Ground over 第五章 水浜の晴嵐 その7 滑空






その時、どのような感情が全身を廻ったのかよく覚えていない。

少なくとも、傍から見れば青褪めていただろう。

街を一望出来る部屋の窓から飛び降りた少女――

躊躇無くベランダの向こうへ駆け出したアリスを、俺はただ必死で追い縋る事しか出来ない。

決して、届く事の無い手を伸ばして。


「アリスっ!?」

「なーに?」


 ――豪快に床に転がりそうになった。

何の危機感も無い少女の声。

耳をくすぐる可愛らしい女の子のボイスが、腹正しい非現実感を生む。

俺は慌てて窓の外へ身を乗り出す。


「――なっ、なっ!?」

「あは、驚いてる驚いてる」


 ――文明を築いた人類が、古来より憧れを抱いた世界。

大空。

白く包まれた雲を目で追って、真っ青な空の向こうに思いを馳せた。

飛行機という名の人工の翼を手に入れても、純粋な願いは人は忘れることは無かった。

空を飛びたい――その望みを、決して。

俺は人類の空想を今、眼に焼き付けている。



真っ白な翼を生やした女の子――



茜色の空を背に、オレンジ色の光に満たされて、アリスは空を飛んでいた。


「むふふー、おにーちゃんったら変な顔。
こーえーに思ってほしいな。

他人に見せるのは、初めてなんだから」


 ――他人に?

茫然自失の俺を現実へ引き戻したのは、その一言だった。

聞き覚えがある言い回し。

今頃密航の罪で追われている人外の男が、似たような言葉の使い回しをしていた。

力を持たない人間を見下ろす言い方。

――翼を持たない存在への、天空からの無邪気な自慢。

俺は改めて、目を奪われた…


「――君は、何者なんだ…」


 誤った召還術を使う妖精と、剣を手に生きる凛々しき剣士。

恐竜の如き大きさのモンスターに、人々を襲う盗賊。

忌わしき逸話に縛られた人達と、異常気象。

凶悪な牙と顎で船を襲う魚に、圧倒的な魔力を持つ龍族。

――そして、空を飛ぶ少女。

いい加減この狂った世界に馴染みつつある俺だが、今だ生理的に受け入れられない。

問われたアリスは、悪戯っぽい笑みを浮かべて、


「おにーちゃんに誘拐される、可哀想な女の子だよ」

「望んだのは君だろ!?」

「そろそろ人が押し掛けて来る頃じゃないかなぁー」


 非現実的な状況での会話を、現実を指摘する声で遮られる。

誤魔化されているのは分かっているが、俺は思わず振り返ってしまう。

確かに猶予は無い。

少女の悲鳴を聞きつけて、間もなく熱心な従業員と警備員が押し掛けてくる。


全力で逃げねば――って…あのー。


今、気が付くのもかなり間抜けな話だとは思うのだが――

俺は恐る恐る、聞いてみる事にした。


「あ、あのさ…もしかして、逃げる先って――」

「うん、飛び降りるの」

「誰が」

「おにーちゃんと、わたし」

「死ぬわぁぁぁぁっ!」


 翼を持たない無力な人間の末路。

足から飛び降りても重傷間違いなしの、高さ。

地面に真っ赤な華を咲かせるのは御免である。


「飛べないの、おにーちゃん!?」

「何でそこで不思議そうな顔をするのか、とても君に聞きたい」

「むぅー、大人って役立たずだぁ」

「大人にどんな夢を抱いているんだ、お前は」


 何時の間にか、普通に話している。

少し前まで初対面だったとは思えないほど、自然に。

女の子が翼を生やして飛んでいる。

夢の中か映像でしか在りえない存在を、認めているのだろうか?

人が寝ている間に潜り込み、誘拐を強いる翼の少女――

何もかもがおかしくて、俺の感覚は一時的に麻痺しているのだと思いたい。

立ち往生する俺をアリスは少しの間眺めていたが、やがて…


「キョウスケ、手を伸ばして」

「手? 手って…」

「いいから、ほら!」

「あ、ああ…」


 勢いに飲まれるように右腕を伸ばす俺に、アリスはそっと近づいて手を握る。

小さな、手のひら。

風に煽られて冷たさの宿る手が、俺の手をしっかりと握った。

そして、


「えいっ」

「――――っ」


 声を上げる余裕も、無かった。

微笑ましい掛け声とは裏腹に、急速に身体を引き寄せられる。

窓を乗り越え、やがて――



――空へと、駆け上がった。















 耳元を鋭く切る風の音。

痛いほど頬に突き刺さる冷たさ。

――柔らかな、手。

俺は窓の向こうの世界へ飛び出した。

急激な落下感に反発するように、身体が飛翔している。

誇張ではない。

俺が、俺自身のこの身体が、空を飛んでいる。

アリスの翼に支えられて。

結ばれた小さな手に導かれるように、俺はアリスと一緒に街の上空に浮かんでいる。

視線を下ろせば大きな街と、賑わう人々。

視線の彼方に、俺達が渡ってきた河が果てしなく広がっているのが見える。

飛行機では味わえない、視界いっぱいに広がる空の情景――

悠久の彼方から人々が憧れ続けた世界が、圧倒的なスケールで目の前に君臨していた。

手を結んだ少女が、そんな俺を見て笑っている。



――負けた…



心から、俺は清々しくそう思えた。





地面より、俺達を見つめる視線にも気付かずに――
















































<第五章 その5に続く>






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