――――始まりとは、終わりに向かう出発点。だが、人は終わりには向かわない。人は、終わりの向こうにある始まりに向けて進む――――
地球日本時間十二月二五日十二時〇〇分。
時空管理局惑星軌道施設第1〇〇〇号。
「――――正直、あなたがご家族を見捨てるとは思っていなかったわ」
「――――――――」
リュウトは目の前の老婆が、決して自分に好意的な感情を向けているわけではないと知っていた。
ミゼット・クローベル。
時空管理局本局統合幕僚会議議長。
以前は事実上権限皆無とまで言われていた統合幕僚会議を本局の意思決定機関にまで押し上げた人物であり、リュウトにとっては上官にして上司、そして頭の上がらぬ偉大な先達だった。
「以前の――――あの子たちと出会ったばかりの頃のあなたなら、きっとどうにかしてご家族の安否を確認しようとしたでしょうね」
「確認はしました。その結果、生存が絶望的と判明しただけです」
ミゼットは目の前で直立不動の体勢を取る若き中将に、えもいわれぬ眼差しを向けた。今までミゼットがそんな視線をリュウトに向けた事はなく、それはこの二人の関係が少しだけ変化した事の証でもあった。
ミゼットは、この孫のような部下を持て余していたのだ。
丸一日前のリュウトであれば、ミゼットにとって孫同然の青年であった。その子供は曾孫であり、毎年誕生日には同僚の二人と共に贈り物をしていたほどだ。
だが、たった一日でミゼットとリュウトの間には大きな溝ができていた。
原因は分かる。
それはミゼットにとっても心痛む出来事であり、その心中の幾許かは理解できた。家族を失った者はこの施設の中にも多く、管理局員にも精神的な理由から職務遂行不可能として認定され、通常の職務から離れる者も現れている。
できるなら、この青年もそうした扱いにしたかった。
しかし、現状がそれを許さず、精神判定を行っても目の前にいる青年が職務遂行不可能なほどに精神的に衰弱していると判断される事はないだろう。
リュウトは決して問題のある人物ではない。
家族を失ったとは思えないほど冷静沈着に仕事を進めており、ミゼットに近い管理局高官の中には『ミナセ中将は人間ではなくなった』と評する者まで現れる始末。その評価には一欠片の同意もないが、目の前にいる静かな青年の姿を見ているとあながち間違いではないように思えてくる。
悲しみを誰かに見せたとは聞かない。
そして、自分にも決して明かさない。
「――――あなたの指示もあって、一応事態は落ち着いたわ。ここで一日くらい休んだらどう?」
「現状では実戦指揮官が職務を離れる事は危険だと愚考します。万が一の際、指揮官は一人でも多い方がいいのではないですか?」
取り付く島もない。リュウトは精神的にも肉体的にも健康であり、心神喪失を理由に現職から退かせる事もできないのだ。その上リュウトの言葉は正しく、現状の管理局に於いて問題なく指揮を執れる高級指揮官は宝石よりも貴重であり、それを理由もなく休ませる事はできない。
それでも、ミゼットはリュウトに仕事から距離を取って欲しかった。
喪われた者を悲しむ時間は必要だ。それなくして人は前に進む事ができないのだから。
しかし――――
「議長、お話は以上でしょうか?」
リュウトの目はすでにミゼットを見ていない。
家族の死は、この青年から闊達さと輝きを奪い取った。
「――――リュウト」
ミゼットは幼子をあやすように言葉を発する。
「無理しないで、とは言わないわ。でも、少しだけ力を抜きなさい」
「――――――――」
「昔のあなたは世界を敵に回しても超然としているような子だったわ。――――いいえ、それは今でも変わらない。むしろ、より強くなったとさえ思う。でも、アニーや子供たちがあなたをここまで強くしてくれたのに、あなたはあの子たちの事を忘れるの?」
ミゼットは悲しげに目を伏せた。
若い者に先立たれる苦しみを、ミゼットは良く知っている。
「あなたは決して言葉に出さなかったけど、あの子たちの事を本当に愛していた。あの子たちだけじゃなくて、エヴァやシンシアも、シグレたちも、あなたが命を懸けて守りたい子たちだった」
だが、守れなかった。
何もできなかった。
「――――辛いのは分かるわ、あなたの代わりを務める人間がいない事も……。これは私のミス、あなたに重荷を背負わせている事を忘れてしまった私の罪よ、許して頂戴……」
「――――いえ……」
リュウトは小さく頭を振った。
本当に誰かの責任だと思った事はなかった。ただ、自分が弱かっただけ。
強ければ護れたなどと言えば、多くの者が傲慢だと言うだろう。戯言だと嘲笑うだろう。
だが、可能性は零ではなかったはずだ。
傲慢だ、戯言だと言う前に強くなれ、それでも護れないならもっと強く、さらに高みに――――リュウトはそう教えられた。
一人でも護れる人間になれと、その人物はリュウトに言った。
万言を費やしても護れなければ意味はない、ただの一言もなくとも、護れればそれで良い。
護った後に言葉を交わせば、何の問題もないのだから。
リュウトは己の掌を見詰めて問い掛ける。
「――――ミゼット、私は強くなりましたか?」
「リュウト……」
ミゼットは言葉に詰まった。
単純な力なら、リュウトの実力は管理局全魔導師の最高位に座する内の一人だと断言できる。次元世界全体でも見てもリュウトに勝てる魔導師や騎士はそう多くないだろう。だが、リュウトの求めている答えはそんなものではないはずだ。
「――――アニーさんに言われた事があります」
――――旦那様の手は、私や子供たちだけのものではないのですね。きっと旦那様に救われた人たち皆のもので、私たちは少しだけ多くその手に触れていられるだけ――――
アンジェリーナの寂しそうな、それでいて誇らしそうな顔を、リュウトは忘れられなかった。
「私が何の地位も持たない一魔導師であったなら、一介の士官であったなら、と思った事もあります。ですが、アニーさんや子供たちに誇りと思われるような人間でいたかった。一緒にいられない分、どこにいても私の事を忘れないように大きな目標でいたかった……」
それは父として、夫として、家族に贈りたかった愛情。
人とは違う伝え方であっても、それ自体は何も変わらない普通の感情だった。
「――――ですが、私の成した事は家族への裏切り、アニーさんが、子供たちが伸ばした手の先には私がいたはずなのに、私は見て見ぬ振りをするしかなかったのですから」
「それは違うわ、あなたは間違いなく正しい行いをした。そうでなくては、あなたが救った命は間違った存在と云う事になってしまうのよ?」
ミゼットは諭すように言う。その目は穏やかで、慈母という言葉を誰もが連想するだろう。
しかし、リュウトにはそれすら辛い。
「――――――――私自身、正しい事が世界を作っているとは思っていませんでした。ですが、正しい行いの末に護りたいものを護れない世界が、どうしても空しい」
護りたいものと、護るべきもの。
それは同じようであり、まったく違う。
そして、その差がリュウトや同じ職に就く者たちを苦しめ続けてきた。
「選ばなくてはならないのだと、知っていました。ですが、理解はしていなかった」
どう足掻いても戻らない家族。
忘れる事も赦されない罪と業。
いつかこの身が朽ちようとも、永劫に亘って魂を焦がすだろう。
「――――地獄に往ければまだ幸せでしょう。ですが私は、そこにすらいけないのでしょうね……」
赦される可能性のある地獄では、自分の罪は雪げない。
もしも輪廻転生があるなら、妻子は新たな命となるだろう。だが、リュウトはその可能性すらないように思えた。
何故自分が生き残ったのだと声を上げて泣き叫びたい。
再び家族に会いたいと誰にともなく懇願したい。
神がいるなら、或いは悪魔がいるなら、この魂をすべて捧げても家族を生き返らせたい。
だが、それも赦されないのだろう。
「――――――――」
いや、それでも構わない。
妻子が死後の世界で笑っていられるのなら、来世で幸せになれるのなら、自分は永遠の苦しみにも耐えてみせよう。赦される必要などない、ただ、その先にあの笑顔があるなら十分だった。
それに、自分にはもう後がない。
「――――議長、各世界政府から私に対する譴責もあるのではないですか?」
「――――そう、そうね。確かにあるわ」
ミゼットは目を伏せる。
気付かないはずはないと思っていた。だが、気付いて欲しいとは思わなかった。
――――人々のためにと家族を犠牲にした人間が、救った人々に責められるなど。
「仕方がありません。彼らは突然故郷を追われ、未だにその原因も分からない。誰かを責める以外に不安を紛らわす手段がないのでしょう」
さらに言うなら、"時空管理局"という組織も各世界からの突き上げを食らっている状態だ。
次元世界の守護者を謳いながら、その世界の六割を正体不明の敵性体に"占領"されてしまった。それに対する責任追及は、各世界首脳に対する現地住民の批判を逸らす格好の材料だ。
自分たちは管理局の統治下で最善の方法を採った。ならば現状に対する責任はすべて、自体を予想する事も十分な対処も行えなかった時空管理局にある――――彼らの言い分を纏めれば、そういう事になる。
すでに管理局各部隊に対する市民の不信感は限界まできていると言っていいだろう。
施設内の秩序は辛うじて保たれているが、ある程度力を持った世界がいくつか手を組むだけでこの秩序はあっさり崩壊する。いや、避難してきている者たちの一部が暴動を起こすだけで事態は大きく波及し、管理局という統治システムをあっさり崩してしまう。
それが未だに起こっていないのは、時空管理局に十分とはいえないまでも決して少なくない戦力が残っており、それを指揮する人間もまた残っているからだ。
ここで管理局に反旗を翻してもそれは一時的なもの、その一時の間に"敵"が攻めてきたら、自分たちを護る盾がなくなってしまう――――各世界首脳はそのような考えを多かれ少なかれ持っているのだ。故に、いつ崩壊してもおかしくない均衡は保たれている。
「――――近日中に各世界代表を集めた対策会議があるわ。でも、わたしも幕僚も、その会議が私たちに対する弾劾の場になると予想している……」
「私はどうしますか? おそらく事態把握のための証人として召喚状が届くと思われますが」
言葉を選んではいるが、リュウトは自分が責められる立場にいる事を自覚している。
危機管理部が本格稼働するという事態は、管理局内に於いても避けなくてはならないものとして受け止められていた。危機管理部が動くと言う事は時空管理局が存亡の危機に瀕していると云う事、さらには次元世界全体で見ても深刻な事態であるという事の証明でもある。
だからこそ、リュウトは自分たちが矢表に立つ事を望んでいなかった。
奇跡の部隊とすらいわれる機動六課の数十倍の戦力を有し、その気になれば半刻程度でミッドチルダの全主要都市を掌握できるほどだ。
当然、創設には多大な苦労を要した。
だが、世界を破壊しても有り余る危険がこの次元世界に存在していると云う事をリュウトたちは知っている。それに対抗する組織を作り上げ、日々研鑽を続けて来たのは、今のような事態を防ぐためだった。
「彼らの要求は――――」
「明確な解答はないわ。でも、予想は出来る」
「――――時空管理局の解体と、その戦力の併呑……ですか」
リュウトの言葉にミゼットは頷く。
「彼らは管理局の予算負担率を元に、それに見合った戦力を自分たちの指揮下に置くことを望むでしょう。でも……」
「それでは先進世界が大きな戦力を有し、世界を牛耳る事になる」
「ええ、私たちが言うのもなんだけど、やっぱりそれは受け入れられないわ」
管理局を頂点としない統治機構の確立は、大国と呼ぶに相応しい世界にとっての悲願だ。いや、正確に言うなら、自分たちを頂点とした統治機構の確立と言うべきだろうか。
どちらにしろ、時空管理局を飲み込もうと動いている者たちがいる事は確かだ。
それはつまり――――
「ならば、尚の事私が矢面に立つ必要があるのではないですか?」
「――――――――」
ミゼットはリュウトを睨む。
誰もが考えた。
だが、それは認められない事なのだ。
「幸運な事に、各世界を放棄する命を発したのは危機管理部の長である私です。私が最高評議会不在を利用して管理局の実権を掌握、本局や地上本部の反対を無視して非人道的な決断を下したと、議長たちが私を糾弾すればいい」
「――――――――」
リュウトはそれが正しい事だと信じているようだった。
そして、それは間違いでもなかった。
「彼らは『D級』と『Hy−G−De』の確保を望んでいるでしょう。あれは対超級ロストロギアに対する最終兵器。人間同士の争いに使われる事があってはなりません」
あれらは世界の物理的破壊すら可能な超兵器。
まさに現代のロストロギアとも言うべき代物だ。
「――――それを使って管理局の統治を確固たるものにするという手段もあるわ」
ミゼットはリュウトが最も嫌う手段を敢えて告げる。
予想通り、リュウトは頭を振った。
「すでにそんな時ではありません。管理局内ですら動揺しているこの時期に強硬な手段に出れば、我々は内部から崩壊します」
「――――――――」
辛うじて保たれている平穏。だが、その水面下では各世界の綱引きが始まっていた。
管理局はその影響力を保とうと必死に動いているが、主要世界の半数は非公式ながら管理局不支持を表明している。
「――――今日付けで管理局本局部隊の全権を議長に、地上部隊の全権を生き残った地上本部高官に返還する手続きを行います。私に対する責任追及はこれを甘んじてお受けいたし、必要ならば、私の命を代価に各世界との和議を」
「リュウト!」
ミゼットは厳しい表情でリュウトを叱責する。自分の孫同然の若者を人身御供にするつもりなどなかった。
「議長、いえ、ミゼット……」
リュウトはほんの少しだけ笑みを見せた。それは以前の面影を色濃く残し、それ故に擦り切れそうな笑みだった。
「すでに私は戦う意思を失いかけています。局員たちも妻や子を見殺しにした男の命令など聞きたくもないでしょう。なら、この命をもっとも効率よく消費できる場面で使ってください。アニーさんたちの死が無駄でないと思える死に場所を、お願いします……」
「リュウト……」
リュウトは笑みを無へと変え、敬礼。制服の裾を翻してミゼットの前から去っていった。
そして、ミゼットは気付く。
自分の机の上に、真新しい封筒が乗っているのを。
「――――――――」
そこにはただ一言、遺書と書かれていた。
万が一にも誰かに迷惑を掛けないため、現在に至るまでの敗走を自分の責任であると認められたその遺書は、ミゼットへのリュウトの別れの言葉でもあった。
魔法少女リリカルなのは―――くらひとSSS 特別編―――
孤独の剣士と白の剣聖 episode EX 風の章
「一位オットー、二位ディード、三位チンク」
「良介のバカぁあああああああああああああああああああっ!!」
「ぶげらっ!!」
軌道施設内某所にて悲鳴と鈍い激突音が発生する。
それは一人の男が二人の少女によって軽く三途の川トライアスロンに送り込まれた為だった。
「――――ミヤモトリョウスケ。実はミナセとよく似てるだろうお前」
「―――――――――あれと一緒にするな」
良介は激突したままの壁から身体を引き剥がすと、テーブルの上に置かれたカップを睨み付けた。
ナンバーズ姉妹によって淹れられたコーヒー、或いは紅茶は、良介の舌によって順位付けが為された。
だがその結果に姉妹の内二名が癇癪。良介は耐衝撃性の壁と熱烈な抱擁をする羽目になったのだ。
「俺は正直に答えたぞ。つまり俺の怪我はお前の教育のせいだ」
「すまない、だが、私にも正直どうしたら良いのか分からない……」
「何気に三位な訳だが」
「努力をしたまでだ。暇だったからな」
「暇なら教育しろよ!」
良介の言葉にも、チンクは溜息一つ零すだけだった。
機動六課の生き残りたちは間違いなく良介を探しているだろう。それなのに良介はこの隔離施設から動こうとしない。
この施設にはすでに億単位の人間が避難して来ており、収容人数を大きく超えたため別の施設へと移送され始めている。管理局の有する施設だけでは足りず、生き残った各世界所有の軌道ステーションから宇宙コロニー、果ては未開発の惑星にまで避難民が流入している。
現状"敵"の侵攻は行われていないが、相手は一切の予備動作なしで次元世界の七割を攻め落とした実績がある。管理局や各世界の艦船が哨戒活動を行っているが、すべての人々が多かれ少なかれ緊張感を覚えているだろう。
せめてもの救いは、この施設にも他の施設にも、当面の生活に必要なものは揃っているという点だろう。食料プラントまで備えたこの施設なら、年単位での持久戦も可能だと言われていた。
しかし、ナンバーズたちはこの隔離区画から出る事はできない。申請すれば居住区画にある自然公園に散歩に出掛けるという程度の事はできるが、ここに良介がいればそんな事も必要ない。同時に良介も、どこに行っても蔓延している重苦しい空気に堪えかね、この区画に入り浸っていた。ここなら余計な事を考えずに済むからだ。
それでも眠れば海鳴での事が夢に出てくる。
行方不明と判断され、すでに捜索も行われていない知り合いたちの顔が、ひとつひとつ浮かび上がってくるのだ。
その度に飛び起き、その何度目かの物音に気付いた姉妹たちが、驚いて強行突入してきたのは昨夜の事だった。彼女たちは良介の内心を察し、そして自分たちの願望を叶えるためにレクリエーションルームに良介も含めて全員集合。そのまま強制雑魚寝と相成った。
その後は夢に起こされる事もなかったが、起床時に窒息により夢の出演者たちの元に旅立ちそうになったりはしていた。
「機動六課の連中はお前の所在が分からず頭を抱えているだろうな」
「ほっとけ、どうせどっかの誰かが面倒見てくれるさ」
「――――それは信頼か?」
「――――――――したくもなかった経験に依る確信と言え」
良介はごろりと寝転がる。
どいつもこいつもまるで変わっていないように見える。
だが、確かに自分の故郷はもうないのだ。
良介はそんな事をぼんやりと考える。
「――――ディード、茶」
「あ……はい……」
良介の言葉にこちらを心配そうに見ていたディードがキッチンに消える。
茶器の奏でる音を聞きながら、良介は背中の向こうにいるチンクに話しかけた。
「お前らにこんな事教えたの誰だ?」
一応彼女たちは、ミッドチルダを震撼させた犯罪者である。そんな者たちに家事を教える物好きが何人もいるとは思えない。
果して、チンクの口から語られた名は、良介の予想した名前の内のひとつだった。
「――――ミナセの細君、アニーだ」
「やっぱなぁ……」
道理で味が似ているわけだ――――良介は意識せず何度も飲んでいた味を覚えていた。
「アニーは私たちによく会いに来てくれたからな。料理や茶はもちろん、化粧なんてものも教えてくれた」
「――――――――」
チンクは自分のカップを見つめて呟く。
「ドクターの所にいたときは無縁だったものが、あの施設に来た途端に押し寄せてきた」
アンジェリーナは夫に頼み込んでナンバーズと共に市街地まで遠足に出掛けたり、施設の屋上で天体観測会を催したりして、戦闘機人の姉妹たちに多くの事を教えた。
その中にはチンクですら驚くような発見が多々あり、姉妹たちはアンジェリーナを教師のようにも姉のようにも感じていた。
「――――だが、アニーはもういないんだな……」
チンクが顔を伏せる。
良介が振り返ると、その小さな身体はいつもよりなお小さく見えた。
『チンクは偉いわね。こんなに妹がいたら大変でしょう?』
『お前こそ、あれが旦那では気苦労も多いだろう』
『気苦労も幸せも多いわ。ここに来る事だって私には楽しい事だから』
アンジェリーナはそう言って自分の髪を梳いてくれた。
あのとき自分は、何と言って返しただろう。
「――――ああ、そうだった……」
自分は――――『だからお前は、そうやって嬉しそうに笑っているのか』と、そう返したのだ。
あの長姉に匹敵する才媛と聞いていたからどんな女傑かと思いきや、そこにいたのは自分と大して変わらぬ容姿の女。それに驚き、そして四人の子供の母という事実にも驚かされた。
件の夫が"あの"ミナセだと聞いて再び驚き、仕事をしすぎて自分に構ってくれないと拗ねている彼女に苦笑した。
「――――――――」
楽しい日々だった。
彼女は、いつか自分たちが全員施設から出る事ができたら自分の家に遊びに来て欲しいと言っていた。
夫によく似た長男と、誰に似たのか苦笑するしかない長女。そして夫の性格をある意味一番色濃く受け継いだという次女、唯一自分に似ているという次男。
そんな子供たちを自分たち姉妹に紹介したいのだと言っていた。
いつか子供たちに色々な事を教えて欲しいという彼女に、チンクは困ったように頷いた。
それでも自分に教えられる事などすでに父が教えているだろうというチンクに、彼女は言った。
『あの人、実は次元世界で一番のボケだから、意外と知らない事も多いの』
自分はその言葉に虚を突かれ、そして大笑いした。
世間では賛美されるばかりの夫を人足らしめているのは、きっとこの家族なのだと思う。
こんな家族がいればこそ、あの男は如何なる重責にも耐え、人々を救うという深き業の道を歩めるのだと思えた。
なんて事はなかった。
正義でも大義でもない、単なる家族の繋がりがあの男を強くしているのだ。
自分の譲れない道を認めてくれる女がいた。だからあの男は進めるのだと理解する。
そして、あの男の周りにはそんな人々が集まる。
そう、宮本良介という男の周囲に人が集まるように、あの男の周りにも人が集まっただけだ。
全く違う世界を見詰める男たちの周囲には、それを認める者たちがいた。
だから彼らは戦う。
戦う理由を考えるまでもない、そこに理由はあるのだ。
――――ただ、自分であるために。
「――――ミナセには、勿体無い細君だったな……」
そして、今。
自分である事を棄てようとしている男がいる事に、チンクは気付いていた。
「――――あの、お茶です……」
ディードの差し出したティーカップに一瞥をくれると、良介は何も言わずにそれを一口。
そして、少しだけ顔を緩めた。
美味い。
「茶が美味いのは、やっぱりお前か」
「あ……」
良介の言葉に、ディードが頬を染めて俯く。件の人妻に熱心に教わった甲斐があった。
ディードは満足そうに笑みを深め、二人の会話から一歩身を引いた。こうして喋っている良介を見るだけで十分だ。
「そういや、お前らって結局あいつとはやり合わなかったんだな」
「ああ、ドクターにはミナセとの交戦を禁じられていた」
確認するような良介の視線に気付いたディードは姉の言葉に頷く。
確かに自分たちの生みの親は、あの男の戦闘行為を禁じていた。
「――――提督はドクターの中でかなり扱いに苦慮する人物だったようです」
「――――――――今、一気に変態博士の親近感アップしたぞ」
良介はディードの言葉に何度も頷いた。心当たりがありすぎて思い出すだけで腹が立ってくる。
「一人なら全力で逃げ、五人なら情報を収集しながらの撤退戦、八人でようやく戦闘の許可が下りる」
「――――うわ、化け物」
「ひどい言い草だな、お前にしても似たり寄ったりの評価だと思ったが」
「俺はあいつみたいにバケモノじみた魔法使わねぇっての」
お前の法術はどうなんだと口に出しそうになったチンクだが、それを言っても無意味だと考え、結局口にはしなかった。
なんにせよ、スカリエッティがその計画に於いて要注意人物とした者のリストには、間違いなくあの男の名があったはずだ。
経験という点では他の老練な高級指揮官に二歩も三歩も譲るが、才覚だけは決して凡百のものではない。そして、見た目こそ若いが魔導師歴は二十年弱、在局歴もそれに準ずるベテランだ。単純に言えば人生の三分の二以上を魔導師、管理局員として過ごしている事になる。
そんな人間が相応の権限を持って敵方にいる。まともな思考回路と戦術技能を持つ者なら誰だって警戒するだろう。
「だが、今の奴は別だな」
チンクは吐き棄てる。その目には憎悪さえ宿っていた。
「ドクターや姉妹たちを救ってくれた事に感謝はしよう。だが、それだけだ」
護りに関しては聖将とまで言われた男。攻撃さえも守りの手段として用い、結果を出し続けた。
だが、もっとも護るべき人間を護れなかった。
「――――――――」
良介はチンクを見遣るだけで何も言わない。それは理解しているからだ。
護れなかった人間がどれ程惨めな思いをしているのか、そして、どれ程己に絶望しているのか。
「――――アリサなら、一発入れてるだろうな」
そして怒鳴るに違いない。
自分はそうやって進むべき道に軌道修正され、ここまで来た。今までの出会いがすべて無駄ではなかったと思えるほどに、人に恵まれてきたと思う。
確かに付き合いづらい人間もいれば、未だに嫌いな人間、苦手な人間も多い。
だが、無駄な者などいない。
今、目の前で憤っている女もまた、貴重な出会いだ。
「あいつも分かっているから問題なんだよなぁ……」
間違っている人間を叱り、正しい道に進ませる事は不可能ではない。
だが、間違っていると自覚している人間をどのように扱うべきか、それは前述の例に比べて難易度がまるで違う。
しかも、今回は修正するべき道がないのだ。
現状維持が最良であり、下手に手を出せば秩序崩壊。
他人など知った事か、が信条の良介ではあるが、そうなったらまず一番初めに自分が不味い事になるという事くらい理解していた。
それに、自分の周囲にはそういう事態でも逃げるという発想が出来ない者ばかりが揃っている。そんな彼女たちを見捨てて逃げたら、来世どころか何百回生まれ変わっても同じ面子に出会う羽目になる気がするのだった。
「――――困ってんだろうなぁ、あいつも」
自身も悔やんでいる良介だが、こうしてナンバーズ姉妹と共にいると多少は前向きな思考も出てくる。
自分の知っている人間は、ほとんどが他人の幸福を願う善人ばかり、下手に自分が落ち込めば夢の中でどやされるだろう。
だからこうして冷静に物事が考えられるのだと、良介は死んでもお人好しな面子に苦笑した。
しかし、もう一方はそうはいかない。
まるで正逆の状況に追い込まれている。
おそらく、当人が一番悔やんでいるだろう。
なまじ力を持っているが故、その義務に縛られてしまった事が悲劇だった。
それこそ形振り構わず行動できたら、後悔だけで済んだ。
だが、行動できなかったという事実が深い罪悪感を生む。
間違いなく、彼の家族は彼の護るべきものであり、護りたいものだった。
それに一切手を伸ばせなかった事がどれ程の悔悟を生む事なのか、良介には想像するしかない。
「だあもう!! 野郎は俺が嫌いか!! 嫌いなんだな!?」
何を考えても暗い考えしか浮かばない。
その原因をあの男に擦り付け、良介はカップを呷った。
「あ」
ちなみについ十秒前にディードが気を利かせて淹れ直したお茶だった。
「!!?」
一瞬で真っ赤に染まる良介。
チンクとディードが驚くようなみっともない悲鳴が轟いた。
二人の男がそれぞれの道を歩み出した。
しかし、彼らには予想もしなかった再会が迫っている。
それは新暦七五年十二月二十六日未明の事。
彼らのいる軌道施設に、緊急事態を知らせる警報が鳴り響いた。
その警報に真っ先に反応したのはリュウトだった。
彼は部下からの報告を受けて麾下の部隊に第一種防衛配置を下令、同時に『陸』『海』『空』の各部隊に戦闘配置を要請し、中央戦術指揮所に入った。
時を同じくして異状を感じ取った良介が、何故か自分の布団に潜り込もうとしていた一匹のモグラを跳ね飛ばして駆ける。
二人は期せずして再び道を交える事になる。
『次元振動……!?』
「は、敵の出現時に現れたものとは違いますが、確かに次元振動と」
リュウトは指揮所内に立ったまま唸る。
これが敵の攻勢を示しているなら早急に民間人を避難させなくてはならない。
だが、すでに自分の権限は各部隊の総指揮官に返上してしまった。再び危機管理部本部長の権限を以てその指揮権を掌握する事はできるだろうが、現状での管理局の戦力だけで避難などできるわけもない。
一応、各世界の国防・警察機構などに避難を呼びかけはしたが、その避難先に当てがないのだ。
ここまで避難するだけで人々の疲労はピーク。これ以上の移動は暴動を生む危険性すらあった。
「――――ミゼット提督から各世界代表にいつでも避難できるよう伝えて貰ってくれ。我々は万が一の事態に備えて施設の自爆も選択肢にいれた行動を取る」
なぜかは分からないが、敵は移動している艦船などに侵入してこない。それと同じく高速で周回する施設にも侵入しなかった。
だが、そのような艦船や施設が無事だったかというとそうではない。
敵は真空間に出現し、外部から襲ってきた。
無論倒す事は出来たが、次から次へと現れる敵にやがて敗走する事になる。
この軌道施設も惑星周回軌道を描いているため外部から侵入されない限りは安全だが、それでも敵のすべてが明らかではない現状で楽観は出来なかった。
「各世界の部隊にも待機要請を。その上で各艦船に防衛ラインへの集結を急がせろ」
静かではあるが鬼気迫る声。リュウトの部下はその命令を遂行するべく走り去った。
リュウトはそんな部下の後姿を見送り、背後に立った幕僚に漏らす。
「――――何事も経験と言うが、私にはやはり荷が重いな」
「そんな事は……」
慌てて否定する幕僚に、リュウトは頭を振った。
「家族が逝った事に何の痛痒も感じないような人間が、誰かの命を救うに値すると思うか?」
「それこそ間違いです。提督の奥様やご家族が身罷られた事は、むしろ我々幕僚の責任。あの世界に配置された部隊の指揮は我々の管轄下にあった」
「君たちを使う事が私の仕事だ。使えなかった責任が私以外の誰にあると言うんだ」
リュウトはそう言って指揮所内中央に浮かぶモニターを見詰める。
「指揮官は部下を使い、その代価に責任と義務を負う。そんな当たり前の事すらできない人間なのだろうな、私は……」
部下を使いこなせないのは指揮官の力不足以外の何物でもない。
リュウトはそう言っているのだ。
「どちらにしても私はそう長く君らの上司ではいられないだろう。だから、もうしばらく付き合ってくれると有難い」
幕僚がその言葉に何か言おうとした時、階下の局員が悲鳴を上げた。
「次元振動の発生源が移動! 居住区画の外れです!」
良介は自分の額に浮かぶ冷や汗を拭うことができなかった。
目の前にはゆらゆらと蠢く次元の歪み、そして後背には異常を感じて集結した管理局員たち。
彼らの目はこう言っていた。
『またお前か!?』と。
「――――撃つなよ」
ちっ、という舌打ちが聞こえ、誰かが構えていたデバイスが下ろされる。
一応念のためと思って言った一言だが、本当に自分を撃とうとする輩がいるとは思っていなかった。
それに怒りはするが前門の虎に背を見せるわけにはいかない。
それに何より、この倉庫に良介が到着した途端に現れた次元の歪みが気になる。
まるで良介を待っていたかのようにその場に現れたのだから。
「くそ、ミヤもいねえってのに……」
奇しくも最前線で敵を迎え撃つ羽目になった良介。こうなったら機動六課の面子でもいいから早く来てくれと思った。
だが、この男の人生そんな甘いわけがない。
「状況を報告しろ!」
そう言って倉庫の入り口に現れたのは、ある意味一番この場に現れて欲しくないと良介が願った人物だった。
件の人物は目の前の光景に一瞬目を見開くが、すぐに半眼になってデバイスを展開した。
「――――総員、構え」
がちゃがちゃという音が良介の背を打つ。
慌てて良介が叫んだ。
「おいこらちょーまてや!? いきなり民間人虐殺かこの野郎!? 昔からテメエは――――」
「殺傷設定」
「申し訳ありませんでしたぁあああああああああああああああああっ!!」
一瞬で一八〇度転換した良介。だがその声に反応したのか虚空の歪みが一層ひどくなる。
「ってのおおおおおおおおおおおおおおおっ!?」
慌てて飛び退ろうとする良介に、リュウトの叱責が飛ぶ。
「動かないでください!!」
「俺に死ねってか!?」
「この程度で死ぬならもっと前に死んでます」
「ひでえ!!」
尚もリュウトに文句を言おうと振り返る良介。だが、彼の見たものは立射と屈射の二段でこちらにデバイスを向ける管理局の最精鋭たち。良介の額にじんわりと汗が浮かぶ。
「――――何人か俺に照準固定してる奴が居るんだが」
「気のせいです」
そんなリュウトの言葉にうんうんと頷く何人か。
良介は叫ぶ。
「今頷いた奴の顔覚えたからな!? 死んだら呪い殺してやるぅっ!!」
「照準」
がしゃりと一斉に向けられるデバイス。
自身も銃形態に変じたデバイスを向け、リュウトは無表情に告げる。
「動いたら当たりますので」
「な――――」
連続する轟音。
文句を言おうとした良介の四肢を複数の弾丸が掠める。
「〜〜〜〜っ!!」
反動で天に向いた魔力の硝煙棚引く銃を構え直し、再び照準を付ける。
「――――動かないように」
がくがくと頷く良介。
(やば――――!! いつもヤバイが今日は一段とやば――――!!)
その目には良介の姿など映っていない。見えているのは"障害物"と"標的"のみ。
いつものような軽口も冷徹な瞳で押し潰された。
「――――それにしても、これは一体……?」
リュウトが次元の歪みを見て呟く。
その時、その次元の歪みに変化が現れた。
歪みの彼方に像を結び始めたのだ。
「――――――――」
リュウトは無言で手を掲げる。その動きに合わせ、局員たちが照準を歪みへと向けた。
ほっと息を吐く良介。だが、彼の肌が風を感じた。
「――――…………やば」
分かる。
今、自分は生と死の境界を歩いている。
「――――あ〜〜、できれば俺を避けて撃ってくれると有難いんだが……」
「――――――――」
全員無言。
そして良介は決断した。
「――――明日への脱出!!」
脱兎。
次元の歪みを背に、全力でリュウトたち局員の下へと突っ走った。
慌てたのは局員たちである。何せ、良介の声に反応するかのように歪みが肥大化した。
「ミヤモト・リョウスケ!! 貴様ぁッ!!」
「日頃の羨ましい状況から転じて、さらに美人姉妹たちと同居するという暴挙! 我ら見逃せぬ!!」
「何に対しての怒りだそれは!? 仕事しませんか正義の味方!! つかこれで大丈夫か危機管理部!!」
「モテは悪だ」
きっぱり。
「最悪だぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
びゅんびゅんと掠める魔力弾。良介は生きるために必死で走る。
しかし、彼の声が響く度に歪みは肥大化していく。
「というか、さっきから背中が温かいんですが……!」
むしろ熱い。
そんな良介にちらりとも視線を向けず、リュウトは次元の歪みを凝視していた。
何かが見える。
いや、それは彼の知っているもので、そして忘れられないもの。
それと同時に――――ここにあってはならないもの。
「あれは――――"方舟"……?」
そう、呆然とする彼の目の前に姿を見せたのは、本局と共に次元の波間に消えた"方舟(アーク)"だった。
リュウトの声を聞いて、良介は歪みを振り返る。
そして、彼もまた呆然と虚空を見上げる事になった。
「な……」
何故ここにこれがある。
良介はその疑問を持ってリュウトに視線を向ける。
しかし、呆然としているのはリュウトも同じ、むしろその場にいた局員たちの方が冷静だった。
「提督!」
局員たちの中で最先任の男がリュウトの肩を揺さぶる。
その振動に、リュウトの目が意思を宿した。
「あ、ああ、すまない。警戒を緩めず後退しろ」
「は!」
局員たちはじりじりと後退する。その背後からは増援の声が聞こえてきた。
「――――なんかもう、色々ありすぎて考えるの嫌になってきた」
良介の言葉に返ってきたのは、小さく抑制された溜息だった。
そしてその溜息が空に散ったその時、二人の本能が同時に警告を発する。
「!!」
同時に瞳を尖らせる二人。
各々得物を構え、歪みの内から現れようとする"方舟"に備えた。
だが――――二人の予想は完全に裏切られる。
ゆっくりと歪みから脱する"方舟"。
そして――――
「――――見つけた……!」
よく知っている。
そして、初めて聞く声。
「――――やっと会えた……」
その声は感動に咽び、二人の本能を刺激する。
これはヤバイと。
だが、二人の本能とは裏腹に、次元の歪みは"方舟"をこの世界へと誘う。
そして、倉庫にいる全員が、増援として現れた武装局員たちが呆然と見守る中、この世界に新たな光をもたらす女神が降臨する。
「――――お兄ちゃん!!」
――――良介とリュウトの頭上に。
やっと会えた。
リンディは涙に揺れる視界に、十年前に姿を消した男の姿を見る。
全然変わっていない。
レティが彼らの住む別次元と自分たちの世界は時間の流れが違うかもしれないと言っていた。
きっとそのせいだ。
少し離れた場所にいるあの人も、全然変わっていないから、多分そうなのだ。
「お兄ちゃん!!」
嬉しい。
十年間、ずっとあの大きな手を夢見ていた。
驚いている。
でも、自分の今の驚きの方が絶対に大きい。
だって、異次元世界に行ってもすぐに会えるとは思っていなかった。
レティと二人であの人たちを探し回る事になるのだと思っていた。
伝えなくてはならない。
この世界に迫る危機を。
あの人のいる世界が"闇"に覆われるなんて嫌だ。
だから――――
「剣士のお兄ちゃんは、わたしが守ってみせる!!」
そう、だから受け止めてください。
この気持ちと、決意を。
リンディの言葉なんて信じてなかった。
こっちの世界に来ればあの人に会えるなんて、心の底では願っていても現実には難しいと思っていた。
だけど、次元の壁を越えた先にいたのはあの人だった。
変わっていない。
自分を抱き締めて色々な物語を聞かせてくれたあの頃と。
嬉しい。
これなら、あの約束も果たせる。
「お兄ちゃん……」
本当にまた会えてよかった。
ずっとこの日を待っていた。
あの人の隣に立つ日を、あの人に追いつく日を。
それだけを夢見てここまで来た。
守りたい。
あの人が自分を守ってくれたように、自分もあの人を守りたい。
元の世界に戻れなくてもいい。
あの人の、あの人の笑顔を守りたい。
だから――――
「しっぽのお兄ちゃん! 約束通り助けに来たよ!」
もう背中を追うのは嫌だ。
あの人と一緒に、進んでいきたい。
良介は頭上に現れた人影に度肝を抜かれていた。
まさか、という感情が頭の中に氾濫し、まともな思考など夢のまた夢。
ここにいるはずがない、という理性と、もう何が起こっても不思議じゃないという諦念。これまでの人生で驚きというものに慣れた彼だが、今回の出来事はなかなかに衝撃的だった。
あの男は再び会う事などないと断言していた。
天文学的な確率で結ばれた異次元通路は、人の意思によって作り出す事は不可能だと。
だが、今、目の前にいるのは紛う事なき現実。
数ヶ月前のあの日に別れた幼い少女が、自分の見た目と大して変わらぬ年齢となって現れた。
その姿はすでに良介のよく知る女性によく似ており、若かりし頃はこのような少女だったのだろうと思わせる。
あの女性のような慈愛に満ちた笑みではなく、年相応の明るい太陽の笑み。
ぐんぐんと落ちてくる少女を見上げ、良介は動く事ができなかった。
そして、その結果もまた当たり前のものとなる。
すなわち、激突。
「――――!!」
気付いた時には遅かった。
それでも逃げようと、身を翻し――――
「えいやー!!」
「!?」
何故に!?――――そう思う間も無く叩き付けられた背骨をへし折らんばかりの衝撃に、良介は声にならない悲鳴を上げた。
ついでに周囲から喝采が聞こえた。
心の奥底で、復讐を誓う。
何故、今なのだ。
何故、今更自分に笑みを向ける。
かつて出会った頃の自分は、すでに死んだ。
そんな笑みを向けられる資格など、自分はとうに放棄した。
家族を守れず、こうして殻に閉じこもる自分に、そんな笑みを向けられる資格はない。
本局と共に消え去った二人の姉。
その面影を多分に含んだその容姿は、自分の心を痛めつけるだけ。
自分はそんなに強くない。
助けられる人間など決して多くはない、ただの人間だ。
だから、もう失わせないでくれ。
「――――――――」
リュウトは本能的な恐怖に随った。
故に、彼の身はその場から掻き消え――――
「お兄ちゃん! ――――って、ええええっ!?」
受け止めるべき人を失った彼女は、親友と同じく激突した。
ただし、固い耐衝撃性の複合金属の床に。
倉庫を揺るがす轟音。
その後には、耳が痛くなるせ静寂が残った。
彼女が呻き声を上げるまでその場には一切の音がなかったと、その場に居合わせた局員は語った。
「よし分かった」
「本当! さすがお兄ちゃん!!」
良介は目の前で満面の笑みを浮かべる小さいリンディに苦笑した。
つい一時間前にこの施設に現れた二人の少女。
彼女たちはすぐに管理局に保護され、各々がそれぞれ希望する場所で保護される事になった。
小さい――すでに小さいというサイズではないが――リンディが希望したのは無論、愛しい良介の元。
事後処理で地獄と化した倉庫から逃げ出した良介は、機動六課の生き残りたちが押し込まれていた居住スペースに転がり込み、リンディに詳しい事情の説明をさせた。
リンディが語ったのは良介たちが追い詰められた"敵"の正体。
そして、自分たちがこの世界に現れた理由だった。
都合三十分に及ぶ長い事情説明の後、良介は頷きながらリンディに告げた。
それが先ほどの台詞である。
良介はしっかりと理解したぞと示すように、得意げに口を開いた。
「つまりお前らは、あのとんでもないバケモノを倒すために来たって事だな」
「――――お兄ちゃん、縮めすぎ」
リンディのツッコミに旧機動六課の面々が頷く。
「――――あ、あははは、なんというか……」
「先輩らしい、わね」
スバルとティアナは呆れ。
「りょ、良介さん……」
「それじゃあ、意味がない気が……」
君たちの方がよく分かっていると判断できる台詞はエリオとキャロ。
「うーん、やっぱ師匠に異次元世界の話は難しすぎるかぁ」
「君も大して理解してないだろう……?」
腕を組んで頷くシャリオと頭を抱えつつそれにツッコミを入れるグリフィス。
機動六課の反応は、概ねその三つに追従する。
「というか、この脳筋剣士に理解させようとするのが無駄だよね」
外部の人間としてバッサリなアラン。
詰まらなさそうにコーヒーを啜る。
「――――――――」
ぴくぴくと引き攣る良介の顔。
しかし、反論しても数百倍になって帰ってくる事は必定。黙っているしかない。
以前の良介ならこれぞ怒涛といった感じで悪口雑言の限りを尽くしていただろう。
だが、今となっては彼も良識ある一人の大人。いつまでも子供ではないのだ。
「ま、今まで一度もあの人に勝てないようじゃその筋肉もムダムダ」
その場の全員が、何かが切れる音が響いた。
良介が勢い良く立ち上がり、椅子が倒れた。
「オーケー分かった小僧!! その喧嘩買ってやるから釣り寄越せ!!」
「はン! 僕の喧嘩は高いよ?」
「その口永遠に閉じてやる!」
そのまま額を突き合わせる二人。
そんな様子にリンディが声援を送る。
「頑張れお兄ちゃん! 負けてもわたしが手当てしてあげるからね!!」
おう、と答えてアランにガンを飛ばす良介。勢いに乗せられてリンディの存在を認めている。
それはともかく、自分たちの知るリンディとは違うリンディに、その場の面々は微妙な表情だった。
「――――今までにない反応だ」
腕を組みながら様子を観察するグリフィス。母親の親友という事で長い付き合いだったが、こんな姿を見た事はない。
良介の周囲にいる者は、大抵良介が喧嘩を始めれば止める。
「というか、いつの間にか旦那の手当役ですかい」
ヴァイスは興味深そうにリンディの声援の下、奮闘する良介を見る。
ここまでテンションが高いと、こちらは突っ込みを入れる暇すらない。
二人の男が見守る中、良介のアランの腕相撲対決は佳境を迎えていた。
「頑張ってください良介さん!」
「先輩! 負けたら承知しませんよ!」
「もう少しです!」
「頑張って!!」
「きゅくるぅ〜〜!!」
良介の周囲で声を張り上げるフォワード陣。
フリードリヒに至っては二人の頭上を旋回しつつの応援だ。
「――――ふ、他人の応援を受けて大勝利かい? まったく、泣かせるね」
「こいつらが勝手に言ってるだけだ……! テメエこそ、そんなんだからあいつにボコボコにされるんだよ!」
「あは! いいんだよ、僕は。そのおかげであの人の傍にいられる。あの人の情けで救われた命だから、あの人のために使えるんだ……」
「け! 気色わりい奴!」
「何とでも言うがいいさ! あの人以外の言葉なんて、どうだっていいんだから!」
一進一退の攻防。
だが、アランは良介と違って後衛型重攻撃魔導師だ。こうやって戦う事には向いていない。いずれ押し切られるだろう。
「くそったれ! だったら今すぐアイツをどうにかしろよ! こっちにまでカビが生える!」
「あんたの言う事なんて聞く気はないね! そんなに言うなら自分で何とかしなよ!」
僅かずつ押され始めるアラン。
その額に汗が流れた。
その瞬間、良介が一気に勝負に出た。
「――――ッ!」
裂帛の呼気。
「――――くッ」
抵抗する間も無く、アランの腕が勢い良く机に叩き付けられた。
木霊する衝突音。
その後の静寂の中に、二人の荒い息遣いだけが聞こえる。
「――――俺の勝ちだ」
「――――勝手にしなよ、僕は誰に負けても気にならないから」
「け、減らず口ばっか言いやがって」
良介は差し出されたタオルを受け取り、滲んだ汗を拭き取る。
そして、自分の受け取ったタオルを差し出した少女に目を向けた。
「――――そういや、レティは?」
「しっぽのお兄ちゃん……リュウトお兄ちゃんの所、事情説明してくるって」
その答えに顔を見合わせる六課メンバー。
事情説明はともかく、今のリュウトは再会の喜びなどとは無縁の存在だ。問題が起きなければいい――――その場のほぼ全員が同じ事を考えていた。
そして、噂をすれば影。件の少女が開いた自働扉から現れた。
真っ先に声を掛けるのは、やはりリンディだった。
「どうだった? 協力してくれるって?」
「――――――――」
だが、レティは俯いたまま何の反応も示さない。
やはりこうなった――――リンディ以外の全員が同じ事を思う。
レティは全員が注目する中、顔を伏せたまま部屋の隅へと歩いて行き――――
「――――――――」
深い溜息と共に膝を抱えて座り込んだ。
頭を両膝の間に埋め、これぞどん底。
周囲に沈黙と沈殿を強制する絶対空間が形成されていくようだった。
「――――れ、レティさーん?」
リンディが戸惑ったようにレティに近寄る。
そして、その手がレティの肩に触れようとした時、レティがぽつりと言葉を漏らした。
「――――った……」
「え?」
余りにも小さく、その声を聞き取れなかったリンディが首を傾げる。
それに答えた訳ではないだろうが、少しだけ顔を上げたレティは再び同じ台詞を口にした。
「――――いらないって、言われちゃった……」
「い、いらない……?」
「私の手伝いなんて、いらないって……」
再び俯くレティ。
その肩が震えている。
「――――頑張ったんだけどな……やっぱりお兄ちゃんには私なんて……」
あまりの沈没ぶりに、おお、という声と共にその場の全員が一歩下がる。
ほぼすべての者の顔に冷や汗が浮かび、何と声を掛けるべきか迷っている様子だった。
だが、その中に一人だけ進み出た者がいた。
「あ、あの母さ……じゃなかった、れ、れ、レティさん?」
「――――――――」
レティは無反応。
別世界のレティの息子としては、自分より年下の母の姿に感じるものもあったらしく、消極的な拒絶に腰が引けつつもグリフィスは尚も言葉を続ける。
「多分、今の提督は誰にでも同じ事を言うと思います」
「――――――――」
「自分で指揮をしていると分かるんですが、偉くなれば偉くなるほど辛い事ってあるんです。今回は多くの人が犠牲になってますし、多分、提督もレティさんが嫌いで言った訳じゃないと……おも……うんです……が……」
「――――――――」
「――――――――」
沈黙。
グリフィスの額に嫌な汗が噴出する。
せめてこちらを見て欲しい。
これじゃあどこで言葉を区切って良いのか分からない。
「――――あ〜〜っと、すみませんでした……」
故に引っ込む。
グリフィスはこの後ルキノたちに向けられる冷たい視線を覚悟で撤退した。
何の役にも立たないという評価が生まれる可能性を、グリフィスは内心否定したかった。
――――現実には難しいと思っていたが。
がっくりと落ち込むグリフィスに代わり、その幼馴染がレティを励まそうと明るい声を発した。
だが、彼女も随分動揺しているらしい。
「で、でも、提督もひどいよね! いくら奥さんと子供が――――って、は!?」
こっちを見ている。
何がとは言うまい。
強いて言うなら――――
(む、無表情――――――――ッ!!)
人形である。
茫洋とした瞳でシャリオを見詰めるレティ。
シャリオは自分の台詞に混じった問題発言を恨んだ。
「で、でも、提督はあなたの事適当に考えてたわけじゃなくて! それに嘘でプロポーズするなんてタイプじゃないはずだし!」
「――――――――」
怖。
ほぼ全員が同じ事を思った。
氷の才媛の二つ名を持ちながら、プライベートでは"燃える氷塊"と呼ばれたアンジェリーナに匹敵する怖さだ。
恐ろしいまでの独占欲に誘導される狂気。
嫉妬に狂い他者を害する女性は、歴史上枚挙に遑がない。
この少女にもその素養があるのか――――戦慄が場を包んだ。
「――――――――あの……」
人形が喋る。
全員がびくりと肩を震わせた。
フリードリヒに至っては飼い主の下着の下にまで潜り込んで震えている。
「――――――――今の話……本当ですか?」
頷く。
ひたすらに頷く。
リンディ以外の全員が、自分の身を守るために必死で首肯する。
この場に至っては上官に対する敬愛など無に等しく、すべては己の命のために。
「じゃあ、お兄ちゃんは……私の事なんて……」
ゆらりと首を折るレティ。
これぞ人形の動きだった。
「――――いらない、よね……私なんて……」
最悪だ。
再び重なる思考。
今日は随分と意識が同調するなと誰かが思ったが、それはすぐに消え去った。
レティが泣き始めた。
「お兄ちゃん、なんであんな事言ったの……? ちゃんと、好きな人いるじゃない……」
すすり泣く声がさらに怖い。
沈痛な面持ちではあるが、心の底では恐怖を感じる面々。
「お兄ちゃんに認められたかったのに…………追いついて褒めてもらいたかったのに……ひどいよぉ…………」
えずくレティに声を掛けられず、リンディは困ったように良介を見る。
自分に何を期待しているんだと思った良介がリンディに文句を言おうとすると、全員が良介を見ていた。
だから自分に何を期待するんだと怒鳴りたい良介。
だが、ここで大声を上げれば一発で運命は決する。
そう、自分が人身御供だ。
「――――――――」
お前が何とかしろと云う視線を男全員に向ける良介。
だが、グリフィスはすでに論外。
アランはすでに素知らぬ振り。
エリオに何を期待する。
最後に残ったのは――――
(お、オレっすか!?)
憐れヴァイス。
日頃中途半端な立場で楽をしていた報いがここに来た。
(無理っす! 本当に無理っす!)
ぶるぶると首を振るヴァイスだが、すでに多数決で決まっていた。民主主義万歳。数の暴力よ永遠なれ。
「―――――おにいちゃん…………」
その言葉にびくりと肩を震わせるヴァイス。
自身も妹持つ兄。
もしも自分の妹が泣いていたらどうするか――――決まっている。
原因が男なら蜂の巣だ。
だが、今回は相手が悪すぎる。
悪すぎてストームレイダーが戦闘を拒否する可能性も在り得る。
というより、そんな事を考えている場合じゃない。
「――――――――」
覚悟を決めたヴァイス、一人の少女の涙を止めるため死地に赴く。
「だ、大丈夫だ! 提督の家は一夫多妻だから問題な――――ぐぼえッ!!」
やはりそこは死地だった。
可愛い後輩パイロットの一撃を受け、ヴァイスが吹っ飛んだ。
「最低ですヴァイス陸曹! 恥を知ってください!」
「い、痛いぞアルト! 何でお前が怒る!?」
「女子代表です! 誰が好きな人のその他大勢になる事を喜ぶんですか!? やっぱり最低です!!」
女性陣に向けられる極寒の視線。
ヴァイスはリュウトを心の底から恨んだ。
「この事はラグナちゃんにしっかりと報告しますからね! ちゃんと反省してください!」
「なにぃッ!?」
慌てて後輩を宥めるヴァイス。
ようやく以前のような関係に戻れたというのにここでの失点は痛い。
どうにか今回の自分の台詞をなかった事にしたいヴァイスは、必死でアルトの機嫌を取る羽目になった。
そんな騒ぎの片隅で、アランは一人お茶を啜っていた。
「――――なんとまぁ、あれだけ沈んでたのに僅か数日でここまで戻るとは、揃いも揃って冷たい連中だね」
口ではそう言っても、現実がそうでない事は分かる。
明らかに無理をして明るい雰囲気を作ろうとしているのが丸分かりで、アランにとっては居心地が悪い。
信頼の上に成り立つ全員での芝居。
それもまた、悲しみを乗り越える手段の一つだろうとは思う。
こうしていれば、いつかは悲しみも思い出になる。
思い出にされる死んだ人間の考えなど分かりはしないが、少なくともこちらの方が生存率は上がるだろう。
「まあ、死んだ連中もこっちの方が嬉しいだろうね」
終わりの日に生き残ったのが幸せなのかどうかは判断が分かれる所だが、少なくとも今この時点で生きているなら、多少明るい方が長生きできるだろうと思う。
長生きしたいなら悲しみを忘れ、死人の所に行きたいなら悲しみに暮れればいい。
アランは未だ冷え切ったままの心でそう思っていた。
「――――――――ま、単なる死にたがりならむしろ簡単なんだろうけどねぇ……」
おそらく、彼は無意味な死など許すまい。
家族の死に相応しい対価を払わせ、そして己の命を全うする。
自分の知るあの男なら、間違いなくそれを為そうとするだろう。
アランは忌々しげに唇を歪めた。
「まったく、こんな事ならもっと早く来てくれれば良かったのに……!」
そして、未だ立ち直れていないレティに冷たい視線を向ける。
アランの声が聞こえていたのだろう、レティが顔を上げた。
「――――――――早く?」
「そうだよ、君らがあと一週間……いや、三日だけでも早く到着してれば、今こんな事態にはならなかったかもしれない」
「え?」
レティは心底驚いている様子だった。
そして、アランはその表情に違和感を覚える。
「――――? だから、君たちが早く来てれば、今ほど世界が混乱する事もなかったって言ってるんだ」
「――――混乱って……」
本気で何を言っているのか分からないという表情に、アランは自分の違和感の正体を悟る。
ああそうだ、この少女は未だに世界の実情を知らない。
「あの人から何も聞かなかったのかい? あの人の家族は、君たちが敵と呼ぶ存在に殺されたんだよ」
知らなかった。
いや、知る機会がなかった。
この世界に来て僅か数時間。
その間、二人はそれぞれの場所に篭りきりで外部の情報など一つとして手に入れていなかった。
浮かれていた。
長い間待ち望んだ人との再会に浮かれていた。
「――――れ、レティ……」
驚愕しているリンディの様子を見る限り、彼女も知らなかったのだろう。
逆に周囲の人々が驚いているのは、自分たちが何も知らなかった事に対してだろうか。
確かに、自分たちが相対している敵の情報を持ちながら、まさか自分たちの置かれている状況を知らないとは誰も思わないだろう。
それ以前に、この危機を知ったからこそここに来たのかと思ったのかもしれない。
よく考えてみれば穴だらけの理屈だが、先入観は常識を容易く超える。
彼らにとっては当たり前の事でも、自分たち異次元の人間には分からない事も多々あるのだろう。
確かに自分たちの世界がとんでもない状況になっていれば、それは知っているのが当たり前で、世界が滅びようとしている事を知らないなんて思いもしない事だったのだ。
そして、あの人も事実を教えようとはしなかった。
「――――道理で余裕があると思った。本当にね」
「――――――――」
アランの蔑むような視線に、レティは身を縮こませた。
本当に知らなかった。
確かに、あの人が変わってしまったと思い嘆きはした。
あの優しい笑顔が消えてしまったと憤りもした。
「――――――――そんな……」
だが、当たり前だった。
あの人が戦いを仕事にしているという事は察しが付いた。
体の端々から溢れる戦士の匂い。
子供の頃には分からなかったその事が、今のレティにリュウトの職業を想像させた。
そして、自分が役に立てると喜んだ。
戦いなら自分は足手纏いにはならない。きっと、その隣に立ってあの人を支えられると思った。
しかし、現実はどうだ。
自分たちは一歩遅く、あの人はすでに変わらざるをえなかった。
あの冷たい瞳は、もしかしたらあまりにも遅すぎた自分に対する感情の表れだったのだろうか。
「――――!」
そう思った途端、レティの身体はがたがたと震え始める。
思い出し、そして想像する。
褒めて欲しいという感情を全身から発散する自分の言葉を聞いた彼は、自分をどんな感情で見詰めていたのか。
あの時自分はどんな顔をしていた。
「あ……」
そうだ、嬉しくて褒めて欲しくて、一度拒絶された悲しみもあの人の前では霧散して――――笑みさえ浮かべていなかったか……
「――――――――」
知らなかったのだと、教えて貰えなかったのだと言い訳する事もできる。
そう言えば大多数の人間はこちらに非がないと言い、自分を慰めるだろう。
だが、それは真実か。
本当に何の罪もないのか。
そして、彼の家族が死んだと聞いた時、自分は――――
「――――――――」
――――喜びはしなかっただろうか。
邪魔者はいないと。
あの人の隣に立ち、すべてを支えるのは自分だけだと一瞬だけでも思いはしなかったか。
分からない。
事実であるようにも思えるし、そうでないとも言える。
自分は人の死を喜ぶような思考の持ち主ではないとも、胸を張って言えるだろう。
だが、それがすべてか。
「――――レティ、気にしちゃダメだよ」
「リンディ……」
自分の肩に手を置いて微笑む親友。
その姿が歪んで見えて、慌てて目を擦る。
「リュウトお兄ちゃん、レティに何も教えなかったんでしょ?」
頷く。
「――――『情報提供には感謝する。だが、これはこちらの世界の問題、早急に元の世界に戻れ』って……」
今から考えれば、自分などほとんど役に立っていないではないか。
あと数日早くこちらの世界に来ていれば、救えた人間がいる。
そう考えるだけで体が震えた。
「…………やっぱり怒らせちゃったんだ……だから……」
「違うな」
レティの言葉を遮ったのは、もう一人の"お兄ちゃん"。
親友がその心に抱き続けた人。
「あいつはそう簡単に人を嫌える人間じゃない。あいつ自身が自分をどう評価してるなんて知らねぇし興味もねぇが、あいつの嫁はそれを知ってたぜ」
「――――――――」
試すような視線。
それは、想い続けた人間を信じ尽くせるかという問い。
「別に、俺はあいつが何をしようとどうなろうと構いやしねぇ。もうあいつに対する義理はねえし、あいつも俺に対する義理はない。俺たちは勝手に進む事を決めた」
「――――――――」
リンディが良介を見て微笑んでいた。
自分が思っていた通りの人だったと、そう言っている目だった。
「つーわけで、俺らにもちょっと説明しろ。お前の決意が固まるまで、な。お頭の弱いお前の相方の説明だと、イマイチよく分からん」
「ひどいお兄ちゃん! あんなに一所懸命に説明したのに!」
「ひどくねえべや!? お前の説明は抽象的すぎて何がなんだか分からん!!」
「うえ……!」
「泣くなや小娘!」
昔のリンディ提督はこんなにも純粋だったのか――――そんな失礼な感想を抱いたのは果して誰だったのか。どちらにしろ幾枚かの高硬度装甲版を越えた先に蔓延している陰鬱な空気は、この場には居場所を見出せないようだった。
「――――ええ、それではお願いします。はい…………はい…………では、失礼します」
年上の同僚の姿を映したモニターが掻き消える。
相手は対人戦最強と謳われる部隊の司令官で、リュウトとも個人的な誼を結んだ人物だった。
リュウトはその人物にとある二人の少女の警護を要請した。
自分の指揮下にある護衛小隊はすでに複数の重要人物を警護しており、これ以上はその能力を低下させるオーバーワークになる。だからこそ、リュウトは別部隊である特殊作戦群に護衛を依頼した。
その指揮官である老将はリュウトの依頼を快諾。すでに部隊の精鋭が影となって彼女たちを守っているだろう。
「――――――――」
深い吐息。
そして自分の手のひらを見詰める。
「――――――――」
血に塗れた手だ。
この手を愛し、この手を慕った者の血に塗れた手だ。
「――――く……ッ!!」
呻き声を上げて拳を握り締める。
爪が手のひらに食い込み、彼が見た幻の通りに彩る。
鮮血が執務机に滴り落ち、天板を染めた。
「――――なぜ……なぜ今になって……!」
何故、この手で守るべき人間が現れる。
何故、この手で守りたいと思ってしまう人間が現れる。
何故、この自分の前に現れる。
「私は殺し過ぎた……、殺し過ぎたんだ……!」
一日に何度も届けられる行方不明者――――事実上の死者――――の報告。
その数は地球の全人口の数百倍を易々と超え、次元世界の人口の五割以上が行方不明になった事を意味する。
史上最悪の災害。
そんな言葉がリュウトの耳にも届いていた。
「――――災害じゃない……」
そう、それをあの少女たちは教えてくれた。
彼女たちの世界に残されたもう一つの"方舟(アーク)"。それに残された記録を、彼女はリュウトに見せてくれた。
敵は――――
「"神"」
「神ぃッ!?」
良介が素っ頓狂な声を上げて仰け反る。
しかし、彼の周囲に集まる面々も似たようなリアクションをしており、彼の動きは特別目を引くものではなかった。
「正確には、私たちにとって神に等しい力を持つ上位種です」
「――――でも、それなら十二分に神を名乗れるのでは?」
グリフィスが腕を組んで呟く。
シャリオも同じ考えらしく、頷いていた。
「名乗るって言い方も変だけど、聖王教なんて聖王っていう古代の王様祀ってるよ」
つまり、人知を超えた力さえ持てば、誰しも神になれる。
神とは絶対の存在と定義されていながら、存在自体が絶対ではないと云う究極の矛盾存在だった。
「――――まあ、胡散臭さは人知を超えてるな。少なくとも」
良介の言葉にうんうんと頷くヴァイス。その隣ではアルトが同じように頷いていた。
この二人、たまに兄妹に見えるという噂があるが、こういう姿を見ると妙に納得ができる。
「旦那に胡散臭いって言われるってことは、間違いなくこの神様は胡散臭いっすね」
「そうですね!」
鈍い打撃音。
ヴァイスとアルトが頭を抑えて蹲る。
それを横目に、シャリオが先を促す。
「まあ、宗教的な検証は専門家に任せるとして、どうして"神"なんて大層なニックネームを?」
「――――確かに神に相応しい力を持っているからです」
「え、あ、いやまあ、わたしたちはよく分かっているけど……」
これだけ一方的に蹂躙されれば誰でもそう考える。
「いえ、今の状況を作り出した力とは別のものです」
「へ?」
ほぼ全員が目を丸くする。
これだけ巨大な力でありながら、これは神の力ではないというのか。
レティは注目の中心で、重々しく口を開いた。
「――――古来より、神にしか扱う事許されぬ"命"と"時"。今回の敵はその片方である"時"に関わる存在です」
レティから提供された情報。
それは異次元世界の古代文明が残した、"神"と呼ばれる存在との戦争の記録だった。
「『アンラ・マンユ』」
それが古代文明によって名付けられた"神"の名。
次元の底に澱み、いつしか天上の世界を脅かし始めた存在だった。
「――――最初の記録は……こちらの先史文明より前か……」
あくまでこちらの時間に照らし合わせれば、だが。
リュウトは資料を捲る。
「『世界各地に"影"が出現し始め、それに対抗するためプロジェクト"アヴェスター"が発動』」
目的は、神に対抗する事。
荒唐無稽の極みではあるが、滅びを甘受しないという姿勢には好感が持てた。
リュウトは資料を読み進める。
資料の中では、すでにプロジェクト開始から数十年が経っていた。
その頃、ようやく神に対抗し得る人々の"剣"が出来上がる。
その名は『アムシャ・スプンタ』
複数の戦術ユニットを組み合わせた対"神"用の戦術実力部隊だった。
滅ぼされようとしていた人々にとって、彼らは人々の希望となる――――はずだった。
「『だが、プロジェクトの中心地が"影"に強襲され、戦術ユニット構成員の半数以上が行方不明に。計画の要である対時空超越体拘束機構"アフラ・マズダ"も二基の内一基が次元の壁の向こうに消え去った』」
リュウトは次元の壁を超えた"アフラ・マズダ"に心当たりがあった。
"方舟"。
そう、時を超える力を持つとされた古代遺物。
「――――なるほど、だから"時を超える"などという伝承が残ったのか……」
時空超越体。
それは、"時間"という概念に縛られない存在。
そこにあると同時に以降のすべての時間にあり、未来を食い尽くす絶対存在。
"神"の名に相応しい力を持つ"敵"。
「時空を超える存在を拘束するために、"方舟(アーク)"自体も多少時間に干渉する。それが後に別の伝承となった」
疲れたように息を吐くリュウトには、要を失った『アムシャ・スプンタ』の未来が見えるようだった。
そして資料には、彼らは"神"と刺し違えたとある。
しかし、後年の資料には追記事項があった。
「『戦術ユニットの生き残りの証言により、"アンラ・マンユ"は我々とは別の次元に落とされた事が分かった。拘束され時空を超える力を使えなくなった"アンラ・マンユ"は、最後の力で次元の壁を超え、虚数空間に消えていったという』」
素直に考えるなら、虚数空間で生きていられるものなどありはしない。
だが、彼らとて"敵"のすべてを知っているわけではなかった。
「『――――我々の世界は、辛うじて勝利したと言えるだろう。だが、"アンラ・マンユ"が生きている可能性もある。いつか別の次元で我らの"敵"が蘇るかもしれない。それは我らにとって最悪の悪夢だ』」
資料の最後に綴られた文は、今までになく感情が込められていた。
「『――――我らは"神"を僭称する"敵"に勝った。だが、誰かが再び戦う事になるだろう。その時、我々はその責任を果せるのだろうか』」
次元を超えた敵を追う術が、この時の彼らにはなかった。
「『我らの命はここで潰える。だが、いつの日か意思を継ぐ者が現れ、幾百、幾千の時が経とうとも意思は潰えないだろう。異次元世界の子らよ、我ら先人の咎を赦し給え。贖罪のために我らは力を残し、意思を遺す』」
時を超越する"敵"と戦った者たちは、最後まで"時"という存在に勝とうとはしなかった。
それこそが、最大の意思であるかのように。
「『そしていつの日か、未来が"闇"を超えて耀かん事を切に、切に願う』」
最後の言葉を読んだ面々。
彼らの表情はまさに十人十色だった。
露骨に嫌そうな表情の者もいれば、潤んだ目をしている者もいる。
そんな彼らの表情に、レティは少しだけほっとした。
見知らぬ世界に二人きり、どれだけ繕っても寂しさは消えない。
そんな中で出会った者たちは、こうして過去の想いに心馳せる事のできる優しい者たちだった。
異邦人である自分と親友を迎え入れ、昔からの友人のように扱ってくれる。
それはレティにとっては驚きであり、同時に安らぎだ。すでに"影"の攻撃が始まっているという事には驚き後悔したが、今ならまだ救える人がいるのだと彼らは言う。
「――――つまり、このお嬢さんはあいつらに対抗する方法を知ってるって事ですかい?」
ヴァイスが腕を組んで呟く、リンディがレティを見詰めた。
親友の視線に頷き、レティは己がデバイスを復元する。
現れる魔法の杖。
「『ミスラ』、リンディの『ウルスラグナ』と共に遺失技術で創られた杖です」
「デバイス――――に見えるけど……」
『ミスラ』をじっと観察するシャリオの言葉に、レティは肯定の意を返す。
「構造的にはあまり共通点がありませんが、こちらの世界のデバイスとはその定義に多くの共通点があります。魔力を使用して力と成す、これもそのような役目を負っていますから」
レティは『ミスラ』を待機状態に戻し、懐に収めた。
「この二本は対時空超越体拘束機構『アフラ・マズダ』の中継器として作られています。一本が『アフラ・マズダ』の力を受け、それをもう一本に送信する。それによって『アフラ・マズダ』本体の効果域に"影"を置く必要はなくなり、切り札を敵の眼前に置くという暴挙を避けられます」
本来は二基の『アフラ・マズダ』を直線状に配置する事でその中心部に高拘束効果を生み出す事が目的だったが、今となっては残り一基、こうして中継装置を介することでその効果を保つしかできない。
「つまり君らのどちらかが敵と戦い、もう一人が"方舟"の管制を担当すると?」
グリフィスの言葉にレティとリンディは頷く。
その顔に刻まれた決意に、グリフィスは額を押さえた。
「――――今更危険だとは言わないが、随分無茶な事を……」
そういえば自分たちの部隊の隊長陣も同じ人種だった。思い出し、グリフィスの米神が傷む。
「少なくとも、そうしなくては"影"は倒せません。彼らの本体はあらゆる未来と過去に存在し、現在のそれを消滅させても未来には存在します」
「過去、現在の延長に未来があるというこちらの常識は通用しない、そういう事?」
「ええ」
自分と同じ年齢だというティアナの言葉を、レティは顔を伏せながら肯定した。
そして、先人たちが"神"という表現を用いた理由を噛み締める。
俯いたレティの代わりに、リンディが続けた。
「その後、わたしたちの世界には"ヒドゥン"と呼ばれる災害が生まれ、その存在によって『アンラ・マンユ』という未曾有の危機は人々の記憶から追い遣られました。幸か不幸かわたしたちの世界に"影"が出現する事はなく、その記憶は永遠に忘れられたままになるはずだった。でも……」
あの日、少女たちは"影"の一端を見た。
大人たちが自分勝手に推論を述べる中、彼女たちは独力で"影"の正体に迫る。
そして見つけたのが、棄てられた遺跡ともう一基の"方舟"。
「おそらくわたしたちの世界に現れた"影"は、あなた方が"方舟"と呼ぶ『アフラ・マズダ』のエネルギー残滓に惹かれて現れた。正確には『アフラ・マズダ』発動に必要な魔力波形を持つ良介お兄ちゃんと、その魔力を制御した事のあるリュウトお兄ちゃんに引き寄せられたって、わたしたちは考えてる」
リンディの言葉に、全員の視線が一点へ。
「――――――――俺のせいじゃねえ」
「だ、大丈夫ですよ! 誰もそんな事思ってませんから!」
「でも、また先輩が絡んでるのね」
「ティア!?」
スバルのフォローは相棒の言葉の弾丸で撃墜された。
それと同時に、ここにいるほぼすべての人間が諦めたように溜息を吐いた。
良介の額に青筋が浮かぶ。
「言いたい事があるならはっきり言え……!」
「――――いいんですか?」
そこはかとなく冷たい声が良介の背後より響く。
良介はその声に大きく肩を震わせた。
「――――ぎ、ギンガさん……いらっしゃったのですね……」
「回りくどく諸々の部隊を経由した命令ではありましたが、ミナセ提督より彼女たちの警護を仰せ付かりました。機動六課の方も同様の任務に付けと」
「つまり……」
「如何なる存在であれ、彼女たちに害を与えると考えられるならば現場の判断で対応せよ、という事でしょう」
つまり、他世界の人間がリンディとレティの身柄を要求しても、機動六課はそれを拒めるという事だ。
機動六課はあくまで時空管理局の一部隊。その指揮権は本局遺失物管理部、さらには時空管理局そのものが持っていると言える。いかに合議制を謳っても各世界は直接機動六課に命令を下す事はできない。
そんな事が可能なら、各世界駐留の管理局部隊には複数の命令系統が存在する事になってしまうのだ。
「少なくとも、管理局にあなた方を害する意思はありません。極端な話、たとえあなた方二人が法に抵触する行為を行っても我々はあなた方二人の命を守ります」
「――――――――俺を見るな」
ギンガから目を逸らす良介。心当たりが多いので反論もできない。
「非公式ながらミナセ提督を支持する部隊がこの周囲を警備しているとの噂もあります」
もっとも、これは意図的に流された噂で、真実そのものだ。
だが、明確な証拠を持たない噂なら各世界も滅多な事はできない。
「ですので、これからは私たちと一緒に過ごしていただきます。窮屈かもしれませんが、どうか許してくださいね」
ギンガはそう言ってふっと笑う。
二人が自分の妹と同じ年頃だと知っているギンガには、この二人が赤の他人だとは思えなかった。沈み込む自分を察してこの任務を与えたリュウトに、ギンガは内心で感謝する。
微笑みながら自分たちを見るギンガに、二人は慌てて立ち上がって頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします!」
そのまま機動六課の面々にも頭を下げ始める二人。
アランはそんな光景を横目で見ながら、つまらなそうにキャンディーの棒を回した。
そしてふと、自分の通信機が震えている事に気付く。
取り出し、モニターを開いた。
「――――――――」
そして、目を見開く。
ぽろりと、キャンディーが落ちた。
そして叫ぶ。
そこには、彼にとって守るべき人間の名と――――
「――――侵入者……!?」
訪れる沈黙。
そして、鳴動する会議室だった。
締め括られた言葉に、リュウトは自嘲気味に笑う。
未来など、この終わりの世界のどこにあると言うのか。
世界を救う勇者は現れず、序盤で退場するべき脇役武官の役どころにいる自分がこうして生き永らえている。
本来なら観客の興味を一瞬だけ引いて舞台袖に消えるはずだったのに、不幸な事に勇者の役が欠けてしまった。
そのせいで自分は観客の興味を引き続ける道化師を仰せつかり、こうして足掻き続けているのだ。
本来ここに立つべき誰かが現れるのをひたすらに待ち続け、いつか朽ちる。
それは仮定された未来ではなく、ほぼ確実に訪れる運命。
憐れな血みどろ道化師は舞台で踊り続け、その身に亡びが来るのを待っている。
早くここから逃げ出したい。
楽になりたいと。
「――――ああ、くだらない……」
三流以下の脚本。
三流以下の役者。
三流以下の舞台。
三流以下の、題目。
「何を望めという? 彼女を抱き締め、必要だと囁き、そして血で汚す事か?」
確かに、純真無垢な彼女はさぞ汚し甲斐のある事だろう。
一つ汚される度にとても良い声で啼いてくれるはずだ。
清廉な悲鳴を奏で、そして堕ちていくだろう。
「――――――――」
最低だと思う。
こんな穴倉に引き篭もり、自分を慕う人間一人の守りすら他人に押し付けている。
そう、彼女を守ろうと思うなら自分の手伝いをさせればいい。
彼女の持つ知識は間違いなく有用で、彼女自身も決して凡庸な能力の持ち主ではないのだから。
部下たちはすでに超過労働で手一杯、ここで一人ぐらい手伝いをする人間を手元に置いても文句は言われないだろう。
しかし、どうしてもそれをする気になれない。
手元に置いておけば傷付けてしまいそうで、どうしても近くに置いておけない。
「――――"置いておく"か……」
彼女はモノではないというのに。
リュウトは自分の思考に嘲弄の笑みさえ浮かべた。
「アニーさんに叱られるのは間違いないですね」
女性は等しく尊ぶべし。
父は母の尻に敷かれながらそう言って自分を育てた。
だから自分は女性に対する敬意を忘れず、上級の礼を以て遇していた。
だが、これはあまり評判が良くなかった。
近しい女性には愚痴を言われ、ひどく責めるような目で見られた。
別に女性を軽んじていたわけではないが、そう思われていたのかもしれない。
「――――今となっては懐かしきあの日……か」
あの日以来、こうして懐古の念に囚われる事が多くなった。
こうして思い出に浸っていれば、現実を忘れる事ができるとでも言うように。
「――――本当に、情けないし最低だ……」
何故だと思うばかりで進む気力が湧かない。
だからリュウトは、過去ばかりを思い出していた。
リュウトはコンソールに指を走らせ、モニターを閉じた。
「――――――――」
しかし、どうやら思い出に浸る前にするべき事が出来たらしい。
扉の外に複数の気配。
ひどく希薄なそれは、明らかに非友好的なものであった。
「――――入ってきたら如何ですか?」
リュウトの声が何もない虚空に消える。
その刹那、執務室と廊下を隔絶していた扉がその口を開けた。
一瞬の時すら置かずに雪崩れ込む黒の集団。
「――――!!」
無言の喊声。
複数の黒の内、三つの黒が闇色に染められたデバイスを手に迫る。
体勢を低く、体の上に傾斜を付けた防御魔法を展開しての突入体勢。
リュウトも散々訓練した対魔導師用突入姿勢の基本スタイルだ。
「――――――――」
三つの黒は半拍で机を乗り越え、リュウトの両側頭部と後頭部にデバイスを突き付けた。
それに合わせるように机の前、それなりの広さを持った空間にも二重三重の包囲網が築かれ、リュウトに向けてデバイスを光らせていた。
突入からこの時まで僅か一秒強。
これが自分の育てた教え子たちなら拍手して賞賛の声を上げたい手際だった。
それでもリュウトは一切の動揺を見せず、ただ前だけを見ている。
突き付けられたデバイスに目もくれないリュウトの様子に、黒たちがかすかに震えた。
動揺している。
「――――――――お名前を、と聞いたら答えていただけるのでしょうか?」
その質問に答えたのは、リュウトの視線の先、開いたままの扉から現れた一つの黒。
耐衝撃性のヘルメットにバイザーを着け、その身は黒一色。
その手にはやはり黒塗りのデバイス。
体格から男だという事は分かるが、それ以上の情報はあまり期待できない風貌だった。
「――――難しい。我らは貴卿より世界の守護者の任を譲り受けよ、と命令されたに過ぎぬ故」
ごつごつとした声。
おそらく三十代以上の年齢で、感情を抑制する事に慣れている。
リュウトは目の前の人物を観察し続けた。
「『世界の守護者』、私がいつそんな名を名乗りましたか?」
「嘗て、次元世界が貴卿の名をそう認識していた。我らもまた、貴卿の下でなら命を懸けられると思っていた者たちだ」
バイザーの下。
唯一開かれた口元が歪む。
それは自嘲の笑み。
「堕ちた英雄よ、すでに貴卿は守護者に非ず。願わくば速やかにその任を明け渡されたし」
「――――――――」
リュウトは自分に突き付けられたデバイスを眺め、小さく嘆息した。
誰も彼もが自分に血を強いる。
世界のために死ねと言うなら死のう。
しかし、ここで死ぬ事はできない。
「あなた方をここに送り込んだ方たちは、やはり世界を掌中にしたいと思っておられるので?」
「――――――――」
無言。
答える気はない、引き結ばれた口がそう告げていた。
しかし、少し考えれば自ずと答えは出る。
「ふむ、これは武力政変といったところでしょうか?」
次元世界をひとつの国家と看做せば、各世界は市民という事になる。
嘗ての英雄、後に最高評議会と呼ばれる者たちが次元世界を平定するまで、この次元世界に政府と呼べる機関は存在しなかった。
或いは、先史文明の時代にはあったのかもしれないが、少なくとも近代史に於いてそれは存在しない。
そんな時代、市民は各々武装し自衛をしていた。その武装が各世界の軍事実力機関であり、その武器が市民同士の争いを生むことも多かった。
通常の国家であれば治安維持機構が各市民の生活を守っている。だが、次元世界という国家では市民たちが各々集まって作られた自警団、つまりは世界の連合が精々であった。
そこに現れたのが時空管理局という超世界規模の統治機構。
時空管理局は次元世界でのいくつかの政治的権利を兼ね備え、統治機関としての立場を得る事となる。
各世界の合同で運営される時空管理局は、最高評議会が実権を握っていたという事実はともかく、対外的には議会制の民主主義国家と言えた。
そして現在、その政府が不測の大災害で統治能力を疑われている。
各市民たる世界は政府たる時空管理局に対してその政権の返還を求め、こうして水面下とはいえ武力を使用して。
つまり、これは革命。
しかし――――
「――――――――愚かな……」
そう、愚かだ。
今争うべきは互いに非ず、リュウトですらそれを理解している。
なのに、世界を率いるべき人間たちがそれに気付かない。
「ここで争えば我々の生存確率は下がるばかり、例えこの混乱に乗じて世界を手に入れても、すぐに滅ぼされる」
「それを判断するのは我らではない、我らはモノ考えぬ武具に過ぎぬ」
「戦士にとって武器が凶器となるか、無二の友となるか、その選択肢を放棄するのですか?」
リュウトと男は静かに言葉を交わす。
しかし空気は緩まず、並の人間ならばその圧力だけで気絶するだろう。
「――――思考を持てば、その力に耐え続ける事になる。貴卿ならばその辛さは分かるだろう? ならば力を肯定し、思考を否定すればいい」
「それがあなた方の答えか」
「――――――――」
目を細めて男を見上げるリュウトの質問にもやはり答えはなかった。
男は口を固く結んでいるだけだ。
無言の中、瞳を鋭く輝かせてリュウトが吼えた。
「あなた方の力は敵を殺すためのものなのか……!?」
「――――――――」
「あなた方のその手は、殺すためのものなのか……!」
直接的な力だけが力ではないとリュウトは知っている。
だが同時に、暴力は何をも超越する可能性があると知っている。
生半可な言葉など通用しない世界。
力こそが正義、力こそが法の世界。
世界と世界の間には、そんな空間が広がっているのかもしれない。
だが――――
「――――あなた方が変わらないのなら、私は退けない」
退くわけにはいかない。
これ以上の悲しみは、自分を守ってくれていた者たちに対する裏切りだ。
リュウトは擦り切れそうな心を叱咤し、男に告げた。
自分は要求を受け入れないと。
「――――――――退いてください。今ならまだ間に合う」
そしてこの場から退く事を求める。
今ならまだ混乱を最小限に止める事ができるはずだ。
それでも男はリュウトの求めに、頭を振った。
「それはできない。我らはあらゆる手段を以て貴卿の権を継承せよと命じられている。そう。あらゆる手段を使っても、だ」
男が右手を掲げた瞬間、施錠されていたはずの扉が開かれた。
そこから現れた人物に、リュウトは瞠目する。
「お兄ちゃん! 大丈夫!?」
レティ。
リュウトの口がその音の形を描く。
そして次の瞬間には、リュウトを包囲していた男たちの何名かがレティに向かって跳ぶ。
「ッ!?」
驚いて杖を取り出そうとするレティ。
だが、それは致命的なまでに遅かった。
「あうッ!」
一発の弾丸に弾き飛ばされる待機状態のミスラ。
着弾の衝撃を受けた右手を押さえて蹲るレティを男たちが取り抑えた。
「ああ……!」
床に乱暴に叩き付けられるレティ。肺から空気が押し出され、一瞬視界が明滅した。
「レティ!」
思わず立ち上がろうとするリュウト。
その眼前に、男のデバイスが突き付けられた。
「――――彼女とその友人の保護も我らの任務だ。彼女たちが抵抗しないなら、我らも彼女たちを全力で守ろう」
男の言葉にリュウトの怒声が飛ぶ。
その姿には嘗ての将聖の面影などなく、ひたすら吼えるだけだ。
「今の自分たちの姿を省みず何を言う! 守る事は相手を束縛する事ではない!!」
「守れなかった貴卿が何を吼える」
男はリュウトを見遣り、口元を歪めた。
「いや、そこの少女は知らないのだろうな……」
男はレティに向き直ると、その顎を?んで囁く。
「いい事を教えよう、お嬢さん」
「ぐ……」
お前の言葉なんて聞きたくない。
レティのそんな意思を視線で感じ、男は尚も愉快そうに低く哂った。
「くっくっく…………そう、いい事だ」
レティは男の言葉など信じるつもりはない。
だが、耳を塞ぐ事はできなかった。
「この男は、次元世界史上誰も成し遂げた事のない偉業を達成した唯一の男――――」
男は告げる。その声に怒りさえ滲ませて。
「――――――――兆を超える人間を殺した、史上最悪の殄戮者だ」
剣の章へ続く
作者悠乃丞さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル、投稿小説感想板、