魔法少女リリカルなのは―――くらひとSSS 昔語り―――

 

 

 

 

―はじまり―

 

 

 

 

 

 

 

誰かが呼んでいる。

 

 少年の名前。少年を表す言葉。時を表す言葉。

 

 幾つもの言葉で、誰かが少年を呼んでいる。

 

 だが、少年は未だこの世界に意識を取り戻してはいない。

 

 夢の中。

 

 人が数多持つ幻想の世界の一つ。

 

 少年の意識はそこにあった。

 

 それでも、少年は少しずつ世界を移動する。

 

 夢の中から今の中へと、『時』という絶対的な存在が支配する今という世界へと、少年は移って行く。

 

 

「――――」

 

 

 聞こえる。

 

 声が聞こえる。

 

 少年を呼ぶ声。少年を表す言葉で、少年を呼ぶ声がする。

 

 

「――――」

 

 

 その声に導かれるように、少年は残酷な世界へと戻っていく。

 

 

「――――」

 

 

 その声に導かれるように、少年は真に光ある世界へと戻っていく。

 

 

「――――」

 

 

 少年の生きる世界は、ひどく残酷で、ひどく暖かい。

 

 

「――――」

 

 

 『時』は最も厳しく、最も優しい。

 

 

「――――」

 

 

 あらゆる記憶を包み込む『時』は、記憶を人間に与える。

 

 忘れたくない記憶。忘れたい記憶。

 

 『時』は、人に記憶と過去を与える。

 

 忘れたい過去。忘れたくない過去。

 

 『時』は、人に夢と未来を与える。

 

 望む未来。望まぬ未来。

 

 そして『時』は、人に今を与える。

 

 過去と未来を与えるために、今を与える。

 

 そして、人は今以外に生きる場所を持たない。

 

 

「――――!」

 

 

 少年は『時』を生きる。

 

 今を生きる。

 

 

「――――!!」

 

 

 過去に生きたくとも、今を生きる。

 

 

「――――!!」

 

 

 そこしか、人の生きる場所は存在しないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リュウト!!」

 

 

「――――む」

 

 

 彼女は少年がこれほど寝起きの悪い人間だとは思っていなかった。

 

 少年と共に過ごして一年近く経つが、彼女がこうして少年を起こすようになってからは半年程度。

 

 それ以前は同じベッドで寝ていたこともあって、彼女と少年は一緒に起きていたのだ。

 

 少年は周囲の変化に敏感で、彼女が起きるとその動きを感じ取って目を覚ましていた。

 

 だが、今はどうだろう。

 

 彼女がこの部屋に入っても目を覚まさず、こうして穏やかに寝坊をしている。

 

 

「リュウト! 起きないとご飯あげないよ!?」

 

 

「――――も」

 

 

 起きない。

 

 全く起きない。

 

 

――ていうか、『も』って何?

 

 

 彼女は自分の中で何かが沸騰していくのを感じる。

 

 少年は可愛い。文句なしに可愛い。文句を言う奴は叩き潰す。

 

 こうして寝顔を見ていると、そのままずっと見ていたくなる。

 

 一緒に寝たくなる。

 

 このままチビ猫フォームに姿を変えて布団に潜りこみたいぐらいだ――事実、彼女はその欲求と戦っていた。

 

 だが、彼女は耐えた。

 

 自分の中に湧き上がる二つのものに耐えた。

 

 

「ロッテ〜? リュウト、まだ起きないの?」

 

 

 そんな中で扉を開けて入ってくる彼女の半身。

 

 

「見ての通り、我らが愛息は現在進行形で睡眠中」

 

 

「ふうん…。じゃあ、いつものいくかぁ」

 

 

「は?」

 

 

 ロッテの言葉を無視するように、彼女の半身は少年へと近付いていく。

 

 その足取りは軽く、どこか楽しそうな雰囲気が漂っていた。

 

 

「アリア、どうするの?」

 

 

「簡単、簡単。――こうするだけ」

 

 

 ロッテの疑問に答えるように、アリアは少年の寝顔に顔を近づけていく。

 

 そして――――

 

 

「――いただきます」

 

 

 少年の鼻を摘むと、そのすぐ下にある唇に己のそれを重ねた。

 

 

「――――」

 

 

「――――」

 

 

「――――」

 

 

 三者それぞれが別の感情を以て沈黙する。

 

 

「――――」

 

 

「――――」

 

 

「――――」

 

 

 数秒が経ち、状況に変化が訪れる。

 

 

「――――」

 

 

「む、む、むむ――ッ!!」

 

 

「はッ!?」

 

 

 目の前の光景を理解できなかった故に、遥か彼方の別次元へと旅立っていたロッテの魂が、旅先から戻ってくる。

 

 息子の苦しげな声に、彼女は自分の半身を全力で蹴り飛ばした。

 

 

「やめぇえええええい!!」

 

 

「ちッ!」

 

 

 だが、ロッテの蹴りは寸前で避けられ、邪魔をされたアリアは不満げな表情こそ浮かべているが、もちろんダメージなどあるはずもない。

 

 

「何をしとるか!?」

 

 

 世間一般の常識に当て嵌めれば至極当然の言葉だが、今のアリアには常識など大した意味を持たないだろう。

 

 

「何って、おはようのキスじゃない」

 

 

「おはようのキスで永眠させようとする母親がどこにいるの!?」

 

 

「心外ね。鼻を摘めば起きるくらいロッテも知ってるでしょう?」

 

 

「口も塞いでたでしょ! あれじゃ死んじゃうじゃない!!」

 

 

「大丈夫。私の口から空気は入れたから」

 

 

「深い方!? 深い方なの!? 齢七歳の子供に深い方!?」

 

 

「気にしないで」

 

 

「気にするわ!? それに息子のファーストキスを奪う母親が何処に居る!?」

 

 

「ここに居る――と言いたい所だけど、親子じゃノーカンだよ」

 

 

「当たり前だぁあああああッ!!」

 

 

 ロッテは自分の半身がこれほど息子にべったりだとは思っていなかった。

 

 過保護すぎる。これでは息子が変な育ち方をしてしまうではないか。

 

 自分の行動を棚に上げて、ロッテは頭の螺子がダース単位で吹き飛んだ半身に詰め寄る。

 

 

「――――アリア、そんなんじゃリュウトに恋人出来ないよ?」

 

 

「――――いいのよ。嫁姑問題って怖いじゃない?」

 

 

「怖いのはあんただよ!!」

 

 

 ベッドでうつ伏せに蹲ってピクリとも動かない息子を無視して、双子のネコは喧々と言い合いを続ける。鼎の沸くが如き騒乱は、この家では割と日常だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――――ギル、僕はここにいたら死ぬかもしれません」

 

 

「――――気持ちも状況も分かるが、どうにか抑えてくれ」

 

 

 食卓でそんな会話が出る家は、果たして平和なのだろうか。それに答えを返す事が出来る存在など、この世界にはおそらく居ないだろう。だからといって別の世界には居るのかと問われれば、もしかしたら居るという程度だろう。

 

 この家で家主であるギル・グレアムが食事を取るのはそれほど多くない。

 

 時空管理局で提督という立場にいる以上、彼が自宅に帰ってくることが出来るのは仕事が立込んでいない時だけだからだ。

 

 多忙な彼としては珍しい穏やかな朝。自宅で朝食を摂ろうと娘とその息子を待っていたグレアムが経験したのは、約一年前に引き取った少年――リュウト・ミナセが自身の使い魔に窒息死寸前まで追い詰められるという事態だった。

 

 日頃リュウトが寝ている間にベッドに潜り込むなど珍しくない使い魔たちだが、彼を起こす方法は随分違う。

 

 ロッテは正攻法ともいうべき方法で起こすのに対し、アリアは変化球どころかボーク確実――もしくは危険球で一発退場な方法で息子を起こす。

 

 ロッテに比べて比較的――あくまで比較的――真面目なはずのアリアは、ことリュウトに関してはロッテ以上に過激になるようだった。

 

 リュウトが連れ去られたあの事件後、リュウトと双子、グレアムの関係は急速に変化した。

 

 リーゼ姉妹はリュウトのことを実の息子のように世話をし、グレアムは一部で爺馬鹿と化している。

 

 その最たる物はグレアム宅の浴室だ。リュウトの故郷『日本』の文化でもある『裸の付き合い』を実践するべく、リーゼがグレアムに浴室の改装を求め、グレアムは殆ど二つ返事でそれを許可した。

 

 改修工事は半月ほど掛かったが、完成した浴室は確かに広々としたものだった。

 

 グレアムはその当時の事を思い出す。

 

 

(――それでも、今は平穏な方だろうか……)

 

 

 数ヶ月前の事でありながら、何年も前のように感じる。

 

 

(そう。平穏と呼べる日々が始まってから、未だ数ヶ月しか経っていない…)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リュウト! とりあえずお風呂に入ろう!!」

 

 

「は?」

 

 

 リビングに飛び込んできたロッテの言葉に、ソファで勉強の為にミッドチルダ語の絵本を読んでいたリュウトはポカンとした表情を返した。

 

 訳が分からないという心の内を、如実に表す表情だ。

 

 

「だから、お風呂」

 

 

 ロッテはリュウトの表情を気にする事も無く、さらに息子に詰め寄る。その目には嫌な光が宿っていた。

 

 

「ネコって、お風呂大丈夫なの?」

 

 

「あたしらは使い魔で人間と同じ感覚持ってるから、もーまんたい!」

 

 

「というか、リュウトの為なら嫌いでも入るよ」

 

 

 いつの間にかリビングに現れたアリアが付け加える。

 

 親馬鹿そのものの台詞だが、それを気にする人間も、使い魔もここには居ない。

 

 

「だったら二人で入ってくれば? 僕は後で入るよ」

 

 

「ダメ」

 

 

「却下」

 

 

 姉妹の息の合った拒否にリュウトは動きを止める。

 

 幸か不幸かリュウトは未だに母親と入浴していた経験があった。

 

 平均的にはこの年頃になると異性の親と共に入浴しない子供も出てくるだろう。だが、リュウトの家では彼は母親と妹の三人で入浴していた。

 

 その所為で、リュウトはこの時点で入浴は複数の人間で行うのが普通だと認識している。

 

 地球の日本で暮らしていれば、学校などの友人に指摘される事でその間違いに気付いたかもしれないが、今のリュウトの周りには同世代の子供など居ない。

 

 リュウトの特殊な状況を考慮して、ミッドチルダに慣れるまではこちらの学校に就学することを避けていたからだ。この世界の言語であるミッドチルダ語、かつてミッドチルダと魔法体系を二分する勢力であったために未だ多くの世界で使われているベルカ語、そしてその他の基礎知識を含めた諸々の勉強に関してはアリアとロッテが教えているため特に問題はないが、学校生活で培われるはずの集団生活におけるルールの習得や、同年代の人間と接する機会は今のリュウトには望むべくも無いものだった。

 

 無論、グレアム宅の周辺にはリュウトと同年代の子供が住んでいる。だが、その子供の親たちはリュウトの事をあまり良くは思っていない。

 

 リュウトが巻き込まれた『事故』が間違って伝わり、『自分以外の家族を魔法で皆殺しにした』『訳の分からない危険なロストロギアを操る』などという流言がリュウトに付き纏っているのが現状だったのだ。

 

皮肉な事に、グレアムが後見人を務めている事でその流言に彼らにとっての一定の信憑性を与えるという結果にもなっていた。

 

 グレアムという管理局の人間が、リュウトという『正体不明の化け物』を飼っているという噂まで存在しているという。

 

 グレアムもリーゼも、リュウトに対する流言が出来るだけ早く収まる事を願ったが、この時点ではようやくその気配が見え始めた程度だった。

 

 リュウト自身は家の周辺を散歩するなどこの世界にも慣れてきた様子だったが、彼を取巻く世界の方が、リュウトという存在に対して僅かながらの拒絶反応を示している――グレアムはそう考えていた。

 

 だが、リュウト自身はそのような周りの風評をあまり気にせず、新たな家族との生活に慣れ始めていた。

 

 

「――なんで?」

 

 

「なんでって、リュウトが一緒に入らなきゃ意味無いじゃん」

 

 

 ある意味当然なリュウトの言葉を、『何を言うんだ?』と言わんばかりの表情であっさりと切り捨てるロッテ。その隣でアリアもうんうんと頷いている。

 

 

「でも、三人で入るには狭くない?」

 

 

「大丈夫、いざとなればロッテを退かすから」

 

 

「アリア!?」

 

 

「冗談よ」

 

 

 全く冗談に聞こえないが、ロッテはあえてそれ以上追求する事はしなかった。ここで仲間割れを起こしても何の意味もない。

 

 

「――まあ、それは置いといて、さあ行こうか!!」

 

 

「え? は?」

 

 

 困惑したままのリュウトの両脇を固め、人攫いだと言われても違和感を覚えないような状態で息子を引き摺っていく双子のネコ。そこに幼いリュウトの基本的人権は無かった。

 

 

「ちょ、ロッテ? アリア?」

 

 

「ふふふ…。背中流してあげるからねぇ〜」

 

 

「いや、背中だけじゃなくて全身隈無く隙間無く、バッチリキッチリ洗ってあげるからね」

 

 

「だから、ちょっと待ってって言ってるじゃないか!」

 

 

「何を恥ずかしがるのさ。知り合いも言っていたよ、『女湯は肌色桃源郷だ!!』って」

 

 

「あ〜…そういやあのバカも言ってたね」

 

 

「誰!?」

 

 

 ちなみにこの発言の主は約十年後、同じ発言をして真実に気付いたリュウトに報復されることになる。彼は桃色桃源郷で旅立った。

 

 

「そうだ。今度は温泉にでも行ってみようか?」

 

 

「お、それはいいかも! 勿論、リュウトはあたしらと女湯だよ〜」

 

 

「ちょっと待ってよ! アリア! ロッテ!? え? え? えええええぇぇぇぇぇぇ……」

 

 

 その後、浴場内に於いて、本人の意思とは関係なく男としての尊厳やら十年後辺りに必要になりそうな何やらがすごい勢いで失われていくが、リュウトがそれに気付く事は一生無かった。それが幸福だったのか不幸だったのかは、誰にも分からない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間という種が存在する場所には、必ずと言っていいほど『異』に対する拒絶反応が起こる。それはリュウトの故郷に於いて戦争という形で発現することもあった。

 

 群れて生きるが故に『異』を拒絶する。それは人が生きていく上で必須のもの。

 

リュウトが自宅の周辺を散策するようになってから二週間が経った頃、その拒絶反応は彼にも襲い掛かった。

 

その日の午後、彼は家にいたロッテに散歩に行くと言って出掛け、そのまま数時間戻らなかった。

 

 三時のお茶と共に息子の帰りを待っていたロッテも、最初の一時間はただいつもの散歩が長引いているだけだと思っていた。だが、さすがに二時間も経つ頃には何か事件にでも巻き込まれたのではないかと心配になってくる。

 

 リュウトが巻き込まれた事件からは幾許かの時が流れていたが、ロッテは夜闇の中で傷だらけになって横たわるリュウトの姿を、彼女は一日たりとも忘れていなかった。

 

 自分の中で渦巻く光景に耐え切れなくなったロッテがグレアムに連絡を取ろうと考え始めたとき、彼女の耳に待ち望んだ声で「ただいま」という言葉が聞こえてきた。

 

 ロッテは内心を隠し、ようやく帰ってきた息子に帰宅が遅いと注意しようと出迎えに立ったのだが、彼女の目の前にいたのは出掛けた時とは大きく姿の変わった息子だった。

 

 数日前、アリアとロッテ、リュウトが三人で出かけたときに買った清潔感のある白を基調とした服は、泥と砂で汚れ、何箇所も破れていた。その破れた箇所からは未だに血を流す傷も見え、ロッテはあまりの状況に滅多に出さないような悲鳴を上げてしまった。

 

 

「リュウト!?」

 

 

 駆け寄ったロッテにリュウトが告げた言葉は、彼女から冷静な判断力を奪うものだった。

 

 

「――ごめん、ロッテ。服…」

 

 

「――!! 服なんかどうでもいいの! ほら、手当てするから……!」

 

 

「でも、折角貰った服なのに…」

 

 

「服ぐらい、いくらでもあげるよ!」

 

 

 傷だらけのリュウトはそれでもその場から動こうとしない。

 

 

「このまま家に入ったら、汚れちゃうよ」

 

 

「どうしてそんな事言うの!? 痛くないの!?」

 

 

「痛いけど、家の中汚したらロッテもアリアも困るでしょ?」

 

 

 ロッテは己の内にある怒りで狂いそうになる。

 

 

――どうして、この子はこんなにも冷静なのだ?

 

 

――普通の子供なら、痛いと言って親に泣きついてもいい傷なのに!

 

 

――いや違う!

 

 

――この子は普通の子供だ!! 自分の息子だ!!

 

 

 自身の内で渦巻く感情に苦しむロッテとは裏腹に、リュウトは恐ろしいまでに冷静だった。ロッテはその事に気付くと、リュウトの感情を読み取ろうと彼の目をじっと見つめる。

 

 冷静であるのか、冷静を装っているのか。

 

 どちらにしろ、リュウトがロッテの手当てを拒絶しているのは間違いないだろう。

 

 

「――――」

 

 

 そして、リュウトの瞳にロッテの望む感情は――無い。

 

 それに気付いた瞬間、ロッテは自分の瞳から零れる涙を止められなかった。

 

 

「分かったから、もういいから、だから…お願いだから、手当てさせてよ!!」

 

 

 ロッテの手から逃れようと身をよじらせるリュウトに、ロッテは涙声で懇願した。

 

 半年前の一件以来、リュウトは時折己の心を殺す。

 

 自分の願いよりも、他人の願い。

 

 それが、どこから来るものか。ロッテもアリアも、そしてグレアムも気付いていた。

 

 

「ねえ、リュウト。あなただけが生き残ったのはあなたの所為じゃないの。あなたのお父さんもお母さんも妹さんも、あなたが殺したんじゃない」

 

 

――殺したのは、『闇の書』

 

 

 最後の言葉は決して外には漏らさない。

 

 リュウトの仇は『闇の書』だが、ロッテたちはそれをリュウトに知らせるつもりはなかった。

 

 

――このまま知らずに過ごしてくれればいい。

 

 

――この世界で育ち、大きくなったら地球に戻ればいい。

 

 

――リュウトが望むなら、魔導師になって管理局に勤めてもいい。

 

 

――『闇の書』の事など知らず、ただ生きてくれればいい。

 

 

「リュウト、あなたは悪くないの。絶対に悪くない。あたしもアリアも父様も分かってる」

 

 

――だから……

 

 

「だから、ね。お願いだから、手当てさせて? ね?」

 

 

「――――」

 

 

 ロッテの言葉に返ってきたのは、リュウトのただ一言の返事だった。

 

 

「――――分かった…」

 

 

 その時、リュウトがどのような表情をしていたのか。ロッテは分からなかった。だが、微かに震える肩だけが、彼女の目の前にいる少年の心を表していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 リュウトの怪我の原因は彼女たちが想定していた範囲内のものではあった。

 

 だが、想定の内にあるだけで、彼女たちがそれに対して何の感情も抱かない訳ではない。

 

 

「――散歩の途中で石を投げつけられたんだって」

 

 

「――そう……」

 

 

 帰宅したアリアに、ロッテはリュウトから聞き出した事情を説明した。

 

 昼を過ぎた頃、リュウトはいつもと同じように自宅の周囲を散歩していたが、突然背後から石を投げつけられた。それに驚き、背後に居たのが誰であるのか分からぬままその場から逃げ出したリュウトだが、逃げる途中でその犯人を知る事になる。

 

 近くにあった公園に逃げ込み、彼は追いかけてきたのが自分と同じ子供だという事を知り、訳の分からない恐怖に駆られた。同世代の子供がこれほど恐ろしいものであるという事は、完全に彼の思考外だったからだ。

 

 彼らは口々に『モンスターを倒せ』と言い、まるで自分たちが悪者の怪人を倒すヒーローになったかのように振舞い、怯えるリュウトを笑いながら追い立てた。

 

 子供らしい単純な考え方だが、それは彼らの親が話していた言葉を彼らなりに解釈したものだった。

 

 大人達が『化け物』と呼ぶ存在は自分たちが退治する。そうすれば自分たちは物語に出てくる勇者やヒーローになれる。その思考そのものにはリュウト個人に対する悪意はないだろう。だが『化け物』という存在に対する幼い正義感は、彼らを自分たちと殆ど変わらない存在に対する狩猟者へと変貌させた。

 

それが大人の世界の善悪など関係ない、子供の世界の善悪に依るものだったとしても、彼らに追い立てられる人間にはただの暴力でしかなかった。

 

 リュウトには数ヶ月前の事件の記憶が残っている。家族の面影を追いかけ、そして待っていた痛み。再び痛みに追われた幼い彼には、それだけでも恐怖心を煽るには十分な要素だっただろう。

 

 痛みと恐怖を等しく結びつける人間は多い。痛みは恐怖であり、時に恐怖も痛みになる。

 

 リュウトは自分が追われている理由が、己の力に依るものだと考えた。

 

 一度目はあの運命の夜。二度目は母親たちの心を知る切っ掛けとなったあの日。

 

 リュウト自身は、この時点で自分の力に然したる興味を覚えていなかった。

 

 あの夜に見た『本』を追いかけることを決めたリュウトだが、その『本』が『闇の書』あるという事は知らない。そして、魔法も理解しているとは言い難い。

 

 その為、彼は魔導師になるという選択肢を持っていなかった。ただ、仇を追いかける――それだけが彼の未来だった。

 

 隠れ、追い立てられ、再び隠れ、そして追いかけられる。それを何度繰り返しただろう。

 

 逃げる度に彼の身体には幾つもの傷が刻まれ、新たな家族との思い出の一つはボロボロになった。

 

 子供は時として恐ろしいまでの残酷さを発揮する。

 

 虚像の勇者やヒーローの持つ武器を真似て自分たちも武器を持ち、彼らの夢であるそれらの存在が使う魔法を真似て物を投げた。

 

 彼らには自分たちが追いかけているものは『化け物』であり、自分たちは正義の味方であるという思考しかなかった。

 

 彼らは自分たちが追いかけているのが、自分たちと変わらぬ子供であるなど考えもしなかった。ただ、彼らは自分たちの正義の下、傷ついた弱者を追い立てた。

 

 リュウトは逃げ続け、ようやく自分の家に辿りついた。

 

 逃げるために回り道を繰り返したため、彼がこの世界で安息を得られる唯一の場所にたどり着いたのは、彼が肉体的にも精神的にも疲れ果てた時だった。

 

 

 

 

 

 怪我を負った理由の説明を頑なに渋るリュウトからようやく事情を聞きだしたロッテだが、その話を聞いた彼女が出来る事は何もなかった。

 

 人間の感情が問題の源である以上、それは如何なる存在であっても問題解決に至る道筋を見出せないという事になる。例外があるとすれば、それは時間と神に等しい存在だけだろう。

 

 

「――こうなる事は分かってた。でも、あの子は悪くない……!」

 

 

「――――」

 

 

 ロッテの血を吐く思いが零れ落ちるような言葉に、アリアは言葉を失った。

 

 自分も同じ考えだが、その気持ちで状況を変えられるはずも無い。

 

 彼女たちは、大人の世界の善悪で物事を判断するしかない。

 

 子供の様に絶対的な善と絶対的な悪しか存在しない世界を彼女たちは知らない。

 

 

「どうして…? あの子は誰も傷つけていないのに…」

 

 

 リュウトが血を流す理由がロッテにはどうしても分からなかった。

 

 家族を喪い、本来在るべき世界からも離れ、この世界での寄る辺はこの家にしかない。

 

 その子供が『化け物』だと言うのか。

 

 『闇の書』と同じ存在だと言うのか。

 

 あの時、自分の腕の中で『ありがとう』と告げた愛しい存在が、悪だというのか。

 

 そんな事、あるはずが無い。

 

 在って堪るものか――

 

 

「――ああ! 本当なら殺してやりたい!! 笑いながらあの子を傷つけた奴らを!」

 

 

「ロッテ…」

 

 

「笑いながら傷つけるだって!? ふざけるな!!」

 

 

「――――」

 

 

「あの子が何をしたの!? 何を傷つけたの!? 何を失わせたの!?」

 

 

「――落ち着いてロッテ。あの子が起きる」

 

 

 アリアは息子の寝室を気にしながら、自らの半身を宥める。

 

 

「落ち着けるはず無いでしょ!?」

 

 

「――落ち着きなさい!! リーゼロッテ!!」

 

 

 自分の叫び声を聞いて、アリアは自分も同じように怒りで一杯だった事に気付いた。

 

 

「!!」

 

 

「貴女はあの子の母親。貴女はあの子の守護者。貴女はあの子の寄る辺。それが分かっているなら落ち着きなさい!!」

 

 

「――――」

 

 

 アリアの言葉を聞き、ロッテは苦しげに顔を歪めながらもその怒りを内へと納めた。

 

 自分はリュウトの守り手。その自分が鋭い刃を心に纏わせてはならない。そう自分に言い聞かせ、彼女は怒りを鎮めていく。

 

 

「でも、それで分かった。あの子が帰ってきたときの態度」

 

 

「え?」

 

 

「あの子は自分を貶めている。自分は人ではないと思っている」

 

 

「そんな…!」

 

 

 ロッテの悲鳴に似た声に、アリアは自分の考えが間違っている事を望んだ。

 

 

「あの子にとって自分の命はあの日に終わっているのかもしれない。この前の事件の後、リュウトはそれなりに元気になったけど、あの姿が向こうの世界でのあの子だと思う?」

 

 

「それは…」

 

 

 リュウトは静か過ぎる。

 

 それはロッテもアリアも思っていたことだった。

 

 彼女たちはリュウトの実家にあった映像記録を見たことがある。

 

 家族の中で笑っていたリュウトと、今のリュウトはまるで別人だ。

 

 今も笑顔を見せはするが、その笑顔にはどこか達観したような要素がある。

 

 

「あの子は以前のあの子には戻れない」

 

 

「――――」

 

 

「そして、あの子を守れるのは私たち以外には居ない」

 

 

「そう…だね」

 

 

 アリアの言葉に頷くロッテだが、その心中は悔悟の念で溢れそうだった。

 

 自分の怒りはリュウトの為にならない。自分がすべき事は、リュウトの傷を癒す事だ。それを忘れた自分に腹が立った。

 

 

「あの子を元に戻す事は出来ないだろうけど、同じ笑顔になるくらいあの子を愛そう」

 

 

「うん…」

 

 

「あの子がどんな未来を描くか分からないけど、精一杯応援しよう」

 

 

「うん…」

 

 

「私たちはあの子の母親。あの子の守護者。あの子の寄る辺。私たちはあの子の味方」

 

 

「うん…!」

 

 

 そう、自分たちはリュウトの味方。世界の敵になっても、あの子の味方。

 

 そこに、疑念の介在する余地はない。

 

 

「私たちは――」

 

 

「――あの子の味方」

 

 

 それだけでいい。

 

 その決意があれば、自分たちはリュウトの傍らに立っていられる。

 

 リュウトの隣に立つべき人が現れるまで、自分たちは息子を守っていける。

 

 それで、十分だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アリア…? 帰ってたの?」

 

 

 リュウトの事を一頻り話してさてこれからどうしようかといった時、リーゼの息子が寝室から出てきた。

 

 その目には疲れの色もあるが、同時に目覚めたばかりであるという事を示すぼんやりとした色もあった。

 

 アリアはその事に安心し、夜更けに起きてきた息子に笑みを見せた。

 

 

「――ただいまリュウト。どうしたの?」

 

 

「おかえり。うんと、別に何かあったわけじゃないけど…」

 

 

「ふうん。寂しくなった?」

 

 

 アリアは内心確信しながらも、そうリュウトに問い掛けた。

 

 

「――どうなんだろう…。よく分からないや」

 

 

「ま、起きてきたのなら丁度いいや。こっち来い来い」

 

 

 ロッテはそう言って手招きするが、リュウトはその場から動こうとしない。

 

 

「どしたの?」

 

 

「ううん。僕寝るから…」

 

 

 そう言って踵を返そうとするリュウトを、背後から抱える影があった。

 

 

「まてい」

 

 

「うわッ!」

 

 

「あ、アリアずるい」

 

 

 リュウトを背後から抱え上げ、アリアは自分の座っていたソファへと腰を下ろす。

 

 もちろん、彼女の愛息は膝の上だ。

 

 ロッテが不満そうな声を上げるが、アリアにはそんな声など気にする必要も無い。

 

 

「――仕事から返ってきた家族を放ったらかしなんて、ひどいじゃない」

 

 

「そんなつもりは無いけど…」

 

 

「じゃあ、どういうつもりなのさ」

 

 

「ええと…」

 

 

 困ったように視線を彷徨わせるリュウトに、アリアは小さく笑みを浮かべた。

 

 そして、宝物を守るようにリュウトの身体を抱き締める。

 

 

「――アリア?」

 

 

「――君はこんなにも小さい。こんなにも軽い。こんなにも幼い。だから、甘えていいんだよ?」

 

 

「でも…」

 

 

 自分という存在そのものが曖昧であるため、リュウトはリーゼに素直に甘える事が出来ない。

 

 リーゼから甘えるように仕向けて、やっと小さく表に出す。それがリュウトの甘え方だった。

 

 

「リュウトはここに居ていいんだ。他の誰でもない、私やロッテ、父様がそう決めたんだから」

 

 

「――――」

 

 

「そうだよ。リュウトが居ないとあたしらは寂しい」

 

 

「――うん」

 

 

――辛い現実の中でもここだけは優しい場所でありますように。

 

 

――冷たい世界の中でもここだけは暖かい場所でありますように。

 

 

――この世界の異端であるこの子が、健やかに生きられますように。

 

 

 その為に、自分たちは何とでも戦う。

 

 

「さてリュウト。今日は一緒に寝ようね」

 

 

「え?」

 

 

「ええ!? 今日はあたしの番でしょ!?」

 

 

「――そうなの?」

 

 

「仕方が無いなぁ。じゃあ、三人一緒に寝よう」

 

 

「それなら…」

 

 

「――――」

 

 

 そして、自分たちは神ではない存在に願い、想う。

 

 自分たちの小さな宝物の未来が、素晴らしいものでありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ、そうだ」

 

 

「何?」

 

 

 何かを思い出したといった様子のグレアムの声に、リュウトは食事の手を止めた。

 

 

「頼まれていた地球の本。近いうちに届くそうだ」

 

 

「あ、そうなんだ。ありがとうギル」

 

 

「いや、普段家に居ないからな。これくらいしないと私が納得できない」

 

 

 リュウトがグレアムに頼んだのは、地球の様々な書籍だった。

 

 本人が地球に戻る事はないが、それでも自分の故郷に対する幼い望郷の念は地球の文化や歴史を記した本を読みたいという欲求へと変わった。

 

 グレアムが選んだのは子供でも読める程度の歴史の本や神話、童話の類だが、その中には英語やドイツ語の書籍も混じっている。

 

 リュウトはそれを読むことで、地球の様々な知識を得ていた。

 

 

「それにしても、その内リュウトのための書庫を作らないといけないな」

 

 

 グレアムはリュウトの自室の本棚が、彼が与えた多くの書籍で埋め尽くされようとしているという事実を思い出した。そしてよく考えてみれば、リュウトの実家にも複数の言語で書かれた童話があった気がする。

 

 読書家というのは大抵大人を示す言葉だとグレアムは思っていたが、リュウトは彼の知る中でも有数の本好きだった。

 

 

「ええと、ごめん」

 

 

「いや、いいんだ。此方の学校にはしばらく通えないだろうから」

 

 

「――そうだね。でも……」

 

 

 自分の言葉に表情を曇らせたリュウトに、グレアムはリュウトに対する風評以外にも原因がある気がした。

 

 それを表情から読み取ることはできないが、必要ならリュウトの方から話してくるだろう。グレアムはそう思い直す。

 

 

「無理に話す必要はない。リュウトが話したいと思うときに話してくれればいい」

 

 

「――ううん。今日話すって決めてたから」

 

 

「そうか…」

 

 

「でも、リーゼが来てないから――」

 

 

「呼んだ?」

 

 

「話って何かな? リュウト」

 

 

「――――」

 

 

 背後に現れ、自分に抱き付いた存在に、リュウトは小さく溜息を吐く。

 

 同じように背後から抱き付かれる事早一年弱、既にこの類の出現方法には慣れきっていた。

 

 

「――リーゼ、リュウトを抱いてないで食事にしたらどうだ?」

 

 

 そう言うグレアムの顔には、自分の娘に対する苦笑が浮かんでいる。

 

 

「あたし達が議論をしている間に消えるなんて、リュウトも中々出来るようになったねぇ」

 

 

「まったく、将来が楽しみだよ」

 

 

「――食べられない……」

 

 

 三者三様。

 

 左側からリュウトを抱き締め、感慨深そうに遠くを見やるアリア。

 

 右側からリュウトを抱き締め、とりあえず頭を撫でる事にしたらしいロッテ。

 

 頭を挟み込む四つの柔らかい感触にも一切反応を示さず、ただ食事が出来ない事実を呟くリュウト。

 

 これがこの家の日常だった。

 

 

「じゃあ、私が食べさせてあげよう。ほら、あ〜ん」

 

 

「――アリア」

 

 

 自分の席から持ち出したらしいフォークにミニトマトを刺し、それをリュウトの眼前に持ってくるアリアだが、リュウトはそれを食べようとはしない。

 

 むしろ不機嫌になってアリアを睨み付けた。

 

 

「お行儀が悪い。座ってご飯だよ」

 

 

「――――」

 

 

「――――」

 

 

 至極真っ当な息子の言葉に、アリアとロッテは無言で席に付く。

 

 親であると自認している手前、逆らう事など出来るはずも無い。

 

 

「――本当に将来が楽しみ」

 

 

「――まあね」

 

 

 席に付いて食事を始めたロッテとアリアの言葉には、微妙な感情が込められていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、話ってなあに?」

 

 

 ロッテの口からそんな言葉が出てきたのは、食事が終わってお茶を飲んでいる時だった。

 

 本当ならリュウトが自分から話すのを待つつもりだったが、ことリュウトに関しては堪え性が無いロッテのことだ。待ちきれずに自分から話を振ったのだろう。

 

 

「――ロッテのバカ」

 

 

「――うっさい」

 

 

 姉妹の心温まる遣り取りに感想を持つ事も無く、リュウトは自分のカップの中でたゆたう自分の顔に視線を落とした。

 

 この日常に不満があるわけではない。

 

 むしろ地球と同じような気持ちを持つことが出来るという点では、グレアムやリーゼに感謝していた。

 

 だが、忘れる事が出来るはずも無い。

 

 一瞬ですべてが変わった夜を。

 

 不意に消えた温もりを。

 

 空を照らす炎を。

 

 忘れる事など、リュウトには出来ない。

 

 だからこそ、彼は進むことを決めた。

 

 それが、この世界でしか出来ないというのなら、進まぬ理由は――無い。

 

 

「僕に、魔法を教えて欲しいんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リュウト・ミナセが魔導師への道を進み始めたとき。彼の心には一つの決意しか無かった。

 

 だが、少年は多くの人々に出会う。

 

 その出会いによって少年が何を想うのかは少年自身にしか分からないが、それは確かに彼を新たな戦いへと導いた。

 

 彼の新たな戦いは十年後、彼の後輩たちが『闇の書』を消滅させ、その呪縛を断ち切った時から始まる。

 

 しかし、今の幼子がそれを知るはずも無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 END

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〜あとがき〜

 

皆様こんにちは、悠乃丞です。

 

クロノ出てこないよ…

 

いや、申し訳ございませんでした。久しぶりの過去篇なのに、いきなり予定が変わってしまいました。

 

リュウトがミッドチルダに移り住んで一年ぐらいが経過した頃の日常と、その前にあった一つの事件を描きました。

 

困ったのはグレアムにしてもリーゼ姉妹にしても資料が少ない事。サウンドステージを踏まえてもあまりにも少ない資料に、私は頭を抱えた次第です。なんとか形になって良かった。

 

とりあえず、次回の予定は一つの話を二つに分け、リュウト君がデバイスを始めて得る時と、クロノ君がリーゼの弟子になる辺りを描きたいと思います。

 

では皆さん、次のお話で会いましょう。

 

 

 




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