〜STRATOS4〜
CODE−102a BOUNDARY
* * *
“えー、発表させて頂きます”
高級そうなスーツを着込んで演台に立つ眼鏡の男がマルチスクリーンに大写しになった。何か重要な会見の記録映像のようで、演台の上には様々なの放送局のマイクが束ねて設置されている。男は東洋系の顔をしているが、会見は英語で行っており、吹き替えの日本語音声と二重言語にされていた。
神妙な口調で切り出した男に、報道官達の注目が集まったのが容易に察し取れる。
“各国の協力により集められたデータを各分野の専門家によって分析した結果、これより五十年の後、人類ががかつて無い未曾有の危機に晒されることが判明いたしました。我々が作成したシミュレーション映像ををご覧頂きたい”
男がそこで一旦言葉を切り、画面はコンピューター・グラフィックスによるイメージ図へと切り替わった。一機は大きな恒星を中心に、大小多数の天体が周回している太陽系。その中に、彗星と思しき岩塊が立て続けに雪崩れ込んだ。
先程の会見していた男と、吹き替えの声が説明を加える。
“地球のみならず、地球を含む太陽系が巨大かつ広大な規模の隕石群の中へ突入するという事態です。そうなれば恐らく無数の流星が地球を襲い、市街地への隕石の落下はもとより、異常気象、地震、津波といったあらゆるカンスクエント、天変地異が発生することが予想されます”
一通りのシミュレーション映像が流れ、再び演台に立つ眼鏡の男へと映像が切り替わる。
“これに対し国連は、地球上の生命の存続を賭し、ここに、人類全ての総力を結集した天体危機管理機構の設立を宣言いたします――”
ぷつ。
沙也華の操作で、演説の映像が途切れて授業用の図表へと映像が切り替わった。
国連天体危機管理機構、下地島迎撃基地訓練棟の教室の一つで、教官如月沙也香の授業がいつも通りに開講されていた。
「はい、この国連事務総長の宣言により、今から約五十年程前、我々の組織の前身であるSS機関が発足したわけです。当初は地球から直接大気圏外へ上昇し、飛来する隕石を迎撃する機体の開発が進められていましたが、コストと安全性の両面から、かなりの――」
(あれは………)
(佐古先生のとこにあるヤツだ)
映し出された旧型機の画像を見、彩雲、次いで静羽が小さく呟いた。
「――ことが判明し、今から二十年前、SS機関は組織を二分する決断を下しました。結果、地球の軌道上で隕石を迎え撃つコメットブラスターと、地上で迎え撃つメテオスイーパーが誕生したわけです」
(………美風)
一方、いつも通り後ろの席に陣取った美風の目線の先にあるものは、懇々と説明する沙也華でも黒板代わりのマルチスクリーンでもなく、窓越しに見える雲一つ無い青空だった。
(………美風!)
ノートを取るでもなく茫洋としている美風は、注意を喚起する静羽の声にもまるで反応を見せない。
畢竟、足音を潜めて歩み寄る教官の気配になど気付くはずもなかった。
「――つまり、大気圏を挟んで外と内に分かれたことになります」
(美風ったら!)
静羽が美風を授業に集中させようと、繰り返し、できる限り声を抑えて彼女の名を呼ぶ。が、その努力も虚しく、彼女と美風の間を腰に手を当てた沙也華が遮った。
「そんなに外が気になるなら、ゆっくり見てきていいわよ」
漸く美風が教官の姿に気付いた時には既に遅し、その手にはピンク色のカードが掲げられていた。
美風は取り繕う術もなく引き攣った笑みを浮かべ、静羽はがっくりと肩を落とす。
「あ、はは………」
「………だめだった」
*
「どう、もう一度チャレンジしてみる?」
不敵な笑みを浮かべて挑発するように言ったのは、ブロンドの髪をショートカットにした若い女だった。地球上に彼女達の名を知らぬ者はいない、大気圏外迎撃部隊コメットブラスターのパイロット、アネット=ケイリー。引き抜いたダーツを手に、ふわり、と舞うように振り返る。
第六オービタルステーション。その大半は迎撃のための設備が占めているものの、長期にわたってそこに駐留するパイロットや作業員のための娯楽施設も存在する。中でも破格の待遇を受けるパイロットには、専用のリビングスペースも与えられていた。
その一つ、人工的に微重力を発生させたリラクゼーションルームで、彼女は任務を待ちながらダーツに興じていた。
「フッ、ご迷惑でなければ、ぜひ」
アネットの相手をしているのは、茶色に染めた髪を短く刈り揃えた女。第六オービタルステーションに駐留するパイロットの中で唯一の日本人、久保千鶴。矜持の高そうな顔立ちに、涼しげな表情を貼り付けて返す。
「………では」
そんな彼女の負けず嫌いな性格を熟知しているアネットは、敢えて挑発するようにゆったりとした艶のある仕草で、
「敗者の方からお先にどうぞ」
マシンをリセットし、レーンを譲る。千鶴の双眸が、静かに鋭い光を放った。
「………喜んで」
一方、同ステーションの管制室。
「NC2845、コードネーム《ルーシー》、第一警戒ラインを通過」
「第六、もしくは第七ステーションの迎撃範囲に当たります」
つい先日、彗星《キャサリン》を退けた迎撃部隊に、また新たな彗星の接近情報が提示されていた。しかし作業にあたるオペレーターは相変わらず淡々とデータを読み上げ、それを受ける司令官の美春もやはり眉一つ動かさず、
「全艦に通達。総員《PHASE−2》で配置に付け」
第二次警戒態勢への移行を告げる。
「了解」
*
中華料理、広陳。
昼食時に差し掛かったこの時間帯、店内の慌ただしさは一度目のピークを迎える。
「はい、Aランチお待たせ!」
「はーい、只今ぁ」
「Aランチ大盛りお一つ、Bランチ麺のセットでお一つですね?」
静羽、彩雲、香鈴、そしてランの四人が両手に抱えた大量の皿をがちゃがちゃと鳴らしながら店内を行き交っていた。
料理を運んでいる間に他の客が食べ終え、受け取った注文を厨房に届けている間に新しい客が入り、開いた机を片付けている間に新しい注文が入り、勘定を受け取っている間に新しい料理が出来上がる。これほどの繁盛は、下地島一の料理店である広陳でも珍しい部類にはいる程だった。四人は半ば条件反射的に受け答えを交わし、机や料理に細心の注意を払いながら駆け回る。
「オーダー、Aランチ5,Bランチ3,Cランチ4と餃子三枚です」
複数の仕事を同時にこなしながら、しかし褪せない笑顔と明るい声で注文を通すのはラン。流石は広陳の看板娘として十数年来店の仕事に携わっているだけのことはある。
「はーっ! こりゃまさに猫の手も借りたいよ!」
ランからのオーダーに応える代わりに、ただ一人で鍋を振るうリンが流石に愚痴とも付かぬ嘆声を漏らす。経営者としては嬉しい悲鳴でも、自ら鍋を取る料理人としては正真正銘の悲鳴だった。尤も、猫のアリスも休んではおらず、静羽達に付いて店内を駆け回っていたが。
「静羽ちゃん! 悪いけど厨房入っとくれ!」
店内の喧噪に負けぬよう、リンが厨房から大声で叫ぶ。
「はーい!」
「はーい、って………アンタ大丈夫?」
屈託無く応えた静羽を、彼女と同様両手に皿を抱えた彩雲が聞き咎めた。彼女に限らず、美風も香鈴も給仕その他の雑用と、配達の仕事しか経験が無い筈だからだ。
しかし静羽は自信ありげに笑顔を見せると、手にしていた皿を全て片手に移して、チャイナドレスのポケットから証書入れを取り出した。屏風のように交互に折り畳まれたそれを、ぱらぱらと開いて見せる。
「ほら、上から三番目」
静羽に促されるままに注視し、彩雲はそれに気付いた。
「特級、中士? アンタいつの間に………」
訝しげに質す彩雲。静羽が料理長であるリンに何やら指導を受けていたのは目にしたことがあるが、資格試験を受けに行く暇は無かった筈だ。
問われた静羽は得意顔で、
「へへーん。本場モンでしょ? 通信講座でゲットしたの。これからは――」
同じように右手一本で、帯状に垂れ下がった証書入れを器用に折り畳み、
「資格の時代だもん」
会心のの笑みを見せた。
そんな静羽の珍しく自信家ぶった態度に、彩雲は乾いた笑顔で苦笑する。
「おい、俺等の注文まだかよ」
そんな二人の喧噪の中にいてのんびりとした遣り取りを見兼ねて、傍らのテーブルから苛立ち混じりの声が投げられた。昼休みを利用して広陳に昼食を食べに来る基地の関係者も多く、その声の主も彩雲達と同じ訓練生の空だった。テーブルを挟んだ向かい側には翼の姿もある。
「あ………見て分かるでしょ? 身内なんだから協力してよ」
「もう、黙ってたら晩飯になっちまうよ!」
些か大袈裟な言い回しではあるが、不服そうに翼も不平を漏らした。だが言われた彩雲には如何しようもなく、手を抜いているわけでもない。一方的に罵られるのは堪らないが、待たせているのも事実なので強くは反論せず、
「だって美風もまだだし………」
言い掛けて、何の理由にもなっていないことに気付いて言葉を濁した。
頬杖を付いたままの空が意外にもその言葉に反応した。
「ああ、アイツならランウェイでボケッと突っ立ってたぜ。ったく何考えてんだか………」
「え………?」
空が忌々しげに吐き捨てた言葉に、今まで等閑だった彩雲の表情が硬化する。
虚を突かれたような彼女の、どこか沈痛な面持ちを見て、空は更に一段階声のトーンを落とした。
「緊張感たんねぇんだよ。まだ補欠だっていっても、地球を守る大事な使命があるってのに………」
冷たい空の言葉は、同級生である彼女達の不振を気遣う気持ちに端を発したものだったが、彩雲を動揺させるのには十分だった。
彼女にとってみればそれは理不尽な叱責であったのだ。空を睨め付けて、語気荒く言い返す。
「いい加減にしてるつもりはないわよ!」
「自覚がたんねえって言ってンだよ! ウチの基地だけでなく、上に上がりたいヤツはゴマンといるんだ。ボヤボヤしてっと、候補生達にアッという間に抜かれちまうぞ!」
事実とはいえ、余りと言えば余りな糾弾だった。一方的な空の指摘に、しかし彩雲にそれを否定する術はなく、悔しげに唇を噛み締めるだけだった。
視線だけを絡めて膠着し、店内の喧噪を無視して二人の間だけに来拙い沈黙が流れる。
「彩雲ちゃん、お願ーい」
遠く、ランの彩雲を呼ぶ声が聞こえた。
その言葉に我に返ると、彩雲は声高に応えて何事も無かったかのように厨房へと駆け込んでいく。
「はあーい」
と、それまで黙って二人の睨み合いを見守っていた翼がハタと気付いて彩雲を呼び止めようとする。
「あ、俺等の注文………おまえが余計なこと言うからだぞ!」
が、彩雲は一顧だにせず走り去ってしまい、注文を伝える機を逸した翼は頬を膨らませて空に突っ掛かる。一方の空もそれを自覚はしていたが、憮然とするより他に無く、口を尖らせた。
「何が余計だよ」
「これじゃ地球の危機の前に俺等の昼飯の危機だ………」
力無く肩を落としてテーブルに突っ伏し、項垂れる翼。
空は物憂げに、深々と溜息を零す。
「………はぁ。おまえも十分緊張感無いな………」
*
天然の絵の具で塗りつぶしたように隈無く青い海原。
潮の香りを孕んだ海の風が左右で結った髪を揺らして肩口から駆け抜けてゆき、美風の鼻孔を擽る。すっかり馴染んだ磯の香りは心地よく、穏やかな旋律を奏でるのは真白な砂を叩く細波と、潮風に乗って澄み切った空を滑る鴎の声音。
燦々と降り注ぐ日差しを一杯に受け止めるべく翼を広げ、真円を描きながら。
百八十度に海を望む、下地島の岬。
迎撃基地から程近いその見晴台が、美風のお気に入りの場所だった。
「はぁ………」
吐いた溜息は、風がそのまま攫って行ってくれるから。
だが。美風の胸に蟠る途方もない無力感までは持ち去ってくれそうになかった。彼女の葛藤が文字通り葛となり藤となりそれを縛めている。基、風はそこに無いものを運んで来てはくれないのだ。
「アンタは飛べないんだねぇ………」
海風に塩蝕された鉄の柵に肘を乗せていた美風は、ポツリと呟いて背後を振り仰ぎ、そのまま背中を鉄柵に預けた。
元来はこの島から飛び立つ希望の象徴ででもあったのだろうか、と時折考える美風はその在りし日の姿を見たことがない。巨大な翼を遙か宇宙に向けて広げる、鳥を象ったモニュメント。
美風達のフライトを支えるかのように立ち続けるそれは、随所が風化し、翼の片方が痛ましく剔り取られている。翼を失った鳥。まるで今の自分みたいだ、と美風は心の片隅でそんなことを考えていた。
「そうだ!」
何かを思い立った美風は、両の瞳を輝ける無垢な少女の瞳に変えて、ステップに下ろした鞄の中を探り始めた。適当なプリントを一枚抜き出すと見張り台の上で膝を突き、嬉々として何やら作業を始める。
美風の器用に動く指の中で、一枚の紙は凛々しいフォルムを湛える飛行機、白い鵬翼へと姿を変えていった。
できた、と嬉しげに呟いて、美風は翼を失った鳥を背に立ち上がる。吹き抜ける風が白いシャツの裾を浅く翻した。
「代わりに飛ばしてあげる!」
それは純粋に翼を失った鳥に対する励ましだったのかもしれない。美風が心に抱く優しさだったのかもしれない。だが彼女の意志が如何様であれ、窮まりなく広がる空へ翼を羽ばたかせることは、彼女のパイロットとしての《テイク・オフ》を、暗示しているようにも見えた。
尤も美風には、自分の未来を占うような緊張は微塵もなかったが。
順風の中、腕を一杯に伸ばして紙飛行機を振りかぶる。
「行っけぇ――ッ!」
厚く柔らかい風の中を、流れるように滑っていく。二つの翼の中に風を満帆に抱え込んで、滑らかな奇跡と美風の微笑みを残しながら。
確固とした足取りを見守って、美風は満足したように、安心したように、口の端を緩めた。
「あ………」
唐突に翼が揺れた。
風に煽られたのだと悟った時には、流された紙飛行機は機首を翻して美風の方に向けていた。
「え………?」
美風は柔らかく細めていた目をハッと見開く。反転した紙飛行機は今まで滑空していた風の道を逆走し始めていた。
風に乗って美風の許を離れた翼が、風に駆り立てられて美風に肉薄する。
尖鋭な切っ先が、彼女の鼻先にあった。
「――っ!」
思わず仰け反って尻餅を付いた美風の頭上を、勢いに乗った紙飛行機が過ぎる。くしゃ、と微かな音を立てて鳥のモニュメントに衝突し落下したそれを、半ば茫然とした面持ちの美風がその瞳に捉える。機首が歪に拉げていた。
海の風は素直で、それでいて時に気紛れでもある。
大海の一滴、九牛の一毛ほどの、大循環の中の些細な気紛れは、たったそれだけで美風の心に影を落とした。
海が凪ぐ時はまだ遠い。
* * *
タイル張りの広々とした浴室に、白い湯気が朦々と立ち込めている。浴槽では猫のアリスが前脚の付け根までどっぷりと湯に浸り、弛んだ顔を更に弛緩させていた。
だが同じように湯船に肩を沈めていても、その場にいる人間達は彼女ほど手放しでくつろいではいなかった。
「はぁ………。緊張感ないって言われてもなぁ………」
白濁した湯を手のひらで掬いながら、彩雲が口火を切って呟いた。昼休みに受けた空の指摘が未だに頭の片隅から離れず、彼女の胸の中は複雑な思いが渦を成し、また白濁していた。
浴槽の縁に凭れかけ、気怠そうな仕草で天井を仰ぐ。
「まだ一回も出撃がないんだもん。言い返せないよねぇ………」
ことの顛末を彩雲伝てに聞いている静羽も、湿った長髪を指で軽く梳りながら肯き、彼女の言葉尻を引き継ぐ。
空の言うことは正しい。自分たちが目指しているコメットブラスターの門は、世界中の人々の憧憬であり、希望である。何千何万という志願者が全身全霊を傾けて狭き門をくぐらんと必死になっている、その基地で怠惰を晒すことは志願者のみならず、それに命運を託す全ての人々に対する侮辱にも等しかった。
空に対しては思わず毒づいてしまった彩雲も、それは十分に理解していた。
「ほっときゃいいじゃん」
他人事のように言うのは、広い浴槽の端で二人に背を向けている美風。普段は耳の上で結っている髪も今は下ろしており、肩に掛かっていた。
今に始まったことでないとはいえ、彩雲は憤慨せずにいられない。
「もう、元はと言えばアンタの話から始まったんよ!」
「はいはい。悪いのはいつも美風です」
全く意に介していないような素振りとぞんざいな口調で、美風が肯定する。
彼女らしからぬ態度に、湯船の中で艶やかな肢体を擦っている静羽が眉を顰めた。
「そんな言い方しないで。最近おかしいよ、美風は」
口調こそ柔らかいが、彼女の憂いと苛立ちも日に日に募っている。美風を諫めるばかりの毎日、と言う程でもないが、眉間の皺が増えているのではないかと時折心の一隅で密かに心配している。今はその範疇ではないが。
「………別に。前と変わんないよ」
期待はしていなかったが、静羽の望む答えは返ってこない。
「いや、絶対おかしい。アンタだってやればできる娘の筈じゃん」
静羽が柔らかく諭し、美風が拒否し、彩雲がさらに追求する。何度と無く繰り返されてきては徒労に終わった構図を辿っていることに、静羽は疲労感を、彩雲は焦燥感を覚える。それでも彩雲が退かないのは、ここで退くことは美風を切り離し、仲間を否定し、引いては自分の拠りどころ全てを否定することを意味するからだ。
飽くまで強気に言い放った彩雲は、美風の後頭部を見据えたまま、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
ややあって、
「………都合のいい台詞」
全てをにべもなく一蹴する一言――やればできるという彩雲の言葉に対する、一応は正直な感想を漏らした。
「美風!」
「――できた」
口を揃えて美風の背中に怒鳴った彩雲と静羽、それに重ねるような形で、緊張感のない、と言うより場違いな呟きが洗い場の方から流れてきた。本人は独り言のつもりであったのだろうが、ここでも普段通りの構図が適応され、彼女の呟きが彩雲と静羽の気勢を殺ぐ。
香鈴がシャンプーを、性格にはシャンプーの泡で髪を前世紀のアニメの主人公に模す作業を終了したところだった。
二人が乾いた苦笑を漏らし、一息おいた後、彩雲が気を取り直して美風に向き直る。
「と、とにかく! もう少しヤル気出してみなよ! 素質はあるんだから、ヤル気にさえなれば絶対………ちょっと、美風! 聞いてるの!?」
返答は、無い。そこには顔をすっかり湯船の中に沈めた美風の、吐気が泡となって湯気の立つ水面に弾けるくぐもった音だけがあった。
会話を一方的に拒まれ、暖簾に腕押しの様相が呈され、彩雲は腹立たしげに罵る。
「………もう、いつまでそうやって逃げてるつもり?」
*
――アハッ! おっきい!
白地に紺のパイロット帽は、父親のものだ。当時まだ7歳になったばかりの美風には途方もなく大きく、遙か遠い世界の物のように思われていた記憶がある。
宇宙からの贈り物、とでも感じていたのだろうか。頭の上に載せ、顔を覆ってしまわないように両手で支え、母の鏡台の前で様々なポーズを取っていた。
――ハハ、似合うじゃないか。
パイロット帽に夢中になっていた美風の傍らに、いつの間にか父親が立っていた。似合っている、と父親に言われると、いつかそれが自分の手の届くところにやって来るという、そんな確信が沸く。
――おまえは生まれつき、素質があるんだ。やればできるさ。
それを裏付けるような、誇らしげな父親の言葉。そんな父親の背中を、当時の美風は確かに憧憬の眼差しで見上げていたのだと思う。
父だけではない。代々幾人と無くパイロットを輩出してきた家柄は、事実エリートと称されていた。幼い美風にその真意は理解できていなかったかもしれないが、自分を取り巻く空気が殊な物であることは、その肌で感じながら育った。
母親もパイロット。世界を飛び回る両親が家にいる時間は多くなかったが、不満も寂しさも感じることはなく。
――じゃあ、母さん達はフライトに行くわね。
――いい子でいるんだぞ。
――来週には戻るから。
正装に身を包んで仕事に出掛ける両親を、恍惚とした瞳で見送っていた。その手で空を駈ける両親の雄姿を想像して、父親の駆る飛行機に乗せてもらった記憶を呼び起こして、更に大きなパイロット帽が不釣り合いな自分の姿を重ね合わせる。
父親が家にいる夜には、よく二人でベランダから星空を眺めたものだ。
――ほら、あれがエリートの中のエリート、コメットブラスターだ。
そう語る父親の姿が、そして彼の駈ける空が、指差す宇宙が、美風の目標だった。と思う。
――お姉ちゃんの初フライトよ。さ、美風もお祝いして。
一足早く、自分の翼で羽ばたいていった姉。
――美風も大きくなったら絶対パイロットになるんだ。
美風がパイロットになると確信し、口癖のように繰り返した父親。
――そうよ、あなたなら絶対なれる。
そして母親も肯定する中で、自分がパイロットになると信じて疑わなかった美風。
エリートの家系に生まれたという気負いも重圧もなかった。両親に従わなければと言う義務感も感じていなかった。純粋に、父親がパイロットであり母親がパイロットであり姉がパイロットであり、自分もパイロットになるものだと思っていた。
それが特別なことだとも、思わなかった。
――ハイ! 本庄美風、了解です! ………アハハッ!
屈託無く笑う自分を、美風は今も覚えている。
あの頃の自分は、何を目指していたのだろう。パイロットになって、何をしようと思っていたのだろう。そんなこと考えたこともなかった気がする。ただ、両親がパイロットだから。自分もパイロットになるのだと言われたから。
自分は、何を見ていたのだろう。
「………はぁ」
机に座り頬杖を突いたまま、美風は重い溜息。彼女と背中合わせになる形で自分の机に座っている静羽の許からは、ペンの先がノートを掻く音が先程から絶え間なく美風の耳に届いている。
彼女の机の脇に掛けられた、スケジュールで埋め尽くされているカレンダーが嫌でも目に留まる。
美風は開け放ったままの扉の方へ目を向けた。隣室から歯を食いしばる彩雲の声と、金属の打ち合う音が聞こえて来る。風呂に入って汗を流したばかりだというのに、またウェイトトレーニングをしているようだ。
彼女達は見ている。自分たちの全てを託す操縦把を。駆け抜けるべき空を。そしてその先を。迷いのない一途な瞳で、見定めているのだ。
そんな彼女達に比べて、と美風は自分を卑下せずにはいられない。
分からない。何を見ていたのか。
自分は、一体。
「アタシ、なんでここにいるんだろう………」
*
第七オービタルステーション。
地球の軌道上に停留しているステーションは、夜が短く昼が長い。尤も彗星の飛来に合わせて生活している職員達に地球の昼夜は関係ないのだが。
その基準で言うならば、今が丁度ステーションの夜明けだった。
「コードネーム《ルーシー》。依然として、地球衝突コースを進んでいます。相対加速度、0,76G。地球への衝突確率は93%。衝突予定時刻は30日、○七三六時」
管制塔で宿直に就いていたオペレーターがデータを読み上げる。ややあって、コールランプの点灯を確認してインカムマイクに繋いだ別のオペレーターが、短い遣り取りの後それを伝達する。
「本部より入電。第七オービタルステーションに、正式な出動命令です」
「総員《PHASE−1》で配置に付け」
出動命令。既に二次待機を敷いているステーションにとってはさほど驚くべきことではない。司令官の美春が例の如く、至極平盤な口調で告げた。
「了解。総員《PHASE−1》で配置に付け」
そして、オペレーターがそれを反復し、指令がパイロットの許へも届く。
“総員《PHASE−1》で配置に付け。パイロットは減圧室へ”
コメットブラスターパイロット、久保千鶴。
「………命拾いしたかな?」
的の中央に集中していた視線と、構えていたダーツを下ろした。
リラクゼーションルームで、プライドの高い者同士の静かな激闘は、出撃に備えて休息を命じられていたにも関わらず、今の今まで不可視の火花を散らしていたのだ。
神経を磨り減らせた様子もなく、鳴り響くアラート音の中にも余裕の表情をアネットに向ける。
「フッ。勝負は一旦フリーズ。戻ったら再スタートだ」
彼女もまた然り。涼しい顔をしているが、退く気は微塵もないようだ。出撃命令を二の次にして、挑発の応酬を交わす。
「フッ、良かろう」
千鶴が応じる。既に減圧室へ走り出しているベティ、クリスを追って、アネットも走り出した。続いて千鶴も――走り出さなかった。
それは、ほんの気紛れだったのかもしれない。少なくとも自尊心の強い彼女はジンクスや占いに依存するような人間でないから、この後に控える出撃を意識してのことではなかったのだろう。
的に向き直って、三本目、即ち最後のダーツを構えた。しなやかな腕を撓らせて、投擲。銀の尖端は鋭い軌跡を描き、既に一本の矢が突き立っている狭い三倍圏に吸い込まれ――
弾かれた。
尖端は僅かな隙間を縫って見せたが、羽根が接触したのだ。
「………!」
縁起が悪い、などとは些かも思わなかったが、千鶴の目許が鋭くなる。
そんなことはつゆ知らず、管制室ではいつも通りのプロセスが淡々と消化されていた。
「第一、第二ゲート開放。《CB−1》、《CB−2》、最終チェックに入りました」
数十時間前から警戒態勢に入っていたステーションには、一点の滞りもない。
「コメットブラスターパイロット、エアロックへ入ります」
出足で遅れた千鶴も、既に何事もなかったかのように減圧室に駆けつけている。
「減圧開始」
彼女達の、一日が始まる。
*
一夜が明けた下地島は、今日も快晴だった。
雲一つ無い空の下、風に乗って流れてくる鳥の声を掻き消して。
下地島迎撃基地にけたたましいサイレンが鳴り響いた。
「一三○○時、只今より、下地島迎撃基地は第二警戒態勢に入ります」
司令補佐を務める沙也華が、襟を正して敬礼し、司令官に報告した。数日前から報されていただけに形式上のものではあるが、
「うむ」
司令官、ロバート=レイノルドは神妙に頷く。銀髪のイギリス紳士は、穏やかな相好を崩さないながらも、熟年の存在感を管制塔の隅々にまで行き渡らせている。
一呼吸置いてから、視線をコンソールから管制塔の外、ランウェイの一点の移した。
「あの新人達、今日の待機シフトに入っているようだが、大丈夫かね?」
その飄々とした表情からは思考が読みにくく、不安の色のようなものも一見しただけでは掴めない。
だがロバートの視線を追って、沙也華はその質問の意図を悟った。
「あ………、能力的には問題ない筈ですが………」
その不安要素を否定しようとして、しかし沙也華は言葉尻を窄めた。彼女もまた、同じ不安を抱いていたのだ。その返答の半分は、自分に言い聞かせるようでもあった。
「ふむ。今回も出撃が無ければ、良いのだが」
消極的な発言ではあるが、彼の言うことは間違っていない。基地の関係者の中には出撃の機会を望む者が決して少なくないが、地球の安全を考えるならば出撃などない方が、つまり大気圏外迎撃が成功する方がいい。
元々はパイロットである沙也華にしてみれば、ロバートの言葉は一概に否定できず、しかし罷り間違っても否定するわけにはいかない。
複雑な思いが錯綜する瞳で、『あの新人達』の佇むランウェイを見遣った。
「み、水ぅ………」
制服姿の静羽と香鈴。その傍らで、体操服を汗で濡らし息を切らした彩雲と美風がランウェイの焼けたアスファルトの上に踞っている。美風はペナルティ、彩雲はそれに便乗した自主トレーニングで、ランウェイ外周を走り終えたところだ。
呼吸を乱し喘ぎながら朧気な足取りで水飲み場に向かう彩雲を、慌てて静羽が追う。
「あ、彩雲、ダメよ急にいっぱい飲んじゃ………今日は待機順早いんだから」
「分かってる………」
沖縄の太陽が灼熱して降り注ぎ。
基地が出撃に備えて稼働し始めている中で。
荒い呼吸に合わせて上下する頬を伝って落ちる汗の滴が、アスファルトの凹凸で弾けては蒸発してゆく。
美風は動かない。
ここから先はパイロットの領域、ランウェイのエンドライン。その一歩手前に立ちつくしたまま、項垂れて肩で息をしたまま。
動けなかった。
《TO BE CONTINUED》
* * * * * * *
あとがき
空:おい、第2話のアップロードまだかよ。
鳳蝶:見りゃわかるでしょ。今あとがき書いてるところ。
翼:もう、黙ってたら小説版ストラトスフォーの発売日になっちまうよ。
鳳蝶:だってまだGWだし………。
空:ああ、発売予定なら今月の25日に決まったぜ。
鳳蝶:え………?
空:緊張感足りねぇんだよ。同人SSとはいっても、かのもり監督の作品を手に掛けてるってのに。………ったく何考えてんだか。
鳳蝶:いい加減にしてるつもりはないよ。
空:自覚が足りねえって言ってンだよ! アンタだけじゃなく、《生まれたての風》に自慢のSS投稿している猛者はゴマンといるんだ。ボヤボヤしてっと、アッという間に忘れ去られちまうぞ?
鳳蝶:堅いねぇ、空くんは。まるでギャグの通じない俺の相棒みたいだ。(苦しいなぁ………)
鳳蝶
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