一体どんな爆薬が爆発したのか。振動は一撃だけでセクトやものみの攻撃十回分は軽く越える。
間違いなく数百メートル、もしかしたら一キロほどの距離があるかもしれないというのに、それでも届いてくる轟音と、それでもその場面がありありと想像出来てしまうこの頭が憎らしかった。
セクトとものみは同時に同じ方向を向く。困惑の表情を隠すことなどできない。しかしそれは、ものみよりもセクトの方が何十倍も驚いているに違いない。
 

「な――――に?」
 

それはどんな意味で言った言葉なのか。ものみにはいくつか考えられたが、一番納得がいくのは、『こんな衝撃があるほどの戦いを、果たして誰が行っているのか』だ。
考えるのも馬鹿らしい、シオンだ。彼以外に誰がこんな出鱈目な破壊ができるというのか。
 

更に響く轟音は、同時に頭蓋を突き抜けるような殺気もつれてきた。
これほどの距離が離れていて尚届く虚無の殺意は、果たして本当にシオンのものなのか。
いずれにせよシオンが苦戦しているのは確かだ。どんな状況は欠片も頭の中に浮かんでこないが、シオンが苦戦して、そして自らの力をありったけぶちまけているとしか思えない。
 

もう一度大気が振動して、それでようやく現在の状況がはっきりとした。
三度の轟音は二秒で行われた。だが、この二秒の時間をものみは生涯恨むだろう。セクトは完全に見知らぬ果てを見ている。ならば、何故今すぐにでもセクトから逃げ出さないのか。
 

セクトは、祐一と香奈の両方にいろいろと余計な事を口走ると言っていた。それが本当なのならば、香奈だって今まさにシオンの仲間のいずれかとの戦闘の真っ最中かもしれない。ならば、このまま馬鹿正直に香奈を探すのは得策ではない。
だからといって祐一を探すのはもっと危険だ。あの爆発はきっとシオンの所為で、シオンはおそらく祐一と交戦しているのだ。ならば、祐一がどうにかしてシオンを追い詰めているとしか思えない。あるいは香奈と合流して、というのもあり得るかもしれない。
ならば祐一のところに行って、仮に香奈がいないとしても、あの爆発では香奈だって気づいているはずだ。そうすれば、もしかしたら香奈も祐一の下へ駆けつけるかもしれない。
 

だが問題はそこではない。香奈が祐一の所へ行くのならば、おそらく香奈と戦っている敵は香奈を止めるだろう。さっきから祐一とシオン以外の戦いの音が聞こえないのが疑問に思っていたが、香奈がまだ戦闘をしていないだけかもしれない。
ならば、今シオンを苦戦させている祐一よりも、いつ窮地に立たされるかも分からない香奈のところへ行く方がもっと利口だ。
 

ものみは瞬時に足を翻す。セクトはまだ、尚爆発を続けるシオンのいるであろう場所を見つめる。
駆け出すと同時に、セクトがこちらに視線を泳がせる。
気付かれた――――が、それがなんだというのか。
今更止まるなどできはしない。できるのはセクトがこっちに追いつく前にセクトの視界から消えうせて――
 

「――――?」
 

セクトが全く動こうとしないことに気が付いた。
 

「ん、どうした? どこか行くんじゃないのか?」
 

「――――な……」
 

目を見開く。あまりに驚いた所為で、走るはずの足まで、止まってしまったではないか。
 

「お、追わないの?」
 

「俺の役割はあんたが相沢香奈と相沢祐一の所に行かないように足止めすることなんだがな。どうやらそうも言ってられなくなったようだ。この分じゃ相沢祐一はともかく、相沢香奈は間違いなく問題ない」
 

「問題ない、ですって?」
 

セクトにはもはやものみを殺そうという意志は無くなってしまったらしい。ただ難しそうに未だ轟音の響く方を見ている。
それならばすぐにでも香奈を探し出したい所だが、その瞬間にそんなことを言われては行けなくなってしまう。
 

「どういう、意味?」
 

「言葉通りさ。こっちの計画通りに相沢香奈は動いてるだろうな、ってことだ」
 

「――――嘘だろうけど、一応聞いてあげる。根拠は?」
 

「根拠――ね……」
 

セクトは心底おかしそうに笑うと、音のする方向を人差し指で指す。
 

「あれ、見えないのか?」
 

「……?」
 

セクトが指差す方向。そこには二人の戦いで開けた一面の、すこしだけ曇り始めた空と、
 

「――――鳥?」
 

鷹、だろうか。いや、にしてはあまりにも巨大だ。それが、こちらに――――正確にはセクトに向かって飛んできていた。
赤い鷹。どうしようもなく不吉で、しかし恐ろしいほどに綺麗なその姿を目にしたのは偶然ではないだろう。誰かが描いたシナリオの中にはこうなる事が全て書かれていて、今ものみがこちらに飛んでくる鳥に見惚れているのも、きっと計算の内なのだろう。
だからこそ、許せなかった。
これが全て計算だとするのならば、何故――
 

「香奈――様……?」
 

その鳥の上に、さっきまで自分が探そうとしていた人の姿があるのか。
 

「早いなミリアム。一応予定通り進んでるようだが」
 

「計画に支障はない。相沢香奈も手に入った。あとはシオンとティアだが……我等が行ったところで助けにもならん。今はここから脱出するのが先決だ」
 

鷹の上に乗ったもう一人の少年から、少年の姿とは不釣合いな声が漏れる。その声は少し太く、人間が聞けば背筋を凍らせるような氷の声にも聞こえた。
その後ろで鷹の背に乗るのは、間違いなく相沢香奈その人なのだ。
その顔は自然で、ものみを細い目でじっと見る。
嫌悪はない。恨みも感じ取れない。その代わりに、愛情も親愛も全て無くなってしまっていた。その瞳が、どうしようもなくものみを哀しくさせた。
 

「香奈……様」
 

行かないでと言いたかった。でも戻って来いとは言えなかった。
きっと全てを知ったのだ。自分のことも、祐一のことも、ものみの事も全てを知って、全てを失ったのか。
セクトは、もはや自らの役目は果たしたというかのようにミリアムと呼んだ少年が乗る鷹に足をかける。さっきまで殺しあっていた人間さえもはや眼中にないというその姿を眼にして、どうして待てと止めることが出来るというのだろうか。
 

「じゃあな、殺される前に逃げておけ。折角見逃してやるんだから」
 

セクトは最後にそう言って、そのまま鷹は空に羽ばたいていった。
 

「――――――――」
 

ガク、と膝をつきそうになって、必死に堪えた。
歯をギリ、と噛んで、そしてこの圧倒的な悔しさを喪失感と虚無感とついでに噛み砕いて飲み込んだ。
これは負け、なのだろうか。セクトから逃げ出して香奈を奪還できなかった自分の力不足で、そして敵の手の上でシナリオ通りに踊っていたものみの敗北なのか。
 

「――でも」
 

でも、まも完敗ではない。まだ祐一がいる。まだ響く轟音は、祐一が香奈とは違いシオンに敵対しているという意味なのだ。
ならばまだ間に合う。音のする方向は近く、全速力で走れば十分でつくだろう。いや、木や道のことを考えればもう三四分ほどかかるかもしれないが、だがそれまで祐一が生きていてくれたならば、ものみはシオンをブチ殺して祐一を気絶させてでも遠野家に持ち帰ってみせる。そして相沢夫婦に力を借りて香奈を取り戻してみせる。
 

そう、膝をついている暇などないのだ。そんな暇があるのならば、祐一と香奈の心配だけしていればいい。
身体を立て直して、前を向いた。音は次第に大きくなり、それが、ものみにとって唯一の救いでもあった。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

目の前に迫る死を、無限に製造される『水』で何とか凌いだ。
その強すぎる余波が辺りに散らばって耳をちぎって捨てたくなるような轟音を出すが、その頃にはもう一度眼前に死が迫った。
 

ウンディーネのおかげで無限に製造される水であろうと、蛇口の大きさで一度に出る水の量は決まっている。
もちろんいくらでも水は流れ出る。水道水の水は無限と言っていい。しかし、一度に出る水の量が決まっている以上、その量よりも大きい攻撃は防げない。
 

「――――っっっだああぁっっ!!」
 

故に常に全開。蛇口を限界までひねり、尚且つ無理矢理蛇口の大きさをペンチでこじ開けたような戦い方で、しかし尚届かない。
しかもその攻撃は消耗する攻撃ではない打撃。そしてシオンが常に全速で行動するよりも数倍はやい連打。
もはやシオンにまともな場所など存在しない。超強力な水の壁を通し続けて尚響く攻撃の余波は並大抵のことではお眼にもかかれない。
それを既に四分二十五秒で千十二回受け続けた。絶え間なく雨よりも早い攻撃をそれだけ受け続けたシオンの実力はもはや感服に値する。
 

「あ――ぐっ――!」
 

だがそれもここまで。シオンは防御に適した能力を持ち、そしてそれをさらに増幅させる『相棒』まで存在する。だからこそここまでしぶとく生き残ったのだ。
だから恥じることなどなにもない。ティアはきっと逃げてくれただろうし、他の奴らもこんな森からさっさと逃げ出しているはずだ。
あと三分か四分。もしかしたら五分かもしれないが、それだけの時間を逃げ切れば勝ちだ。
もともとこれはそういう戦いだった。祐一は時間が来るまでにシオンを仕留め、シオンは時間が来るまで常に防御する。達成できなかった方が負け。あるいは時間が来てもシオンが死ぬという可能性は否定できないが。
 

祐一の攻撃を受けたシオンは、そのまま後ろの木をなぎ倒してさらに吹き飛ばされる。
だが休んでなどいられない。吹き飛ばされた距離など祐一がこちらに来るまでの助走にもならない。ならば今すぐにでも起き上がって、水の防御を張らなければ――
そう思っている内にまた吹き飛ばされる。数十メートルは吹き飛ばされたはずの距離で、しかしシオンが起き上がるまでの間に既に攻撃範囲に移動していたのだ。
無意識の内に張っていた水の壁が無ければシオンは消滅していただろう。だがそれは所詮気休め。無意識に張られた防御など今までの壁に比べれば紙も同じ。
今までよりも強く吹き飛ばされただけに、皮肉だがさっきよりも祐一が迫ってくる時間を稼げた。
 

「――ガハッ!」
 

思い切り血を吐き出した。これ以上攻撃を受けた血液を体内に放っておくと爆発しそうだ。いや、この身体が衝撃に耐え切れずに破裂していないのが今一番の驚きなのだが。
その間にも、祐一はシオンに向かって前進してくる。
 

「こ――の、ガーディアンごときがあああぁぁぁ!!」
 

蛇口を破壊して、そのまま水を爆発させた。
今度は防御ではない、攻撃だ。何の工夫もしていない水の攻撃は、ただ津波を連想させた。
轟音。おそらくこの森に来て――――いや、シオンが生きてきた中で一番大きな轟音が響いたはずだ。
水はもはや壁となって全てを飲み込む。荒れ狂う嵐は事実竜巻だ。
狂ったような水はまるで大口を開けた龍のように射程範囲に入った全ての物質を食い荒らす。しかもそれだけでは飽き足らず、威力の範囲を極限まで縮める事によって威力を何十倍にも増やす。
その光景はまさに異次元。祐一の死とはまた違う絶対の死がその場に充満し、ここに入ったものは例外なく跡形も残らない。
一人の人間が出せるような威力ではない。当然だ。シオン自身これほどの攻撃ができたことを待つ代まで誇りにするだろう。こんなもの、今から俺は死ぬからその代わりこんなすごいことします、と言っているのと何が違うのか。
その破壊力ならば遠野家をも飲み込んでしまうだろう。
木などもはやゴミですらない。水の竜巻は圧倒的な破壊力で祐一を飲み込み――
 

「――――は……はは、ははは」
 

――確かに、祐一にダメージを与えはした。
 

「――ウソだろ」
 

もう笑いも出なかった。シオンは膝をついて前を見る。
地面はえぐれ、およそ視界に入る木は全て吹き飛んだ。
小さな村くらいならば簡単に潰してみせるだろうその水は、範囲を限定したからこそ被害は最小に抑えられたのだ。
故に威力は計り知れない。生涯、きっとこれ以上の攻撃をシオンがすることはないだろう。それほどまでに、今の攻撃は完璧だった。
その代わりに壊れた蛇口はもはや正常に水を出したりはしない。ウンディーネとの回路を無理矢理断ち切った攻撃はただの一度きり、しかし最高の力を示してくれた。
だから膝をついたのはそういうことだ。単に、もう歩くのも疲れますですということで、故にこれは必殺でなければならないのだ。
だがこれは必殺にはなりえなかった。必殺とは必ず殺すという意味。それを成しえなかった時点で、この攻撃は必殺ではなくただの攻撃。
そう、子供のパンチと今の攻撃はただの攻撃。相手を少しだけしか傷付けられない時点で、祐一にとっては、もはや攻撃の差など時間稼ぎにしかならない。
 

生きていた、どころの話ではない。生きているのは想定内だ。これぐらいで死ぬのならばさっさとやっている。
だから、ただ生きているのではなく、どういう風に生きているかに問題はある。
 

地面に立っている祐一の服すら傷はない。もともと何らかの防御術をもっているのか、その身体に傷はない。
ダメージは、与えたはずだ。間違いなくダメージを喰らいシオンへの攻撃をすこしだけやめた。
それも数秒持つか分からないが、とにかくダメージは与えたはずだ。
だが無傷。こんなもの、ただ足を引っ掛けて転ばせてその間に逃げるのと何が違う。
 

だが、それでもあの攻撃は見事だった。あの津波に似た水は見事に、祐一から時間稼ぎをしてみせた。
 

「――――っくそ!」
 

ありったけの悔しさと怒りを吐き出して、駆け出した。
もちろん祐一を逆の方向へ逃げ出しただけだ。もつれる足に鞭打ってリズムも何も無くただ逃げるだけの逃走。
 

逃げる逃げる逃げる。
祐一相手にどれだけの意味があるのか分からないが、とにかく逃げるしかない。
 

死にたくない。死にたくない。死にたくない。
心の中で叫び続ける。
俺は――――どうあっても、死ぬ訳にはいかない。
転びそうになる足を自分の足で蹴り飛ばし、乱れた呼吸ばかりする喉を自分の手で握り締め、それでも、絶対に死んでやらない。
 

俺が死んだらどうなる。俺が死んだら、あいつに誓った誓いはただの嘘になってしまい、俺は晴れて嘘吐きの仲間入りだ。
ティアはきっと三日間泣き続けるだろうし、セクトはきっと生きていく意味を無くしてしまうし、ミリアムに至っては普通に死んでしまう。
 

だから死ぬ訳にはいかない。死ぬわけにはいかないのだから、今ここで何がどうなろうと自分は生き延び続けなければならない。
 

走って走って走って走って。
逃げられない事を理解しながら走って走って。壊れた蛇口を元に戻すのも忘れただ走った。
今まで生きてきた中で逃げだしたのは、今回を入れて二回。いつの時も逃げるというのは気持ちのいいものではないし、惨めで、なにより自分には縁のない話のはずだ。
 

祐一からは殺気がない。シオンは殺気を出して祐一を全力で抑えているというのに、祐一は敵を殺すその狭間ですらなんの感情も見せない。
機械。そう機械だ。殺すのは作業であり義務だ。そこに余計な感情などいらないし、そもそも喋る拳銃などないし意思のあるナイフも存在しない。それに似たようなものはあるが。
だから逃げなければならない。殺されるから、殺される前に逃げなければならない。
 

祐一の手が届かない遠くへ。どこか遠くへ逃げて逃げて。
自らの本能で悟れ。安全な場所だけを目指して森を駈ける。
 

分かれ道。右か左か、安全な場所は――
今度は三つの分かれ道。今度は十字の分かれ道。次に至っては開けた場所に出てしまって、全方向の中で最も安全な場所を――!
 

シオンは本能の告げるままに最も安全な方向に逃げ続けて――
 

「――――はは、結局こうかよ」
 

――安全な場所など、ひとつとしてなかった事に気が付いた。
 

「追い着くの速ぇよ。五十メートル何秒だ?」
 

皮肉げに笑って、ああ、五十メートルなんて一瞬か、と自分で笑う。
木に背中を預ける。今にも倒れてしまいそうな体をぐっと足で支えて、目の前の死神を見た。
無言。無表情。そしてきっと無感情のその姿を死神を喩えたのは随分と言い得て妙だ。事実、シオンはこれほどの死を目にした事などありはしない。
今にでも剣を喉に当てられ、銃口を額に押し付けられているようなこの恐怖感は、きっとこの相手からしか味わえまい。
 

祐一の瞳は漠然としている。逃がすつもりなどないのだろう。いや、逃がすという概念さえ持ちえてはいないはずだ。ただ導火線が長くなってしまったから処理しに行こうとしているだけ。
 

「ここで……」
 

決まる。いや、決めるしかない。
もう逃げられはしない。ここで心臓を破壊されるか、逆に時間を稼いで生き延びるか。どちらにせよ、ここで決まる。
 

祐一はまだ動かない。こちらがどう出るかなど気にしているわけもない。ただ単に、単純に動かないだけ。
 

「――――やってみるか…………?」
 

シオンは祐一の『体』を見て言う。大丈夫、その体はちゃんと相沢祐一のものだ。できないはずがない。ただ、時間が五〜七秒以上かかるということがなんとも難点だが。
加えて目も瞑った方がいい。全神経を尖らせて、祐一の存在などその一瞬の間忘れ、『流れ』だけを読み続けなければならない。
 

だができない。五秒も目を瞑っていればもう死んでる。だからせめて、五秒だけでも壁になるものがあれば――――
 

――ガサ、と後ろでそんな音が聞こえて、同時に見覚えのある気配にシオンは目を開く。
 

「……………………」
 

壁…………か。
 

「……………………」
 

目を閉じれば死ぬ。それは絶対だ。今更そんなことを確かめる気にもなれないし、第一確認ならばさっきまでの戦いでできている。
いや、あれを戦いというのもおこがましい。あんなにも一方的な暴力を世間一般では弱いものいじめと言うし、シオンは自分が弱いものだと認めたくないので頭をかきむしる。
 

「……………………よし」
 

それは一瞬にも満たない思考の糸。故に時間がかかったのは思考によるものではなく、純粋に自らの行動を後押しするための度胸を決心付けるための儀式。
 

そうして、目の前の死を直視しながらも、シオンは堂々と『瞳を閉じた』。
 

視界は闇。もはや目には黒しかなく、祐一の姿どころか破壊された森さえ見えない。
更に祐一の気配を自ら遮断。故に世界は色を無くし、遂には世界そのものもシオンの中から奪い去った。
だがそれでいい。この状況ならば、例え祐一の攻撃が眼前に迫ろうとも集中を閉ざす事はない。故にかかる時間はほんの数秒。その数秒ならば祐一はシオンをあくびでもしながら殺せるだろうが、だがそれすらも予想の内。第一シオンはもはや死んでいるのと大差ない。ならば、一パーセントでも勝利の確立をあげることができるのならば、例え――――
 

ただ、これは同時にとんでもない賭けでもあった。シオンの本能や直感による反射神経や気配察知を全て無理矢理に遮断したのならば、もはや蚊一匹の動きさえ感じ取る事は出来ない。
ならば、今ここで祐一の攻撃が来るのならばシオンはそれを理解することなどできずに死を迎える。
 

――だが、それが一体さっきまでとどう違うというのか。
 

全神経で祐一を察知してようやく視覚できるほどのスピード。それを少し緩めたならば自分は死を理解することなく死を迎える。ならば、いっそのこと完全に遮断してしまえば話は早い。
祐一のギャンブルはそういうことだ。こっちは目を瞑ってやるからそっちは勝手に攻撃して来い。ただし、そっちの攻撃を一度でも防げたら俺の勝ちだ。
大穴の馬券を単一で買うような博打に、しかし自然と恐怖は無かった。あるのは一瞬でも速く『流れ』を掴めと叫ぶ脳味噌をぶち壊したいという感情だけ。
 

『流れ』を捉えようが、祐一の攻撃がシオンの顔面に直撃すれば流石に死んでしまう。だからこれは、祐一の攻撃を一撃だけ防ぐか防がないかという勝負だ。
故に一撃。それ以上の攻撃はありえず、その先には祐一を殺すという手段はない。ただ純粋な時間稼ぎだ。
 

「――――――――」
 

動かない。どれだけ『流れ』が速くなろうとも、それが自分の死を意味しているものだとしても、それでも動かない。
閉じた目は頑なで、その瞳に宿る信念は――きっと祐一でも砕けない。
 

「――――捉えた」
 

掴んだ。その『流れ』の感覚に目を開ける。
すると、もう既に祐一がこちらへ向かってきているのを、スローモーションのように見つめていた。
人間、死ぬ間際の出来事がスローモーションに見えるというのならばそうなのだろう。
いつの間にやら突き出された祐一の手はさぞかし伝説にでも残る必殺の槍に映っただろう。
シオンはその死を直視する。あとは指にすこしだけ力を加えるだけでシオンの勝利だ。
だが遅い。あまりにも遅すぎる。シオンの指が一ミリ動くよりも、祐一の手がシオンの頭蓋を叩き割る方が百億倍は早い――!
 

ズシャッ! と泥で作った山を叩き潰すような音がして、肉が弾けとんだ。
飛び散った肉はあたり一面に広がり、祐一は見事に敵の喉を潰していた。
瞬殺もいいところ。感情の無い機械の死神ならではの芸当だ。一瞬で距離を詰めた祐一は一瞬で敵の喉笛を片手で吹っ飛ばした。
なら死んだ。喉を潰されて死んでいないはずがない。
祐一の攻撃は喉を丁度貫通するような形で行われた。本当ならば首と胴が惜しむ暇も無くサヨナラしていてもおかしくない状況で、尚かつ繋がっていたのは奇跡としか言いようがない。
だがそれだけだ。完全に機能を停止した喉は酸素を送り込めないとかうんぬんの話以前に、それだけで死んでしまうだろう。
だから死んだ。人間だろうと魔物だろうと関係ない。生物なんて、喉笛を太い腕が貫通すれば死んでしまうものだ。それで死んでいないのならば、もうなんていうかやってられない。
 

――――普通ならば。
 

「――見事だ」
 

シオンは祐一の『流れ』を読み取り、祐一が敵の喉に手を突っ込んでいるその状況下で尚、自らの勝利を確信し笑った。
最高に皮肉げに笑ったその顔は、祐一に飛び切りの攻撃をプレゼントしてやるつもりなのだろう。
ならばとシオンは、
 

「――ティア」
 

自らの仲間に、最高の賞賛を贈ってやった。
 

とんでもない音がした。
もはや例え様もないくぐもった音は、あの強烈な津波さえも防いだ祐一の体を易々と突いていた。
それも一本や二本ではない。数十本の槍に似た『血液』が祐一の体を『内側から突いていた』。
自らの体の中から来た攻撃は自らを吹き飛ばし、同時にシオンは残った僅かな水で祐一をできるだけ後方に吹き飛ばした。
 

シオンの能力は水を操る事。それには血液すらも例外ではなくなっている。
シオンはそれを応用して自らの血液を防御に使っているが、血液すらも操るシオンに操れない液体などこの世には存在しない訳だ。
ならば、この世の人間の中にある全ての血液を操ることだって不可能ではない。
血液の『流れ』さえ捉えれば、あとはそれを爆発させるだけで勝手に死んでくれる。当然だ、防ぐ方法など体中から血液を抜き取るしかない。
外からの攻撃が通用しないのはさっきの津波で充分証明済みだ。ならばすることは一つだけ。
外が通じなければ内から攻撃するまで。ただそれが途方も無く難しいだけ。
 

事実、こんなことが出来るのは世界中でシオンしかいない。水を操る家系である水瀬一族ですらこんな芸当は出来ないだろう。
シオンだってこんなことする必要はない。普通に攻撃すれば普通の敵は死んでいくし、祐一のような例外など今まで見なかった。
だからこれはシオンが暇つぶしで編み出した取って置きの『娯楽』。時間がかかりすぎて奥の手にすらならないそれは、祐一との戦いでは考える場合ではないほど死を意味することだ。
 

それを成功させるために必要なのは壁なのだ。時間稼ぎができる壁が必要で、シオンはそれを持っていない。
水の壁を張ることは出来るが、水の壁なんて張っていたら『流れ』のほうに気が行かなくなってしまう。これは暗殺にはもってこいだが、決して実戦で使えるようなものではない。
事実、祐一の血液はガーディアンの混沌だ。容易に操れるものではないし、そうでなくても常に動き回る血液を自ら外で操るなんて出鱈目がシオンを除いてできるはずがない。
 


その時間を稼ぐのに必要な盾は、どうやらそれ自身がシオンのことを探していたようだ。
ティアは死がない。それは比喩でもなんでもなく、事実そうなのだ。
頭を撃ち抜かれても死なないし、首と胴が離れても死なない。
痛みも無ければなんと再生能力まであり、祐一の攻撃ですら数分あれば完璧に治ってしまうほどだ。
 

だからこそシオンはティアが回復するまでの時間を稼ぎ、ティアにこの森から脱出して欲しかったのだ。死なないのだから、逃げ出すくらいわけない。
だがそれはティアにとって最大の屈辱だ。シオンを置いて逃げ出すなんて、自分の存在を生まれた時から否定するのと何も変わらない、否、それ以上の屈辱だ。
だから傷が治ればすぐに駆け出した。轟音がシオンの場所を教えてくれるし、探し出すだけならば何の問題も無かった。
 

そして見つけた。木の陰から見据えたシオンの姿は痛々しく、今にも死にそうな雰囲気をかもし出していた。
ならば助けなくてどうする。ティアはシオンが目を瞑った事も背後からだったから見えなかったが、それでも祐一の恐ろしさは知っている。
なんと言ってもその恐ろしさを一身に浴びたのは他でもないティアだし、死のないティアにすら死の恐怖を与えるその存在はまさに死神と言わずなんと言うのか。
 

だから駆け出した。祐一がシオンを攻撃するよりも速く前に出れたのは奇跡だと思うし、シオンがティアの存在にあらかじめ気付いていてくれたからこそ出来た業だ。
ティアは祐一の攻撃を喰らい喉を吹っ飛ばされた。だがそんなもの、シオンが生きていると知った喜びに比べれば火傷にもならない。
 


シオンもシオンで、正直この賭けには危険を感じていた。
事実感じ取れたのは、いつもティアがシオンに愛の視線を向けていたからだし(ティアはいついかなる時にでもシオンに愛の眼差しを向けることを忘れない)、その気配だけでティアだと判断するのは不安だった。
だが、言い知れない確信はあった。自惚れているわけではないがティアはシオンを愛している。ならばシオンのピンチに現れるヒーローになってくれるはずだ。
 

だからこれはそういう賭け。気配がティアのもので、ティアが祐一よりもはやくシオンを庇えばシオンの勝利。例外なくそれ以外の選択肢は全てシオンの死だ。
 

そしてそれに勝ったシオンは、間違いなく勝者だった。
 

シオンの足元に倒れたティアを抱き上げる。未だ破壊された首を必死に直そうと修復されている傷を負ったティアは、シオンに抱きかかえられただけで受けた傷などチャラを通り越してお釣りを貰った気分になった。
ティアを抱えて近くの木で休ませる。ティアならもう数分すれば完全に回復するだろう。シオンはさてと体を持ち上げ、祐一を見た。
内側から爆発した血液の攻撃ですら瞬時に回復するのか、祐一の体はもはや万全の状態とほぼ変わらない。シオンは苦笑して顔を手で覆った。
 

「あれだけやったのに結局足止めにしかならないのかよ。たまんねえな」
 

皮肉る口調に恐怖はない。もはや水など体から出るいろんなものですら出なくなっている。
そして祐一は今はもう無傷。しかも理性の無いままにシオンの今の攻撃を警戒しているのか、すぐにでも攻撃を仕掛けてきそうだ。
だがそれがなんだというのか。
シオンが大きな水を操る力を使えるのはもう数日先になるだろう。小規模な水ならばまだ充分使えるが、蛇口は完璧に大破し、ウンディーネとの回路を完全に遮断したのだ。水などもうしばらく見たくもない。
 

だが恐怖などあるはずもない。
 

祐一が駆け出す。それは駈けるなんて言葉すら大語弊だし、姿が消えたようにしか見えない突進は今までと全く変わらないスピード。
しかしシオンは動かない。ティアの助けを借りようとしているわけではなく、純粋に動かない。
 

何故もなにもない。動く理由がないではないか。自分は賭けに勝ったのだから、この勝負は既に――――
 

ピタリと祐一の動きがシオンの鼻先数センチのところで停止する。あとほんの一瞬、本当に一瞬あればその手はシオンの顔を易々と破壊しシオンを殺していただろう。
そんなありえないような現象を、シオンは当然とでも言うように不敵に笑ったあと、純粋に祐一を殴り飛ばした。
地面を転がる祐一は、もはやそれどころではないようだ。
木に背を預けた祐一はそのままピクリとも動かなくなり、シオンはその姿を見てようやく安堵の声をあげた。
 

そう、この二人の勝負はさっきの賭けが決まるかどうかであったはずだ。それに勝った以上、どんなことが起ころうとシオンが負けることはない。
事実さっきの攻撃で祐一を何十秒も足止めできた。それだけできれば、十分時間稼ぎは成功している。
だから勝ちだ。シオンは勝って、祐一は負けなかっただけ。
 

「――にしても」
 

随分と好き勝手やられたもんだとシオンは自らの体を見て溜息をつく。本来ならばもっとスマートにことを済ませるつもりだったし、ティアがなんか凄い事になってるなんて予想もしなかったことだ。
ならば何故こんな仕打ちを……。
 

「くそ、この俺が情けない……」
 

シオンは祐一を見るともう一発ぶん殴ってやろうかと考えるがやめといた。
 

「――ぅっ、くっ……?」
 

不意に祐一が目を覚ました。今まで数回しか聞いた事のない祐一の声がやけに懐かしく思えて、涙でも流してやろうかと思った。
 

祐一を説得するために考えておいた説明を全て消去。そして新しい説明を頭の中にインプットする。
本来ならばもっと優しく丁寧に教えてやるつもりだったがそんな気持ち失せた。
ここまでボコボコのボロボロにされたのだ。ちょっとやそっとの報復では気が済まない。
急な戦闘の終わりに悲鳴をあげる体は、狂った血液を外に吐き出そうとうごめき続ける。
一度だけ血を吐き出して、シオンはまた祐一をぶん殴りたくなった。
 

だから、
 


「……………………ふん、戻ったか」
 


今度はこっちが、最高に皮肉で嫌味な言葉で虐め抜いてやろうと思った。
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

後書き
 

どうも、妄想癖なら誰にも負けないハーモニカです(自慢できんわ)。
 

とりあえず、祐一がティアに殺されかけて目覚めるまでを書いてます。
丁度この頃にものみは祐一のところに向かって走ってきているという感じですね。
祐一の強さがもうやばいね。誰が勝てるんだよ。ってもうその相手決まってるんですが。
さて、遂に明かされたティアの能力。なんかもうやばい感じでしたが、これはこれで丁度いい強さだと思っています。
今は曖昧な表現しかしてませんが、第三部に入ったら速攻でティアの話ですので、それまではウンディーネなどうんぬんの話は忘れてください(笑
 

さて、次回はようやくものみと祐一の出番。全てを知った祐一は、ものみとの再会で何を思うのか――!
 

とか次回予告で大自爆。次回の更新の速度は、速くなるか遅くなるかのどちらかでしょう。
なるべく前者になるように心掛けますが。
 

では、これからも応援よろしくお願いします!


作者ハーモニカさんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル投稿小説感想板に下さると嬉しいです。