――――回れ時の糸車。三女神の愛撫に身を震わせ、この終末に向けて――――
















 レティは自分に圧し掛かる圧力を忘れ、呆然としていた。

 男の告げた言葉――――『兆を超える人間を殺した』という言葉に耳を疑った。

 意識無く視点が移動する、彼の許へ。


「――――――――」


 彼は何も言わなかった。

 ただ悄然と俯き、拳を握り締めていた。

 その拳から血が滴り落ち、床に朱を蒔く。ぽつりぽつりと広がるそれが、涙のように見えた。


「次元世界幾千百の世界で一体何人の人間を見捨てた? 法の正義の下、何人の家族を奪った? 秩序の護持の下、何人の愛しき者を奪った!?」


 男は今までの静けさすべてをかなぐり捨てて号哭する。


「貴卿の正しさは理解できる! それが無くば今我らはここにいないのだから! だが!!」


 リュウトに長銃型デバイスを向けている者たちの中から嗚咽する声が聞こえる。誰もが失い、誰もが憤っていた。正しい事がすべてを救える訳ではない、正しいからこそ救えない事もまた多いのだ。


「我らはこの力! どこに向ければいい!? 守るべきものを! 守りたいものを失った我らは、どこに己が力を差し向ければいいのだ!?」


 レティは男の頬を涙が伝うのを見た。

 そして同時にリュウトの身が血に塗れているように見え、目を逸らす。


「教えてくれ! 我らをここまで生き永らえさせた男よ! 失った我ら! 我らの進むべき道を! すでに同じ悩みに押し潰された者もいる! すでに守るべき力で傷付けてしまった者もいる! 時間が無いのだ!! もう我らの力を抑えるには、何かを傷付けねばならん!!」


 男はレティをちらりと見遣り、すぐにリュウトを睨む。


「貴卿が答えを返さぬというなら、我らも然るべき決断をする……!」


「――――――――」


 リュウトは男に鋭い視線を向けると、その眼差しで先を促した。

 男は無理やり表情を固めると、重々しく口を開く。


「この少女の身柄を我らの責任下に置く」


「ッ!!」


 レティの体が強張る。

 リュウトは男の言葉に一瞬だけ目を見開くと、すぐに表情を棄てた。その目に言いようの無い怒りが渦巻き、陽炎のように魔力が漏れ出す。

 その魔力がリュウトの周囲を包囲する男たちのデバイスの高効率魔力伝導体に干渉を始め、必死で抑え込もうとする主たちの意思に反してデバイスが震え始めた。


「!!」


 これが己の同輩によって角を矯められた魔導師の力なのか――――男たちは仮面に隠された顔を驚愕に歪めた。

 男たちは管理局上層部がリュウトに堅固なリミッターを掛けたという事を知っている。

それはリュウト・ミナセという存在が時空管理局の管理下にあると内外に示すための手段だったが、畢竟、リュウトを罰せよと気勢を上げる各世界を抑え込むためだ。

 そして、男たちはそれを知ったからこそ、こうして強硬な手段に出たとも言える。


「――――――――」


 リュウトがレティを見遣り、男を見詰める。

 その目は次の言葉次第では命の保証はないと言っているようだった。

 しかし、男も並の魔導師ではない。その視線を正面から受け止める。


「――――自分でも分かっているのだろう? この娘を傍に置いておけば、貴卿の望まぬ結果になるという事を」


「――――それが理由ですか?」


 リュウトは尚も無を以て相対する。だが同時に隠しきれない動揺もまた、内心にはあった。

 確かに男の言う事は自分の考えた事そのもの。

 人間とは、一度経験した辛い出来事を深く心に刻む生き物だ。それは再び同じ過ちを繰り返さないための本能なのかもしれないが、それは時として大きな枷となり本人の命を縮める事にもなる。

 それどころか、その枷によって同じ過ちを繰り返す事すら有り得るだろう。


「あなた方が彼女を守れるという保証はありますか? 彼女はこの世界にとって大切な客人、あの敵に対するためにも必要不可欠なファクターです。人間同士の諍いで傷付くようでは困りますよ」


 それでもリュウトは内心を押し殺して男を見遣る。意図的に自分から視線を逸らしていると、そうレティは感じた。

 そしてその言葉がリュウトの葛藤を示しているようで、彼女の心は締め付けられたように痛む。

あんなに優しかった青年にこんな冷たい言葉を言わせたのは自分。

 肝心な時に間に合わず、青年の家族を守る事ができなかった。その上そんな大事な事にすら気付かなかった自分が、悲しいほどに滑稽だった。


「――――――――」


 唇を噛み締め、その痛みを以て自分の罪を自覚する。そして贖罪の方法を考えるたび、自分にはほとんどできる事がないと気付いた。

 自分は大した力も持たない小娘。こうして足手纏いにしかならない。


「っく……」


 レティは視界が歪んでいる事に気付いた。

 泣いている――――そう認識した。

 それと同時に怒りが込み上げる。


(なんで……!)


 何故泣く。

 何故泣ける。

 悲しいのか、情けないのか、それとも空しいのか。

 どれもが正解のようであり、間違いのような気がした。

 あの人の枷になって悲しい。

 あの人の重荷になって情けない。

 あの人の目に映る事ができなくて空しい。

 そして気付く。


(――――自分の事ばかり…………)


 結局、あの人の事なんて何も考えてない。

 なのに、あの人が勝手だなんて良く言えるものだ。

 自分も結局、自分勝手ではないか。


「――――――――」


 溢れる涙を堪え、視線を上げる。

 せめて目を逸らさないようにしよう。

 いざとなったら、この身に賭けてあの人を守ろう。

 あの時、あの人が自分を助けてくれたように、自分もあの人を守ろう。


「――――――――お兄ちゃん……」


 そして小さく漏れた情けない自分の声に一瞬呆然とし、レティは再び唇を噛み締めた。











 リュウトは憤怒渦巻く意識で思考する。

 目の前にいる男とその部下たちの動きを予測し、さらには人質となっている少女の救出手段を模索。

 それは刹那と言える時間を以て行われ、リュウトは弾き出した答えに奥歯を噛み締めた。

 結論を言うなら、圧倒的に分が悪すぎる。

 今この瞬間にも自分と少女が安全に事態を脱する可能性は減り続けており、これが再び上昇するまで時間をかける事は相手が許さないだろう。

 可能性の上昇、それはこの事態をリュウトの周囲の者が気付く事だ。

 東奔西走するリュウトの部下たち、医療系から後方支援、兵站、前線系とあらゆる分野の局員が各所に散っている現状を男たちは的確に突いてきた。

 リュウトに油断があったと言えなくもない。だが、この混乱が続けば続くほど治安は悪化し秩序は乱れる。そしてその影響をもっとも強く受けるのは、どんな形にせよ力を持たない者たちだ。

 しかし、リュウトは彼らを弱いとは思っていない。

 彼らがいてこそ自分が在るという事をリュウトは知っているし、それを誇りにさえ思っている。

 だからこそ守りたいと思う。

 そして家族や友人など、掛け替えのない者たちが増えるたびにその想いは強くなった。

 何かを大切だと思う感情を知るたび、誰かにも大切な何かがあると知るのだから。

 だが、その想いがリュウトを殺そうとする。


「――――――――」


 何故守るのだと心が嘲笑う。

 今の世界に何の価値があるのだと嘲弄する。

 ここで何かを守っても、自分の帰るべき場所は失われたままだ。

 あの暖かい日溜りは永遠に喪われ、二度と戻る事はできない。

 それなのに何故、自分が命を賭ける必要がある。


(――――く……!)


 纏まらない思考に苛立ち、肘を机に乗せて組んだ指に力が篭る。

 そんな僅かな動きも相手にはリュウトの状況を示す情報。普段の彼ならばそれを見越してこんな動作はしないだろう。


「――――それで、世界が救えると……?」


 抗う。

 リュウトにはそれしかできない。

 何一つ効果的な反論もできず、突き付けられた罪に打たれるままだった。

 それは彼自身が自分の行動を罪と認識しているからこそ、失う悲しみを知っているからこそだ。

 家族を返せと言われれば、リュウトには何の反論もできない。

 家族を失う事がどれ程の重さを持っているのか知っている。だから黙して断罪される事を望んだ。

 ――――――――しかし、それを為そうとしている者たちは、リュウトが家族と引き換えに護った者たちだった。


「この混乱した世界。人々を守る法も秩序も崩壊寸前のこの状況で世界を望む者たちに、本当に救えるのですか?」


 救えるのなら、家族の死は無駄ではなかった。

 少なくとも、リュウトはそう思える。

 だが、救えないのなら――――


「分かりますか? 救えなければやり直しはない。もう一度のチャンスなど来ないでしょう。それでも、なお世界を望むのですか?」


 リュウトは動揺を隠して問う。

 レティを救わなくてはならない。

 二度と失うわけにはいかない。


「――――――――」


 男はリュウトの顔を見たまま沈黙する。

 その手に保持されたデバイスが揺るがないのは、男の心が揺らいでいないからだろうか。

 リュウトはそんな事を考えた。

そして告げる。


「――――答えがないのなら、私は今の情報のみで判断するしかありません」


 退けない。

 そう、あの瞬間から、リュウトはすでに退く事を赦されない――――


「――――――――」


 リュウトは一瞬瞑目し、鞘を失った刃の如き光を以て男を見据えた。


「答えは――――――――否……ッ!!」


 その言葉を発すると同時、リュウトの姿が男たちの視界から消え去った。











 バリアジャケットを纏う一瞬すら惜しかった。

 リュウトは意識を圧縮し、一切の余剰情報を削除した世界にいる。

 無音にして色を失ったモノクロームの世界。

 五感を制限し、秋毫の隙もなく編み上げられた魔力で四肢を強化。それを力として駆ける。

 否、翔る。


「――――――――」


 言葉を発する機能も必要ない。

 リュウトは目の前の"天井"を蹴ると、緩慢な動作で動揺する男の背後に回るべく加速。

 瞬間、天井に蜘蛛の巣状の罅が刻み込まれるも、リュウトは無視する。例え強化単分子素材の天井板が壊れようと関係ない。この程度で砕けるものなど、砕けたままでいい。


「――――――――」


 腕を振り、魔力を纏わせる。

 それを鋭く長く伸ばしていくと、そこには即席の魔力刃。

 即席とはいえきちんと段階を踏んで術式開発されたものだ。並の刃物に比べれば段違いの切れ味を持っているだろう。

 生身の人間なら一瞬。バリアジャケットを纏った魔導師や、騎士甲冑を着けた騎士であっても二流以下の防御性能なら防ぐ事は難しい。


「――――――――」


 リュウトは腕を引き、刺突の構えを取って男の背後の壁を蹴る。

 見えるのは男の背中。

 この男を無力化し、指揮系統の乱れた男たちを倒す。

 援軍を待つという手段はもう採れない。

 この相手はそんな時間を寄越しはしないのだと、リュウトは確信していた。

 だからこそ疾る。

 一人ですべてを無力化できるとは思っていない。だが、レティだけでも助け出さなくてはならないのだ。

 自分が肯と否、どちらの選択肢を選んでもレティの運命は変わらない。

 それを理解しているリュウトに停滞は許されなかった。


「――――――――」


 刃を定め、一直線に疾駆。

 そしてリュウトは気付く、ちらりと見えたレティの顔に焦燥が見え――――


「――――――――ッ!!」


 リュウトの眼前に朱が咲く。













 

 自分の視界からリュウトの姿が消えた時、レティはその意図を完全ではなくとも悟った。

 現状は多勢に無勢。如何に高ランク高等戦闘技能保有の魔導師であっても、正面から戦って勝つなど不可能に等しい。しかも、今のリュウトは管理局の暫定運営機関によって魔力と能力にリミッターを掛けられている。これではまともな戦いにもならないだろう。

 その上自分が人質となっている今、リュウトは初撃で相手の戦闘能力を著しく減殺させなくてはならない。そうしなくては自分を助け出せないからだ。


「――――く……ッ」


 やはり悔しい。

 自分がいなければリュウトはもっと上手くこの状況から脱する事ができたはずだ。


(でも――――)


 それでも現実から目を逸らす事はできない。

 ならばと、レティはリュウトが作り出すであろう一瞬にすべてを賭けようと意識を集中した。

 そんな中、目の前に立つ男の口がかすかに動いている事に彼女は気付く。そしてそれに気付くと同時、彼女の背を極寒の杭が貫く。


(いけない……ッ!!)


 読まれている。

 その事実に焦燥を露わにしたレティは、男たちの束縛から抜け出そうともがいた。

 だが、ここで彼女を逃がすような者たちがこの現場に派遣されてくるはずもない。彼女の抵抗は空しく、そして無意味だった。


「――――――――これが、末路か……」


 男が呟く。

 その声を隠すようにして轟音が響き、天井に亀裂が走った。慌ててレティは視線を上げ、そして叫ぼうとする。

 だが、すべては遅い。

 レティの声が音となる前に、男たちの手によってリュウトは引き摺り出される。


「――――やれ!」


 男の声と共に起こったのは、レティには小さな違和感程度しか判別できない変化。

 しかし、確かに何かが変化した。

 何が、とレティが思う間も無くその答えは示される。


「――――え……?」


 バシン……――――レティの耳にはそんな音が聞こえた。

 そして、それと同時にリュウトの姿が現れた。

 四肢から真っ赤な血の花を咲かせ、男の背後からその横を通過する。


「――――あ……」


 叫ぼうとした。

 だが、喉が張り付いて声が出なかった。

 あの人の驚愕の表情、そして自分に向けられた悔しそうな目。

 そしてレティは察する。

 この状況になっても、あの人は自分を救おうとしてくれたのだと。

 茫然として見詰めるレティの視界の中でリュウトは高速のまま机に激突、跳ねるようにして壁に叩き付けられた。


「――――――――ッ」


 叫ぼうとして喉から漏れる空気が煩わしい。

 駆け寄ろうとする自分を束縛するこの力が疎ましい。

 何故あの人が傷付けられているのだ。

 あの人は心に傷を負いながらも、救った人々に恨まれながらも己の役目を全うしたのに。

 彼女の目に怒りが宿り、壁に寄り掛かったまま血を流すリュウトを睥睨する男を睨みつけた。


「――――――――……ぁ……ッ!」


「――――!」


 リュウトが呻く。

 その声に過剰なまでに反応するレティ。すぐにでも駆け寄って治療したいが、自分を拘束する力は緩まない。

 たまらずレティは叫んだ。


「放して! お兄ちゃんが死んじゃう!」


 出血が酷い。

 このままではショック状態を陥って命を落としかねない。

 レティは必死で束縛から逃れようとする。


「早く治療しないと危険だって分かるでしょう! だから放してぇッ!!」


 血を吐くようなレティの訴えにも男は一瞥をくれるだけ、周囲の男たちもリュウトを治療しようという意思はないようだった。


「――――これが然るべき報い。貴卿の末路よ」


 男は手足を投げ出して壁に寄り掛かるリュウトに歩み寄り、血に塗れた嘗ての英雄を睥睨する。その声には深い悲しみが見え隠れし、それが男の心を闇で蔽ってしまっていた。

 対するリュウトは顔を俯かせたまま、掠れるような声で問う。


「――――対魔導師用の……ごほっ……魔力暴走誘発……機構……ですか……」


「良く知っているな。外題学問の徒ではないようだ」


 自分の身を材料に冷静な分析を行うリュウトの言葉に、男は口を歪め、種を明かした。

 特定波形の魔力に干渉し、その魔力結合を狂わせ暴走させる兵器。だが、それは実戦に於いてほとんど役に立たない。対応できる魔力波形がごく限られるため、単独の魔導師か一定波形の魔力を使用する兵器に対してしか効果がないからだ。

 実戦ではそのような兵器に対抗するため、魔力使用兵器の魔力波形を無秩序に変化させている場合が多く、魔導師もまた魔法的妨害手段に対抗するため魔力波形を意図的に変えている。

 つまり、今回リュウトが敵の術中に嵌ったのは、通常であるなら考え難い事だった。

 しかし、リュウトはそれによって追い詰められた。

 少ない魔力を最大限活用するためバリアジャケットを生成せず、四肢の内部にのみ魔力を投入。内部系強化魔法により上昇した身体能力を武器に一撃必殺を目論んだが、その体内の魔力が暴走、体内部よりリュウトの身体を破壊した。


「我が祖国で開発されたものだ。AMFよりも攻撃的な防御手段としてな」


「――――ですが……これでは役立たずだ……」


「確かに。これはたったひとつの魔力波形にのみ効果を発揮する欠陥品だ。だが……」


 男はデバイスをリュウトの額に押し当て、冷たく言い放つ。


「貴卿にはそれで十分だったようだな」


「――――……返す言葉も…………ない……ですね……」


 リュウトは苦しげに息を吐き、自嘲気味に笑った。

 デバイスの押し当てられた額から血が滴り落ち、リュウトの顔を染める。それでもリュウトは笑みを浮かべたままだった。

 男はデバイスに力を込め、吐き捨てるように告げる。


「――――以前の貴卿ならば我らの言動から罠の存在を察し、このような無様は晒さなかったはず。何故だ、何故貴卿はこうまでして生き恥を曝す……!?」


「――――……生き恥…………確かに…………」


 リュウトは笑みを深める。

 今までどれだけ武功を挙げようと、自分は結局大切な者を守れない負け犬でしかない。

 だが――――


「…………ですが……私は戦う理由を…………他人任せになどしない……!」


 リュウトは伏せたままだった目を上げ、男を峻厳な眼差しで見据える。


「私の命で……この大罪人の命ひとつで人々が再び立ち上がるというならば! 私は躊躇いなくすべての責任を全うしよう! だが!!」


 リュウトは震える四肢を精神力で抑え込み、ゆっくりと立ち上がる。リュウトを包囲する者たちの中には、白い制服を血の朱に染めたその姿に圧倒される者もいた。


「あなた方は何故ここに居る!? 大悪を相手にしなくては、あなた方は自分の力を揮うこともできないのか!!」


 文字通り血を吐くような叫び。それに応えるように男も吼えた。


「――――殺戮の陣頭に立った貴卿が何をほざく! 何故我らの力を信じなかった!? 貴卿が指揮を執り、我らの力を揮ってくれていたなら後悔はなかった!! だが、我らは戦わずに生き残ってしまったのだ!!」


 男は言葉と同時にデバイスを突き出す。

 眼前で揺れる銃口を前に、リュウトは口の中の血を吐き出した。


「――――ならば私を殺しなさい」


「お兄ちゃん!?」


 リュウトの口から飛び出した台詞に思わず悲鳴を上げたレティだが、リュウトに無言で制され、口を噤んだ。


「ここで私を殺し、私が背負うべき責任をあなたが背負ってくれると言うのならば、私がこの世界に生きる理由もすでにありません」


「――――命乞いか……?」


「どう取られても構いません。すでに恥などどうでもいい事ですから……」


 男は無言で引き金に指を掛ける。同時に長銃の銃身に魔力が走り、その輪郭を浮かび上がらせた。


「――――――――それが貴卿の責任か? それとも、家族の復讐か?」


「復讐如きで家族を汚すとお思いか? あるとするなら、それは私の弱さ故の過ちだけ……」


 リュウトの言葉を聞き、男はその銃を持つ手に力を込めた。暗に自分たちの行動を復讐心に駆られた愚挙だと言われたようなものだが、男とてそれを理解していた。

 だが、自分たちの行動が死者を冒涜する行為である事を知った上で、なおも男は退けない。ここで退けば、それこそすべてが無意味と化す。

 そう、もはや戻るべき場所も存在しない。


「――――ならば、ここで御首貰い受ける……!!」


 デバイスが主の意識に応えて唸りを挙げた。


「――――――――」


「お兄ちゃん!!」


 リュウトの眼前で炸裂する光。

 男たちに押さえつけられたまま、レティは悲痛な叫びを上げた。











 自分の視界を埋める魔力残滓の爆煙に、男は自分の勝利を確信した。

 あれだけ自分が恐れた者がこうも容易く敗れる事に言い様のない虚しさは感じるものの、抵抗されて部下が傷付く事に比べれば遥かに良い。

 しかし、引いたトリガーは今までに感じた事がないくらい重く、自分の心に迷いを残した。

 これで良かったのかと思う。

 自分がした事は単なる逆恨みで、さらに混乱を持続させるだけではなかったのかと考えもする。

 だが、自分は一武官でしかない。

 文民統制下にある一軍人に政治の何たるかを決める事はできないのだ。


(――――また、優れた将星が逝ったな……)


 この世界は、優れた者、慕われた者、人々に生きる事を望まれた者から死んでいく。

 "英雄"という遇像を背負い、なおも強く生き続けられたものから死んでいくのだ。

 そしてそれは、大抵同じ種である人間によって殺される。

 もっとも強く、"英雄"という幻想に囚われた者たちによって…………


(俺もまた、幻想に囚われた愚か者の一人か……)


 男は自嘲気味に笑う。

 それは先ほどまでリュウトが浮かべていた表情によく似て、悲しげだった。


(ならばせめて、愚か者なりの意地を通すか……)


 男は振り返り、自分の手の内に納まった少女を見遣る。

 呆然とあの"英雄"のいた場所を見詰めている少女に、男はなんと声をかけようか迷った。

 少女が"英雄"をどう思っていたかなど、男にも容易に察する事ができる。そしてその"英雄"を殺した自分に対して少女がどんな態度を見せるのかも。


(だが、俺は逃げる訳にはいかない)


 あの"英雄"を殺した時点で、その業はすべて自分が背負わねばならない。

 そして、この少女をこの命に懸けて守らなくてはならないのだ。

 自分の上に立つ者たちがどんな思惑を持ってこの少女を欲したのかは分からない。だが、いや、だからこそ守らなくてはならない。

 それが自分の負った責任。

 この世界を護らんと自分の家族を犠牲にした男に対する最後の礼儀だ。


(――――堕ちた英雄よ、貴卿は生まれる時代を違えた)


 管理局の創設期に生まれていれば、その才覚を以て次元世界をより強固に統一していたかもしれない。

 或いは三提督全盛の頃に生まれていれば、その時代に於いて最高の賛辞を受けていたかもしれない。

 だが――――


(貴卿に終わりの時代は重すぎる。創造も守成できる貴卿だが、滅びだけは成せないのだろう)


 男は少女に手を伸ばそうと身を屈めた。

 びくりと震える少女に何か言おうと口を開いた男。その時、男の部下の一人が狼狽した声を上げた。


「隊長!! まだです!!」


「なッ!?」


 慌てて振り向く男。

 そして彼は、自分の身体に染み付いた戦場の勘によって命を救われる事になる。


「ッ!!」


 咄嗟に掲げたデバイス。

 その銃身に爆煙を切り裂いた刃が振り下ろされた。


「くぅッ!」


 耳を貫く金属同士の接触音。

 重々しいそれは、男のデバイスとそれに激突した刃が生み出したものだった。

 
「何故だ……!?」


 男の目の前に現れたのは、金属の刃と深紅の戦装束を纏った鬼神。

 戦装束の表面に光の――――魔力のラインが走っているのを見て取り、男は自分の問いの答えを知った。


「まさか……自分の血液で体外に魔導回路の迂回路バイパスを……!?」


「――――――――」


 鬼神――――リュウトの体内部にある魔力の通路は、先ほどの詭計によってほぼ完全に破壊されている。

 そのせいで身体強化魔法は勿論、それ以外の魔法も大幅な威力減衰を余儀なくされている――――はずだった。

 だが、リュウトは自分の体から流れ出た血液に魔力を通す事で魔導回路を形成し、その問題点を無理やり解消したのだ。

 通常なら考えられない解決法だが、血液を魔力導体とする事自体は決して不可能な事ではない。

 古代に於いては、血液を用いてデバイスの役目を果す祭器を作っていたと云う文献も残っているほどだ。

 そして、リュウトにはこの手段を用いた知り合いもいる。


「――――腐れ縁の知人が、以前に似たような手段を使いましてね。少し興味を持ったので研究してみたのですよ」


 まさか使うとは思いませんでしたが――――無表情の中に若干の感情を見せつつ、リュウトはその手の剣に力を込めた。

 ぐっと押し込まれる剣に対し、男はデバイスを逸らしてリュウトの力を受け流す。

 そしてある一点を越えた瞬間、男の身が旋回。その脚が弧を描き、リュウトを狙って飛来する。その勢いは間違いなく必殺。達人の手足は生半可な武具に勝る威力を有するといわれるが、これは間違いなく相手を殺すために繰り出された一撃だった。

しかし、リュウトはその攻撃に虚を突かれた様子もなく、男の肩に自分の足を乗せ、男の身体の勢いを自分の力に変えて後方に一回転。そのまま距離を取る。


「なッ!?」


 今までとは別人のようなリュウトの動きに驚愕の表情を作る男たち。レティですら驚きを隠せなかった。

 その中で最初に驚きから脱した男が、忌々しげに顔を歪めた。


「――――……死に損ないが……ッ!!」


 烈火の如き怒りに晒されたリュウトだが、その顔には焦りも怯えもない。

 それどころか、薄い笑みすらあった。


「褒め言葉として受け取りましょう」


「な……!?」


 男はリュウトのあまりの変化に絶句する。

 先ほどまでは小さく萎縮しているようにさえ見えたその姿は、今ではその二つ名に相応しい戦気を纏って男の前に在った。

 そして男が見せた隙をリュウトは逃さない。足元に一瞬の摩擦音を残し、男に再びの防勢を強いらんと剣と身を走らせる。

 その攻撃を寸での所で受け止めた男だが、リュウトの纏う剣気に圧倒された。


「何故……だッ!?」


 辛うじて男の力が勝り、リュウトを弾き飛ばす事に成功する。

 だがその驚愕は消えず、男は自分の手が微かに震えている事に気付く。


(何故……何故俺が怯える!?)


 先ほどまで自分たちは圧倒的なまでに相手を追い詰めていたはずだ。

 確かに警戒すべき敵手であった事は認める。だが、ここまで圧倒される理由などない。


「あの少女がどうなっても良いのか!? 貴様にとってあの少女は――――」


「足枷だ――――」


「ッ!?」


 息を呑んだのは誰だろうか。

 男たちか、それともレティか、或いはその両方なのか。

 どちらにしても、リュウトの言葉はその場にいる者たちの思考を凍り付かせた。

 そう、絶対的な隙が生じた。


「――――とでも言うと思いましたか?」


 疾走。

 リュウトの姿は刹那の間すら費やさず男の眼前に現れた。


「ッ!!」


 慌ててデバイスを構える男。甲高い戟音と共に、そのデバイスに火花が散る。


「――――――――人は己を守る正義よりも、己を正義足らしめる悪を欲する」


「な……んだと……?」


 リュウトは息の掛かるほど近くに迫った男に向けて囁いた。

 その言葉に、男は自分の置かれた状況も忘れて呆然とする。


「正義を標榜する組織の人間が…………何故今、悪を語る…………?」


「個人としては、一度も正義を掲げた事はありません。単に己の名と責任の下にすべてを為してきただけ……」


 リュウトは涼しい眼差しのまま男を見詰める。

 男たちが自分たちの長を援護しようと動き始めるが、その動きを察したリュウトの視線に制された。

 刃を内包したかのようなその瞳に見据えられ、男たちの体が動きを止める。

 男たちとて並の魔導師ではない。だが、その戦士としての本能が絶対なる服従を選択した。今のリュウトは決して逆らって良い存在ではない、男たちの本能がそう告げていた。

 死兵。

 リュウトの姿に、男たちの誰もが同じ言葉を連想した。

 己が最期を悟り、なお戦う事を選んだ者だけが足を踏み入れることができる極致。その場に立ったリュウトに対し、男たちは黙って従うしかない。

 辛うじてレティの束縛を解く事はなかったが、それがどれ程優位に働くか全く分からなかった。

 そんな男たちの心の内など知らぬという風に、リュウトは男に向けて言葉を吐き続ける。


「――――そして今、私はその責任の帰結する処に立っている。ただそれだけです」


「――――死ぬ事に対して躊躇いはない、と?」


 二人はデバイスを合わせたまま言葉を交わす。

 静かではあるが、その実凄まじいまでの力をぶつけ合っていた。

 ギリギリとデバイス同士が音を立て、その接触部分からは魔力の火花が漏れる。

 お互いデバイスという魔導師の杖であるが故にこの程度で済んでいるが、これがもし見た目通りの武器であったならこうはいかなかっただろう。

 間違いなく、どちらかが砕けている。


「死ぬ事など、この仕事を始めた時に覚悟しています。私が覚悟しなくてはなかったのは、ただ人の命を奪う事と救う事のみ」


「救う覚悟、だと?」


 男は訝しげにリュウトを見る。

 顔の半分は隠されていても、その顔に浮かぶ疑問だけは見て取れた。


「――――救う事は、奪う事と同じだけの覚悟がいる。それは双方とも他人の命を己が掌中に納めるが故に……」


「――――――――」


 男は一瞬だけレティに目を向けた。

 奪い、救う。自分がしようとしていた事はそういう事だ。

 だが自分は、奪う事に覚悟は決めても救う事に覚悟はしなかった。

 もちろんリュウトのいう言葉をすべて受け容れている訳ではない。正直、若造の戯言と思う自分もいる。だが――――


(――――何と、真っ直ぐな事か……)


 まさに将の将たるに相応しい大器。

 生まれた時代が今でなければ、或いは"王"とさえ呼ばれていたかもしれない。


(――――そう言えば、あの男も似たような目をしていたな……)


 管理外世界出身の疫病神。

 災厄の権化。

 自由闊歩する次元災害。

 終焉の女神をオトした男。

 本人が聞けば剣を振り回して大暴れしそうな異名だが、男は他人事ながら頷くばかりであった。

 しかし一度だけ見たあの男は、今目の前にいる青年と同じ目をしていたような気がする。


(これが"サムライ"というものなのか……?)


 男が幼い頃に読んだ異世界の剣士の話。

 彼らはその剣を自分の命として扱い、気高き心と誇りを胸に武人としての道を歩み続けるのだという。

 決して折れず、歪まず、ただひたすらに真っ直ぐ前だけを見る武人。

 男はその姿に憧れ、その時の気持ちを未だ忘れられずにいる。

 そして皮肉な事に、その剣士と同じ道を歩む者と男は敵対する事になった。


「――――貴卿が、あと十年早く生まれていたらと思う」


「――――――――」


「もしそうだったなら、このような事態になっても貴卿は追い詰められる事はなかっただろう。今の貴卿よりもさらに上の立場に在り、誰憚る事なく次元世界を救えたはずだ」


 真摯とも言える男の言葉にリュウトは頭を振った。

 いつの間にか、その剣は男を殺そうとはしていなかった。


「いつ私が生まれていても、私は同じ過ちを繰り返したでしょう。そして同じ業を背負い、同じ結末を望んだ」


「――――貴卿の望む結末、それは何だ?」


 リュウトは小さく微笑み、そしてその場から一気に飛び下がる。

 男の部下の一人が、リュウトの頭を撃ち抜くべく魔力弾を放ったのだ。

 それに一番驚いたのは、凶弾の主の長たる男だった。


「貴様!! 一体何をしている!? そんな命令は下していないぞ!!」


「――――隊長殿、一体何をなさっているのですか?」


「なんだと!?」


 男は驚きのまま部下を見る。

 その部下は、バイザーに隠された目を冷たく輝かせながらリュウトに片手杖型のデバイスを向けていた。

 部下はぴたりと停止した狙撃姿勢を維持しながら男に訴える。


「隊長もご存知でしょう、彼は我が祖国を滅ぼした元凶。討つべき敵です」


「何を言っている……!? 彼がいてもいなくても、我々の世界が滅びる運命に変わりはない!」


「いいえ、違います」


 部下の突き放した様な言葉に男は呆然とした。

 男が告げた事は少し物事が分かる者なら誰もが理解している事だ。男も自国政府の命令が無ければこのような暴挙を容認したりしない。

 しかし、男の部下は違った。


「彼にはどうやっても悪となり死んでもらわなくてはなりません。そしてそれを討った我らこそが、新たな秩序の盟主となる……!」


「お前……一体何を言っている?」


「何? 簡単な事です、それは祖国への愛故に!!」


 リュウトに向けて魔法を放とうとする部下の姿を見て男は気付く。

 一番若く優秀だったこの部下は、ロクでもない人間にロクでもない事を吹き込まれたのだ。

 万が一にも自分が目標達成を躊躇った時、代わりにそれを成すために。

 そしてそれに気付いた時、男は自分の不甲斐無さと机上の計算しかできない政治家たちを呪った。


「くそっ! 中央の政治屋風情がぁッ!!」


 男は部下を取り抑えるために走り出す。

 だがその部下とてこの部隊に選ばれるほどの猛者。些か真面目すぎる事は玉に瑕だと思っていたが、それを上回る静かな情熱を持っていると男は考えていた。

 だが、今はその高い技術と冷たい情熱が憎い。

 しかし部下の攻撃如きで倒れる敵手ではない、男はそうも考えていた。

 だが、男の考えは最悪の形で裏切られる。


「お兄ちゃん!?」


「――!?」


 少女の声に視線を巡らせると、部下の照星の先にいる男が膝を屈していた。

 まさか殺されるつもりなのか――――男は軽い失望を覚えるが、リュウトの様子に自分の考えが間違っていたと知る。

 リュウトは荒く息を吐き、その身体を狂い走る魔力を抑え込んでいた。


(急拵えの術式ではこれが限界だという事か……!)


 急場を凌いだ外部式魔力迂回路だが、それは非常に不安定なものだ。恒常的に使用する事はまず不可能で、いつ問題が発生してもおかしくない。

 そして、今この時に恐れていた事態が起きてしまった。


(くッ! これも俺の力不足か!)


 男は自分の見通しの甘さに歯噛みする。

 自分の上にいる人間がまともな判断をするとは限らない、それに気付かず感情無き武器としての役目しか負おうとしなかった己に腹が立つ。


「取り押さえろ!!」


「はっ!」


 部下たちにも命令を下し、男もリュウトと凶弾の間に身体を滑り込ませようとする。

 しかし、それは誰がどう見ても間に合わない。自分たちが弑するはずだった者を守るなど考えもしない事だったが、あの尸位素餐の馬鹿政治屋連中に踊らされるなど真っ平だった。

 あの連中は自分たちの権力を拡大する事しか考えていない。それによって自国の民間人が幸せになるならと今までは見過ごしてきたが、この期に及んでも自国の利益のみを追求する姿勢には怒りしか感じなかった。

 しかし、現実はその政治屋共にいいように使われてしまった。

 祖国防衛最後の砦とまで称えられた自分たちが、下らない権力欲の劣兵と化したのだ。


(ふざけるな……!)


 それだけ死んだと思っている。

 どれだけ泣いたと思っている。

 今更世界を望む理由がこんなくだらない事などと――――


「ふざけるな……!」


 それでも間に合わない。

 男がどれだけ怒りに満ちても、結局は間に合わない。

 それでも走る足を止められず、男は最悪自分の部下を撃つ決意を固めた。


「お兄ちゃん!!」


「!!」


 そんな時、男の前をひとつの影が走り抜けた。

 暖色の髪を揺らして走るその姿に、男は余計に焦燥を駆り立てられた。

 確保していた少女が抜け出した事に驚愕はない。だが、危険な状況だと分かっているはずなのに自らそこに飛び込もうとしている姿に驚いた。

 最初は現状を理解していないのだと思った。

 だが、その表情を見て自分の考えを否定する。

 彼女はあの男を助けたいだけだ。

 あの少女とあの男の過去に興味はない。色恋にはもっと興味がない。だが、己の命を懸けても護りたいという感情だけは男にも覚えがある。

 だからこそ、あの少女がここで傷付く事が許せなかった。


「誰か……誰か止めろッ!!」


 男から溢れた心の底からの声に答えたのは、男でもその部下でも、そしてこの部屋の誰でもなかった。


『吶喊ッ!!』


『オオオオオオッ!!』


 扉の外から漏れた怒号に吹き飛ばされたかのように、執務室と廊下を隔てる高硬度耐爆自働扉が吹き飛んだ。














 男は扉の外から飛来した一発の魔力弾が、部下の一人を撃ち抜く光景を見た。

 その部下は今にも放たれそうだった魔法を四散させ、そのまま軽く吹き飛び床に倒れた。

 外傷が見えない事から非殺傷設定の魔法だと理解し、男はそのまま残った部下たちに命じる。


「撤退する! その馬鹿を連れて来い!!」


「は!? あの少女は!?」


「捨て置け! 今連れて行っても下衆連中の玩具にされるだけだ!!」


「はっ!!」


 男は扉周辺に棚引く魔力煙の向こうを睨んだ。

 その先に見える白と黒の集団。先ほどまで自分が殺そうとしていた者の部下たちだと理解する。そして男は吹き飛んだ扉に視線を向け、これが吹き飛んだ瞬間にすべてが逆転したのだと確信した。

 走り込み、自分たちを包囲する集団。

 白の集団の肩に見える徽章は危機管理部実働部隊らの紋章。

 白い集団の半数以下の黒い集団。その肩にあるのは時空管理局本局第一魔導化教導連隊所属の第一護衛小隊の紋章。

 どちらも管理局の一線級部隊。護衛小隊に至っては本局航空戦技教導隊と比べても遜色ない最精鋭だ。今更ここから脱出する以外の考えを持つ事はできなかった。

 間違いなく任務失敗。しかし、あの政治屋連中の考えを知る事が出来た以上、男にとっては失敗という訳でもない。


「――――これも、天佑……」


 男は護衛小隊の隊長がこちらを見ている事に気付いていた。

 しかし相手はそれ以上の動きを見せず、ただ部下たちに上官の治療を命じた。


「――――――――」


 それを見て、男はバリアジャケットの右胸に付いたギミックを作動させる。

 それは単発短距離式の転送装置。決して遠距離を移動する事は叶わないが、この場から部下と自分を逃がす事くらいはできるだろう。


「――――貴卿の命、その少女に預けておく」


 聞こえているとは思えない。

 だが、男は言わずにはいられなかった。

 あの男の身体を抱き締めて治癒魔法を展開している少女。涙ながらに彼の名を呼ぶ姿に、男は小さく苦笑する。

 彼は助かるだろう。そして、再び守護者となるかもしれない。

 決して平坦ではない道だが、その先に『もしかしたら』の可能性があるかもしれないのだ。


「――――――――」


 男は部下たちが転送準備を整えた事を確認してその場から消え去った。

 部下たちがその後に続き、包囲していた管理局員たちは緊張の度合を下げる。

 この臨時混成部隊の指揮官である一等空尉には追撃不要と言われているし、何より自分たちの最高司令官が負傷しているというのに追撃命令はやめて欲しい。一歩間違えれば相手を殺してしまうから。

 その場にいる局員の一人がそう思っている事など他の誰も知らず、周囲はひたすら静かに騒がしい。耳障りな、声量を落とされた声が飛び交い、その中心には負傷した司令官がいる。

 司令官の身体にしがみ付いて離れない少女を見て、その局員は場違いにも笑ってしまった。

 あんな事、司令官の周りの女に知られたら只では済まない。

 そして気付く、もうそんな心配もないのだと。


「――――あ〜あ、やってらんね……」


 局員は自分の言葉を聞いて眉を潜める同僚にひらひらと手を振った。何でもないという意思表示だ。

 そして同僚に促され、彼は司令官を搬送する任務へと赴く事になる。

 司令官に近付く彼の耳に、件の少女の声が聞こえてきた。


「お兄ちゃん! 大丈夫!? ねえ!?」


「――――レティさん……」


「お兄ちゃん……」


 返ってきた返事に安堵の息を吐き、血に塗れた身体に手を伸ばす少女。しかし、司令官は伸ばされた少女の手を振り払った。

 少女の顔が歪み、振り払われた手が力無く落ちた。

 司令官は少女の様子に気付きながらも、それを無視しているようだった。


「――――――――良介君の所に行きなさい。そして、彼から決して離れないように」


「なんで……なんでそんな事……」


 少女は全身で拒絶の意思を示していた。

 それは赤の他人である局員にも伝わるほど強い想いで、それ故に脆そうでもあった。


「私は君の願う人間にはなれない。だからです」


「そんな……! わたしは……」


「良介君なら、君の事を拒絶したりしない。私のように何かに縛られ、自分の守りたいと思う人を見捨てるような事もないでしょう」


 司令官はそう言って優しげに微笑んでいた。そこには一片の悪意も無く、純粋に少女の身を案じていると理解できる。

 だが、少女はその言葉にも頭を振るだけだった。

 子供のように駄々を捏ね、司令官の服を握ったまま放そうとしない。


「――――――――いやだよ……なんで……なんでお兄ちゃんと一緒にいたらダメなの……?」


「君が約束を守ったからですよ」


 司令官の言葉に少女は顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっており、その悲しみにほどが伺えた。


「だったら……!」


 少女は司令官に詰め寄り、その胸に全身を預けた。


「だったら一緒にいようよ! わたしがお兄ちゃんを助けるから! 絶対にいなくならないから!」


 自分を見上げる少女の頬を撫で、司令官は悲しげに俯く。局員にはその苦悩の半分も理解できないが、少女の優しさこそが辛いのだと分かった。

 こんな仕事をしていれば分かる。この世に存在する"絶対"は決して多くない。


「それでも、私は君と共にいるつもりはありません。ここで君の優しさに甘えれば、それは喪った者たちに申し訳が立ちませんから……」


「お兄ちゃん……」


 少女は俯き肩を震わせて泣いていた。

 あまりにも優しい拒絶。

 その言葉だけで自分がどれ程想われているか理解できる。だからこそ、辛い。


「――――彼女を彼らの元に」


「本当によろしいのですか……?」


 命令を受けた護衛小隊の隊長が問う。司令官とは随分長い付き合いだと聞いているから、その胸中は複雑だろうと思う。

 しかし司令官の決定は覆らなかった。


「構わない。必要なら護衛小隊から何名か選んで彼女たちの護衛を増員するように」


「――――は……」


 小隊長は嗚咽を漏らす少女を促し、その場から立ち去る。

 最後に一度だけ少女が振り返ったが、司令官は何も言わなかった。

 そう、別れの言葉も再会の約束もなかった。


「――――――――」


 局員は消沈したまま部屋を出る少女を最後まで見詰めていた。

 そして彼だけが、一人の青年の言葉を聞く。


「――――――――強く優しく、そして気高い女性になりましたね、本当に……」


 誇らしくも悲しげなその言葉に、局員はもう一度だけ少女の消えた先を見詰めた。













「――――本当にここでいいの? なんなら部屋まで送っても……」


「いえ、ここでいいです。ありがとうございました」


「そう……。何かあったら近くにいるうちの隊員に声を掛けてね?」


「はい」


 レティは護衛小隊の副官である女性士官に施設内の自然公園まで案内してもらった。

 もちろんレティがここを指定したわけではなく、沈んだままのレティに気を遣った副官がここに連れてきただけだ。

 だがレティにしてみれば、人工とはいえこの世界に来てから始めて見る光景。先ほどまでは沈痛な面持ちのままとぼとぼと歩いているだけだったが、この自然公園に来てからは視線が上がった。

 しばらく公園の中を歩く二人。

 やがてレティはこの場で少し考え事がしたいと副官に申し出る。

 副官は周囲に配置された護衛小隊の人員を確認し、それを受け容れた。


「――――――――」


 副官の姿が公園の入り口の向こうに消える。

 周囲にいる小隊員は優秀で、レティにはどこに誰がいるのかさっぱり分からないほど。だからこそレティは人の目を気にする事なく、大きな溜息を吐いてベンチに座った。

 膝の上に乗せた両手が小さく震えている事に気付き、レティは両手を組んで胸に抱き締めた。


「――――ごめんなさい……お兄ちゃん……」


 知らず知らずの内に涙が零れた。

 涙は次から次へと溢れ、決して止まらない。


「おにいちゃん……おにいちゃん……」


 ずっと待ち望んでいた場所は、決して自分を受け容れてはくれなかった。

 あの人の隣はもう別の人のもので、あの人はそれを望んでいて、自分はそれを越える覚悟がなくて――――


「いやだよぉ……」


 でも、一人は怖い。

 あの人の隣にいたい。

 リンディみたいに大切な人と一緒にいたい。


「おにいちゃん……いやだよ……ひとりは、いやだよぉ……」


 絶対的な孤独。

 今まで近くにいたはずの幼馴染までが遠くに行ってしまったようで、大切な人と一緒にいられる幼馴染が憎くて――――


「おにいちゃん……」


 自分が怖い。

 自分の中にある欲望が恐ろしい。

 何故自分を必要としてくれないのかと思う、思ってしまう自分が恐ろしい。


「――――コワイよ……おにいちゃん……」


 恐怖が心を埋める。

 だがそれと同時に、決して棄てられない感情も湧き上がってくる。

 ただ、あの人が愛おしいのだと。

 ただ、あの人の笑顔が見たいのだと。

 ただ、あの人のいる世界が幸福であって欲しいのだと。


「おにいちゃん……わたしは……」


 固く目を瞑り、レティは祈るように指を組む。

 額に当てた手が震えている。

 しかし、そのままレティは祈り続ける。

 神でもなく、悪魔でもなく、この世に存在しない相手にではなく。

 ただ、あの人に祈る。


「――――おにいちゃん……」


 神の声を聞いた聖女のように――――レティは心を差し向ける。

 あの人の隣にいたいと、只それだけを願う。











 それは祈りであり、願望であり、欲望であり、真摯な誓いだった。

 決して穢されない聖女の如き祈り。

 それは決して天には届かない。

 だが、かつて同じ事を祈った者たちには、確かに届いたのかもしれない。













「あれ? ウルス壊れちゃった?」


「っておい!? 何冷静にボケてらっしゃいますか!」


「あ〜〜、お兄ちゃんひどい! わたしボケてないよ!」


「自分のデバイスをぶっ壊しておいてボケてないとはふてぶてしい小娘だな!?」


「――――先輩には言われたくないと思いますが」


「――――宮本さんが壊したものの方がよっぽど多いですよ」


「――――そして反省もないですしね」


「というか、何故に俺はこの三人に囲まれていますか!? トイレすら許可制ってどんだけ!?」


「あんたの自業自得でしょうが。ティアナもギンガもシスターシャッハも暇じゃないんだよ? 少しは自重してよ自重」


「お前はどうして俺に喧嘩を売る!? そして今更何言ってやがんだこいつは的な表情やめやがれ――――って喧嘩しませんよ!? だからそのクロスミラージュだとかリボルバーだとかヴィンデルシャフトだとかは仕舞って下さい!! 大変危険です! 主に俺が!!」


「――――――――」


「まあ、溜息吐く気持ちも分かるけどねー」


「――――お兄ちゃんって、いつもこんなの?」


「はい……」


「ごめんなさい……」


 リンディは年少組二人の謝罪を受け、深く溜息を吐いた。

 淡く脈動を始めたウルスラグナの事など、今の彼女の意識にはなかった。














 時を同じくして、姉妹機であるミスラもまたその身を脈動させていた。

 光を放ち、温もりを纏う。

 それは母のような暖かさを持っていたが、目を閉じたままのレティはそれに気付かなかった。

 それと同時に、レティは目の前に立つ人物にも気付かない。

 その人物は少し迷う素振りを見せたが、意を決したようにレティの肩を叩いた。


『あの……大丈夫……?』


「え……?」


 驚いたように顔を上げるレティ。

 彼女の前に立っていたのは、空色の髪を風に遊ばせた一人の少女。

 時空管理局地上部隊の制服を着た、小さな少女だった。


『こんな所で……って言うのもどうかと思うけど、一人でどうしたの?』


「あ、いえ、別に……」


『別に、って、あなた泣いてるじゃない』


 少女の言葉に、レティは慌てて涙を拭う。決して他人に見せたい姿ではなかった。


「だ、大丈夫です。本当に……」


『――――そう? でも少しだけでも大丈夫じゃないなら、私に話してみたらどうかしら? 相談に乗るなんてできないかもしれないけど、話を聞いて頷くだけならできると思うわ』


「――――――――」


 レティは目の前の少女が、実は自分よりもずっと年上なのだと気付いた。

 見た目こそ若いが、その言葉や物腰には相応の成熟が見られる。それはレティ程度の年齢で得られる物ではない。


『ね?』


「――――」


 沈黙したままの自分に気分を害した様子も無く、その少女――――女性は微笑みを絶やさない。

 自分は味方だと伝え、こちらの緊張を解く笑顔。

 そんな笑みにほっと息を吐くと、レティは口を開いた。

 自分の悩み、そして決意を伝えたくて。














 レティはそれからしばらく話し続けた。

 遠くからここに来た事。ずっと追い続けた人がいる事。その人が自分にとってどれだけ大切な人なのかも、すべて話した。

 女性はレティの隣に座ったまま頷き、時に先を促してすべてを聞き続けた。

 否定する事も肯定する事も無く、ただ聞き続けた。

 やがてレティは、自分が親友に抱いた気持ちまで話していた。

 拒絶されるかもしれない、軽蔑されるかもしれないと思いはしたが、女性とは初対面であり、同時に再会する可能性が低い事も彼女の背を押した理由かもしれない。


「――――それでわたしは、リンディがすごく羨ましくて……」


『――――――――すごく、憎い?』


「――――はい」


 女性に言い辛い言葉を代弁してもらい、レティは肩の力を抜いて頷いた。

 誰かに話してみればよく分かる、自分がどれだけ浅ましい人間だったのか。

 他人の気持ちなど考えず、ただ自分の遺志だけを押し付けた。

 だから、拒絶された。


「――――本当にどうしようもないくらい子供で、これであの人の認めてもらいたいなんて……都合良過ぎですよね……」


『――――そうかもしれないわ、でも……』


「でも?」


 レティは救いを求めるように問い掛けた。

 もうどんな意見でも良かった。

 自分を責める言葉でさえ良かった。

 この暗澹とした迷路から脱出できるなら、どんな小さい光でも、手掛かりでも良かった。

 しかし、女性が告げたのはレティの考えていたどれとも違った。


『――――私も、昔は同じ事を考えたわ』


「え?」


 こんなにも落ち着いた雰囲気の女性が自分と同じ気持ちを?――――レティは礼を失していると思いながらも驚きを隠せなかった。

 そんなレティの感情を察したらしく、女性は恥ずかしげに笑った。


『私だって昔はあなたと同じ小娘だったのよ? あ、あなたの事を指して小娘って言ってるわけじゃないから』


「あ、はい」


『まあ、それはいいとして――――あなたの思った事は、決して褒められた事じゃないわ』


「――――はい……」


 レティは肩を落として答える。

 自分でそうだと思っていた事でも、こうして人に指摘されると落ち込むものだ。

 しかし、女性の言葉はそれだけではなかった。


『でも――――』


「――――――――」


 レティは顔を上げて続きを待つ。

 自分と同じ過去を持つというこの女性が、今こうして幸せそうな笑みを浮かべているという事実。レティはその言葉に強い関心を抱いた。


『それは決して間違った感情じゃない』


 レティは強い確信を持って告げられた言葉に何も言えなかった。

 それは女性の言葉に圧倒されたからなのかもしれないし、単に呆れただけかもしれない。ただ、レティはその言葉を聞き続けた。


『私の好きだった人も、決して私だけを見てくれる人じゃなかったわ。時には別の女、時には仕事、時には何の関わりもない赤の他人、私の事なんて二の次どころか三の次、四の次だった』


 女性は懐かしい思い出を語るように続ける。


『それでも、私はあの人が好きなままだった。――――どうしてか分かる?』


「――――」


 レティは首を振る。

 女性はそんなレティの様子に小さく苦笑すると、照れ臭そうに囁いた。


『あの人が私だけを見てくれる事はなかったけど、私を見る時はいつも、どんな時でも真っ直ぐ見てくれたから』


「あ……」


 レティは女性の幸せそうな笑みに圧倒された。

 誰にも冒されない唯一無二の糧を得た者だけが見せる笑み。


『あの人と一緒にいられて幸せだった』


一緒にいるだけで幸せだった。


『あの人の愛を受ける事ができて幸せだった』


愛しい我が子をこの手に抱けて幸せだった。


『あの人の涙を見せて貰って幸せだった』


 弱さを見せて貰って幸せだった。


『あの人の無事を祈れて幸せだった』


 自分の元に帰ってきてくれて、心から幸せだと思えた。


『だから――――』


 レティは女性の腕に抱かれていた。

 暖かく、そして儚い温もり。

 その腕の中で、レティは大粒の涙を流していた。


「え? あれ? なんで……?」


 涙が止まらない。

 幸せなのに、嬉しいのに――――心が悲鳴を挙げるほど悲しい。


『だから――――あの人をお願い』


「あの人……?」


 あの人なんて知らない――――そう言おうとしたレティは、女性の顔を見て言葉に詰まった。

 女性は静かに、笑みを浮かべたまま泣いていた。


『――――いつも独りで抱え込んで、悲しい時は誰からも隠れようとする人だから……誰もあの人の本当の悲しみに気付けないの』


「でも、わたしじゃ……」


 レティにも分かる。

 この人じゃないと、あの人は――――


『大丈夫、あの人は絶対にあなたを拒絶しないから』


「でも……でも……」


 あの人は自分を拒絶した。それは変わらない事実だ。


『いいえ、あの人はあなたを拒絶していない。もし本当にあの人があなたを厭うなら、あなたを笑みで見送るはずはないの』


「――――ッ」


 レティは震える。

 あの人は自分を拒絶してはなかったのだ。


『あの人は怯えているだけ、あなたを喪うのが怖いからあなたを遠ざけようとしているだけ』


 それはきっと、あの人の優しさ。

 酷く残酷な優しさだ。


『――――あの人を支えてあげて。この世界でもっとも弱いあの人を、もう私たちにはできないことだから……』


「あ……」


 レティは自分の肩に触れた手に気付き、顔を上げる。

 そして、自分を慈しむように見る何人かの男女を見た。

 長い髪で鳥の翼のような耳を持つ女性。

 釣り目で長い淡い金の髪の女性。

 薄い碧色の髪で白衣を着た女性。

 双子のようにそっくりな朱と蒼の二人の少女。

 恥ずかしそうに顔を伏せながらも微笑んでいる給仕服の女性と、同じ服を着てこちらを無表情に見詰める青銅色の髪の女性。

 そっぽを向きながらも、チラチラとこちらを見ている檸檬色の髪の少女。

 よれよれの白衣を着た無愛想な老人。

 互いを見て微笑み合い、こちらを見て頷く一組の夫婦。

 レティを見て満面の笑みを浮かべる四人の子供。


『――――私たちはあの人の幸福を願い、あなたの幸福を祈るわ』


「でも……! わたしは……!」


 親友ほど人の心を救えない。

 もう一人のお兄ちゃんのように強くない。

 あの人の隣に立てるほど優しくない。


『大丈夫、あの人はあなたに強さも優しさも求めないから』


 女性はレティの涙を拭い、周りの者たちは二人を見守っている。

 そして、彼らの姿が消え去ろうとしている事にレティは気付く。

 もう時間はないのだ。

 女性はレティの肩を支え、その目を見詰めて最後の言葉を伝えた。


『ただ、あなたがあなたらしくあの人の隣に在れば、それだけで――――』


 消える。

 言葉と微笑みだけを残して、女性たちは光の粒と砕けた。

 その光は暖かく、最後の最後までレティに温もりを伝えようとしているようだった。














 レティはその後、大声を上げて泣いているところを再び保護された。

 レティを護衛していた者たちは揃って『あの少女はベンチで眠っていた』と報告し、目覚めて突然泣き始めたのだと説明した。

 副官もその報告を疑いはしなかったが、レティの見た女性と副官の知る司令官の令室の容姿が一致した事もあり、副官と護衛小隊の面々を混乱させた。

 レティと司令官の細君には面識がないはずであり、副官にしてみればまるで理解できない心霊現象のようなものだ。

 しかし思い切り泣いたのが良かったのか、レティは自分の足で良介のいる居住区画に戻っていった。護衛小隊の面々はほっと胸を撫で下ろし、副官もまた上司への報告を済ませて安堵の息を漏らしたという。

 そして翌日、護衛小隊はより大きな面倒に巻き込まれる事になるのだった。











 その日、レティが戻ってきてからの旧機動六課は色々慌しかったという。

 まず最初にリュウトの状態が議題となり、その不甲斐無さを嘆き、文句を言った良介が召喚魔導師アランによって次元の狭間に落とされた。一二〇秒後に救出された良介だが、彼はしばらく『クジラが……シャチが……サメがぁ……』と言って震えていた。

 その後グリフィスが議長を務めてこの部隊の今後を協議したが、彼らの上役である本局古代遺失物管理部の機能が麻痺しているというアランの情報により、現状戦力の維持を最優先するという何とも無難な結論に落ち着いた。

 次に挙げられた議題は、ギンガ・ナカジマ捜査官より提示された宮本良介への監視体制確認。監視対象が若干の抵抗を行ったという記録があるが、居合わせた有志数名により極めて平和的に解決されたらしい。監視体制の主権限をエリオ、キャロ、ヴィヴィオのちびっ子三人に委ねるという英断により、宮本良介の保父就任が決定した。


「――――で、俺はいつまでこのエプロンをしていればいいのでしょうか!? つか羞恥プレイかこん畜生!!」


 脱いだエプロンを床に叩き付けて吼える良介。

 だが背後に迫る殺気に気付き、すぐさま再装着を行う。


「それで、そっちはどうだったんだよ」


 良介はしばらく別行動を取っていた自らのメイドに問う。

 このメイドなら現状を打破する事もできるのではないかと淡い期待を抱きもしたが、その沈んだ表情を見て諦めた。


「――――ダメね。あたしが今まで作ったコネの半分以上が使い物にならなくて、残りも自分たちの事で手一杯。とてもこっちの助けまで手が回らないわ」


「うげ……」


 次元世界にも幅広い人脈を持つアリサだが、こんな状況ではその人脈も意味を成さない。

 それを踏まえてアリサは自分の主人に釘を刺した。


「つまり、あんたが無茶しても助けられないって事。分かってると思うけど、あんたは色んな所に色んな罪状持ってるんだから、下手に動かないでよ?」


「人を犯罪者呼ばわりか……!」


「――――――――世界によっては死刑判決出るような罪も一応あるけどね……」


「オーケー、俺は公然と引き篭もるぞ。ようこそ素晴らしき無職怠惰な世界」


「何言ってるのよ、まったく……」


 呆れたように良介を見るアリサ。

 しかし良介はそんなメイドの視線など柳に風、意気揚々とどこからか引っ張り出した炬燵の設営作業を始める。


「――――……一応聞くけど、何してるの?」


「あ〜〜……引き篭もり武装装着準備?」


「戻しなさい、可及的速やかに」


「――――――――」


「――――――――」


「――――――――」


「――――――――垂れ込むわよ、どこにとは言わないけど」


「!?」


 慌てて炬燵を撤収させる良介。

 最近主従関係が逆転してるんじゃないかと思いつつも、アリサ無しでは浮浪者確定の彼には何も言えない。言ったとしても数百倍の嫌味により報復されるのが落ちだろう。


「――――つーかよ、お前がいると監視なしって横暴じゃ……」


「みんな忙しいの、あんたみたく無職じゃないんだから」


 一刀両断。

 二の句も三の句も継げなかった。


「――――――――どの神様でもいいからこいつの性格丸くしてくんねぇかなぁ……」


 土台無茶な願いを神に祈る良介だが、その願いを叶えるような命知らずの神など、いるはずもなかった。

 奥の本棚から適当な本を選んだヴィヴィオが駆け寄ってくる。


「ぱぱ〜〜これ読んで〜〜」


「おう任せろ」


 自称孤独の剣士宮本良介。本日もしっかり手綱を握られていた。











「そう言えば、さっきレティに何か言ってたわよね? 今度は何吹き込んだの?」


「ああ、あの大絶賛引き篭もり中の陰険提督最大の弱点を突こうと思ってナ。俺が殴っても意味無さそうだし、時間も無さそうだし」


「まあね、それはともかく弱点って?」


「――――――――野郎は俺以上に女運がない。そして俺以上に女が怖い」


「――――――――」


「――――――――」


「――――――――自分で言ってて空しくないの?」


「聞くなよ、俺も引き篭もりたくなるから。いやマジで」


「――――何言ってるの?」


「つーか、あいつって典型的な蟻地獄タイプだしなぁ……」


「――――――――釣った魚に気まぐれに餌をやるタイプとどっちが問題かしら」


「は? 何言ってんだ?」


「しーらない」











 リンディが驚いたのは、まず第一に落ち込んでいたはずの親友が復活していた事だ。

 あれだけ落ち込んでいる親友など初めて見たから、どうやって慰めるべきか頭を悩ませていた。しかし、結果から云えばそれは無駄骨。親友は勝手に復活していた。

 しかし同時に、頭のリミッターが吹き飛んでいた。


「――――れ、レティ……どこから持ってきたのそれ……」


「スバルさんだとかティアナさんだとかの機動六課の人たちに借りた。意外と用意してるものね」


「それも失礼な気がするけど……」


 レティが選別しているのは色とりどりの薄い布。

 もっと分かり易く言うなら女性用下着だった。


「――――恋するとこういう分野にも気を使うって言うけど……」


 レティはそう言って親友を見る。


「――?」


 何も分かっていないようだ。

 レティは嘆息しつつ下着の選別に戻る。


「流石にランジェリーショップまでは営業してなかったから、借りられて助かったわ。――――っく! スバルさんのじゃ大きすぎる! あ、ティアナさんのは丁度いいわ」


「――――――――れてぃがこわい……」


 もはや誰にも止められそうもない親友に戦々恐々のリンディ。こんな親友など今までに二度しか見た事がない。

 きっと機動六課の女性陣も同じ気持ちで下着を供出したのだろうと思う。


「――――買ったきり使ってないって感じね。これは大変そうよリンディ」


「なんでわたしに言うのぉ〜〜?」


 しかもなんでそんなに勝ち誇っているのでしょうか――――リンディは若干ビビりつつも少しだけ腹が立った。確かに自分の下着は子供っぽいかもしれないけど、これはこれで動きやすいのだ。文句を言われる筋合いはない。

 しかしそんなリンディの内心などレティには関係ない。

 最近とみに膨らみが大きくなり始めたリンディの胸を凝視し、おもむろに揉む。


「え? え? ちょ、っとレティ……!」


「――――む、また大きくなったような……」


 身を捩じらせて逃げようとするリンディを後ろから羽交い締めにして、レティの暴走は続く。

 上上下下右左と全方位に捏ね繰り回し、その感触から成長具合を確かめる。

時折リンディが『あぅん……』だの『うぅん……!』だのと熱い吐息と共に何とも言えない声を上げているが、この幼馴染にはまったく関係ない。むしろ"リンディを大人しくさせるポイント"を狙っているらしく、余計に事態を混乱させている観がある。


「――――――――あれだけ甘いものばっかり食べてるのに……まさか全部胸に……くっ負けて堪るもんですか」


「れ、れてぃ……も、もうダメぇ…………」


 ぶつぶつと分析を始めるレティに最後の力を振り絞って訴えるリンディ。その様子に気付いたレティは、ようやく親友の胸を解放した。


「あ、ごめん」


 解放された瞬間にへたり込むリンディ。

 腰が抜けているらしく、辛うじてレティを見上げるだけで動こうとしない。


「――――――――そんなものどうするの……?」


「お兄ちゃんを"説得"しに行くの」


「――――――――それでなんで下着?」


 至極真っ当直球ど真ん中のリンディの突っ込み。


「――――――――」


「――――――――」


「――――――――しょ、勝負下着ってこういう時に使うんじゃないの?」


「――――えー?」


 その時のリンディの呆れたような顔を、レティはこの後一生忘れなかった。













「レティ、本当に行くの?」


 その後、機動六課の寮母であるアイナに管理局本局の制服を用意してもらい、レティはそれに着替えていた。これなら施設内を歩いていても目立たないし、リュウトのいる区域に入るにも都合がいい。

 さらにアランが身分証を用意し、その姿を見て管理局員以外だと思う方が難しいという程度までは到達した。

 そしてようやく出発という時、リンディがレティに問い掛ける。

 ソファに座ったまま身体を反らしてレティを見ている。垂れた髪がさらさらと床に流れていた。


「どうしてそんな事訊くの? わたしはこの時の為に――――」


「違うよ」


 リンディは体を起こし、レティから視線を外した。


「リュウトお兄ちゃんが本当にそれを望むの、って事」


「リンディ……」


 この親友は時折物事の本質を的確に突いてくる。

 理論武装も針の穴を通す一撃で貫いて、相手のもっとも聞かれたくない事を聞いてくるのだ。


「お兄ちゃんはわたしたちの持って来た情報で何か対策を思い付くと思う。今更わたしたちが何かしなくても、お兄ちゃんは自分たちだけで何とかするんじゃないの?」


「――――――――」


 リンディは決してレティを見ない。

 それはレティの顔に怒りが滲んでいると気付いているからだろうか。


「それに、お兄ちゃんはレティに近付いて欲しくないって思ってるんでしょ?」


「そ、それは……」


 レティの怒りが急速に萎んでいく。

 あえて考えないようにしていた事実を突き付けられ、何も反論できなかった。


「行ってどうするの? もう誰も要らないって思ってるお兄ちゃんに無理やり自分を押し付けるの? それともお兄ちゃんの大切だった人たちを忘れろって言うの? レティは一体何をしたいの?」


「わ、わたしは……別に……」


「――――だったら行くのやめなよ」


 リンディはここで初めてレティに顔を見せた。

 その顔は、レティが今まで見た事がないほど強い怒りで満ちていた。


「良介お兄ちゃんになんて言われたか知らないけど、今のレティは悪い事しようとしてる。リュウトお兄ちゃんの傷を無理やり抉じ開けて、無理やり治して、さも自分がお兄ちゃんを救いましたって言おうとしてる」


「リンディ……」


 レティは親友の怒りの理由に気付いた。

 リンディは二人のお兄ちゃんが好きだ。だからそのお兄ちゃんが辛いと思う事が嫌いで、それを行おうとしている自分が許せないのだ。


「確かにリュウトお兄ちゃんは最低だよ。レティの事なんて何にも考えてないし、自分の都合ばかりだし……。でも――――」


 リンディはレティを睨み、何の躊躇いもなく親友を蔑んだ。


「レティも一緒。こうする事が一番お兄ちゃんを傷付けるって分かってるのに、自分が傷付きたくないから自分を押し付けようとしてるんだ」


「ちが……」


「違わない」


 リンディはなおも否定の言葉を継ごうとするレティを追い詰める。

 親友だからこそ言わなくてはならない。

 これ以上進む覚悟があるのかを、進んだ先にある傷を背負う覚悟があるのかを――――


「それでも行くなら、お兄ちゃんとずっと一緒にいなくちゃならないよ。お兄ちゃんがどんな人になっても、レティが隣で支えなくちゃいけない。お兄ちゃんの近くはきっと温かいけど、絶対に逃げられない場所だと思う」


 リュウトが逃げないのなら、その隣に立つと決めた人間もまた逃げられない。

 そう、リュウトと共に立ちたいのなら、リュウトと同じ重さの覚悟がいる。


「リュウトお兄ちゃんが大切だと思った人たちは、きっとその覚悟があった。どんな時でもお兄ちゃんの傍にいて、正しければ一緒に進んで、間違っていたら何があっても正しい道に戻すっていう覚悟。お兄ちゃんに凭れ掛るだけなら行っちゃダメ。一緒に同じだけ傷付く覚悟がないなら、このまま良介お兄ちゃんと一緒にいるべきだと思う」


「わたしは……」


 レティは親友の言葉に何も言い返せない。

 覚悟があるともないとも言えず、ただ言い澱むばかり。


「――――良介お兄ちゃんも同じくらい大変な人だけど、あの人から離れる事はできる。それが良介お兄ちゃんの優しさで、自分が縛られないから絶対に人を縛らない。でも、リュウトお兄ちゃんは違う」


 確かに違う。

 レティにもそれは理解できる。


「良介お兄ちゃんとリュウトお兄ちゃんの一番の違い、多分それは縛られているか縛られていないか。誰にも縛られない代わりに常に孤独を強いられ、それでも自分でいられる強さ。多くを得られる代わりに常に多くのものに縛られ、それでもなお自分を自分だと言い切れる強さ。あの二人は限りなく近くて、もっとも遠い二人なんだよ」


「――――――――」


 リンディは良介に惹かれ、レティはリュウトに惹かれた。

 幼い頃から共にいた二人ではあるが、レティの選択次第ではここで大きく道を違える事になる。


「どうするのレティ。レティがここでリュウトお兄ちゃんの所に行けば、もうわたしたちは……」


 もう、共にはいられないだろう。

 リンディは世界を渡る謠と共にあり、レティは泰然たる大樹と共にある。

 時に道が交わる事はあっても、ずっと隣にいる事はもうできない。


「――――それに、わたしたちはきっといつか向こうの世界に帰る事になる。それはすぐなのかもしれないし、ずっと先の事なのかもしれない。それでもきっと、わたしたちはこの世界にとって異邦人のまま……」


 こんなにも思慮深い親友を見たのは初めてだとレティは思った。

 いつも自分の周りを跳ね回っていたはずなのに、この世界に来てから急に大人びた。確かに自分たちの歳ならそれが当たり前なのかもしれないけど、こんなに子供っぽくて大丈夫かと心配になった事もある。

 でも、その心配はもうない。


「――――リンディは、どうするの……?」


 だってほら、わたしの大事な親友はこんなにも強い。


「決まってるよ。わたしはお兄ちゃんと離れてもいいくらい強くなる。お兄ちゃんが困った時にはいつでも助けられるくらい強くなる。お兄ちゃんの"うた"を世界に届ける風になるんだ」


 "うた"と共にあるために"風"になる。

 世界に歌を響かせる風となる。

 リンディはそう言って笑っていた。


「きっと同じくらい大変な人を好きになったんだよ、わたしたちは……」


 そうだと思う。

 近寄り難き故に離れ易き"謠"。

 近寄り易き故に離れ難き"大樹"。


「だから、後悔しないようにしなくちゃ」


 リンディの言葉にレティは頷く。

 心残りがあれば自分は後悔する。なら、心残りの無いように。


「――――リンディ」


「なに?」


 それがたとえ別れを強いるものだとしても――――


「わたしは――――――――」


 空に伸びる大樹を目指す。














 負傷したリュウトは、護衛小隊の小隊員の警護を受けて危機管理部専用となっている医務局に担ぎ込まれた。

 幸いな事に治癒魔法の効果が期待できるレベルの負傷であったため、リュウト負傷の情報は危機管理部内で留め置く事ができた。管理局内に余計な混乱が起きなかった事は、不幸中の幸いと言えるだろう。

 しかし護衛小隊の面々は自らの最高司令官を負傷させるという大失態を犯してしまったと大いに落ち込み、その存在意義に賭けて二度目はないと息巻いていた。その後はリュウト本人の意思を半ば無視するようにしてその護衛を務めている。

 そして現在、リュウトはその医務局のベッドで診察を受けているところだった。

 肩に引っ掛けられた制服の階級章と飾緒だけが、怪我人然としたリュウトを管理局の将官足らしめている。


「――――リンカーコアは問題なしです。怪我の方も応急処置が効いて大した事はありません、こちらの高位治癒魔法でほぼ完治させました。ですが、無理はなさらないようにお願いします。提督の血液型はストックが少ないんですから、無限に輸血することはできないんですよ」


 専用の医療器具でリュウトの身体を走査していた医務官が、そう言ってベッドの上のリュウトに念を押す。自分の目の前にいる人物が、隙あらば自分の仕事を増やすタイプの人間であると知っているからだ。

 これ以上仕事を増やされたくない、そんな感情が表情に出ていたのだろう。リュウトは医務官に苦笑を見せて頷いた。


「――――ええ、あなたの迷惑になるような事はしませんよ。それでいつここから出られますか?」


「――――――――」


 医務官は溜息を吐く。本当に休むべき人間は休まず、仮病で仕事をサボろうとする者ばかりが休んでいる気がした。それはどこの組織でも言えるのかもしれないが、今の司令官閣下に休みを取らせる事ができる人間が果たしてどれだけいるだろうか。

 そんな事を考えながらも、彼は頭の中で組み上げた治療スケジュールを確認する。


「――――退院するだけなら明日にでも。その代わり……」


「定期的に診察を受けるように、でしょう?」


 医務官の言葉を奪うリュウト。いつも同じ事を言われていれば造作もない。


「――――――――分かっていらっしゃるなら結構です」


 医務官は憮然として頷く。ここで何を言っても、この司令官は状況次第で無理無茶無謀の病を発病するのだ。

 だが少なくとも、今自分ができる事はすべて終えた。医務官は持参した医療機器を纏めると一礼する。


「それでは、私はこれで……」


「ええ、ありがとうございました」


 リュウトは医務官に礼を述べる。その返事に再び頭を下げると、医務官はそのまま退室していった。

 医務官が退室すると、それと入れ違いに一人の女性将官と三人の佐官が入ってくる。彼らはリュウトに敬礼すると、その答礼を待って姿勢を正した。


「――――休め」


 その声で体の緊張を適度に緩める将官と佐官。相手がベッドの上だろうと上官である事に変わりはない。

 そして、唯一の将官である少将が一歩進み出る。


「――――お怪我の具合はよろしいのですか? 我々としては、最悪面会謝絶を覚悟していたのですが」


「最高の皮肉だな少将。だが生憎、こうして元気に関係各所に迷惑をかけている」


「それは重畳。迷惑も適度ならば喜んでお受けしましょう」


 少将はそう言って恭しく頭を下げる。

 不遜な態度ではあるが、それもリュウトとの信頼の上にある態度だ。

 この少将はリュウトの元で情報戦等の責任者を務めている。付き合いはリュウトの士官学校時代まで遡るから、古い知り合いの部類に入るだろう。


「――――それで、私の負傷に関して目立った動きを見せた世界は?」


 リュウトの言葉に少将は頭を振ると、やれやれというように肩を竦めた。


「どこも動きません。偶然動きを見せたと思われる世界はありましたが、結局大した動きには発展しませんでした」


「ふむ、向こうもなかなか慎重だな。これで大きな動きでも見せてくれればこちらにも手はあったというのに……」


「こっちの分野はそんなものでしょう。相手がアリス・バニングスだっていうならともかく、今の相手じゃあ正直役不足です」


 件のアリス・バニングスの正体を知るリュウトは内心苦笑する。この少将、何度もアリス・バニングスに煮え湯を飲まされているのだ。アリスに勝つためにその腕を磨いており、ある意味今ではもっとも熱烈なアリス・バニングスフリークかもしれない。

 リュウトがそんな事を考えている間に、少将の話題は次に移っていた。


「それはともかく、本部長の行動に関しては色々揉めてますよ」


「――――だろうな」


 これだけの混乱の先駆けになったのだ、問題になっていないはずがない。リュウトはそう考えたが、少将の話は違う事のようだ。


「勘違いしてもらっては困ります。本部長の行動というのは、一人で賊とやり合った事ですよ」


「何?」


 リュウトは低い声で問う。

 不機嫌そうに眉根を寄せるリュウトに、少将以外の佐官の一人が口を挟む。


「今更我々実働部の警護を断った事に文句は言いませんが、できるならすぐに我々を呼んで欲しかったものですな」


「――――む……」


 自分の倍は生きている佐官の言葉にリュウトは反論もできない。レティたちの持ってきた情報のせいで些か思考が混乱していたとはいえ、確かにそれは失策だった。

 さらに別の佐官が苦言を継ぐ。


「総務課としても余計な戦闘は勘弁していただきたい。今更予算をケチる気はないですが、余計な出費を容認していると思われては心外です」


「――――ぐ……」


 執務室の扉の修繕は無料ではない。さらには実働部隊が動くだけで予算は消費される。算盤のプロフェッショナルからの文句はリュウトにも反論不可だ。

 そして最後の佐官、その中で唯一の女性がリュウトに止めを刺さんと口を開く。


「さらに問題なのは、提督が我々を無視して行動したという点です。せめて我々補佐室くらいには事情の説明があって然るべきでは? 何より内外からの突き上げで目を回しそうな私たちの仕事を倍にするとは、我々補佐室に何の怨嗟あっての事でしょうか……!?」


 その女性佐官はいつの間にかリュウトの胸倉を掴んでいた。若干涙目になっているような気もするが、このタイプはそれを指摘すると大変な事になる。リュウトは賢明にも黙って謝罪する事を選んだ。


「――――ええと、関係各位には大変申し訳なく思っており、今後はこのような事が無いよう個人的には努力しようと思います……」


「――――――――」


「――――――――」


「――――――――」


 少将以外の佐官三人が固まる。

 そして次の瞬間、その額に青筋が浮き出た。


「つまりは提督以外の要因があればこのような事態も再度起こり得る、と?」


「さらにはそうなったとしても自分は何もできないから覚悟しておけ、と?」


「最後に、努力はするけどそれ以上は約束できないから万が一の事態が起こっても許せ、と?」


「――――――――」


 リュウトはどう答えるべきか迷う。

 三人の言葉を聞く限り、自分の言葉はほぼ確実に相手に伝わったらしい。しかし、正直伝わって欲しくない部分まで伝わってしまったようだ。

 そしてそのような場合、リュウトの階級も魔導師ランクも関係ない。


「――――――――」


 未だ痺れの残る体を叱咤し、リュウトは三人の部下を宥めようと口を開く。


「――――――――せ、正解……?」


 堪忍袋の緒が切れる音がした。














 流石に上官に対する暴力は駄目だと判断したのか、有能なリュウトの部下たちは上官に精神的な苦痛を与えるのみで仕置きを済ませた。

 肩を怒らせて病室を出る三人の部下に弱々しく謝罪の言葉を告げ、リュウトは力無く椅子のようにリクライニングされたベッドに背を預ける。


「――――気を遣わせてしまったのでしょうかね」


「お分かりになるなら、少しお休みになったら如何ですか? 本部長の仕事振りには我ら全員敬服するばかりですが、無理をなされても良い事はないでしょうに」


「ふふ……良い事が無くとも、悪い事があるよりマシというものです」


 リュウトは少将の言葉に苦笑して大きく息を吐く。

 止まらずにいる間は良かったが、こうして停滞した環境下にいると心身の疲労が一気に襲ってくるようだった。ひどく身体が重い。それが精神的な要因であるのか、それとも身体的な要因であるのかは分からないが、少なくとも陰鬱な気分だった。


「皆さん呆れていらっしゃるでしょう。自分たちの上司が大量殺戮者になり、そして身の程も弁えずに病院行きですからね」


「――――――――前者に関しては、まあ我々のほとんどは納得していますよ。幸か不幸か本部長の手足となった我ら、その意図も理由も知っていますので」


「そうですか……」


 リュウトは天井を見上げて呟いた。自分には勿体ないくらいの部下たちだと思う。こうして多くの人々に恨まれる上司を持ったというのに、それに関して自分に文句を言う者はいない。


「ですが本部長、今後の我々の行動についてはある程度の指示を頂きたいものですね」


「――――今後?」


 リュウトは少将に呆けたような顔を向けた。

 優秀な部下だが、今自分が置かれている状況を見てそう言っているのだろうか。


「――――今後と言っても、私にはもう……」


 そう自分が表舞台に立つ事はもうない。

 すべき事はあるが、それはあくまで裏方に徹して行う予定だ。しばらく経てば、危機管理部も別の人間に委ねられる事になるだろう。

 そうなればこの部下たちとも別れる事になる。


「君たちには感謝している。危機管理部が行った諸々の非人道的行動の責任は私がすべて引き受けるから、今後は新しい本部長の下で――――」


 乾いた音がリュウトの言葉を遮る。


「――――――――」


「――――――――」


 打たれた頬をそのままに佇むリュウトと、振り抜いた手をそのままにして顔を伏せる少将。打たれた側と打った側、その表情はまるで逆だった。


「――――これで足りますか、少将」


「――――――――っく!」


 少将が顔を伏せたままリュウトを睨み付ける。

 その目に憎悪はなく、ただ悔しさだけがあった。


「正直打たれてホッとしているよ。君にまで慰められたら、私はどうしていいか分からない」


「アニーの事ですか……?」


「――――――――それも含めてだよ、少将」


 この少将はリュウトの妻であるアンジェリーナとも同期だった。その後も交友は続いており、エイミィとも友人関係であるとリュウトは知っていた。


「彼女は私の妻であったが、君の友人でもあった。友人を殺されれば誰でも怒りを覚えるだろう」


「――――――――」


 諦念を滲ませたリュウトの言葉に、少将は再び俯いた。

 確かにそんな感情が無いと言えば嘘になる。だが――――


「――――私は、本部長を恨む事など……!」


「――――――――」


 恨む事などできはしない。

 これ程までに疲れ切った友人の良人をどうして恨める。

 家族を失い、それでもなお戦い続けている男を何故恨める。

 彼女はリュウトを恨んでいなかった。

 だが――――


「――――ただ! 本部長が諦めている事が悔しいんです! 本部長が間違っておられるならば我らが正します! 諫言申し上げる事を躊躇った事など一度たりともありません! だというのに、なぜ我々にご下命下さらない! 我ら危機管理部員一同、本部長の命令とあらば全世界を敵に回す事すら厭わないというのに!!」


「もはや大勢は決した。私がこれからする事は、決して私の言葉によって為されてはならないのです」


 リュウトにはたった一つの策があった。

 だがそれには各世界の協力が不可欠。その協力を要請する時に自分がいては、管理局は各世界の協力を得られないとリュウトは考えていた。

 少将にもそれが伝わったのか、彼女は悔しさに歪めた顔をリュウトに向けて問い掛ける。


「――――それが……本部長のご決断なのですか……?」


 是、と言われれば自分は従わなくてはならない。

 ここで叛旗を翻せば、それは友人に対する裏切り以外の何物でもないのだから。

 彼女はリュウトに否と言って欲しかった。そうすれば自分の力を存分に奮う覚悟ができる、この本部長に地獄の底までついていく覚悟ができる。自分の能力を信じ、重用してくれたリュウトに対する恩を返せる。

 しかしリュウトは、彼女の望みとは裏腹に小さく頷いた。


「――――――――ええ」


「――――――――」


 覆る事はないと分かる。

 自分に覆せない事も分かる。

 故に辛く、どうしようもないくらいに悲しい。


「何故……なのですか……?」


「――――――――」


 最近は同じ事ばかりを訊かれる。

 何故、とばかり訊かれる。

 それはおそらく、自分に"戦え"という事なのだろうと思う。

 もう一度"戦え"と、自分の周囲の者たちは言っているのだ。

 だが――――


「――――もう私に、戦う力はありません。だからです」


 もう、戦う事など選べやしない。

 戦う事も許されない。

 あの時戦う事を選んだ代償は、今こうして戦う力を奪われる事だ。


「私が戦う事を世界は望みません。世界が欲しているのは戦いではなく安寧。私という存在はこの世界にとって害悪に成り下がってしまった」


 自分が守れるのはあの時まで、これからは別の人間たちによって守られなくてはならない。


「アニーさんを想うなら、あなたも新しい上司の下で精一杯働いてください。あなたも他の皆さんも、私には勿体ないくらいの部下でした。本当に感謝しています」


 引き際を誤った武人ほど惨めなものはない。

 時が来れば退き、後に託すのが先達の役目だ。自分は決して優秀な指揮官ではなかったが、引き際だけは間違えたくない。


「ですから、私の最後の頼みとして聞いてはくれないでしょうか?」


「――――――――」


 リュウトは俯いたままの彼女の肩に手を置き、触れた瞬間にその肩が震えた事が嬉しかった。それだけ自分を想ってくれた者がいた、それは十分に幸せな事だ。


「近いうちに私はもう一度だけチャンスを作ります。おそらくあの敵に勝つ最後の機会になるでしょう。その時、あなた方には全力で戦っていただきたい」


 自分の分まで。


「私はこの命に代えても必要な舞台を整えましょう。すべての世界の力を集め、乾坤一擲の機会を作り出す。私の役目は、私にできるのはそこまでです。その後は良介君とリンディさん、レティさんの力を借りて最後の戦いをしてください」


 あの三人ならきっと勝利を?み取るだろう。

 自分は共に戦えないが、きっと大丈夫。


「――――本部長は、どうなさるおつもりですか?」


「分かっているのでしょう? 私が何をしようとしているのか」


 あなたはそれだけ優秀だった。

 リュウトの目がそう語り、彼女はなおも深い悔しさを味わう。これだけ自分を信頼してくれている上司に対し、自分はもう何もできない。何かしようと考えるだけで、この上司を苦しめる事になってしまう。

 こんな時、自分が何の肩書きもない人間だったらと思う。そうだったなら、自分は自分の思った通りの事を言い、訴えることができるのだから。


「――――――――もう、あの方たちには会わないのですか……?」


 旧機動六課。今は本局統合幕僚会議預かりになっている部隊には、上司にとって大切な後輩や友人たちがいるはずだ。このまま別れる事になってもいいのか、彼女はリュウトにそう問う。

 しかし、リュウトは頭を振るだけ。


「会える訳が無い。今の私と関わりがあると知れたら、それこそ最後のチャンスを潰す事になります」


「ですが……!」


 このまま別れる事を彼らは決して望まない――――彼女はそう訴える。


「彼らは優しいですから、私の事で悲しんではくれるでしょう。ですが、いつまでも立ち止まっている人たちではありません。心配ありませんよ」


 しかしそれでも、リュウトは拒否する。

 自分の望みと願いだけ彼らに届けば良いと、そう思っていた。


「彼らと共に戦ってください。舞台を整える事が私の役目、実際に踊るのは、あなた方と彼らの役目です」


 彼女は気付く、もはや自分には止められないのだと。

 すでに自分は組織に取り込まれている。その役目を果たす事でしか彼に応える術が無い。


「――――私の想いを伝える役目、頼まれてはくれませんか?」


 だから、彼女は頷く。


「――――はい」


 自分の愛する司令官が望む未来を、その手で掴み取ると誓うために。











 そこで少女に出会った事は、彼女にとって幸いの始まりだったのかもしれない。

 涙を抑え切れず上官の病室から逃げるように飛び出した彼女は、扉の前で硬直したままの少女を見る。

 その表情を見て、すべてを聞いていたのだと理解した。

 彼女には病室の防音の不備に憤る暇も無く、また少女に言葉を掛ける余裕もなかった。

 だが、それで良かったのだと考える。

 言葉を交わすほど親しくはない。ならば、相手の心を察するほど親しいはずもない。

 しかし、ただ一つだけ分かる事がある。

 この少女は、あの上司を引っ叩いて目を醒まさせる事ができる人間だ。

 あの分不相応な重圧に耐えている若き英雄に、人としての心を取り戻させることができる存在だ。

 上司の妻となった友人のように、或いは上司の周囲にいた女性たちのように。

 同じ男では一緒に騒ぐだけで役に立たない。だが、女ならばその悪ふざけを一喝の下に治めることができる。古今東西、男を御せるのは女と相場が決まっているのだ。


「――――――――」


 異性は心を狂わせるというが、同時に心を鎮める事もできる。

 人を知る人は孤独ではいられない。

 人を求め、温もりを求める。

 おそらくあの上司も、心の何処かでは誰かを求めているはずだ。

 それは自分ではなく、管理局の誰でもない。


「――――――――」


 求めるな、と彼は言った。

 求められよ、と彼は言った。

 自分たちは必要とされる存在になってはならない。だが、必要とされた時に躊躇う存在になってはならない。

 ただ、自分たちは必要とされぬ事を目指す存在になる。

 それこそが自分たちの存在意義となるのだから――――


「――――――――」


 危機管理部創設の言葉は、自分たちが否定される事を望む言葉だった。

 いつか自分たちが否定される世界を見てみたい――――それが彼の望みだった。

 そして自分たちはそんな彼に惹かれ、こうして犬馬の労を望んだ。

 否定されるために戦うのだと言った彼のために、自分たちを認められない世界を見るために進むのだと言った彼のために、自分はこうしてここにいる。


「――――――――」


 そう、我らは無意味になるために。

 この少女に、託そう。














 リュウトの病室の前で会った女性は、明らかに部外者であるレティを咎める事も無くその場から去っていった。

 この制服に誤魔化された訳ではないという事は女性の顔を見ればすぐに分かった。正直に言うなら、すぐにここから追い出されると思った。

 だが、女性は何も言わず、ただ自分に一瞥の視線を向けて去っていった。


「――――――――」


 胸の前で拳を握る。

 あの女性の視線に込められた感情が、レティには理解できたから。


「――――ありがとう、ございます」


 託してくれたのだと思う。

 自分に、何の力もない小娘である自分に、あの人を頼むと。


「――――――――」


 ならば、応えなくてはならない。

 あの人に立ち上がって貰わなくてはならない。

 もう一度、あの二人が並び立ち、戦うために。


「――――よし」


 意を決して扉横のインターフォンを押す。ピピッという合成音が響き、数秒後に彼の声が聞こえた。


「どうぞ」


 その声が聞こえた瞬間、レティは身体が緊張していくのを感じた。

 しかし、逃げようとする自分の身体を叱り付けて一歩前に進む。その動きに合わせて、自働扉がその役目を果たした。


「し、失礼します」


 扉の向こうに見えたのは、背凭れを起こした大きめのベッドに座るあの人。自分の姿を見て驚いたように一瞬だけ目を見開いたその姿に、レティは心の中で安堵の息を吐いた。

 ほんの少し緊張の取れたレティは、小さく頭を下げて病室に入った。


「――――良かった、元気そうで」


 レティは思った事をそのまま口に出した。

 あれだけの傷だから、治るまでに時間が掛かるかもしれないと考えていたが、この世界の医療技術はなかなか優秀らしい。

 レティはリュウトが驚いたまま何も言わない事をいい事に、彼の座るベッドに近付いた。


「お見舞い、って思ったんだけど、こんなに元気なら必要なかったかな……」


 お見舞いという免罪符を手にここまで来たが、やはりそれでは駄目なのだろう。

 自分の気持ちを伝えたいなら、すべての建前や誤魔化しを脱ぎ捨ててぶつからなくてはならない。


「――――何故、ここに……」


 だってほら、彼は自分の気持ちだと知らずにこんな事を問うて来る。

 誤魔化した言葉では届かず、飾り立てた言葉では意味が無いのだ。


「お兄ちゃんが心配だったっていうのは、多分本当」


「多分?」


 レティは頷く。

 確かに心配だった。だが、もっと別の感情があった。


「わたしは、お兄ちゃんに文句を言いに来たの」


「――――文句、ですか?」


 そう、文句だ。

 自分をあれだけ否定したこの純粋培養天然鈍感男に、自分のすべてをぶつけるために。


「お兄ちゃん、もう一度聞かせて」


 そして同じ事を言ったら、もう許すつもりはない。


「お兄ちゃんは、わたしがどこにいるべきだと思う?」


 絶対に許さず、絶対に認めない。


「――――――――」


「答えて」


 一生を懸けてでも、償って貰う。


「――――彼の、良介君の傍に……」


「っ!!」


 レティは、自分の力のすべてを振り絞ってリュウトの頬を叩いた。











 この痛みには、正直慣れている。

 だが、何故だろうか、いつもより痛む。


「――――――――」


 ああそうか、彼女が泣いているからだ。

 怒っている訳でもなく、憤っている訳でもない。

 ただ純粋に、哀しんでいるからだ。


「――――んで……」


 自分を睨み、大粒の涙を零して哀しんでいる彼女の姿が、ひどく綺麗だからだ。


「――――なんで、そんな事言うの……!?」


 綺麗で綺麗で、自分の汚さが良く判るからだ。


「わたしは、お兄ちゃんの力になりたくて――――」


 自分がこの綺麗な"女性"を汚していると思えてしまうからだ。


「ううん――――お兄ちゃんと、一緒にいたいのに!」


 だから、自分は痛みを感じている。


「――――君は、本当に美しく聡明になったんですね……」


「お兄ちゃん……」


 できるなら、もう少し平穏な時に再会したかった。

 彼女の思い出を聞き、笑みを浮かべ、お茶を飲み、ただ平穏な時間を共に過ごしたかった。

 だが、今はもうそんな時ではない。


「だから、君には彼の許にいてほしい。彼はもう一度戦う事になるはずだから」


「お兄ちゃんは……?」


 リュウトは頭を振る。何度も同じ事をしているなと思いながら、それでも。


「私はもう君たちと同じ場所では戦えない。そういう意味では、もう私は戦えない」


「――――なんで……」


 レティは悲しげに歪んだ顔でリュウトを見詰める。その目が、リュウトには辛かった。


「責任、というものですよ。――――戦いを先導した責任です」


 世界を生き永らえさせる為、リュウトは多くを切り捨てた。

 その責任は、問われて然るべきだ。


「多くの人々が死にました。戦いを役目とする人々だけではなく、彼らに守られるべき人々も」


 確かに多くを救った。

 だが、同時に多くを殺した。

 だから――――


「私はもう、人々の前に立って戦う人間ではない」


「――――――――」


 レティはリュウトの言葉に驚きはしなかった。

 ただ、この人はもう生きるつもりはないのだと確信した。

 あの時死ななかったのは、あの時がリュウトにとって死ぬべき時ではなかったからだ。

 おそらくあの時にはもう、リュウトは自分の死に場所を見つけていたのだ。だから死ねなかった。死に場所を見つけたのなら、其処以外では死ねない。


「――――だから……」


 だから――――


「だから、わたしを拒絶したの……?」


 共に死ねと言わず、違う人と共に生きろと言った。


「――――――――」


 リュウトは答えない。

 しかし、それこそが肯定。


「お兄ちゃんは、それでいいの?」


「ええ、それでいいのです」


 躊躇い無い言葉。

 そして、迷い無き瞳。

 レティが、ずっと憧れていた人がそこにいた。


「――――――――」


 しかし、レティにはもう認める事ができない。

 如何にその決意が固くても、自分にはもう受け容れる事はできない。


「――――お兄ちゃんの……」


 受け容れたら、もうあの人の隣にはいられない。


「お兄ちゃんの……馬鹿!!」


 いる資格が無い。


「――――レティさん……」


「黙って! もうお兄ちゃんの言葉なんて聞きたくない!」


「――――――――」


 認めない。認めるなどできない。


「どうして! どうして一言わたしを呼んでくれないの!?」


「――――――――」


 哀しい、そして空しい。

 あの人を助ける事ができなかった自分が、情けない。


「わたしが嫌いならそれでもいい! 会いたくないならそれでもいい! だから、わたしを否定して!!」


「――――――――」


 あなたを嫌いになるほど否定して欲しい。

 自分などいらないのだと、自分のすべてを否定して欲しい。


「お願いだから! わたしを認めて遠ざけるのはやめて!!」


「――――――――」


 そして、悲しい顔で見送らないで欲しい。

 辛い、辛いのだ。

 自分を想ってくれる人が、自分を遠ざけようとするのが。

 だが、だが――――


「――――ねえ、お兄ちゃん。これだけ教えて」


 あと一度、一度でも自分を認めてくれたら、自分は覚悟を決めよう。


「お兄ちゃんは、わたしの事どう思ってる?」


 共に、戦う覚悟を。


「もう二度と聞かないから、本当の事を教えて」


 共に、終わる覚悟を。











「――――――――大切、ですよ」


 失いたくないくらいに。











 レティはリュウトの言葉を聞いた瞬間に、ベッドに飛び乗っていた。

 取り繕う余裕も、考えも無く、リュウトの唇に自分のそれを重ねていた。


「――――――――」


 驚いたようなリュウトの顔を見て小さく微笑み、そして目を閉じる。

 二度と裏切らない。

 この気持ちも、自分も、決して。


「――――――――」


 この温かさを失いたくない。

 守られたいわけではない、ただ守りたい。


「――――ぅん……――――は……」


 逃れようとするリュウトを追いかけ、何度も何度も温もりを感じ、その想いを確かめる。

 自分が子供だと思えるし、馬鹿かもしれないと思う。

 しかし、裏切れない。自分を、この人を。


「――――ぁ……ん……」


 涙の味も、あの人の温もりも、夢であるようで、そして残酷な現実のようで。


「――――おにい……ちゃん……」


 この時を失いたくないから、あの人を失いたくないから。


「――――リュウ……ト……」


 空に昇る虹雪を見送ったあの時の願いは、今、この時のために――――














「ねえ」


 レティはリュウトから少しだけ離れ、その顔を見詰める。

 リュウトは、レティの澄み切った瞳に圧倒された。誰かに似ている、そう思った。


「もしもあなたがわたしを想って遠ざけようとしていたのなら、もうその必要はないよ」


「――――何を……」


 レティはリュウトの口を人差し指で塞いだ。

 まだ自分の喋る番。


「もう決めたから、必要ないの」


「――――駄目だ、それだけは……」


 レティの決意は分かる。だが、リュウトも黙って受け容れるほど易しくはなかった。

 どれだけ辛いか容易に想像できる道だ、レティを一緒に連れて行く事はできない。リュウトはそう言ってレティを見詰める。

 近いな、リュウトはそう思った。


「分かって欲しいとは言いませんし、むしろ臆病者だと思ってもらっても構いません。私には君を巻き込む覚悟が無いんです……」


 あの笑顔を知っているから、あの日の思い出を忘れられないから、臆病と罵られても連れて行く事は――――


「――――いいよ、覚悟がなくても」


「な……!」


 リュウトは驚いて顔を上げた。そして見る、笑顔で自分を眺めるレティの顔を。


「わたしはわたしの覚悟でお兄ちゃんと一緒に行く。お兄ちゃんが駄目と言っても勝手についていくから」


「レティさん、それは……」


 リュウトは押し付けられたままの身体を押し返し、レティの両肩に手を置く。

今まで触れていたレティの身体は昔とは随分違うように思えたが、そんな思考はすぐに消え去った。彼を知る者なら苦笑したかもしれない。


「私をどれだけ恨んでもいい。必要なら憎んでもくれても構いません。ですから、私の言葉を聞いて下さい」


「嫌」


「レティさん……」


 自分の近くにいる女性はどうしてこうも気が強いのだろうか――――リュウトは自分の行動も顧みずに嘆いた。

 しかし、レティがリュウトの考えを理解していていなかったといえば、そういう訳でもない。彼女はリュウトの考えを、ほぼすべて理解していた。

 リュウトが自分をどれだけ想っているのかも、すべて分かっていた。

 だが、いや、だからこそ彼女は自分の意志を徹すと決めたのかもしれない。


「リュウトお兄ちゃんがわたしを心配してくれてるっていうのは分かるよ。それは嬉しいし、理由も分かってる」


「なら……」


「でもね」


 レティは再びリュウトに抱き付いた。

 リュウトの胸に顔を埋め、幸せそうに笑う。


「わたしは、それがほんの少しの時間だとしても、こうしてお兄ちゃんと一緒にいるほうが幸せだよ。良介お兄ちゃんも好きだけど、一緒にいるならお兄ちゃんがいい」


「でも、私は……」


「わたしを穢すのが怖い?」


「――!」


 リュウトは身体を強張らせてレティを見た。

 レティは顔を押し付けたまま、こちらを見ていなかった。


「自分は沢山の人を見捨てたから、沢山の人を見殺しにしてしまったから、自分の身体は多くの血で穢れてしまったから、だから怖いの?」


「――――――――」


「ねえ、そうなの?」


 リュウトは一瞬だけ誤魔化す事を考え、それを諦めた。

 そんな事はしたくなかった。


「――――ええ、その通りです。だから……」


「だったら、簡単」


 レティは何でも無いというように、リュウトに顔を見せないまま告げた。


「穢して」


 そう、彼女にとっては大した事ではない。

 それが必要な事なら血に塗れる事も厭わない人間を、彼女は心から想っているのだから。


「あなたが、わたしを穢してくれればいい」











 リュウトはレティの言っている意味が分からなかった。

 自分の翻訳が間違っているのかもしれないと、二十年も使い続けたミッドチルダ語の基礎を思い出そうともした。

 しかし、冷静になればすぐに分かる。彼女の言葉も、その意味も。


「――――お兄ちゃんが穢れているなんて思えない。でもお兄ちゃんがそう思っているなら、わたしはそれを否定しない。でもね、それならわたしを同じくらい穢して欲しいと思ったの」


 レティはリュウトの胸に、強く強く顔を押し付けた。

 背中に回した腕も、先ほどよりも強い力でリュウトの身体を求めている。


「そんな事でわたしを置いていかないで。わたしはお兄ちゃんの傍にいたい。ずっと、ずっと」


「――――それは、一時的な感情ですよ。君にとっては十年振りの再会、それで気持ちが昂っているだけです」


 リュウトはレティの身体に触れようとする自分を抑え付け、努めて冷静に言葉を発する。レティは若い、自分よりも十歳以上年下だ。自分には無かったが、きっとこういう時期もあるのだと思う。

 そんな思考に支配されたリュウトは、自分が落ち着いていない事に気付かなかった。

 少なくともこの時のリュウトは、レティの言葉に動揺していた。


「私がもう一度作るチャンスに、あなたは必要不可欠だ。しかし、私の存在は絶対ではない」


「だから、わたしを遠ざけるの?」


「レティさん、私はあなたが心配なんです」


 或いは初めて、リュウトは自分の心をそのまま口にした。

 なんの装飾も余計な気遣いもないリュウトだけの言葉。

 レティは知らないが、リュウトがそんな言葉を口にした人間は多くない。


「先ほどの事をお忘れですか? 私の取った行動は多くの人々に恨まれる結果になった。それを後悔する訳ではないし、する必要もない。ですが、君は違う」


「――――何が違うの?」


「君は私の隣で穢れてしまっていい人じゃない。私の我が儘だという事は重々承知の上、ですが、それでも君には良介君やリンディさんと一緒にいてもらいたいんです」


 頼むから分かって欲しい。

 もう誰かを失う事には耐えられないのだ。


「私は、この手で護りたいと願っても護れなかった人間です。だから君と一緒にいられない。共いる事が……怖いんです」


 手を伸ばした先にあった大切なもの。

 だが、今はもうどれだけ手を伸ばしても届かない。


「だから、彼らの元にいてください。彼らなら私の作るチャンスを勝利で飾れる。君は、元の世界に帰れる」


 レティはこの世界の人間ではない。

 もしもリュウトの考え通りに事が進めば、レティはこの世界から去らなくてはならないはずだ。そんな時、自分という存在と必要以上に関わっていれば、レティという存在に齟齬が生じる危険性がある。最悪、元の世界にも、この世界にも存在できなくなる。

 リュウトはレティにそう告げ、ただ彼女の翻意を期待した。

 しかし、リュウトの顔を見上げたレティは、彼の考えた通りには決して動かないという表情をしていた。


「――――それは、もう考えたよ」


「なら答えは決まっているでしょう」


「うん、決まってる」


 レティは誇らしげに笑い、そして告げた。


「それでも、お兄ちゃんと一緒にいる」


 その言葉を聞いた瞬間、リュウトは本気でレティの身体を引き剥がした。

 あまりに力を入れ過ぎて、レティが痛みに顔を歪める。

 だが、リュウトにそんな事を気にする余裕はない。彼は、怒りさえ感じられる表情でレティを見詰めた。


「君は! ――――君は、何故私を苦しめる!? 存在できない、帰れないという意味が分からないのか!? 時空超越体の存在によって歪んだ時間軸の中で存在を失えば、君の存在は根本から消え去るかもしれないんだ! 最初から存在しなかった事になり、誰の記憶からも消えてしまうかもしれないんですよ!?」


 それは、リュウトの記憶にも言える。

 レティの事を失うだけではない、失ったという記憶も失うのだ。

 哀しむ事もできず、ただ失う。リュウトには到底耐えられない。


「だからお願いします。私の頼みを聞いてください。君が大切だから、君を忘れたくはないんです……!」


 一度失い、忘れる事でもう一度失う。

 それは自分の死よりも辛い事だ。

 特にリュウトにとっては、気が狂いそうになるほどの苦しみだろう。

 いや、すでにリュウトは気が狂いそうだった。

 失う苦しみを知るが故に、失った事を忘れる事に耐えられない。


「だから……」


 リュウトは、この時初めて自分からレティを抱き締めた。

 きつくその身体を抱き、心中すべてを吐き出す。


「私に君を失わせないで欲しい! もう嫌なんだ! あの笑顔を失うのは……! あの思い出を悲しみで染めるのは!!」


 誰にも明かさなかった本心、それが感情の昂りとともに溢れ出る。

 子供のように涙を流し、ただみっともなく喚く。


「辛いんだ……! アニーさんやあの子たちを思い出で語るのが、少しずつ薄れていく記憶が……!!」


 どれだけ忘れたくないと願う記憶でも、人間はいつか忘れてしまう。それは当たり前の事で、同時にどうしようもない事だ。しかし、リュウトにはそれすら辛い。


「今になって気付いた……! 彼女たちの事を思い出すのが辛くて仕事に打ち込んでも、今こうして記憶を思い出そうしたら、少しずつ記憶が薄れ始めてる! 笑顔がぼやけて、声を忘れそうになって、握った手の感触が思い出せなくて……!」


 思い出す事が辛い。

 しかし、いずれ思い出す事はできなくなる。


「だから、私は……」


 レティはリュウトの背中を擦り、初めて聞くその本心を受け止めていた。

 そして思う、自分は誰にでも自慢できる恋をしたのだと。


「私は……」


 こんなにも自分を想ってくれる人には、もう一生出逢えないだろう。

 自分が大切なのだと涙を流してまで訴えてくれる他人には、もう絶対に出会えない。

 絶対などありえないと笑うなら笑えばいい、そんな事自分には関係ない。

 ただ自分は、喜んで彼の隣にいよう。


「――――ねえ、お兄ちゃん」


「――――――――」


 消える事が怖くないなんて言わない。けれども――――


「わたしが隣にいたら、お兄ちゃんはわたしの事を嫌いになりますか?」


「――――――――」


 この人を失う事は、もっと怖い。

 自分が消えるよりも、この人が消える事が怖い。


「お兄ちゃんの奥さんよりも、わたしは好きじゃないですか?」


「――――――――」


 だから、一緒にいようと思う。


「ねえ、お兄ちゃん」


 困ったように答える、この人と共に。


「――――――――いいえ……――――――――正直に答えるなら、どちらの質問も『いいえ』……です」


 ずっと、ずっと、この身が滅びるまで。











 レティはリュウトの身体を思い切り抱き締めた。

 リュウトの驚く顔も、強張った体も、今の彼女にはどうでもいい事。


「――――大丈夫、方法はあるから」


「方法……?」


 リュウトは訝しげに問い掛ける。

 その吐息がレティの耳をくすぐり、彼女は少しだけ身を捩じらせた。そしてリュウトに答える。


「――――この世界の存在として、わたしに楔を打ち込めばいいの」


「何故、そんな事を……」


「知ってるよ。もう何年も研究してきたんだから……」


 あなたと再会したくて、ずっと――――


「多分、お兄ちゃんよりもずっと詳しいよ。こういう事なら、だけど」


「――――そうですか……」


 リュウトはレティに顔を見せず微笑んだ。あの小さかった少女が自分よりも高みにいる、それが嬉しかった。


「――――だから、ね? お兄ちゃん」


「――?」


 密着したままだった身体を離したレティが悪戯を思い付いた子供のような表情でリュウトを見る。その視線に、リュウトは首を傾げて不思議そうな表情を浮かべるだけだ。

 そしてレティは、そんなリュウトの顔を見て苦笑する。


「しょうがないなぁ、お兄ちゃんは……」


 こんなにも自分が頑張っているのに、まったく気付く気配を見せない。

 きっとリュウトの近くにいた女性は、皆似たような気持ちになったのだろうと思う。


(ん〜〜、ちょっと可愛いと思うけど、ね……)


 このままだと、彼女は元の世界に帰るか消えてしまうだろう。

 それは彼女の望む事ではない。少なくとも、この世界にいなくてはならないのだ。

 リュウトの隣で、リュウトの見る世界を共に見るために。


「お兄ちゃん」


「――――何か?」


 リュウトは何も気付かない。

 レティの気持ちも、願いも、ただ――――


「わたしをずっと一緒にいさせてください。お兄ちゃんが満足するまで、わたしが満足するまで、お兄ちゃんの隣にいさせてください」


 この人は、自分を決して忘れない。

 この人は、自分を見てくれる。

 この人は、自分を必要としてくれる。


「何があっても忘れないようにずっと隣にいます。忘れそうになったら、わたしが思い出させてあげます。あなたがわたしを想ってくれる限り、わたしはあなたを必要とし続けます」


 そう、この人は想い続けてくれる人だ。

 自分を、自分の記憶を。


「だから、わたしを隣に立たせてください。誰かの代わりとしてわたしを見たりしない、わたしをわたしとして見続けてくれるあなたの隣に、ずっと、ずっと……」


 この世界が終わっても――――


「わたしやあなたが終わっても、ずっと――――」


 あの日に願った、夢の通りに――――


「あなたの隣にいたいから……」











 レティの願いを知り、リュウトは問う。


「――――――――私が君の考えているような人間でなかった時、君はどうしますか?」


「受け容れます、新しいわたしとあなたを」


「――――――――私が君を裏切った時、君はどうしますか?」


「信じます、わたしの信じるわたしとあなたを」


「――――――――私が君を傷付けた時、君はどうしますか?」


「願います、あなたが傷付いていない事を」


「――――――――私が君を否定した時、君はどうしますか?」


「肯定します、わたし自身とあなたを」


「――――――――私が君を見失った時、君はどうしますか?」


「待ちます、あなたと共に進む時を」


「――――――――…………最後に、あとひとつ……」


「はい」











「――――――――私が君を愛した時、君はどうしますか?」











 その言葉に対して発露するのは、歓喜、そして恐怖。

 リュウトの瞳に捕らえられ、抜け出せない幸福。

 至福と同時に感じる恐れ、それは幸いを失う事。

 幸福であるが故に存在する恐れ。

 だが、恐れるが故に――――理解する。

 自分は、愛されるが故に恐れ、幸せであるのだと。

 だから、自分は答える。











「愛します、あなたと、あなたに愛される自分を」


 永久に――――愛すると。














 熱を感じ、愛しき人を感じる。

 時を越えてまで辿り着きたかった場所の中で、彼女はただ慶びに泣く。

 触れる温もりが愛しくて。離れる温もりが恋しくて。

 この身を貫く意思に歓喜の詩を。この身で与えた意志に誓約の詞を。

 願う事が赦されるなら、ただ生きる事を。

 想う事が赦されるなら、ただこの人を。

 身を焦がす情念に幸福を賜り、心を震わせる言葉に至福を思う。

 愛しき人を受け容れ、愛しき人に受け容れられ、ただ天に誓う。

 この身に触れるあの人の指に道筋を。

 この身に触れるあの人の腕に力を。

 この身に触れるあの人の胸に決意を。

 この身に触れるあの人の唇に微笑みを。

 そして、この身と心を繋ぐあの人の瞳に未来を。

 この身に受ける楔を以て、自分はこの世界とあの人を繋ぐ剣となる。

 戦人であるあの人と共にあるために、戦人であるあの人を護るために、この身を穢し給え。

 この穢れこそがあの人との繋がり。

 この穢れこそが自分の誇り。

 永に終わらぬ祝詞をここに捧げ、二つの世界を結ぶ絆と成らん事を。














 リンディはようやく目的の人物を見つけてほっと息を吐いた。

 誰もいない深夜のロビーに難しい顔をして一人座る男こそ、彼女の探していた人物だ。

 彼女は気付かれないように足音と気配を殺しながら、それでも確実に加速する。

 一歩、一歩、確実に近付き、一気に飛び掛かる。


「おッにいちゃ〜〜ん!! みぃつけた!!」


 どん、という音を立てて背中に抱き付き、その耳を甘噛みする。

 途端、その男は立ち上がって彼女を振り払う。噛まれた耳を押さえ、紅潮した顔を隠さずにリンディを怒鳴りつけた。


「な、何しやがるか小娘!? 親にどんな教育されてんだよ!!」


「あっはは、お兄ちゃん真っ赤!」


 リンディは良介を指差して大笑いする。失礼千万の珍客に、良介の眉が一気に釣り上がった。


「赤くもなるわ! お前がいい歳してガキみたいな事するから!」


「いい歳って、わたしまだ子供だよ。お兄ちゃんがキスしてくれないもん」


「んぬぁにぃッ!?」


 良介はリンディの言葉に驚きと怒りの叫びを上げた。リンディの言葉には驚き、リンディに余計な事を吹き込んだ人間に対しては怒りが込み上げる。

 別にリンディ個人を子供扱いした訳ではない。単にリンディを気にかける暇がなかっただけだ。特に昨日今日と良介の周囲は騒がしく、彼もナンバーズの部屋と機動六課の宿舎を彷徨していた。


「アランか!? アランだな!! あいつが余計な事言いやがったんだな!?」


「余計な事じゃないよ。わたしがお兄ちゃんの事教えてって言ったら教えてくれただけ」


「――――何て言ってた?」


 あえて心を落ち着けてから問い掛ける良介。しかし、リンディの言葉の前には無意味に帰する。


「主にちっちゃいのが好み」


 その言葉に一気に高まるヴォルテージ。良介は両手を挙げて吼える。


「こ、ころぉおおおおおおおおおおおおおおすッ!! 全力でぶっ殺す!!」


 自分を毛嫌いして幾星霜。口を開けば自分への皮肉かリュウトの名前というアラン・フォーレ。彼の事なら、良介も十二分に嫌いだった。


「なんであいつは本人がいなくても俺を怒らせるんだ!? 嫌いか!? 嫌いなんだな!? ああ俺も嫌いだ!!」


 映画に出てくる怪獣のように吼える良介。リンディはそれを楽しそうに見ている。

 いや、実際に楽しいのだ。

 十年間会えなかったのはリンディも同じ、いくらレティよりも会う時間が多いとはいえそれだけでは足りない。だからこうして自分から楽しみを求める。

 会えなかった時間を埋め、再び同じ時間に立つために。


「なんでそんなに嫌いなの? アランって悪い人じゃないよ」


「それはお前がリュウトの客だからだ! リュウトの味方とっては味方! 敵とっては敵! それがあいつだ!」


 ぎゅぴんとリンディを指差す良介。ふうむ、と顎に手を当て、リンディは考え込む。

 その理屈で言うなら、リュウトは良介の敵という事になるのではないだろうか。


「リュウトお兄ちゃんは、お兄ちゃんの敵なの?」


「――――――――」


 良介はその言葉に黙り込む。つい先日大喧嘩をして以来、リュウトとは何の関わりも持っていない。そういう意味では、リュウトの敵にもなり得ないはずだ。

 それ以前に、アランの自分に対する態度は昔から変わらない。むしろ初対面から変わらず険悪だ。

 だが、良介はリュウトの敵になった事はない。それは事実だ。


「お兄ちゃんはリュウトお兄ちゃんの友達? わたしとレティみたいに」


「違う」


「じゃあ何? 敵でも味方でもない、お兄ちゃんたちは何?」


 何、と訊かれればこれという答えは思い付かない。単に腐れ縁が長く続いているだけで、時には敵にもなった。

 だが、お互いの存在を否定したいほどの悪意を抱いた事はなく。最近は適当な場所で将棋を指したり碁を打ったり、もしくはこれまた適当な場所で酒を飲んだりする程度の付き合いしかない。

 深い話をする事も滅多に無く、共通の話題を持ち出してだらだらと会話するのがいつものパターンだった。


「――――つか、俺たちって何よ?」


 友人――――反吐が出る。

 仲間――――勘弁願いたい。

 家族――――自殺する。

 協力者――――協力したくない。

 債権者と債務者――――確かに。

 しかし、どれもピンと来ない。


「――――――――なんつーか、最近はアニーの方が会ってたような気がするしな……」


 あの屋敷は治外法権状態で管理局が手を出してこない。良介にとっては随分都合のいいセーフハウスだった。

 だが、同時にあの家には見た目だけ可愛い野獣がいる。都合は良くても油断はできない場所だ。

 それでも食事は美味かったが。


「――――実はお兄ちゃんて人妻好き?」


「俺の尊厳を木っ端微塵にするような事言うな!!」


 それでなくても以前妙な噂を立てられて面倒な事になったのだ。これ以上は勘弁して欲しい。


「というより、アニーはあいつにベタ惚れだからな、他の男なんぞ置物だよ」


 男によっては存在自体認識して貰えない場合もあるらしい。仕事なら別だが。


「でも、もう死んじゃったんでしょ?」


「――――――――」


 リンディは何でもない事のように事実を告げる。

 思わずリンディを見る良介だが、彼女に罪悪感はない。


「違うの?」


「――――――――」


 違いはしない。

 しかし、同時に違和感がある。

 つい先ほどまでなら受け容れられた事が、今は受け容れられないのだ。


「お兄ちゃんの大切な人たちも死んじゃった。違う?」


「――――――――」


 それも正しい。

 正しいはずだ。

 だがやはり、違和感が滲み出てくる。

 彼女たちは死んでいない。

 そう思えてくる。


「――――ねえ、お兄ちゃんはどう思う?」


「――――俺は……」


 リンディは透き通った瞳で良介を見詰めている。

 悪意も善意もなく、ただ良介の言葉を待ちわびていた。

 水を求める植物のように、ただ待つ。


「――――まだ、諦めてねえだけだ」


 正確に言うなら、諦めたくないという感情が芽生えてきたのだ。

 昨日までの感情とは違う、今の感情。


「レティがアイツを叩き起こせるっていうなら、まだ何とかなる――――そんな気がする」


「何で?」


「そういう役割分担なんだよ、俺とアイツが揃っている時はな」


 目標までの道筋を見つけたり整えたりするのはリュウト。

 そして、その道を走って目標を達成するのは良介。

 示し合わせた訳ではないが、自然とそうなった。


「まあ、たまに逆になったりしてるけどな」


 しかし、まったく同じ役目を務めた事はない。

 そして、事を成そうとする時、あの男の姿が隣にあった事は稀だ。


「アイツに頼る訳じゃねぇし、向こうもそんな事考えてないだろうけど、アイツはもう一度俺が戦う場所を用意する気がする」


「いいの? リュウトお兄ちゃんに任せて」


 良介は他人の掌の上で踊るのを好まない。

 リンディは短い付き合いながらも、それを理解していた。

 しかし、リンディの言葉にも、良介は苦笑するだけだ。


「いいんだよ任せりゃ、アイツにしかできない事をあいつがやって、俺にしかできない事を俺がやる。どっちが先になるかはその時次第。早い者勝ちなんてガキの理屈じゃ大した事できねえんだよ、俺たちの世界はな」


 良介がお膳立てをした事も多々ある。

 今更先駆けに固執する理由もない。


「今回はアイツが幹事だ。精々面白い宴会にしてもらおうじゃねえか……」


 くく、と意地の悪そうな笑みを零し、良介は窓の外に広がる星空を見遣る。

 リンディは良介の隣に座りながら、その手を伸ばした。

 白磁の如き手が良介の頬に触れる。


「――――ねえ、レティがお兄ちゃんを起こせなかったらどうするの?」


「別に、単に見込み違いだったってだけの話だ」


 良介はリンディの手を剥がしはしたが、隣に座った事には何も言わなかった。

 それで気を良くしたのか、リンディはその身体を良介の腕に押し付ける。猫が甘えるように体を擦りつけ、気持ち良さそうに目を細めた。


「――――でも、心配はしてないんでしょ?」


「まあな。アイツは誰か隣に立つ奴が居なきゃ駄目なタイプだし、レティは十分その資格がある。本人たちは気付いてねえだろうけどな」


 良介はリンディから少しだけ距離を取ると、目の前のテーブルに置かれたままの将棋盤に目を向ける。

 リンディは良介の行動にむっとしながらも、見た事のない将棋の駒に興味を引かれたようだ。


「何これ?」


「こっちのゲームだ。生憎中途半端なところで止まってるが、続きはそのうちできるさ」


 対局中に相手が呼び出されてしまい、中座したままの将棋盤。

 駒の位置が、それぞれの性格を示しているようだ。


「――――あの野郎、ゲンヤとかと比べても段違いの腕してやがるからな。テレビゲームは弱えのに……」


 格闘ゲームでは素人以下のリュウト。戦略ゲームなどは無類の強さを誇るが、アクション系のゲームはまるで駄目だった。


「つか、自分の子供にすら勝てねえらしい。――――しかも次男」


 ボタンを押すのがやっとの息子にすら勝てないリュウト。意外なところでバランス調整されているものだと良介は思う。


「まあ、今回はどっちにしろ俺が勝つがな」


 随分長く思考の時間を得ただけあって、良介はこの後の駒の動きを入念にシミュレートできた。これで連敗記録更新中の流れを叩き切るつもりだ。

 勝ち誇ったように笑う良介の顔を見ながら、リンディは悪戯っぽく微笑む。


「でも、リュウトお兄ちゃんの方が強いんでしょ?」


「う……」


 最後の一手で逆転された事もある。

 良介はそれを思い出して呻いた。


「じゃあこうしよう! わたしが練習相手になってあげる! それで試してみれば?」


「ううむ、少しは練習になるかもしれねえけど……」


 良介はリンディをじろじろと見る。

 その視線に少しだけ頬を赤らめたリンディ。恥ずかしそうに良介を見上げた。


「――――お前弱そう」


「あ〜〜ヒドイ!! わたしだってちょっとコツさえ?めばお兄ちゃんに勝てるモン!!」


「へーへー分かりましたよっと」


 ぷりぷり怒るリンディを宥めながら、良介は駒の位置を戻していく。その顔に満更でもない笑みが浮かんでいる事に、おそらく本人は気付いていないだろう。


「とりあえず基本から教えてく、必死で覚えろよ」


「必死って何!?」


「二度同じ事は言わない」


「って、ちょ、ええ!? め、メモ帳ないのお兄ちゃん!」


「ない」


「えええええええええええッ!?」


 その後、リンディは涙目になりながら将棋盤を睨む羽目になった。

 その姿はさながら小動物のように愛らしいものであったが、良介にとってはすでに何度も見たような光景。大して記憶にも残らなかった。











 そして何度目かの練習を経て、リンディは何とか良介の練習相手を務められる程度まで上達した。その上達ぶりはなかなかのもので、良介は途中から手を抜けなくなり始めていた。


「――――む〜〜……銀が邪魔……」


「そういうもんだ」


 それでも勝率は良介が圧倒的に高く、リンディは未だに譲って貰った勝利しか経験がない。


「ちなみにアイツの手なんてもっとえげつないからな」


「――――お兄ちゃんがえげつないって……」


 リンディの失礼な言葉に反応するかと思いきや、良介は何かを思い出すように目を閉じていた。

 しばらくその姿を見ていたリンディだが、良介がかたかたと震え始めたのを見て驚いた。


「な、何!? どうしたの!?」


「――――いや、そういやどこでもあいつはえげつない事をしていたと思い出してなぁ……」


 これは聞いてはいけない話が始まる――――それに気付いたリンディが良介の言葉を遮ろうと口を開いたが、その直前、良介の独白が始まった。


「いや、あいつはえげつないんじゃない、手加減を知らないんだ」


「――――え〜〜……」


 話が始まった以上、リンディは黙ってそれを聞くしかない。おそらく聞いても困るだけの話だろうが、ここで話を遮って良介の機嫌を損ねるのはよろしくない。

 恋する乙女の純情は、時としてその乙女を殺すのだ。


「一の目的果たせばいい処で、その十倍の結果を叩き出すんだ。あの野郎は……」


「え、別にいいんじゃ……」


「良くねえよ!? 野郎の思考はなのはよりぶっ飛んでんだぞ!?」


「え……」


 なのはって誰――――至極真っ当なリンディの疑問。しかし、その疑問を良介に解いて貰う事はできなかった。

 良介の言葉が止まらないからだ。


「いくら"ゆりかご"が月の力を使おうとしてるからって、『じゃあ月がなければいいんだ』ってどんだけアホな発想だよ!? しかもセルフで衛星破壊しようとか考えるし!! その上"ゆりかご"に適当なアステロイド引っ張ってきてぶつけようとか作戦立案してたし!! いくらなんでも中身死ぬわ!!」


「――――――――」


 何て破壊的――――リンディは開いた口が塞がらない。どうしてそうも簡単に天体規模の攻撃をしようとするのか、正直理解に苦しむ。


「いつぞやは某国の発掘要塞を一刀両断してフェイト涙目。また別の時は衛星軌道から人質に付けられた爆弾の起爆装置撃ち抜いてなのは涙目。さらに機動六課の指揮官技能抜き打ち試験始めてはやて涙目。そしてその度に嫁と副官と使い魔涙目。もう常識外れもいいとこだぞ、アイツは!!」


「――――――――」


 呆れて何も言えないリンディ。

 あのお兄ちゃんがそんな人だったなんて、今まで知らなかった。


(レティ、大丈夫かなぁ……)


 自分で嗾けといてなんだが、このままでは親友がとんでもない道に進んでしまいそうだ。

 というか――――


「――――向こうからすれば、お兄ちゃんも似たようなものじゃないのかな……」


 ぽつりと呟いた言葉だが、リンディにはもの凄く納得できる事であった。今まで会ってきた人たちの話を纏めると、全自動でそんな答えが出てくる。

 ――――――――本人は否定するだろうが。


「少なくともアイツが本気で切れた時はマジで天変地異だからな! 本気で天が裂けて虚数空間出てくるし! 地が割れてマグマ吹き出るし! 海が凍ってワカサギ釣りかこん畜生! ワカサギは淡水魚だぞ!?」


 そうですか。

 リンディは答える元気も失いつつあった。


「あれで魔力総量なのはたちの半分以下ってなんの詐欺!? あの三人娘どれだけ魔力無駄遣いしてんだよ!」


 おそらく経験の差であると思われるが、何より使い勝手の良い魔力量というものもあるのかもしれない。多くても使いこなせなければ意味はないのだ。

 しばらく叫んだ良介だが、この頃になってようやく落ち着いてきた。

 おそらく最近溜まったストレスが解消されたのだろう。その顔には清々しささえ見える。


「――――つーわけで、レティが先代魔王の嫁になったらストッパー役を期待する」


「いきなりレティ生贄なの!?」


「魔王に生贄は定番だ。きっちりあんな事やこんな事されてたぞ本妻は」


 子供がいたのだから当然だ。

 しかし、リンディは親友の未来が本気で心配になってきた。自分はとんでもない事をしてしまったのかもしれない。


「――――ど、どうしよう……」


「は?」


「――――レティ、リュウトお兄ちゃんに食べられちゃったら……」


「いや、いくら野郎でもカニバリズムはねえから。つか、奴は一応人間だ」


 良介は即座に突っ込む。リンディの言葉は、文字通りの意味以外はないと分かっていた。


「確かに野郎は手当たり次第に――――って待て待て、大丈夫だ、あんな子供にまで手は出さないから! 嫁は小さかったが!!」


 うるうると涙目になったリンディを必死で宥める良介。こんな所で泣かれたら今度こそ反省室行きだ。それにしても失礼な物言いだが、リュウトの嫁=小さいという定義は管理局のみならず次元世界共通の認識であり、良介を責める事はできないだろう。


「とっかえひっかえ――――じゃない! エヴァやらゆりえとかもいたし、一切の罪悪感なく浮気するような最低野郎ではあったが、あいつの場合は合法だから! 古代から続く伝統的ハーレムだから! というか、根本的に好きな奴に順位つけられないヘタレなだけだから!!」


 良介が喋れば喋るほどリンディの目は潤んでいく。ここまで悪意無く他人を貶められる人間も珍しい。


「なんせ嫁のプレゼントにデバイスだぜ!? エヴァには護身用の警備端末だし、ゆりえには簡易防御フィールド展開アクセサリーだったりするぞ」


「――――――――」


 そういう本人は釣った魚に気まぐれに餌をやる男だ。良介の周りの女性陣も相当苦労していると思われる。


「あと嫁との旅行に妾呼んだという伝説を作ったりもしたが、概ね誠実だと俺は思う!」


「――――――――」


 当時は観光地として有名なとある地方に人口空白地帯ができたというが、おそらく複数名の女性が発する瘴気によって起こった現象だと思われる。

 ちなみにその"原因"はなんの疑問も抱かずエスコートをしていたという。


「つまりあれだ。レティはちゃんと幸せになる」


「――――え?」


「安心しろって事だよ。あいつは女を怒らせる事に関しては次元世界一だが、女を不幸にしたって話は聞いた事ねえ」


 良介は困ったように頭を掻きながら続ける。


「アイツの周りにいる女共はいつも誰か怒ってたが、別に不幸だった訳じゃねえぞ。親や兄弟、同僚なんかには、いつも幸せそうにアイツの事話してたって聞いてる」


 決して人間同士を比較しない人間。

 能力や資質を比較する事はあっても、その人間そのものを比較した事はない。

 だから、リュウトは多くの人間に慕われた。


「俺から見りゃ単に比べるって事が苦手だっただけなんだが、自分を一番好きになってくれる男が自分の好きな男だったら、きっと幸せなんだろうさ。結婚すりゃ人生に責任持つって言って嫁の家乗っ取って再興するし、エヴァの家なんてアイツのおかげで毎年増収増益だし、ゆりえなんかは聖祥で有名なバカップル教師だぞ、授業中に旦那の自慢ばかりしてる」


「そ、そうなの?」


 リンディは別の意味でも常識外れなリュウトの話に、呆れるやら可笑しいやらで複雑な表情を浮かべていた。

 どうやら、親友の心配は必要無さそうだ。


「どいつもこいつも『わたしは幸せです』って看板背負ってるようなもんだからな。周りの連中は隠れて笑ってたくらいだ」


「そう、なんだ……」


 しかしそれは、良介にも言える事なのではないだろうか。

 リンディの見た限り、良介の周囲にいる女性も同じような表情をしていた。

 どれだけ怒っていてもどこか幸せそうで、リンディは少しだけ気後れしてしまった事もあるほどだった。

 アリサは文句を言いながらも笑みを浮かべて良介の世話を焼いていたし、スバルは良介と一緒に訓練したいとちびっ子二人と同盟を組んでまで良介に訴えていた。ティアナは良介に気付かれないように破れた服を繕ってたし、ギンガはヴィヴィオたちの面倒を見ている良介だけは笑みを浮かべて見逃していた。

 それは、リンディの気のせいではない。

 良介は確かに彼女たちに笑みを与えていた。

 大切な友人や仲間がいなくなって消えてしまった彼女たちの笑みを、良介は蘇らせる事ができたのだ。


「――――お兄ちゃんは、どうなの?」


 だから、聞いておきたい。

 自分は元の世界に戻ると決めているけど、それでもこの人を想っていていいのか。


「お兄ちゃんなら、周りの人を幸せにできる?」


 リンディは良介の目を見詰めて問う。その瞳の前では誤魔化しなど不可能だと思わせる瞳。この世にこれ以上ないと思えるほど美しい宝石だ。


「――――あ〜〜……」


 そんな瞳に見詰められ、良介は困ったように視線を泳がせた。

 普段なら適当にあしらう質問だが、こんな状況ではそれもできない。

 だから、正直に答えた。


「――――――――正直、分からん」


「お兄ちゃん……」


 失望したという表情を浮かべるリンディ。誤魔化されたと思った。

 しかし、良介はそのまま続ける。


「でもな、あいつらがいて俺は少しだけ幸せだと思った」


「え……」


 珍しく、非常に珍しく良介は静かな表情で窓の外を見詰めた。


「変に取り繕う必要もなくて、意地を張り続ける必要もなくて、助けを求めれば絶対に手を差し伸べてくれて、俺には勿体ないくらいだって思った」


 十年は長い。

 その間に繋がれた絆は、良介とリュウトをこの世界に引き戻すだけの力があった。


「最初の頃、俺があいつらに対して抱くのは劣等感ばかりだった。自分は絶対間違わないって勘違いして、勝手に色々巻き込んで、大した事のない意地を通して、結局自分じゃ何もできなくて――――――――みっともなく逃げようとした事もある」


「――――――――」


 リンディは黙って良介の独白を聞いていた。ただ、良介の手に自分のそれを重ねようとして、躊躇い、何度もそれを繰り返す。

 自分が触れても良いのか、その自信が持てない。


「でも、逃げたって誰かに迷惑掛けるだけだった。ある女は俺に自分の血を分け与え、ある女は自分の魂さえ差し出したんだ。俺は、自分がどれだけ小さい男だったか少しだけ気付いた」


「――――――――うん」


 意を決して触れる。

 拒絶は、されなかった。


「想ってくれた奴を裏切って、戦いたいって思った奴に助けられ、それでもあいつらは俺の手の届く場所にいて、俺を裏切らなかった」


 裏切らない強さ。

 他人だけじゃない、自分を裏切らない強さだ。


「どれだけ強いかを力だけで決めてた頃もあった。心なんて力のオマケみたいなもんだと思ったのかもしれない。だけど、俺は力だけじゃ誰にも勝てないって知った」


 単純な力だけでは無意味な世界。

 心を持ってこその力が必須条件の世界がある。


「魔法の世界なんてものを知った後、俺はとある男に会った」


 見た目だけなら優男といってもいい風体。

 だが、その目には御神の剣士にすら劣らぬ覚悟があった。


「そいつは次元世界中の戦場を見て、歩いて、戦って、人間の汚い部分を見せ付けられ続けて、それでも理想を抱き続ける強さを持っていた。そして、戦う事を否定も肯定もせず、自分の名前と責任だけで人を率いていた」


 正義ではなく覚悟を以て。

 借り物の正義ではなく、自分だけの覚悟で戦う事を是とする魔法の世界の剣士。


「どいつもこいつも強いってのに、俺をバカにする事もしねえ。頼みもしないのに勝手に俺を認めて、裏切っちまっても裏切る事はしなくて、俺だけの強さを認めてくれて」


 決して強さは一つではない。

 それを知り、人は新しい強さを手に入れるのかもしれない。


「アイツは俺を強い人間だと言った。なら、俺はアイツの考えているよりも強くならなきゃ満足できない」


 自分が強くなれば強くなるほど相手の強さが理解できる。

 それは幸福であるのか、それとも不幸であるのか。


「恭也もアイツの事は気に入ってるみたいだったな。香港の連中にも誘われてたし」


 正確に言うなら、良介も同じように誘われていたのだが、彼はその誘いを保留したきり返事をしていない。そしてそのまま、この状況になった。


「――――この騒動が収まったら、一度顔見せに行こうかね……」


 良介はぼんやりと呟く。

 リンディはそんな良介を見詰めたまま、何も言わずに身体を寄せた。何故だかは分からないが、そうしてもいいような気がした。


「まあ、それはともかく。俺としてはあいつに潰れてもらっちゃ困るわけだ」


「それで、レティを?」


「おう。世の中には絶対なんて滅多に無いが、少なくとも、奇蹟に似た何かを起こせる人種ってのはいるもんだ」


 それを奇蹟と呼ぶ事はないのかもしれない。

 だが、確かに何かが変わる。


「結局、人間なんてものはそうそう変わるモンじゃない。アイツは何があっても、駄々甘な提督サマのままだろうさ」


 ただ甘いだけの男なら大した事はない。だが、甘さを棄てないまま高みに昇る男もいる。


「――――お兄ちゃんも結構甘いと思うけど……」


 リンディは良介の顔を見上げながら子供のような笑みを浮かべた。

 良介はそんなリンディに一瞬だけ鋭い視線を向けたが、すぐにそれを逸らして天井を見上げる。

 しかし、その頬は赤みを残したままだ。


「――――――――あいつよかマシだろ」


「――――――――うん、お兄ちゃんはお兄ちゃんだけだからね」


 リンディはそれだけ言って、良介に全身を預けた。

 そして目を閉じ、こう思う。

 自分たちは世界を越えてでも叶えたい願いを持てた、幸福な人間だと。













「あ、そういえばお兄ちゃん」


「ん?」


「リュウトお兄ちゃんのお嫁さんにさ」


「――――おう」


「レティけしかけたのお兄ちゃんだってバレても平気なの?」


「あ」














 リュウトは、数日ぶりに満足の行く睡眠を得て活動を再開する思考に心地良さを感じていた。

 今ならば、自分の昨日までの行動が間違ってはいないまでもそれなりに問題のある行動だったのだと素直に認識できる。とりあえず心の内で部下何名かの名前を呼んで謝っておく。


「――――さて、どうしたものか」


 天井を見上げてぽつりと零した台詞は、今回の争乱が始まって以来、初めての台詞だとリュウトは気付かなかった。以前なら独語として何度も零した言葉だというのに。

 だが、この言葉からも分かるように、リュウトの意識は数日前の状態に限りなく近くなっていると言えるだろう。無論、家族の死は今もリュウトの胸を締め付けているし、自分が見殺しにした多くの人々の事も忘れる事はできない。

 それでも、今のリュウトには明確な目的ができた。

 死を甘受する事に変わりはないが、それは然るべき処分を受けてからと決めた。

 ここで言う然るべき処分とは、今回の争乱に際して被害を受けた全世界の総意で下される処分であり、間違ってもごく一部の有力世界の判断で下される処分ではない。

 つまりリュウトは、もう一度世界を自分に処分を下せる状態に戻さなくてはならないという事であり、あの敵から次元世界を取り戻さなくてはいけないという事になる。

 もっと簡単に言うなら、次元世界近代史上最大の戦に勝利するという事。


「――――ふむ、何とも面倒な……」


 制服に着替えながら、リュウトはぼやく。

 あれだけ部下にも知人にも見捨てられるような事をした自分が、もう一度戦おうというのだ。面倒以外の何物でもない。


「――――やらなければならない事は山積。自分がやりたいと思う事はその先に……って事ですよねぇ」


 みっともない事だが、簡単にこの命を差し出すわけにはいかなくなった。

 責任でも何でも無く、単に覚悟の問題だ。


「どうせ死ぬなら、全部奪還してから死にたいですしね」


 こんな先の見えない状況で死ぬのは、自分を上司として仰いでいる者にも、自分を慕ってくれる者にも失礼だと思える。

 自分はそれほど大きな人間ではないと思うが、最低限の責任は全うしなくてはならない。


「――――とりあえず、刀自に各世界政府への根回しを頼んで……」


 それが戻れぬ道だとしても、誰かが自分の事を憶えていてくれるならそれで良い。


「良介君には私掠船団の方たちでも説き伏せてもらいましょうかね」


 世界を救う覚悟を以て、偽神に喧嘩を売るのなら――――


「さてさて、私の価値はどの程度のものでしょうか」


 世界を滅ぼす覚悟を以て多くの人々を死地に導こう。


「一度だけでも奇蹟を起こせる程度の価値は、あるでしょうかねぇ」


 それが未来を、可能性を奪い返す事だ。

 リュウトは静かに扉を閉めながら、自分の進む道を見据えた。














 リュウトがその人物を訪ねたのは早朝だったというのに、件の人物はすでに朝食を摂り終えた後だった。

 しかしこんな時間に訪ねてくるほど暇な人間は他におらず、申請から数分後には面会がなった。


「――――おはよう、リュウト」


「おはようございます、議長」


 リュウトは目の前に座る老婦人に頭を下げて挨拶する。

 老婦人――――ミゼットは、そんなリュウトの所作に少しだけ眉根を上げた。自分が最後に見たときよりも、その動作に感情が篭っているように見えたからだ。

 そしてリュウトが顔を上げた時、ミゼットは自分の考えが正しかったと確信する。


「――――随分久しぶりに会った気がするわ」


 ミゼットは微笑む。それは様々な感情が、ひとつの形となったものだ。


「それほど時間は経っていないはずですが」


 リュウトはミゼットの言葉の意味に気付かない。不思議そうに彼女を見詰めるだけ。

 しかし、ミゼットにとってはその表情すらも懐かしい。


「いいえ、今のあなたに会うのは久しぶりよ」


「――――――――そうですか」


 リュウトはそれ以上何も言わなかった。

 ミゼットが嬉しそうに微笑んでいるのを見ても、表情を変える事はない。ただ、その瞳が少しだけ笑みを宿していた。


「それで、この老人に何の用かしら?」


「――――――――」


 ミゼットは上機嫌にリュウトに訊ねる。

 ここ数日は良い知らせなどほとんど無かったが、彼女にとってリュウトの変化はそれを補うほどに良い事だった。

 しかしリュウトは、そんなミゼットに何かを言おうとして、躊躇う。

 一度拒絶した相手に物事を頼むというのは、リュウトでなくとも緊張するものだ。


「どうしたの?」


 だが、結局頼まなければならない。

 自分でもできない事ではないが、今の情勢ではミゼットに頼むのが一番の上策。リュウトはそう自分に言い聞かせてミゼットに向き直った。


「――――ひとつ、大きな頼み事が」


「――――――――あら」


 絞り出すようなリュウトの言葉に、ミゼットは目を見開いて答えた。

 心の底から驚いた。そんな様子だった。


「あなたが? 私に?」


「――――恥を忍んで」


 リュウトは辛うじて保っている無表情にすべてを賭けた。この表情が崩れたら、自分はどんな表情をするか分からない。

 しかしそんなリュウトの努力を吹き飛ばすように、ミゼットが声を抑えて笑い始めた。


「ふふふ……」


「――――何か?」


 嘲笑ではない。だが、笑うような事が他にあっただろうか。リュウトは真剣に考える。

 しかし、答えは分からなかった。


「――――――――」


 無言でミゼットの顔を見詰めるしかないリュウト。

 そんな表情に気付いたのか、ミゼットはようやく笑みを抑えてリュウトを見上げた。


「――――ごめんなさいね、ちょっとびっくりしちゃって」


「は……」


「それで、どんな頼みかしら?」


 リュウトは一瞬だけ考え込んだ。

 しかし、今更やめる事もできないのだから進むしかない。


「――――各世界政府に、残存戦力すべての出兵を認めさせてください」


「――――――――なんですって?」


 流石のミゼットも、リュウトの言葉が信じられなかった。


「管理局の戦力だけでは足りません。それどころか残存戦力すべてを集めてもギリギリです。それでも勝ちを取りに行くのなら、出し得るすべてを出し切らなくてはなりません」


「――――つまり、戦うという事?」


「は、現在危機管理部の幕僚団に作戦案の修正を行わせています。修正だけですので、半日以内に結果を出させます」


 リュウトは、先ほど自分が危機管理部の司令部に入った時の部下たちの顔を思い出した。

 自分の顔を見て驚き、そして自分の命令を嬉々として受け容れてくれた部下たちに、リュウトは感謝してもしきれない

 半日以内に修正案を提出してみせる――――嘗てリュウトが見出した幕僚団は、自信を持ってそう申告した。ならば、リュウトはそれを信じるまでだ。


「それに伴い、それまでに各世界すべての参加する会議を二つ、設けていただきたい」


「二つ?」


「はい、各世界政府首脳の集まる最高会議と、各世界の制服組トップの集まる会議です」


 リュウトはミゼットの顔を見詰めたまま続ける。


「そして、刀自には政府首脳たちに出兵を認めさせてもらいたいのです」


「――――なら、制服組の集まる安全保障会議の方はあなたが?」


「はい」


 リュウトははっきりと答えた。

 もう一度、人々の前に立つと。


「――――それでいいの? いきなり殺される事はないにしても、簡単に説き伏せられる人たちじゃないわ」


 なんなら、それも自分がやってもいい――――ミゼットはそう言っているのだ。

 元々そういう役目はミゼットのものであり、リュウトはミゼットほど経験が無い。たとえ政府が頷いても、実力組織が納得しなければ満足のいく軍事行動などできないのだから、ミゼットの提案は間違ったものではなかった。

 しかし、リュウトは首を振った。


「この作戦ではひとつの問題も命取りになります。管理局に私がいる限り、向こうは私という存在をカードにして主導権を握ろうとするでしょう。今更主導権争いなど、愚の骨頂」


「つまり、最初から自分が前面に立ち、それを認めさせた上で主導権を握ろうと言うの?」


「はい」


 自分が管理局最大の弱点だと言うのなら、それを責められない状況を作り出すしかない。

 ミゼットはリュウトの意図に気付き、椅子に背を預けてゆっくりと息を吐いた。


「――――認められなかったら、どうするの?」


「私をその場で裁くところまで持っていきます」


「――――作戦開始までに自分を裁かせ、管理局への影響を最低限に抑えるのね」


「はい」


 ミゼットはもう一度大きく息を吐いた。

 確かに、相手がどれだけリュウトを問題視しても、一度裁かれてしまえば文句は言えない。自分たちで裁いた人間の責任を問うなど、自分たちの低能さを曝すようなものだ。


「確認してもいいかしら」


「は」


 ミゼットは身体を起こし、目を伏せたまま静かに問い掛ける。


「これはあなたの望みなの? それとも使命感から来る自己犠牲?」


 つまり、望んで死ぬのか、死ななければならないから死ぬのか、と問うているのだ。

 この二つは、結果こそ同じだがまるで違うもの。そしてミゼットは、この違いこそが最大の問題だと思っている。


「どうなの?」


「――――――――」


 リュウトはただ沈黙していた。

 何かを考えている風でもない。ただ、沈黙して何かを確認しているように見えた。

 やがて、リュウトは口を開く。


「――――私の望みは……単に可能性を残す事だけです」


 そう、未来へのあらゆる可能性を残す事。

 平和や安寧ではない、ただの可能性を残したい。


「――――――――」


 ミゼットはリュウトの真意を悟った。

 平和や安寧が、未来あってのものだとリュウトは示している。

 未来が無ければ、あらゆる可能性が無に帰す。

 
「――――分かったわ」


 ならば、自分もそれなりに応えようではないか。


「各政府は私が説き伏せます」


「は、ありがとうございます」


 恭しく頭を下げるリュウトにミゼットは苦笑した。

 あの頃に戻ったと思ったら、逆に成長している。

 誰が何をしたのかは分からないが、若さとはいいものだと思う。


「――――そうだわ、丁度いいからやってしまいましょうか」


「は?」


 そう言ってミゼットは机上の通信機で副官を呼び出し、何かを持って来るように告げた。リュウトは訝しげな視線を向けるが、ミゼットは笑みを浮かべたままで何も答えようとはしなかった。

 そして数分後、ミゼットの首席副官である壮年の女性士官が一抱えほどの箱を持って入室してきた。

 副官はリュウトに小さく会釈すると、その箱をミゼットの机に置く。


「ありがとう、辞令の方は大丈夫かしら」


「はい、後は議長のサインだけ頂ければ」


「そう」


 副官は箱と一緒に持ってきた書類をミゼットに手渡すと、そのままリュウトの横を通って退室していった。礼を失しない程度に頭を下げはしたが、リュウトに直接声をかける事はなかった。


「――――本当なら、こんな形でさせたくはなかったのだけれど……」


「――――?」


 副官の去った扉に意識を向けていたリュウトは、書類にペンを走らせるミゼットの言葉で意識を前方に戻した。

 ミゼットは自分の書いたサインを確かめ、最後に文面をざっと確認すると、おもむろに立ち上がった。


「時空管理局中将、リュウト・ミナセ」


「は」


 ミゼットの凛とした声に、リュウトは無意識に直立不動の体勢を取る。

 二十年の管理局員生活の中で、すっかり染み付いた動作だ。

 しかしリュウトがそんな事を考える間も無く、ミゼットは書類の文面を読み上げる。


「発、時空管理局本局統合幕僚会議及び地上本部臨時執行部。宛、時空管理局中将、リュウト・ミナセ。

 時空管理局戦時特例により、貴官を時空管理局大将に任ずる」


「――――――――」


 リュウトは固まった。

 何の言葉もなく固まった。

 ミゼットが続けて何かを言っている事は理解できたが、聞こえているだけだった。


「――――今後も貴官が一層職務に励む事を望む。以上」


「――――――――」


「――――ミナセ中将」


「あ、はい」


 ミゼットは悪戯の成功した子供のように笑いながらも、その目に確固たる意思を宿して書類を差し出していた。

 受け取るなら、覚悟を決めろと言っているのだ。


「戦時昇進とはいえ、管理局員としての最高位に立つ事に変わりはない。本当ならもう少し時間を置いて、あなたが三十を越える頃にと思っていたのだけれど、もうそんな事を言っている余裕は無いわ」


「ですが、私を昇進させるとなると……」


「大丈夫よ」


 ミゼットは自信に満ちた顔でリュウトを見詰める。


「これから、上は大元帥から最低でも中将っていう場所に飛び込むのよ? 元帥とかは名誉的な階級だからそれほど気にしなくてもいいけど、一応最高位の大将ぐらいにはなっておかないと誰も話を聞こうとしないわ」


「それは……」


「確かにあなたの年齢で考えれば大将なんてとんでもない事だけど、次元世界全体で見れば珍しい事じゃないし、功績も十分。それに、これは管理局の総意だと言ってもいいわ。気にする必要はないの」


 貴族制度の残る世界では、二十代の大将など珍しくない。

 ミッドチルダには貴族制度はないが、実力主義の管理局に於いてはその功績こそが一番の武器になる。それに一陸士からの叩き上げで大将になったのだから、そうそう表立って文句を言える人間がいるはずもないはすだ。

 ミゼットはリュウトに微笑みながらも、孫を叱咤する祖母のような口調で辞令を差し出した。


「これはあなたにとって必要な手段よ、躊躇わないで頂戴」


「ミゼット……」


 リュウトはゆっくりと手を伸ばし、辞令を受け取った。

 辞令の記述通りなら、この辞令をリュウトが受け取った時点でそれは発効される。

 つまり――――


「大将としての初任務が世界を救う事なんて、滅多に無い事よ。頑張って頂戴ね」


「は」


 リュウトは踵を合わせて敬礼する。

 名誉的な階級を除いた正式な階級だけならば同階級になった二人だが、その間には恐ろしいまでの経験の差がある。ミゼットが先任である事に変わりはないし、指揮官序列もミゼットの方が上だ。

 だが、リュウトの階級が最高位になったこともまた事実。ミゼットは嬉しそうに机の上の箱を示した。


「これも持って行きなさい」


「これは?」


 リュウトは箱に手を伸ばしながら、ミゼットに問う。

 階級章はこんな大きな箱で支給されないし、特別な役職に就いている訳でもないので制服が変わるはずもない。危機管理局本部長の制服は、肩章のデザインと司令官章の飾緒以外は普通の制服と変わらないのだ。


「あの二人と一緒に用意したの。あなたが自分たちと肩を並べられるくらいになったら、渡そうと思って」


「――――そう、ですか……」


 リュウトは行方不明になったままの恩師二人の顔を思い浮かべ、一瞬だけ手を止めた。そして次の瞬間には、その意志を新たにして箱の蓋を開けた。


「――――これは……」


「どうかしら? ラルゴが随分こだわって選んだから似合わないはずはないけど、結局はあなたの好みだから」


 箱の中には、整然と畳まれた外套が納まっていた。

 余計な皺ひとつ無い白の外套。

 ラルゴやミゼットが制服として着ているものと似通った意匠だが、通常の制服の上に羽織るよう留め金や意匠が異なっている。色もリュウトの経てきた経歴を示すように時空管理局三部隊の色を散りばめ、その上で統一されたものだった。


「レオーネもラルゴも、嬉しそうにこれのデザインを考えていた。私の意見なんてどうでもいいなんて言って、子供みたいだった。いつか必ず、あなたがこれを着て自分たちと一緒に並び立てる日が来るって楽しみにしていたわ」


「――――――――」


 リュウトは外套を撫ぜ、そこに込められた恩師の愛情を感じ取ろうする。しかし、その冷たい肌触りが自分の甘えを叱咤する恩師の意志に思え、すぐに手を離した。


「――――あの子リョウスケにも会うのでしょう?」


「――――ええ、やって貰わなくてはならない事があります」


 ミゼットはほんの少しだけ微笑み、外套を取ってリュウトの背後に回った。

 そしてそれを着付けながら、二十年前に本局で迷子になっていた事もある子供の成長を確かめる。


「――――――――大きくなったわ」


「二十年ですから」


「そうね……」


 リュウトはミゼットの言葉を正確に汲み取り、苦笑いを浮かべて答えた。二十年と言えば、自分にとっては人生の大半を示す、そんな長い間魔導師をやっているのに、未だ分からない事だらけだ。


「本当ならアニーやシグレがやる事なんでしょうけど、このお婆さんで許してね」


「いえ……」


 ミゼットはリュウトの前に回り、その鎖状の留め具をリュウトの襟元に取り付ける。過度な装飾など一切無いが、その各所には深いこだわりが見える意匠だ。

 リュウトはもう一度だけ恩師に感謝の念を伝え、瞑目した。


「新しい階級章はこれ。司令官章も着けるわね」


「はい」


 ミゼットは嬉しそうにリュウトの身嗜みを整えた。その二人の姿は実の祖母と孫のようで、これから起こるであろう大きな戦いを感じさせるものではない。

 だが、二人はその陣頭に立つべき人間だ。


「――――これでいいわ。うん、若い頃のあの二人より似合ってるわ」


「あの二人が聞いたら怒るんじゃないですか?」


「いいのよ、怒らせておけば」


 ミゼットが笑い、リュウトもそれに釣られるように笑った。

 久しぶりに見る互いの笑顔。それが、お互いにとって何よりの喜びだった。

 一頻り笑うと、リュウトはミゼットの前で姿勢を正した。


「では議長、私は行きます」


 頷くミゼット。その顔はもう、リュウトの上司のものになっていた。


「ええ。次元世界の可能性のために、頑張って頂戴」


「はい」


 敬礼。そして答礼。

 二人はその後、言葉を交わす事はなかった。











 ミゼットの執務室から出てきたリュウトを出迎えたのは、彼の現首席副官を務める男性士官だった。上官の纏う新たな制服と階級章を見て、彼は直立不動の体勢をとる。


「本部長、昇進おめでとうございます」


「ありがとう、と言うべきか?」


「いえ、小官が勝手に祝っているだけですので」


 リュウトはそう言って口の端を持ち上げる副官に苦笑すると、すぐさまその前を通り過ぎた。リュウトの後に続いた副官が、持っていた端末に移し出された条項を読み上げる。


「艦政本部から『D級』と『Hy−G−Deハイド』の整備完了の報告がありました。状態は良好。ご下命あればすぐにでも戦線投入可能との事。同時に執務部から全部隊再編成完了との報告。医療衛生部はすでに艦船への移乗準備を完了。情報部からは敵性体の本体確認のため出撃させた偵察戦隊からの情報を分析するとの報。危機管理部幕僚団から、先に本部長より提案された作戦案の修正はあと四時間で終了とのことです」


「その他は?」


「概ね本部長の指示通りに動いております。予定より早く作業を追える部署はありますが、遅延している部署はありません」


 誇らしげに進捗状況を伝える副官。だが、その姿は危機管理部全体にも言えることなのだろう。


「あ、情報本部のヴィッツレーベン二佐から本部長に言伝がありますが如何致しますか?」


 そう言って副官が差し出したのは、二つに折られた小さな紙だった。おそらくそこにメッセージが書かれているのだろう。

 リュウトはその紙を受け取ると、歩く速度を緩めないままそれを読む。

 そして、小さく微笑んだ。


「どうかなさいましたか?」


 上官の顔に笑みが浮かんだのを見て、副官は思わず訊いていた。


「――――ふむ、二佐の父上が壱番艦に乗り込んできて居座っているらしい。ご丁寧に退役した管理局員たちを引き連れて、だ」


「そ、それはまた……」


「俺たちも連れて行けと大合唱。イライザが父上をぶん殴って重営倉に放り込んだとある」


「――――――――」


 自分にはそんな報告が来ていない。

 職務怠慢と言われても反論できない事態に、副官は何と叱責されるか不安になった。

 しかし、リュウトは副官を叱責する事も無く、小さく笑いながら進んで行くだけだ。


「気にする必要はない。向こうもイライザも、報告するような事ではないと思っているだけ。そして私も同じ考えだ」


「そう、でしょうか」


「そういうものだ。――――さて、"彼"は訓練施設にいるのか?」


 リュウトは振り返らないまま副官に確認する。その言葉に慌てて端末を操作した副官は、上官の求める情報を確認して報告した。


「あ、はい、先ほどアラン執務官からそのように報告を」


「ならばいい」


 リュウトはそれだけ言って無言になった。

 副官もそれ以上報告するような事もないので沈黙し、二人はそのまま通路を進んで行く。














「――――――――」


 訓練スペースの中央に佇む良介に集まった視線の内、比較的穏便なものはすでに心配そうなそれに変わっていた。

 主に身長の低い数名から向けられたその視線に対し、良介は徹底的に無視を決め込んでいる。

 それでも向けられる視線は減らず、良介は自分をここに呼び出した人間に対して怒りを充填する事でそれに耐えた。まさかここで怒鳴る訳にもいかない。彼の天敵と言える人間が複数名ここに来ているのだ。


「――――――――」


 何故、相手の人間が自分を訓練施設に呼んだのか、考えられる理由はいくつかある。

 しかしどれも可能性の段階で確信はない。要するに、ここで待つ以外に道はないのだ。


「――――――――どうしてくれようか」


 とりあえず、一発殴ろう――――彼はそう決めた。

 そして彼が決意した瞬間、訓練スペースの隅にある扉が開き、一人の男が姿を見せた。


「――――――――」


「――――――――」


 新たに現れた男――――リュウトが訓練スペースの中央まで歩く間、二人は視線を合わせる事はしても声を掛け合うような事はなかった。

 単にお互いの姿を捉え、見ているだけだ。


「――――――――」


「――――――――」


 やがてリュウトが良介の前に立つ。その時になって初めて、良介はリュウトに二本の木刀が握られている事に気付いた。

 どちらも日本では珍しくない鉄芯入りの木刀で、目立った傷も歪みも無い事から強度に差はないだろうと思われた。


「――――おはようございます」


「――――ああ」


 数日振りに交わした言葉は、ごく当たり前の挨拶だった。

 互いの姿は大して変わっていない。だが、あの時とは意志が違う。


「大人しく呼び出しに応じて下さるとは思っていませんでした。最悪、アランに君を拘束する権限も与えようかと思っていのですが」


「どうせそんな事だろうと思ったよ。だから来た」


「なるほど」


 リュウトは薄く微笑むと納得したように頷いた。

 いちいち芝居じみた所作をするのは、リュウトの処世術のひとつだと良介は知っている。相手が理解できる動きで自分の意志を表す。相手が受け取る自分の意志を適宜コントロールしたりもするが、基本的にはそのまま受け取っても問題はない。

 良介はリュウトの動きを細かく確認しながら口を開いた。


「それで、俺に何の用だ?」


「依頼があります」


「ほう」


 良介はあらゆる虚飾を棄てたリュウトの言葉に小さく笑った。面倒な事は必要だが好みではない、分かりやすい要求はその点で楽だと言える。

 良介は自分の立ち位置をリュウトの上だと定めたまま、尊大な態度で答えた。


「話だけ聞いてやる」


「お断りします」


「――――――――」


 打てば響くような拒否。その言葉に、良介は自分とリュウトの立場を公平に戻した。侮って勝てる相手ではなくなった。正確に言うなら、勝てない相手に戻ったというべきだろうか。


「これからお話する事は、未だ管理局も各世界の承認も受けていない作戦情報です。確固たる保証なしにお話する事はできません」


「――――お前の話を、俺が聞くとでも?」


 暗に数日前の言い争いを示す良介。すでにリュウトとは協力関係にないのだから、積極的にリュウトの話を聞く必要もない。

 良介はそのまま視線を上げて自分とリュウトを観ている集団を見た。その中にいる自分のメイドは、ただ頭を振って何の話も聞いていないという事を己の主人に表す。


「――――珍しくアリサに話を通さなかったんだな。お前ならそれくらい簡単だろうに」


「これは誰かに強制されて行うようでは困る依頼なのですよ。君が自分の意志でやると思わない限り、依頼する事はありません」


「なら帰れ。俺は受けない」


 良介はひらひらと手を振ってリュウトを睨む。リュウトがこれだけの覚悟で望む依頼となれば、その危険性はどれ程のものか想像できない。易々と受ける気にはなれなかった。

 しかし、リュウトは良介の言葉に気分を害した様子も無く、微笑みを絶やさぬまま一本の木刀を放つ。

 緩やかに回転しながら良介に向けて飛んでくる木刀。良介はその場から動く事無く、木刀の柄を掴んだ。


「――――何の真似だ?」


「知れた事。単にこれで決めて貰おうと言うだけです」


「何……?」


 良介は少しだけ驚き、リュウトを見詰める。今更何を決めるというのか。


「私がもう一度君の命を預かるに相応しいか、これで確かめてもらいたい。そう言っているんですよ」


「――――――――」


 良介は木刀を握る手に力を込めた。

 逃げ道はない、そう感じ取る。


「どんな判定になるかは君に任せます。勝敗を基準にしてもいいし、そうでなくてもいい。単にこの一回で決めていただけるなら、特にルールは決めません」


「――――つまり、俺の一撃をお前が無防備に受けろと言ったら、お前は納得するのか?」


「ええ、君がそれで納得するなら」


 リュウトは細めた目を良介に向ける。

 その視線から、もし良介が言葉どおりの行動を取れば、リュウトの方から良介を見限ると分かった。少なくとも、良介にはそう思える。


「――――この木刀を捨てて、殴り合いで決めようと言ったら?」


「構いませんよ。剣の勝負を持ちかけられたのに、それを捨てて戦う気が君にあるのなら」


 良介は舌打ちしてリュウトを睨み付けた。完全に自分の思考を読まれている、そう感じた。


「――――どうしますか?」


「――――――――」


 だが、逃げる事はできなかった。

 ここで逃げれば、他のすべてが許しても自分自身が許せないだろう。同性相手にここまで自分に優位な条件を提示され、それでも逃げるなどあり得ない。

 仮に女性が相手ならどうにかして理由を付けても逃げることができるかもしれないが、それも無意味な仮定だ。


「――――――――分かった。受ける」


「それは良かった」


 返事を聞くなり、リュウトはそう言って良介に背を向けた。

 この間合いは互いに近すぎる。

いつの間にか前以上にやり難くなった相手に内心で罵声を浴びせながら、良介もリュウトと同じように相手から距離を取るべく歩き始めた。











 訓練スペースを見下ろす形で張り巡らされた通路には、強化ガラスを通して見える男たちの姿を見詰める複数の人間がいた。

 その集団は一塊となって訓練スペースを見下ろし、各々勝手に呼び出しの理由を考えていた。


「――――リュウトさんと良介様って、ケンカしたんじゃないんですか?」


「う〜〜ん、正直喧嘩っていうか、完全決別というか……」


 キャロの言葉に答えるスバルも、ここに男――――良介が呼び出された理由を知らない。それとなく集団の端にいるアランに目を向けるが、彼はここに着いて以来誰とも言葉を交わしていなかった。不機嫌そうに良介を睨むアランに対し、何か話しかけようという猛者はいない。


「訓練施設に呼び出したっていうくらいだから、こうなるとは思ったけど……」


「でも、良介さんじゃ……」


「そうよね……普通に考えたら勝ち目はないわ……」


 ティアナはそれなりに説得力のある仮説を立てはするが、エリオの言葉に自分の仮説を否定する。いささか失礼ではあるが、対戦成績はティアナの言葉を裏付けていた。


「――――確かに対戦成績ならそうね。でも……」


「相性ならそれほど悪くないはずです」


 ギンガとシャッハの言葉に集まる視線。何割かは驚いたような顔だが、それでも平然としている者はいた。その者は、二人の言葉の意味をすでに理解しているものたちなのだろう。

 二人は期待するような視線に少しだけ頬を染めながら、その理由を話し始めた。


「いつか、スバルたちは機動六課の隊長、副隊長の中で一番強いのは誰かと考えたのよね?」


「うん……結局は単純に誰が強いって事は決められなかったけど」


 スバルは近くにいたアルトと目を合わせて頷いた。他の面々も当時の事を思い出しているのか、懐かしそうに頷いている。


「なら、宮本さんとミナセ提督を含めたらどうかしら?」


 ギンガの言葉に考え込む機動六課の面々。唸りながらも答えを出そうとするスバルだが、そのパートナーが一歩早かった。


「――――やはり、同じ答えになると思います」


 つまり、総合的な戦績では大きな差はないという事だ。

 ティアナの答えに頷いたシャッハが、隣のギンガにちらりと視線を向ける。ギンガはひとつ頷いて先を促した。


「そうですね。じゃあ答えをブレストさんに聞きましょう」


 シャッハの言葉に、集団の頭上を周回していたブレストが降りてくる。今回はオーソドックスな人型で、気難しそうな顔がフォワード陣の顔をひとつひとつ確認していく。

 すべてを見回してひとつ溜息を吐くと、ブレストは静かな声で答えを明かしていく。


『――――まずミヤモトだが、基本的に戦った回数が多くない。しかし、その戦績は概ね五分と五分だ。魔法はほとんど使えないが、それを補う形で策を巡らせるタイプだな。同時に剣の腕も悪くない』


 ブレストは気を利かして空間モニターを展開し、細かいデータを映し出している。その中の戦績表は、確かに彼の言葉を正解だと告げている。

 やがてモニターに映される人物が変わり、スバルたちは息を呑む事になる。


『対して、うちのマスターは勝率が八割を超えている』


「ちょ、え?」


「――――――――」


「てぃ、ティアさんの腕がぶるぶる震えてるんですけど!?」


「落ち着いてくださいティアさん! "あの"リュウトさんの事ですから!」


 驚くだけで済んだスバルはまだマシだっただろう。だが、それ以上に怒りを刺激されたティアナは問題だった。エリオとキャロが必死に落ち着かせようとするが、あまり役に立っているとは言い難い。

 同時にアルトたちも驚きの声を上げ、その場は一気に騒々しくなる。

 そんな中、シャッハが冷静に手を叩き、場の騒々しさを治めた。


「――――はい、静かにしてください。皆さんのお気持ちはよーく分かります。わたしも何度あの昼行灯に逃げられたか、思い出すだけで叫びたくなるくらいですから」


 冷静に見えたシャッハも意外と怒っていた。しかし、その怒りに怯えた機動六課と愉快な仲間たちは一気に静寂を取り戻す。


「なんでこんな成績になったかより分かりやすく説明しますと、単純にその戦闘スタイルが原因と言えます」


「せ、戦闘スタイルって……」


 いささか規格外の戦闘能力を持っているとはいえ、リュウトも一応ミッドチルダ魔導師の一人だ。戦闘スタイルに大きな違いがあるはずもない。

 だが、シャッハは額に青筋を浮かべたままアルトの言葉を否定した。


「機動六課の隊長、副隊長と戦ってこんなにも大きな差が出る理由。それは、ミナセ提督が戦う前に勝つという戦闘スタイルを持っているからです」


 その言葉に、思わず顔を見合わせるスバルとティアナ。言葉の意味が理解できない訳ではないが、それでは対戦成績の意味がないのではないかと思えた。

 そんな疑念の渦巻く中、シャッハは続ける。


「もちろん、戦う前に勝つといっても、戦う前に相手を攻撃するとかではないですよ。それは単なる卑怯者のする事です。とても戦闘スタイルとは言えません」


 頷く一同。


「ですが、戦術的な視点と言い替えればどうですか? 相手の動きを細部に至るまで予想し、戦う頃には後一手で詰むという段階に持っていく事ができれば、この成績も頷けるはずです」


 ああ、と納得したように再び頷く一同。だが、それが簡単な事ではないと気付いた面々もいた。


「で、でも、相手がその通りに動くなんて事は……」


「それに、初めて戦った相手とかは……」


 スバルとティアナはシャッハに詰め寄る。もしもこんな事が可能なら、誰しもがひとつの裏技で強さを手に入れられるとも言えるからだ。


「もちろん、こんな事ができる人間は多くないでしょう。初めての相手には苦戦する事もあります。ですが、ミナセ提督の魔力は機動六課の隊長たちの半分以下しかありません。その弱点を補う形で戦術、或いは戦略の腕を磨くというのが、わたしの知るミナセ提督の戦い方です」


 シャッハはリュウトとそれなりに長い期間付き合いがある。教会に来る度、リュウトの補佐に付けられるのはシャッハであったから、聖王教会で一番リュウトに近い人物とも言える。その人物が分析した結果なのだから、ほとんどの面子は納得するしかなかった。


「――――しかもあの昼行灯、わたしが追いかける度に逃亡の腕を上げているのです。一度なんて、会議の始まる頃になっても姿を見せないからまた逃げたのかと思って捜索したのに、いつの間にか本人は会議場に現れていて会議が始まって何故かわたしの方が遅刻してるし、わたしが空戦技能持ってないからって空を飛んで逃げないし、仕事だけは何故か終わらせてから逃げるし、騎士カリムのところにはちゃんと顔を出してるし――――ってあら?」


 シャッハは自分に向けられる奇異の視線に気付いた。

 それでも、彼女は顔色ひとつ変える事なく周囲を見回し――――


「――――――――ごほん」


(誤魔化したッ!?)


 満場一致の心の声。

 シャッハはそれすら気にせず喋り続ける。というか、喋るしかない。


「要するに、戦術眼という点がミナセ提督の勝っている部分であり、彼はそれを最大限利用して勝利を重ねていると言えます。幸か不幸か機動六課の隊長、副隊長は武辺の方が多く、ミナセ提督のような相手はもっとも苦手とするのかもしれません」


「でも、八神部隊長との戦いは――――」


「こう言ってはなんですが、騎士はやての戦い方はまだまだミナセ提督に届きません。似たスタイルなら経験の多い方が勝利する可能性が高いでしょう」


 グリフィスの言葉をばっさり切り捨てるシャッハ。

 口では嫌っているような事を言っているが、リュウトの事を一番理解しているのは彼女なのかもしれない。或いは、本気で嫌っている相手だからこそ深く理解しているのかもしれない。


『だが、マスターにもそれなりに苦手な相手がいる』


 今まで黙ってモニターの操作をしていたブレストがおもむろに言葉を挟んだ。

 シャッハに続けさせても良かっただろうが、いつ話が己のマスターに対する愚痴になるか分からないので自分で話す事にしたのだろう。


『簡単に言うならミヤモトのようなタイプ。つまりは奇策を弄するタイプだ』


 ブレストはモニターにリュウトと良介の細かいステータスを映し出す。


『見ての通り、二人の戦闘能力は魔法という点を除外すれば大差ない。むしろミヤモトの方が有利ですらある。だがしかし、実際にはこの二人はあまり戦わんのだ』


 というより、良介が戦う事を嫌がる。

 戦えば間違いなくリュウトは魔法を使うし、それによってボコボコにされる事は目に見えている。たまに魔法抜きの訓練を行ったりもするが、互いの戦闘スタイルの違いはそこにも出るものだ。


『剣士としてならミヤモトに、魔法使用者としてはマスターに軍配が上がる。それに、どちらが強いなど、当の本人たちは大して気にすまい』


 ブレストはそう言って訓練スペースに視線を向ける。それに釣られるように、ブレストに目を向けていた全員がそちらに視線を移した。

 彼らの眼差しの先にいるのは、並の剣士で数歩分の間合いを空けて対峙する二人の男。

 シャッハの説明と愚痴の間に戦いが始まる事は無く、二人は構えを取る事もせずにお互いを見詰めたままだ。


「――――――――ええと、どうやって始めるのかな?」


「さ、さあ……?」


 スバルの言葉に答える事もできず、ティアナは困ったように引き攣った笑いを浮かべる。どこからどう見ても古来より受け継がれてきた"決闘"の様相を呈している訓練スペース。彼女に答えられる訳も無い。

 そのまま時だけが過ぎる。

 一分、二分、三分と時が進み、二人を見る旧機動六課とその関係者一同に言い様の無い疲労感が漂い始める。飽きとは違う微妙な倦怠感、いつ始まるかと緊張したままの神経が切れる事無く伸び始めたような感覚だ。

 彼ら自身があそこにいるならこんな事もないのだろうが、今はあくまで見学者。そうなっても無理はない。


「――――――――クキュウゥ……」


 やがて、キャロの腕の中で観戦中だったフリードリヒがその場から飛び立った。あまりに変化の無い状況に飽きたのかもしれない。

 フリードリヒはくるくると主の頭上を旋回し始める。

 そしてそのまま彼は、主たちが見ている二人の男を自分の目で見ようと通路と訓練スペースを遮るガラスに近付いた。無論、彼はガラスの存在に気付いていただろう。だからこそ直前で減速し、衝突する事はあり得ない事のはずだった。
 
 否、確かに彼は衝突したわけではなかった。

 ただ、ほんの少しだけ身体がガラスに触れ、ほんの少しだけ音が発生した。

 そう、それだけのはずだった。

 だが――――


「――――――――っ!!」


 無位の構えのまま、限界まで集中力を高めていた二人の男には十分過ぎるほどの切っ掛けとなった。











 無為無音の世界に落とされたひとつの音。

 二人の男は互いにそれを合図として疾った。

 足音ひとつしないのは、その動きに音を立てるほどの無駄な動きが発生していない証拠。

空気がほとんど動かないのは、空気が動くほど鈍い動きがほとんど存在しない証拠。

 互いの呼吸音が自分と重なっているように感じるのは、互いの動きが鏡合わせように重なっている証拠。

 二人は普通では考えられないほどの一体感をその身に感じつつも、体重を移動し、身体を捻り、肘を引き、反対の手を伸ばし、切っ先を一点に絞り込む。

 自分の移動速度すら威力へと変換される刺突の構え。

 共にひとつの剣術を規範としているために非常に似通ったその構えのまま、二人は相手の姿をその視界の中心に納めていた。

 目指すは一点。


「――――――――っ」


 半瞬以下の呼気。

 それが引き金となって、二つの刃は放たれた。






















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