もう何度目か分からないが、それでも森を駆けた。
いつの間にか道しるべである音は止んでいて、森にいる魔物は怯えて外に出てこないに違いない。
だからか、もう随分と静寂だけが辺りを支配していた。
息が弾む。別に十二三分の全力疾走で息が上がったわけではない。生憎そんな柔な鍛え方はしていないし、セクトとの戦いに比べれば準備運動も同じだ。
だからこの息は、祐一の身を案じるが一心で心の代わりに息が乱れているだけ。
 

何度も倒れそうになる。何度も挫けそうになる。何度も諦めそうになる。
――それでも、何度も自分に言い聞かせた。失うぞと、失っていいのかと。
 

両手で二人を抱きしめていたのならば、片方の腕の重みを失った今、両手で一人を抱きしめてやれるのは、もうものみしかいない。そのものみが、こんなところで倒れるわけにはいかない。
 


そう、初めはなにも抱いてはいなかった。
誰も愛していなかったし、誰も信じてはいなかった。
聖一と瑠海がしていることがいかに人間から離れているのかという事も理解していたし、その情報を与えた自分すらも嫌悪していた。
実験は見事大成功。その中で選ばれた天才を家に預かり、そして戦闘訓練を行い、お互いの愛の偽善をその子供に押し付けて自己満足するのだと思っていた。
だが違った。相沢夫婦は確かに人間として許されないことをした。それは、絶対に許されてはいけない間違ったことだ。
だが、本当に間違っていたのはほかでもない、天野ものみだったのだ。
 

気づかなかったわけではない。意外だったわけではない。
ただ思いもしなかった。そんなことがあるはずがないと思っていた事が事実としてものみに突きつけられ、ものみはようやく理解した。
 

二人は偽善などなく、道具として欲していた訳ではなく、切に『相沢祐一』を求めていたのだ。
二人は自分のことなど二の次とし、祐一だけを愛した。全ての持っているだけのありったけの愛を注ぎ、戦闘など期待していなかった。
結果として祐一が自分から戦闘を学ぶようになり、それでムクムクと成長していっただけの話。
 

二人の愛に気付いて戸惑ったのはものみだけだ。ものみは自分で勝手に作り出した二人の姿でまだ見ぬ祐一を虐めていただけ。
ものみは自らを恥じ、そして同時に気がついた。自分は決して、誰も愛する事ができない人間ではなかったのだ。
自分の心に自分で蓋をして、その蓋をあの夫婦と一人の少年が開けただけ。
 

だから、その分の愛は全て彼らにくれてやった。
昔からよくある話だ。ランプを手にした人間がランプを擦ると封印が解けて、中から優しい魔人が飛び出てきて、そしてその人間に尽くしてやる。
だからこれは当然の事。その少年と同じ日、同じ時に生まれた少女がいるのならば平等に等しく愛してやるのが自分の中でのルール。
 

可笑しなことなど一握りもない。あるのはただ愛情で、それを失うというのならばその原因を許しはしない。
 

森を駈ける理由などそれで充分。
自分の愛する少年を愛するために、ものみは速度を更に速めようとして――
 

「――――! 祐一様!」
 

探していた人を見つけだした。
祐一は丁度よく切れた切り株に腰を置き、じっと地面を向いて何かを考えているようだった。
だが、そんなことは安堵と一緒に吐き出してしまった。
祐一が生きている。祐一はまだものみのものだ。祐一は、祐一は――
 

「祐一様!」
 

叫ぶと同時に祐一に駆け寄った。祐一はこちらに気付かないが、ものみだってそのことに気付かない。ただ駆け寄って、祐一を連れてさっさとこの森から逃げ出したかった。
 

「祐一様!」
 

ものみは安堵に満ちた顔で祐一に呼びかける。祐一はそれで、ようやく目の前の人物に気付いたのか、伏せていた顔を上げた。
 

「祐一さ――」
 

――――呼吸が止まるかと思った。
 

いや、事実呼吸など止まっている。吸わずに吐かなければ呼吸は成立しない。故に、呼吸は完全に停止していた。
息を呑むことすら出来ないものみの呼吸は完全に停止して、ついでに心臓も停止しそうになった。
 

ものみは祐一の顔を見て――――そして、手遅れだった事に気が付いた。
 

「……………………ものみ、か」
 

酷く重い声。十歳の少年の声とは到底思えない。人間の醜さだけを見せ付けられたような雰囲気を漂わせているその姿は、あまりにも脆すぎた。
いや、それはあながち比喩ではない。祐一のものみを見る眼は、間違いなく侮蔑のそれだ。今までの、温かく親愛に満ちた表情などまつげの一本にもありはしなかった。
 

「なあ、ものみ」
 

祐一は感情の籠らない瞳でものみを見据えた。
 


「――ガーディアンってなんだ?」
 


その一言で、ものみの視界は真っ白になった。
おそらく数秒の間文字通り固まっていただろう。石の人形にでもなった気分だ。ただ、例え体が石になろうとも、心だけは祐一の言っている事がなんであるのかを理解していた。
 

「……………………」
 

ここで、『ガーディアン? それってなんですか?』とでも言っていればまだ希望はあった。そんなことで祐一がどう変化するかなど期待はしていないが、それでも、きっと希望はあったはずだ。
だが、そんなものできるはずがない。
今まで嘘をつき続けてきた少年に、おそらく全てを知った少年に――――どうして、これ以上嘘を付く事ができるというのだろう。
 

ものみは祐一に嘘をつき続けた。ものみは祐一を騙し続けた。それは祐一だけではなく香奈にもだ。
祐一にも香奈にも、ものみは二人の為だと思い二人を騙し続けた。
そんなことをし続けて、それを知った祐一がものみのことをどう思うかなんて、分かりきった事なのだ。
確認する必要すらない。祐一は、全てを知ってしまったのだ。
 

なら、全てを知ったのなら……
 

「――人形です」
 

――これ以上、絶対に嘘なんてつくわけにはいかない。
 

音が丸聞こえになるくらいに歯を噛み締める。今なら苦虫だろうがなんだろうが噛み砕いてやれる自信がある。
だが決して顔を伏せなかった。決して目を逸らす事はしなかった。じっと前を見つめて、真実を突き通してやると今ここにいる祐一に誓った。
 

「人形……ね」
 

祐一は納得したように感情の無い声で笑った。
まるで、予想通りだとでも言いたげだった。
 

「シオンの言ってた通りだ。魂のある人形……人を殺しまくって作る一匹の人形……自分でいるつもりで、決して自分にはなれない人形。なあ――――どうなんだ? 違うのか?」
 

祐一の問いは希望を込めた救いを求める言葉だ。シオンから教えられたことを全て嘘だと言って欲しいという、そういう望みを込めた一言。
もうシオンは全てを話し終えたのか姿がないが、きっと言うだけ言って帰っていったのだろう。
ならばここで何を言おうと変わらない。祐一の救いを求めている心は、とっくに全ての真実を悟っているのだから。
 

「――いいえ、違いません」
 

だからせめて、嘘だけはつかないようにした。それが幼い子供の心を踏みにじる行為だとしても、今ここで嘘を突き通すことは、きっとその何百倍も罪の重いことだろうし、ものみ自身がきっとその嘘で泣き崩れてしまう。
だから嘘だけはつけない。そんなことをすれば――きっと自分の心にも、祐一達が開けてくれた心にも嘘を付いてしまう事になるのだから。
 

「…………あんたらしいよ、ものみ。肝心な時には肝心な事を言ってくれる。下手な嘘よりずっと心強い」
 

祐一にとっても今のものみから出る嘘などくだらないだけだ。ならいっそ真実だけ突き通してくれたほうが何倍も助かる。
 

「なあ、あんたにとって、俺って――なんなんだ?」
 

それはなんでもない疑問。
全てを知った祐一は、まだ一つたりともものみのことを理解できてはいない。ものみがどういうつもりで祐一と香奈を作ったのか。そして作ってから今まで自分に接してきた時のあの笑顔は――果たして本物なのか否か。
 

祐一はものみではないのだから分からないのは当然だ。そもそも祐一には人間を殺して人間を造るなんていう発想が理解の域を超えている。
そしてそれを行ったのが自分の両親で、自分の良心をそそのかしたのがこのものみで、ならばそのものみを駆り立てた衝動は――いったいなんだというのか。
 

両親が好きだった。自分のことを笑顔で鍛えてくれる両親は頼もしくて、父の広い背中にしがみついた。
瑠海が好きだった。いつも笑顔で笑いかけてくれた瑠海は綺麗で、いつまでも抱きしめてほしかった。
聖一が好きだった。力強い聖一をずっと目標にしていた。いつか追い抜いてやると誓ったあの日、それを聞いた聖一は心から嬉しそうに笑ってくれた。
 

覚えている。闘技大会でわざと負けてくれた瑠海の優しさも、わざと手加減なんてしなかった聖一の優しさも。
それはほんの些細なことなのかもしれないけれど、それは絶対に――――過去なんて言葉で終わらせていいほど小さいことではないはずだ。
 

好きだった。大好きだった。
いつも微笑みかけてくれた、いつも側にいてくれた、いつも手を取ってくれたものみが――――たまらなく大好きだった。
 

なのに、なのにどうしてその気持ちまで――――
 


「愛しています、祐一様」
 


――――ただ一言嘘だったと、そんな言葉で納得できるのか。
 


「……人形が、好きなのか?」
 

「いえ、貴方を愛しています、祐一様」
 

ものみは祐一の目を見つめて離さない。距離は二メートル近く開いているというのに、今この場で抱きしめられているかのような温かさは、決して偽りのものではない。
 

「それも――――嘘なのか?」
 

「私は今、絶対に嘘はつきません」
 

それは絶対だ。誰にも強制されたわけでもない強制を自らに課して、それでやっと自分自身を保っていられた。
なら、今更こんな所でつくべき嘘なんて一字たりともありはしない。
 

「今は……か。じゃあ、今までは嘘をついてたってことか?」
 

「……………………」
 

ものみは答えない。その代わりに、しっかりと祐一の眼だけを見つめた。
綺麗な澄んだ瞳は今にも泣きそうで、しかし絶対に涙なんて流さないと決意した瞳だった。
目を伏せかけて、必死に押さえた。今顔が下なんて向いたら、きっともう二度と前なんて向けなくなってしまう。
目を伏せない代わりに、今度はこっちがじっとものみを見返してやろうと地面を睨んで、もう二度と地面なんて見ないと誓った。
 

「俺は俺の両親の子供なんかじゃなくて」
 

「はい」
 

「あんたが二人をそそのかして」
 

「はい」
 

「あんたは全てを知ってるのに俺に笑いかけて」
 

「はい」
 

「香奈にも同じ態度をとって」
 

「はい」
 

「俺が人形で、何百の命の上に立つ命だと知って」
 

「はい」
 

「…………それでも――――あんたは俺のことを、愛してるって言うんだな?」
 

「――はい、そうです」
 

下は向かない。頬を伝いそうになる眼を閉じたりはせずに、一度だけ、歯を食いしばった。
 


「――――そうか。なら、俺はあんたが大嫌いだ」
 


躊躇も遠慮もなにもない。あるのはただ、胸から何かが零れ落ちたような喪失感だけだった。
涙も出ない。声も、もう震えて上手く話せない。でも、この気持ちだけは、絶対に伝えておきたかった。
 

「あんたを信用していた……あんたを尊敬していたのに…………なのに……!」
 

それは憎しみの籠った心からの罵倒。裏切りなど関係ない、ただ裏切られた事だけが、たまらなく悔しかった。
 

「俺の知ってる天野ものみは絶対にこんなことしない! いつでも笑って、いつでも無邪気で、いつでも元気で! それが、そんな奴が――――こんなことするわけない!」
 

ありったけの大声で罵倒する祐一の声には悲しみしかない。ただ悲しくて、ただ哀しくて、なのに、もう一度だけ抱きしめてほしいと、あの笑顔がもう一度だけみたいと思う自分を誰よりも殴り飛ばしたくなった。
 

「俺は『あんた』なんて大嫌いだ! あんたはものみの偽者だ、ものみが――――ものみが、こんな…………」
 

「嘘なんかじゃ――――ありませんよ」
 

ものみはその時、初めて心のそこから祐一に微笑んでやることが出来たと思った。
 

「確かに貴方は作られた人形、ガーディアンです。私はその方法などを相沢夫婦に教えました。そして、それを今日までずっと隠し通してきました。私だけではありません。あの夫婦も、同様に隠し続けてきました。私が、そうしてくださいと頭を下げたからです。二人は当然だと言ってしましたし、私だって、当然だと思いました。
今日、貴方はそれを全て知りました。誰に聞かされたのかも知っていますし、その事実が貴方にどれほどのショックを与えたのかも、分かります。
――――でも、それでも尚、私はこの言葉を貴方に伝えたい」
 

ものみはすこしだけ目を瞑って、祐一の瞳をじっと見つめた。
 


「それでも……それでも私達は、貴方を愛してる!」
 


それは、もう絶対に嘘をつかないと誓ったものみの、本当の心からの真実だった。
 

「それだけは――――絶対に嘘じゃありません」
 

「…………じゃあ」
 

愛しているから、ずっと愛していたから、今も、今までもずっと愛していたのなら……どんなことだって、出来るとでも言うのか。
それは違う。絶対にそんなことが肯定されていいはずがない。作った方は愛していればきっと大丈夫と思っていたのか知れないが、作られた方はたまったものではない。
 

「あんたにはわからないさ。体の中でうごめく数百の命の塊の不快感も、自分が自分じゃないと否定される虚無感も。それも――――結局知ってしまったから感じるんだろうけどな」
 

「祐一様……」
 

唇を噛み締めるものみは絶対に地面を向かない。前だけを向いて、目の前の真実と祐一とは違う形で戦っている。
それが、どうしようもなく悲しく見えたのは、きっと祐一だけではないはずだ。
 

「……もう一度だけ、チャンスをください」
 

「…………チャンス?」
 

「ええ、貴方に、なにか償いがしたい。勝手な願いですけど、そうしないと私は……」
 

壊れてしまう、と。そんなことは分かっていたし、その答えで祐一がどういう返答をするのかなど、聞くまでもなかった。
 

「お願いです、祐一様。私は、私は……やっと――貴方を本当に愛せるようになったんです」
 

「ものみ……」
 

唇を噛み締めたのはものみだけではない。祐一も心の中で騒ぐ感情が迷っている。
ものみが好きだった。香奈も好きだった。両親だって、ずっと好きだったのだ。
今更別れるのか。今更ここで決別するのか。今更、そんなことでものみを裏切るというのか。
 

ものみは手を差し伸べてくれている。もう一度戻って来いというその言葉に嘘はない。本当に愛しているから。皆貴方を愛しているから、同じだけ私のことも愛してくださいと訴えかけてくる。
 

世界の果てに取り残されたのは全てを知った祐一ではなく、全てを失ったものみのほうなのか。
お互いがお互いの助けを求めている。ものみはもう祐一しかいなく、祐一には、もう差し伸べられた手を掴む事しか出来ない。
 

孤独は全てを凌駕する。何かが無くなった心に何かが注ぎ込められれば、浸透するのは一瞬だ。今まで積み上げたものを無理矢理に塗り替えられ、しかしそれでも、決してそれは苦痛なんかではない。
だから祐一には掴むしかなかったのだ。完全に欠落する前に何かで補わなければならなかった。
 

「ものみ……」
 

「祐一……様」
 

祐一が足を一歩踏み出した。ものみは安堵の声と共に、とうとう泣き崩れそうになってしまった。
差し伸べられた手を祐一は確かに掴んだ。絶望に陥った祐一にはそれしかなかったのだから、そうなるのは必然だ。
 

そう、孤独は全てを凌駕する。祐一はただ、自身が壊れてしまわないために――――
 


「はは、とんだ茶番だな、天野ものみ。欠伸が出そうだぜ」
 


――――差し伸べられた手を、掴んだのだ。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

後書き
 

どうも、お尻の小さな男の子、ハーモニカです。
 

私の計算ではあと二話、長くても三話で過去編は終了します。
ってか今思えば、祐一は図書室でどれだけ鮮明にリアに話しているのだろう?(汗
なにはともあれまさか過去編がこれほど長くなるとは思いませんでした。これは私の実力不足でもあるのですが。
過去編を一から見直してみました。誤字脱字はともかく、正直祐一じゃなくても充分成立する話です(それを言っちゃお終いさ)。
第三部からはちゃんとkanonキャラも出しますので。その辺は許してください。
 

……でもkanonヒロインの強さ低……(汗
これから強い奴いっぱい出てくるのに。ちなみに、第三部か第四部あたりに出てくる四人(予定)は男女二人。
その中の男一人除いてあと三人はかなり私的ランキングでかなり上位です。オリキャラなので当然です(それを言っちゃお終いさ)。
でもリアは正直そんなに……(汗
男は無条件で強くないといけない。女は可愛ければ合格。かっこいい強い女はパーフェクト。でも弱くて護ってもらってる女はコレ→( `Д´)つ)Д`)
リアはかなり中途半端です。でもリアの闘い方は相当好きです。
 

では、これからもあまり人気のないリアともどもよろしくお願いいたしますです!


作者ハーモニカさんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル投稿小説感想板に下さると嬉しいです。