時間は少し遡る。
観鈴が空の夢を見ていたころ。往人が観鈴を助けようと必死だったころ。
この海辺の町で、もう一つの物語が始まろうとしていた。
Feather 第一幕 シャボン玉
その日、みちるはいつも通り駅で美凪と一緒にシャボン玉の練習をしていた。昼下がり、美凪の友達らしき神尾観鈴という少女と、長身の青年がやってきた。みちるは観鈴にシャボン玉を一緒にやらないかと誘ってみたが、疲れているからと断られてしまった。そうして、観鈴はとても寂しそうに帰っていった。一緒にいた青年も、それを追いかけて去っていった。
それからしばらくたって、今でもみちるの頭には震えるような観鈴の声が鮮明に残っていた。観鈴の態度が妙だったので美凪に理由を聞いてみたかったけど、観鈴が帰ってからの美凪はどこか寂しそうで、辛そうで、みちるはそんな親友の姿を前に、なかなか声をかけることができずにいた。
太陽が頭上から消え去ろうとしていたころ、
「ねぇ、みなぎ。どうしてかみかみ、あんな悲しそうにしてたんだろ」
みちるはついに、ずっと感じていた疑問を美凪に向けてぶつける。
「みちる。…みちるは……わたしをどう思う?」
質問をしたのはこっちなのに反対に質問で返され、みちるは困惑したようで、えっえっと言葉を詰まらせる。
それから少しして、
「どう思うって、そりゃ友達だもん。とっても大事な人だよ。悲しい思いとか、痛い思いとか、絶対させたくないくらいのね」
「…わたしも、そう思うから。ね」
みちるは「よく分かんない」と、手に持っていたストローをしゃぼん液にひたひたと浸し口に近づける。息を吹きこむと、ぱちんと泡がはじける音。
「わぷっ」
思いっきり息を吹きこんだ瞬間、まん丸の球ははじけ、乾いたアスファルトに洗剤の液が飛びちっていく。
「むぅ、うまく吹けない」
怒ってストローを握りつぶそうとするみちるの手をそっとつかむと、美凪はその手からストローをやさしくつかみ、唇に近づける。ストローの先で、ゆっくりと虹色の色彩を回転させながら、シャボン玉は徐々にその大きさを増していく。くるくるくるっと、虹色の色彩は休むことなく無限の変化を繰りかえす。
やがて膨らみきったそれは、ストローの先でぷるぷると全身を震わせ、
ふわっ。
小さなシャボンの玉は、やわらかな光沢を大気中に反射させながら、空へと解き放たれる。一つ目のシャボンを追うように、二つ目のシャボンが空へと飛び上がる。三つ目、四つ目。
虹色が空の青に染まり、舞い、踊り、漂い、弾ける。それはまるで、夢のような光景。次々と浮かんでいくシャボンの群れに、みちるは瞳を輝かせていた。
いつの間にか、あたりは夕焼けに染まる。陽光の中で青々とその葉を輝かせていた緑も、真っ青なペンキで塗られた木目の屋根も、それら全てが赤ともオレンジとも言えない微妙な色彩に変わっていき、ふたりを包みこんでいった。やがて美凪がシャボン玉のセットをしまいこみ、帰りの準備を整える。
「…みちる……わたし、そろそろ帰るから」
「分かった。みなぎ。また明日ねー」
「…はい、また明日」
そう言って、ふたりは別れた。
翌日。
駅前の広場は相変わらず夏の温度を保っていた。
昨夜のシャボンの液は強い陽射しできれいになくなり、新しいシャボン液の染みが地面に広がっていく。
「むー、むかつくむかつくむかつくむかつくーー」
手に持ったストローに向かってみちるは怒鳴りつける。シャボン玉の腕はあいかわず健在。よく見ると、ストローの先端はぐにゃぐにゃに折り曲げられている。美凪にうまくなったところを見せてあげようと、朝からずっと練習してきたのだろう。それなのに、未だ一つも成功していなかった。
「どうしてうまくできないんだーー」
力いっぱいストローを遠くに放り投げる。
ぴゅーっと勢いよくそれは飛んでいき、
こんっ。
小気味よい音をたて何かに当たる。
「ああ、なんだこりゃ?」
遠くのほうで若い男の声が聞こえてきた。
「ストロー? なんでこんなものが」
姿は見えないが、声だけで突然空から降ってきた物体に困惑している様子が十分に読み取れた。
みちるは慌てて声がしたほうにかけていく。そこには……。
「はんごう……?」
思わず口に出して言っていた。キャンプの際にご飯を炊くために使われるはんごう。それが、広場の隅にぽつんと置いてあった。辺りに人は見当たらない。どうしてこんなものが? 昨日まではこんなものなかったはずなのに……。
はんごうの周りをくるくると歩き回っていると、後ろでがさっと物音がした。さっきの声の人かと思って振り向くと、予想通り一人の男が立っていた。
いや男と呼ぶのは少し早いかもしれない。高校生くらいの青年。紺色の厚手のジャケットに、ダークグレーの少し汚れたジーンズをはいている。短めの髪は黒ではなく、どちらかというとブラウンに近い色をしていて、がっちりとした肩が体格のよさを象徴していた。
「おまえか、こんなもの投げたのは」
青年がストローを握り締めて言う。
「誰? あんた」
「おまえが投げたストローが見事命中した奴だ」
よく見ると髪の毛が少し濡れ、微かに洗剤のにおいが香る。
「おお、ジャストミート」
頭に命中したことに気づいて、みちるがガッツポーズを作る。
ごんっ。
その瞬間殴りつけられる。
「なにすんだーー!」
「それはこっちのセリフだ。たくっ、せっかく飯の準備してたってのによ」
みちるの文句を聞き流すと、青年はどっしりと腰をおろす。はんごうの下の薪からは、ぱちぱちと炎が上がり始めていた。ふたを開けると、ご飯は見事なまでにぱさぱさになっている。
「あーあ、朝食こんなにしちまってよ」
はんごうの底にこびりついた焦げをハシでつつきながら、それを茶碗に移していく。続いて旅行用鞄からインスタントの味噌汁を取りだし椀に入れると、それにマジックポットのお湯を注ぐ。手際よくたんたんと作業を進めていく様子から、青年が旅慣れていることは容易に想像することができた。
青年はみちるが食い入るように自分のことを見ていることに気づくと、腕を伸ばして茶碗を高いところに上げる。みちるの視線もそれに合わせて移動する。
「おまえ、ひょっとして腹減ってるのか?」
「そ、そんなことないけどさ」
「ふーん。ほれ」
ハシをみちるの目の前まで近づける。風に乗って、炊き立ての香ばしい米の香りが鼻にただよっていき、ぐらぐらとみちるの全身が揺れる。
「口あけてみろ」
言われるがまま、みちるが口を大きく開く。
ぱくっ
真っ白な米が青年の口に収まる。刹那、
どごっ!
みちるの拳が青年の腹に気持ちいい音を立ててめり込んでいた。
「ぶっ、なにしやがる!」
腹を抑えながら青年が叫ぶと、
「こっちのせりふだーーっ!」
怒り狂った声でみちるが吼え返す。
「そんなことないって言ったから試してやったんだよ。たくっ、しゃあねえな」
バッグから予備の茶碗を取りだしご飯を盛ると、それをみちるに手渡してやる。湯気をあげる茶碗を両手に、不思議そうにみちるは青年を見上げていた。
「腹へってんだろ、食えよ」
セミの鳴き声がふたりの間を埋めていき、しばらくして……。
「ハシ貸してくれないと……食べられないよ」
そんな声が小さく聞こえた。
「俺は獅堂和樹。ちょっとしたわけがあってな、昨日からここで寝泊りしている。それでおまえ、みちるはどうしたんだ? こんな朝早くから寂れた駅なんかにきて」
和樹と名乗る男の言うとおり、駅はすでにその機能を停止していた。駅の外観に破損がないところを見ると、古くなってというわけではなく、何か経営上のトラブルが起きたというところだろう。
「みなぎが来るのを待ってるの」
「みなぎ?」
「…はい、呼びました?」
「そう、みちるの一番の友だ――ををっ!」
驚いて飛び上がるみちるの真後ろに、茶色のカーディガンを着込んだ黒髪の女性が気配も立てずたっていた。遠野美凪、少女は自分のことをそう名乗る。
ふたりのことを知るみちるが、それぞれに互いのことを紹介する。
「…初めまして……和樹さん。お近づきの印に……これをどうぞ」
和樹は美凪から小さな封筒を受けとり、それを開く。
『お米券』そう書かれた紙が一枚封筒の中に入っていた。
「おめでとうございます。ぱちぱちぱちぱち」
なぜか拍手された。
「こいつ、けっこう変な奴って言われないか」
そっとみちるのそばに駆け寄ると、小声でそう囁く。
「ば、馬鹿なに言ってんだよ。そんなわけないじゃん、そりゃちょっと人とは変わってると思うけど」
「…それ、変って言ってるようなものだろ」
「…みちると和樹さん……出会ったばかりなのに仲良し……ちょっと……うらやましいです」
和樹とみちるは揃って「そんなことないっ!」と力強く否定する。
夏の匂いをいっぱいにその身にたくわえ、シャボン玉は舞い上がる。ふわふわと空へと昇っていき、蒼い上空でぱちんと弾け、影も残さず消えていく。
和樹は、みちると美凪がシャボン玉で遊ぶのをじっとみていた。
「和樹さんはやらないんですか」
「そんなガキっぽいことはな」
「へへん、きっと和樹のやつシャボン玉つくれないんだよ。カッコばっか一人前でも、頭の中はおこちゃまなんだね」
全てにおいておこちゃまなガキにそこまで言われて黙っている筋合いはなかった。和樹は美凪からシャボン玉セットを奪い取ると、ストローを口にあて、思いっきり息を吹き込む。
ぱちんっ
シャボン玉がはじけ飛ぶ。
「…今のは練習だ」
ぱちんっ
再び、シャボンははじけ飛ぶ。
「…今のも練習。次が本番だ」
ぱちんっ
シャボン玉の割れる音が続き、それをあざ笑うかのようにセミたちが鳴いていく。やがて、セミ達の合唱がひと段落ついたころ、
「で、本番はまだ?」
にやにやと嬉しそうに笑う少女と、ガックリとうなだれる青年の背中を、ぽんぽんと励ますようにたたく少女の姿がそこにはあった。
「…あの、和樹さん」
「うん? どうした美凪」
駅のベンチに腰をおろし、二人はぼんやりと空を眺める。
二本の細い飛行機雲の白が、空に見事なレールを完成させたころ、美凪が言葉を続ける。
「…どうしてこの町に? 観光、じゃないですよね」
この町は非常に小さい。加えて、観光名所になるような自慢の建物や土地があるわけでもない。すぐ近くに海岸はあるが、それも非常に小さく、せいぜい子供の遊び場どまりでしかない。観光が目的なら、他にもっといい場所はいくらでもあるし、第一、こんな駅で何日も生活するようなこと自体おかしな話だった。美凪が疑問に感じるのも当然のことだろう。
「この空の果てに囚われた、大切なものを守るため」
和樹は視線を高くあげながら、薄ぼんやりと口を開く。
「…大切な、もの?」
美凪が言葉を繰り返すのを見て、和樹ははっと鼻で笑う。
「冗談だ。ちょっと言ってみただけ、本気にするな」
「…空が好きなんですね……」
「ん、なんで?」
「…嫌いなら、冗談でもそんなこと言わないから」
「そうか、そうかもな」
視界を遮るものなんて何もない。蒼い、限りなく蒼い空。いつの間にか飛行機雲がつくりあげたレールは形を崩し、大気の層へとかえってしまっていた。
「…わたしの知り合いにも、…いつも空を見ている子がいました……。よく学校の近くの堤防で両手を広げ……風を感じていました」
昔を懐かしむように言葉を続けていたその瞳が不意に、沸き起こってくる闇に飲みこまれるように、暗い影に染まる。
「でもわたし……、その子に酷いことをしてしまった……」
「ひどいこと?」
「…心に、ひどい傷を負わせてしまいました」
和樹には美凪の言っていることはほとんど理解できなかった。けれど、彼女が強い後悔の念を抱え続けていることだけは感じ取ることができた。
深呼吸して美凪がくすりと笑う。
「…不思議ですね。和樹さんとは初対面のはずなのに、…まるでずっと昔からの知り合いのように思えて、つい口が軽くなってしまいます」
それは、和樹も感じていたことだった。美凪の見せる一つ一つのしぐさ、表情、それら全てが記憶の中に沸きあがっては消えていく。
俺はどこかでこいつと……、こいつによく似た誰かと出会ったことがあるような……そんな気がしてならない。だが、どこで?
夜。全ての命あるものが夢を見ているような深夜。
和樹は駅に備えつけられたベンチに腰掛けていた。美凪やみちるはもう家に帰り、どこにも見当たらない。彼は一人、そこで誰かに話しかけていた。
その手には銀色の携帯電話。彼が気さくに話しかけていることから、和樹と電話相手とが親しい間柄であることは明白。
「だから分かってるって。ああ、そのことは誰にも話してないから安心しろ」
(本当か? おまえは口が軽いからな、ぽろっと言ってなければいいが)
「たくっ、たまには自分の息子のことぐらい信用してみろ」
(ふん、まあいい。それじゃもう切るぞ。もうしばらくしたらその町に向かうから、それまではじっとしてろ)
「あ、親父。まっ――!」
最後まで言い終わるより先に、携帯はぶつっと切れる。
駅に静寂が舞い戻ると、とたんに闇夜の深まった黒がうねりをあげ和樹の身体を飲み込んでいく。
「法術……か」
黒く、黒く、黒く、そして、…黒い。
限りない闇の色が、ゆっくりと、しかし確実に世界に浸透していく。
確実に、世界を染めていく。