いつくしみ深き







 独りだった頃は未来を見ていたが、独りでは無くなった頃は過去を振り返るようになった。
海鳴へ来て一ヶ月で高町の家に住み、春先でメイドと出会い、梅雨の時期に護衛に恵まれ、真夏は海外で婚約し、秋の季節は家族が出来て、冬の時期に異世界で剣を失った。

たった一年間で自分の人生は激変し、過去を置き去りにして今が変わり、未来が確定しつつある。

自分の終わりは見えていないが、自分の行く道は決まりつつある。だから過去を懐かしむ。


孤独だった昔を思うのは、今は婚約しているからだろう――結婚は人生の墓場とは、よく言ったものだ。


「ただいま」

「おかえりなさい」


「……こちらから出迎えにいけるぞ」

「出迎えるのは、妻の仕事よ」


 英国のクリステラソングスクールで学んでいる歌姫、ヴァイオラ・ルーズベルトが日本の玄関先で俺を出迎えてくれた。

妖精と称えられている、女系の多い夜の一族の中でもとびきりの美少女。美しき黒い髪に黒曜石の瞳が特徴的な、容姿端麗な女性。

社交界の紳士諸君より日々求婚の山が送られてくる女性は、各国の求愛を無視して今年バレンタインを迎える日本へと訪問していた。


来国ではなく帰国だと言い切っている辺り、英国貴族の家を出て日本人の嫁に入る事を既に覚悟していた。


「今日は一日お休みでしょう、紅茶を入れるわ」

「お前もレッスンと勉強で忙しい日々だろう、日本に来た時くらいゆっくりしていいんだぞ」

「気遣ってくれてありがとう。貴方の優しさに触れるだけで、心が癒やされるわ」


 挨拶程度の気遣いでしかないのだが、感じ入った様子で小さく口元を緩めている。表情には乏しいが、夫への感情は驚くほど豊かだ。

休暇が取れたので帰国するという連絡は前からアリサより受けていたのだが、日時を聞いても配慮する必要はないと断られてしまっていたのだ。

今どきの日本人よりも格式の高い作法と礼儀を心得ており、夫を立てる妻の心遣いは日を経る度に洗練されている。


種類豊富な紅茶の味を素人が表現するのは難しいが、ヴァイオラが入れてくれた紅茶を飲むと舌が豊かになる感覚を実感できる。


「アリサより話は聞いたわ、また怪我をしたようね」

「かすり傷程度だ、今はもう何ともない」

「命を脅かされたのに、結果だけで語らないでほしいわ。傷を見せて」


 俺が負傷をした時、ヴァイオラは後日であっても必ず傷を見る。

怪我自体は癒えていたとしても、彼女にはまるで消えた傷跡が見えているかのように正確に目で追っているのが分かる。

常に心配している気持ちもあるのだろうが、傷を見つめる彼女の瞳に悲痛はなかった。


他の誰もが嘆く大怪我であっても、彼女の美貌に揺るぎはない。


「心配かけてすまないな」

「剣士の妻になると決めた日から、覚悟はしているわ」


 平穏に生きて死ぬのではなく、不穏に戦って殺される。悲劇で幕を閉じる結末を、剣士は常に意識している。

平和な日本では馬鹿な妄想であろうと、物騒な異世界に足を踏み入れれば起こり得る現実であるからだ。

それでもヴァイオラは一度だって、戦場へ出向く俺を止める事はなかった。


彼女はいつも見送り、俺が帰ってくるのを待っている。


「また何か迷いを抱えているのね。斬り開くことは出来るのかしら」

「どうだろう、常に行ったり来たりしている。人生を長く生きても、高みにたどり着ける事は難しいかもしれない」

「貴方らしいけれど、何よりも人間らしいわ。私の愛した、人らしいと思える」


 どれほど悩んでいても、戦いになれば剣を取って相手を斬りに行く。勝敗が決しても、正確に答えに辿り着けるか分からない。

後から思えば本当につまらない事でも、悩んでいる今では切実なのだ。彼女は、そうした俺を人間らしいと言う。

歌を歌う人生を過ごす彼女に、迷いはない。悩みがあると聞いた事もない。けれどそれは、強さとは違う。


愛を知らない彼女は美しい怪物だったが、恋を知った彼女は人を知る努力をしている――いずれは、どこの家庭にもいる平凡な母となっているだろう。


「貴方の傷が癒えるまで、私はあなたの傍にいるわ」

「休暇の日数は決まっているんだろう」

「またすぐに剣を振りたくなる、あなたはそういう人だもの」


「単純だと思われているのだろうか」

「心が素直なのよ、だからあたたかい」


 ――英国では、チョコレートを贈る日は明確に決まっていない。

男性も女性も花やケーキなど様々な贈り物を、恋人や親しい人に贈ることがあるというだけ。


恋人たちが愛を誓う日、俺達は肩を並べて今を安らかに語っている。















<終>







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