。森の獰猛な野生動物やエルフに見つかる危険を顧みずの危ない盛り上がりである。
剣と弓の腕前だけではどうしようもない野盗の群れであるが彼らの中に一人、黒い外套を纏った男が加わった事でそれなりに厄介な群衆に変貌している。
「だが例の逃がしたエルフの少女だけは生かしておけよ。でないとこの『魔法使いさん』の魔法が尻の穴の中で炸裂するからよっ!」
幾人かがワザとらしく尻を痛めた振りをしてその場を茶化して場を盛り上げ、酒の賄にしている。
リーダー格の男の横では魔法使いとされる男は苦笑し、静かに酒を飲む。
「酷い言われ様だなぁ~。魔法なんて大したものじゃないのに」
「おいおい、それは魔法が使えない俺達のとっちゃ嫌味以外の何物でもないぜ?」
使えてさも当然と言わんばかりに肩を竦め、横に置いていた先端が丸い球体の形をしている木の杖を片手で弄る。
近くの男達がその様子を見てびくりと肩を跳ねるほどに怯えて見せた。
「そんな杖一つで何でも出来んだから俺達には隠し芸のオンパレードだ。そんなお陰で仕事もし易かったし、エルフすらとっ捕まえられた」
「杖への魔力の補充にはエルフの血は本当に都合が良かったよ。かなりの高純度の魔力が生成出来て行使する魔法の威力が高いし」
「あんたはエルフで魔法を、俺達は余りを売って金を。なかなかにお互い良い付き合いをさせてもらってるぜ」
「それで町を襲ってその後はエルフの集落を見つけて全部捕まえる。この話はどうなったんだい?」
「ばっちりよ。あんたがいてくれりゃ、エルフが何人いたってへっちゃらよっ!」
「では、僕達の未来に」
「おう、明日の酒のために」
木のコップの角をぶつけ合い、祝杯を上げる。
尤も、これから町を襲う前の酒飲み。誰もが人が築き上げた物を全て壊し、何もかもを破壊するのに罪悪感も疑問を持つ者はいない。
それだけに哨戒に出ていた男が一人で戻ってきたという異変を察知するのに鈍感になっていた。
「お、お頭っ!」
「何だよ、今飲み始めたってのによ…」
必死の形相であるにも関わらず、いい気分を阻害する男に心底苛立たし気に対応する。
だからこそ気が付いていない。哨戒から戻ったと考えるには人数が二人足りない事に。
「襲撃者ですっ!!」
「襲撃…? そういや後の二人はどした?」
「へいっ! 丁度三人で集まった所で酒を一杯煽ろうとしてぐいっと一杯飲んだ次に他の二人を見た時には―――」
口を開け閉めするが声が出ない。その場面を思い出して大きく震え、尿を漏らしてそれに気が付いた周囲の者達がやっかむ。
「何だよさっさと言いやがれ!!」
「かか――顔が、頭が首から上がすっぱりなくなってたんですよ!!!
しかも二人の横には黒い男が赤い血糊のついたナイフを掲げてこっちをじっと見てたんです!!!」
後の絶叫による報告では、その後はその黒い男に背を向けて一目散に逃げていたが襲われはしなかったものの背中から気配が全く離れなかったという。
「…つまりそいつの道案内をお前がしたって訳か?」
「ひぃっ?!」
話を聞いたお頭の男は見事に相手の術中に嵌ったこの無能な部下を睨む。腰が砕けて尻もちをつき、後は膝が笑って何も出来ないでいた。
ここまで度胸のない奴に手を出すのも億劫となり、盛大な溜息をついて立ち上がる。
「今の話を聞いたな、お前ら!? この俺達に楯突く奴や、野郎がいる! そいつを今夜の宴の始まりの贄だ!!!!」
大声の合わさった叫び声が一斉に轟く。
誰もがこれからの事を楽しみにし、どんな相手かも知らぬ哀れな生け贄の姿を夢想して悦に入っている。
「…騒々しいにも程がある」
一人静かに、冷静にこの状況を分析する声が発されるも、大きな声に掻き消されて気が付かない。
だから、気が付いた時にはその者の目の前に居る数人の男達が首を落とす羽目になって初めてそれを認識する。
首を一瞬にして切り落とされた為にある程度独自稼動する心臓による血管を通しての血液供給に首より盛大な血飛沫が舞い、周辺の男達の顔や体を血の水で染めていく。
浴びた男達は自身がどんな状況下にあるのかを認知した時にはかなり情けない悲鳴を上げ、血を拭い取ろうと体を擦るが逆に塗りたくる結果となってさらにパニックになる。
周辺の慌てふためきを他所に、切り口に角度をつけた事によって免れた張本人は一滴の血を浴びる事なく、血が滴るナイフを一閃して勢いで付着する全ての血を飛ばす。
距離があったお陰で冷静に観察する他の男達はあまりの展開に誰も動いたり言葉を発したりせずに茫然と見詰めている。
その男の姿は報告の通りに黒く、全身を覆う素材が分からない黒い服に髪の毛まで黒い。
この世界において金髪や紅髪が存在出来ているが、黒となるとこちらでは逆に存在は少ない。
「こいつは――例のエルフのガキを連れて逃げた男…」
だからこそ、なかなか忘れない。ましてやそれが半日前に出会った黒髪の男となれば直ぐに該当する人物が理解できる。
「へぇ…こいつがそうなんだー」
誰もが強烈な場面を前にして絶句している中に一人、魔法使いの男が一歩前に出て杖を目の前に掲げる。
その様子を見て我に返った男達は惨劇の場より距離を離す。
「じゃあこいつが此処にいるって事は、エルフの少女も近くに居るってわけだね?」
「…彼女はこの先の町で安静中」
「そうなんだ。でも残念だな、そんなに簡単に吐かれたんじゃあんたを生かす理由がなくなったじゃない――だから死んで♪」
口元に歪んだ笑みにし、口を開く。
『燃え尽きろ、ファイア!』
たったそれだけで杖の先から大きな火炎が生まれ、一つの弾となって先の黒い男に飛来する。今までの通りにいけば狙われた人間は成す術も無く火球に包まれ灰と化していた。
だが黒い男へ飛来した火球は寸でに首なし体の一つを射線軸上に割り込ませて直撃を回避、これには放った本人は目を見開いて驚くが、次の瞬間には肩を揺らして笑っている。
「はははっ! そんなに苦しんで死にたいのか!? だったら望み通りにしてあげるよ!!」
燃え盛る死体の脇を通り抜けて接近してくる黒い男。素早く動いているが、彼にしてみれば近づけば近づく程に獲物が手中に嵌り込んで来ているだけだ。
そして簡単に杖を横に薙ぐように振り被る。何も知らない獲物はもう直ぐ目の前。
『切り裂け、カマイタチ!』
横に一閃するがその動作自体は周囲の男達にすら緩いと感じさせる遅さ。だが振った事によって発生する風の流れは急激な風の刃へと変貌して黒い男に襲い掛かる。
それも幅があるために体を丸ごと両断されるのは免れる程に接近をしていた。だがあろう事か、地面に密着する格好で伏せた黒い男に傷一つ負わせずに後方に広がる森林を伐採して闇の中に消えていく。
直線に飛ぶ以上、範囲を広い状態で使うには地面に平行して放つのが有効で、地面すれすれには風の刃は届かないのである。
「へぇ…でも次はそうもいかないよ」
今のを避けられたのは十分に驚愕に値するが余裕の態度を崩す事無く、次のカマイタチは地面を抉れる様に放つ。
これには流石に避ける事は出来ず、後退していく。今度は地面が抉れるのでその軌道を読んでいる様な動きに相手の手強さを痛感する。
「少し疲れるから使わないつもりだったけど――悪いけど早々に終わらせさせてもらうから」
真っ直ぐに杖の先端を黒い男に向ける。
『焼き焦がせ、サンダー!!』
一瞬だけ杖の先端で紫電する光は、直ぐに真っ直ぐ伸びる光の刃となった。
光速に迫るそれを避ける術はないが、直接来るので射線軸上に今度はナイフを投擲して身代りに小さな雷を食らう。
そしてその間に黒い男は茂みへと、森の中へと姿を眩ました。
「まさか今のすらかわすなんて……何をしているのだ? 早く奴を仕留めないと後が面倒じゃなのか?」
「はっ!? お前ら、さっさと仕留めて来い!! 集団で攻め込めば奴とてひと溜りもないはずだ!!」
最も速い攻撃すらも生き延びた相手にさしもの彼も驚いて追撃を掛けられなかった。
だから少し呆けていたので頭の男に追撃させる声を掛けるのが遅れ、頭の男も部下への指示が遅れた。
しかし誰もが追撃の躊躇い、騒然としたざわめきがこちらの切り札を凌いだ脅威に怖気づいていたのだ。
「大丈夫ですよ。今のサンダーにはさしもの奴はかわせない。ナイフは残り一つの様だから二発撃てばそれでカタはつく。
そのために君たちは逃げたあいつを足止めしておいて欲しい、それなら出来るでしょう?」
「分かったな、だったらさっさと追え!!!」
直接手に掛けるのではなくて足止めなら何とか、という雰囲気となって漸く追撃戦が始まった。
◇
彼は走る。だがその速度は風のそれとは遜色のない速度での疾走を森の中で実行している。
掠る茂みが一瞬激しい音を立てるが、本人がその音を聞き届ける前には既に遥か先へと走り抜けていた。
目の前に迫った樹木は体を捻り、背中の寸でですり抜けるという芸当に近いかわし方で駆け抜ける。
「――到着」
走り続けて早数分ののちにとある一本の樹木を蹴り抜く様に足を突き、そのままの速度で一気に木の頂上へと瞬時に到達した。
そこには木の枝に吊り下げたあの大きなライフルがあり、直ぐに固定を外して射撃の構えを取る。
高い所からの射撃は当然とするも、彼は選んだ木は周囲に突出した高さを誇ってる訳でもなく、むしろ他に今の木より高いものは目に見えて存在していた。
ただ高いだけならば問題がない訳ではない。狙う先は森の中への撃ち下ろし、つまり樹木の隠れ蓑の先に居るのだからむしろ高さは逆に邪魔となる。
故に彼が選んだ周囲と同じ程度の高さを有すこの樹木。彼の構えたライフルの射線の先には――焚き火が焚かれている小さな森の拓き場が直視出来ている。
装弾無しでバレル内部のスコープでゼロ・イン(射線の誤差修正)を行い、ライフル上部よりスコープ無しで目標を捕捉。
コックを引いて弾を装填し、トリガーに指を掛ける。木の先端間際に居るために吹く風に木が左右にゆらゆら揺れている。
耳障りなさざめきを聞きながらトリガーを引き絞る。後はほんの軽く、それも生誕児の力を加えるだけで撃鉄が下り、弾丸が射出されるだけ。
目標が止まる一瞬を見越し、引き絞る。一つの閃光は弾を発射するための機能をそのままに現実に顕現した。
◇
何が起きたのか、魔法使いの男は目の前の出来事を茫然と見詰めていた。
頭の男とともに焚き火の傍に残り、報告を待っていた。あの黒い男は今までの輩より危険に思わせるので杖は手放していない。
そしてその杖の先端が突然、それも魔力の弱い人間でも強大に行使できるための根源である魔石が砕け散ったのだ。
ましてや手にしたのにまるで主を拒絶するかの如く弾き飛んだのだから尚更理解の範囲を超える出来事である。
「な、なにが―――」
どれ位の時間を己の中で停止していたのかは分からずにやっとの事で絞り出した言葉は結局、疑問の声。
弱輩の貴族に魔力の微弱な男は魔法学院でも虐げられてきた。そして当然の結末として没落し、殺しを犯してまで手にした力である杖を失ってしまった。
それ即ち魔法使いの男は己が尊厳を刹那にして失い、自身の力も虐げられてきたあの頃と同等にまで戻されてしまったのだ。
心があの頃の負の感情を拒絶するために自意識を喪失する事で自己保身を起こし、廃人同様にまで立ち竦んでいる。
「おい、お前大丈夫か…?」
頭の男が目の前の出来事と魔法使いの男の異変に困惑顔で尋ねるが何一つ反応しない。
振り返り、天辺が粉砕している杖を見つめるばかりで肩を揺らしても声を掛けている男に気が付く様子が欠片も無い。
「あんたの杖はなんか知らんが壊れたみたいだが、あんたは無事なら俺達もまだ生けるぜ。頼んだぜ、魔法使いの旦那よ」
この魔法を使う男の価値は盗むための用心棒として有効なので、機嫌を取ろうとする。
肩がぴくりと動いたので効果ありと頭の男は思うが、実際には違っていた。
「―――……だと…」
「ん? 何だって…?」
「――僕が無事でよかった、だと…?」
鋭い目線で睨みつけてくるものだから頭の男は思わず後ずさってしまう。
「あの杖は僕の力のそのものなんだ!! あれが無ければ、僕は…僕は!!!!」
膝をつき、喚き出すその姿に頭の男は二度目の驚きで茫然と見下ろす。
あの余裕綽々でやさくれた男達と接し、人を魔法で殺している時でさえ子供の遊びと同じ様に殺していた男が癇癪を起している。
何かとんでもない事態に陥っているのを頭の男はどこかで理解しているが、あまりの変貌した魔法使い男の姿の言葉も出ないでいる。
「…魔力を杖に直接補充しての行使。魔力値の弱い者でも己の魔力を起爆剤として行使すれば杖が保持している魔力で補填し、威力高い魔法の行使が可能となる」
聞こえてくる声に、頭の男ははっとなって顔を向ける。逃げたはずの黒い男が再び姿を現していた。
今度はその背に大きな杖にしては無骨な金属の塊で、アックスやブレードにしては刃が無い用途不明な代物を背負っている。
「――その男は自らの小さな魔力を杖の力、杖が纏っている魔石の力で自らを偽っていた。その杖の魔石が砕けた今、彼は魔法使いが血族なだけの『ただの』人間と同じ存在」
振り返って魔法使いの男を見下ろし、少し先にある杖を見比べる。もし奴の言っている事が本当だとしたら、今のこいつの変貌にも理解が出来てしまう。
しかも唯一、目の前の黒い男の対抗出来る力が無くなってしまったと案に奴は説明をしている事になる。
「…ひとつ、聞く。貴様らの根城は、何処だ?」
黒い男は地面から何かを拾い上げながら質問をして来る。その拾った物をよく見れば、先ほど奴が雷の魔法を防ぐために投げたナイフ。
銀の刃は黒ずみ、最早使い物にならない筈のものを元の鞘に戻している。再び視線を合わせてくる瞳は焚き火の炎で赤く反射していた。
別段威嚇しているのでもなく、交渉している風然でもない。ただ単純に答えを求める質問なのだが先ほどの人の首を刎ねて尚、平然としていた表情と何も変わらないので頭の男は冷や汗をかいて緊張から唾を大きく飲み込む。
「――お前か…」
小さな呟きの声が黒い男と逆の方向から聞こえてきた。見れば癇癪や振るえが止まった魔法使いだった男が俯いている。
その顔がゆっくりと上げられ、放心状態とのいうべき表情で黒い男を見詰める。
「お前が僕の杖を壊したのか…?」
「脅威を排除しただけ」
何一つ隠さない肯定の返答に男の表情が激昂に染まっていく。その新たな変貌に頭の男は距離を離してしまう。
「お前が、僕の杖をーーーー!!!!!」
髪が逆立ち、全身を紫電が駆け巡る。
「殺してやる! 殺してやるっ!! 僕の全てを奪ったこいつを殺してやる!!!!!」
両手を合わせて上に掲げられた先には手の平で包める程度の大きさの光球が生まれ、その周囲には電撃が発生している。
「魔力をそのまま魔法に変換…? 杖無しでは満足に魔法が使えない貴様がそれを行使すればどうなるか分かっているのか?」
光は魔法の中でも最高の魔法使いですら一握りも無い困難極める種類。その証拠に掲げている腕が痙攣を起こして激しく震えているが、それを怒りで無理に動かしている。
肉体が魔法の行使についていけず、だが血に流れる僅かな魔力が肉体の限界を強制的に動かしている。明かなるオーバーフォース、限界越えの暴力。
「だからどうした!? ちくしょう、どいつもこいつも僕を馬鹿にしやがって!! 僕だって好きで魔法が使えないわけじゃないだ!!
それを今から証明してやる!! 僕は無能じゃない、出来るんだ、僕はやれば出来る子なんだよぉおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」
振り下して投げる動作で光球は発射される。だがそれよりも早く黒い男の片手に初めより手に取っていた物、此処に戻るまでの間に殺した男の首を男に投擲していた。
光球は目標に着弾する事なく投げられた頭と衝突。放って半ばも行かずに接触し、眩い光を放って頭ごと音も無く光球共々消滅した。
再び元の夜の光の光景になった時には黒い男は何ひとつ変化無く、逆に魔法使い男は地に伏している。しかもその姿は老いた老人そのもの。
「細胞の活性化による一時的な魔力の増強。彼の場合はそうまでしなければ出来なかった魔法というわけ、か…」
決して出来ないとされる魔法の行使を自らの命を代償にやってのけた男の末路。だが、彼は最後の最後で杖を用いずに己の魔法を使った。
つまり彼は歴とした魔法使いとしてその生涯を終えたのだ。無謀ではあったが、彼は最も欲した願いを自らの力で叶えて達成した事は敬意に表するものであった。
だがそれを知る者は結局は二人。その一人の命も、直ぐに潰えてしまうだろうが。
「……再度問う。貴様らの根城は、何処だ?」
理解を超える度重なる現象に腰を抜かしている頭の男に黒い男は再び問いかけた。
◆
遠くの五月蝿いざわめき声にエリスは目を覚ましてしまう。お陰で寝起きの気分は悪く、文句を言うべくベッドより降りる。
だがそこでふと違和感を感じて部屋を見回し、自分がどの様な状況下にあるのかを思い出して腕を組む。
「むぅ…。奴は何をしておるのだ、妾の看病くらい最後まできちんと成し遂げるべきではないかっ」
例の薬を飲んで寝た(気絶?)事で完全に体力は回復し、傷の方もすっかり消えて元の滑らかな肌へと戻っている。
お陰で今は元気に従者の愚痴を垂れ、当人に文句を言うべく部屋を出ようとしてドアノブに掛かっている外套と紙切れに目が行く。
『外に出る時はこれを被って耳を隠す。此処は人間の町、不安要素は極力避けるべし』
「妾に物を申すとはいい度胸ではないか従僕め…っ」
さらなる怒りを胸に秘めつつ紙の指示に従って律儀に外套を纏ってフードを被り、耳を隠して外へと出る。
すると聞こえてくる煩い声は歓声であり、泣き声等の声だけでは判別し難い状況が展開されている様で最も声が近いドア、玄関口を開くと声の多さに顔を顰める。
耳が大きいのは形だけではないので、耳の穴をフード越しに塞いで辺りを見回す。そこらかしこで老人と若い女達が抱き締め合い、再会を喜び合っている様にも見えるが…。
「何だ、この状況は…?」
自分が寝ている間に一体何が起きていたのか知らないのできょろきょろと周囲を見回していると、間近に置かれている知っているでかい鞄の傍に一人の男が腰を掛けて眠っていた。
「…Zzz」
「起きんか召使い」
べしっと頭を叩くと頭が一度大きく揺れ、リンクスの瞼がゆっくりと開いてエリスを見上げる。
「…何か?」
「何なのだこの状況は? 妾が寝ている間に何があったというのだっ」
自分の知らぬ間に勝手に物事が進んでいたのが気に入らず、語尾になる程に声色が怒気に染まっていた。
「―――んー…」
一度ばかしリンクスも周囲を見回し、話を纏めて話すべく口を改めて開く。
「この町もエルフ同様に被害に遭い、若い男は皆殺しに女は連れ去られていた。
次に襲われれば町は終わりだと嘆いていた残された老人たちだが今日の夜明けに突然連れ去られていた女達が突如帰還。
女達の話によれば何時もの如く檻に閉じ込められていたのが起きれば檻の扉は開いていて、近くに置いてった謎のポーションを飲めとの書置きが。
それを飲んで元気になった女達は次いで書いてあった紙の地図を頼りに森を進んでいたら町へと帰って来れて涙の再会! 悲劇の最後はやっぱり喜劇で大団円!?」
「最後のは余計だっ。…まぁ、状況は今ので理解したとしてだ――」
改めてリンクスの頭を引っ叩いたエリスは真面目な表情になる。
「その、その人の小娘どもはエルフについて…」
「見た事はあるが、直ぐに何処かに連れていかれて彼女たちが逃げてくる時にはそこに他には誰も居なかったそうだ」
「――そうか…」
周囲を再び見回す先には愛する者との再会を心より喜んでいるのが一目で分かる。
エルフは長命で、それ故か出生率が極端に低いために家族等の絆は誰よりも強い。都で戻ってこない子供を悲しんでいる親の姿が思い出される。
エリスの住んでいた知り合いの子も最早絶望的という事が分かり、彼女の周囲には哀愁が立ち込めている。
「――戻るか?」
「…ぬっ」
掛けられた声に思わず困惑の声が漏れてしまう。生死不明であるのは変わりないが、全く何も知らない仲間にこの話を聞かせるべきか一瞬交錯する。
三度目の再会を喜び合う人間の姿を見詰め、目を閉じる。瞼の裏に悲しみに帯びた親の姿と今の親子が喜び合う姿の二つが重なり合う。
このまま話を持ち帰ってもこの笑顔を得られない。例え深い悲しみを与えるとしても、生死をはっきりと伝えたいという思いが込み上げてくる。
そうして決めた事をまた確認するべくして周囲を見回して大きく頷き、リンクスを見下ろす。その瞳には晴れやかな決意が漲っている。
「妾はまだ戻らぬ。何処で生きているやもしれぬ者達を見つけ、親元に帰す。例え無駄な所業だとしてもだ。
今、目の前に広がる喜びを残されたエルフの者達にも分け与えたい。うむっ、妾の新たな目的が出来たぞっ」
胸を張って、それなりに大きな声で宣言をする。周囲は再会の喜びを噛み締めているので『エルフ』についての云々は聞こえていない。
「…頑張れー」
気合いが漲っているので、リンクスは一応応援のエールを送る。
「何を言っておる。貴様は妾の僕、妾の行く所が如何様であろうとも付き従うのだっ!」
襟を掴み、物理的にも逃がさないと如実に表現して上りゆく太陽に向かって決意を眼差しを向けている。
リンクスはそのまま瞼を閉じて眠りの改めてつこうとするが直ぐにエリスに起こされるのは目に見えていた。
若い娘が戻っても男手が無いこの町の再興は不可能に近い。だが親子の絆が再び戻った彼らには生気も取り戻している。
再興が出来ずとも、何処かで生きていける。人と人の絆があればどんなに貧しくともそれは幸福であるのだと、今の彼らには確かに理解しているのだ。
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