――――人の世は終わりあってこその世界である。故に人は生き、そして死ぬ。故に終わり無き世界は、すでに人の世に非ず――――













 十二月二四日、午前零時。





 その日、月村忍は深夜までゲームをしていた。

 最初は気分転換のつもりで始めたゲームだったが、いつの間にか熱中してしまい、こんな時間になってしまった。明日は――――今となってはすでに今日だが――――友人たるこの街出身の魔法使いの元祖、リュウト・ミナセの実家で一泊二日のパーティを開く予定だった。

 生憎とその招待状を送ってきたのは彼女の望んだ男ではなかったが、少なくともパーティ会場に行けばその男はいる。久しぶりに会うので衣装の選定に手間取ったが、忠実にして心通じた侍従兼友人のおかげで納得できるものを選ぶ事ができた。

 後はそれを着て目的の邸宅に行き、クリスマスというイベントにはしゃぐ子供たちの相手でもしてあげよう――――忍はそんな事を考えてテレビの電源を落とした。

 あまり遅くなると待ち合わせの時間に遅れてしまう。つい数時間前にアリサから、自分は主人を連れて一緒に戻る事になったという連絡が来ていたから、おそらく向こうで件の主人が何かやらかしたのだろうと見当をつけ、苦笑しながらそのメールを閉じた。アリサからのそのメールには、パーティ会場飾り付けや料理、子供たちに渡すプレゼントの確認を自分の代わりに行って欲しいという言葉も書かれていたから、予定よりもいくらか早い時間に会場に着かなくてはならないだろう。

 子供たち、つまりはホストの子供四人と魔法使いの少年少女、高町の名を新たに名乗る事になった金銀妖瞳の娘へのプレゼントは忍自身も参加して行われた。もちろん子供たちには彼らの親からのプレゼントがある。だが、それとは別に用意されたプレゼントがあった。

 子供たちの喜ぶ顔が用意に想像できて忍の顔は綻ぶ。

 できるなら自分の子供も欲しいと思うところだが、生憎と相手はそう思っていないようだ。その辺りに関してはホストの細君である女性を羨ましく思ったりもする。いくら特殊な家に生まれたとはいえ、自分にも女としての欲求はある。幸いにも自分と件の相手には他人より多くの時間が与えられているから焦ってはいないが、自分に笑顔を向けてくる子供たちの姿を見るたびに自分も子供が欲しいと思ってしまう。

 安易だとは分かっているが、同級生や知り合いが結婚、或いは出産したという報せを耳にすると、自分は一体何時になったらそのような報せを届けられるのだろうと思う。特に叔母は自分と自分の懸想する相手をよく知っており、会う度に進展具合を聞いてくる始末。その都度唇を尖らせて場を誤魔化しているが、いつまでもそれでは面白くないと思う。

 それでも結局、自分もいつかは――――という願望だけで満足できる辺り、自分も大概丸くなったものだと思う。

 体を焦がす宿命はどうしようもないが、それすらも受け入れてくれた人たちがいる。その人々と共に過ごせるなら、今の曖昧な幸せも悪くないと思うのだ。

 初めてホストの細君に赤ん坊を抱かせて貰った時は、純粋に感動してしまった記憶がある。その夫は子供に怯えて近付けなかったというが、これは確かに恐ろしさすら感じる存在だと思えた。命という存在があれほど輝いている光景を、彼女は知らなかった。

 まるで一つの遮蔽物もない場所で太陽を仰いでいるような感覚。燦然と降る光のように翳りのない命に、忍は微笑みかける事しかできなかった。しかし、それで十分だ。今では随分大きくなったその赤ん坊は、父と良く似た笑顔を浮かべて自分をからかうようになった。

 曰く――――『たくさんあると思っていると、時間というものはあっさり逃げていく』

 夏休みの宿題を先送りにして困るという経験は、忍も体験した事がある。故にその言葉に顔を引き攣らせた彼女は、自分よりも二十近く年下の子供に本気で切れた。こめかみに全力全開の拳を捻り込み、悶絶するエモノにこう囁いた。


『そんな事はわたしが一番よく分かってる』と。


 どれ程長い時間を有していても、結局は有限に他ならない。

 何かの切っ掛けであっさりと崩れ去る日常を知っている忍にとって、その子供の言葉は身に染みた。そしてその子供も、いつ父と別れる事になるか分からないという日常にいる。その子供の祖母とさえ言える翡翠の髪の女性は、最愛の夫を仕事で失っているのだから、彼らにとってはそんな出来事は壁の向こうの出来事ではなく、いつ目の前に現われてもおかしくない必然なのだろう。

 そこまで考えて、忍は自分の頭に充満する暗い考えを振り払うように頭を振った。

 パーティの準備は午前中から始まる。ホストの子供たちはすでに到着して祖父母と遊んでいるはずだが、その他の子供たちは各自の親と一緒にこちらに来ると聞いている。予定では夕方くらいに到着するという事だったから、それまでに準備を終えなくてはならない。

 こういう事には向いている知り合いにも何人か声を掛けたから心配はしていないが、やはり子供たちには笑っていて欲しいと思う。


「――――というか、侍君ももうちょっと私の事構ってくれてもいいに……」


 しかし、それが叶わないなら自分で近付けばいいだけの事だ。

 忍は決意も新たに笑みを浮かべ、英気を養うべくベッドへと足を向ける。

 そして、彼女が一歩を踏み出したその時――――


「きゃっ!」


 彼女を大きな揺れが襲う。

 それは地震などというちっぽけなものではない。

 魂の奥底まで響く揺れであり、存在そのものが揺らされているという錯覚さえ覚える。

 忍は手近なテーブルに手を着き、その揺れが収まるのを待つ。

 この月村邸は並大抵の地震で倒壊する事はないはずだ。

 そう考えて動揺した思考を落ち着かせようとした忍だが、扉が乱暴に叩かれる音を聞いて再び焦燥を心に抱いた。


「忍お嬢様! ご無事ですか!?」


 そして、自分の返事を待たずに扉を開けた侍従の姿に、この地震が自分の考えているようなものではないという事を悟る。

 それ以前に、仕事振りにおいては冷静のそのものであるこの侍従がこれほど焦った声を聞いたのは、随分久しぶりの事だと思った。


「ノエル! 何があったの!?」


「分かりません。ですが、ミナセ様より供与された次元観測機器に異常が感知されています」


「次元……ですって……」


 それだけでも驚くべき事なのに、忍はそれだけではないような気がした。

 この魂を揺さぶられるような錯覚、まるで自分の存在が暴漢の手で撫でられているような不快感。それらを含めて考えれば、この地震が自分にとって最悪の存在によって引き起こされたものではないかという愚にもつかない思考が生まれる。

 そして、彼女がそれを確かめようと地下へ向かう決意をし、扉に向けて進もうとした時、彼女の背後に控えていたノエルの悲鳴が忍を襲う。


「忍お嬢様!」


「ノエル?」


 その声に振り向いた忍。

 だが、その動きが彼女の運命を決定付けた。


「――――ぁ」


 背後に現れる巨大にして空ろな気配。

 忍はそれを認識した瞬間、すべての動きを止めざるを得なかった。

 心が、体が動かない。

 自分のすべてが終わりを甘受しようと弛緩した。


「しの――――!」


 ノエルの手がこちらに伸ばされる。

 しかし、彼女の背後に現れた黒い"何か"がその姿を覆い隠した。

 忍の意識は、それに対する如何なる思考も拒否した。

 だが、その伸ばされた手がひどく寂しく感じ、彼女が自分の手をその手に重ねた。


「侍君――――ごめんね」


 自分はきっと、もう会えない。

 いいたい事もやりたい事も望みたい事もたくさんあった。

 でも、もうあなたには会えない。

 あなたの憎まれ口が聞けない、あなたのぶっきらぼうな優しさに会えない、あなたのその熱い体に触れる事もできない。

 でも、あなたがここにいなくてよかった。

 希望を抱いて逝けてよかった。

 だから――――


「侍君、がんば――――」


 彼女の最後の言葉すら飲み込み、この世の絶望は世界へと波及する。











 彼女――――アンジェリーナ・クルス・ミナセは夫婦の寝室に集まって寝入る子供たちを慈母の笑みで見詰めていた。

 大きなベッドを五人で、中心に自分を置いて左右に二人ずつ眠る子供たちは、その顔に安堵以外の何も浮かべていなかった。座っている自分の膝に頭を乗せる甘え盛りの末っ子の髪を撫で、十年より前の自分だったら想像もしていなかった幸せを噛み締める。

 この現実がまるで夢のように感じたのは、最愛の夫に"攫われた"時からだろうか。

 士官学校の友人や、同僚たちが羨む情熱的な愛の告白――――という訳ではなく、単に大切な有能な副官を知らない男に取られるのは困るという至極真っ当な仕事意識で連れ去られはしたものの、最近はそれが自分の背を後押ししたのではないかという考えも浮かぶようになった。

 いつかくだらない男に抱かれるのだろうと思っていた自分には望外の幸福だった今の夫との出会い。

 最初はその才覚に嫉妬し、へらへら――――分かっている、自分の主観だ――――と自然体を崩さないその態度に苛立ちもした。しかし、あの男は決して折れない剣だった。

 自分なら耐えられないような重圧も笑みで受け止め、命の重さを決して忘れない男の背中を、自分の目は自然と追うようになっていた。

 その男はあまり色恋沙汰に縁がないようで、自分の視線にも他の者の視線にもまったく気付かないような鈍感男ではあったけれど、幸か不幸か自分はその傍にずっといられた。

 その距離が苦しかった事もある。その気になれば手が届く距離に触れたい温もりがあるのに、自分は意固地になってその欲求を抑え込んだ。

 そして、再び幸か不幸か自分に結婚の話が持ち上がった。

 あの人に止めて欲しいと思った。だが、それと同時にそんな事をするはずがないと確信もしていた。

 いつの間にか使い魔と同じくらいその男の事を分かるようになっていた自分に内心苦笑しながら、その男に結婚と退職を告げた。その反応は、予想通り。

 結婚式には出るべきか、と問うその上官に対し、自分は最後の抵抗とばかりにその申し出を断った。

 そしてその意思を伝える言葉を発した瞬間、自分の言葉は誰に対する抵抗なのか気付き、再び苦笑する。

 これは、自分に対する最後の抵抗ではないか。

 他人のものになる自分を、この鈍感で天然でだらしない――――でも優しくて気高くて、大きな手をしたこの人に見てもらいたくなくて、何故か溢れる涙を隠すように深く、深く頭を下げる。

 自分の机に戻った後、あと数日でこの部屋から消える自分が可笑しくて、自分の後任としてここに座る誰かが嫉ましくて仕方がなかった。

 最後の仕事を終えて執務室を後にする時、自分は上官の目を盗んで部屋の情景を目に焼き付けた。

 ここにいた自分こそが自分だと思い、これから必要なくなる"心"をここに置いていこうと思った。

 だけど、結局上手くいかなくて、自分は真っ白い花嫁衣裳を着てもあの男の姿だけを脳裏に思い浮かべていたのだ。

 そして、あの運命の時。

 あの上官が、式に招待されてもいなかった上官が自分を奪い去った時、もはや自分はこの男の隣以外では生きられないと知ったのだ。

 逃亡のために極超音速で空を飛ぶあの男の腕の中で、自分に似合わない乙女心だと苦笑した。お姫様と騎士の物語ではないのだと自分を窘めもした。

 だが、それでもこのままでいたいと思ってしまった。

 だから、法的には自分の妻となっている自分に背を向けて上官としての言葉を発したあの男に半ば無理やり――――後から後輩に逆、逆と笑われた――――自分のすべてを差し出した。

 その時の事は、正直よく憶えていない。生まれて十九年間の間に醸成された熱情が自分の意識と身を溶かし、ただひたすらにあの温もりを追い求めた気がするが、結局自分が燃え尽きてしまい、起きた時には部屋の中で途方に暮れてぐるぐると回る夫がいただけだ。

 その情けない姿に大笑いし、そして再び湧き上がる熱愛に浮かされるように夫を押し倒した――――やはり後輩に抱腹絶倒された――――が、まあ、結局その日最大の仕事は、夕方戻ってきた夫の使い魔との激闘だった。その戦いに関して懸命にも不干渉を貫いた夫の占有権を巡り繰り広げられた戦いだが、結果は引き分け。一日の内半分ずつの所有権を持つという事に決定しかけたが、夫のデバイスやら"元"婚約者やらの乱入によりすべては破綻し、結局今のようにある程度の線引きをして対応するという方針に落ち着くことになる。

 今でも本局で休憩していると、この話を聞きたいという若い女子局員――――自分も十分若いが――――が押しかけてくるのだが、ある程度は真実を暈しながら話して聞かせ、結局は煙に巻くという手段で何とか凌いでいる。

 あの中の誰かが自分の土俵に上がってくるなら容赦しないが、そうでないなら可愛い後輩だ。いくらでも応援したいと思う。


「ふふ……」


 変わってしまった自分に微笑みを浮かべ、アンジェリーナは互いの温もりを求めて密着する子供たちに布団を掛け直してそろそろ自分も寝ようと横になる。

 明日はここに夫と二人で寝る事になるのだろうか、それとも家族全員でくっついて眠る事になるのだろうか――――どちらにしても自分にとってはクリスマスプレゼントだ。アンジェリーナはそう思って目を閉じた。











 そして、自分の体を揺らす振動に目を醒まし、体全体を包む違和感に神経を覚醒させる。


「――――!!」


 世界を揺れが襲っている。

 母が身を起きた時に目を醒ましたのだろう、長男と長女が険しい顔で母を見詰めてきた。まだ幼い子供ではあるが、管理局の雄の子供らである。その目には戦場に立つ父とよく似た鋭さがあった。

 アンジェリーナはその光を見つけ、場違いにも微笑みを浮かべた。この子供たちは間違いなく自分と夫の子供だと。


「リョウヤ、マリア。ミヅキとユキオミを起こして」


「うん」


「母様は?」


 マリアベルがアンジェリーナに問う。その問いに、アンジェリーナは微笑みながら頷いた。


「私は先にお義父様とお義母様の所に行ってくるわ。二人を起こしたら貴方たちもお爺様とお婆様の所にいらっしゃい」


 事情を話して子供たちを頼まなくてはならない。それが済めば自分は夫の副官として働く事になるだろう。

 そんな事情を知る上二人の子供が頷いた。


「うん、分かった」


「ほら、ミヅ、ユキ、起きて、お爺様たちの所に行こう?」


 下二人の子供がぐずりながらも目を開ける。

 そして、その目が窓の外を見て見開かれたのをアンジェリーナは見た。そして、自分も窓の外に目を向ける。

 そこには、カーテンの向こうで蠢く影。


「――――ッ!! リョウヤ、結界を張りなさい!!」


「え……?」


「早くなさいッ!!」


「う、うん!」


 自分の怒声に怯えたように身を竦ませたリョウヤが、その鬼気迫る形相に追いやられるように薄緑の結界を張る。それを確認して、アンジェリーナはその身に夫から贈られた戦装束を纏う。


「ガングニール!」


≪barrier jacket Valkyrie mode.≫


 身を包む白亜の防護服。

 夫と同じ意匠の元に編み上げられたその装束を纏い、アンジェリーナは影に相対する。

 腕と脚には夫より贈られたガングニール。黒い装甲が白い衣装に映え、その姿は神話の戦女神を彷彿とさせた。


「一体何が……」


 一応管理局の重要人物の家族である自分たちの狙う何者かの襲撃という事も考えた。

 しかし、この街には夫が配置した管理局の精鋭部隊が常駐している。この街に住む管理局の関係者を守るために配された彼らの実力は、件の機動六課にも局地戦に於いては引けを取らないはずだ。そんな彼らが警告すら発せずに襲撃を許すとは考えられない。

 つまり、これは自分たちが想定した襲撃とはまったく違うもの。


「――――――――」


 アンジェリーナは拳を構える。

 何としても増援到着までこの場を死守しなくてはならない。

 異常を知れば夫は間違いなく救出に動くだろう。夫本人は動けなくとも、信頼できる部下は何人も知っている。彼らがここに来るまで保たせればいいのだ。


「――――アンジェリーナ・クルス・ミナセ。この世で最高の魔法使いの連れ合いと知り、尚も掛かってくるなら、覚悟なさい」


 背後では子供たちが自分の背を見守っている。

 夫のように大きな背中ではないが、決して子供たちに対する危険を通すような背ではない。

 アンジェリーナが決意と共に回転弾倉式カートリッジシステムを回転させ、『PoTOSパトス』に火を入れる。そしてそれを待っていたかのように、"影"は窓を越えてきた。まるでそこに障害物などないように、素通りして。


「ッ!!」


 その事に刹那の間動揺したアンジェリーナだが、訓練された体はすぐに動き出す。

 両腕のガングニールから、『PoTOSパトス』により推進力と物理的な衝撃に変換された魔力の残滓が迸る。それをすべて力とし、アンジェリーナは魔力に包まれた拳を全身で"影"に叩き込む。

 風船が破裂するかのような音。

 拳を受けた“影”が千々に吹き飛び、空間に解けるように消えていく。

 だが、喜ぶ暇はない。次の"影"はすぐそこに来ているのだ。

 アンジェリーナは再び拳に力を込める。


「させない! 奪わせない!」


 二体目の"影"に飛びかかるアンジェリーナ。その裂帛の気合は空気を震わせ、"影"にさえ動揺が走ったように見える。


「ここはあの人の大切な場所! あなたたちが土足で踏み込んでいい場所じゃない!!」


 夫はいつも自分に謝っていた。

 立場上家族を護れない事を、本当に申し訳なさそうに。

 しかし、アンジェリーナはそんな夫が世界で一番好きなのだ。

 人を護れる人間になれと子供たちに教えているように、彼女はそれが本当に素晴らしい事だと知っている。

 だから家族は自分が護ると夫に言った。

 家も、家族も、あなたが世界を護るなら、私があなたの大切な人を護る――――アンジェリーナはそう言って夫を抱締めた。


「この街は大切なの! たくさんの人の想いが込められた、大切な街なのよ!! 出ていきなさい! 今すぐに!!」


 アンジェリーナの拳が唸るたびに"影"は吹き飛び、脚が空を切り裂くたびに"影"が消し飛ぶ。

 怒涛という言葉が相応しいほどの戦い振りに、"影"一瞬だけ退いた。


「ッはぁ……はぁ……はぁ……」


 荒く息を吐くアンジェリーナに対し、"影"には疲労など見えない。

 その事実に萎えそうになる戦意を叱咤し、アンジェリーナは何度目になるか分からない魔力変換を始める。

 しかし、彼女の背後で悲鳴が上がった。


「――――かあさまぁッ!!」


(ミヅキ!)


 アンジェリーナはその悲鳴に振り向いた――――振り向いてしまった。

 その瞬間、彼女の背後となった場所から"影"が殺到する。


「ッ!?」


 それでも"影"を吹き散らすアンジェリーナ。

 だが、彼女の大切な者たちは危機を脱していない。彼女の隙は、未だに晒されたままだ。


「リョウヤ!」


「母様! ダメだ!」


 結界に"影"が圧し掛かっているのが見える。

 それを粉砕しようと足に力を入れたアンジェリーナをリョウヤが怒声で遮った。

 その声に背後に迫った"影"を知り、アンジェリーナは苛立ちと共に裏拳を放つ。砕ける"影"。


「リョウヤ! すぐに行くから!」


 だが、その言葉は果せない。

 次々と襲い来る"影"に足を止められ、アンジェリーナは子供たちに近付く事ができなかった。


「リョウヤ! マリア!」


「母様! 母様! 助けて母様!!」


「かあさまぁ!」


「うああああああん!!」


 滅多に泣かない長女の泣き声、普段はのんびりとした次女と舌足らずな次男の涙声にアンジェリーナの頭に一気に血が昇る。

 アンジェリーナはその夫すら驚くような戦い振りで"影"を蹴散らし、子供たちを護る結界を押し潰さんとする"影"に迫る。

 だが――――


「ぐッ!!」


 横合いから衝撃に、アンジェリーナの小さな体が吹き飛ばされる。

 その一瞬で、彼女の愛しい子供たちの運命が決まってしまった。


「母様、ユキと逃げ――――!」


 リョウヤの懇願とも悲鳴ともつかない声が、"影"に押し潰された。


「母様! 母様! 母――――」


 マリアベルの悲鳴が耳にこびりつく。


「かあさまぁあああッ!!」


 甲高いミヅキの悲鳴が消える。


「わああああん!! かあさま、かあさま!!」


 そして、リョウヤが最後の力を振り絞ってこちらに押し出した末っ子が、こちらに手を伸ばしてくる。


「ユキオミぃッ!!」


 伸ばす。

 あの子が助かるなら、こんな腕千切れてもいい。

 この命だって差し出しても惜しくはない。

 アンジェリーナは上から圧し掛かる"影"の圧力を魔力で相殺しながら、その手を伸ばす。


「ユキオミ! もっと手を伸ばしてぇッ!!」


「かあさまぁッ!!」


 小さな手がこちらの手に触れる。

 そう思った瞬間――――彼女の目の前で"影"がその手を飲み込んだ。


「――――ッ!?」


 悲鳴すら上がらない。

 ただ、喪失感と怒りが込み上げてきて、そしてまだ助かるのではないかという希望が脳裏を掠める。


「リョウヤ! マリア!」


 その感情によりアンジェリーナは爆発的な魔力、それこそ高町の名を持つ白い魔法少女やその娘にすら匹敵する魔力を瞬間的に発揮し"影"を吹き飛ばす。


「ミヅキ! ユキオミ!」


 ベッドの上に留まる"影"を掻き分け、子供たちの姿を探す。

 目には涙、口には押し殺した嗚咽、体には無力感と体験した事もないような高魔力を宿し、アンジェリーナは必死で"影"を掻き分ける。


「リョウヤ! マリア! ミヅキ! ユキオミ!」


 大切な我が子。

 失いたくない大切なもの。

 この小さい体から生まれた大きな存在。

 アンジェリーナは自分の背後に迫る"影"の存在すら無視して声を張り上げる。


「ああ、ああああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」


 名前を呼ぶ事すらもどかしい。

 早く、早くこんな暗い所から出してあげたい。

 今日には大好きな父と会えるのだ。あんなに楽しみに、自分が嫉妬するくらい楽しみにしていたのだ。

 こんな結末は認めない。認めるわけにはいかない。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 自分の体が"影"に沈んでいく事にも気付かず、ただひたすら子供たちの温もりを求めるアンジェリーナ。

 いつかこの冷たい手甲の指先に温もりが触れるのではないかという希望に縋り、彼女は最後の時まで足掻き続けた。


「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 狂気というには美しく。

 愛というには狂おしく。

 その姿は絵画に描かれた戦女神よりなお人の心を揺らす。

 それでも、彼女の体は沈んで行く。


「ああああああ…………」


 底のない湖に沈むような感覚。

 それでも手を伸ばして、子供たちを探す。

 しかし、その手に温もりが触れる事はなく。

 彼女の"最期"の意識は、ただ愛する者への謝罪で埋め尽くされた。


(リュウト、ごめんさない……)


 護れなくて、勝手に消えてごめんなさい。

 あなたを孤独にしてごめんなさい。

 今すぐあなたを抱き締めたいのに、この手に触れるのは冷たい闇ばかり。

 でもできるなら、あなたはこちらに来ないように――――


(――――誰でもいいから、あの人を……)


 孤独にしないで――――アンジェリーナの意識は、それを最期に消えた。










  魔法少女リリカルなのは―――くらひとSSS 特別編――― 

    孤独の剣士と白の剣聖 episode EX 中編














 本局の通路を歩きながら、良介はぐちぐちと文句を言っていた。

 曰く――――


「な・ん・で! 俺がトナカイ!?」


 その通り、彼は宿敵リュウトとのじゃんけんに負け、パーティの序盤でクリスマスプレゼントを持って"強行突入"する際のトナカイ役に任ぜられたのだ。

 もちろんコスチュームは全身タイツトナカイ。彼を師匠と呼ぶ少女が設計したトナカイ型バリアジャケット魔力不使用型である。

 当然の事ながら彼は抵抗した。表向き日本男児たる自分が着るには相応しくない、本音では恥ずかしいと。

 だが、公正なじゃんけんで負けたとなっては後には引けず、秘書とリュウトの間で交わされた契約書を見せられては頷くしかない。

 リュウトがその気になればじゃんけんの手など読めるが、それを口に出してもみっともない負け惜しみ。

 良介はリュウトに渡されたトナカイスーツを持って本局の通路をとぼとぼと歩いていた。

 ついでに渡された四枚のカード。それが以前彼の妹分の魔力を使って作られたカード型蓄魔力器だと聞き、良介はそれを突っ返した。ここで何か貰っては何を請求されるか分からない。

 しかし、リュウトは単に自分が使えないものを処分しているだけだとカードを良介に押し付けた。ミヤやアギトなら十二分に使えると保証されはしたが、あの二人がこれをなのはの魔力だと知って使うだろうか。

 良介はリュウトにもそう言ったが、背に腹は代えられない状況になれば役に立つだろうと言うだけだった。

 結局このカードも良介のズボンのポケットに納まり、こうして良介は歩いている。


「――――アリサは……と」


 良介は携帯電話――――正確には限りなく携帯電話に近いもの――――を取り出して秘書の現在位置を確認しようとする。

 アリサはお得意様であるリュウトとの打ち合わせの後、本局にいる知り合いの元を訪ねていた。それほど長い話にはならないという事だったから、今頃は転送ポートの前でイライラしながら良介を待っているかもしれない。

 とりあえず遅れたのはリュウトのせいだと言っておかなくてはならない。良介はそう考えて携帯電話を操作した。


「ったく、自分ちだからって仕切りやがって……」


 リュウトに対する文句も、良介にとっては特に意識せずとも勝手に出てくるものとなっている。

 そして、良介の指が携帯電話の通話ボタンに乗り、押した。

 その瞬間、本局中に鳴り響く警報が良介を包み込んだ。


「なぁっ!?」


 良介は慌てて携帯電話の通話終了ボタンを押した。

 まさかとは思うが、本局内は携帯電話使用禁止だっただろうか――――良介はリュウトに突き付けられる請求書を思い浮かべて冷や汗を流した。

 しかし、この警報は彼の思っているような理由ではなかった。


<――――居住区にて正体不明の物体の侵入を確認。警備担当部隊は早急に現場へ向かわれたし。繰り返す、居住区にて正体不明の物体の侵入を確認。警備担当部隊は早急に現場へ向かわれたし。これは訓練に非ず、繰り返す、これは訓練に非ず!>


 良介は呆然として天井を見上げる。

 この時空管理局本局に侵入する馬鹿がいるとは思わなかった。それ以前に、ここには今まで自分が会っていたトンデモ魔導師とそれに匹敵する、それこそ本局を吹っ飛ばしてもお釣りで人生遊んで暮らせるバケモノクラスがごろごろしているのだ。自分だったらそんな事は考えない。


「――――つーか、"正体不明の物体"ってなんだよ。人じゃねえのか?」


 魔法生物でも侵入したのだろうか。

 良介はあまり深く考えもせずに歩き出した。

 しかし、彼を途轍もない振動が襲う。

 そして、彼の体が浮き上がった。


「んだとぉッ!? じゅ、重力制御が切れたぁ!?」


 本局内には重力制御が効いている。

 基本的に無重力である次元空間内に浮かんでいるのだから当たり前だが、今までこれが切れた事などなかったため、良介は驚愕するしかなかった。


「どういう事だ、まさかアイツみたいなバケモノがダース単位でいる本局が失陥ちる……?」


 良介は浮かび上がった身体を制御するために床となった天井を蹴る。そのタイミングに合わせたように、通路に赤色灯が燈り重力制御が回復した。

 無論、天井を蹴った馬鹿はその勢いを追加して床に落下した。ごしゃ、というあまり美しくない音が響く。


「ぶげっ!?」


 脳天を強打してのた打ち回る良介。

 痛いで済むのがこの男の恐ろしさだが、非常用のシステムに切り替わったという事実が彼を駆り立てた。

 ここにいては拙い――――彼は痛む頭を押さえて携帯電話の非常用ラインを呼び出した。


≪良介、無事!?≫


 虚空にアリサの顔が浮かぶ。その背後に見えるのは、おそらく次元航行艦船用のバースだろう。


「無事っていやー無事だ。頭打ったけど」


≪打って悪くなるほど上等な頭してないでしょ、それは無傷と一緒≫


「酷い事言いますねアリサさん!? 家に帰ったら家族会議だちくしょー!!」


≪家……ね……≫


 アリサの声が沈む。

 良介はその様子に訝しげな表情を浮かべ、その理由を問おうと口を開いた。しかし、彼の口から音が発せられる前にスピーカーから悲鳴が轟いた。しかし、音声だけでその姿は見えない。


≪兄さん! おかーさんたちが!≫


「なのは!?」


≪海鳴が、海鳴が……!≫


 なのはの声は震えて要領を得ない。

 今までどれ程の困難にぶつかっても挫けず、今は多くの教え子たちを導く存在となったはずの妹が、まるで幼子のように震えた声を出している。

 良介にとって、それは何よりも雄弁に真実を物語っていた。

 そして、彼が何か言葉を掛けようと口を開くと――――


≪フェイトちゃん、どうしたの!? そっちはダメ!!≫


「フェイトもいるのか!」


≪ダメだよ! そっちはもう……!≫


 通信先でどのような遣り取りが為されているのか、ここで分かるのはごくごく断片的な事でしかない。しかし、その切迫した状況は嫌でも分かる。


≪ど、どうして……? どうしてジュエルシードが!?≫


≪フェイトちゃん! ダメだって! 何もないよ! ジュエルシードなんてない!!」


≪でも、確かに見える……あの赤いジュエルシードが……リョウスケの……≫


≪ダメだよ! っく! どいてぇええええええええええッ!!≫


 魔力の収束する音とそれが放たれる音。

 良介は周囲の状況も無視して通信に聞き入る。おそらくアリサも同じように通信に神経を集中しているに違いない。


「――――なのは! フェイト!」


≪フェイトちゃん!? そっちに行ったらダメ!!≫


≪ごめん、ごめんリョウスケ、ごめん……≫


 良介はフェイトの言葉の意味が分からない。自分がフェイトに謝らなければならない事ならいくらでも思い浮かぶが、フェイトが自分に謝らなくてはならない事などあるはずもないからだ。

 それに、あのフェイトはまるで――――


「――――昔のあいつみたいじゃねえか……」


 母の事で自分を痛めつけていたフェイト。あの声は、その頃の彼女の声ではなかったか。

 良介はそれに思い至ると同時に叫んでいた。意識などしていない。それが当然のように喉が吼えた。


「フェイト! 俺はここだ!! なのはと一緒に俺の所に来い!!」


≪フェイトちゃん! ダメ!! ――――っ!! きゃああああああっ!?≫


「なのは!?」


 まるで暴風が吹き荒れるかのような音がスピーカーから溢れる。その音と一緒に聞こえたのは、自分を慕う妹の悲鳴。

 雄々しく気高く戦う戦乙女。自分の自慢の妹は、こんな簡単に負けたりしない。


「なのは! なのは! くそっ! フェイト!!」


 通信が聞こえているのか分からない。

 だが、叫ばずにはいられない。

 こんな訳の分からない事で失うなど認めて堪るものか――――良介はマイクに向かって叫び続ける。

 やがて、スピーカーから彼の望んだ声が漏れ出た。


≪リョウスケ……≫


「フェイト!? なのはは! あいつは無事か!?」


 もはや外聞などどうでもいい。なんと言われても構いはしない。

 良介は携帯電話に齧り付く。


「フェイト!」


≪リョウスケ――――さよなら……≫


 別れの言葉。

 その言葉に呆然とした良介がそれを認識した時、通信はノイズの支配するのみとなっていた。

 良介は顔を俯かせて携帯電話を握り締める。


「――――――――ッ」


 高硬度合成樹脂製の携帯電話は、その気の狂いそうな握力にも揺らがなかった。











 八神はやてにとって、目の前の光景は決して認められないものだった。

 堅牢無比で知られる時空管理局地上本部が、純然たる物量で失陥するなど、今まで一度も考えた事はなかった。

 先の事件での地上本部襲撃とはまるで違う。

 あくまでも少数精鋭による奇襲であり、物理的な陥落を目的としていなかった先の事件での襲撃。しかし、今目の前で起こっている現象は多くの物量を以て成る強襲だ。

 しかも、地上本部の建物はまるで闇の海に沈んでいるかのように侵食されている。

 内部に残った者たちの安否など、この光景を見れば論ずるだけ無駄だと分かってしまう。

 現に、彼女の信頼する騎士のうち二人はすでに無い。

 自分の指揮下で人々の救出活動に当たっていたはずが、敵襲、包囲、との連絡の後、途絶。リンカーコアを通して繋がっていた家族との繋がりは、今は空虚ながらんどうと化した。

 残る騎士たちはこの場におらず、この体に融け合う騎士だけが彼女を支える。


「分かってる……分かってるんや……」


 内にいる騎士がこの場からの撤退を勧めてくる。すでに地上本部からの脱出は無く。先ほど発ったヘリが最後だと知っている。

 そして、この場にいる事は決して安全ではない事も知っている。

 だが、動けなかった。

 自分の力がこれほど無意味なものだと、"力"という概念そのものがこれほど無意味だと知り、尚も何かに縋ろうという心が失せた。

 そして――――彼女の目の前に"影"から分離した深き闇が出現する。

 闇にして、彼女の罪の象徴。

 はやては呆として口を開く。


「あれは――――『闇の書』……?」


 自分の中の騎士が否定の意を返してくる。

 ここに存在するはずが無い、"夜天"に還った"闇"がここにあるわけがないと。

 だが、はやての目には確かに"闇"の存在がある。

 大切な家族を傷付け、そして助けてくれた"闇"がそこにある。

 それを認識した途端、はやての身体は彼女の支配を受け付けなくなったのだ。

 まるで自分の身体ではないかのように、まるで身体と心がずれてしまったかのように。

 心は生きる事を望んでいる。だが、身体は諦めてしまっていた。


「――――ああ……」


 分かる。

 自分はここで死ぬのだと。

 それが"必然"であり、自分はその運命さだめから逃れられないのだと。

 ここにあの人がいてくれたら、自分は決して諦めない。

 だが、ここにあの人はいない。

 自分の周囲には誰もおらず、まるでこの死の世界に独り取り残されてしまったよう。

 自分の部隊との連絡も取れない。

 先輩がトップを務める本局の部署との連絡も、つい数分前から途絶した。

 もはや、自分の周りに仲間はいない。

 この身体の中に、最後の騎士がいる事は分かっている。

 だがそれでも、戦う意思が――――戦意が湧かない。

 身体が、そしてついに心が、自分の敗北を受け入れてしまった。

 もう、自分は戦えない。


「――――これは、困ったなぁ……」


 何故だろう。

 何故、自分は戦えないのだろう。

 あんなに自分のために尽くしてくれる騎士を抱き、今も諦めず自分を励ましてくれる騎士が共にいるというのに……

 まるで、負ける事が必然であるかのように・・・・・・・・・・・・・・・心が諦めてしまっている。


「――――良介ぇ……なんでやろうね……」


 彼女は、自分の身体が"影"に包まれても、その答えを見出す事はできなかった。

 暗雲が天を支配し、蒼天が遠き夢のような空の下。

 時空管理局地上本部の陥落が、ここに成った。











 良介が俯いていたのはそれほど長い時間ではなかった。

 いつの間にか切れていたアリサとの通信ライン。滅多な事では切れないと太鼓判を捺されていたはずのラインは、今は繋がっていない。


「――――何が、起こってるんだよ……」


 絶望を抱くには知らず、希望を持つには知りすぎていた。

 周囲には悲鳴と怒号が渦巻いている。

 時折聞こえる避難を呼びかける声は、転送ポートの使用が不可能である事を告げ、艦船の待つ港への避難を促していた。

 訓練ではないというアナウンスが幾度も流れ、局員にすら退避命令が下った。

 武装局員に下りた命令は、正体不明の敵に対する攻撃から避難の支援へと移行して幾許かの時が流れた。


「――――あいつは、一体何やってんだ」


 思うのは一人の男。

 この本局でも実戦経験という点では有数の指揮官であるはずの知人は、今は自分に何も言って来ない。

 ここに自分がいる事は知っているはずなのに。

 つまりは、それだけ余裕がないと言う事なのだろう。

 良介はアナウンスが告げる場所へと足を向けた。

 そして、その一歩と同時に彼の意識によく知る声が轟いた。


『リョウスケ!』


「ミヤ! お前、今どこに……」


『はやてちゃんと一緒にいます! でも……』


「分かった! 分かったからすぐに――――!」


 逃げろ。

 良介は自分でも信じられないような言葉を告げようとしたが、それは彼の分け身である少女に遮られた。


『――――ごめんなさい』


「ミ、ヤ……」


 その言葉に、良介はすべてが手遅れだったのだと悟る。

 だが、身体はそれを認めようとはしなかった。


「ふざけんなっ!! 何諦めてやがる! 俺はそんな事許さねえ! 許さねえぞ!!」


『――――リョウスケ……本当の事言ってもいいですか……?』


「――――っ!」


 口から飛び出そうとした言葉が、小さな妖精の声に打ち負けた。

 良介は決して望まず、妖精の声に耳を澄ませる。


『――――嬉しかった、です……』


「っ!!」


 良介は唇を噛み締める。

 鉄の味が広がっても、ぶるぶると震える手が邪魔でも、決して騒がず、耳を澄ませる。

 もう、この声を聞く事はないのだから……


『――――――――あ、あれ? おかしいです……。もっとたくさん言いたいのに、もっとリョウスケに届けたいのに……』


 涙声だと、分かりたくない。

 分かりたくなかった。


『――――プレゼント、ちゃんと用意したんです……』


「ああ……」


『――――どうやって渡すかも、考えたんです……』


「ああ……!」


『――――――――!』


 鼻を啜る音が聞こえた。


『――――リョウスケぇ……』


「ああ!」


 泣かないでくれ――――心の底からそう思った。


『――――ミヤの事、忘れてもいいですよ……?』


「――――ああ! 忘れてやる! 忘れてやるさ!! 嫌ならここに来て文句言いやがれ!!」


『――――――――あは……よかったです……』


「良くねえだろうが!! 何泣きながら嘘言ってんだよ!! バレバレな嘘吐くなよ!!」


『――――リョウスケ……』


 嘘だと分かる嘘など、苦しいだけだと知っているくせに、何故今嘘をつくのか――――そんな憤りも、無意味だと知っている。知りたくもないのに。


『ミヤは……』


「――――ああ……」


『ミヤは、ミヤは幸せでした……! だから、頑張ってきます!』


「ああ!」


 喉が、張り裂けそうだった。

 望みもしない言葉を吐く事がこれほど苦しい事だと、良介は身を持って理解する。


『――――――――リョウスケ……』


 そして、最後の言葉に叫ぶ。


『――――――――会いたかった……です……』


 二度と聞く事がないという事実が辛くて、悲しくて、空しくて、そして、叫ぶ。


「く――――」


 誰かに届け。


「くそぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」














 機動六課の隊長陣が地上本部の会議に出席する事になったという事は、直接その隊長たちから聞いていた。

 重要な会議だから、もしかしたら日を跨いで続けられる可能性があるとも。

 だから、二人の隊長の娘であるヴィヴィオは、その日だけスバルとティアナの部屋に泊まる事になっていたのだ。

 しかし、直前で寮母のアイナが別の部屋を使う事を提案する。

 それは機動六課の宿舎に設けられたいくつかの来客用寝室の一つ。大きなベッドが備えられているため、ヴィヴィオも一緒に三人で寝られるという事が理由だった。

 この機動六課に来る客の内で、実際に宿舎を使用する面子は限られる。一時的に機動六課へ出向となったギンガ・ナカジマはともかく、それ以外には機動六課の泣き所宮本良介、本局の重鎮にして機動六課に潜伏する事が最近の流行らしいリュウト・ミナセがいる。

 双方とも機動六課にとっては欠く事ができない人物であるが、後者の場合はティアナがちょっと――――だいぶ?――――嫌がるために最近は日帰りが多い。ちなみに前者は隊長陣のゴリ押しによって宿泊する事が多い。

 良介は部外者が管理局の施設に泊まっていいのかと駄々を捏ねるが、隊長陣の脅しを受けたリュウトがあっさりと許可を出すので意味はなかった。

 そしてその日、スバルとティアナは何故か一緒に寝る事になったキャロと共に、ヴィヴィオの子守を務めていた。

 たとえ十に満たない年齢であっても女性に変わりはなく、キャロと共にヴィヴィオの面倒を見ていたエリオが逃亡する程度には女の話に花が咲いたようだった。

 よるも更けてきた頃、四人は同じベッドに入って眠りに意識を譲った。スバルたちは訓練での疲れに後押しされ、ヴィヴィオは子供らしい睡眠欲に包まれて穏やかな眠りの中にいた。だが、その眠りは宿舎に響いた緊急警報によって切り裂かれる。

 スバルたちはヴィヴィオをアイナに預けて隊舎へと走り、途中でエリオと合流してグリフィスが式を執る指揮所に入った。

 そこで繰り広げられていたのは、阿鼻叫喚を絵にした光景だった。


「――――ロングアーチ00との通信途絶! 本局との通信ラインが切断されました!」


「バイパス接続! 何としても通信を回復させろ!!」


「衛星軌道上の本局艦隊が輸送艦を出してくれるそうです! 輸送艦『エルシア』『アルビオン』の大気圏突入を確認!」


「付近のヘリに今の内容を伝えろ! 怪我人はシャマル先生の所に!」


「本局との通信回復! ――――え!?」


「どうした!?」


 グリフィスが言葉を詰まらせたシャリオに怒鳴る。

 珍しいグリフィスの形相に、入り口に留まるしかなかったスバルたちが身を竦ませた。


「――――本局が落ちる……?」


 シャリオが呆然と呟く。

 自分の言った言葉が信じられないといった様子で、まるで夢遊病患者の表情だった。

 しかし、グリフィスは顔色を変えざるを得ない。


「――――本当なのか!?」


「――――現在残存部隊が"危機管理部"の指揮にて再集結中、もうすぐ本局からの退避が終了すると……」


「危機管理部!?」


 その名前に、グリフィスは本局の陥落が時間の問題であると認めた。

 グリフィスもよく知る人物が本部長を務める最高評議会直属の危機管理組織。有事の際の指揮権優先順位で最高レベルに位置するその組織は、真の意味での"危機"に於いてその指揮権限行使を認められている。

 先の事件では最高評議会の混乱により表舞台に出る事がなかった組織だが、今は本局と地上本部の各最高責任者の承認によってその権能を発揮することができるとされ、ここで名前が出てきたという事は、すでに地上本部と本局が壊滅寸前にまで追い詰められているという事の証明だった。

 そして、そんな現実をさらに踏み潰した現実が、彼の前に現れる。


「――――グリフィス准尉、輸送艦『アルビオン』からの通信です」


「繋いでくれ……」


 ルキノの言葉に、グリフィスは憔悴した顔そのままに答えた。これ以上状況が悪くなる訳がないと信じていたのだ。

 ルキノはグリフィスが望む通りに通信を繋いだ。その表情が暗澹としている事を気に留める人間は、もうここにはいない。

 ルキノの操作に従って赤く染まった戦況モニターを分割して映る桜色の髪。モニターに映された人物を見て、スバルたちが驚いたように声を上げた。


≪――――こちら『アルビオン』、HQロングアーチ聞こえますか?≫


「こちらロングアーチ。聞こえています」


≪よかった、ご無事で何よりです≫


 ほっとしたように息を吐くモニターの中の女性。それは、スバルたちが見たイライザ・ヴィッツレーベンその人だった。


「――――事情の説明を、求めてもよろしいのでしょうか? 二佐」


 グリフィスの縋るような目に晒され、イライザは苦しそうに目を逸らした。それだけで、機動六課の面々は追及を断念する。彼女に求めても、何の意味もないのだと知ってしまった。

 イライザは苦しげな表情を崩さないまま、口を開いた。


≪――――本局危機管理部本部長よりの命令を伝えます。『機動六課はこの命令の通達と同時に即時撤退。以降の指揮権は本局危機管理部が持つものとする』――――以上です≫


「――――部隊長は……八神部隊長たちの捜索は……」


 懇願。

 そして諦念。

 グリフィスの声にはそんな感情があった。

 彼らなら或いは――――そんな夢想を抱いてしまう。

 機動六課を易々と凌駕する戦力を有する危機管理部。彼らの戦力なら地上本部にいるはずの隊長陣の捜索も可能ではないかと、グリフィスは考えた。

 そしてそれは、この場にいる機動六課メンバーの総意でもあった。

 しかし、イライザは力なく頭を振るだけ。


≪――――危機管理部は古代遺失物管理部からの機動六課に関する権限譲渡と同時に現部隊長八神はやて以下、隊長陣及び数名の隊員をMIAと認定。以降の捜索は行われません≫


「――――っ!!」


 指揮所に怒りとも悲しみともつかない感情が渦巻く。

 誰もがその決定に怒りを覚え、納得してしまった。

 危機管理部は至極真っ当な命令を下している。被害を最小限に抑えるためには、どうしても誰かがこの決断をしなくてはならなかったはずだ。

 そして、この決断を下したのは、機動六課にとってもっとも信頼できる上司の一人。

 行方不明となった者たちを大切に思っていた人物だった。


「――――――――猶予は……?」


 グリフィスはその命令を受け入れる以外に術を持たない。

 この隊舎に避難して来ている民間人を救い、機動六課の残存戦力を無傷であの人物の下へ届けることが彼の職務であり使命。

 どれだけ恨まれても為さねばならない事だった。

 スバルたちが息を呑む気配がした。


≪――――そちらの上空に到達するまであと六分ほどです。それまでに準備を……≫


「了解、しました……」


 モニターに暗闇が戻る。

 視線を戻したスバルたちが見たのは、皮膚が裂けんばかりに拳を握り締めるグリフィスの姿だった。

 誰かに罪があるというなら、それは救いだ。

 しかし、罪が存在せずとも悲しみは生まれるのだと、若者たちは心に刻み込む。


「――――准尉……撤退命令を」


 ルキノがグリフィスの拳を己の掌で包み込む。そして、震えながらも小さく頷いたのが見える。一人では背負わせない――――彼女の目が告げていた。そして周囲を見回せば、アルトの、シャリオの、スバルの、ティアナの、エリオの、キャロの目がそう言っていた。


「――――――――」


 辛い決断。

 グリフィスはこの時初めて、自分の進む道が人の血を吸って成り立つものであると認識した。

 それと同時に、この数百倍、数千倍もの重圧の中で決断を下し、自分のように命令だからと逃げる事もできない人物の苦悩に触れる。

 自分では到底耐えられない決断。

 こうして誰かに支えられなくては下せない命令。

 あの人と自分の差が、大きく、悲しく感じる。


「――――発、HQロングアーチ。宛、機動六課全隊員……」


 それ故、その人物を思い、グリフィスは固く目を瞑り、最後の言葉を発した。


「――――――――現時刻を以てすべての施設を放棄……撤退する」


 憤りと悲しみ、そしていいようのない感情を抱き、彼らは思い出の詰まった"家"を棄てた。











 良介が機動六課陥落の報を知る事ができたのは、その機動六課所属のチカ・ヨツバと偶然にも出会う事ができたからだ。

 すでにほとんどの避難が済み、閑散とした通路に呆然と立つチカを見つけた良介は、咄嗟にその手を引いて走っていた。

 何かを失う事を、その時の彼は本能的に恐れていたのかもしれない。


「――――あいつらが……」


「――――はい、さっき連絡が来て、わたしもすぐに避難するようにと……」


「くそっ、役立たず……!」


 吐き捨てるように発する罵倒。それを受けるべき対象が誰であるのか、チカには分からない。分かるはずもなかった。

 少なからず想いを寄せる男に手を引かれたチカは、その手の感触に涙腺が刺激されるのを感じた。

 堪えていた涙が次々と頬を流れ、嗚咽が喉を震わせる。


「――――なんで、なんで……?」


 何故、こんな事になったのか。

 つい一時間前の自分は、この後の予定で頭が一杯になっていた。週末の休暇に買い物に行こうと思い、何を買おうか考えていた。

 同僚であるアルトやルキノと一緒に休みを取れるなんて久しぶりだったから、三人でクラナガンの繁華街まで足を伸ばそうと計画していたのだ。

 だが、そんな無邪気な計画も、今となっては遥か彼方の夢のように感じられる。

 いや、逆に今目の前にある現実が夢であったならどれだけよかった事か。


「――――先輩……はやて部隊長の事……」


「――――いい、あいつならこうするって分かってたんだから……」


「でも……!」


「俺の周りにいる奴はみんなそうなんだよ……。自分より他人が大事で、俺とは大違いだ」


「先輩……」


 自分の手を引いて走る男が決して自分勝手なだけの人物ではない事は、チカもよく知っている。だからこそ多くの人がこの男に惹かれているのだろうし、自分もまた――――


「――――――――本当に、どいつもこいつも……」


 唇を噛み締める良介の手が、ほんの少しだけチカの手に食い込む。

 その手に感じる痛みが良介の感じている痛みの万分の一にも満たない事を、彼女は無言で受け入れていた。

 息が苦しくなっても、きっと良介の苦しみには届かない。

 チカにとってはそれが悔しくもあり、悲しい。

 もしも、もしも自分たちの部隊の隊長たちがここにいたら、良介の苦しみは少しでも軽減されただろうか――――チカはそんな考えを抱き、そして自嘲した。

 考えるまでもない。

 自分では到底及ばない場所に、あの隊長たちはいるのだ。

 しかし、今の良介が求めている人物は、きっとその隊長たちではない。

 良介の疑問に答える事ができ、現状を打破する可能性を提示できる人物。


「――――先輩、ミナセ提督は……」


「知らねえ……!」


「でも、先輩なら……」


「知らねえって言ってるだろうがっ!!」


「っ!」


 チカは振り向いた良介の形相に口を閉ざした。

 その顔は怒りに染まり、その怒りが自分に向けられているわけではないというのに怖気すら感じる。

 敬愛する先輩の姿に、チカは自分の言葉がどれ程無神経で無思慮であったか気付く。

 縋りたい気持ちを恥だとは思わない。だが、縋るべきものを違えてはならないのだ。


「――――すみません」


「――――――――」


 チカの謝罪を受け入れたのかそうでないのか、良介は再び前方を見て走る。

 その手が自分の手を離さなかった事が自分を許した証明だと、チカは信じるしかなかった。











 走る。

 走る。

 其処彼処から聞こえてくる悲鳴に顔を顰めながら、良介はすでに本局内に安全な場所はないと知る。

 ここは艦船発着バースからそれほど離れた場所ではない。脱出路の確保のため多くの戦力が配置されていたはずの場所、そのはずだった。

 だが、自分の耳を打つこの悲鳴は何だ。

 まるで地獄の底だと錯覚せんばかりの悲鳴と、"何か"に相対し、それを邀撃する武装局員が上げる怒号と喊声。

 まるで打ち棄てられたかのように観葉植物が転がり、誰かが持っていたファイルや書類が散らばっている。

 ここが次元世界の秩序を司る時空管理局の本局だと、つい一時間前なら誰も信じなかったかのような光景が良介の目の前に広がっていた。


「――――せん、ぱい……」


 背後の後輩の声に、良介は少しだけ速度を緩める。

 握った手は汗で濡れており、少し力を抜くだけであっさりと解けてしまうだろう。元々後方の事務職員であるチカには、この数十分に及ぶ全力疾走は辛いものだった。

 こんな事ならフォワード陣に交じって基礎トレーニングくらいしておくべきだったと、チカは本心から後悔していた。

 おそらく先輩一人なら、すでに港について脱出する艦船に乗り込んでいただろう。そう考えると、チカの思考に苦いものが混じる。

 典型的な足手纏い。

 隊長たちに追い付きたいと厳しい訓練に耐えていたフォワード陣が感じていた劣等感や羨望は、今自分が感じているものと似ていたのかもしれない。


「――――先輩……申し訳ないっす……」


「謝るくらいなら足動かせ! 置いてくぞ!!」


「は、はい!」


 置いていくならもっと早く置いていっただろうに――――チカは場違いにも笑みが浮かぶのを止められなかった。

 そのまま走り続ける二人。やがて、彼らはあと少しで港に出るという場所にある即席の防衛線に到着した。

 そこにいた局員の姿を見て、良介とチカが目を丸くする。


「し、シグレ……?」


「ラファエル、ルシュフェルも……」


「宮本さん?」


「ヨツバも、何で本局に?」


 主より下賜されたデバイスを抱えるシグレ。

 そして、本体でもある主のデバイスを持つラファエルとルシュフェル。

 二人の名を呼んでそれぞれを指差したのは、ルシュフェルとラファエルだった。

 周囲の武装局員が五人の遣り取りを不思議そうに見ている。


「何でって、お前らこそなんでこんなところにいるんだ? あいつがまだ残ってんのか?」


「いえ、主殿はすでに脱出しております」


 その言葉に、良介の眉が吊りあがる。

 自分の使い魔とデバイスを置いて先に逃げ出したのか――――そんな言葉を良介が発する前に、バリケードの上に座ったラファエルが頭を振った。


「ちなみに、ボクらは勝手にここに残ってんだからね。そこんとこ勘違いしないように」


「なっ!?」


「どうしてっすか!? 早く避難しないと……!」


「それがねえ……困った事になったわけよ……」


 ラファエルが最後の一隻となった脱出用艦船に目を向ける。

 彼女の言葉を継いで言葉を発したのは、ルシュフェルだった。


「――――発進準備中にエンジントラブルが起きたのです。その修理と避難してくる人たちの受け入れに予想以上の時間が掛かってしまって……」


 ルシュフェルの言葉が最後まで終わらないうちに、良介たちが走ってきた通路の先から爆音が轟いた。


「な、なんだ……!?」


「――――困りましたね」


 ルシュフェルはその言葉を眉根に皺を寄せる事で表情でも表していた。

 だがその手は油断なく腰に伸び、保持されていた主の剣を抜く。

 それは彼女の本体であり、主より貸し与えられた彼女のデバイスでもあった。

 よく見れば、シグレとラファエルも己の得物を構えている。周囲の局員たちも、傷付いた身体を無理やり起こして己のデバイスを爆発のあった場所に向けていた。


「――――宮本様、ヨツバ様、艦の修理はもうすぐ終わります。お急ぎください」


「ちょっと待て! お前らはどうするんだよ!」


「ご心配なく。すでに覚悟はあります故」


「そういう事じゃない!! あいつがそんな事言ったのか!? 違うだろう!」


 良介は確信している。

 あのお人好しが自分の使い魔とデバイスに死を命じるはずがない、と。

 だが、彼の言葉はすぐに否定された。


「――――主殿には許可を頂きました。通信ではありましたが、艦の発進が間に合わない事を知った時に」


「――――時間稼ぎでもするつもりか……」


「あったり〜、ご褒美にキスしてあげたいとこだけど、時間がないからさっさと行ってね☆」


「ふざけんなよ!! 何でお前らがそんな事しなくちゃ――――っ!!」


 良介はバリケードの先に、黒い"影"が現れた事に気付く。

 その姿に、自分の口から出ていた怒りの言葉を忘れた。


「こいつは、あの時の――――!!」


 異世界のクラナガンで見た"靄"。

 目の前に現われたものは人の背丈ほどとあの時とは比べものにならないほど小さいが、確かにその面影ある。

 そんな"影"が、爆発のあった場所から続々と湧き出ていた。


「――――なんでこいつらがここに……確かに、確かに俺たちが潰したはずだ……!!」


「主殿も同じ事を仰っておりました。ですが、奴らは間違いなくここに存在しているのです」


 シグレがバリケードから一歩を踏み出す。

 ラファエルとルシュフェルがその後に続いた。

 さらに局員たちも彼女たちに続いて歩を踏む。

 バリケード前に作られた精強であると同時に脆い堵列が、こちらに這い寄る"影"と良介たちを隔てた。

 シグレが静かに告げる。


「――――宮本さん、行ってください」


「お前らを残して行けっていうのか!?」


 それは喉が潰れそうになるほどの怒声だった。

 喉の痛みに良介の顔が歪む。

 それでも、言葉を止められなかった。


「私たちはこの時空管理局員の武装局員です。こうなる事はすでに覚悟の上、お気になさらず」


「覚悟の問題じゃない! 後少し逃げれば助かるんだぞ!?」


 良介の言葉に、列を形作る局員たちが苦笑した。

 今になってその事実に気付いた、彼らの顔はそう言っていた。


「――――それでも、ここから退く事はできないです」


「だいっ好きなご主人サマが後ろにいるってのに、退くわけにゃいかんでしょ」


「わたしの心が言っています。ここであなた方を生かす事が、我が主君の命を救う事になると」


「だからって……!」


 納得できるわけもない。

 何故彼らはこんなにも簡単に命を捨てられるのだろうか――――チカは自分と同じ管理局員でありながらすでに自分と一線を画すに至った者たちの背中を睨み付けた。

 生きて再起を図るという発想はないのか。

 或いは、ここで生き残っても死が待っているだけだと考えているのか。

 チカには到底理解できない世界だった。


「――――主なら、同じ事をしたでしょう。少なくとも、私たちは一片の後悔も無くここにいます」


 信じられない。

 信じたくなかった。

 こうして喋っている間にも"影"は近付いてきているというのに、彼らの泰然たる態度は何だ。


「あいつなんてどうだっていいんだ! 分かるだろう!? あいつがこの後どんだけ自分を責めるか!」


「分かっています。分かっているんです。でも、ここから退けば、私たちはあの方に生み出されてからの日々を喪う事になってしまう」


 存在意義。

 使い魔にも、デバイスにも、生まれながらの理由がある。

 人間とは違い、彼らは目的を持って生まれてくる存在だ。

 それを果す事が彼らの至上命題であり、それがたとえ自分の存在を賭してなさねばならない事だとしても、彼らは躊躇わない。

 それが、彼らの存在に刻み込まれているが故に。


「あの方がいつか笑えるように、私たちはここに立つ決意をしたのです。決して、自分の命を物だと思っているわけではありません。正直に言うなら……」


 シグレの頬が桃色に染まる。

 その顔はまるで恋する乙女のようで、チカには酷く場違いに感じた。


「――――あの人のためにこの命を懸けられる事が、幸せなのです。生まれた意味を知り、果せる事が幸せなのです」


「――――あいつは……! あいつはお前らを死なせたくないに決まってる! お前らはあいつの家族で、妹で、絶対に離したくない大切な……!」


 良介には分かる。

 自分にとってのアリサのように、リュウトにも絶対に失いたくない者たちがいるのだ。

 それこそ、世界のすべてを敵に回しても譲れない決意を以て護りたい存在がいる。


「あなたにそう言われて、私は嬉しいです。本当なら主殿に、リュウト様にそう言ってもらいたかったですけど……」


「無理無理、マスターはとことんまで朴念仁だから、直接カンペ渡して頼まないと無理だって!」


「カンペ渡しても無理だと思います……」


「うっわ、ルシィひどっ!! 後でマスターに言い付けてやんよ!!」


「言い付けてどうにかなるなら、わたしたちがこんな苦労する事もないんですけどね……」


「なおひどっ! でもナットク!!」


 姦しい遣り取りに、三人と共に並ぶ魔導師と騎士に失笑と苦笑が広がる。

 それは死出の旅路というには明るすぎて、不帰の徒となろうとしている者たちだとはとても思えなかった。それでも"影"たちの歩みは止まらず、彼らとの距離は縮むばかりだった。

 艦の発進まであと数分の時間がある。ここで足止めをしなければ、"影"たちは大挙して避難民を収容した艦になだれ込むだろう。それだけは断じて認められない。


「――――リュウト様にお伝えください」


 シグレが笑みを浮かべたまま振り返り、良介に言葉を託す。


「『私たちは幸せを抱いたまま、潰える事ができました』――――と」


「――っ!!」


 良介が反論しようと口を開く。

 だがそれと同時に、シグレが壁際に立つ武装局員に合図を出した。

 頷く武装局員。彼は全力を以て壁に埋め込まれた無機ガラスの保護板を貫いた。

 その奥に封じられていたのは、隔壁の緊急閉鎖ボタン。


「シグレ!」


 その鈍重な外見とは裏腹に、緊急ボタンを押された隔壁は滑らかな動きで良介とチカの視界を埋め始めた。

 隔絶こそが存在意義であるその扉が、シグレの顔を隠す。最後に見たその口元が笑みを刻んでいた事に、良介は伸ばした手を下ろさざるを得なかった。


「――――――――ご無事で」


(主様、私は――――命を賭してあなたの矛となります)


 閉じられる扉。

 扉の向こうに残された者は、誰一人として後悔をその背に浮かべていなかった。

 それが良介には悔しく、また、己の無力を突き付ける。

 どうしてこんな事になったのだと嘆く事は容易い、しかし、この場でそれを成す事はすでに赦されざる大罪と化した。彼とチカの命は、多くの戦士によって守られたのだから。

 良介は顔を上げた。


「――――チカ、行くぞ」


「――――――――」


 良介の声にも、チカは隔壁を見詰めたまま動かない。

 彼女の眼前にはすべての音を遮断する隔壁が、冷たく佇立していた。


「――――先輩、わたしは……」


「――――言ったろ、あいつの知り合いはみんな馬鹿なんだ」


 良介はチカの顔を見ようとはしなかった。

 それでも、その手を握り締める。


「マスターがマスターなら、使い魔もデバイスも馬鹿になっちまう。でもな……」


 良介はこれから自分が進むべき道を見据えた。


「――――俺は、あいつらが嫌いじゃない。今もな」


 過去形で呼んだりはしない。

 呼んでなどやらない。

 事件が終わったら面と向かって文句を言ってやるのだ。

 馬鹿を全員集めて、一人残らず罵倒してやる。


「だから、行くぞ」


 そのためには、絶対生き残る。

 良介は再び走り始めた。チカの手を握るその手を絶対に離さないと心に決めて。











 最後の一隻となった艦に飛び込んだ良介は、そのままの勢いで後部デッキに走った。

 止める乗組員の静止を振り切り、慌てて後を追うチカを放り出してデッキに上がる。

 ガラスのように艦後方の光景を見せる壁面に手を付き、自分が脱出した本局に目を凝らす。

 そして、間に合わなかった者たちの末路を目に焼き付けた。


「――――っ」


 本局の窓の一つに、出航するこの艦に縋るように手を伸ばす女がいた。

 彼女は絶望を宿した目で良介を見詰め、すぐに"影"に呑まれた。

 別の場所にはこちらに向けて敬礼する武装局員の姿があった。

 満身創痍と分かる姿でこちらに笑みを向け、振り返り、背後に迫る"影"に突っ込んでいく。

 この艦を守るために多くの武装局員が犠牲になったと、同じようにデッキにいた局員が呟いた。それは誰かに向けたものではなかったのかも知れない。しかし、良介が気付かずにいただけで、デッキには負傷して後送された武装局員や後方勤務の局員が大勢いた。

 彼らはそれぞれの表情を浮かべて本局の最期を看取る。

 ある者は顔を俯かせて体を震わせて、ある者は背筋を伸ばして敬礼し、ある者は大声で泣きながら、ある者はひたすら無表情で――――そして、いつの間にか良介の背後に立ったチカは、嗚咽を必死に抑えながら本局を見詰める。


「――――せんぱぁい……」


 チカが良介の背中に顔を押し付け、涙声で懇願する。


「――――後ろ、向かないでください……絶対向かないでください……」


 震える方が良介の背に触れる。

 だが、振り向かなければその肩を支える事もできない。チカはそれを望んでいた。

 ここで背中を借りる以上に甘える事はできない。それは、自分たちを助けてくれた者たちに対する冒涜だと思うから。

 ここで何の成長もしなければ、自分はもうあの者たちと同じ管理局員ではいられないのだ。それだけは許せなかった。

 チカのそんな想いを知らず、良介は言う。


「忘れないでやれ、俺も忘れないから」


「――――はい……はい……」


 それは辛い事。

 だが、決して逃げてはいけない事。

 悲しみを忘れては、人は同じ過ちを繰り返してしまう。


「忘れるな、絶対に」


「はい……」


 良介は自分の身体の一部が喪失したような感覚を、ようやく認める事ができた。

 それは、自分を支え続けてくれた妖精の喪失を意味する空虚。

 内心認める事ができなかった事実を、良介はここで受け入れた。


「――――情けねえ、情けねえよ……」


 自分なんかよりよっぽど世の中に必要とされる者たちが、こんな自分の命を守ってくれた。

 だが、良介自身が自分の命をそこまでの価値と認められないのだ。

 こんなにも多くの犠牲を払って生き永らえるほど、自分に価値があるのかと思ってしまう。

 その疑念が彼らの死を穢すものであると分かっていても、どうしても考えてしまう。彼らのうちの誰かが、自分のいるこの場所にいるべきだったのではないかと。


「――――あいつなら、守られても当然なんだけどな……」


 比べるまでもない、あの男なら、この艦一隻とも比較対象になるだろう。

 数百、数千の命とですら天秤にかけることができる存在だ。

 それに比べて自分はどうだ。

 本当にここにいる価値があるのか。


「――――――――」


 自分勝手に生きている。

 それを後悔する事はなかった。

 だが、彼らの散り際を見て考えずにいる事はできない。


「――――――――くそったれ……」


 良介はその答えを見出せぬまま、背を濡らす後輩の温もりを感じていた。

 そして、その温もりを辛く感じる自分がひどく汚い存在に思えて仕方がなかった。














 良介とチカを乗せた輸送艦が到着したのは、本局から数時間の距離を隔てた管理局の軌道基地だった。

 そこは同じように避難して来た人々がごった返しており、良介とチカは知り合いを見付けるのに少なからぬ時間を要した。

 チカと同じ制服を着た集団を見つけてはその顔を確認するという作業を繰り返し、幾度目かの確認でチカの同期の局員を見つける事ができた。その局員から機動六課とその知り合いらしい本局の人間が、こことは別階にあるロビーにいるという話を聞く。

 二人はその言葉通りに、機動六課の生き残りがいるというロビーに足を踏み入れた。

 そこは今まで見てきた場所と変わらず複数の世界から避難して来た者たちでごった返しており、二人はロビーの隅に固まる顔見知りを見つけるのに苦労した。


「――――カリム!」


 それでも、良介は知り合いの姿を見つけると大声でその名前を呼んだ。

 カリム・グラシア。

 機動六課の後見人の一人であり、良介個人にとっても知り合い以上の存在だった。


「――――お、お兄様……!? ご無事で!」


「おお、何とかな……」


 駆け寄るカリムの肩に手を置き、瞳を揺らして自分を見つめる妹分に笑みを返す。

 良介に気付いて、カリムの周囲にいた機動六課の面々が集まってきた。


「良介様!」


「良介さん!」


「おう、小鳥にカミナリ小僧。お前らも無事だったか」


「はい!」


 自分の腰に纏わり付く二人を、良介は珍しく振り払わなかった。ここにこの子供たちの母親の姿がない事を確認した上で、そんな事ができるほどこの子供たちに罪があるとは思えなかった。


「良介さん……」


「スバル、ギンガは無事か?」


「はい、たまたま本局に来ていて、避難する事ができたって。今は部隊の人たちと連絡を取ろうとしてます」


「ゲンヤはどうなった?」


「――――分かりません……」


「そうか――――」


 これだけ混乱が大きければ、無事だとしても連絡を取る事は難しい。今は生き残っている事を信じるしかなかった。


「――――先輩、生きてたんですね」


「――――お前はどうしてそんなにも嫌そうな顔をするかな」


「――――隊長たちは……」


「聞いてる……あいつららしいよ、まったくな」


「はい……」


 良介は妹たちの教え子が無事である事を素直に喜んだ。

 ヴァイスの妹が機動六課とともにいる事に驚き、なのはがいない事に不安を見せるヴィヴィオの頭を無茶苦茶に撫でまわした。

 一頻り再会を喜んだ後、良介は事情を一番良く知っていると思われるカリムに、現状の説明を求めた。

 カリムは自分も知っている事は限られていると前置きし、今に至るまでの事情の説明を始める。








 異変が始まったのは、地球の日本時間で十二月二四日の午前零時だった。


「だ、大規模次元振動を感知! そんな――――!?」


 最初に異変に気付いたのは定置観測隊のうちの一つ。彼らは次元振動の発生を本局に通報した後、一切の通信を断った。

 それを呼び水とするように、次元世界各所で次元振動が発生。

 時空管理局は異常発生から僅か数分で大混乱に陥った。


「世界が――――飲み込まれていきます!!」


「くっ! 避難命令を発動! 民間人の保護を最優先だ!!」


 中央発令所の担当士官が叫び、その命令は本局の上層部の追認を受けて発令された。

 だが、それと同時に本局にも正体不明の敵性体が現れる。本局内居住区に発生した"影"は次々と人々を飲み込み、それに呼応するように本局各所にも"影"が発生。本局内は阿鼻叫喚の巷と化した。

 事態発生から十二分後。本局と地上本部の承認を受けて危機管理部が時空管理局の全権を掌握。陸海空すべてに於いて同一の命令が発せられ、時空管理局は創設以来初の全面的な撤退戦を演じる事となる。

 しかし、本局に対する"影"の進攻と同時に地上本部にも"影"による攻撃が開始され、機動六課はその主戦力である隊長陣をその戦闘で失う事となった。

 その後機動六課は地上へと降下した本局艦船『アルビオン』に収容され、現在の軌道施設へと移送された。

 その間も各世界では混乱が続き、機動六課にとってある種特別な世界である『地球』も漆黒の海に沈む事となり、同じように次元世界の約七割の世界が突如出現した"影"に沈没。その避難民が良介たちのいるこの施設にも溢れていた。

 各世界の政府は非常事態宣言を発し、政府首班は続々と次元空間に逃れた。

 避難施設の中では最大規模――全長は数十kmにも及ぶ――を誇るこの軌道施設には次元世界の主要世界首脳が集まっているのだと、カリムは良介に教えてくれた。

 だが、カリムの言葉が終わって、良介は一つの事に気付く。

 海鳴が失われた事に衝撃を受けなかった訳ではないが、カリムの言葉に一度も出てこなかった重要人物がいる。


「――――カリム、あいつはどうした?」


「――――――――お兄様……」


「あの馬鹿野郎は何やってやがる……!?」


 良介はリュウトの名前が一度も出ない事に疑問と、憤りを感じていた。

 海鳴が沈んだのならリュウトの家族がどうなったのかという事ぐらい察しが付く、自分を庇って隔壁の向こうに消えた使い魔とデバイスを含めれば、リュウトが自分の命よりも大切に思っていた家族はほとんど"影"によって奪われた事が分かる。

 だからこそ、良介はリュウトがここにいる事を望んだ。

 ここにいなければならないのだと知っていた。


「――――奴が尻尾を丸めて震えてる訳がねえ……」


 家族を奪われて黙っているような臆病者をあの使い魔たちが愛するはずはない。

 大切な者を奪われて惰弱に囚われる者をあの女が連れ合いとして選ぶ訳がない。


「あいつはどこだ……!?」


 今すぐすべての事情を説明させてやる。

 海鳴を、自分を認めてくれた連中を奪われて黙っている事など、自分には絶対できない。

 そんな怒りを滲ませた良介の背後に、音もなく立つ白い影。


「――――今のあんたを、あの人には会わせられないね」


「――!!」


 驚きをそのままに背後を顧みる良介。


「アラン!!」


「――――五月蝿い下種。吼えなくても聞こえてるよ」


 アラン・フォーレ。

 リュウトの部下にして召喚魔導師。その実力はオーバーSランクに匹敵するといわれているが、その性格等メンタル面に大きな問題を抱えているために未だAAAランクに据え置かれている問題児だった。現在は危機管理部に所属する傍ら査察官として各地を回っている。

 だが、アランの最大の問題は、リュウト以外の人間を人と看做さない言動にあった。


「あんたらがどれだけ生き残ろうが死のうが構わない。だけどな、あの人に危害を加えるなら、僕があんたを叩き出す」


「てめえ……!」


「お兄様、落ち着いてください! アラン査察官も落ち着いて!」


「はん! 騎士サマが何を偉そうに」


「アラン!!」


 カリムはこの場にアランが現れた理由に心当たりがあった。

 そして、彼の隣にいつもいるはずの存在がいない事も。


「――――アラン、シンシアはどうしたの?」


「――――――――」


 シンシア。

 それはアランのパートナーにして、アランと同じようにリュウト以外の人物にはコントロールできない問題児。戦闘による快楽を至上とするシンシアは、良介をからかってはそれによって引き起こされる騒動を楽しむ性癖があった。

 良介はアランとシンシアに何度も寝首を掻かれた経験があり、それ以降この二人とは積極的な親交を持っていなかった。

 しかし、いなくなって手放しで喜べるような相手でもない。


「――――まさか、あのガキも……」


「――――あいつが油断しただけだ。僕は悪くない」


「お前! あいつを見捨てたのか!?」


「見捨ててない! あいつが後先考えず突っ込むから悪いんだ!!」


 アランは吼えた。

 本局進攻の際、彼とシンシアはリュウトを守るために戦った。

 その最中シンシアは"影"に特攻を仕掛け、結局戻ってこなかったのだという。


「――――あの人が悲しむ事を、僕がするわけないじゃないか……」


「アラン……」


 沈痛な面持ちのカリムと機動六課に対し良介は無表情にアランを見下す。その目に憤怒の炎が見えたのは、決して錯覚ではないだろう。


「――――あいつは、結局逃げたのか……」


「違う! あの人は逃げてない!!」


「だったらなんでここにいない!?」


 良介はアランの胸倉掴んで怒鳴る。

 良介よりもいくら身長の低いアランは、苦しげに呻いた。


「――――多すぎたんだ……」


「何……?」


 良介は自分から目を逸らしたアランになおも問う。

 カリムが背後で息を呑み、機動六課の面々がアランの言葉に耳を澄ませた。


「多すぎたんだよ!! あの人の周りから消えた人間が多すぎたんだ!!」


 アランは良介の手を振り払い、そのまま睨む。

 良介はその視線を受け止め、アランに続きを促した。


「――――――――どういう事だ?」


「リュウトの奥方と子供たちは海鳴で、妹たちは地上本部で、使い魔たちは本局で……」


 アランは言葉を吐き棄てる。


「――――誰も、戻ってきてない。リュウトはずっと待ってた、だけど……」


「――――――――」


 良介は呆然と佇むしかなかった。

 分かる。リュウトの周りにいた者たちが何を思って命を懸けたのか、良介には分かる。


「――――知らなかったのか、誰も……」


「お兄様……?」


 知らなかった。

 或いは、誰もが自分の代わりがいると思ってしまったのだ。


「――――本当に、馬鹿だったんだな、あいつら……」


 誰もがリュウトを人に託した。

 自分の代わりにリュウトを支えてくれと――――だが……


「――――ハルカもアスカも、帰ってこなかった……。今あの人は、一人で全部背負い込んでるんだ……」


「全部……?」


 その声は、スバルのものだった。

 彼女と同じ表情を浮かべて、機動六課の面々がアランの答えを待つ。


「――――あの人はここに避難してきている連中の代表と会ってた。三提督もたまたま外遊に出ていたミゼット婆ちゃんが生きてるだけで、後の二人は……」


「っ――!」


 顔を顰めた良介が拳を握る。

 本局のトップ三人の内二人が行方不明となれば、本局の動きが鈍かった理由も明白。そしてリュウトがここにいない理由も。


「――――僕はあの人に頼まれてここに来た。良介、あんたに会わせなきゃならない連中がいるんだ」


 アランはリュウトの話を拒絶するかのように歩き出した。

 良介がついて来る事など疑いもしない。その背を睨み付け、良介は歩を進めた。


「――――お兄様……」


「カリム、ここにいる連中を頼んだ。――――これ以上あいつが馬鹿やらないようにな」


 良介はカリムに顔を見せる事なくアランを追った。

 カリムは良介の背に頷き、言を発する。


「はい……!」


 そう、これ以上奪わせるわけにはいかない。

 自分たちはすでに多くの者たちを失い、戦う意志すら奪われようとしている。

 だが、ここで滅びを待つ事は赦されない。

 失った者たちを無にしないためにも、ここで退いてはならないのだ。











 良介がアランに連れて行かれたのは、人々が多く集まるロビーとはまったく違う雰囲気を持つ場所だった。

 白く清潔な壁が続く廊下を進み、警備の局員が立つ扉を潜り、関係者以外の立入りを禁ずるという警告を越え、最後に扉横の端末にアランがパスワードを打ち込んだ。

 開く扉。良介はその先にいた者たちの顔を見て、過剰とさえ言える警備の理由を知った。


「リョウスケ!!」


 約十m四方の部屋には、ソファやテーブル、簡易キッチンまで揃えられていた。寝具の類は見当たらないが、奥に続く扉が二つほど見える。そのどちらかが寝室へと繋がっているのだろう。

 そんな部屋の中でこちらを見て目を見開いた面々。その中でいち早く驚きから脱した青い髪と赤い髪の少女二人が良介に飛びかかる。

 その重さに耐えかねて、良介は背中から倒れ込んだ。


「ってぇ! セイン! ウェンディ! どきやがれこの!!」


「リョウスケぇ〜〜。無事でよかったよ〜〜」


「リョウスケの事だからどっかで勝手に死んでるかもって、みんな心配してたんっスよ?」


「勝手に殺すなこのアホ姉妹!! お前ら重いんだからさっさとどけぇっ!!」


「重くないっス!! あたしこんなに"ないすばでぇ"じゃないっスか!! ――――セイン姉やチンク姉はともかく」


「あれと比べないでよ! わたしはバランス重視なの!!」


「――――――――ほう、あれとは私の事か?」


 二人に視界を塞がれた良介には見えなかったが、ウェンディとセインの背後に立つ五番目の姉は、その隻眼に揺らめく炎を宿していた。

 びくりと震えて良介の上から退避するアホ姉妹。さささ、という擬音が聞こえそうな動きで姉妹たちの座るテーブルに戻ると、その卓の上に置かれたカップを呷る。咽たのはご愛嬌だろう。

 そんな妹たちの動きに嘆息を漏らし、チンクは良介に手を伸ばした。


「ほら、いつまでも寝てるんじゃない」


「――――お前の目は節穴か、妹の教育がなってないぞ」


「すまないな。私も注意はしてるんだが、お前ともう一人に関してはタガが外れやすいらしい。まあ、外れるベクトルは逆だがな」


 苦笑するチンク。その顔を見て良介も苦笑する。


「それにしても、お前らまで良く無事だったな。管理局からすれば、見捨てた方が得だろうに」


「――――あの施設の責任者が誰か知ってるだろう? 私たちの口を塞ぐなどという卑怯な真似をする訳がない」


「――――――――まあ、な」


 誰もが嫌がる重大事件被疑者の保護管理責任者。その任を買って出たのは良介の頼みを引き受けたリュウトだった。

 管理局最高評議会と一部の人間がジェイル・スカリエッティと手を組むという、管理局にとって特大の不祥事。その生き証人であるナンバーズは、油断すればすぐに"処分"される危険がある。

 隔離施設内で叛乱を起こしたという理由でもでっち上げれば、十二分に口を封じる口実を得られる。それを防ぐためには、陸海空に顔の利くリュウトが責任者になる事が最良だったのだ。

 もちろんリュウトにも立場というものもあるため、良介は自分の頼みを素直に聞き届けるとは思っていなかった。だが、リュウトは至極あっさりその頼みを聞き入れた。

 特大の借りを作ってしまったと嘆いた良介だったが、面会のたびに礼を言われては今更後には引けない。

 後になってリュウトはリュウトでそれなりに得をしたらしいと聞いたが、詳しい事は良介も知らなかった。


「今回も隔離施設に常駐していたリュウトの部下が、私たちを軌道上の艦まで連れ出してくれたんだ。地上本部や本局が落ちたというのは、ここに来て初めて知った」


「ま、偶然にも予言は的中ってことっスかねぇ」


「――――偶然だといいけど」


「う、怖い事言わないでよディエチ」


 予言によって始まった先の事件では、本局が陥落する事はなかった。

だが、今回はまるで対処する事もできずに失陥。地上本部も今は見る影もない。


「――――ドクターたちは別の隔離施設に移送されたって聞いた。リュウト提督の部下が騒ぎが始まってすぐに移動させたって……」


 オットーがチンクの説明を補足する。

 二人の言葉を総合すれば、ナンバーズは全員無事。スカリエッティも今回の事件に巻き込まれる事はなかったという事になる。

 ――――つまり、リュウトは日頃の言葉を実践したと言う事になるのだ。


「『九九%助かる千人よりも、確実に助かる一人を。自分の家族一人よりも二人の他人を』――――か……」


 指揮官の心得として叩き込まれたという言葉。リュウトはそれを愚直に実行した。

 それがたとえ理解できない理屈であろうとも、それを否定するだけの言葉を良介は持っていない。だが、決して納得できるとも考えていなかった。


「――――そういや、ルーテシアとアギトはどうした?」


「今は別の場所で事情聴取。まあ、それは建前で本当はルーお嬢様のお母さんと連絡取ってるんだけど」


「ああ、メガーヌも無事だったのか」


「管理局施設は集中的に攻撃に晒されたと聞きました。ですが、あの人と関わりのある施設はほとんど人的被害を出していないそうです」


「――――優秀だからな、あいつの部下は」


 ディードの言葉に良介は苦笑した。そして、その苦笑はすぐに消えた。

 その優秀な部下に自分の家族よりも他人を優先させた。その事実もやはり、良介には理解できない事だった。

 良介にとって人の命は等しくない。

 大切な者の命は重く、顔も知らぬ他人の命は軽い。それが間違っているとは思わないし、考え直す気もないが、良介は自分とは明らかに価値観の異なる決断を下したリュウトに対し、怒りとも悲しみとも取れない感情を抱いた。


「ルーお嬢様とアギトさん、リョウスケに会いたがってたけど……」


「――――――――」


 セインの言葉に良介は押し黙った。

 心が晴れない。

 どうしても納得できないのだ。

 自分の家族を犠牲にしてまで他人を助ける。それは確かに美談であり、管理局員としては正しい事なのかもしれない。だが、見捨てられた家族はどうなるのだ。

 自分の命が他人より軽いと判断されて納得できるというのか。

 確かにアンジェリーナや妹たち、使い魔たちは納得するかもしれない。彼女たちは管理局の人間だから。

 だがしかし、リュウトの子供たちはどうだ。

 父に見捨てられた憐れな子供というレッテルがあの子供らに相応しいとは、とても思えなかった。


「――――アラン、あいつはどこにいる?」


 再びの問い。

 それを発した者の眼にあるのは、ひたすらに暗い深淵だった。













「――――宮本、生きていたか」


「――――お前もな」


 良介はアランに先導されて施設内を縦断した。

 その先にあったのは、良く知る警備端末の合成音声と超剛性ガラス。

 ガラスの先には数十m四方のだだっ広い空間――――この軌道施設最大の訓練用シミュレータだった。


「あいつはいるか?」


「――――いる」


 その入り口に佇む警備端末の視線には、この場に相応しくない者に対する隔意と同時に請願の色があった。

 誰もが事態の打開を望み、その術を持たない事を知っていた。


「――――しかし、お前に何が言える?」


「――――――――」


「ミヤが消えた事は知っている。だが、お前は一人と決めた者を持たず、関わりから逃げ、孤独を気高いと勘違いしていた男だ。そのお前にマスターに対する言葉があるのか?」


 警備端末――――ブレストの言葉は如何なる温度も持たない。温かくも冷たくもない。それと同時に鋭く、一切の虚偽を許さない響きを伴っていた。

 畢竟、ブレストを越えていかなければこの先にいる人物に言葉を届かせる事は叶わないのだ。故にブレストは無駄な来客で主の心を乱すような真似は許さない。だが、それは主を思っての事ではなく、主の意志に絡め取られて自滅する人間を救うための手段でしかなかった。

 この時点で、ブレストの主の周囲には誰もいない。

 誰もがブレストの主を恐れ、彼の内包する怒りや悲しみ、悔悟から身を守るだけで精一杯。慰めの言葉を掛けるには遠すぎ、怒りを以て制するには強すぎる。

 憖っか心と力が強いために、その存在は容易に人の範疇を超えてしまう。怒りで我を忘れる事もなければ悲しみに暮れて己が職務を放棄する事もなかった男は、その権能故に人としての願望を縛られ、それを思い出す術を忘却してしまったのだろう。


「――――今のマスターは決して話の通じない者ではない。だが、中途半端な言葉ではその心には届かず、余計なものを背負わせるだけだ」


「――――過保護なもんだな」


「貴様は保護されている事に気付かなかっただけだ。貴様がここにいられるのは、貴様の周囲にいる者がお前を守っていたから。それに気付かないだけで、お前は多くの者に守られていたのだぞ」


「――――――――」


 知っている。

 良介はその個人では大した力を持たないちっぽけな人間に過ぎない。

 どのような時でも人に支えられて来たに過ぎないのだ。海鳴に到着してすぐの通り魔事件から今に至るまで、良介は一人だけの力で生き延びてきた事など数えるほどしかない。それどころか、一人で物事を動かそうとするだけで余計な災厄を招いてきた男だ。ブレストに云われずとも自身で気付く事はできる。


「――――お前は孤独を求めながら孤独でいられなかったのではない。始めから孤独ではなかったのだ、そして今も……」


 孤独な人間などその人物の思い込みに過ぎない。

 真に孤独な者は孤独という概念を知らず、己が孤独であるなどと思わない人物だ。

 良介は最初から孤独などではなかった。孤独な者は言葉を知らず、他人を知らず、感情を知らない者だけ。ブレストはそう言って良介を見据えた。


「どうする孤独にあらざる孤独の剣士よ。お前の理屈が通るか否か、試してみるか?」


「――――――――言いたいことはそれだけか?」


 良介の鋭い視線に晒されても、ブレストはたじろぐ事すらなかった。

 淡々とその目を見返し、呟く。


「それだけだ」


 通れ。

 そう言わんばかりにブレストは道を開けた。

 その先にあるのは仮初の孤独の内にて己を保とうとする弱者。

 強き力と強き心を持つ故に容易に弱者となる一人の青年だった。











「――――相変わらずか」


 良介はシミュレータの管制室に入ってその光景に目を細めた。

 周囲に浮かぶモニターには訓練室内の様子が映し出され、多角的に情報が収集できるようになっている。その中に、訓練室内で剣を振るう男の姿があった。


「さすがに速いな」


 一つのモニターに男の姿が映るのはほんの数秒だけ。

 早い時は刹那に満たない瞬間に消え去ってしまう。


「御神や不破の継承者が一目置くだけの事はある、か」


 良介には到底辿り付けない場所。

 御神の神速、その極致に匹敵する高速戦闘技法。

 その銘は――――『神(ゴ)速(ッ)近(ド)接(・)格(ス)闘(ピ)技(ー)法(ド)』

 ベルカの騎士に対抗するため生み出され、そして廃れたミッドチルダの格闘技法だった。

 正確に言うならその技術をサルベージし、新たな技術と組み合わせて復元されたのがこの技法だった。


「元来ミッドチルダの魔導師内に於いて近接技法を追求する者は異端、故に廃れ、忘れ去られていた古の技法――――だったか?」


 良介の言葉に答える者はいない。

 管制室には誰も居らず、おそらく訓練室内にいる者が遠隔操作で機材を動かしているのだろう。


「――――寂しいもんだな、いつもならここにいるのはシグレかアスカかハルカか、うるさいくらいだったのによ……」


 件の人物が施設を使って訓練を始めると、呼んでもいないのに誰かがやって来る。そして嬌声を上げては怒られ、それでも姦しく観戦していた。

 しかし、今良介のいる場所には誰もいない。

 目を瞑れば容易に思い出せる風景は、ここにはない。


「――――寂しいな、本当に……」


 良介は室内で剣を振るう男を見遣り、気だるげに嘆息する。

 そして、コンソールに手を伸ばしてシミュレータを停止させた。











 リュウトは自分の手のひらから零れ落ちた命に思いを馳せていた。振るわれる剣は目標を一刀の下に切り裂いてはいたが、決してリュウトの迷いを斬ってはくれなかった。


「――――っ!!」


 烈の意志を込めた呼気が口から漏れ、振り抜かれた刃が目標を一文字に別つ。

 目標は解けるように空に消え、リュウトは別の目標に向けて一歩を踏み出す。その一歩で十mの距離を走り、一閃。再び解ける標的を棄てて次の目標へ――――

 リュウトは心に澱のように残る忸怩たる思いを消そうと躍起になった。これでは今後の指揮に影響が出る。それは自分を上官と仰ぐ者たちを無為に傷付ける事になるだろう。

 それを恐れ、リュウトはひたすらに剣を振るった。


「――――――――」


 荒い息など出ない。

 身体に染み付いた武人としての型は、リュウトの呼吸機能以上の動作ではない。実戦や模擬戦ならともかく、単調な訓練では数時間続けても息が乱れるような事はないのだ。いっその事呼吸が困難になるくらい身体を酷使したい衝動に駆られたが、今の状況では望むべくもない事だった。


「――――――――」


 目標から放たれる光弾もリュウトの回避行動の前には無意味だ。それは一定レベルを超えた武術者にはあまりにも遅く、危機意識を惹起させるには拙い。故にリュウトは常に平均以下の機動を強要され、訓練というにはお粗末な準備運動程度のものと堕ちていた。


「――――――――」


 "影"に相対する事は多くなかった。

 周りには常に護衛がいたし、リュウトは彼らの職分を侵害する愚を犯す真似はしない。その途中で家族の、部下の、使い魔やデバイスの最期を伝えられても、その時のリュウトは危機管理部の主座を汚す存在でしかなく、個人的な感情を発露させるには状況が悪すぎた。

 指揮に問題があったとは思えない。

 だが、最上の指揮を以ても助けられた者たちは少なく、また、それによって引き起こされる怨嗟を躱す事はできなかった。


「――――――――」


 多く死に過ぎた。だが、責任はない。

 誰もがそう口を揃えて自分を慰めた。

 誰も予測し得ない事態に際しての指揮としては一つの理想であり、その指揮がなければ今の偽りの休息もなかっただろう――――だが、その言葉は、リュウトの心を慰める事はできなかった。

 理想的な指揮であろうとも、死した者にとっては間違いでしかない。自分に死を与えた指揮官を許せる英霊など、今の自分には存在しないだろう。

 どれだけ足掻いても死は復さず、生は失われたままだ。

 前線指揮官、いや、高級指揮官の中にすら"影"に対する敵愾心と復讐心を元に報復を唱える者たちが現れ、それをリュウトに直談判してきた。

 リュウトはそんな者たちは九の正論と一の暴論で抑え、無益なる行動を控えるよう諭した。指揮官たちも信頼する上官にそう言われては退くしかないが、その心の内に燃える戦意が衰えたとは思えない。

 そして、各世界政府首脳との会談は無駄にリュウトの神経を削いだ。

 自分たちの窮状を盾に"即効性"で"効果的"な支援を求める彼らに対し、リュウトを始めとした時空管理局高官は辟易する。

 リュウトたちにも余裕はない。できる事といえば蓄えられている物資を民間人のために供出するのが関の山で、政府首脳が求めるような"原住世界への早期帰還"など叶えられるはずもない。彼らは自分たちの窮状を声高に唱えはするが、それに対する対処法をこちらに求めるだけで自分たちの手で何かしようとは思っていないようだ。

 今はミゼットを始めとする年嵩の管理局高官がその対処に当たっているが、その彼らがここに到着するまでにリュウトが会談する羽目になった政府高官は、実に十を超える。

 彼らはリュウトの若輩なる事を言外に責め、それ故の指揮の拙さが現状を招いたと言いたげだった。補佐官として同席した若い男性士官はその言葉に激昂しかけ、リュウトはその対処にも身を割かねばならなかったほど、彼らのリュウトを見る目は快いものではなかった。


「――――――――」


 今までの不毛な話し合いを思い出しながらも、リュウトの剣線は微塵も揺らがない。閃光と仇名されるほどの速度で煌めく刃は次々と目標を切り裂き、すでに数える事もやめた状況終了の鐘が訓練室内に響き渡った。

 だが、すぐに再開されるはずの訓練は、一人の男によって遮られる。


「――――あれだけやって息一つ乱さないってのは、十分化けモンだと俺は思うがな」


「――――――――」


 リュウトは合金製の扉を開けて室内に歩を標した来訪者に目を向け、ゆっくりと構えを解いた。


「――――無事で何より……っていうのは、聞き飽きた台詞でしょうか」


「そうだな」


 良介はリュウトの言葉に何気ない返答を返しつつも、その歩みを緩めない。

 それに対し、リュウトも鋭い視線を良介に向けたままだ。


「私に言いたい事がある、そんなところですか?」


「それが分かってるなら、話の内容も想像付くんじゃないか?」


 良介はリュウトの眼前で足を止めた。

 それは僅かに数m。両者とも必殺と言える間合いだった。


「――――分かりませんね」


「――――――――本気か?」


「――――――――ええ、悲しい事に」


 その瞬間、良介は一気に間合いを詰めてリュウトの襟首を?み、そのまま捩じり上げる。

 まさに一瞬、並の者ではその動きの片鱗すら見極められない速度だった。


「御託はそれだけか……ッ!!」


「――――御託? 意味が分かりかねますね」


 リュウトは欠片も息を乱さず良介を見返した。

 その表情には何の色もなく、ただ眼前の人物を見るだけだ。


「お前はここで何をやってる!? 自分のガキを探すわけでもなく、探してくれと誰かに頼むわけでもなく、こんな辛気臭い部屋で引き篭もって訓練もどきだと!? ふざけるのも大概にしろよ!!」


 良介は烈火の如く怒声を浴びせる。

 だが、そんな声もリュウトには無意味な微風でしかなかった。


「――――地球はすでに放棄されています。そして、その命令を下したのは私、誰に何を頼めるというのですか?」


「っ!!」


 良介の拳がリュウトの頬を打つ。

 鈍い音が訓練室に広がり、消えた。


「お前の命令一つで動くって奴らは大勢いる! 命令でなくても、独り言で一言家族が心配だと言えば動く奴らだっているだろう!? なのにお前はこんな所で悲劇の主人公気取り、自分のガキすら助けに行こうとしない!!」


「――――自分の子供を助けようと部下を死地に追い遣る上官が許されるわけがないでしょう。人間的にどれだけ正しくても、それを為せる人間と為せない人間がいる。君に分からないはずはない」


「分かるさ! 分かるから言ってるんだ!! お前が動けば余計な波が立つ! だから今まで動けずに俺を使ってきたんだろう!!」


 悲しみと憤りに彩られた声。組織の一部となり人々を護る事を選んだ時、リュウトは家族を犠牲にするしかなかった。


「私は君が羨ましい」


「何?」


「囚われず、縛られず、屈さず、己の意思をそのまま表すことができる君が、心の底から羨ましいと思います」


 それはリュウトの本心だった。

 管理局にいる間は発言を監視され、それがない時も行動に制限が付く。魔力は限界まで落とされているし、自由に世界を渡る事もできない。

 家族にすら護衛を付けてその行動を逐一監視しなくてはならない苦しみは、想像を絶する。


「ですが、君の我が侭は時折憎い」


「――――そうか……」


 リュウトの目に微かな感情を見て取り、良介はその仄暗さに息を呑んだ。だがそれを表情に出す事はなく、相手の目を睨みつけた。


「今なら馬鹿の戯言と流せるでしょうから白状しますが、私は君の身勝手な行動に憎悪さえ抱きます。君の行動は確かに正しい事も多々ある、プレシア・テスタロッサ然り、守護騎士然り、ナンバーズ然り――――ですが、それは我が侭に過ぎない」


 リュウトは良介の手を?み、ゆっくりと外していく。


「君の行動は確かに魅力的だ、美談ですらある。だが、その決断に苦しめられる人間は確かに存在するのです。君の我が侭を通すために、どれだけの人間が余計な荷物を背負ったか、君は理解していますか?」


「――――――――」


 良介は何も答えない。

 ただ、その目に揺らぎがある。


「君は手の届く範囲の人間を確かに救った。だが、その外にいる人間は犠牲になる。自分の目に入る笑顔を守りたくて、その裏にある涙を足蹴にした」


 すべての人間が笑顔になる事などありえない。

 だからこそ、リュウトは今の立場にいる。


「私は君の行動を支持します。ですが、それだけです。それを支持しても踏襲はしないし、真似る事もしない。君と同じ行動を部下が取れば然るべき処分を下し、場合によっては切り捨てます」


 それは"組織"のことわり

 人間的に正しくても、人間を人間として存続させる組織には害悪となる場合がある。


「君の行動は君一人の功績ではない。多くの人が君を支え、君の知らない場所で苦しんだからこそ、君は君として他人に接することができる」


 孤独ではない孤独の剣士。

 それは皮肉や賞賛ではない。

 単なる事実だ。


「私は確かに最低の父親で、最低の夫です。或いは最低の兄であり、最低の主かもしれません。ですが、私も君と同じように自分の道を違えるつもりは無い」


「――――本気か」


「無論」


 リュウトは静かに良介の腕を握り締めた。

 手の中で軋む良介の腕を、リュウトは無感情に見遣る。


「私は家族を棄て、組織の一人として大多数を救う道を選びました。それが間違っているとは思わないし、誰かに謝罪するつもりもない」


 それは、良介とは正逆の生き方。

 故に二人は衝突し、互いの信念を剣として相打つ。


「君が近しい者を最優先するように、私は顔も知らぬ他人を優先する」


「あれだけお前を慕っていた連中を見捨てて、か?」


「君が何を言いますか」


 リュウトはここに来て初めて感情を見せた。

 だがそれは、良介が今まで一度も見た事がない冷笑。


「たった一人の少女のために周囲のすべてを手段と看做し、そして拒絶された君が……!」


「っ……!!」


 リュウトはすべてを知っている。

 良介の出生から今に至るすべてを情報として知っている。

 海鳴で起こった事件はその詳細に至るまで熟知し、それを決して悟らせない。


「君は常に他人に頼って生きている。無論、それを否定するほど私は強くないし、私自身も人に支えられているのでしょう。ですが――――」


 リュウトは冷笑を消し、無を以て良介に告げる。


「君の理屈を受け入れるわけにはいきません。それがどれだけ魅力に溢れていようと、私の決断が非人道的と罵られようと、家族を見殺しにした人非ざる者と断罪されようと……!!」


「――――――――」


 正しい事がすべてではない。たとえそれが間違いだと断じられる所業であっても、この世をこの世足らしめるためには必要な事だ。組織に殺されて人間としての意思を失い、ただ歯車として生きる者たちを誰が責められる。

 その歯車によって生かされている人間が声高に人を断罪し、組織を悪と決め、己を正義と評する。くだらない三文芝居であり、矛盾以外の何物でもない。

 誰かが我が侭を通し正義と敬われるのなら、その裏には愚直にその秩序を守る者がいる。


「時空管理局を巨悪として見る者は後を絶ちません。先の事件後には管理局の解体を求める声すらあった」


 だが、それは成されなかった。

 当たり前だ。そんな事をすれば先の事件を超える混乱が次元世界を襲う事になるのだから。

 時空管理局に代わる統治機構を作るには、それこそ管理局の創設から今に至るまでと同じ時間が必要になる。各世界の合議により統治を行うというには、各世界のパワーバランスが危うい。畢竟、目の前にある敵を滅ぼすには、それを越えた先のすべてを背負う覚悟がいるのだ。

 故に管理局は滅ばず、その上で新たな道を模索していくしかなかった。


「組織が必要悪という意見に私が言える事はありません。ですが、私は私の信念で物事を為します。君が周囲の言葉に惑わされず、己の成したい事を成してきたように、ね」


 そう、結局どちらも我が侭に過ぎない。

 優劣などという愚にもつかない概念はその評価に相応しくなく、それ以前に比較する事自体があってはならない事だった。

 どちらが欠けても世界は成り立たない。

 個を優先する信念があり、全を優先する信念がある。

 故に世界は回り、人々は笑顔を宿す。

 そこに善悪は存在せず、ただあるのは人の世。

 互いを押し付けても意味はなく、比べる意味もない。


「――――ただね、良介君……」


「――――――――」


 だからこそ人はぶつかり、己の信念を闘わせる。


「――――――――私が単なる男であったなら、妻と子供を探していたかもしれません」


「リュウト……」


 涙はなく、ただ、寂しそうな笑顔がある。


「――――もう私は個人には戻れません。だから、公人として生き抜きます」


「――――俺たちと離れても、か?」


 それが自分の知るリュウト・ミナセ個人の最後の笑みだと、良介には分かった。


「ええ、困った事に……」


 それなら護る事ができるから――――リュウトは今まで一度も見せた事のない曖昧な笑みを良介に向け、ただ寂しそうに告げた。











 そして二人は交わらぬ道へと進む事になる――――はずだった。

 だがそれは二人の少女によって覆され、事態は急速に動き出す。











 リュウトと良介の許に『方舟』出現の報が届いたのは、地球日本時間十二月二五日深夜の事だった。











 後編に続く


















作者悠乃丞さんへの感想、指摘等ありましたらメ−ル投稿小説感想板
に下さると嬉しいです。