「――――――――」
良介は頭上に広がる青空を見上げ、大きく息を吸った。
夏の太陽はぎらぎらと地を焦がし、直下に広がる紺碧の海をより一層輝かせる。
「――――――――」
頬を撫でる風は潮の風。
多くの生命をその内に宿した、母の匂いだった。
「――――――――」
視線を下げ、広がる大海に想いを馳せる。
これ以上無いほど開放された光景。そんな光景を見ているだけで、自分の心までも大空に飛び立とうとしているかのような錯覚を覚えた。
いや、それは錯覚などではない。
「――――――――ッ!!」
さくりという酷く軽い音。
今自分の頬を掠めた一撃が、今自分の隣に置かれた緑の黒の我が同志――――スイカを真っ二つにした一撃が自分の脳天に突き刺さるだけで、自分は一片の疑いも無くこの空に旅立つ事になる。
「――――む、外したか」
「シグナ――――ムッ!! 殺す気かボケェッ!!」
「何を言っている。スイカ割りとはこういうものだろう」
「ちっがーう!! 断じて違う! スイカ割りは処刑方法じゃねぇえええええええええええええええええええええええッ!!」
ぜえぜえと荒い息を吐く良介。
しかし、その身体は砂浜に埋まっているので、首だけで絶叫を上げるその光景はさながら珍しい植物のようだ。
そんな良介を微妙な顔で見遣り、青少年が見たらそれなりに危険な状況になりそうな身体を水着に包んだシグナムがその胸を上下させて溜息を吐いた。ローアングルの良介、身体が埋まっていて正直良かったと思う。
「――――お前がミナセの細君を怒らせたのだろう。自業自得だ」
「――――――――」
その言葉にパクパクと文句言いたげに開かれる良介の口。ただ、遠くから彼を見詰める件の細君の眼が恐ろしくて言葉が出なかった。あれは何だ、倒したはずの『アンラ・マンユ』を髣髴とさせる空虚な目は何だ。
ちなみにその細君は今、耐魔力コーティングされた単分子炭素ワイヤーでぐるぐる巻きにされ、リクライニングチェアに寝かされた自らの夫にスイカ――――先ほど別の人間が割ったもの――――を差し出している。
「あーん」
「――――――――」
無言でスイカを食べる夫。その目が疲れたように良介を見ていた。
「――――――――」
「――――――――」
互いの状況を同情しあう二人。なんとも空しい友情だ。
しばし無言で見詰め合う二人だが、良介の前に次の執行人が立つ。
鉄槌の騎士、己の得物を持っての登場だった。
恐れ戦く良介。
「――――そ、それはぁああああああああああああああッ!!」
「いくぞー良介」
「来なくていいわ! というか来ないでください親分!!」
リュウトは次の処刑人であるヴィータの持つ鉄の伯爵に恐怖し、頭を四方八方に動かし始めた良介から海へと視線を動かした。
「ぬおぉおおおおおおおおおおおおおッ!! やられて堪るかぁああああああああああああああああッ!!」
「いい加減諦めろよー、アニー怒らすと怖いんだぞー」
「今身を以て体験してる――――って、ああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜…………」
あの回避範囲ではギガントシュラークからは逃げられないだろうに。
リュウトは地響きを感じつつやれやれと首を振った。そして、自分の背後に立つ使い魔に声を掛ける。
「――――――――シグレ」
「はい、何ですか主殿」
「――――――――ちなみに、君はいつから下克上?」
実は、激務を成し遂げ眠りについていたリュウトをワイヤーで捕縛したのは、忠実な使い魔である筈のシグレだった。リュウトは予想外の刺客に驚き、見事捕縛されたのだ。
「仕方がないのです我が主。主殿が私たちに秘密で――――秘密で――――ッ!!」
シグレが拳を握り締めて震え出す。リュウトは使い魔から視線を逸らし、空を見た。
そしてぽつりと一言。
「――――――――なるほど、あれは良くない事だったのか……」
その瞬間、リュウトの背後で風が悲鳴を上げた。
「――――――――当たり前で…………しょうがぁああああああああああああああああああああああああッ!!」
「ぶべ」
風を鳴らすような速度でリュウトの頭に叩き付けられるクーラーボックス。
クーラーボックスを投げた体勢のまま大きく肩を揺らして息を整えるのは、これまた何とも言えない向日葵色の水着姿のエヴァだった。
アンジェリーナが視線で人を殺せたら、と真剣に思うプロポーションである。
「気付いてなかったのあなたは!? 普通に考えればすぐに分かるでしょ!?」
「――――――――普通……?」
普通って、何。
リュウトはエヴァに視線でそう訊ねた。
「う」
無垢なリュウトの瞳にたじろぐエヴァ。本当に悪い事だと思っていなかったらしい。まさに天然、なちゅらるぼーん女の敵だ。
管理局員としての知識や技能と引き換えに常識をどこかに置き忘れた男が、今彼女の前の前にいる。というより、教育って怖いなぁと思うエヴァである。
そのままエヴァを見詰め続けるリュウトと、その眼に頬を染めていくエヴァ。夏の海に相応しい甘酸っぱい雰囲気だ。
だが――――
「――――旦那様」
「っ!?」
突如じんわりと染み込む様に囁かれた言葉にリュウトはびくりと肩を震わせた。そして何とか動く頭を、ぎりぎりという音が聞こえそうな動きで声の発生源へと向ける。
「〜〜〜〜っ!!」
そこには、人の形をした別の何かが慈母の微笑を湛えて佇んでいた。
手には新しいスイカ。暑くて大変だろうと思ったらしく、大きめの団扇も一緒だ。ただし、あまりの握力に団扇の柄が折れてしまっているが。
さらに言うと、弧を描いた瞼から見える瞳が恐ろしいまでの無を感じさせる。
「――――――――エヴァさんと何をお話に?」
「――――――――」
ぷるぷると頭を振って自分の無罪を主張するリュウト。普通に話していただけなのに、何故こんな――――と内心悲鳴を上げていた。
例の件発覚以降、彼の細君は堪忍袋の緒に自ら切れ込みを入れるようになった。その理由に心当たりはあるリュウトだが、対処法が分からない。とりあえず謝り通しているが、別の女性と会話するだけで絶対零度にして絶対虚無の視線に射貫かれるのが最近のリュウトの個人的流行だ。
「――――――――私に話せないような事なのですか?」
「――――――――」
ぶんぶんと首を振るリュウト。何かを言えば絶対に怒らせると理解していた。
すでに怒っているという説もあるが。
「――――――――では、私に飽きましたか?」
「――――――――ッ!!」
全力で首を振るリュウト。頷こうものならこのまま一緒に海へ――――となる事確実な雰囲気だ。少なくとも、リュウトにはここで心中する勇気は無い。
「――――――――そうですよね、別に旦那様は私に何か言ってはくれませんものね」
「――――――――」
冷や汗と脂汗がリュウトを濡らす。魔法の発動を抑制すべくリクライニングチェアの下に配置されたガジェットドローンT型が、何故かその場から逃げ出そうとしていた。感情の無いガジェットドローンですら逃げ出すアンジェリーナの瘴気。リュウトの運命はあまり明るくないと思われた。
だが――――そんなリュウトの運命に一石を投じる人物が現れた。
「――――何やってるんですかぁあああああああああああああああああああああああっ!!」
「ちっ!!」
アンジェリーナが空から聞こえてきた声に舌打ちする。幾つもの計略を以てようやく"あれ"を本局に置き去りにして管理世界内の観光惑星のクルス・ミナセプライベートビーチまでやって来たというのに、こんなにも早く見つかるとは――――アンジェリーナは自分の迂闊さと未熟さを呪った。
やるなら徹底的にやるべきだったのだ。管理外世界に放置するとか、老人会の世話をさせるとか、屋敷の掃除をさせるとか。
アンジェリーナがそんな事を考えている間に、件の人物が慌ててリュウトに駆け寄った。
「お兄ちゃん! 大丈夫!? 生きてる!? 変な事されてない!?」
「見ての通りで――――」
「変な事ってなんですか、夫婦水入らずの旅行に他人が首を突っ込まないでください」
「水入らず? こんなに他人が居るじゃないですか! しかも新婚夫婦を引き裂くなんて、なんて鬼婆なのかと思いましたよ!!」
「鬼婆!?」
アンジェリーナは初めて言われた悪口に絶句した。小さい小さいと言われ続けてきた彼女、鬼婆は初体験だ。
しかしその衝撃から抜け出せば怒りが込み上げてくる。
結婚から十年。今まで戦い続けてきた敵の中で、ここまで自分を怒らせた人間がいたか。いや、いない。
「――――――――こ、小娘が……!」
「小娘? それはアンジェリーナさんの事でしょう。そんな水の抵抗の少なそうな身体で飽きられないはずがないじゃないですか。不思議ですねぇ、おかしいですねぇ、お兄ちゃんは別に小さいの好きって訳じゃないのに……」
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
落ち着け、自分よりも十歳以上年下の小娘の言う事だ。それに相手も露骨に大きいタイプじゃないじゃないか。それはつまり、リュウトの好みなんて実際あって無いようなものだという事。それに相手の身体で好き嫌いを決めるようなくだらない男を夫にしたつもりはないんだし、実際、自分には可愛い子供が四人も…………
「お兄ちゃん、子供何人欲しい? 五人でも六人でもわたし頑張るよ、家族は多い方がいいもんね」
「そ、そうですねー」
四人も――――
「わたしあんなに怒りっぽくないし、お兄ちゃんの事信じてるから」
「ありがとうございます……」
可愛い――――
「お兄ちゃんが言ってくれた言葉、今でも覚えてるよ。それをちゃんと叶えてくれるんだから、やっぱり大好きー」
「――――――――」
十年――――
「いーっぱい愛して愛されて、それが幸せっていうんでしょ?」
「――――――――さ、さあ……」
「もう! ――――まあ、いいや。これからずっと一緒なんだし、ちゃんと教えてあげるから」
「それは――――」
愛――――って、何だっけ。
「――――――――…………」
ごめんなさい姉様。やっぱり私は姉様の言う通りずっと子供っぽいままのようです。
――――――――うぉのれ小娘許すまじ……!! このアンジェリーナ・クルス・ミナセを敵に回してただで済むと思うなよ。
「――――旦那様、結婚式から私を連れ出してくれた時、一緒にいて欲しいって言ってくれましたよね?」
「それは副官として――――」
「言ってくれましたよね!?」
「言いましたー!!」
ふん、と鼻を鳴らすアンジェリーナ。勝ち誇った目で乱入者を見る。
彼女も管理局員としてリュウトの副官をしているが、席次は第六位、首席のアンジェリーナには遠く及ばない。それに副官としての能力ならアンジェリーナが圧倒的に上だ。
「――――――――」
「――――――――」
無言で睨み合う二人。
その間に挟まれたリュウトが真っ青になった。
「――――お兄ちゃん」
「は、はい」
乱入者の言葉に上擦った声で返事をするリュウト。内心、今すぐ世界が滅びればいいのにと思っていた。
「あの時、お兄ちゃん"が"わたし"に"プロポーズしてくれたんだよね?」
「ええと――――」
「そうだよね……!!」
「そうです! その通りです!!」
リュウトの回答に艶然と微笑む乱入者。アンジェリーナの額に青筋が浮き、その手がわなわなと震えている。彼女はリュウトにプロポーズされていない、それどころか愛の告白やそれに類する言葉も贈られていなかった。
「――――――――」
「――――――――」
再び無言で睨み合う二人。リュウトはリクライニングチェアから逃げ出そうと芋虫機動を始めた。
もぞもぞと動き、辛うじて椅子から落ちたリュウト。そのままひょこひょこと世界大戦勃発直前の現場から逃亡を図った。何とも情けない姿だが、これでも時空管理局の現役将官である。
女性同士の喧嘩は世界を滅亡させるほどの危険性を秘めている――――リュウトは父から教えられた言葉の意味を、最近身を以て理解した。使い魔と妻の喧嘩などまだまだ序の口、世の中には巻き込まれただけで安らかな死を望む争いが存在するのだ。
「――――――――いい気になって旦那様のベッドに潜り込んだだけでは足りませんか?」
「――――――――子育てと仕事の両立は大変でしょう? お兄ちゃんの仕事はわたしがしっかり補佐しますから予備役に戻ってくださっても結構ですよ?」
「――――――――あなたでは旦那様の突拍子のない行動に対応できないでしょう。知り合いの部隊を紹介しますから、そこで研修したらどうですか?」
「――――――――アンジェリーナさんももうすぐ三十路、身体は大事にしないと」
「――――――――」
「――――――――」
リュウトは無言になった二人から全力で遠ざかろうとする。縛られたままなのであまりにも遅い歩みだが、当人は真剣に逃げていた。
しかし、必死に這い進むリュウトの横を無言の二人が通り過ぎる。
「――――――――」
退路を封鎖された。
リュウトはぴたりと漸進を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「――――――――」
「――――――――」
無言の二人と目が合う。
その感情の一切を感じさせない瞳に、リュウトは背筋が凍る思いをした。
「――――――――ええと……」
「――――――――」
「――――――――」
何か言い訳を、と思うリュウトだが、こういう時になんと言えば怒りが解けるのか知らなかった。仕事であるならいくらでも言葉が出てくるのだが、プライベートとなると途端にへたれる、それがリュウトだ。
それでも何か言おうと口を開く。
「――――――――いっそ、二人で仲良く泳いできたらどうでしょうか? お互いを知れば、きっと仲直りできると思うんですが……」
「――――――――」
「――――――――」
無理だろうなぁと思いながらも言ってみるリュウト。だが、やはり二人は何も映していない瞳でリュウトを見るだけで反応しなかった。
嗚呼、多分死んだ――――リュウトは夫婦喧嘩で殉職する情けない自分に涙した。
「――――――――旦那様」
「――――――――お兄ちゃん」
できるなら、もう少し長生きしたかった。
「そもそも貴方が蒔いた種でしょうが! さっさとこの勘違い娘をどうにかしてください!!」
「大丈夫、わたしはお兄ちゃんを信じてるから。でも、でもね……わたしもヤキモチくらい許してもらえるよね……!!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
迫る二人の顔に鬼を見たリュウト。声にならない悲鳴を上げて砂浜を転がり始めた。
「うお、シグレが飛び込んだ。あ、エヴァが何やら野郎に向けて文句言って――――結局飛び込んだな」
四つ巴の戦場は、良介の視界の片隅で展開されていた。埋められて体を回す事ができない彼にとって、それは幸運だったのか不幸だったのか。
「ううむ、自業自得とはいえさすがに憐れだ」
時折、脱出を図り引き戻されるリュウトの姿が現れては消える。どうやら攻撃のほとんどはリュウトに向けられているらしく、その姿は現れるたびに傷が増えていた。
「それにしても――――――――明日は我が身か……はぁ……」
自分が全く同じ状況になるとは思えないが、似たような状況になら過去に陥った事がある。それが再び繰り返されない可能性など、彼が思っているより遥かに少ないだろう。
「――――むぅ、真剣に未開世界に引っ越すか」
「あ、あの……」
「でもなぁ、それでも厄介事はついて回るしなぁ……」
「良介? あの……私の番なんだけど……」
「ん?」
良介は自分を見下ろして困った顔をしているフェイトを見上げる。
ナイスなアングルと内心思ったが、顔色にも声色にも出さない。
「いいぞ、お前なら手加減を知っているからな。――――知っているからな……!」
「――――う……」
本気でやったら絶交してくれる――――良介の目はそう言っている。そんな瞳に負けたフェイトは得物の閃光の戦斧を握り締めた。
手を抜くんじゃない、手加減するだけだと自分に言い聞かせ、スタート位置に戻る彼女。だが、四つ巴の乱戦場からアンジェリーナの声だけが響く。
「――――って、逃げないでください! 旦那様! じゃなくて、ルール変更。ミヤモトさんに一撃を加えられた場合、その看病は攻撃を当てた者の仕事とします! 部屋も豪華水上コテージに変更可、さらにオプションで一週間のミヤモトさん付の休暇をプレゼント。さあ、皆さん頑張りましょう…………ってだから逃げるなぁあああああああああああああッ!!」
空中回転キックを自分の旦那の背骨に叩き込んだアンジェリーナの言葉で空気が変わった。
巧く手加減して良介に怪我を負わせないようにと考えていた数名まで、そんな気遣いのできる精神状況ではなくなってしまったのだ。
誰もが真剣に良介を狩る構えだ。どこかで感じた命の危機、再来である。
良介は自分の血液が下がる音を聞いた。
「――――――――痛くしないから、動かないで良介」
「痛くしないって、一撃で意識を刈り取る気だろう!? 目が初めて会った頃みたいになってるぞ!!」
「――――――――今度こそ、逃がさない……」
「ちょ、ま、え、ぎゃあああああああああああああああああああああああああああっ!!」
良介は未だかつて無いほどの危機を、この真夏の太陽照らす砂浜で感じた。
スイカ割りという名の公開処刑一順目を生き抜き、二順目の順番を決定するくじ引きの結果を待つ良介の前に、ぼてっという音を立てて蓑虫が落ちてきた。
言わずもがな、リュウトである。
引掻き傷など可愛いもの、打撲やら裂傷やらで惨憺たる有様だ。
「――――――――ご無事で何よりですね」
「自分の姿を見て言え」
「――――――――」
良介の的確な突っ込みに黙り込むリュウト。傷に砂が入り込んで痛かった。
「――――――――海、綺麗ですねぇ……」
「憎らしいほどにな」
「――――――――」
良介の言葉に、リュウトが乾いた笑みを浮かべた。
「――――――――なるほど、海ですか」
「は?」
まるで脈絡の無いリュウトの言葉に間抜けな反応を返す良介。しかし、リュウトはひどく真剣に海を見ている。
「――――――――」
そして背後の乱闘を振り返り、しばし逡巡。
「――――――――よし」
再び海を見て、頷いた。なにやら目が怪しい。
「おい? どうした?」
良介は怪訝な顔でリュウトを見た。いや、それ以前にそれしかできない。
「――――――――ちょっと、泳いでみようかと」
「その格好でか? 溺れるぞ、多分」
「――――――――ふふふふふふふふふふふふふふふふ…………現世に残るくらいなら……」
「っておーい! 今なんつった!? あの鋼鉄の神経を持つというお前が痴話喧嘩ごときで……」
良介が必死に現世への復帰を促す。ここで死なれては面倒事が大量発生する事確実だ。
しかし、リュウトは砂浜に頬をつけてさめざめと泣いた。
「――――――――女性の喧嘩、私には辛すぎる……」
「弱っ!?」
場合によっては数千の人間を率いる管理局の将官が、妻の喧嘩に巻き込まれて追い詰められる。世の不思議だ。
「――――――――と、いう訳で、ちょっと往って来ます」
「ちょっと、待てぇえええええええええええええええええええええっ!! 早まるな! ここでお前に逃げられたら俺はどうなる!?」
「――――――――ふ……」
「笑うなぁあああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
にょきにょきと頭を動かしてリュウトの行動を阻止しようとする良介。ただ悲しいかな、生首には何もできないのだ。というか、入水自殺一歩手前の男と砂浜に埋められて身動きのできない男、客観的に見れば相当嫌な光景だ。
良介はさらに抗議を続けるが、リュウトはそのまま海に向けて転がり始めた。
AMFの影響下から抜け出した今、彼を止めるものはない。
「本気で往きやがった!? くそッ!! アニー!! 野郎が逃げたぞ!!」
「え!?」
四つの酷い顔が同時に良介を見る。
そして、ゆっくりと視点を海に移動させ、今まさに母なる海へと還ろうとしている男の姿を発見した。
「旦那様ッ!?」
「主殿!!」
「リュウトぉおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
「お兄ちゃん!?」
ダッシュ。
四人は砂を蹴立ててリュウトを追う。
だが――――
「――――――――加速」
彼女たちの手が届く直前、海に飛び込んだ蓑虫が人間型魚雷となった。
AMFの呪縛から解放された今、リュウトを止められるほど高い水中機動能力を持つ人間はここにはいない。まさに汎用型、万能型の面目躍如である。
「くッ! 油断した!」
「あ、主殿……!」
「――――――――チッ!」
四者四様に悔しがるリュウトラヴァーズ(たった今良介命名)。周囲にどす黒い瘴気が渦巻き、良介は冷や汗が止まらない。
「――――エヴァさん、軌道上に不法侵入している艦の罪は問いませんから、うちのアホ旦那を捕捉追跡してください。多分、惑星上からは逃げられません」
「――――分かったわ、でも……」
「――――ええ、分かっています。今度、旦那様お貸しすればよろしいのでしょう?」
「――――――――交渉成立」
エヴァがどこからか通信機を取り出す。
良介には、三人の目が狩人のそれに見えた。
「エヴァより『カラドボルグ』。今、海岸から逃げた次期代表候補をトレースなさい。――――は? UMA? 違うわよ! それが次期代表候補のリュウト・ミナセ!! うちの新開発のワイヤーでふんじばっといたのに、逃げたのよ!!」
未確認生物扱いのリュウトに少しだけ同情するが、それ以前にこれだけの女性陣に追われて未だ生きているあのしぶとさに羨望を抱く良介。自分の事は丸ごと棚に上げている。
「――――いいからさっさとやりなさい!! 新装備の機密なんてどうでもいいの! あいつを逃がしたら全員生身で大気圏突入させるわよ!?」
エヴァの宣告に『カラドボルグ』が動いた。最新鋭の探知機群が全力稼働し、海に逃げ出した人間型魚雷を捕捉、その情報はアンジェリーナたちリュウトチェイサーにリアルタイムで提供される。
「――――ふふふ、待ってなさい提督……! 昔のように私から逃げようというのなら、私も昔のように提督を捕まえさせてもらいます!!」
モニターを睨みながら笑みを浮かべるアンジェリーナ。
「主殿ぉ……どうしてわたしもつれていってくれないのですかぁ……うっうっ……こうなったら、主殿をこの手で…………!」
泣きながら月光を握り締めるシグレ。
「くっくっく、この私から逃げられると思うなこの変態執務官! 初対面であなたが奪っていったものの重さ、あなたの生涯全部を使って教えてあげるわ!!」
背景に紅蓮の炎を纏ったエヴァ。
「お兄ちゃん、ちょっと多すぎない? こんなにいるなんて……! ちゃんと理由を聞かせてもらうから!!」
ミスラを海の彼方に向けて胸を張るリュウトチェイサー最後の一柱。
そして、彼女たちは蓑虫提督に向かって宣言する。
≪絶対に、逃がさない……!≫
今ここに、壮絶なる家族戦争の火蓋が切って落とされた。
まず初めにリュウトが上陸した場所は、良介の埋められている海岸から少し離れた無人島だった。
そこで彼は追い掛けてきた本妻と一対一の激闘を繰り広げ、辛くも勝利する。
背後から聞こえる「この浮気者ぉおおおおおおおおおおおおッ!!」という怨嗟の叫びを耳を塞ぐ事で耐え抜き、次の戦場へと旅立った。どうしてこんな事になっているのだろうという疑問を胸に秘めて。
次に空から降り立ったリュウトが見たものは、転送ポート前に陣取るエヴァの姿だった。ヘンリクセン・セキュリティ・サービスの屈強な戦士たちを従え、リュウトに降伏を迫った。
エヴァを伴侶としてヘンリクセンとクルスの融合を為せという現代表直々の降伏勧告メッセージを聞いたリュウトだが、これ以上の女難はご免こうむるという考えの下、その申し出を固辞した。その選択こそが最大の女難をもたらすと気付かない辺り、リュウトのリュウトたる所以であろう。
メッセージを聞かせている間は恥ずかしげに頬を赤らめていた彼女だが、リュウトがあっさりと自分をフった事に激怒。修羅の形相で背後の凶戦士たちに討伐を命じる。
だが、リュウトは司令塔であるエヴァを無力化する事で事態を打開する。その後、背後からの「このセクハラ野郎ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」との怒り半分恥じらい半分の叫びを耳を塞いであー、と大声を上げて潜り抜け、別の転送ポートへと逃げ出した。
三番目にリュウトが立ち寄ったのは、観光名所として名高い花畑だった。この近くにある転送ポートを使おうとした彼だが、花畑に潜んでいた自らの使い魔に捕捉される。
泣き落としという今までに無い攻撃方法に戸惑うリュウトだが、昔のように頭を撫でると云う超高等技法により無力化。顔を幸せそうに蕩けさせ「にゃあ」と鳴いてへたり込んだシグレを背に、彼はさらなる逃亡を続けた。
そして最後に立ちはだかった少女を前に、彼は敵前逃亡というあんまりな選択をした。姿を確認した瞬間逃げられた少女は一瞬呆け、次の瞬間、地獄の鬼と化して追跡を開始するも逃げ慣れたリュウトを捕らえる事はできなかった。
結局散々な目に遭って彼女が得たものは、リュウトの"彼女はちょっと怖い"という評価だけだった。全くいいところ無しである。
そして、四人と連続で戦ったリュウトもやはり無傷ではいられなかった。只でさえも精神的に追い詰められた状態であったのに、さらに物理的にも追われるという状況。彼は四人目の追跡者を撒いたところでぶっ倒れ、そのまま数時間放置される。
最終的には自力で宿泊施設に戻ったが、そこで待ち受けていたのは、彼の精神をさらに追い詰める光景だった。
ちなみに、第一回良介争奪スイカ割りに見える公開処刑は――――
「えーい!」
「あいたー」
二順目先鋒、ヴィヴィオの勝利で幕を閉じた。
良介がわざと自分の頭をヴィヴィオの持っていた棒にぶつけたという証言もあるが、子供相手に本気でそれを追求できる人間はその場にはおらず、そのままヴィヴィオ勝利という事で落ち着いた。
良介とのお泊りを喜ぶヴィヴィオ。慌てて同伴を申し出た保護者二人であったが、良介の拒否とヴィヴィオの不満げな顔に撃墜された。
かくして、二人の男の戦いは幕を閉じたのである。
「――――――――ああ、温泉は良い……」
「――――――――珍しく意見が合ったな、俺としてはここに住んでもいい」
「――――――――それは施設が壊れそうな騒動を招くのでお断りです」
「――――――――くそう、ブルジョワめ……」
夕日の沈む海を眺めながら、二人の男は素っ裸で温泉に浸かっていた。タオルを湯船に浸ける事はマナー違反である。
「それにしても、ヴィヴィオさん勝利に持っていくとは……」
「ふ、俺の頭脳に不可能は無い」
「いえ、ただ…………ペ――――」
「言うなっ!! 言ったら逝かす!!」
本気で逝かされそうなので、リュウトはそれ以上何も言わなかった。男には護らねばならない最後の砦というものがあるのである。
「まあ、君とお泊りできると喜んでいましたよ。必要なものがあったらうちの従業員に言ってください。私から便宜を図るよう指示をしておきますので」
「お、悪いな。じゃあまずは、軽く花火でも……」
「いいですねぇ……、早速手配しましょう」
「あ、打ち上げな」
「ええ、もちろん。とりあえず千発もあればいいでしょうかね」
「まあ、そんなとこだろ」
何気にぶっ飛んだ会話だが、本人たちは至って真面目だ。完全に脱力しきった身体を温泉に沈め、夕日を眺めている。
「――――――――そういや、レティって名前変えたのな」
「正確に言うなら、姉さんとの存在干渉を防ぐために世界がレティさんを別人だと認識したんでしょうねぇ……」
「お前の孤児院に引き取られた孤児だって?」
「そういう歴史になっているようです。名前はオペラ・クロフォード、レティ姉さんとは縁も所縁もありません」
「見た目はそっくりだけどな」
「遺伝子は別物ですよ。まぁ、初めて紹介した時は一同驚いていましたが」
リュウトはその時の様子を思い出して含み笑いを漏らす。レティは失った若さを突き付けられて軽く落ち込み、リンディは親友そっくりのオペラに驚きっぱなしだった。
無論、その場にいた全員も似たような反応を示した。
「巻き戻りにより『アンラ・マンユ』出現前の時間軸に戻ったこの世界、人々は記憶も巻き戻され、あの戦いを覚えているのは"方舟"影響下にあった私たち四人だけ」
「リンディはあっちでひーこら言いながら勉強してる見たいだな。レティに任せてた頭脳労働しなくちゃならんし」
「『アンラ・マンユ』の存在消滅に伴い、"方舟"も今では完全な用途不明古代遺失物です。最初から『アンラ・マンユ』は存在しなかったというこの世界。"方舟"の存在は最後のイレギュラーでしょうね」
「向こうの世界にゃ『アンラ・マンユ』の歴史が残ってんだろ? 別次元ってのは、歴史も別なのか?」
「知りませんよそんな事。私だって時間の何たるかなど分かりません」
命と時間。それは古来より神の領域として認識されてきた。だが、様々な技術の発展により命は神のものではなくなった。
それに対し、未だ時間というものは人間の手に余るものだ。"方舟"とて副次的効果として次元の壁を越える能力しかない。タイムマシン、航時機などと言うものは次元世界のどこにも存在しないとまで言われているのだ。
或いは古代遺物としてどこかに眠っているのかもしれないが、少なくとも現代の人間が時を超越する術は無い。
「今は"方舟"を使用する事ができる人間が四人いますが、我々が死んだ後は分かりませんね」
「最後の、ってのはそういう意味か……」
良介は頭の上に乗せた手拭を直し、大きく溜息を吐いた。
彼は通常の人間とは少し違う時間の流れの中で生きているが、それでも有限であることに違いは無い。誰が最後になるにしても、"方舟"はその瞬間にイレギュラーでは無くなるのだろう。
「いえ、世界の残した猶予期間と考えてもいいのかもしれません」
「――――何の猶予期間だよ」
リュウトは一瞬だけ考え込み、答えを口にした。
「――――――――神を望むか、人を望むか」
良介はリュウトを一瞥して目を瞑り、手拭で瞼を塞いだ。
「――――――――決まってんだろ、そんなもの」
「――――――――ま、そうですね……」
リュウトも空を見上げて苦笑いを浮かべ、同じように目を閉じた。
「で、女湯はどうなってる?」
「――――――――いつの間にやら同盟が締結されていました。私はついに敵に回してはいけない存在を敵に回してしまったようです」
「お前っつー超弩級の天然スケコマシ相手だからな、納得できなくはない」
「ひどい言い掛かりだ」
「ひどくねーよ、時空管理局のハーレム野郎って言ったら子供でも知ってるぞ」
「――――――――」
「――――いや、半分冗談だから温泉で入水自殺はヤメロ」
「――――――――なぜこんな事に……」
「いや、それが理解できないからだろ」
「――――――――ああ……」
納得したという様子のリュウトに、良介は深く深く溜息を吐いた。疲れを癒すために温泉に入っているというのに、これでは余計に疲れる。
だが――――
「――――君も似たような評判が……」
「――――――――言うな……マジで泣きたくなるから……」
この温泉は、ちょっとだけしょっぱかった。
「泣くくらいなら早く誰かに決めたらどうですか?」
「決めたのに修羅場脱出できてないお前を見るとなぁ……行動する気も起きん」
「――――――――そうですか」
そう言われると返す言葉が無いリュウト。一日たりとも女難に遭遇しない日が無いのが彼の人生だ。それ故、ハーレム野郎という二つ名にも男性からの同情が多分に含まれている。
そうでなければ、今頃リュウトは管理局内で飢狼と化した独り身男性局員に袋叩きに遭っているだろう。そんな悲劇が起きていないのは、単にリュウトの実力を恐れての事ではない。あれだけ女性にひどい目に遭わされていながら、それでもなお生存しているリュウトに敬意を抱いているからだ。
ただし、良介は間違い無くいつかは袋叩きに遭う。誰と決めない限りは、であるが。
「ま、家族サービスはいい事だ。俺にちょっかい掛けてくる長女も最近は大人しいしな」
「しかし、最近は毎日家に帰るもんだから、アニーさんが未知のウイルスに侵されたんじゃないかとパニック起こしましたよ。困ったものです」
「――――いや、月一でも家に帰らない仕事の虫がマイホームパパになったら誰でもそうなるだろ」
「そういうもんですか」
「そういうもんだ」
二人は一切目を合わせず会話を続ける。
「君こそ、最近は色んな人に顔見せているみたいですね。うちの要人警護チームから報告来てますよ」
「個人情報駄々漏れはもう慣れたから何も言わんが、余計な人間に余計なこと言うなよ」
「分かってますよ。まあ、私が言わなくてもフィリス先生が喋るでしょうが」
「――――――――医者の守秘義務は?」
「え、君にそんなものあるんですか?」
「――――――――うわーい、否定できねぇええええええええええええええええええッ!!」
ざぶざぶとお湯を掻き雑ぜて絶叫する良介。彼の人生もなかなかに起伏に富んでいる。
「桃子さんがうちの母親に息子自慢してるようで、実家には帰ってこないのかと昨日文句が」
「知らん」
「冷たいですね、君が原因なのに」
「うっせい! またあんな事になる前に借りを返しとかないと気分悪いだろうが!!」
「ああ、確かに」
借りの多い良介の事だ。それも日々増えていくのだから一生掛けても返しきれるか怪しい。もっとも、当人がそれに気付いているかは不明だが。
「とりあえず、監視体制は強化しておきました。少しくらいは避難時間を稼げるかもしれませんよ」
「――――――――そうかい」
「嬉しくないですか?」
「嬉しくは無い。あれをもう一度やれってのは拷問だぞ」
「ふむ、確かに」
リュウトも二度目は遠慮したい。
「降格されたお前はちょっと残念だろうがな」
「降格じゃなくて、昇進した事実が無くなっただけですよ。今度は本局艦政統括官などいう肩書きを押し付けられたので、あまり苦労は変わりませんが」
「あの老人会、絶対お前を後継者に仕立て上げるつもりだぞ。三人分の仕事する練習しとけよ」
「――――――――嫌な事言わないでくださいよ、本当になりそうですから」
「いや、なるだろ」
同世代の管理局員の中では、間違いなくリュウトが出世頭だ。その後ろにははやてたちもいるが、それはリュウトから見て一世代以上後になる。彼女たちが管理局を引っ張る頃には、リュウトは完全に隠居しているに違いない。
「君こそ、その頃まで今のままでいるつもりですか?」
「――――――――知らね、その時にならなきゃな」
「ふうむ、まぁ、刺されないようにしてください」
「それはお前だ」
「はっはっは」
別の汗がたらりとリュウトの眉間を滑り落ちた。最近アンジェリーナが危険な気配を発し始めている事に気付いていないはずが無い。そろそろ平身低頭土下座でもして決着を図るべきかと思い始めていた。
「アニーは情が深い分おっかねー女だぞ。レティにプロポーズなんぞしたお前のミスだ、くれぐれも俺を巻き込むな」
「無理でしょう。最近、アニーさんは良介君を共犯だと認識し始めているようですので」
「――――――――さらば、平穏なる人生」
「申し訳ない」
そう思うならどうにかしろ――――間違いなく言っても無駄なそんな事を、良介は辛うじて飲み込んだ。
のぼせそうになると温泉から出てマッサージを受け、また温泉に戻ってさらにのんべんだらりと過ごす二人。すでに夕日は完全に沈み、四つの月のうち二つがその頭上に輝く時間となった。
それでも二人は温泉から出る事無く過ごしており、途中で現れたエリオがキャロによって女湯に拉致されても完全に放置だ。それどころか生暖かい視線でエリオを見送り、素直な子供にちょっとした不信感を植え付けた。
「あ〜極楽極楽……日本人万歳」
「ここは日本じゃないですけどねぇ……」
女性陣はすでに温泉からあがり、ホテル内にあるショッピングモールに出掛けている。二人が温泉から出なかったのは、それも原因の一つかもしれない。男にとって女性の買い物は恐ろしいほど長く、疲れるものだと二人はその経験から知っていた。
「ファッションショーでもやってますかねぇ、今頃」
「店に迷惑掛けなきゃいいがな」
「こういう場所の店は、大概そういう客が狙いです。というか、うちとヘンリクセンの系列ですから、アニーさんたちは色々知ってます。案内には事欠きませんよ」
「そういうもんか」
「そういうもんです」
二人は夜空を見上げてやる気の無さを主張する。完全にだらけきっていた。
「――――――――ん?」
「どうした?」
しかし、リュウトが空に浮かぶ月に異常を発見する。月の形が歪んで見えるのだ。彼は目を細めて月を見詰め、それが空間の歪みによる光の屈折であると気付いた。
そして、それに伴う新たな客人の訪問にも気付いた。
「――――――――私はあがりましょうかね。邪魔でしょうし」
「は?」
リュウトは目を丸くする良介を完全に無視して脱衣所へと向かう。
ただ、扉の手前で振り返り、良介をなんとも言えない顔で見た。
「――――――――のぼせないように。いろんな意味で」
「いや、意味が分からん」
「では、お先に失礼します」
「おーい、人の話聞けや」
そろそろと温泉から出ていくリュウト。良介はその行動に首を傾げるしかない。
「――――何だ? 一体」
良介はリュウトがしていたように空を見上げる。
「――――うん? 月が……」
だが、彼はそれが何であるのか気付かない。
「――――――――あ、何かすんげー嫌な予感」
ただ、それが自分にとって何らかの事象を齎す存在である事には辛うじて気付いた。慌てて温泉から出ようとする良介。しかし――――空の歪みがある一点を超える。
その瞬間、歪みから一筋の光が飛び出した。
「――――――――げ」
思わず腰が引ける良介。それでも光は良介に向かって一直線に飛来し、温泉に巨大な水柱を作り上げた。
「やっほー!! リンディ参上!! ――――ってあっつーい!!」
「やっぱりぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいッ!!」
とりあえず叫ぶ良介。
予想通り、彼に面倒事を齎す女神の登場だった。
「服、いつ頃乾くかなぁ」
「――――――――」
良介はリンディの呟きに何も答えなかった。
それどころか、彼女の姿を完全に視界から外している。
「わたしって、こっちの世界に一時間くらいしかいられないんだけど……」
「――――――――」
やはり答えない。
さらに言うなら、何やらぶつぶつと念仏らしきものを唱えている。
「ねえ、何でこっち向かないの?」
「――――――――!!」
頬を膨らませたリンディが良介の背中に張り付く。世間の大多数の男が一生に一度は夢想する至高の感触がそこにあった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!」
温泉は手拭いタオル禁止だなんて言った先人はどこのどいつだ。ちょっと感謝するけど、やっぱり殴る。
良介は自分の太ももを抓って煩悩と戦い続ける。『濡れた衣服はこの中に byリュウト』と書かれたメモが貼り付けられた脱衣籠の存在を考えると、リンディが元の世界に帰るまでこの温泉には誰も来ないだろう。リュウトは変なところで気を遣う。
(これはあれか、俺の自制心を試しているのか!? それとも俺の理性と本能のどちらが強いか確認したいと、そういう事かリュウトぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!)
心の中で叫ぶ良介。
その間にも例のアレが背中に押し付けられる。以前にキャロとプールに行ったときにも似たような状況があったが、その時とは破壊力が段違いだ。すでに良介の理性は本能に押され始めている。
「――――おにーちゃーん? 聞こえてる?」
「――――――――」
聞こえている。そして声を上げるたびに動く二つの核弾頭に国土を焼かれまくっている。
本土決戦なんてクソ食らえ、戦争反対、だから俺に平穏をくれ。
「むう……」
リンディは段々と猫背になっていく良介にむくれながらも、何やら思案を始める。やがて彼女が出す結末は、おそらく良介を地獄の底にまで叩き落とすだろう。
「――――――――こういう時の対処法方がレティのマル秘ノートに書いてあったような……」
「――――ッ!?」
情の深さではアンジェリーナに勝るとも劣らないあの新妻、そのマル秘ノートという危険な書物がこの世に存在した事に衝撃を受ける良介。おそらくあの天然男を落とすために、人の尊厳を無視したアピール方法が書かれていたに違いない。
良介は慌てて振り返ろうとするが――――
「こういう時は――――"徹底的に当てる!!"」
「〜〜〜〜ッ!!」
タイミングが最悪だった。
全身で良介の身体に圧し掛かろうとしたリンディに対し、良介は振り返った直後という不安定な体勢。受け止めきれる訳が無い。
「あ」
そんな間の抜けた声は誰のものだったのか。
二人は揉み合うようにして温泉の中に消えていった。
「――――――――ふむ、やはり良介君の夕食は後で持ってきてもらいましょうかねぇ」
虚空をぼんやりと見上げていたリュウトは、オーナーの接客という大役を任され緊張しっぱなしの仲居に、一人分の夕食を取っておくよう頼んだ。
宴会場はすでに戦場と化しており、リュウトの専属として置かれた仲居以外は、全員お客の相手に東奔西走している。
「――――なのは君たち、二十歳になってましたっけ?」
すでに出来上がった三人娘を眺めながら、リュウトは首を傾げる。スバルたちはミッドチルダ出身だから別だとしても、あの三人は二十歳以下の飲酒厳禁だ。法の番人である時空管理局員がそれでは市民に示しがつかない。
だが――――
「――――今の彼女たちは言葉が通じる状態ではなさそうですね」
なのはとフェイトは娘に良介との一週間をとられ、はやてに至ってはここまでいいところ無しである。ほとんど自棄酒呑みの三人は、今グリフィスを弄っているところだった。
「ていとーく……助けてくださーい……」
弱弱しいグリフィスの声。リュウトは甥と呼んでも差し支えない後輩から目を逸らした。
「ああ……!」
何やら悲しげな声が聞こえた気がしたが、リュウトには何も聞こえない。聞こえないという事になっている。
そうでなければ、今の状況から逃避できないではないか。
「――――旦那様、はい、あーん」
「お兄ちゃん、こっちの方がおいしいよ!」
「あ、主殿……こちらの煮つけなどいかがでしょうか?」
「――――た、食べないなら別にいいわよ! でも、ほら……これってあなた好きだし……」
差し出された四つの美食。
だが、味など今のリュウトに分かるはずも無い。
「――――――――」
さて、どれから食べるのが一番被害が少なく済むのか――――リュウトは悲壮な覚悟を決め、人生最大の難問に立ち向かった。
お湯から顔を出した時、目の前にあるのは翆玉色の瞳だった。
濡れないようにと頭の上に纏められた髪から零れる同じ色の解れ髪と、熱を帯びて洩らされる吐息は年齢不相応の艶を、だが、その表情と瞳は年齢よりも幼い無垢な印象と彼女から溢れる輝かしいまでの生命力を、それぞれ良介に認識させた。
「――――――――」
近い。
そう思った時には、彼はリンディの頬に手を伸ばしていた。
魅入られたと言ってもいい、ただ、これが目の前にあるのに触れないのは損だと思った。
「――――おにぃちゃん……?」
首を傾げるリンディの身体を、汗や湯の玉が滑り落ちる。
しかし良介がその光景に抱いたものは、刹那的な愛欲ではなくもっと温く穏やかな何かだった。
「――――――――」
クライド・ハラオウンがかつて手に入れたものが、別の形で良介の前にあった。
この翠玉の女神に永遠に微笑んでもらえる権利と、そして彼女を護る騎士の役目を彼は勝ち取ったのだ。
それは同じ男として純粋に羨ましいと思うし、ある意味では尊敬さえできる。これほどの存在を手に入れ、今なおこちらの世界のリンディに愛され続けているのだから。
「――――どうしたの?」
欲、そう言うのかもしれない。
誰かが、自分以外の誰かがこの存在を手に入れ、永遠にその瞳に自分の姿を見る。文字通り住む世界が違う二人にとってそれはおそらく確実な未来だが、それそのものが赦し難い事に思える。
何故、今自分しか映していない。自分だけを映したいと願っているその瞳を誰かに譲ってやらなくてはならないのか。
それが熱に浮かされた意識の弾き出した答えであっても、今の良介にとっては唯一の答えだった。
「――――――――」
「――――ぁ……」
引き寄せる。
全身で触れると、お互いに何も纏っていない身体同士が、各々の鼓動と体温を交換し合うのが判った。
それなのに感じるのは、本能的で攻撃的な欲望ではなく、ただもっと触れたいと思う子供のような曖昧な想い。
「――――――――」
「――――――――」
先ほどよりも近くなったリンディの瞳が、震える瞼に隠される。
期待するような、同時に、それ以上に怯えるような震え。良介はそこで始めて初歩的な情欲を憶えた。
望み、望まれる事だと判っている。ただ、誰かに対する裏切りのような気がして、良介は一歩を踏み出せない。
「――――――――」
それでも、リンディは待っている。
時間が経つにつれ怯えの色が濃くなっていくのが良介にも分かった。ただ、目を開けて良介を見る事ができないでいるのだろう。
拒絶される恐ろしさを良介が理解できない訳が無い。だからこそ、彼はゆっくりと顔を寄せていく。
「――――――――」
裏切りであるはずが無い。
これを裏切りと思うような人間が、今まで彼を支え続けられたはずは無い。
「――――――――」
そう思うしかできない自分が何とももどかしいが、のぼせたようにぼやける意識ではそれ以上何も考えられなかった。
そしてそれすらも、リンディの吐息を自分の唇で感じた時に思考から消し飛んだ。
「――――――――」
そして、触れる。
良介には、感じた感触がどこか夢の中の出来事のように思えた。
「――――で、私の忠告は無駄になったと」
「――――――――」
リュウトは部屋の真ん中に敷かれた布団に向かってぼやく。大の字に寝かされた良介はその言葉に反論できずに黙り込んだ。
風呂場に倒れていたところを救助された良介。その時は完全にのぼせていた。
「一体どちらにのぼせたのでしょうかね?」
「――――――――」
良介は窓際に座るリュウトを見ようとしない。
それどころか、完全にいないものとして無視している。
「ヴィヴィオさんとのお泊りは明日から一週間となります。良かったですねぇ、あの子が駄々を捏ねるタイプじゃなくて」
「――――――――」
今頃母親二人と一緒に寝ているであろうヴィヴィオだが、良介が倒れたと知った時は涙さえ浮かべていた。お泊りなんてしなくていいから元気になって欲しいとまで言ったヴィヴィオに対し、リュウトは柔らかな笑顔で明日からの宿泊プランを提示したのだ。
「とりあえず、明日からの子守に備えて早く寝てください。私もさっさと部屋に戻ります」
「――――――――」
やはり返事は無い。
だが、リュウトはそんな良介の態度に気分を害した様子も見せず、軽く肩を竦めて出口へと向かう。
しかし、扉のノブに手を掛けたところでリュウトは一度だけ立ち止まった。
「――――彼女、おそらく今回限りという訳ではないでしょう」
「――――――――」
「一応言っておきますが、次元の壁を超える事はある程度の技術があっても危険です。それをおして君に会いに来ているという事、くれぐれもお忘れなきよう」
リュウトはそのまま部屋を出て行った。
残された良介は天井の木目を数えながら、大きく息を吐いた。
「――――――――分かってるっつーの……」
どいつもこいつも自分より他人だ。
やはり、どの世界でも人間の本質は変わらないのかもしれない。
「――――――――ふう…………今度は俺が行くか……」
そうして驚かせるのも悪くない。
今日はゆっくり話をする時間も無かったから、レティの近況なども話してやろう。
「――――――――寝る……」
明日からはまた忙しくなる。
さっさと寝て体力を回復するべきだろう。
「――――――――」
寝返りをうって窓の外を見る良介。
そしてしばらく経った頃、ある事に気付いた。
「――――――――そういや、あいつ部屋に帰るって言ってたな……」
良介が呟いた刹那、地響きが何処からか伝わってきた。
「――――――――」
さらに聞きなれた数名の甲高い叫び声。
爆発音と共に先ほどまでこの部屋にいた男の悲鳴も聞こえてきた気がしたが、良介は懸命にも聞き流した。
どうせ、一人部屋に引き篭もろうとした奴を、示し合わせた訳でもないのに同時に襲撃した四人がいただけだ。そして、原因となった人物が盛大に巻き添えを食った。
「――――――――」
女神とは得てして嫉妬深くヤキモチ焼きだという事に、あの男は一生気付かないのだろう。そして、良介はその騒動に巻き込まれ続ける。
「――――――――アホらし」
どうせ何をしても巻き込まれる時は巻き込まれる、ならば少しでも体力を残しておく事が肝要だ。
良介は布団を被って騒音に背を向けた。
そして、人々が懐かしさを覚える程度に時が過ぎ去った頃。
「ねぇかあさん、この人たちだれ?」
「え?」
彼女はリビングから聞こえてきた息子の声に、皿を拭いていた手を止めて視線を巡らせた。
母親が自分に目を向けている事を確認して、息子は手に持ったそれを示した。
「ほら、このアルバムにいる人たち」
「――――あら……」
キッチンからリビングへと移動しながら、彼女は息子の持つそれが二十年以上も前に撮られた写真であると気付いた。
そして、そこに映っている人物にも。
「懐かしいわね……」
彼女は息子が持ったままのアルバムに指を滑らせ、二人の男と幼い彼女、そしてその親友を撫でていく。
「かあさん?」
息子が母親の様子に首を傾げる。
彼は、今母親が浮かべている表情を見た事が無かった。いつでも落ち着いた笑みを絶やさない彼女が、どこか幼げな印象を持つ笑みを湛えていた。
「――――これはね、わたしとわたしのお友達。あとはそのお友達の旦那さんと……」
幼い女童、長髪の男と指差して息子に示す。
そして三人目、目付きの険しい若い男を指しながら、彼女は息子に微笑みかけた。
「――――――――わたしにとっても、多分あなたにとっても大事な人」
「ぼくにとっても?」
「ええ、おそらくこの人がいなかったら、あなたはここにいないわ」
「そうなんだ……」
母親の言葉は、複数の意味を含んだ曖昧なものだった。だが、息子は写真の男に興味を抱き、それに気付かなかった。
「――――このひとたち、いまは何してるの?」
「さあ? 随分会ってないから良く分からないわ」
母親はそう答えながらも苦笑した。何をしているかは分からないが、おそらく今日も騒動の中心にいるだろう。
「会いたくないの?」
「――――そうね、もうしばらくしたら会いに行こうかしら」
彼女はそう言って窓の外を見た。
浮かぶ月はあの日のよう。ただ、天に昇る虹桜はあの戦いから一度も見ていない。
「――――――――」
あの世界では、今年も桜が咲いているのだろうか。
彼女は、一度だけ見た彼の故郷の風景を思い出していた。
魔法少女リリカルなのは―――くらひとSSS 特別編―――
―孤独の剣士と白の剣聖 StrikerS episode EX―
〈二人の戦士と二人の魔法少女〉
FIN
〜あとがき〜
皆さんこんにちは、悠乃丞です。
なんとかエピローグまで書き終えました。これも皆さんのご声援の賜物です、本当にありがとうございました。
予想通りあまり長くない(個人的主観)程度の長さとなり、これで劇場版は幕となります。
何処が魔法少女?という関係各所の突っ込みが聞こえてきそうな劇場版ですが、元々の作品が魔法少女という名のSFっぽいのでこういう話になりました。だって、ビーム砲の付いた艦船が出てくる時点でSF…………
書いている最中はマクロスFのO.S.T.をローテーションで流してテンションを引き上げていましたが、その前は某銀河の英雄伝説に倣ってクラシックを流しまくっておりました。やはり音楽はいいですね、テンション上がりすぎて変な内容になり一歩進んで二歩戻る的な書き直しも多発しましたが。
さて、ここで拍手返信と参りましょう。
※相変わらず読み応えがあってオレ好みでした〜
エピローグ楽しみにしてます〜
>ありがとうございます。喜んでいただけて幸いです。作品の長さに関しては色々な意見があり、長すぎる場合には一話を複数に分けるという案も検討中ですが、全体的には多分長いままだと思います。
※ただ一言・・・泣いた!!
>な、泣きましたか……お礼を言うべきか分かりませんが、ありがとうございます。自分の作品を読んで自分で泣くという事は多分私はないので、そう言って頂けると励みになります。
※大佐!!ミストラル!!…何故でしょう,
無性にガンバスターが思い浮かんできたのは私だけ?
>感想ありがとうございます。ミストラルはフランス海軍の艦から名前を頂きました。大佐に関してはこれといって誰かをイメージしたという事はありませんが、古き良き海の男です。ちなみに私は、ガンバスターは某SRWでしか知りませんので、今度機会があったら見てみようと思います。
以上、拍手返信でした。最後にもう一度、感想ありがとうございました。
延期に延期を重ねて半年以上も掛かってしまいましたが、こうして劇場版を書き上げる事ができてほっとしています。感想や意見を送ってくださった方々、拙作を読んでくださった方々に感謝です。
それでは皆さん、次の話で会いましょう。
作者悠乃丞さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板、